2015年10月30日金曜日

海老名市立図書館におけるTRCとCCCとの関係解消について

 (平成27年10月)27日付のハフィントンポスト日本版記事(リンク)は、委託先のCCC及びTRCが提携を解消する方向にある旨を報じている。神奈川新聞サイトの『カナロコ』を受けての報道である。ハフィントンポスト続報記事(リンク)によると、図書館分類に係る考え方の違いなどが背景にあったという。

 図書分類は、図書館によって小さな違いを含むが、TRCが今日までの間に確立した多数の図書館や出版社との関係を通じて、TRC独自の図書分類をデファクトスタンダードとして流通させているために、多くの図書館は、このTRC分類を基本としている。TRC分類の強みは、速報性である。つまり、出版社の図書刊行予定を受けて、タイムリーに整備されるために図書納入時には、新刊をすぐに本棚に並べることができるのである。網羅性や確実性という点では、国立国会図書館法(リンク)により国内発行図書には納本義務があるゆえに、NDL分類が分類基準としては優れるものと思われるが、発行までには半年ほど一ヶ月ほどのタイムラグがあり、これを短縮することは、それほど現実的ではない。

 TRC分類についての知識が司書をはじめとする図書館関係者に馴染み深く、また共有されているという状態は、ユーザにも波及する。類似の分野の書籍は、類似のコーナーにあるという見当が付けられるために、ユーザは、どの図書館においても、それほど迷うことがない。ほかの人がどうだかは知らないが、私は、区立と都立の図書館を目的に応じて使い分けている※1。県央地域で図書館協定が締結されている以上は、CCC分類ではなく、TRC分類を尊重することが海老名市立中央図書館の運営に求められていたはずである。

 先の記事(リンク)において、私は、大量の古書購入が市会議員に指摘されたことについても触れた。仮に、CCC分類が大量の古書購入を肯定するために分類基準を独自のものとしたのだとすれば、その行為は、犯罪を隠蔽するためだと疑われても、やむを得ないだろう。企業といえども、李下に冠を正さず、の故事は該当する。ここで詳細は述べないが、ツタヤ図書館については、前例である武雄市において、多くの疑惑が指摘されている。

 図書館に係る制度は、蔵書の万引き(あるいは無断持ち出し)や検索システムの通信の安全性を除けば、悪用の余地が見逃されてきた。そのような見方は、図書館運営が性善説に立つ、公共性の高い事業だと見なされてきたことの裏返しである。その間隙を突く形で、紳士録ビジネス※2や本件のような形での、企業犯罪紛いの行為が生きながらえてきた。悪意の下に社会システムを眺めてみると、脆弱性は、至るところに見つかりうるものである。

 実際に制度を悪用する者に対しては刑事司法関係者が適切に対応するという分業意識は、わが国ではごく当然のものとして受け止められている。他方で、ある分野において構造的な脆弱性を悪用した者が現れたとき、現在のわが国では、内部の関係者だけで逸脱者を統制するということは、なかなか難しくなりつつある。問題がマスコミ報道に嗅ぎ付けられて初めて、具体的な改善がなされる機会が生じるのであるが、その機会は、大抵の場合、生かされないままに終わる。刑事司法関係者が動き出したときには、問題の根本的な解決の機会は、逸脱者の逮捕という結果により失われることになる。

 今回の提携解消を通じて、図書分類と雑誌の大量購入との怪しい関係という問題の所在が明るみに出されたことは、CCCにとって、正業に戻るための業務改善の機会となり得る。大量の雑誌購入が市立図書館に必要な業務であったのか、また必要であったとするなら、欠本が多いことにいかに対応していくのか。これらの疑問点をCCC自身が明確に整理した上で、今後の改善に係る工程表を関係者に示していけるのであれば、今回の疑惑は、CCCにとっても良い教訓となったということであろう。

※1 都立図書館にも収蔵されていない書籍は、国会図書館に頼ることが多い。国会図書館は、基本的に出納式なので、検索システムによることになる。国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(リンク)は、系統的にある分野の書籍を得たいときに重宝する。書籍の内容でタグ付けされているからである。利用したことのない学生は、ぜひとも試してみるべきである。

※2 これは、掲載される人物からも、また国会図書館などからも金銭を徴収でき、さらには振り込め詐欺にも転用可能であるというビジネスであった。最近のツイートライン(リンク)では、Amazonを悪用して、子供の落書きや外国語の羅列のような内容の薄い本を高価格で販売した外形を作り、国会図書館に納本し、補償を受けるという類似行為が明らかにされている。

平成27年10月30日21時20分追記

【速報】ツタヤと図書館流通センター、関係解消から一転して継続へ
http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/29/trc-ccc_n_8428546.html

Chika Igaya氏が上掲リンクで海老名市立図書館の業務について、TRCとCCCが提携を継続することを海老名市に連絡したと報道している。先行する記事による限りでは、私には、両者が海老名市立図書館に係る契約を継続し、本件限りで提携解消するというように読めた。おそらく、誤解を広めたということで、報道各社が海老名市から正確に説明するようにとの申入れを受けたということだろう。図書購入についても、海老名市議会議員の志野誠也氏が議員全員協議会(?)の場で説明を受けたことを報告しているが(リンク)、通常の選書手続ではなかったことだけは良く分かる。正確性を期すならば、後ほど系統的な調査を実施した方が良いかもしれない。

平成27年11月01日12時追記

1冊6万円謎の本、国会図書館に 「代償」136万円:朝日新聞デジタルhttp://digital.asahi.com/articles/ASHBY3VSMHBYUCVL008.html
田村俊作・慶応大学名誉教授(図書館情報学)の話 「納本制度は文化や情報の自由に貢献しようという、発行者側と国会図書館との合意が前提だ。本の内容から納本の適否を判断することは、検閲につながるのでやってはならないが、米英などには代償金の仕組みはない。想定外のことだが、この仕組みを悪用しようとすれば、できてしまいそうなことが明らかになった」
第25回納本制度審議会議事録|国立国会図書館―National Diet Library
http://ndl.go.jp/jp/aboutus/deposit/council/25noushin_gijiroku.html


 先の注2について、朝日新聞が上掲の記事を掲載していた(本紙は、11月1日朝刊38頁社会面)。記事末尾から、田村氏の話を引用した。2ちゃんねるのある板(リンク)には、国会図書館に設置された納本制度審議会の議事録から、電子書籍を念頭に、国会図書館法が悪用されることを懸念する部分が引用されている。


 上記引用部分の田村氏の話などからは、従来の紳士録商法を想起することはできない。ゆえに、悪意に対する系統的な脆弱性調査が必要であるとする私の意見は、多少世の中の役に立つことになるだろうか。私としては、もちろん、役に立つことを期待して、このような意見を(人に知られずとも)記すことにしている。

2015(平成27)年11月8日追記・修正

本文中のNDL分類についての記述を修正した。×半年程度→○1ヶ月程度のラグである。訂正して、お詫び申し上げます。ただし、新刊書の時点で選書・発注に利用できないため、デファクトでTRC分類が利用されているという点が大きいことには、変わりがない。同一書籍について、NDL分類と他の分類が統一されたIDを保持するようになれば、状況が変わるかもしれない。

全国書誌データ提供|国立国会図書館―National Diet Libraryhttp://www.ndl.go.jp/jp/data/data_service/jnb/index.html

  • 刊行された出版物が国立国会図書館に届いてから、おおむね4日後に新着書誌情報として提供し、1か月程度で完成した書誌情報を提供しています。
    • 刊行前や刊行直後のタイミングでの新刊書の予約、選書・発注には使えません。民間MARCの利用などをご検討ください。

2016(平成28)年1月7日追記

図書分類については、次のサイトがコンパクトに情報をまとめている。
http://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/classification.html

日本十進分類法も国立国会図書館分類表も、国際的な図書分類と一致しない。とはいえ、現時点において、何らかの規格を提唱するのであれば、たいていの場合には、既存の資産を活用できるように規格を設計するのが、設計者としての義務であり矜恃であろう。
 
本文中では適当にNDL分類と表記したが、これが正式名称である。ただし、文意には全く影響ないだろうとは思う。

自由貿易の徹底もいずれはコーポレーショニズムに至る

TPPは複雑で巨大な管理貿易圏である 一部業界の利益を優先し、国民に高いコスト強いる | ビジネスジャーナル
http://biz-journal.jp/2015/10/post_12149.html

経済ジャーナリストの筈井利人氏は、TPP案文が複雑なのは、政治力のある一部の業界の利益を保護するためであると解説し、TPPは自由貿易圏ではなく管理貿易圏だと指摘している。また、自由貿易がパレート最適となると述べた後、TPPが自由主義経済ではなく縁故資本主義であると批判する。さらに、TPPの交渉過程が秘密とされたことは、TPPが政府および政府と親しい一部の事業者に利益を供与するものであることを示唆するともいう。徹底した自由主義に基づく見方に与すれば、確かに筈井氏の指摘は妥当なものである。

しかし、自由主義の徹底は、現在の人類が一定の土地から一定の資源を得て生きていく以上、国家及び企業権力の再編成にしか到達しないのではないか。このような直感に基づく素朴な疑問が湧くのだが、この点を確立した研究の形で提示する日本語の論者には、お目にかかれていない※1。他方、近年の映画や小説やゲームでは、複数のコングロマリットが覇権をかけて合従連衡するものが多く見られ、想像力のプロの面目躍如といった感を受ける。たとえば、Cid Meier's Civilizationシリーズ(以下、Civ)の最新作である『Cid Meier's Civilization: Beyond Earth』では、再編成された国家群が3種のコングロマリットから支援を受けて植民星で争う。

Civは、文明が世界に覇を唱えるべくあらゆる手段によって相争うというゲームであり、文化や外交による勝利も可能ではあるが、そのような勝利を追求する際にも、かなりのリソースを軍事に割く必要がある。なお、Civシリーズには、アイコンやらゲーム中に登場する絵画やら音楽やら、至るところにワンワールドの形跡が見られるが、この点も面黒い。たとえば、『Cid Meier's Civilization V』の拡張キット『Brave New World』のオープニングテーマを名曲だと思うと、原典は『ヨハネの黙示録』21章だったりする。Civを数百時間やり続けると、たとえワンワールドが実現されるにしても、軍事から警備までを守備範囲とするセキュリティ産業全体は、決して不要になることはないし、リソースの2~3割は持って行くぞ、という神託が得られたりする。こういうゲームに馴染んだ世代は、確実に、世論の動向を変化させるだろう。

ところで、対外的な軍事産業と国内的な警備産業、不信の眼差しを向ける相手がときに保護すべき対象者でもある、というように、セキュリティ産業は、双面のヤヌス神の貌を持つ。その適正なあり方は、国民の安全に対する相場観にも左右されるという、厄介な再帰性を有している。この困難さを扱う和書は少ないが、その一冊として、永井良和, (2011). 『スパイ・爆撃・監視カメラ―人が人を信じないということ』(河出ブックス), 河出書房新社.を挙げることができる。Amazonの和文レビューはひとつのみで、3つ星を付けられてしまっているが、セキュリティ産業を分析する必要のある研究者には、必読書である。

自由主義がホッブズ的自然を渇望し、またときに、自身の伸長のために惨事の種を撒くという指摘は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を貫くモチーフではある。ただし同書は、遠く離れた米国内の安全な本拠地があるという前提で、惨事便乗型資本主義を描き出す。イラクにおいて壁に囲まれた「植民地=租界」が作り出され、本国と同様の店舗が軒を連ねているのだという。成長を前提とした経済は、新たな開拓地を常に必要とするが、惨事便乗主義は、開拓地を常に作り出すという方法を発明したというのである。

上記の材料を混合すると、次の流れが見えてくる:現今の自由主義の徹底は、地球が現在の資本に対して十分に広大な領域でない以上、国家、企業、個人の各層におけるホッブズ的自然を必然的に産出するとともに、その自然状態に対抗するための重セキュリティ国家を出来させる。重軍備は、信用ならない相手の存在が国民に喧伝されるという手続きを経て、肯定される。ごく最近の南シナ海における米中関係の軋轢は、わが国において(のみ)過剰に報道されているが、日本国民は、その意味を十分に汲むべきである。

日本という環境において、従来以上に自由主義の徹底が進められたとき、何が起こるのか、偉いと見なされる身分にある人が説得力のある形で示して欲しいものだ※2。以上、永井氏の著書に対して寄せられた「題材があっちこっち飛びまくっている」という批判を意識して、ぶっ飛び気味に、TPP、Civ、ホッブズ的自然という題材から、セキュリティ国家の到来というオチを持つ三題噺を私も示してみた※3次第である。


※1 現在の日本の辿る歴史は、ホッブズの『リヴァイアサン』に示された論理と大筋で同じもののように思われるが、この観点から、現代のわが国における権力関係や社会関係の再編状況と、それらの将来を解き明かしてくれるような学識経験者には、なかなかお目にかかれないということである。TPPに反対することは、反対すること自体が一つの主張であり、日本人が落ち延びる先としての選択肢が増えるために望ましいことではある。しかし、たとえTPPが潰されたとしても、わが国における権力や社会の向かう方向性が変わることはない。この先は、具体的な政治の世界だとして話を終わらせることは可能ではある。しかしながら、よりマシな方向への道筋を示すことは、日本国民の利益を最優先順位に置いて考えることが可能な、またそうすべきである立場の者の仕事である。つまり、日本国民の税金により養われている者のうち、本分野に関係する者には、発信の義務があるということだ。

※2 平成27年10月現在の今でこそ、共産党に近い論調の研究者たちによる、平成14年以降の生活安全ブームに対する批判が妥当するようになりつつあるが、当時の批判は、結論から言えば、先走ったものであった。それどころか、むしろ、却って質の良くない監視社会を惹起した可能性すら認められる。第一に、日弁連も同じソースに依拠したが、彼らの採用した防犯カメラの効果に関する批判は、旧来のC2報告書によるものであり、当時英語では報告されていた報告書に基づくものではなかった。この事実の帰結は、効果測定に係る研究が蓄積され更新される性質を有するものであるにもかかわらず、その土俵に乗る努力が放棄された結果、定量的研究として信頼に足る研究がわが国では十分に蓄積されず、本当のところは何も言えない、という現状である。(#わが国には、C2でいうところのレベル3研究しか見られない。)この事実は、社会的身分のある大学教員が有効性に見込みのない批判をなすことにより、リソースを無駄にしたということにならないか。

※3 永井(2011)は、セキュリティを対象とした、落語にいう三題噺である。野暮を承知で記すと、本書の落ちは、セキュリティ強化と人間不信との相互亢進性である。書名に示されるスパイ、爆撃、監視カメラという題材は、本来の三題噺とは異なり、著者本人が用意したものであり、他レビュアの指摘のとおり、突飛な内容ではある。しかし、これら三題は、当時の論壇における浅薄な警察国家批判に覆い隠され、従来指摘されてこなかった人間不信に至る社会構造を明るみに出す上で、十分な材料とはなっている。セキュリティに係る社会設計に従事する者には、本書は必読である。




2018(平成30)年02月03日修正

レイアウトをbrタグからpタグ中心に変更した。文章を直したい気持ちが強いのであるが、そこは堪えて、当時のままとしてある。

2015年10月29日木曜日

Zombieland(2009)(メモ、ネタバレ注意!)

この映画は、ゾンビ映画から導き出した黄金則を厳守して生き延びようとするオタク男性の話です。すべてのゾンビ映画がそうなのですが、グロテスク表現に注意です。

ファンサイト?があり、そこに全ルールが掲載されていましたので、和訳してみました。リンクは、Sony Pictures Entertainment(チャンネル)がYouTubeで公開しているトレイラーに飛びます。


Zombieland Rules – All Zombieland Rules and More - ZombielandRules.com
http://www.zombielandrules.com/
  1. The Cardio: 有酸素運動(が大事)
  2. Double Tap: 二度撃ち(しろ)
  3. Beware of Bathrooms: バスルーム(とトイレ)に注意
  4. Seatbelts: シートベルト(をしろ)
  5. No Attachments: 執着するな
  6. The "Skillet": フライパン(でぶっ叩け)
  7. Travel Light: 旅装は軽く
  8. Get a Kick Ass Partner: 頼りになる仲間をゲットしろ
  9. With your Bare Hands: 素手でも戦え
  10. Don't Swing Low: 咥えるな(?、#公式トレイラーがないようで分からない)
  11. Use Your Foot: 足を使え
  12. Bounty Paper Towels: バウンティペーパータオル(は重宝する)
  13. Shake it Off: 振り落とせ
  14. Always carry a change of underwear: 下着の替えを持ち歩け
  15. Bowling Ball: ボウリングボール(は便利)
  16. Opportunity Knocks: 千載一遇(チャンスは誰にも訪れる、けど一度きり。)
  17. Don't be a hero (later crossed out to be a hero): ヒーローになるな(後にヒーローとは呼べなくなるぞ)
  18. Limber Up: 柔軟体操しろ
  19. Break it Up: 喧嘩はやめたまえ
  20. It's a marathon, not a sprint, unless it's a sprint, then sprint: これはマラソンであって、短距離走ではないが、あくまで短距離走でない内であって、短距離走となったら全力で走れ
  21. Avoid Strip Clubs: ストリップクラブは避けろ
  22. When in doubt Know your way out: 怪しいなと思ったら出口を押さえろ
  23. Zipplock: ジップロック(を使え)
  24. Use your thumbs: 親指を使え
  25. Shoot First: 先に撃て
  26. A little sun screen never hurt anybody: 日除けは無害
  27. Incoming!: 来るぞ!(と伝えろ)
  28. Double-Knot your Shoes: 靴紐はダブルノットで
  29. The Buddy System: 二人一組で
  30. Pack your stain stick: シミ取り剤を梱包しておけ
  31. Check the back seat: 後部座席を確認しろ
  32. Enjoy the little things: 小さなことを楽しもう
  33. Swiss Army Knife: スイスーアーミーナイフ

2016年には、パート2があるそうですが、公式トレイラーらしきものは見当たりません。 楽しみですね。
以上、『FOX TV ゾンビ祭り』で録り溜めておいたのをダラダラと見たまとめでした。

以下、本格的なネタバレ注意!です。



























ゾンビ映画としては、安心して見ていられる内容です。私の感想は、走るし、学ぶし、ドアを開ける奴らだ!というものです。英語で表現すると、They run, they learn, and they open doors !! てな感じでしょうか。話の流れは、次のとおりです。

#1~#2~#3~#4~タイトル~#3~#1~#4~#2~漏らす
#7~出会う~#31~#18~スノーボール
追憶~406号室の女性~襲われる~ドアノブ開けられる(!)~#2
ドライブ~トゥインキー~両親に紹介したい女のコ~#22~(!)
#18~あんがとよ、貧乏白人め!~#31~#32~罠だ(!)
土産屋「KEMO SABE」~#17~香水か?~#32~ビル・マーレイ(!)~「ガーフィールド」(!!)
#2~#17~トゥインキーが(!)~#32

渡辺京二, (1985=2007). 『北一輝』(ちくま学芸文庫), 筑摩書房.

渡辺京二, (1985=2007). 『北一輝』(ちくま学芸文庫), 筑摩書房.

