2016年12月25日日曜日

ブラックジャーナリストは公職に相応しい存在か

わが国では、高度成長期以後、護送船団形式による表の企業経済が躍進する影で、国際的には競争力が劣位にある企業分野における経営者、これに圧力を加えて利益を得ようとする職業右翼活動家や暴力団などが離合集散しつつ、勢力の均衡が実現されるという、合法から非合法まで連続的な位相を見せる経済界が存在してきた。その膨大な経済活動には、グレーからブラックまでのジャーナリズムが寄生してきた。表向きはジャーナリスト、探偵業、出版業、金融業などからなる業態である。彼らは、正業者と濃厚に交流しつつも、明確な棲み分けを行い、ときに警察の情報源ともなり、ときに総会屋として活動することなどを通じて、ウラ情報の表社会への還流に一役買ってきた。他方、わが国の労働組合は、このような状態に対して、鵺的な存在として機能してきたとはいえ、企業単位という性格のために、結果として、他国に見られるような犯罪組織からの強い影響免れてきた。

後世に生きる筆者の目には、当時の「黒幕」と呼ばれる大物たちは、自らの裏社会における地位を確固としたものにしていた一方で、「表社会」における公的な名誉までは求めなかった紳士に映る。あくまで黒幕と呼ばれるに相応しい節度を身に付けていたからこそ、大物と認められていたようにも見えるのである。昭和51(1976)年に明らかとなったロッキード事件によって全国区で有名となった二人の黒幕、児玉誉士夫氏と小佐野賢治氏は、この見方に該当するように見える。児玉誉士夫氏は、現時点から見れば、職業右翼と呼ばれうる存在であるし、小佐野賢治氏は、企業家でありかつフィクサーであったと言えよう。両名とも、毀誉褒貶の激しい世界に身を置いていたにもかかわらず、私には何らかの節度をわきまえていたようにも見える。当時の社会においてさえ、関係者のみならず、テレビやマスコミ報道に踊らされた無知な層を除けば、社会から憎からず思われていたと見て、間違いではないであろう。現在の視点からすれば、悪人を擁護することなどあり得ないと思われるかもしれないが、悪を自覚する者が棲み分けの重要性を自覚していたゆえにその地位に相応しい尊敬を獲得していたことを、私は指摘したいのである。おそらく、某ビジネス書が指摘するとおり、自らの影響力の範囲と実力とを一致させ、維持することは、ある人物が黒幕であろうと、後世に認められるための要件なのであろう。

ところが、両氏のような生き方を可能とした、鉄の四角形とも言うべき政官財暴の均衡は、平成3(1991)年の暴対法制定を嚆矢として、大きく変化することとなった。昭和63(1988)年のリクルート事件を始めとして、証券・金融分野を通じた「不祥事」が一部の週刊誌ジャーナリズムによって「スクープ」され、「黒幕」と呼ばれうる怪人物が活躍する余地が失われ、バブル崩壊直後に制定されたこの法律は、裏社会の空白を埋める形で官僚の統制を強化するという機能を果たした。この傾向は、平成7年のオウム真理教による(と裁判を通じて認定された)一連の事件後には、さらに強化された。バブル崩壊後の氷河期とも形容された不況を理由に、企業社会が裏社会との関係を断ち切るようになったのである。この背景には、暴対法の施行を確実なものとするために、体力のある大企業がベテラン警察官や警察官僚の天下りをより多く受け入れるようになったことが指摘できる。裏社会から官公庁へと権益が移行したのである。

その主張がいかなる動機に基づくものであるかは慎重な検証を必要とするが、この時期辺りまでのわが国裏社会の人物や組織は、法や分を弁えることを重視すると公言してきた。たとえば、「カタギには手を出さない」「違法薬物禁止」という種類の言明である。これらの言明は、縦割り主義的な結果を生じることとなり、わが国では、大学という組織は、一部の私学を除いては、これらの裏社会との接触が比較的小さなものに留まってきた。大学や学校法人は、一部を除き、左翼と見なされる組織により占拠される一方、大学に巣くう極左集団などは、一般的には、裏社会とは呼ばれなかった。もちろん、大学が純真無垢な組織であり続けてきたという訳ではない。たとえば原子力産業は、用地買収や左翼団体に利用される裏社会の強面たちと交際する必要があったし、大企業の総務部は、大企業社会において、その種の難しい業務を一手に引き受ける必要がある部門である。体育会は、このようなマッチョさを要求される分野の格好の人材供給源となったのである。このコネクションは、必要悪として、わが国社会の「大人」なら、当然視てきたものと言えよう。

1990年代におけるブラックジャーナリズムの変化を理解する上で大事なことは、顕名性がユーザに浸透していたダイヤルアップを通じたパソコン通信環境から、知識に乏しく匿名的であると誤解するユーザを多数含むインターネット掲示板へと、アングラ情報流通の舞台が変化したことである。この結果、ウラ情報は、世紀の変わり目頃には、『2ちゃんねる』に代表されるインターネット上の掲示板に書き込まれることが習いとなった。プロキシサーバを介することにより、書込主は、一定の匿名性を期待することもできたが、ときには、証券市場に重大な影響を与える情報さえ、インターネットの特徴を知らない初心者(に見える、あるいは初心者を装う)ユーザによって、(一見)不用意に書き込まれ、大々的に流通することになったのである。

わが国の「匿名掲示板」の巨人であった『2ちゃんねる』は、「匿名」との評判からか、今世紀初頭には、真偽不明の、株価に影響を与えうる内容も大量に書き込まれる掲示板となっていた。この動きには、多数の企業人までもが関与し、その関与自体が明らかになるにつれ、