 本書は、北一輝の独特な文体を、正統的なマルクス主義理解に立ち、明快に読み解くものである。

 本書の白眉は、第5章「天皇制止揚の回廊」及び第6章「第二革命の論理」にある。渡辺氏は、正統的なマルクス主義の理解に立ち、北の『国体論及び純正社会主義』に対する通俗的な理解を一蹴する。北は、人間が共同的な存在であるという信念の下(第4章)、当時の天皇制を社会主義に至るまでの過渡期とみなし、当時の社会における明治天皇崇拝(=国体論)を立憲君主制に矮小化しようと試みた(第5章)。北は、当時の政治状況を、社会主義への移行が藩閥や地主階級によるブルジョアジーにより妨害されているものとして描き出した(第6章)。天皇制を社会主義革命の道具として扱うかのような北の構図は当局に見抜かれ、『国体論~』は発禁処分を受けた(第6章)。『国体論~』の視座は、辛亥革命の体験記としても読める『支那革命外史』や『国家改造原理大綱』にも共通するものである。ただ、『~大綱』は、天皇制との直接対決から転じて、天皇を社会主義革命の道具として扱うとした点で、『国体論~』とは異なる戦術を取る(第10章)。

 渡辺氏は、北がヘーゲルをどの程度知っていたのかを不明としながらも(p.122)、北がブルジョア市民社会におけるアトムとしての個人主義を否定し(p.166)、西郷隆盛の周囲に見られた日本コミューン主義を弁証的に導き出した(p.169)ことを評価する。また、渡辺氏は、北の思考の論理性(=手段)を土俗的ではあり得ないものとしつつも、その議論が西欧型市民社会を拒否して共同主義(信仰)に到達したこと(=結果)をもって、土俗的であったと看取する(p.175)。他方、渡辺氏は、北の理論の鋭さと、北の提示した社会主義革命の空想性について指摘し、その乖離が後年の企業ゴロのような生活の原因となったのではと仄めかしている(第10章以降)。

 本書は、北一輝の思考の断絶性と逆説性を浮き彫りにする。断絶性は、著作の内部においては、理論の鋭さと計画の拙さに、著作と現実との対比においては、著作の視野の広さと企業ゴロとしての生活倫理の低さに、見て取ることができる。逆説性は、社会主義に至るために天皇を利用するという主張にも読み取ることができるし、北の出自と才能とに係る記述にも窺うことができる。
 ところがいっぽう、社会主義とは彼(#北一輝)にとって、〈共同社会〉主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同コミューン社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもなく土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基層民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。(pp.175-176)
しかし、中世の偏局的社会主義と近代の偏局的個人主義との統合を目指した北の方法は、いろいろな留保を置きながらも、大局的には、国家=社会を個に優先させる全体主義的政治哲学の系統に属するものとなった(p.178)と、渡辺氏はいう。換言すれば、その理論から生じる落差を埋める試みに、北は失敗しているのである。その理由の一つめは、公民国家(ネイション・ステート)について、北がギリシア・ローマの戦士共同体的国家のように国民が生命を捧げる対象であると美化し過ぎたこと(pp.180-183)である。二つめは、北が明治国家を封建的観念から解放された自律的な人格と見なし、全体イコール個であるという国家理念を示したことである(pp.184-186)。渡辺氏は、「民族国家という視点を廃棄できぬかぎり、その命題はつねに国家至上主義的マヌーヴァーに終る。(p.188)」という。北の思想は、スターリンや毛沢東が辿った歴史と同一の成行きを辿った(p.188)のである。

 本書は、先の引用のようにパラグラフライティングされており、(私の文に比べると随分)読み易い。同時に、(私のように)猫も杓子もマルクス主義という時代よりも後に生まれた読者にとって、マルクス主義がどのように革命史観から脱却しつつあったのかを窺う上でも、本書は貴重である。革命には流血が伴うが、本書は、その命題に対するマルクス主義者の知性の到達点を示唆するものでもある。現在のわれわれは、郵便性という東浩紀氏が日本で広めた概念なども手に入れており、北の言説の数々に対して、また違った読みができるのではないかと思う。(#すでに偉い人がやってるはずだが、私は三歩で忘れる動物なので、メモなしに思い出せない。)




以下は、書評というより、要約である。

 北の思想は、生まれ故郷の佐渡島を感じさせない、論理で貫徹されたものであった(第1章)。北は、23歳にして『国体論及び純正社会主義』を著した。北は、わが国旧来の土着共同体や基層民社会に息づく市民社会への反発心を活用しながら、社会主義国家に到達するための道程を思索した。北の回答は、明治維新から立憲君主制としての天皇制へ、次に社会主義へという、二段革命であった(第5・6章)。しかし北は、普通選挙のほかに、その理想を実現する具体策を見出すことができず、国民が普通選挙を利益の授受関係としか理解しなかったことを読み誤った(第6章)。

 渡辺氏によると、昭和36年の日露開戦論に際して北が唱えた主戦論は、典型的な労働者階級の祖国防衛論である。北の論理は、科学的社会主義を無政府主義と区別するものは国家の存在であり、ロシアの帝国主義に対峙し、社会主義を実現するためには、主権国家である日本を防衛する必要がある、というものであった。この論理は、第一次世界大戦における第二インターナショナルの立場に先行するものであると、渡辺氏はいう(以上、p.72)。ただし同時に、「議会を通ずる社会主義革命」、革命遂行のための「機関と羅針盤」としての国家、という科学的社会主義の道具立ては、開戦論における北の思想の中心ではなく、むしろ民族国家主義が本質である、と渡辺氏は指摘する(pp.72-73)。乏しい領土と資源しか持たない国家は国際的プロレタリアートなのだという佐野・鍋山の転向上申書の論理は、北の以上の主張に先取りされているという(p.74)。
 『国民対皇室の歴史的観察』は、後年彼が『国体論及び純正社会主義』で展開した乱臣賊子論の原型である。彼は、「克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を戴く、是れ国体の精華なり」という「国体論」が「妄想」にすぎぬことを、この論文で示そうとした。そのような妄想が「学問の独立を犯し、信仰の自由を縛し、国民教育を其の根源に於て腐敗毒しつゝある」からである。それはわが国の光栄ある歴史と、祖先の大いなる足跡を冒瀆するものであるばかりか、「黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途」をはずかしめるものなのである。いかにしてそれは打破しうるか。「わが皇室と国民との関係の全く支那欧米の其れに異ならざるを示」すことによって、打破しうる。こう前おきして彼は、蘇我氏より徳川氏に至るまで、日本国民は一貫した乱臣賊子にほかならなかったことを、赤裸々な筆致で素描するのである。(pp.61-62)

 『政界廓清策と普通選挙』でさらにわれわれの注意をひくのは、この青年が「満韓に膨脹せざるべからざる帝国の将来」という言葉を書きつけていることである。(...略...)ほぼふた月前に発表した『日本国の将来と日露開戦』において、満州・朝鮮・東南シベリアを「大陸に於ける足台」として領有することを主張していたのである。(...略...)むろんこれは内田良平の『露西亜論』あたりに示唆された着想であろう(...略...)。(pp.65-66)
 見るごとくこの青年は、すでに二十歳の時点においてかくのごとき対外膨脹論者であった。これは彼の終生変らざる本質のひとつであって、北の思想の骨格をごく表面的に要約すれば、天皇制打倒と大陸膨脹主義の特異な結合、すなわち天皇なき革命的大帝国主義と形容してさしつかえない。もちろんこの膨脹主義は、その道義的根拠を説明されねばならない。それはこの二十歳の若者の可憐な道心であった。九月十六日から二十二日にかけての佐渡紙で、彼はさらにおなじ論題で再論を行った。(p.66)
 彼が依拠したのは端的にいえば、帝国主義の相互性という論理である。これは一面では、白人種の先進帝国主義列強の包囲攻撃のなかで、平和政策で妥協をさぐろうとするのは、座して死を待つものだという論理である。眼には眼を、帝国主義には帝国主義をという次第であって、しかもこの帝国主義は、強者の帝国主義に抵抗する弱者の帝国主義であり、アジアの黄人種にとっては自衛権というべく、「上帝」もこれに対しては「寛大」たらざるを得ぬというのである。これはいわば危機の論理といってよく、「吾人は白人の奴隷として彼等を養はんが為めに生れたる者に非らず」という蘇峰の『日本之将来』の口移しに見るように、明治ナショナリストの基本的危機感の系譜に属する何の変哲もない論理である。(pp.66-67)
だがそれは一面では、「吾人は不幸にして帝国主義の罪悪の時代に生る」という居直りの論理でもある。英国がボーアにほどこし、米国がキューバにほどこしたところを、日本が満州にほどこして何がわるいか、日本ばかりが悪者と指弾されねばならぬ理由はないというのであって、これはのちに昭和前期の日本帝国の外交担当者が、内心かたく持したばかりでなく、たびたび外に対しても表明した論理であった。そしてこの領土再分割の論理は、世界史を民族の生存権の闘争と解する北の民族興亡史観的解釈のストレートな産物でもあった。(p.67)
 ただこのシニックなリアリズムに立ちつつ、この二十歳の青年は(...略...)自分の説くところを「侵略」と自認しつつ、その悪を通じて結局は善をもたらしたいという可憐なのぞみをかくすことができなかった。(p.67)
『国体論及び純正社会主義』は、受容までに20年の歳月を要したが、同書で示された天皇制との闘争路線は、「自殺と暗殺」『革命評論』明治39年11月10日号によって、天皇制を「革命の側に盗み」取るものに変更された。度重なる著書の発禁と革命評論社を中心とした「十三年の経験は、彼にろくでもないものを、より多くつけ加えた」(第7章)。

 中国への渡航後、北は、大隈重信に入説するため『支那革命外史』を執筆し、日本と中国が革命帝国として共存するためのプランを提示した(第9章)。日本は、英国をアジアから駆逐し、香港・シンガポール・豪州・ニュージーランド・英領太平洋諸島を奪取する。インドは独立させる。中国は、ロシアと戦争し、内外蒙古を確保する。日本は、ロシアからバイカル以東のシベリア沿岸諸州を奪う。満州は日本が保持する(p.289)。同書は、辛亥革命の証言としての意義を有するとともに、北の予測の鋭さと計画の空想性との乖離を示す資料としての価値を併せ持つ。大正5年には法華経を受容している(第9章)。

 中国再渡航後、帰国前に『国家改造原理大綱』を執筆した(第10章)。同書は、『国体論及び純正社会主義』の具体化に向けての法律論を含み、『支那革命外史』に示された対外膨脹主義の綱領でもあった。天皇制ファシストの理論上の手本となる「擬ファシスト」と見なされながら、大資本廃絶の指向性が極端に過ぎること、天皇を社会主義革命の道具として利用する天皇観が行間に読み取れることの二点により、北は、『大綱』の責めを負い、やがて刑死することになる(第10章)。北は、帰国後、皇太子に法華経を献上(p.328)し、大川周明と仲違いし(pp.333-335)、手下の浪人を養うために恐喝事件の糸を陰で引いたり企業から金をせびったりした(pp.335-344)。



 最近、私自身は微妙に近代史づいているが、それには理由がある。満鉄=現今の日本出身の財閥、(大陸)浪人=ネトウヨ、といった図式は、ほかの要素や成員が大きく異なるとはいえ、現今のわが国における不穏な空気の理由を、それなりに十分に説明できるように思うからである。近年、わが国の大財閥は、四割程度の株式を国際金融勢力に取得されているが、私の理解によれば、当時の財閥の行動様式は、最近のものとさほど変わりない程度に国際化されたものである。

 鬼塚英昭(2013)の書評(リンク)では、北一輝の理解を通俗的なものに基づき記したが、この点を補足しておきたい。第一点、本書ほどに北一輝の著書を読み込んでませんでした。アホですんません。第二点、それでも、安保運動当時の大衆がどう受け止めたかが重要であり、本書の底本が1985年なので、結果としては、当時の大衆は、おそらく、私のような通俗的な読みをしていたと考えた方が妥当だろう。横断歩道を皆で渡った感がある。

 陰謀論は、玉石混淆であり、整理されなければ、私の頭では追い切れない。その作業を通じて北一輝についても私自身の考え方を明示することは、日本の行く末まで含めて的確な予測を行う上で必要不可欠な作業であるが、現在の時点では、その材料に不足しているし、(アホな話まで含めて個別の命題を逐一検証していく上で必要な)才能も不足しているかもしれないと感じ始めている。ペースを上げるとしても、あと2倍速くらいまでだし、それだけ頑張っても追いつかないかもしれない。

 平成27年11月8日追記

文意を変えない程度に一部の文言を修正した。

平成28年10月17日修正

あからさまに間違いに読める部分を修正し淡赤色で示した。

2015年10月28日水曜日

木村盛世, (2012). 『厚労省が国民を危険にさらす 放射能汚染を広げた罪と責任』, ダイヤモンド社.

木村盛世, (2012). 『厚労省が国民を危険にさらす 放射能汚染を広げた罪と責任』, ダイヤモンド社.

 福島第一原発事故後の厚生労働省所管の食品安全行政を巡る混乱を、必要かつ十分に、また平易に説明した良著である。本分野の初心者なら目を通しておいて損はないし、ある程度原発事故の影響を分かったつもりになっている者も、知識をおさらいするために便利。図書館で借りるということが前提であれば、一読して損はない。全体としては、評価は★★★★☆、星4つ。

 本書の欠点は、危機管理についての理解の枠組(以下で引用する。)こそ痛快(?)だが、「公衆衛生専攻の大学院の設置」、「国際的に認められた標準的手法の採用」、「マイナンバーの活用」、「公衆衛生専門家の招聘」、「医療技官改革」という提言が上滑りしているように見えることである。ここで指摘される標準的手法とは、追跡研究(longitudinal study, あるいは前向き研究, prospective study)の実施であり、それを支えるプロコトルの策定、仕組みの実装である。犯罪予防分野において、ほぼ同じ問題意識を有する私にとって、これらの提言は、省庁横断的な課題を浮き彫りにするものであり、非常に興味深いものである。

 星1つ減じる理由に、マイナンバーへの安易な言及がある。マイナンバーは、転居者や改名者の把握に役立つであろうが、それでも、調査にそのままマイナンバーを転用させるわけにはいかない。マイナンバーを転用する方がシステム設計上も運用上も簡単であるが、紐付けされる個人情報の秘匿すべき性質をふまえれば、そうはいかないはずである。マイナンバーとの紐付けは便利であろうが、技術上の課題を解決する必要があるという留保についての言及が見られない以上、これは先走り過ぎた提言であると認めざるを得ない。(#神は細部に宿るので、私も不勉強がバレないうちに、筆を止めることとしよう。)

 以下は、要約と引用。



官僚と学識経験者の関係

 食品安全委員会に限らず、審議会は、官僚が専門家や学識経験者の意見を押し立てて自分たちの意見を正当化する場である(p.88)、官僚たちが自分たちの意見を述べないのは、発言に対して責任を取りたくないためである(p.89)、複数の省庁が関わる委員会では、省益が優先され、決定に時間を要したり、統一が図れなかったりする(pp.91-92)、と指摘している。

疫学におけるランダム化比較試験(RCT)

 主催者の意図が漏れ、研究上の不正が行われることがある(pp.137-139)が、倫理的問題などを監視するIRB(Institutional Review Board)や試験実施方法を監督するRCTセンターなども欠如している。

危機管理の欠如
 これらの「危機」に対して、政府がどのように対応してきたか、あるいは、対応しているかを考えると、なにも原発事故に限ったことではなく、今まで起きた事象について同じことを繰り返しているように見えます。そして、日本政府の行動パターンには、ある意味、ぶれない芯の通った普遍的な真理が存在するように思うのです(念のため申し上げますが、決してほめているわけではありません)。
 具体的にその枠組みを書けば、わが国の危機管理の基本形は、①危機が何だかわからない(危機認知能力の著しい欠如)、②有事の対応は水際作戦と特攻隊(軍事的に無効)、③うまくいかないときは、カミカゼを待つ(かつて吹いたといわれている)の3つに集約されるといえましょう。(pp.142-143)

須原一秀, (2008). 『自死という生き方』, 双葉社.

須原一秀, (2008). 『自死という生き方』, 双葉社.

 人の不幸に係る事象を研究する者は、須原氏の著書にどのような誤りが含まれるのかを考察するために、一度は読んでみて損はない。ただし、その内容自体は★☆☆☆☆、星1つであり、私自身は、本書が一般に広く読まれるようにはしたくない。先行文献に対する重大な誤解を含んでおり、著者が本書を脱稿後に自殺したという文脈(コンテクスト)をふまえると、悪影響を後世に与える可能性が高いと認められるためである。

 本記事の時点で29名がアマゾンにレビューを寄せており、幾名かの評者が低評価を付けている中、私が最初に抱いた感想の大部を、estei氏の2008年3月1日のレビューが先取りしているので、それを引用したい。著者の須原氏や遺族に対する思いやりのあふれた好レビューである。このレビューには、星5つを差し上げたい。
 人生のポジティヴな側面のみを価値ありと認める人生観、先人による死の理由についての自らの思い込みによる断定、そして自死を実行することにより他者からの問いかけや反問を絶対的に封じたことなど、失礼ながら私には著者が「哲学者」の名に値するとは思えなかった。
 「命」というものは果たして「私」の「所有物」なのだろうか(略)。また、自らの理性をもって自死を選択する、そして出版によってそれを称揚するということは、著者と同様に「命」や「老い」、それに伴う「障害」をもつ他者のそれをも否定したことはならないのだろうか。(略)そんなことは知ったことではない、というのであれば、それはそれで一つの意見として、理解は出来る。しかし「哲学」としてはどうだろうか。
 哲学を標榜するのであれば、いささか軽率な知的態度ではないのか、という感想を持つ。(略)
 著者は、現代における自然たりえない死への状況を告発しながらも、現実の行為としては他者を震撼させるに足る不自然な死の形を提示したことになると、私は思う。このことについて、著者には答える義務があると思う。しかしその人は、すでにこの世にはいないのである。
以下に、私の感想のうち、estei氏のレビューに明記されなかった部分を示すが、その感想を要約すれば、(1)たとえ「新葉隠」主義に立とうとも、それを含めた人倫全般は、須原氏のような死に様は肯定しない、(2)西欧における死生観を見下しており「パリサイ的偽善」という批判は(哲学者の)須原氏にこそ該当する、というものである。この二点は、以下で論証の手続きに乗せるものではないが、私の駄文にこれ以上付き合えないと思う読者のために用意したものである。(無料のブログだし、そこら辺は勘弁して欲しい。)

 (少なくとも私が高校生時代に学んだプロテスタント系の)キリスト教は、辛く苦しい時にこそ、その人の行いの中に、その人の信仰の強さが発揮されると考える。この考え方は、遠藤周作氏の『沈黙』(1966)を通じて、日本という環境下のキリスト教信者に広く共有されたものであるように思う。モーリス・パンゲ氏も、自殺を論じる著書の中で「その人間の内なる信念が現われるのは、(...略...)彼が為す行為においてなのである。(p.13)」と述べている。ネタバレになるのであまり書きたくないが、『沈黙』という題名は、肉体と精神が十全でないとき、神の応答の不在に対して、キリスト者は十分に信仰を保ち得るのか、という命題を想起させるものである。

 須原氏がパンゲ氏の文章(パンゲ, 旧版, p.12)を引用して主張したいこと(須原, p.153)は、私の理解では、西欧人がキリスト教によって自死を禁止された状態に安んじるあまり、自死を許容する日本社会を卑下しているという「パリサイ的偽善」に対する反発であるが、少なくともパンゲ氏自身は、1986年当時の西欧の哲学界や宗教界に「パリサイ的偽善」が蔓延しているとは認識していない(パンゲ, p.18)。自死を禁止するキリスト教の要請を奇貨として、自死を許容するキリスト教以外の論理を真摯に検討しない姿勢を、パンゲ氏は「パリサイ的偽善」と呼んでいる(パンゲ, pp.8-9)。しかし、先に遠藤氏の『沈黙』に触れて説明したような、キリスト教徒として善く生きようとする一般人の姿勢は、「パリサイ的偽善」に毒された宣教師や哲学者たちの考察に対するパンゲ氏の批判(パンゲ, pp.11-12)とは、別個のものとして捉える必要がある。踏み込んで言えば、須原氏は、パンゲ氏の要約した過去の西洋人の主張を、現在にも通用するものであるかのように早とちりしたのである。

モーリス・パンゲ[著], 竹内信夫[訳], (1986=2011). 『自死の日本史』(講談社学術文庫), 講談社.

 パリサイ人が体裁を整えることのみに熱心で戒律の理念を守らない、とイエス・キリストが批判したことは、(キリスト教に基づく)西洋哲学の基礎的な道具的概念である。ルカ書の「パリサイ人の祈り」と「徴税人の祈り」との対比は、カソリックとプロテスタントの別を問わず、祈りの本質を示すための説教の題材としてしばしば取り上げられる。他方、キリスト教における自死のタブー化は、聖書を根本に置くプロテスタントにとっては、キリストを売り渡したイスカリオテのユダの故事をふまえれば当然のことであり、また、カソリックでも、聖アウグスティヌスの『神の国』の指摘に基づき確立されたものとなっている。もっとも、聖アウグスティヌスによる見解が示される以前は、迫害期においては殉教者と自死との整合性が、国教化後においてはローマ帝国軍の10分の1刑と自死との整合性が、それぞれ問題となったという※1

※1 この文に係る事実は、ネット情報の中でも執筆時点で正確な出典を確定できていないものなので、その程度の扱いをお願いしたい。

 ところで、わが国における自死の伝統がパンゲ氏の指摘のほどには常に崇高なものではないという点も、須原氏の読み間違いを増幅している。パンゲ氏の主張は、わが国における自死に対する思考を美化し過ぎたものである。バブル崩壊後の現代日本社会における自死は、部分的には、金と命を交換可能とみる社会通念に根差しており、自殺に対しても死亡保険金が条件付きで支払われるというシステムを悪用した部分が認められる。当事者以外の自殺に対する無関心は、バブル崩壊時も、自殺対策基本法制定以後の現在も、依然として根強いものがある。

閑話休題。

 ちなみに、須原氏が河合幹男(2005)『安全神話崩壊のパラドックス』のみを引用して犯罪情勢が悪化しておらず(p.178)、自殺を決意した者が殺意を周囲に向けないと論じたりする辺りも、筆者の疳に触るところである。河合氏の作業を否定する気はないが、同書の記述統計だけを参照して犯罪情勢を論じた気分になるのは、読者が学者であるのであれば、怠慢な行為であるというのが、私の意見である。この批判は、私自身の研究の原動力の一部を構成している。応答可能性のない応酬が続く犯罪学界隈に、止揚の余地はあるのか、という疑問が、わが国の計量犯罪学に係る私の問題意識をなしている。しかし、「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」。また、わが国における自殺論を読み込んでいれば、殺意が自身に向けられるという(通俗的かもしれないが)指摘を多くの書籍に見出すことができ、その点を説明するという、哲学者ならではの仕事がわが国では放置されたままとなっていることを容易に発見できたであろう。

 こうした不備を多々露呈しながら、巻末に「二、三ヶ月推敲のための時間が欲しかった(p.264)」と記す辺りも不用意な行為である。失敗できない一度限りの実験にあたっては、理系の研究者は、十分すぎるくらい事前準備を進めるのが常態である。論理を基本的な道具とする哲学者であるならば、自死の後には、estei氏が上掲引用で指摘するように、答えたくとも答えられないという状態に陥ることは、百も承知のはずである。しかし現実には、自身が勝手に設定した期限が来たときに、明らかに準備不足のまま、須原氏は自殺している。想定問答の準備が不十分であるがゆえに実験としては不十分であるとの評価を受けたときの答えを本書内に用意せずに、須原氏は応答できない世界に旅立ってしまっている。その不備が致命的であるがゆえに、須原氏の(社会的)実験は、実験としては失敗したと評さざるを得ない。少なくとも、あと5年、3千冊ほど、関連研究を読み込めば、私にも読み応えがあると感じられる内容に仕上がったかもしれない。準備不足が低品質に帰結したという点だけでも、本書は批判を甘受すべきである(し、甘受するほかない)。ほかの評者が指摘するように、須原氏は、自分が健康を実感できるうちに遁走した(とまでは、ほかの評者は表現していないが)と考えるのが適切であろう。

 須原氏の実験の失敗を決定付けたもう一つの要因は、大学教授という職が相当多量の社会的資源を他者から分配されて成立している職業であるという自覚を決定的に欠く点である。「命」は自分一人のものか、と問うたestei氏の疑問は、このような須原氏に対する批判によって、部分的に回答できる。(つまり、estei氏もそのような反語的表現を用いていることから、私より一歩先に同様の答えに到達しているのだが、須原氏は、自分が社会に生かされてきた存在であるという点について、真面目に考えていなかったのではないか、と憶測することができるのである。)哲学者を自称して古今東西の哲学を修めた者は、哲学の素人の私が不惑を前にして気付いている以上、この自覚に思いを致さない訳があるまい。しかも、肉体的能力の衰えに比べれば、大学教授である人物が培った知的能力は、(須原氏が自殺した)65歳以降であっても、健康に過ごす努力を重ねれば(、この努力は、諸方面に残酷であるが、自死を健康で明晰な意識を持っている内に選択した須原氏であれば、当然なすべきであるし、なし得たはずの努力であるが)、少なくとも私が先に指摘した5年間程度のうちであれば、その衰えが緩やかであったはずである。大学教授たる者の知性という存在は、すでに一個人の所有物とは言えない程度に社会的資源を投入された「資源」であるはずであり、その能力は、社会に適切な形で還元すべきであった。少なくとも、その能力を、自身の大切な研究をより多くの人物に論理的に理解してもらうために投入すべきであった。このような理解に立ったとき、「新葉隠」と勿体付けた物言いの下に、元?当時の?(いずれでにせよ私の論点からすれば、重要ではない。)大学教授が自殺するという行為は、社会的資源の浪費以外の何物でもない。自殺を後押しするような理解を見せた「友人」が大学教員であったなら、その「友人」も、社会防衛的な見地に立てば、十分な犯罪に手を染めている。この行為が現実にどのような犯罪を構成するのかはともかく、道義的には、背任罪である。

 『葉隠』は、社会防衛主義の書でもあると解釈することが可能である。社会防衛主義を是とする社会において、権力を有する個人の心構えを説く書籍であると考えても良い。この理解が正しいとすれば、独りよがりで稚拙な実験を試み、社会的資源を無駄にしたという大罪を犯した馬鹿者は、『葉隠』の執筆された江戸時代であれば、庶民なら市中引回しの上、磔獄門が相当である。武士はそのような辱めに遭わなかったとしても、武士階級にそぐわない愚行を犯しているわけであるから、お家断絶が相当である。

 以上が、本書を読み終えたとき(平成27年10月25日)までに思いつくことのできた批判である。私個人としては、本書が研究であるというのであれば、さしたる自殺の理由もないときに、自殺した当主がいた武家の動向を調べることができれば、それだけで十分に本書を超える研究になると思う。本書に五つ星を与えてしまう者が『葉隠』を同時に絶賛しているというわが国の思考水準は、わが国の哲学者の能力水準と読者の多くの水準を反映するものであり、わが国にまもなく終焉をもたらすだろう。

 しかしながら、最後に書き終えようとしたとき、これほどまで、哲学者に似つかわしくない書籍をあえて後世に問う形を取ることにより、須原氏は、もしかしたら、逆説的に、自死なんてするものではない、と言外に主張しているのかもしれない、などとも考えてしまった。肝心かなめの答えが返ってこない、というところも、遠藤氏の『沈黙』を反復しているのかも知れない、などと考え始めると、切りがなくなるのだった。

最後に

さんざんゴミのような書評を書き散らしてしまいましたが、それでも、私は、この書評の責めを負えと言われても、自殺なんかしませんぜ。詰腹を切らされるということも、札付きですからありやせんぜ。

 げへへ。

JR東日本連続不審火容疑者起訴について(メモ、感想文)

今朝(平成27年10月28日)読売新聞朝刊社会面(東京13版 37ページ)に、「JR連続不審火 野田容疑者起訴」の記事がある。新聞記事の常であるが、それなりに気をつけて見ていないと、見逃してしまう扱いである。一ヶ月ほどすると公判のよう(参考リンク)であるから、気を付けてみる必要がありそうだ。官報に公告する内容ではないので、フィードなどで確認する必要がある。

東京地検は27日、自称ミュージシャン野田容疑者(43)を器物損壊と威力業務尾妨害の罪で東京地裁に起訴した。
 念のため見てみたところ、今日は、官邸ドローン事件の第n回(n>1、おそらく3)公判のようだ。


傍聴券交付情報(東京地方裁判所)
http://www.courts.go.jp/app/botyokoufu_jp/list?id=15
裁判所名東京地方裁判所  刑事第10部
日時・場所平成27年10月28日 午後1時0分 東京地方裁判所1番交付所
事件名威力業務妨害,火薬類取締法違反 平成27年刑(わ)第1109号等
備考<抽選>当日午後1時00分までに指定場所に来られた方を対象に抽選します。開廷時間は午後1時30分です。

 私にとって、両事件とも、リアルタイムで見ていなければならない必然性はない。が、偶然は一種の必然でもある。司法を「ベルトコンベア」と最初に呼び習わした方はどなたか存じ上げないが、リアルタイムで見ていなければ、担当者以外が見逃してしまう辺り、秀逸な喩えだと思う。初公判では、被告は起訴事実を否認したようであるが、抽選だとはいえ、傍聴者も少ないだろう。世の中の裁判傍聴ブームも一段落したようだし、のそっと見に行くかな?という気になった。

【官邸ドローン事件】被告が初公判で無罪主張 「落下を確認していない」 東京地裁 - 産経ニュース
http://www.sankei.com/affairs/news/150813/afr1508130016-n1.html

2015年10月27日火曜日

施工不良問題と「逸脱の常態化」

 ダイアン・ボーンは、NASAチャレンジャー事故の調査を通じて、Oリングの工業基準違反状態が9年間継続したという状況を発見し、この状態を「逸脱の常態化(normalization of deviance)」と呼んだ(Vaughan, 1996; 松本三和夫, 2012)。あるべき状態から違反した状態にあることが専門的小集団の全員に共有されつつも、全員がその状態を黙認する状態である。規範の逸脱状態が相互作用の中で学習、共有されていく過程は、犯罪社会学の興味のど真ん中でもあり、エドウィン・サザーランドの分化的接触理論(Sutherland, 1974※2を初期の金字塔として挙げることができる。瀬川晃によると、分化的接触理論の基本コンセプトは、松本良夫※1の言を借りると「朱に交われば赤くなる」である(瀬川, 1998, p.93)という。

※1 松本良夫, (1971). 「犯罪の習慣とは」, 『更生保護』, 26号外1号, pp.115-.
※2 瀬川晃, (1998). 『犯罪学』, 成文堂.

 今朝(平成27年10月27日)の『めざましテレビ』(7時ころ)のインタビューは、施工不良問題の背景に「逸脱の常態化」が存在していることを窺わせるものであった。横浜市の大型マンションでの施工不良問題に関連して、旭化成建材のくい打ち施工業務に長く関与した男性がインタビューに応じている。男性は、元請けも下請けも、くい打ちが少々失敗したとしても、その状態を黙認していたと話した。下請けとしては、工期が余分にかかろうと、元請けが補填しない以上は、工費を圧迫するような再調査や再施工などしない、というのである。

2015年10月27日10時追記

「「旭化成建材」発注の元現場責任者「設計段階で問題あった」10/26 11:59
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00306663.html

「旭化成建材のもとで、くい打ちに携わったことのある元現場責任者」 がインタビュイー(インタビューを受けた者)で、「(不正は)わたし自身もやっておりますし、何十人も同じことをやるのは当たり前ですね」と言う。

2015年10月25日日曜日

「マイナンバーはユアナンバー」の初出は平成23年6月末か

 何となく、「マイナンバーはユアナンバー」という表現をしている人がいたなあと思い出し、検索してみたところ、ツイッターでは、@YStwtr氏の2011年6月30日10時07分のツイートが初出のよう。Google検索は、ファイルのタイムスタンプを素直に信じて答えを返してくださるようなので、物事の初出を知るには、ある程度の前提条件が満たされる必要がある。(たとえば、タイムスタンプを誤魔化す虞がないと認められるサイトやドメインについてのみ検索するなど。)


@YStwtr氏のツイート(2011年6月30日10時07分)
https://twitter.com/YStwtr/status/86481031439458304

 @YStwtr氏のツイートは、下記記事を参照した際のもの。ほかにも2名のユーザが同時多発的に発言しているようだ。機転の利く人が世の中にはいるものだ、とつくづく感心する。川柳や狂歌も流行するわけだ。

asahi.com(朝日新聞社):共通番号制の大綱決定 名称は「マイナンバー」 - 政治
(Internet Archives Wayback Machineのキャッシュより)
https://web.archive.org/web/20110630223053/http://www.asahi.com/politics/update/0630/TKY201106300686.html

 奇しくも昨夜(平成27年10月24日土曜日)、フジテレビの『めちゃ2イケてるッ!』で問題児だらけの中間テストの続編をやっていたようだ。「マイナンバー」のメリット・デメリットを述べよという問いだが、おバカツートップの一翼を担った橋本マナミさんが「マイナンバー」のメリットがないと回答し、誤りとされていた。陰謀論者が採点者なら、△くらいはもらえそうな回答ではある。

 このままでは、著作権にうるさい御仁にツッコまれる虞なしとは言えないので、ダラダラと初出があるかも知れないものの、なかなか表に出てきていないようである発言について思考を連ねてみる。まず、マイナンバーというからには、やはり、個人で番号を選択できることが望ましいので、そのようなワガママを許す構造であることが望ましい。そのためには現状の12桁で十分であろうか。そうではない。というのは、日本国民は、約1.3*10^8人。すべての数字を利用して良いとすると、数字の可能な組合せは、10^12通り。しかし、国民のおそらく数パーセントは、4649とか3939とか3776とか3756とか8888とか7777とか4646とかいった、誰もが羨む数字を指定してくるとする。すると、4桁の数字が30通り程度の数字に縮んでしまう。314159265358とか141421356237とか173205080756とか223606797749とか271828182845とかいった、12桁をあっという間に占有してしまいそうな数の並びを好んで選択する人もいるだろう。これらの無限小数を考慮に入れると、国民の個人個人が任意の数字を選んだ場合には、まず間違いなく数値がダブることになる。確率はおよそ1になると言明して良い。特に、314159265358という数値を任意に選ぶ日本人が2名以上いる確率は、限りなく1である。私の中では、これでとりあえず終わった気になったので、今日のところは、これでおしまいとする。(#そうしておいて、具体的な細かい計算を先送りすることにする。)

良著の条件(感想文)

 私が勝手に思い描く専門分野の良著とは、
  1. 【必須】漏れなく・重複ダブリなく(MECE; Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)、
  2. 【必須】想定される読者の知識をベースにしたときにスムーズに分かる内容を、
  3. 【必須】順序立てて、
  4. 【推奨】次に読むべき書籍へのステップとなるように、
  5. 【推奨】隣接分野の動向も併せて、
示してくれるものです※1。重要語句の索引や章立てならびにその見せ方の工夫も欲しいところです。また、当面しか通用しないかもしれないが、当面は役に立つような知識については、賞味期限や限界点などと共に示してくれると、そんなものかと思えるので、とても便利かと思います。

 このような理想の書籍を執筆するためには、その書籍に含まれる学習内容が通年の授業(4コマ分)に相当するとして、真面目 にやっても、20年はかかりそうです。私は、(この点は断言できるけれど、)真面目にやってきてないので、あと10年はかかりそうな気がします。困ったも のです。

 かつての新書には、このような条件を満たす書籍が多く含まれていたように思います。コンパクトに数時間でまとまった鉄板系の知識が得られるので、"浅く広く"のEnrichment教育を旨とする私にとっては、大変ありがたい情報源でした。しかし昨今、新刊の新書の相当数は、信憑性という点で困りものです。その点、英語版Wikipediaの記述は、(私が閲覧するものの多くについては、)記述も信憑性の高いものとなっています。これがタダですから、翻訳の問題は残るにしても、新書が駄目になるわけです。

※1 私がドロップアウトへの道を歩み始めた大学学部生の授業は、まず、2番目の要件がほぼ欠落していたように思います。特に高校3年生から大学1年生における飛躍が大きすぎたかと思います。この点が満たされている教科書は、当時、『The Universe of English』や「知の三部作」シリーズだけでした。統計学教科書は、ややこの条件から外れるかも知れません。このギャップは、かつては、学生の能力不足に求められていました。学生たちは、そのギャップを超えるべく、背伸びをするようにと強要されていたように思います。そのような姿勢は、大学の授業も、部分的にはサービス業であるという自覚に著しく欠ける姿勢であり、今の私には、教員の怠慢の言い訳に過ぎないと言えます。仮に、そのギャップを教員の側から埋めることを潔しとせずとするなら、その間を独習できるよう、ブックガイドだけは用意するなど、何らかの措置を用意すべきだったのでしょう。私が高校生から大学学部生のころ、そのようなブックガイドとして、AERA増刊号の「○○学が分かる」シリーズが刊行され始めました。総じて良い内容だったかとは思いますが、初学者に優しい内容ではない書籍を最初の方に含むような、順序立てられていないものも含んでいたように記憶しています。ここで指摘したギャップは、一言で言えば、"縦割りの弊害"によるものかと思います。つまり、大学教員が高校教育課程までの教育内容を把握しておらず、高校教員や教科書検定委員会の"有識者"が大学の教養課程における教育内容を十分に把握していなかったために生じたものです。

鬼塚英昭, (2013). 『日本の本当の黒幕(上・下)』, 成甲書房.

私の評価は、★★★★☆。(星4つ)

本書は、坂本龍馬暗殺、伊藤博文暗殺、大正天皇崩御、5.15事件等において重大な役割を果たし、テロリストの頭山満や井上日召の思想に多大な影響を及ぼした維新の志士の一人である、「日本の黒幕」、田中光顕の一生における悪の側面を暴き出した大作である。田中光顕は、1843(天保14)年の生まれ、土佐藩出身で、後に警視総監や宮内大臣を勤めた。70歳で退職した後の25年間、三菱財閥からの資金を利用して、いわゆる右翼人脈に対して多大な影響力を発揮した。芸術家のパトロンとしての側面も有し、膨大な蔵書を青山文庫として寄贈した。

鬼塚氏は、青山文庫(リンク)に収められた資料等を含め、多くの書籍の間に見られる矛盾や空白を読み解き、「鬼塚史観」とも言うべき近代史を描き出している。その内容は、従来の通説とは、大いに異なるものである。例えば、坂本龍馬暗殺は、従来、幕府側の者によるものとされてきたが、鬼塚氏は、丁寧な資料の解読を通じて、この通説を覆す。ここでの種明かしは、もったいないので、本書で堪能されたい。

とはいえ、本書には大きな問題が二点ある。第一の問題点は、説明や時系列上の構成が行きつ戻りつしていて、きわめて読みにくいことである。伊藤博文暗殺に係る7章近辺は、文章がこなれていたが、そこでも、安重根の「伊藤博文の罪状15か条」についての説明は、問題の本質を含むがゆえではあるが、唐突に出てくるものになっている。また、鬼塚氏が在野の歴史研究者であることに起因するのであろうが、本書は、パラグラフライティングされておらず、複数の読み方を許す表現をいくつか含む。第二の問題点は、第二次世界大戦直前の人々の動きや、現代の研究者または作家に対する批判が、あまりに短絡的なものであることである。同業者を名指しで挙げて批判するのであれば、これだけの大著であるから、多少のページを割いて、具体的な批判に足るだけの証拠を挙げても良いであろうが、それはしていないのである。近年の歴史学研究者の著書は、パラグラフライティングされており、標準化された読み方を許す内容であるとともに、誤読を招かない文章(だけ)で構成されている。科学的方法とは、主張の中身もさることながら、主張に至るまでの形式をも要件に含める。鬼塚氏の文章がアカデミックな方法に則らず、特に複数の読み方を許容する文章を含むことは、氏の主張の信憑性にも影響する欠陥である。

以上の二点の問題点をもって、星一つ減じているが、(二つ減じても良い程度の酷さの文章の複雑さではあるが、)内容の幅広さと同時代性は、満点ものである。通説に立つ者、既得権益に安住する者にとって、本書は、単なる陰謀論の域を出ないものであろう。しかし今こそ、わが国の行く末を憂慮する者は、本書を通じて田中光顕の「テロル」の方法とそれを支えた拝金主義を知り、その悪に対峙するための方略を思索すべきである。

#専門分野にかかるゆえに、あまり適当に記すと反撃を受けそうだが、現時点のわが国では、刑罰の有効性に関しては、厳罰性(刑の重さ)よりも確実性(確実に捕まえること)が重要である、と理解されている。犯罪は、確実かつ公平に捕まえることが大事である。確実に逮捕することが大事だとはいえ、この理解は、福島第一原発事故にはなかなか該当しない。放射性物質が少量でも健康に悪いことは、最近の研究で明らかにされつつあるが、放射性物質の散布が過失傷害罪のみに当たるとしても、その被害者が数千万人単位であり、海外にも及ぶという点で、フクシマ事故は、前代未聞である。私は、このような理解の下に記事を執筆している。このため、記事の間で、矛盾するかの表現があるかもしれないが、それは、単に対象を扱う切り口が異なるだけである(ということにしておいて欲しい)。


2015年10月25日16時追記

鬼塚氏は、下巻の巻末で、本書を田中光顕の伝記ではなく、田中氏の生涯を追うことで幕末から昭和に至る歴史の暗部を描いたと主張する。しかしながら、私には、田中光顕の一生を十分に理解できたとはいえ、ほかの暗部までを立証したと言われると、疑問を抱かざるを得ない。立証というより、推測を述べたというに過ぎない。特に、平沼騏一郎と昭和天皇との関係については、立証したとは言いがたい。その点は、いずれ、他著を参照し直し、結論を出すことにしよう。

また、鬼塚氏は、北一輝の無思想性、特に社会構想の欠如を批判するが、少なくとも、天皇の下の平等という概念は、戦後のわが国におけるいわゆる安保闘争の広がりを支える一翼となったという点を見逃したものである。鬼塚氏がどう評するかと、一般大衆がどのように受容するかは、別の話なのである。無内容であろうが、思想の道具性、またテクストの郵便性が、後世に思わぬ余波を生じうるのである。

あと、ウェブでかなりの断片的な情報がGoogle検索で得られるようになった現在、書籍の価値は、確実な知識を系統立てて入手できることにも求めることができる。というより、その重要性は、相当程度、増している。索引もなく、人物関係表もなく、年表もない点は、大変残念である。私に心当たりがあることを承知で記すが、犯罪性向の強い人物は、その人間関係が、(よほどのことがない限り、)焼き畑農業的なものとなる。人物間の関係性を示した時系列表があるならば、その点がかなり明確になったであろう。これは、HTMLなどマークアップ言語の得意とするところであるから、インタラクティブな手段があれば、それによった方が良いが、いずれにしても、人に素早く知識を提供できるようにすることは、サービス精神の一つの表れであると、犯罪地図(という一覧性の高い二次元情報)を製作する個人としては、強く信じるところである。


2017年11月8日修正・追記

レイアウトを、brタグからpタグに修正した。

約2年後の現在、読み直してみると、困ったことに、鬼塚氏が皇室に対して抱く憎悪に対して、十分な警戒心を読み取れないように思える。記述が甘い理由は、当時の私の無知に起因する。この点、わが国の生き残りに陰謀論を活用したい読者は、十分に注意されたい。

しかしなお、「鬼塚史観」を含め、維新の志士たちおよび皇室周辺の活動の「真実」を求める「陰謀論者」の論考は、現実の史学者に対して、妙な形のプレッシャーを与えているようにも見えてしまう。本稿で示した話だけに限定すれば、今年(2017年)6月に放送されていたNHKの『英雄たちの選択』「龍馬暗殺 最期の宿に秘められた真相~なぜ近江屋だったのか?」[1]は、この実例として挙げられよう。この番組は、新史料を元に、「坂本龍馬が永井玄蕃との会合のために近江屋を利用していたところ、帰途に尾行されて居所がバレた」と推認していた。龍馬を殺した真犯人は、日本の歴史を学んだ者なら誰もが興味を持つ話題であろうから、「陰謀論」業界における話題の隆盛とは関係なく研究が進められていても、何らおかしくない。ただ、史料の元の所有者が情報操作を意図していた場合、「新史料」が発見された経緯とタイミングは、彼(女)の意図に即したものとなっているであろう。仮に、この見立てが当てはまる場合、「新史料」を読み解かせるために見出された人物は、すべてを含んだ上で情報をコントロールできる能力を(持つと、相手に信頼感を抱かせるだけの誠実さを)有する(と、史料の所有者に見込まれた)か、文書が発掘されたコンテクストを読めないほどに利用し易いKYか、いずれかになろう。龍馬暗殺は、「田布施システム」なるものが存在するとすれば、この権力の確立に至る上での(多数の)分岐点の一つである。この可能性を含み、「研究成果」の公開に係る文脈を理解しておくことは、後々、色々びっくりせずに済むことにつながりうる。以上が、真偽の判別をつけかねているものの、とりあえず、2017年時点の私の感想である。


[1] NHKネットクラブ 番組詳細(英雄たちの選択「龍馬暗殺 最期の宿に秘められた真相~なぜ近江屋だったのか?」)
(2017年6月15日08:00~09:00)
https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20170615-10-28095

TPPが全世界をカバーすることはないだろう

#階級社会においても、結果の平等がある程度維持されていないと、上流階級も真に快適な生活を送ることができず、その黄金則が世界の大半で共有されているがゆえに、TPPはグローバル・スタンダードとなり得ない。本記事は、このような予想を示すものである。このような思想は、わが国では万人受けする内容ではない。その点を念頭に、ご高覧いただけると幸いである。

TPPの最重要点は関税ではなく「ルール統一」にある|今週のキーワード 真壁昭夫|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/79803
 また、TPPのような格好で、世界の主要国が経済活動に一定のルールを定める方向に進む可能性もあるだろう。それが実現すると、TPPで決めたルールが世界のデファクトスタンダードになることも考えられる。

 その場合には、TPP参加国は、世界の経済活動ルールの創業者利得を手にすることができるかもしれない。(略)
真壁昭夫氏は、上掲リンクの記事の末尾において、先のように結論しているが、TPPのような形で経済活動に実定法型のルールを課す方法は、今後、次段落以降に示す3点の理由により、これ以上は浸透しない可能性が高い。よって、創業者利得もないし、デファクトスタンダードも生じないだろう。むしろ、足抜けを図る国が出てきても、おかしくない。ただし、今後の日米関係は、TPPの成立不成立と関係なく、似た方向に進むと考えられる。

 第一の理由は、現在のTPPが、加盟国中で第一位の経済力を有する米国が加盟国中で第二位の日本の市場開放を主眼に据えるものであり、わが国(日本)や韓国ほどに(それ以外の他国から見て、)米国の影響下にある国がほかには見られないためである。米国の影響力とは、駐留米軍の存在、アメリカ文化の影響、国内政治家等とのコネクションなど、多方面に渡るが、そのいずれもがTPPへの加盟に欠かせない要素であった。その傍証としては、フィリピンを想起すると良い。イラク、リビア、アフガニスタンについては、事実上、米国に本拠を置く大企業に多くのビジネスを牛耳られており、TPPのようなルール形成は、すでに不要である。韓国は、アメリカとFTAを締結している一方で、中国からの関与を積極的に受容しつつある。今後、日本(や他の加盟国)が没落する様子を目の当たりにした他国が加盟を希望するかを考えてみると、TPPのルールが世界のデファクトスタンダードとなるためには、外患や内乱などの恐怖や不自然な政変がそれらの非加盟国(のみ)に蔓延するという、極めて不可解な状況を必要とするであろう。EUやTPP加盟国以外の各国は、WTOやEUやTPPの現状を参考としながら、代替的な貿易ルールの構築を模索するに違いない。TPP加盟に前向きと見える国として、インドネシアを挙げることができるが、発効条件が示された後の宣言であることに注意を要する。米国内における反対論も存在し、その推移によっては、TPP自体が不成立となる公算も十分認められるのである。(中国の発言も同様のロジックによると思われる。これら大国の加盟検討に前向きな発言は、国際関係の軟化を図る方便だと考えた方が良い。)

インドネシアがTPP参加の意向表明、貿易相「2年以内に」 | Reuters
http://jp.reuters.com/article/2015/10/09/trade-tpp-indonesia-idJPKCN0S31AE20151009

 第二の理由は、TPPが母語や輸送距離(の長さ)などの非関税障壁の撤廃をも求めることで、TPPの不寛容さが他国に知れ渡ることになり、それゆえに他国が加盟を見送ることになるからである。非関税障壁は、通常の貿易による限りでは、ゼロにすることが不可能である。TPPを世界の経済活動ルールのデファクト・スタンダードとするには、これらの非関税障壁に対して、新規加盟国が納得できるような公正さに基づき、ルールを整備する必要がある。残念なことに、最も規制の緩やかな一国の事情を他国に強要するという形で、これらの非関税障壁の撤廃が図られるという懸念は、現実のものである。医療における母語と農産物の輸送距離とに限定して、以下、その懸念を素描しよう。これらの懸念が現実のものであるならば、新規に加盟を検討する諸国は、おそらく、TPPが国民を解体し、国家の主権を脅かすものと認識し、加盟を見送ることになるだろう。

 わが国では、母語が非関税障壁とされて利用できなくなるという懸念は、普遍的なものである。医療分野については、加藤文子氏が、以下のように非関税障壁として日本語が扱われる懸念を報告している。

加藤文子, (2011). 「TPP参加議論をめぐる一考察―医療分野を中心に ―欧米の労働市場との現状比較をふまえて―」, 『実践女子大学人間社会学部紀要』7, 77-88.
(KJ00006995579.pdf)
日本語という言葉の壁が大きくたちはだかり、さらにはわが国特有の文化や習慣・医療現場でのルールや患者との接し方なども障害となると考えられるからである。 事実、看護および介護の現場ではEPAに基づき数百人の外国人を候補者として受け入れたが、わが国で資格を取得して就労に到った者はごくわずかである(。)
医療における言語の問題は、単に患者と医者との関係に留まるものではないが、患者と医者の関係に限定しても、外国で患者となることは、なかなか難儀なことである。専門用語辞書に容易にアクセスできるようになった現在なら、ひと頃に比べてその困難さは、軽減されているかもしれない。しかし、全員が最低限の医療を受けられるという普遍的な人権の確保を目標とした場合、かかりつけ医を支えるITシステムのバックヤードがたとえ英語で動作していようとも、そのフロントエンドは、地域の母語に全対応していなければならない。かかりつけ医で対応できない難病でさえも、小国であればともかく、まだ1億人の人口を抱えるわが国においては、日本語で受診でき、十分な治療が公正な価格で受けられる権利が確保されているべきである。高額でも良いからオプションとなる手術等を受けたい患者には、加盟国間での自由な渡航と必要なだけの滞在が許可され、治療が市場価格で提供される、ということがあって良いだろう。TPPとは関係なく、この種のオプション自体は、制限されるべきことではない。しかし同時に、基礎医療を守ることは、このオプションの認可と両立する施策であるはずである。基礎医療にまで手を付けようとする強欲ぶりは、批判の対象となって当然である。

 農産物の輸送距離という非関税障壁は、流通業というビジネスのあり方と密接に関係する。個別の生産者や消費者にとって、関税の自由化は、必ずしも致命傷になるわけではない。ただし、日本国内の農業や流通業を大所高所から見るのであれば、関税の自由化は、(1)大多数の消費者が消費行動を変化させず、(2)流通業者もその変化を反映するビジネスを向上させず、(3)多数の生産者がその変化に追随できずに脱落するという経路を通じて、わが国の農業にとって致命的な結果をもたらすと容易に予測できる。経済活動が統一化されたルールに従っていようがいまいが、ある地域における経済の状態は、ルールや外部環境に変化がない限り、ある状態で安定する。いくら野菜の単位当たりの生産量が外国では安価であり、かつ、野菜が食用に適さなくなるまでの間に輸送可能であるとしても、その輸送費は、価格に反映せざるを得ない。米国産の農産物としては、根菜類の多くや果物、一部の葉物(ブロッコリーやアスパラガスなど)が流通しており、大変な競争力がある。しかしながら、国産品を求める消費者にとって、米国産品との価格差は、太刀打ちできないものではない。事実、米、緑茶、ジャガ芋、サツマ芋、乾物、チーズの多くは、私の家では、国内品を取寄せや現地等で購入している。問題を生産者、流津業者、消費者の三者からなる問題として定式化した場合、価格を最優先する家計がどれほど存在するのかが、消費者に起因する問題の本質である。より大きな問題は、流通業者の介在によって、生産者と消費者が相互に匿名化されており、その状況がときに悪用されていることにある。生活協同組合は、長らくその空隙を埋める形で流通経路の明瞭化という機能を果たしてきたが、今や、インターネットという販売機会もある。生半可なGoogle検索では、なかなかヒットしないのだが、大西洋やインド洋の青魚から取れたことが確実なDHAサプリがあれば、私は、それを購入したいと思っていたところである。個人的な話に終始するのは論理的でないように思えるが、真壁氏の議論は、自分で買物もしないかのような生活感のないものに読めたため、このような方法で攻めてみるのも有用かと思った次第である。

 三点目の理由は、大企業に有利な自由主義の行き過ぎは、必ずしも資産家やエリートにとってゴキゲンな生活を保障しないために、国によってルールが異なる方が、結果として、資産家やエリートに快適な生活を提供することになる、という逆説である。生活は、単に大企業の経済活動によってのみ実現するものではない。EUという枠組は、焼き畑農業的なTPPとは異なり、今後も残ると私は考えている。なぜなら、EU加盟国における富裕層自身が、その快適な生活を支える社会基盤がEU加盟国における生活の伝統にあることを理解していると見えるためである。EU諸国における移民の問題は、域内の東側諸国からの移民も問題視されているが、それ以上に、域外からの異なる文化的ルーツを有する移民こそが問題視されている。(その点、ドイツにおけるトルコ系移民は、域内移動において文化的摩擦が顕在化した例外的事例と見ることも可能である。)EU加盟国における上流階級の生活は、加盟国内の多数の熟練労働者により支えられている。安全な食品の生産者や高級料理人、各種の高品質な日用品の職人など、専門性の高い労働者たちが安定的に生活できる社会環境こそが富裕層の生活を担保しているという認識は、当該社会のエリートの共通認識であろう。それゆえ、シリア難民の問題も、難民に隠れて悪事を企む過激派の活動も、やがては適正に解決されるものと、私は予測している。

 下記のニュースは、大企業に有利な自由主義が快適な上流階級の生活を保障しないという、端的な事例である。上記の真壁氏の論説自体は、今月(平成27年10月)13日付であるが、今日(25日)、本記事を執筆しようと思ったところにこのタイムリーさは、新自由主義が快適な上流階級の生活を保証しないことを示す何よりの証拠である。真に上流階級慣れした社会なら、後日会計に伺うとしてその場はツケにするというのが、まず考えられる流れであろう。本記事は、夫人のカードで決済できたと伝えるが、カード会社の不手際であることは間違いないのだから、私が担当者なら、店舗で立て替えたことにする。カード会社の端的な出方は、支払う/支払わないの二通りあるが、どちらに転んでも店舗の名声には傷が付くことはないし、カード会社も汚名を被ることはなかったかもしれない。

CNN.co.jp : オバマ氏、料理店でカード使用拒まれる
http://www.cnn.co.jp/fringe/35055344.html

 現在のわが国の店舗であれば、オバマ大統領を迎えるほどの格式を有する料理店の従業員が、記事にあるように、その店の名声に関わるような対応を行うことはないであろう。しかし、TPPにより、ガタガタになった後のわが国では、どうであろうか。大きな国の中で、文化的な生活を享受するためには、その文化を支える国民にも相応の教養が求められるのであり、その国の国力以上のものを期待することは、不可能なのである。ブルース・ブエノ・デ・メスキータ、アラスター・スミス(2009=2013)『独裁者のためのハンドブック』(リンク)は、独裁者にも少数の忠実な友人や、さらに周囲を取り巻く影響力のある集団を必要とすると観察しているが、移動、旅行、観光の自由まで含めた、真に高度で文化的な生活を享受しようと思うのであれば、国内の「取り替え可能な者たち」も、それなりに満足して生活を送ることができている、という条件が満たされる必要があるのである。

 以下は、感想である。わが国の地方部の宿泊業においても、大企業が高級会員制ホテルの経営に乗り出したり、地方の有力観光企業がM&Aなどにより地場の有力ホテルを購入したりという流れが、今世紀初頭から形成されつつあるようだ。しかし、あくまで客の意見に過ぎないが、中小の宿泊施設にも決して商機がないわけではないと思う。(それがおおむねすべての企業にチャンスのあるものであるかどうかは、大変難しい問題であると感じる。)事実、宿泊先として中小企業を選択する割合は、わが家の実績では費用にして2倍強に達する。このような特殊な客がいないわけではないだろう。そこでの課題は、やはり、需要と供給を結び付ける情報の的確さと、客に問題ないと思わせるサービス水準と価格設定との調整であろう。

2015年10月23日金曜日

オウム真理教による一連の事件の教訓(その1)

 近年、地下鉄サリン事件を含め、オウム真理教に対する再度の見直しが国際的にも始まっているようである。ロシア連邦内で、オウム真理教の大規模な摘発があったという。ソ連崩壊時のロシアにおける制度的・精神的混乱に乗じる形で、オウム真理教が定着したと聞く。オリガルヒ(政商)がやりたい放題であった当時と現在とでは、ロシアの国内事情は、大きく異なるということなのだろう※1

時事ドットコム:オウム施設摘発=ネットで信者拡大-ロシア報道
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201510/2015102100103&g=pol

※1 私も、一応、大人を気取っている。読者が時事通信の記事から私の主張に至るのはおかしいことだ、と感じるようであれば、それを否定することはしない。

 翻って、わが国は、どうであろうか。第一に、一連の事件の全容が解明されたとは言いがたい。第二に、被害者への支援も手薄い。第三に、事件対応における失敗は、責任者であるはずの公安幹部による強弁で糊塗されてしまい、一国民の眼から見る限り、再度同じ失敗が繰り返されてもおかしくはない※2。第四に、わが国では、カルト宗教に勧誘されかねない(無知な)若者を保護するためのシステムがまったく欠如した状態である。大学の事務・教務に丸投げ、というのが実態である。

地下鉄サリン事件前に強制捜査の機会も NHKニュース
(Internet Archive Wayback Machine収録分)
https://web.archive.org/web/20150320132649/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150320/k10010022681000.html

※2 これまた大事なことであるが、一介の国民の目にはそう映る、ということに重点が置かれているのであり、そう見えてしまうという状態は、対策を企画・実行する上での条件である。対策の条件には、対策が不十分に見える限りは、対策が不十分であるという批判を免れることがないという状態までが含まれる。仮に、現在の対策の稚拙さがハニーポットの如きものであるとした場合、批判を甘受するところまでが受け容れざるを得ない条件ということになる。それが対策を講じる者の仕事の辛さである。これに対して、(本記事に係る)私の仕事は、正当な評価を加えることである。

 第三の点に関連する個人的な体験を述べよう。近い人には話をしたことがあるが、地下鉄サリン事件後に起きた新宿駅での未遂事件のとき、私は、事件の舞台となったトイレに入ったことがある。埼玉から大学に行く途中の乗換え時の利用に便利だったので、事件前からそれなりに利用していたトイレであったのだ。当日、腹が緩くなり、トイレに駆け込んだは良いが、なかなか空かないうちにウェーブが去ったので、小だけして涙目で山手線に乗り換えた。そういうことがあったことは、後から知った。

 第四の点についてであるが、平成6年の入学時にオウム真理教と思しきサークルの勧誘を受け、ハガキを受け取ったり駒下の某マンション三階の部屋まで連れて行かれたことと言い、私の中では、オウム真理教による(と認定された)一連の事件は、私の中では、遠い世界の話ではなく、被害者にも加害者にもなり得たという点でも、それなりに現実味のあるものとして残っている。そのサークルの勧誘自体は、決して暴力的であったり、ほかの宗教団体のような圧迫感のあるものではなかったが、「富士山を望む湖のほとりの合宿所」というふれこみの場所までついて行っていたならば、どうにもならなくなっていただろうと思っている。ただし、当時の状況を思い起こす限りでは、無理には連れて行かれたことはなかっただろうとも考える。勧誘については、「板子一枚下は地獄」ではあるが、当時、板子はあったのである。

 オウム真理教の事件後も、一人暮らしの大学生や留学生に対する支援は、わが国では劣悪なままである。留学生に対しては、原理主義者であるかどうかを疑うという、マイナスをゼロにするためのルーティンはあるようだが、原理主義者から留学生を守り、やがては母国などで(わが国のためにも)活躍してもらうための支援という、ゼロやマイナスをプラスに転じるための施策も必要である。そうであるべきところ、現状がまったくお寒い状況であることは、周知の事実であり、ここでは、例を挙げる必要はないだろう。例を挙げ、類似事例の責任者をすべて処分するとするならば、どれだけの首が飛ぶことか。

 フルブライト奨学生に代表される他の先進諸国の留学生制度は、その制度を用意した国のファンを増やす役割も果たしているが、わが国の留学生支援に対する財政上の理解は、その辺のセンスを決定的に欠いている。南京大虐殺の記憶遺産認定を非難するあまり、UNESCOの負担金を減らすと放言した逸話は、その典型例である。負担金の減額分は、そのまま留学生制度の充実に当てれば良いのであり、そのように主張すれば、少なくとも国内からの非難を受けることはなかったのである。(その際、天下りによる中抜きの排除は、もちろん必要である。)事実認定に不服があったとしても、真実がわが国政府の信ずるとおりであったとするなら、やがては、留学生が主要な地位を占めるに至ったとき、誤りは、自然と訂正されるはずであろう。

 教育とは、未来の世代、利害関係者への再配分である。投票権のない世代が利益を享受するだけに、通常よりも高い倫理性に基づく制度設計が必要である。南京大虐殺の記憶遺産認定を巡る国内のドタバタ劇は、どの立場の日本国民にとっても、わが国の留学生を含めた教育システムが破綻しており、わが国の政治が極めて短期的視点に陥っていることを示す良い証拠となっている。南京大虐殺が事実であったとすれば、事実でないかのように発言する政治家を輩出した国民を育成した事実をもって、また、南京大虐殺が事実でなかったとすれば、そのような誤った理解の流布を阻止できない程度の社会科学系の研究者たちしか育成できなかった事実をもって、わが国の教育システムは非難されるべきである。

 オウム真理教の一連の事件と、現在のわが国に対するその教訓については、機会を見て深掘りしていきたい。ただ、事件そのものについては、優れた先行文献が見られることであるし、多くの人が現在も影響されている事件である以上、過去に遡ることについては、自ずと限界もある。とりあえず、以上の文章は、私の主張を知る上で十分なものであろう。

振り込め詐欺が壮大な節税システムであるとする陰謀論は考え過ぎである

 陰謀論の世界には、ときに、自分の考えが遠く及ばないアイデアが転がっていたりする。もちろん、それらのアイデアをそのまま無断借用するなんてことは、自分の良心やプライドにかけてすることはないが※1、ともあれ、その想像力の豊かさに(色々な意味で)恐れ入ることがある。以下の考察は、その想像(妄想)力のたくましさに敬意を表するため、真面目に、その意見を否定するものである。本記事は、大多数の読者にとっては駄文であることを、あらかじめお断りしておく。

 以下のブログは、陰謀論(者)の世界(観)の奥深さを感じさせる一例である。FATF加盟に伴い、わが国でも、金融口座の開設や海外振込等が厳しく監視されるようになったが、それに伴う銀行の対応に憤るツイートを収集し、預金封鎖が始まっていると推測した上で、次のように考察を進めている。

預金封鎖、実はすでにゆっくり始まりつつある…? – すべては気づき
http://sekaitabi.com/furikome.html
 また、以下は100%推測の域を出ないあくまで想像の話ですが、振り込め詐欺自体が、預金移動防止のためにセットアップされた自作自演である疑いさえ持ってます。本当に詐欺行為自体はされてるとして、自演が含まれているのではという疑いが(実は裏社会を通して犯人役が配置されているのでは、という)。
 東芝の粉飾決算の金額の大きさ(1500億円超)や海外バラマキの額と比べると、振り込め詐欺の被害額(昨年で559億円)が小さいにもかかわらず、振り込め詐欺の方は膨大なコストをかけ、東芝の方は「不適切会計」などと言ってごまかし刑事罰も与えない甘い対応。
 振り込め詐欺の振込先の口座情報を銀行側が突き止められないはずがないことも、大きな預金を持っている人の情報をつかめていることも不審に思ってました。
 推測だけでまったく根拠はありません。しかし同じように勘ぐっている方々はいました。以下は元警官の方とのこと。(後略)
例示されていたツイートのみから預金封鎖の虞を読み取ることの是非は、個人の表現の自由の範囲内にあるように見える。ただし、現実に、昭和48年の豊川信用金庫の取り付け騒ぎをふまえれば※2、その種の再帰性、自己予言成就機能のようなものが、この種の発言について回ることには注意すべきである。この事例は、情報社会学などの分野では著名な事例である。付言するなら、おそらく、最近(平成27年9月ころ)のインターネット銀行における小口で取引事例が多い顧客の普通口座に対する銀行側の処置は、普通口座である以上、適切なものと思われるが、他方で、顧客一般の知識も試されていることであるようにも思われる。わが国における金融教育の必要性は、作家の横田濱夫氏がかねてから指摘してきたことであるように(うろ覚えで)記憶しているが、今回の逸話は、かなり基本的なところから教育が必要な人が多いことをうかがわせるものである。(私自身もその対象に含まれる。)

※2 豊川信用金庫事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E7%94%A8%E9%87%91%E5%BA%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 閑話休題。

 振り込め詐欺の既遂を装い、資産家が節税しているという指摘であるが、これは、ごくごく一部の例外を除き、まったくの思い違いであると断定して良い。なぜなら、第一に、資産家が節税する場合、複数の企業を設立、投資し、トントンの経営状態にするという、合法、安全かつ鉄板の方法が存在するためである。というより、この方法は、ゴールデンスタンダードである。嘘だ!と思う方は、景気の良い中小企業経営者の邸宅周りに、いったい何の会社だろう?と思うような企業名の看板が複数出ていないかどうか、確認されると良い。ほぼ必ず、場合によっては資産家の邸宅の表札とともに、それらの企業名が掲げられているはずである。税理士との密な付き合いが必要なほどに儲かっている企業の経営者ならば、この方法の最大の障害である税理士とのコンタクトという点をクリアしているはずである。第二に、資産家だけでなく、グルになっているとされる犯罪集団も、振り込め詐欺を演出するなどという、危険な橋を渡ることをしない。資産家は、数百万円程度の資産の保全のために、わざわざ弱みを見せるような形で、犯罪集団に接触を図るなどということはしない。もちろん、例外は存在しており、その例外とは、当初から犯罪集団と関係している場合である。このような例外的な場合には、万が一にであるが、そのようなことが行われる、かも知れない。しかし、そのような仕事を持ちかけられた犯罪集団は、まっとうな判断を下せる状態であれば、わざわざ警察の捜査を余分に受けるようなことをすることはしない。グルになって何かするにしても、ほかの方法を採用するはずである。暴力団の資金が海外のプライベート・バンクで貯蓄・運用されていたり、外国人犯罪集団の資金が地下銀行を通じて海外の家族の元に届けられて安全に運用されていることは、相当に有名な事実である。犯罪者にしても、海外のタックス・ヘイブン等において、合法的に資産を運用できるのであれば、それらの安全・確実な方法を採用するのである。合理性という主要概念は、振り込め詐欺や組織犯罪についての研究にも通用する一般化可能なものなのである。

 警察までを巻き込んだ形で、振り込め詐欺において、壮大な自作自演が進められているという可能性も、限りなく無理筋である。お金は、まったくの無からは生じない。何かの裏付けなりが必要である。振り込め詐欺という財産犯の被害金(原資)は、個人の財産である。企業資産に比べて保護の手厚い個人資産を、節税のために「警察まで巻き込んだ巨大振り込め詐欺虚構システム」に投入して、安全に口座から引き出すという過程には、三つの点で問題が生じる。第一に、関係者が多すぎて、正義感に由来する内部告発の阻止が困難である。第二に、このシステムの作動は、銀行等の金融機関関係者の反発を食らう。金融機関は、振り込め詐欺を防げないと、運用資金と評判の双方に悪影響を被る上、振り込め詐欺被害の抑止(今まさに行われようとするときの防止)が唯一可能な状態にあるプレイヤーでもある。思う存分妄想の翼を広げれば、警察OBの銀行顧問などが圧力を掛けて内部告発や反発を封じるという構図も湧いてくるが、この構図は、明らかに社会正義に反する状態である上、(こちらが何より重要だが、)関係者の大部分にとって一文の得にもならないものである。それどころか、システムが明るみに出され、落とし前を付けなければならなくなったとき、関係者の大多数が連座することになり、即実刑を食らう可能性さえ認められるものである。このような状況下で、関係者の誰もが沈黙するということは考えにくい。わが国においては、明らかに悪と見える行為を積極的に行うことに対しては、抵抗が強い。半面、制度の欠陥を放置するという不作為に対しては、相当に抵抗が弱い。この特性をふまえたとき、積極的な悪のシステムを公然と構築するようなことになる、「振り込め詐欺虚構システム」説は、まず間違いなく、筋の通らない話である。

 なお、上記引用は、東芝の不正会計事件と振り込め詐欺の年間被害額を比較しているが、これは、明らかな誤りである。東芝の第三者委員会は、次の表1の金額を修正するよう求めている※2。まず、第一に、振り込め詐欺の被害額は、これらの金額と比較されるべきである。

表1 東芝第三者委員会の指摘による過年度決算の修正金額
2008年度▲282
2009年度▲400
2010年度+84
2011年度▲312
2012年度▲858
2013年度▲54
2014年度(1-3Q累計)+304


※1 なので、私は、アイデアを借用した場合には、私自身が彼岸に到達してしまった人と思われる虞を冒してでも、その旨を示している。

※2 第三者委員会調査報告書の受領及び判明した過年度決算の修正における今後の当社の対応についてのお知らせ(2015年7月20日)
https://www.toshiba.co.jp/about/ir/jp/news/20150720_1.pdf



おまけ

 今現在の私個人には、東芝の不正会計事件(以下、本事件)を分析できるだけの知識や経験がないので、以下は、感想に過ぎない。

 本事件は、第三者委員会報告書にあるG案件のように、大型かつ長期の原子力発電関連プロジェクトが含まれており、福島第一原発事故と問題が一体化しているという構図がうかがえるものである。本事件は、その構図ゆえに、後世において、大きな批判を浴びるものとなるだろう。仮に、東芝が福島第一原発事故を機に脱原発産業へと歩を進めることができていれば、それが廃炉ビジネス分野であろうと、再生可能エネルギー分野であろうと、方針変更に伴う問題であったという点についてのみ、道義的責任を追求されることになったであろう。しかしながら、本事件は、原発推進を社是として突き進んだかのような図式を提示することになってしまっている。言い換えると、「原発推進を強行するあまりに行われた犯罪である」という非難が妥当するかのような外見となっているのである。(私も、ともすればそのようなステレオタイプで本事件をとらえてしまいそうになる。)探せば、このような形式での非難は、たちどころに見つけることができるであろう。この点で、東芝の経営陣は、二重に失策を犯したことになる。

 なお、私は、日本人が非競争的分野である原子力発電産業をなおも推進することに反対する。なぜなら、責任を取ることのできない経営者層に、国を傾かせるレベルの影響を生じさせる経営判断を強いることになるためである。無限責任を取ることのできる経営者が現在のわが国には絶無である、と私は思う。ポツダム宣言受諾に臨んでさえ、無限責任を有するはずの多数の人物のうち、その結果にふさわしい進退のあり方を見せた者は、きわめて少数派であった。一千万人単位の犠牲者を生じうる原子力事故の責任を取ることのできる人物を大企業の経営者という小集団から見出すことは、不可能である。東京電力の管理職の職にあり、その(結果)責任に対して、日本人がふさわしいと考える最期を(結果として)遂げた(果たしている)人物は、現時点では、元所長の吉田昌郎氏だけであろう。(辛辣な表現になるが、仮にいたとすれば、大々的なマスコミ報道のレールに乗せられないはずがなかろう。)

東芝「粉飾」決算問題が浮き彫りにした 大手マスコミの「粉飾」体質 『週刊現代』「官々愕々」より | 古賀茂明「日本再生に挑む」 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44421


 古賀茂明氏は、「歴代経営陣の刑事責任についても、元検察の弁護士のコメントなどを使って、今回の事件では「責任を追及するのは難しい」という相場観作りまでしている」とマスコミ報道を批判している。


山村尚志・小寺功朗「社会動向 先行する米国の状況と日本の動き」『東芝ソリューション テクニカルニュース』2006年夏季号
http://efm.toshiba.co.jp/tech/technews/vol6/pdf/tsoltn200607_trend01.pdf

 山村尚志氏と小寺功朗氏は、SOX法(上場企業会計改革および投資家保護法)についての米国の最新状況と、日本版SOX法の動向を紹介している。日本版SOX法(#金融商品取引法の規定ならびにその実施基準)では、内部統制が確保されやすいよう「トップダウン型リスクアプローチ」を採用していると説明している。


芳澤光政, (2009). 「巻頭言 企業の責任とコンプライアンス」, 『東芝ソリューション テクニカルニュース』, 2009年秋季号, p.1.
http://efm.toshiba.co.jp/tech/technews/vol19/pdf/tsoltn200910_top01.pdf

 東芝ソリューション株式会社金融ソリューション事業部長の芳澤光政氏は、福沢諭吉『学問のすすめ』を引用し「法の本質を軽視する事件が後を絶」たない中、同社では、コンプライアンスを満たすだけに留まらず、CSRまで射程に含めた独自のソリューションを用意してきたという。

読売新聞TPP報道(2015年10月23日)と野球賭博(メモ)

 読売新聞の本日1面は、TPP推しの読売新聞らしく、「TPP 門戸解放へルール 食の安全 自国基準維持」※1である。22日に政府が「ルール分野」の詳細を公表したことを受けての記事という。条文案が公開されないままでは、繰り返しになるが、正確な理解には役立たない。しかし、少なくとも、多くの国民が何に興味を向けられているか、マスコミ報道(やインタビュイー)が明確な嘘を吐いていないかどうかを確認する上で、マスコミ報道は役に立つ。

※1 紙媒体に近い記事は、以下のものだろう。
人材やサービスの行き来も活発に…TPP : 経済 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20151022-OYT1T50137.html

 今回の読売記事では、見出しのとおり、TPPによって、食の安全に係る基準が緩められるということはない、と報道している。GM食品が無表記で流通するといった、一般に懸念されている事態が起こることはないとは政府関係者が発言したわけである。しかし、その発言は、特別な流通経路に拠らずには安全な食品を入手できないという現状を前提としたものである。実際のところ、現状の食の安全に係る法制は、違反に対する運用が甘く、原産地表記についても規制が不十分である。このため、普通の食料品店で買物するときには、消費者は、材料や産地の表記等から、流通する食品の安全性を確認できないのである※2

※2 これを疑う者は、自分で料理の材料を購入するときに、吟味してみれば良い。ガバガバな表現だが、おおむね私の言明が正しいことが分かるだろう。

 読売新聞は、熊本県知事の蒲島郁夫氏が下記見出しのように述べたと報道しているが、蒲島氏の懸念は、現実のものである。この状態をひとつの地方が乗り越えるための方法は、産直という流通ルートを充実させることくらいであろうか。安全に係る情報も流通ルートに乗せてプレミアムを付けるという方法は、たまにインターネット販売で食品を購入する私には、多少は現実的なものに思える。家族との兼ね合いがあり、なかなか難しいものであるが。

 いずれにしても、食の安全保障という観点からみれば、TPPは極端な状態を国民に強いるものである。自由主義経済下では、国民全員が飢えるということはないが、金がなければ食品を購入できないので、緊急時には、いわゆる99%の国民は飢えることになる。TPPの主要相手国である米国では、緊急時が常態化しており、フードスタンプ受給者が国民の数割に達する。政府は、わが国に対する外交上の恫喝手段として食糧が悪用されることのないよう、食糧の備蓄に加え、休耕田等を即時に再開できるようにするなどの計画の実装を、責任をもって進めるべきであろう。

「TPP影響 国難に近い」知事 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/local/kumamoto/news/20151021-OYTNT50063.html

10月14日(水曜日)宇城市における稼げる農業を語る会(宇城市) / ようこそ知事室 / 熊本県
http://www.pref.kumamoto.jp/chiji/kiji_13211.html

 閑話休題。
 ところで、読売巨人軍の3選手の野球賭博行為が発覚したことが野球界では問題視されているようだが、私としては、本件自体をこれ以上騒ぎ立てることは必要ないと考える。社会的制裁が加えられることでもあるし、おそらく、刑事罰・行政罰も受けることになるであろうからである。実際に、読売グループに対する敵意等から批判がなされているようであるが、このような批判は、社会の注目をより重要な問題から逸らすものとなる。社会的な議論が必要なのは、ブックメイキングの法制化(断じて非犯罪化ではない!)である。

 カジノ法制化については、カジノ議連などもあり、木曽崇氏のように社会的に認知されている論者もおり、少なくとも社会の一部が意識して枠組づくりを進めている。ブックメイキングはそうではない。以下の表は、私が手習いのために、下記ウェブサイトから、ブックメイキングサイトがどの国の法制に従うのかを示した部分を確認したものである。英国のブックメイキング熱は、周知のものであるが、その影響がブックメイキングサービスの提供国にも表れているようである。TPP参加国のうち、カナダ・オーストラリアでは、ブックメイキングを許可している。

Find Bookmakers | Top 100 Bookmakers
http://www.top100bookmakers.com/find-bookmakers/

Alderneyオルダニー島(王室属領であるガーンジー代官管轄区の自治体)
Anjouanアンジュアン島(コモロ連合の構成体)
Antigua and Barbudaアンティグア・バーブーダ
Armeniaアルメニア共和国
Austriaオーストリア共和国
Belizeベリーズ
Costa Ricaコスタリカ共和国
Curacaoキュラソー島(オランダ王国、カリブ海)
Estoniaエストニア共和国
Gibraltarジブラルタル(スペイン)
Irelandアイルランド
Isle of Manマン島(王室属領)
Kahnawakeカナワク(カナダの先住民保留地)
Maltaマルタ共和国
Northern Territoryノーザンテリトリー(オーストラリア連邦の準州)
Panamaパナマ共和国
Philippinesフィリピン共和国
United Kingdomグレートブリテン及び北アイルランド連合王国


 国際的企業にとっては、インターネットを通じて、これらの地域でブックメイキングサービスを提供することは容易であろう。これを国内法でどのように整理を付けるのだろうか。私が口出しすることではないが、その検討作業は、遅々として進んでいないように見える。

平成27年10月31日23時追記

津田岳宏, (2010). 『賭けマージャンはいくらから捕まるのか? 賭博罪から見えてくる法の考え方と問題点』, 遊タイム出版. も、英国公文書館の報告書HO 335 - Royal Commission on Betting, Lotteries and Gaming: Evidence and Papersについて、谷岡一郎(1996)『ギャンブルフィーバー』や小林章夫(1995)『賭けとイギリス人』から引用する形で言及している。ここから、どのように他国に参照され、法制が波及していったのか。アルメニア、オーストリア、コスタリカ、ジブラルタル、カナワク、ノーザンテリトリー、フィリピンがポイントか。特に、カナワク、ノーザンテリトリー、フィリピンは優先して確認すべきだろう。

Report (Cmd.8190) Mar 1951 | The National Archives
http://discovery.nationalarchives.gov.uk/details/r/C1441408

2015年10月22日木曜日

沖縄県における地方紙の県民世論調査(感想文)


 沖縄タイムスと琉球放送の県民世論調査は、翁長知事の取消を強く支持するものであるという※1。このようなマスメディアによる調査結果に接したときは、「調査機関への好悪」が「調査対象者の態度」に影響していないかどうか(系統誤差の有無)を確認する必要がある。地方紙のシェアについてのFACTA Onlineの記事では、2007年の時点で、沖縄タイムズは、発行部数が公称206,845部、県民世帯のシェア41.3%になるらしい※2。琉球新報は、201,929部で38.6%※2。主要紙5紙の発行部数及びシェアは、沖縄県では著しく低い※2。琉球新報も、類似の調査を今年(平成27年)6月に実施しており、おおむね似たような結果を得ている※3
 以上を合わせると、沖縄県民の(米軍)基地への反対姿勢は、総じて明確である。

※1 辺野古承認取り消し、支持79% タイムス・RBC世論調査 2015年10月20日09:00
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=137794
 沖縄タイムスと琉球放送(RBC)は、翁長雄志知事が名護市辺野古の新基地建設に伴う沿岸部の埋め立て承認を取り消したことを受け、16~18日の3日間、電話による緊急世論調査を合同で実施した。知事の取り消し判断を「支持する」と答えた人が79・3%に上り、....

※2 朝毎読日経 VS 地方紙のシェア争い独占入手 都道府県別発行部数一覧 2007年7月号 DEEP(FACTA Online)
http://facta.co.jp/article/200707008.html

※3 「辺野古取り消し」77% 県内移設反対83% 世論調査 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-243697.html



 蛇足となるが、沖縄県の新聞のシェアを調べようとしたところ、Google検索結果では、『ガベージニュース』※4が首位となったが、この記事は、明らかに素人の手になるものである。まず、沖縄県における全国紙のシェアは、元から微々たるものである。次に、発行部数が増加しているとしても、その程度は、(何に基準を置くかにもよるが、)沖縄県民の新聞購読傾向の変化を論じる上で無視して良いものである。

※4 沖縄以外のすべてでマイナス、関東・近畿圏で大幅減…全国紙の地域別世帯シェア動向(2015年前半期版) - ガベージニュース
http://www.garbagenews.net/archives/2141042.html

 誰でも情報発信できる時代になり、素人の手になる分析がGoogle検索の上位を占める時代となった。私見に過ぎないが、文章の品質は、その産出過程により出来具合が左右される。その順序は、

その道のプロと交流があり、自身の見識も深い人が十分な調査を行ったもの
 >>その道のプロからの耳学問だけを頼りに記したもの
    >いくつかの書籍を元にGoogle検索で補足したもの
      >2ちゃんねるの板に示された情報だけで構成されたもの

という形になろうか。TwitterやFacebookも使いようによっては、ツボを押さえた情報源となるであろうが、双方向性によって情報の集積を体系化された知識と変えることが前提であろう。ある知識の体系に過不足がないかどうかを調べるには、どうしても、双方向性が欠かせない。(ということを、私は常々痛感している。そうでなければ、どうしても、調べ物の負荷が高くなる。)
 今回の世論調査もそうであるが、地方の事情を論じる上では、地方紙の特性に目配りすることが欠かせない。私の専門である犯罪予防分野では、実は、地方紙が一時期大きな影響力を発揮したことがある。現在では、犯罪予防分野に係る地方紙の特性あるいは影響は、それほどではないと考えて良いが、そこでの経験は、沖縄県の2地方紙の基地問題に対する影響力を考慮する際にも、応用できるものである。

2015年10月21日水曜日

玄海原発の廃炉計画について(メモ)

◆2015/10/19(月)薩摩・鹿児島の諸君:安心したまえ!(飯山一郎のLittleHP
http://grnba.com/iiyama/#ss10191

玄海1号機廃炉、基本工程決定…4段階で30年 : 科学・IT : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/science/20151018-OYT1T50028.html

 上記リンク2つを重ねて見てみると、飯山一郎氏の見立ての信憑性が増すような気がします。飯山一郎氏は、川内原発のみについて言及していますが、福島第一原発事故の影響を受けて、九州電力の管轄下のもう一つの原発である玄海原発では、廃炉作業が進められることになります。他方、福島第一原発事故があったにもかかわらず、川内原発では、「再稼働」が進められたというわけです。玄海原発についての言及はありませんが、(川内原発に対する)飯山氏の説明は、この矛盾するかのような動きに対しても適用可能なものです。


 最近の、廃炉を強く主張する論者の筆頭に、小泉純一郎氏を挙げることができると思います。熊本が地盤の細川護煕氏と組んで、先の東京都知事選で強く脱原発を主張したことが思い起こされます。小泉氏は、鹿児島(薩摩)に地縁があります。英国留学の経験もあるそうです。維新期、薩摩藩が英国に留学生を送り、それ以来、学問を通じた縁も形成されているという事実があります。

 また、小泉氏は、フィンランドのオンカロなどを視察して、最終廃棄物処理場の問題を訴えています。その主張と必ずしも直接関連しないかもしれませんが、論理詰めでいけば、国際社会は、ウラン鉱石が枯渇した後には廃炉作業が必要となるという、共通認識を有していると思います。

 以上は、ウェブ上で広く知られている事実に基づき、私が組み立てた想像ですが、それなりに筋が通るものであることは、この辺境のブログにまで行き着いた読者諸賢であれば、当然のことであるとは思います。

2015年10月20日火曜日

五歳年齢階級別自殺率の推移

図1 五歳年齢階級別自殺率(千人当たり年間自殺者数、当月以後12ヶ月の確定数)
図1は、五歳年齢階級別(0~4歳、5~9歳は除く、10~14歳、....、75歳以上の14階級)に、自殺率(千人当たり年間自殺者数)を求めたものである。当月以後12ヶ月の確定数を利用している。3.11以後、どの年齢階級においても、自殺率が減少する時期がある。大きな流れで言えば、それ以後も減少傾向にあると言いうるが、平成26年以後、増加に転じているようである。テクニカルに増加しているか否かを検証することは簡単であるが、それよりも、私の個人的な関心は、なぜ増加し始めたのかにある。病苦から自殺を選択した人たちが増加している虞がある、というのが私の最も心配することである。
 図2は、平成21年1~12月の五歳年齢階級別の自殺率を1として、指数を示したものである。10~14歳の自殺率が急激に増加していることを読み取ることができる。注意すべきは、ある年齢層にさしかかったコホート※1の悩みは多少共通するであろうが、5年後には、ある年齢階級に属するコホートは、1階級上のコホートに移動することである。それゆえ、10~14歳階級における急激な自殺率の増加は、近年10~14歳に属するに至ったコホートに特有の構造が隠れているのか、または、社会全体において何らかの構造の変化が生じているのか、いずれであるのか、判然としない。犯罪学においては、松本良夫氏ら科学警察研究所のグループによるコホート別の少年犯罪率についての研究がある※2が、それと同じ種類の問題が自殺についても該当するということである。

※1 たとえば、私は、昭和50~54年生まれコホートに属する。
※2 余計にマイナーな事例になったかもしれない。比較的最近のものとして、岡邊健氏ら同研究所における後継的な位置づけの研究がある

図2 五歳年齢階級別自殺率(千人当たり年間自殺者数、当月以後12ヶ月の確定数、平成21年1~12月=1.0の指数)


 なお、わが国の人口減少は、常識の部類かも知れないが、少子多死、つまり、死亡者数の増加と出生者数の減少が同時に生じているためである。出生をモデル化する作業は、私の専門外であり、桁についての感覚などがなく※3、現在、グラフを掲載した死亡者数の推移に比べて、セルフチェック機能が働かないために、公表することは差し控えたい。

※3 社人研報告に従い、死者数についてブートストラップ推定することは、別途、実行してみたことがある。しかし、出生者数をMCMCで推定する方法は、まだ実行してみてはいない。丁寧な作業を心がけるなら、出生者数の推定の方が試みるべきことが多い気がする。

2015年10月19日月曜日

TPP締結により、わいせつ物と賭博は自由化の対象となるだろう

内閣官房TPP政府対策本部, (平成27年10月5日).『環太平洋パートナーシップ協定(TPP協定)の概要』.(151005_tpp_gaiyou.pdf)
http://www.cas.go.jp/jp/tpp/pdf/2015/10/151005_tpp_gaiyou.pdf

第10章.国境を越えるサービスの貿易
日本は、社会事業サービス(保健、社会保障、社会保険等)、政府財産、公営競技等、放送業、初等及び中等教育、エネルギー産業、領海等における漁業、警備業、土地取引等について包括的な留保を行っている。(p.21)
第10章には、2点の項目が挙げられており、いずれも大変に重要な概念である。

ネガティブ・リスト方式 「包括的な留保」の対象としない分野をすべて自由化の対象とすること
ラチェット条項 自由化の内容を後退させないこと

 これらの材料から、私が治安に多大な影響を与えると先の記事で指摘したもの(銃器、薬物、わいせつ物、賭博)のうち、わいせつ物と賭博については、自由化の対象となると考えても良い。もっとも、問題は、分野を明示する方法がいかなるものであるかという細部にかかっているが。たとえば、ここに示された表現だけでは、公営競技は対象とならずとも、インターネットを利用した賭博は、自由化の対象となるだろう。もっとも、わいせつ物、賭博については、ある意味、現状を追認するという形で落着するかもしれない。
 薬物についてさえ、自由化の影響を懸念する記事をネットで見かけた記憶がある(後ほど調べておく)。まず、薬物を合成・カスタマイズできる器械の販売は、おそらくTPPの締結と関係なしに規制できないであろう。また、3Dプリンタデータの販売で銃器についてのデータが問題になっているが、それよりは問題の性質が穏やかであるカスタムドラッグに係るデータは、加盟国のどこかで合法であるならば、認められるということになりそうである。

 それにしても、ラチェット条項は、多くのリーク等から知られていたことではあるが、上記の解説書に当たる文書には第10章に含まれるとしながら、下記二点の概要を示すという文書には、その記述が見られない。私なら、本文にアクセスできないまま、契約を締結することなど、怖くてできない。

環太平洋パートナーシップ協定の概要(暫定版)(仮訳)
http://www.cas.go.jp/jp/tpp/pdf/2015/10/151005_tpp_Summary.pdf

SUMMARY OF THE TRANS-PACIFIC PARTNERSHIP AGREEMENT
http://www.cas.go.jp/jp/tpp/pdf/2015/10/151005_tpp_Summary%28e%29.pdf

2015年10月18日日曜日

小熊英二・赤坂憲雄[編著], (2015). 『ゴーストタウンから死者は出ない 東北復興の経路依存』 , 人文書院.

#まとまっていないけれども、とりあえずアップすることにしました。

小熊英二・赤坂憲雄[編著], (2015). 『ゴーストタウンから死者は出ない 東北復興の経路依存』 , 人文書院.
 巻末の編著者らの対談で、「大きな変化のなかで、危機と前進が一緒に進んでいる」という小熊氏の理解が示されるが、本書は、この理解に立脚し、それまでの政策や社会の動きが東日本大震災からの復興を規定・制限する要因となっていると指摘するものである。この見立てを、俄仕立ての文献調査によりつつ提示できていることは、小熊氏の地頭の良さと経験を反映するものだと思う。ただ、小熊氏の「復興の経路依存性」という概念の弱点は、その概念の形成過程が、彼の研究スタイルである「(主流の商業)出版業界の経路依存性」に規定されていることである。特に残念なことは、阪神・淡路大震災以後の比較的小規模な震災における復興政策の成功体験が、端的には、2004年10月の新潟県中越地震からの復興政策が比較的成功したものと見なされてきたという経路を見逃していることである。この見逃しは、小熊氏が「防災対策」を概観する上で、永松伸吾, (2008).『減災政策論入門』, 弘文堂.を参照したと述べていることにおそらく起因する。小熊氏は、新潟県中越地震に対する復興政策について、産業構造の歪みをもたらしたものとして批判するに留まる(pp.44-45)。
 また、福島原発事故が国を滅ぼす程度に深刻であるという危機管理上の認識は、良くとも編著者らの焦点から外れたものである。編著者らの物の見方は、東北復興に係る論壇の経路依存性に規定されて形成されたものである。編著者らの思索は、現在の主流の商業出版の上に構築された堅実なものであり、この点、本書は、彼らの研究者や当事者としての誠実な努力を反映するものである。しかしながら、同書は、あえて思索の幅を最大限に拡張する努力を行わずに執筆されたものであり、より大きな変化を見逃している可能性を捨てきれない。それは、福島原発事故により、わが国が現代の西側諸国で急激に没落する初の事例となるという可能性、ハードランディングシナリオである。著者の多くは、40代前半以下であり、現在進行中である事故の多様な側面に翻弄され、多数のステークホルダーの多様な意志に配意できていない。この目配りの範囲の狭さは、本書の題名から予想される内容の幅を抱え込めていないという弱点に至る経路となっている。小熊氏らの主張は、結果として、誤解を与える中間的評価を、東日本大震災に対して下してしまっている危険性がある。小熊氏は、2007年の柏崎刈谷原発の被害についても、単に教訓が意識化されなかったとだけ理解する(p.45)。「陰謀論」に詳しい面々なら、島津洋一氏の福島第一原発についての英語論文※1をご存じかも知れない。原子力発電業界には、業界として原発を推進せざるを得ない都合がある。しかしながら、日本の知性を代表するかのようにみなされている論者の議論の幅がこの程度であると、やはり、研究者の言説も経路依存であると判定せざるを得ない。また、このような「小さくまとまった」議論は、結果として、経路を強く規定する権力と化してしまう。

※1 Secret Weapons Program Inside Fukushima Nuclear Plant? | Global Research - Centre for Research on Globalization
http://www.globalresearch.ca/secret-weapons-program-inside-fukushima-nuclear-plant/24275

Conflicting Reports
    TEPCO, Japan’s nuclear power operator, initially reported three reactors were operating at the time of the March 11 Tohoku earthquake and tsunami. ...
    A fire ignited inside the damaged housing of the Unit 4 reactor, reportedly due to overheating of spent uranium fuel rods in a dry cooling pool. But the size of the fire indicates that this reactor was running hot for some purpose other than electricity generation. Its omission from the list of electricity-generating operations raises the question of whether Unit 4 was being used to enrich uranium, the first step of the process leading to extraction of weapons-grade fissionable material.


 除本理史氏の第六章「福島原発事故の賠償をどう進めるか」では、原賠法に基づき東京電力が最低限の目安に基づく賠償額を提示するというスタイルが、加害者の立場を被害者に押しつけるものであり、容認できないとする意見が示される。この理解は、「消費者主義」を彷彿とさせるものである。(私自身がこの思想についての十分な目配りができていないこともあり、的確な理解とならないかもしれない。どうしても題名を思い出せないのだが、当時、併せて読んでいた書籍のいずれかでも、利用者目線、被害者重視を主張する議論が展開されていたはずである。)
 なお、除本氏の議論にも欠点がないわけではなく、前述した危機への査定が甘いことは、同書に共通した弱点となっている。避難指示区域外では賠償がほとんどなく、生業訴訟が提起されていることが説明されるが、この点への着目は、「食べて応援」キャンペーンへの結果についての定性的な理解が不足しているためか、被害者が加害者となりうる現在の第一次産業政策の危険性には配意できたものとはなっていない。

2015年10月17日土曜日

宮元健次, (2001). 『江戸の陰陽師 天海のランドスケープデザイン』, 人文書院.

宮元健次, (2001). 『江戸の陰陽師 天海のランドスケープデザイン』, 人文書院.

 あえてアマゾン風に星を付けるなら、★★★★★、星5つである。

 本書では、天海の都市計画がいずれも江戸幕府の興隆を持続させ、天皇家の影響を減じるべく慎重に計算されたものであったことが、著者の明快な説明によって示される。
 序章では、天台宗の学僧から幕府の宗教的ブレーンに取り立てられたという「納豆坊主」天海の生涯と、その人物像が簡潔に描かれる。第一章では、風水における基本、四神相応(p.35図)と鬼門・裏鬼門(p.44図)の説明とともに、江戸の置かれた環境との対応関係が説明される。第二章では、後水尾院と智仁天皇の離宮が京都の鬼門・裏鬼門に配置された理由が説明される。第三章では、平将門の鎮魂とその助力を企図して将門公の遺構が「の」の字型に発達した堀と街道筋と関連付けられて配置されたことが提示される。第四章では、幕府を守護する神として家康公を復活させるという目的に沿うよう、東照宮が江戸の北辰に配置、改築されたことが説明される。終章では、ごく短く、寛永寺の戦いを経て、天海により設計された江戸の結界が明治維新時に破壊されたと結ばれる。
 このほか、田村麻呂が東北遠征時に建立した7つの神社の配置図(p.50)、天皇家ゆかりの神社と山岳との関係図(pp.186-189)など、本書には、この方面に興味を持つ者なら必見の図が多く収録されている。 ただ一点、苦言するならば、ローマが7つの丘の下に建設されたという事実を、江戸と類似したものとして見る(p.40)ことは、牽強付会であると思う。ローマという都市の配置が軍事上の選択肢としてあり得ないと考えた当時の軍事関係者が多かったこと、そのことがローマ帝国へと至る軍事的拡張主義を育んだとする現在の有力説は、十分な説得力を持つためである。ただし、この一事は、本書の価値を些かでも減じるものではない。



 蛇足だが、宮元氏の前書『江戸の都市計画』(1996)は、おおむね『江戸の陰陽師』と同様の構成で記されているが、その前書によれば、「の」の字型に堀を配する都市計画という考えは、内藤昌,(1967). 『江戸と江戸城』, 鹿島研究所出版会(SD選書).で提示された考えであるという。この方法は、次の5点で利点を有する(1996, pp.21-22, 一部文言改変)。
  1. 線形状に開発可能
  2. 騎馬戦主体の攻撃に強い
  3. 堀による延焼防止(#おそらく街道や広小路も堀に合わせて配置されたのでは)
  4. 水路が建設物資の運搬路に
  5. 浚渫から生じた土砂の再利用
 また、江戸の都市デザインにあたっては、陰陽師の土御門家・賀茂家、「黒衣の宰相」と呼ばれた臨済宗の僧の金地院崇伝、鋳物師大工の中井正清らが協力したものと見ている(1996, pp.90-96)。
 さらに、江戸が7つの台地に囲まれた「仙掌格」であることをローマと類似すると指摘したのは、武光誠,(1991). 『呪術が動かした日本史』, ネスコ.であるようだ(1996, p.109)。
 ほか、田村麻呂の7つの神社についてもより詳しい説明がある(1996, pp.132-136)。

海老名市立中央図書館について

日本人は本を読んで楽しむことに不寛容? - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/886433

 ここに出てくる中村甄ノ丞あるある早くいいたい(@ms06r1a)氏の一連のツイートは、いわゆるTSUTAYA図書館を念頭に置いてのものだと思う。私は、かつて綾瀬市民だったが、神奈川県の県央地域で相互利用が可能だったので、最も徒歩での利便性の高い海老名市立中央図書館を利用していた。それが話題のTSUTAYA図書館になろうとしている。利用していた時期から十年一日の感があり、感慨深いことだ。
 海老名市立中央図書館を利用していたことのある個人としては、二点指摘しておきたいことがある。
 第一に、わが国では、明らかに都市計画が失敗しているので、最寄りの図書館よりも交通経路にほど近い図書館の方が利用しやすいということが往々にしてあるが、そうしたときに、スターバックスコーヒーで一息付けるのはありがたい、なんてことは、あるのである。何せ、小田急線の海老名駅の改札から500m歩く。過去のイメージが強すぎるので、私の中では、図書館の隣は田んぼと駐車場だ。小田急線の反対側には、随分と一棟建てのマンションが林立するようになったが、まあそういう場所だ。公園を抱え込むように建設された再開発複合施設のビナ・ウォークは、駅の正反対の方向だ。ちなみに、公園の中の塔は、国分寺である。私は、小学生のときに学校で教えてもらった。
 第二に、下記ナムラー氏のブログ(#政治的配慮から、あえてナムラー氏と呼ぶ。)にある、一万冊の新規購入書籍の大半が新古本、廃刊本であるという指摘が事実であれば、図書館経営とスタバ経営は、分離すべきである。スタバだけなら(ほかの商業建築からかなりの距離があるという前提があるので)歓迎である。しかし、本件が事実であれば、明らかに、関連企業からの書籍の恣意的な購入は企業犯罪であり、関与した企業や教育長の責任が問われる内容である。工業分野には、ほかに、購入すべき書籍や廃棄すべきでない書籍がある。中央図書館において工学・工業分野の書籍を多めに利用していたことのある個人として、そのように指摘しておく。(#まず、そのような人物はいないだろうが、どんな書籍?などと質問してこないように。藪をつついて何とやらである。)

海老名市立ツタヤ図書館、驚愕の実態 - ナムラーのブログ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/knamuro1941/14383517.html

平成27年10月30日追記

一部表現を追記した。別記事(リンク)に推移を記した。

『クリティカル・パス』『ショック・ドクトリン』『ルポ・貧困大国アメリカ』

#以下、試験代わりに、記憶の残滓で記します。 人名については、正解を確認していますが、誤りがあれば、大変申し訳ありません。 読みたくなるような書評になっていない点についても、すみません。

 バックミンスター・フラー氏の『クリティカル・パス』は、(人付き合いの悪い私にはえらく珍しく、)旧い友人※1と後輩の2名から、まったく別個に推薦されたという経歴を持つ書籍である。ローマ・クラブによる『成長の限界』に対する一賢人の洞察である。本書の射程は、広範囲に及ぶ上に、当時の状況について、(高校教育課程に必要とされていない)追加的な理解も必要とする。若年者であれば、最後に読む方が良いかもしれない。ただ、私は、フラー氏の洞察がいかなる背景を持つものかを得心するほどには、本書を読み込んでいないので、本書についての理解は、人(の読書体験等)によって、大きく変わるものかも知れないということをあらかじめ注意しておく。

※1 正確にはフラー氏のデザインの一部から転じたフラーレン構造について教えてもらったと言った方が良いかもしれない。

 ナオミ・クライン氏の『ショック・ドクトリン』は、拷問や軍事力による恐怖から生じた社会の「空白(の石板)」(タブラ・ラサ)に、ミルトン・フリードマン氏の自由主義的経済理論を適用するという動きがアメリカにより各国に輸出されていることを指摘し、これを「惨事便乗型資本主義」と読んだ。その結果、富裕層と貧困層とが分断され、後者に対する搾取と抑圧が常態と化した。もっとも、今現在、南米諸国を始めとする諸国では、その苦い教訓を経て、社会が二分された状態からの脱却、つまり社会主義的民主主義への回帰が図られつつあるとされる(原著は、2007年)。クライン氏は、惨事便乗型資本主義の手口を知ることが、そのハードランディング型の制圧を防ぐことにつながると指摘している。

 堤未果氏の『ルポ・貧困大国アメリカ』は、『ショック・ドクトリン』の前景を描くものとして位置づけられる。同書は、アメリカ合衆国の貧困を現象面から切り込むものであるが、『ショック・ドクトリン』の前後に執筆が進められたもののようであるだけに、住み分けが不十分なことが悔やまれる内容である。もっとも、日本語でいち早く類似の内容を紹介した、という前向きな理解を与えることも可能かも知れない。なお、同書の理論面は、明確な記述があったとは記憶してはいないが、アントニオ・ネグリ氏とマイケル・ハート氏の「帝国」概念に根差すものであるように感じられる。

 ところで、陰謀論界隈は、「ショック・ドクトリン」が人口削減計画という主目的の下に実行されてきたかのように理解してきた。トマス・ロバート・マルサスやローマ・クラブのような当代の碩学による警告は、抑圧的な二極構造による人口調整が必要であるという結論として受け止められたのだというのである。とすると、フラー氏は、別のパスが解として存在しうることを示したと理解することもできる。もっとも、ハンス・ロスリン(Hans Rosling)氏の魅力的なプレゼンテーションは、暴力的なハードランディングではなく、ソフトランディング、持続可能な社会が可能であることを示唆するものである。

BBC Two - This World, Don't Panic - The Truth About Population
http://www.bbc.co.uk/programmes/b03h8r1j

ツイッターから社会の変化を読み取るための条件

 来るべき日本社会のハードランディングを防ぐにあたり、本来、マスメディアが社会の木鐸となるところ、現時点のわが国では、この点を期待することはできない※1。他方、インターネットやSNSは、わが国においても、情報を市民が共有することのできるツールとなると一部に期待されてきた。しかし、クリフォード・ストール氏の『インターネットはからっぽの洞窟』が指摘したように、流通する情報量が急激に増加しており、(私はそうだが、おそらく大多数の)ユーザは翻弄されている。また、イーライ・パリサー氏の『閉じこもるインターネット』により指摘されたことであるが、現在のインターネットやSNSは、高度に調整された「おすすめ機能」により分節化され(segmented)運用されており、ユーザがいったん現在の情報環境に安住してしまうと、別の観点を取り入れることが大変困難なものとなる※2

 ところで、社会の変化を把握するための方法として、ツイッターで#人倒線というタグを付けているユーザがいる※3。正確な方法は知らないが、「人 倒 site:twitter.com」などでGoogle検索しているように思われる。これは、いちユーザとして取りうる手法としては、なかなかアイデアにあふれた方法であると言って良い。しかしながら、ツイートをもれなく正確に調べるためには、FirehoseというBtoB用のAPIを利用するしかなく、それ以外の方法で取りこぼしや統計的手法を用いた場合の推定値の偏りをなくすことは、まず無理である。

 APIを利用できる立場にない者がタグを用いて正確度の高い分析を行うことができるようになるには、事故以前からのユーザによる目撃証言が常にタグを付され発信されている、という前提が満たされていなければならない。それ以外の方法により、ツイート数の月間集計値の推移を収集したとしても、それらの値は、二つの点で問題含みである。第一に、その推定値は、常に過小推定である。第二に、これがより重要で解決困難な問題であるのだが、バイアスの程度が時期により異なるという点を否定できない。このため、記述統計的手法によりつつ、鉄道トラブルが急病人の増加を反映していると主張することは、方法論上は、誤りを承知で行われるべきものである※4

 別のデータによる方法として、日々提供される鉄道運行情報を利用するというものが考えられる※5。私の知る限りでは、東京メトロは、一歩先行しており、オープンデータを利用したコンテストを開催してもいる。ただし、資料による限りでは、日々、データを蓄積しているか否かは、特に示されていない。また、その点は、平成27年10月17日現在、確認していない。


※1 マスメディアの話題選択が焼き畑農業的であると言われて久しい。社会の動きに対する嗅覚、正統な批評精神、キュレーションのセンスが良質なマスメディアには要求されるが、産業保護主義(=クロスオーナーシップ、再販制度、電波法の運用等)と刹那主義(=焼き畑農業)を旨として、母語としての日本語と記者クラブ制度から情報流通経路の限定性の利益を享受する現在のわが国のマスメディアの構造は、たとえ良心的な組織人が過半数であったとしても、わが国のシステムと骨絡みとなっており、その改善は、大変に困難な課題と思われる。蛇足だが、わが国の課題は、たとえある組織が自己(についてのみ)変革を試みることが可能な状態となったとしても、システムと骨絡みであることが多いために、何ともならない、ということが大変に多いことである。法務大臣の指揮権と検察との関係を、その筆頭に挙げることができよう。

※2 虚仮の一心とは良く言ったもので、とりあえず被引用数の多い言説を冒頭に並び替えようというGoogle検索の核心は、このような、誤った「しろうと理論」(lay theory)の膨大な流布を可能とする。100万の誤ったページが1つの正確なページに優るという問題を、Google社がいかに乗り越えようとしているのか、この課題は、大変興味深いものである。

※3 一例としては、次のツイートなどを参照。
https://twitter.com/rtsu4rww4rfjwci/status/647367837607026688
https://twitter.com/serika0628/status/487952399097552897

※4 言い換えると、やるなとは言わないが、やるのであれば、色々とツッコまれることを覚悟でやるのが良い。一番良い反論は、現時点で一般人の採りうる最善の方法によるのであって、本来なら、国民(都道府県民や市町村民)の安全と健康と財産を守るのは、行政の仕事だろう?と切り返すことかもしれない。(一般人なら、それでも良いだろう。しょうがない。)正確には、分析の前提に「現時点で一般人に取り得る最善の方法であるので採用した」という主張を含めるべきかも知れない。それに対して、専門家から修正すべき点を具体的に助言された場合には、それには従うべきであろう。

※5 以下の資料が多少の参考になるかもしれない。

総務省|2020年に向けた社会全体のICT化推進に関する懇談会
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/kenkyu/2020_ict_kondankai/index.html
総務省|研究会等|2020年に向けた社会全体のICT化推進に関する懇談会 幹事会(第2回)配付資料
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/kenkyu/2020_ict_kondankai/02tsushin01_03000289.html
【資料2-8】 公共交通オープンデータ研究会の取組状況報告(公共交通オープンデータ研究会)PDF
http://www.soumu.go.jp/main_content/000339749.pdf

2015年10月15日木曜日

『レイルウェイ 運命の旅路』を観て(感想文)

 泰面鉄道建設に従事させられた英国兵捕虜のエリック・ロマックス氏を描いた※1『レイルウェイ 運命の旅路』を観ていて、日本は、基本的に国民しか資源がないにもかかわらず、個人を代替可能な存在とみる伝統があるのかな、と思った。無常観が底流にある限り、百姓には逃散という最終手段があり※2、キリシタン大名は女性を海外に売り、江戸は梅毒で若い働き手を減らしまくるも常に次男坊以下が送り込まれ、というように伝統は続く。第二次世界大戦時に大多数の日本人が(そして相手方も)国際法を無視し捕虜を虐待したのは、捕虜になることを潔しとせずという戦陣訓を過度に重視したことの裏返しであろう。資源が国民しかないわが国では、戦陣訓のような馬鹿げた心得を部下に説き、国民に自決を強制する一方で、本国の上司はのうのうと私腹を肥やす。これが、わが国の平常運転の姿なのだ。デービッド・アトキンソン氏自身が解説する小西美術工藝社の経営手法(『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』)は、その整然さが、ほんの少しだけ、会田雄次氏の『アーロン収容所』を連想させる。日本人による捕虜虐待は、まさに※3今現在の日本企業のスタンダードである使い捨て労働と、正社員に対する不当な優遇を彷彿とさせるために、目的を達成する上で必要な限りの合理性を追求する英国式経営が、対比として連想されてしまうのだ。
 憲兵で通訳の永瀬隆氏の青年期は、ロンドンをベースとされているという石田淡朗氏が演じており、壮年期は真田広之氏が演じているが、それぞれ、役に要求される繊細な感じが画面に出ている感じがとても良かった。(←月並みな表現で申し訳ありません。)ロンドンには3.11後、9千人以上が移住している。その中には、3.11の戦犯も含まれるのであろう。それらの戦犯が、自身らの子供たちと同様に、現地で、ほかの若者たちが飛躍できるよう支援するのであれば、後の世代が彼らを赦すことも、やがては可能になるのかもしれない。先の大戦についての書物を読めば読むほど、それは期待できないことのようであるけれど。

※1 これ以上書くと、ネタバレなので書きません。
※2 逃散した百姓がどのように扱われたのかについては、多少承知しているが、逃亡奴隷が容赦ない扱いを受けた他国・他の事例と比較すると、マシなのかもしれない。
※3 昨今の流行を真似てみた。本当に、現在のわが国の政府は、国民の虐殺が目的であるならば、まさに素晴らしい戦果を発揮している。

2015年10月14日水曜日

テロ対策特殊装備展2015について(感想文)


ビッグサイト遠景

 差し障りのないと思われるレベルで、雑感を記すこととする。つまり、以下二つのリンクから閲覧可能な情報に限り、事実を記すこととする。それ以外は、私の感想に過ぎないので、その点を含まれたい。

セミナー・プレゼンテーション | テロ対策特殊装備展(SEECAT) <国内唯一のテロ対策専門展>
http://www.seecat.biz/seminar/

出展者検索・一覧 | テロ対策特殊装備展(SEECAT) <国内唯一のテロ対策専門展>
http://www.seecat.biz/search/

 外国の公的機関が主導するブースとしては、英国、イスラエル、米国のものが設けられていた。以前にも(数度)見学したことがあるのだが、各国ブースの雰囲気や熱心さは、前回から様子が変わるところはなかった。その活動のスタイルには、各国の特徴が表れているように思った。英国とイスラエルは、チームを組んで来ている一方で、米国企業は、日本にそれなりの規模の支社等を有することもあり、民間主導であった。ご説明いただいた企業の社員の方々の専門性には、バラツキがあるやも知れないという印象を受けた。各社のソリューションに向上の余地があることを示す傍証かも知れない。

 SEECAT内の参加企業は、カメラソリューションや各種装備を主軸とする中堅メーカーが多いように見受けられたが、通信インフラを基礎とするソリューションを提供する企業も見られた。SEECAT内には、危機管理産業展に競合他社のブースがある企業もいくつか見られた。両展示会は、研究者にとって、敷居の高さが格段に異なるので、各社の出展戦術が吉と出るか凶と出るかは、もしかすると、研究者の公正な評価がカギとなるかもしれない!そうなるべく、自身の専門性も向上させていきたいが、「研究者の...しれない!」というくだりは、冗談のつもりである。

 もったいないことがあるとすれば、それは、オリンピック開催に際しての心構え(スキーマ)や、幅広い視点の養成法こそ、上記の三か国から吸収できることであり、そのためにこそ、国や企業は多くの費用を支払っても良いにもかかわらず、その種の情報を交換する場として本展示会が使われていないように見えたことである。本展示会は、もちろん、民間同士の交流や官庁の公共調達のために欠かせない機会ではあるものの、それにプラスして、オリンピックに関与する民間の担当者が、意識を一段向上させるまたとない機会であるべきであろう。私は、会場を一巡してみて、安全の確保は官公庁の役割であり犯すべきでない縄張りであり、物資やサービスの調達だけが民間の役割であるかのような雰囲気を感じた。この印象が本当だとすれば、大変にもったいないことである。開催者と各国関係者がバックヤードで情報交換していることは、十分に予測されることではあるが、バックヤードに関与できる人材だけで十分な安全を担保することは、およそ不可能である。オリンピック待ったなしとなった2015年の時点において、ここ半年だけでも、至るところで公的機関あるいは、災害対策基本法に指定された指定公共機関において、多数のお粗末な事例が見られることは、本ブログにも記してきたとおりである。


 その点が端的に表れた事例が、イスラエル大使館によるセミナー「ドローンの探知と対策」であると、私は思う。同セミナーでは、民間人を含めた誰もが操縦可能なドローンという脅威が的確に分類され、対策が提示されたが、その内容は、公式の場における日本語の既出のものとは、比べようのないほど洗練され、簡潔で、分かりやすいものであった。その背後には、おそらく、わが国におけるドローン対策にかけられた労力の数十倍以上の労力がかけられ、(わが国の関係者よりも数段)高度な知性が関与したであろうと思われる。そして、現地情勢についての評価を含めるつもりは毛頭ないが、ドローンが(パレスチナ自治区との)壁や(他国との)国境を越える攻撃の手段として用いられはしまいかという切迫感と、そこから生じた覚悟こそが、イスラエルにおけるドローンの探知と対策に係る理解の枠組を飛躍させた原動力であろうと推測される。日本国内におけるドローンに係る議論が偏っており、足下にも及ばないということは、私にも明らかに分かることであった。

 最後に2点、落ち穂拾いと苦言を追記しておきたい。登録時に「学術研究機関」がない!というところにびっくりした。私の身分は、みなし公務員(の端くれ)なので、「国・自治体」を選択して登録したところ、あっさり認可された。この対応には、警察官僚たちの「研究者は皆サヨクか友達の友達は何とやらか」くらいの認識が透けて見える。いくら秘匿性が高くなる種類の産業であろうとも、的確な方法で透明性を確保できなければ、セキュリティ産業は、自らの基盤である社会からの信頼を蚕食することになる。何人かは研究者のファン?を確保できなければ、そしてその研究者も社会から信認を受け続けなければ、セキュリティ産業は、暴力団と社会的機能における境目を失いかねないのである。もう一点、危機管理産業展の登録作業では、「学生」というカテゴリがあったが、そのためか、なぜかテロ対策特殊装備展の職業欄でも「学生」というカテゴリが選択できるようになっていた。私には、このような作り込み状況を少々心配なものとして見てしまった。これらの社会的分類に係る理解の枠組の貧弱さは、「社会を構造化して理解する」能力を反映した結果である。そして、イスラエル国民の知性は、先に見たように、結果として、不確定要素の多い事象を相手とするセキュリティ産業の強さにも反映されているのだが、翻ってわが国はどうであろうか。問題を的確に把握しているのか。最高度の知性を結集したのか。全力を尽くしたのか。

『ウォーキング・デッド』シーズン6の世界観について(感想文)

『ウォーキング・デッド』(The Walking Dead)シーズン6がFox HDで始まった。18禁の内容で、わが国のテレビシリーズではあり得ないグロテスクさなので、良い子(の未成年)は観てはいけないのだが、ゾンビ学なんていうものもある昨今、流し見であっても、いろいろと示唆があることに気付かされる。陰謀論の世界では、Back to the Future第一作の9.11に対する警告が有名だが、多数の映画やゲームなどで、来たるべき災厄が繰り返し計画・警告されてきたという考え方が広く浸透している。ゾンビというシンボル界隈では、当初の歩くゾンビから、ゾンビ映画の第一人者であるジョージ・ロメロ監督の古典的名作をザック・スナイダー監督がリメイクした『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)により「走るゾンビ」が一般化された後、程なくして※1、ゾンビは、暴徒つまり人間であるという理解が一部に共有されるようになっている。

ゾンビ映画、いつしか全力疾走するヤツらが出てくるようになったのですが、... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1226776947

※1 正確なところでは、上記リンクが正しいのだけれども、時代の空気や出来事と合致したという点では、やはり『ドーン・オブ・ザ・デッド』を「走るゾンビ」を定着させた映画として扱うべきだと思う。2005年8月のハリケーン・カトリーナによる災害では、(全方位に不謹慎な表現であるが、)被災者をゾンビのごとく扱うという批判がなされる一方で、掠奪に走る被災者をゾンビと見る動きも生じた。そのような人災を生じさせないという観点から、『Zombie Squad』のような非営利組織が生まれてもいる。2009年には、一人称視点シューティングゲーム(FPS)の『レフト4デッド2』がリリースされているが、その舞台は、ハリケーン・カトリーナによる災害を想起させる。なお、このゲームは、前作からのリリース期間が短く、前作に対する十分なサポートを行っていないという批判が寄せられた結果、近年まで前作・本作ともに手厚いサポートがなされたことでも知られる。陰謀論者としては、ニューオリンズを彷彿とさせる舞台を見せたいがゆえに、サポートを急いだのでは、という見方も(与しないが)可能であるとも考える。

Zombie Squad | We Make Dead Things Deader
https://www.zombiehunters.org/

ゾンビと人との関係性に着目するという流れは、ゲーム業界では、多数のプレイヤーがサーバ上でプレイする『Dayz』にも引き継がれた(#私は、その中毒性を恐れるあまり、このゲームをプレイしておらず、動画を見るだけである)が、このゲーム上では、接近戦しかしないゾンビよりも、他プレイヤーが圧倒的な脅威となっているようである。オンラインRPGの黎明期より、モンスターの群れを他プレイヤーにぶつけて漁夫の利を得る(Monster Kill)という方法は知られていたが、ゾンビ物においても、この流れは確立されているのである。ともあれ、多くのゾンビを題材としたゲームでは、ゾンビよりも、むしろ人間が圧倒的に警戒すべき存在として描かれている。(もちろん、多くのゾンビ物映画においては、人間同士の諍いこそ、物語の流れを規定する要素である。)

オンラインゲーム上では、ゾンビという災害は、全プレイヤー間に協力を生じさせるものではない。むしろ、他人を食い物とする契機に多用される。しかし、現実の災害時には、被災者間に密な協力関係が生じることは、『災害ユートピア』が指摘したことである。本点に係る研究は、耳学問でしかないので、別途文献調査を必要とするのだが、私個人は、東日本大震災時、帰宅困難者として帰宅途中に、「集団下校」のような一種独特な社会関係が構成されたことを観察している。また、政府の自殺対策基本法が平成18年6月21日に公布、同年10月28日に施行されて以来、各年齢層の自殺率は減少傾向にはありつつも、東日本大震災以降に若年層の自殺率が大きく減少したことは、災害が生命の大切さを示すというパラドクスが成立しうる可能性を示唆するものであり、災害ユートピアの成立と方向性を同じくする現象であると思われる。

亜紀書房 - 亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ Ⅰ-7 災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか
http://www.akishobo.com/book/detail.html?id=467

『ウォーキング・デッド』シーズン6に戻ろう。15フィート×12フィートの鋼鉄板の壁で囲まれた高級郊外住宅地のアレクサンドリア(Alexandria)に招き入れられたリック・グリムス元副保安官ら生存者一行であるが、それまでの道のりの険しさから、容易に人を信用せず、壁の外の脅威に対する元からの居住者たちの生き方を甘いものと感じている。パンデミック時点からの居住者たちのリーダーであるディアナ・モンロー元上院議員は、リックらの腕と経験を信用し、様々な活動において一行のメンバーを重用してきた。今シリーズでも、ある重大な作戦についての決断をリックに委任するところから、話が始まる。

今作は、私には、空間の設定が隠喩のように思えてしまう。壁の内側が西洋文明社会であり、比較的安全だった周辺は、ある理由で安全だったことが分かる。そして...ということで、画面に映し出される地形などに多少は注意していて見ていたのだが、直接、特定の地域を想起させるようなところは見出せなかった。まあ、私はそこら辺のセンスが悪いので、ほかの人が何か見つけたかどうかを注意するようにしておきたい。

それにしても、何かを見つけるセンスといえば、良くもまあ、&TOKYOも調べるものだ、と感心する。

あと、蛇足なようで、かなり真面目な本筋の話なのだけれども、日本語メディアだと、『アイアムアヒーロー』のように、どうしても、突然変異種がギミックとして出てくるように思う。それはそれで日本の伝統芸能なので、創作活動としては理解はするのだけれども、現実の問題を想像する上での助けになりにくくなってしまうようにも思う。日本の文化では、ヤバイ事態をまじめに考えるということになると、外形的には、工作資金注入済みの「と学会」と同一視されてしまう事態が生じる。なので、どうしても、その種の活動を本気で試みること自体にブレーキがかかる仕組みとなっている。これは、案外、わが国における原発安全神話の構築とも連動しており、無視できない種類の脅威ではある。

そして、ゾンビのような目に見える事態の方が、放射能の脅威よりも、やはり、人は動きやすいのだろうか、という一言を付け加えることもしておきたい。私は、その点、すでに半ばゾンビである。




2017年9月9日訂正

事実関係に関する誤記などを訂正するとともに、brタグをpタグへと変更、リンクタグの位置を変更した。

2015年10月13日火曜日

厚生労働省職員のマイナンバー収賄容疑事件はわが国変革の足がかりとなるか

 本日(平成27年10月13日火曜日)の『朝日新聞』と『読売新聞』夕刊には、共通番号(マイナンバー)制度に係る認証システム関連の開発業務に関して、厚生労働省職員キャリアが随意契約落札企業に対して100万円を要求したという収賄容疑事件が1面で報道されています。日本経済新聞には、記事がありません。この点が面黒いです。大手町の一角では、誰かが、慌てて私用のスマホから売り注文を出していたりするのでしょうか。

 警視庁が逮捕したとのことで、先頃のビジネスジェットに係る国交省職員キャリアの収賄事件といい、グッドジョブだと思います。いずれの事件も、新聞報道による限りでは、逮捕された収賄側(の公務員)が役職に当然要求されるべき倫理を備えていなかったものであるように思われます。国家公務員職員キャリアが私益を追求する事例は、半ば公的なシステムと化している天下りを置いておくとしても、まだまだ水面下に存在することが示唆されます。有名どころでは、元キャリア・元首長による事後収賄行為も警視庁の管轄下で進みつつあるようですから、ぜひ、果敢に切り込んでほしいものと思います。
 ただ、どの企業のどの入札案件についてなのかを私自身が調べ切れていないので、事件全体の構図には、理解しがたい部分が残ります。贈賄側の企業は、時効により逮捕を免れたとされます。その企業の果たした役割が分からなければ、本事件の構図は、場合によっては転倒したものとなるかもしれません。報道にある以上の情報がなければ、企業が「はした金で邪魔者を排除した」というケースを除外できないからです。
 本事件については、分からないことが多いながらも、今回の逮捕を賞賛したいと思います。贈賄側企業が何かの陰謀を巡らせたかどうかに関係なく、国家公務員I種採用者たちがなすべき仕事をせず、守るべきを守らなければ、結局のところ、わが国の行く末は、誤ったものとなるからです。なお、本当にスマートな人ならば、本事件については、事件のおおよその輪郭がつかめるまでは、沈黙を守るのが賢い態度であるかと思います。わが国の制度の大半は、誰もがダーティにならざるを得ない硬直的なものです。こうした状況下では、オマエも同類だという批判を受けないよう、目立たないようにふるまうことが大人の処世術だということになります。「雉も鳴かずば打たれまい」という諺のとおりの世の中となってしまっているのです。(軽犯罪法を含めれば、過去数年間のうちに、一度も犯罪とされる行為に手を染めなかった人は、おそらくいないでしょう。)しかし、この国の行く末をハードランディングから救いたいという気概を持つ人には、もうそろそろ、自身のプリンシプルに基づいて、適切なアクションを起こすことが求められています。私の役目は、物事を正確に表現することに努めるというものですが、私の専門分野の対象となる社会は、発言により観察対象が変わるという特徴を有しています。再帰性を有しているのです。司法警察活動は、硬直的な刑法典と社会制度の下では、必然的に選択的な活動とならざるを得ません。一罰百戒で小物の微罪を狙うのも、巨悪を的にかけるのも、その選択結果までもが問われることになります。二件の現役行政職員キャリア組の収賄事件には、小物の微罪感が漂いますが、これが契機となって、企業犯罪を慎もうとする意識がエリート層に浸透するのであれば結果良し、ということだと思うのです。

平成27年10月14日21時10分修正 夜9時のNHK『ニュースウォッチ9』によると、どうやらII種らしいとのこと、ネットの一部に「異能のノンキャリ」という表現も。修正しました。正確な表現に努めるべきところ、官報等を確認するのを怠りました。
平成27年10月15日18時45分修正 また訂正です。上述の国交省職員の採用職種も分からないながら、おそらく旧II種であろうことから、訂正しました。官報等を確認するのを怠ったままです。以上、訂正してお詫びします。

2015年10月12日月曜日

人口動態統計(確報)による死亡率の推移

図1 年齢階級別12ヶ月間死亡率(全死因、平成21年1月~平成27年10月)

図2 年齢階級別12ヶ月間死亡率(全死因、平成21年1月=1とする指数)
平成21年1月(現在ウェブ上で入手可能なもののうち、最古のもの)から平成27年10月までに公表された月別の人口動態統計を利用し、五歳年齢階級別死亡率を主要な死因別に計算した。五歳年齢階級別死亡率は、次の計算式に基づき計算した。

 (五歳年齢階級別死亡率)=(当月以後12ヶ月間の原因別死者数)
                    ÷(当月より1ヶ月前の五歳年齢階級別推計人口:単位1000人)

 全死因による図1は、高齢者の死亡率の高さが顕著であるため、若年層の年齢階級についての変化がわかりにくい。図2は、平成21年1月~12月の死亡率を1とした、いわゆる指数である。東日本大震災直後の被害があり、徐々に死亡者が確認されたことから、各年齢層で平成23年の半ばまで死亡率が極端に高まった様子が読める。75歳以上の死亡率は2009年以後、少々高めで推移している。ほかに顕著な増加を見せる階級は、10~14歳階級である。図3が、同年齢階級についての原因別死亡率の推移である。悪性新生物(白血病を除く)と自殺による死亡率が増加している。

図3 10~14歳年齢階級主要死因別死亡率(計算方法は図1及び2に同じ)
原因別のグラフについては、人口動態統計に掲載されている分類をすべて用いているわけではないが、動向を把握するには十分と思われる。また、3.11による死亡のインパクトは、各年齢階級や原因別の死亡率について、見当をつける上で、多少の役に立つ。(#3.11の津波被害は、高齢者ほど被害が多めであった。)若年者の自殺は、どのような原因があるためなのか、大変気がかりである。われわれ大人たちが希望の持てる日本社会を作ることができていないという可能性も示唆される。

平成28年3月30日追記

上掲計算式の表記に誤りを発見したので、訂正してお詫びいたします。訂正内容は、上記のとおりです。当月ではなく前月分の推計人口を利用していました。また、これは誤りと言うより説明不足ですが、誤解を生じないように、人口推計の単位が1000人であることを明記しました。

ホールボディカウンタに係る報道に接して(感想文)

子どもの内部被ばくなしと発表 福島など2700人 - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/CN/201510/CN2015100801001587.html

 南相馬市立総合病院、ひらた中央病院、いわき泌尿器科の実施した検査という。内部被ばくがないというのは、にわかに信じがたいものがあった。関与した病院名から、おそらく、その筋で有名な坪倉正治氏が関与した調査ではないかと考え、Google様にお伺いを立ててみたらば、2ちゃんねる経由で次の記事が見つかった。この記事で、ようやく疑問がいろいろ解けたので、次にまとめておきたい。

子供2700人の内部被爆なし 福島など、病院グループ調査
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08HCL_Y5A001C1CR8000/

 記事には、次のようなくだりが含まれる。
 装置の検出限界値は50ベクレル。不検出だったことで、1年間の被曝量は16マイクロシーベルト以下と推計できる
検出限界が50ベクレルという低い値で抑えられていても、計測時間が短かったり、バックグラウンド値を高く設定したり、あるいは機器と被計測者との間に遮蔽物を置いたりすることにより、放射線が検出されにくいように調整することは可能である。これらのイカサマに近い手口を初めて指摘した者を調べることは大変であり、ここでは行う余裕がない。しかし、多くの人たちによって指摘されてきたことであるから、取り立てて私が初出を調べる手間を冒す必要はないだろう。
 私が指摘したいことは、ただ一点、わが国で統計を偽るようになったときは、すでに破局が見えているときである、ということである。昭和史に詳しい作家の保阪正康氏は、大本営発表について、「官僚の嘘」の典型例であり、次の段階を踏む展開を経たと述べている。(2009年の『官僚亡国』pp.23-24、初出は『文藝春秋』2008年11月号)
  1. 事実を伝える(戦果の上がっているときは頻繁に)
  2. 事実の表現を歪める
  3. 事実とは異なる表現に変わる(「撤退」を「転進」)
  4. まったくの虚偽のを情報を伝える
  5. 沈黙する
この保阪氏の図式を受け容れると、みなし公務員である東京大学教授を筆頭とする一部の研究グループがより多くの研究費を得るために、再現性のないデータに係る話題を報道機関に提供していくという行動が見られる現在は、虚偽の情報を伝えるという4段階目に至っていると推測しても支障ないだろう。(当該研究グループは、事故直後から問題含みの調査を進め続けてきている。しかし、結論ありきで計測を続けることにどのような目的があるのだろうか、裏帳簿のようなものがあるとして、それはどのようなところで共有されているのだろうか、ということを不思議に思う。)空間線量率が一年で数ミリシーベルトに達するとき、どうして埃も吸い込まず、許容範囲内で汚染された食品を摂取せずに済むのか。摂取してしまった放射性物質は、すべて体内から排出されたとでもいうのか。現在は、何らかの理由で少しでも問題のある数値が公表されると、今後の責任問題に発展する可能性が見込まれている時期である、というものが、最も通りの良い説明である。

 保阪氏は、佐藤優氏との対話もふまえ、「官僚は間違える」「(#公益や省益ではなく)個益を追及する」という前提に立ち、個別の事例について担当者の無能力や無責任を問うていくという、「冷めた官僚論」を築く必要がある、と指摘している(pp.38-40)。
 統計の操作が破局を目の前にした官僚の弥縫策の表れであるという主張も、すでに多くの人が指摘したことである。なので、ここには私のオリジナリティはほとんどない。私は、私なりに「枯れたアイデア」の変奏曲を演奏しているに過ぎない。しかしながら、なぜ、われわれは、この種の愚行を十分に防いでこれなかったのか、と考えることは、失敗の本質を突き止めるためにも必要なことである。また、その考察と、考察から得られた教訓の実践は、福島第一原発事故という新たな破局を経験し、かつ、その破局に責任を有する世代の責務でもある。

NHKクローズアップ現代(10月1日放送分)について

“世界一の鉄道”に何が ~多発する事件・トラブル~ - NHK クローズアップ現代
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3710_all.html

 上記リンクは、聞き書き(トランスクリプト)のサイトにつながります。
 番組に対して、ツイッターでは、そのような対策は現実的ではない、実務を知らない者の主張だという趣旨の反論が多く見られましたが、自殺等に対して、「列車を止めれば数千万円」のような記述が多く見られる一方で、数千万円に及ばない対策を怠ってきたことは、どのように解釈すれば良いのでしょうか。
 手の届くところに燃える物を置かない、というのは、放火対策の基本です。一坪数百万円以上の土地に多くの物体を置けないことはわかりますが、より目の細かな金網を使うですとか、とりあえず二重に金網を張り、手を出すことを難しくするということは可能だったはずです。30kmくらいだったかとアタリをつけて調べてみると、34.5kmということですから、全周に金網を張っても、数億円で済むわけです。実際のところ、ケーブルのつなぎ目など、手の届きそうなところだけでも被覆すれば、数百万円単位で済んだはずです。

山手線一周の時間と距離はコレ!実際に測ってきました!! | ALL You NeeD is InformaTion Blog
http://bibibits-of-knowledge.com/archives/2048.html

 すると、今回のJR東日本連続不審火事件が生じる前までに、JR東日本の防犯・テロ対策担当者は、その者に課せられた責任や与えられた報酬に対して、結果的にも、道義的にも、基本的な業務としても、十分な仕事をなしてきたとは評価できないことになります。反論があれば、どうぞお願いしたいところです。
 結果的、道義的、基本的、という表現の並びは、この順に業務内容の難易度が低くなるように並べたものです。結果責任は、背負うものが重大な役職に伴うものであって、通常は、政治家や大企業の経営陣など、多くの人々に対して責任を負うべき者しか負わなくとも良いものです。道義的な責任は、役職に付随する理想から生じるもので、倫理上こうすべきものです。道義的な責任を果たせなかったとしても、必ずしも非難の対象となるわけではありません。今回の事件は、責任者が当然なすべき業務を果たしていなかったために生じたもので、言い換えれば基本的な業務を果たしていなかったために生じたものですので、事件に対して、担当者は、責任を免れません。
 今回の事件にあたり、仮に、事件前に何らかの対策が施されていたとするならば、その対策が却って事件の深刻化を招いた可能性は、それなりに存在します。本事件は、慎重な捜査が必要とされる種類のテロ事件である疑いが未だにぬぐえないためです。架線に対する攻撃は、より深刻な被害と相当深刻な別の罪名とを招いた虞があります。しかしながら、JR東日本の防犯・テロ対策担当者は、無策ゆえに、安全というボールを容疑者の手に委ねるほかなかった訳でして、今回の被害が小さかった理由は、容疑者がより破壊的な行動に出なかったことのみに起因するのです。
 鉄道機関の安全性は、主として、運輸安全委員会以下の組織に委ねられています。主として、旧運輸省、現国土交通省の縄張りです。私は、鉄道行政からはまったくお声のかからない小物ですが、これだけは言えます。犯罪をいかに行おうかなどと物騒なことを常々考えることは、持続性・継続性はもちろん、悪い方面への才能を必要とする営みです。私は、悪い方面への才能はそれほどなさそうですが、それでも、まだ、一般の優秀な鉄道運輸関係の研究者に比べて、悪業へのセンスはあるように自負しています。鉄道研究者の誰か一人でも、現時点までの間に、ここで私の指摘したような、容疑者が罪名を考慮して手口を選択していた可能性を考慮したことがあったでしょうか。世の中は広いので、それこそ対外情報機関に採用されるような優秀な人材ならば、本事件に接して、このような可能性を検討したこととは思いますが、こと研究者に限定すれば、鉄道運輸関係の研究者として、ここまで思考を到達させた人はいないものと思います。悪行の研究は、それなりに専門性があるものなのです。

 さて、危機管理という観点からは、セキュリティ産業界の「手の者」が焼け太りを狙ってわざと事件を起こさせたというシナリオを考慮しておかなければなりません。しかし、今回に限って言えば、仮に、このシナリオが正しく、セキュリティ産業界により多くの経費を割かなければいけないとしても、それは、正当な経費です。経営陣の給与を削減した上で、セキュリティに費用をかけても良いくらいの話です。経営陣は、本当に東京オリンピックを実現したいと考えているのであれば、もっと費用をかけるべきことが山積しています。本件の責任を経営陣に負わせた上で、10円程度の運賃の値上げも、やむを得ないかもしれません。
 これ以上の専門的な知識は、本来、正当な対価や報酬(=私にとっては研究者としての身分を獲得できる程度の研究予算と研究上の成果)を得る確約を得た上であれば、提供したいと思います。とにかく、わが国は、防衛産業に対しても、セキュリティ産業に対しても、基礎的な研究・報道の予算が欠如しています。効率的な使用も課題ではありますが、問題としては副次的なものに過ぎません。この方面の実務レベルや流通する情報のレベルが低いのは、産業界が十分な研究等のコストをかけてこなかったことに原因がある、と私は考えています。防衛産業は、私の守備範囲外ではありますが、問題は、非核三原則や武器輸出三原則が問題になるとしても、防衛研究の目利きができる情報産業関係者(日本人の研究者や日本人のジャーナリスト)に乏しいこと、それらの関係者に社会が適切な報酬を用意してこなかったことなどにあります。「外国に売ることができないのなら、防衛装備品の価格が高くなるのは当然である。にもかかわらず、専守防衛のためにも、より高いレベルの防衛装備品が必要である」という、経済学上の基本に逆らうジレンマがある、という事実に対して、日本国民は、長らく無視してきたのだと思います。戦争をしないためには、戦争という(悪)手を取りうる諸外国に比べて、相当高度なレベルで、外交と戦争についての思考を深めなければならない、というジレンマも無視されてきたと思います。言葉に出さなければ問題が存在しないという言霊論の世界に、私たちは生きてきたのです。

2015年10月10日土曜日

元祖を主張するのは大変

https://www.google.co.jp/search?q=%22%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%84%22&hl=ja&source=lnt&tbs=cdr%3A1%2Ccd_min%3A%2Ccd_max%3A2006%2F12%2F31&tbm=

「"ポール・クレイグ・ロバーツ"」という検索語で2006年12月31日以前という条件を付して検索したところ、以下の4件が検索されました。いずれも、日付自体が大きく変更されるような修正を行っている形跡が見られないように思います。上記のGoogle検索結果は、何度か条件を変えてみた結果、ある程度安定的な結果として得たものですから、単なる予想ですが、これ以上は的確な結果を得ることはできないように思います。

外国へのアウトソーシングと雇用(2)
www.foreignaffairsj.co.jp/essay/200406/drezner_2.htm
2004/07/01

シリーズ米軍の危機:その1 総論 - JCA-NET
www.jca.apc.org/stopUSwar/Iraq/us_troops_crisis.htm
2005/01/16

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス - オーストリア学派の人たちが言っ ...
austrianeconomics.blog.fc2.com/blog-category-12.html
2001/02/01

イスラエル:暗黒の源流 ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム(1 ...
bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Vladimir_Jabotinsky1.html
2006/01/03

 ところで、これを調べたのは、有料メルマガの『カレイドスコープのメルマガ』第127号「■TPPはアジア版NATO=NWOグローバリズムのツール」(ダンディー・ハリマオ mag2 0001609520)に、「ポール・クレイグ・ロバーツを最初に紹介したのは当ブログです。」という記述が見られるからです。現在の『カレイドスコープ』のサイト自体は、2010年に開始されたと思しきものなので、随分と不遜な記述だなあと思った次第です。学術的な記述の訓練を受けた者なら、「自分が元祖」という発言が大変危険なものであるということを理解しているはずです。私は、ハリマオ氏が2010年以前に別サイトを運営していたかどうかまでは確認してはいませんが、学術的な訓練を受けているなら、その記述を引用しようとするはずです。
 なぜ、この種の主張をなすのが難しいのかという理由は、この種の主張がいわゆる「悪魔の証明」であることに帰すことができます。あること・ものが存在することは、その証拠を見せれば良いのです。しかし、あること・ものが存在しないことは、調べきることが大変難しいのです。ハリマオ氏は、カルト宗教等に深い造詣があり、その記述は、扱う題材を思えば、冷静なものに見えます。ですから、もしかすると、ハリマオ氏は、ここまでの私の指摘を重々承知の上で、筆を進めているのかもしれませんが、その点は、私にはあずかり知らぬことです。

 ハリマオ氏のメルマガは、ほかにはなかなか見られない種類の情報を提供するものです。私としては、その点を高く評価して購読しています。しかし、防災政策全般について、誤解に基づく批判が多い点は、読者の防災政策についての理解を(今まで以上に)歪める可能性が認められるために、改善して欲しいです。ハリマオ氏自身は、関係分野の研究者と連絡を取り合っているとしてはいるのですが、どうにも、その方のセンスまで疑いを入れかねないものになっています。一例として、小学校の耐震改修が急務だという話を聞いた話として挙げているのですが、小学生の一日の行動の比率を考えると、実は、住宅の耐震化こそがむしろ急務であることが分かるのです。阪神・淡路大震災の教訓の第一は、住宅の耐震性能の確保でした。陰謀論業界では、阪神・淡路大震災についても種々の噂がありますが、それらの説を考慮に入れても、時間を長く過ごす場所を安全にすることの大事さが良く分かるはずです。
 ハリマオ氏の防災政策に対する主張のおかしな点は、ほかにもいろいろあるのですが、それらについては、(池内了氏の提示した第三次)疑似科学と関連させる形で、別稿にて、後日考察したいと思います。

東大話法とその起源についてのまとめから生じた疑問(感想文)

東大話法の起源と「言霊」「言騙」の戦い - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/884494

安冨歩氏が指摘した「東大話法」という詭弁術について、shinshinohara(@ShinShinohara)氏が連ツイしている。東大話法は、大本営発表が起源であり、「アメリカに支配される構造の中で、詭弁を弄するものが出世するという日本政治・官僚構造が、育むことになった」と考察している。東大話法の話者の言葉は、「言霊」ならぬ「言騙」であるとも批判する。

杉山真大(@mtcedar1972)氏は、コメント欄で、「言霊」と「言騙」の対概念が丸山眞男氏の日本政治の「密教」と「顕教」の焼き直しに過ぎないとしているが、津城寛文氏の著書に優れたレビューが収録されているので、それを参照した方が正確な理解を得ることができると思われる。パラグラフリーディングができる著作である。

日本の深層文化序説: 三つの深層と宗教 - 津城寬文 - Google ブックス
https://books.google.co.jp/books?id=BaNukSrCqcwC&pg=PA83

項目内容
ISBN4-472-10511-X
タイトル日本の深層文化序説
副書名三つの深層と宗教
著者津城 寛文
出版地町田
出版者玉川大学出版部
出版年1995.5
内容紹介歴史・民族学が扱う日本民族の起源や日本文化の系統、心理学や文化史・思想史が扱う日本的心性の深層、民俗学やある種の文学が扱う民衆の生活感情の三つの領域を「深層」というキーワードでバランスよい概観を試みた論考集。

そうしたなかにあって、近代天皇制をテーマとする研究はさまざまな視点や方法をふくみつつ、深層研究の観点からもひときわ目をひく一群をなしている。〔...略...〕真相=深層研究は、さらに二つのグループにわけられる。

まず一つは、天皇制のもつ政治的な二重構造を分析するグループであり、久野収による「顕教としての天皇制・密教としての天皇制」という有名な対語がその典型である。もう一つは、天皇制をささえるサイレント・マジョリティの「内なる天皇制」に注目してとらえる見かたや、新宗教の教祖や家元にいたるまでを「生き神信仰」「小天皇制」ととらえる見かたが、ゆるやかなグループをなしている。その場合の天皇制は、支配階級がつくりだした「芸術作品」のようなフィクションというよりは、むしろもともとわれわれ民衆一人一人のうちにある心性、われわれの集団心理あるいは民族心意がつくりだした、すくなくともつくられたものを受容した、自発的な社会制度になる。それはあばかれるべき他人の真相(=歴史主義的深層)ではなく、むしろ意識化されるべきみずからの歴史心理的深層なのである。〔以下略、p.83〕

大本営発表が近代官僚制(近代行政)におけるフィクションの嚆矢であったという意見は、傾聴に値する。しかし、私自身は、明治時代に用意された警察制度のアマルガム性あるいはいいとこ取りにも、官僚制における融通の利かせ方あるいは恣意性を見出してしまう。権力を保持するために権力者がいろいろ考えることは間違いないので、近代官僚制の創設そのときから、高級官僚が方便を使い分けてきたということはおよそ間違いないだろう。(井沢元彦氏の言霊論では、平安時代くらいに遡るはずであるし、日本の建国を示す日本書紀自体がフィクションだという説は、飯山一郎氏が最近とみに紹介しているものでもある。)

権力の二重性という概念が戦後の学術的な興味の対象であり、それが当代の碩学によって論じられなければならなかった背景は、(人の話をまとめるしか能のない)センスのない私にも想像が付く。誰の目にも見える形で国民に甚大な被害が生じ、その帰責が必要であったからである。しかしなぜ、「東大話法」という、単なる方便に近い概念、下手をすると「権力は嘘を吐くものである」という、ごく当然の命題を再確認することになりかねない概念が、今、学術的な興味を集めるのだろうか。この疑問は、私の(能力を含む)リソースでは論証できるものではない。しかし、「東大話法」という概念に興味が集まる理由は、安冨氏が原発事故に係る東大関係者の発言からこの概念を抽出したことに端的に示されるのだが、原発事故が国を滅ぼすという直感に裏打ちされているように思う。客観的な目で見れば、「東大話法」が世に問われたときは、戦後直後のような事態を阻止するには手遅れな時期ではあったのだが、にもかかわらず、今も「東大話法」に興味を持ち、この概念に私を含めて少なからぬ人々が心引かれるのはなぜなのだろう。感想文だからまとまりもないし、オチもないのだが、とりあえず、以上のように思ったのだった。




2017年10月28日修正

タグをpタグに変えるとともに、ブログ全体の表記を統一した。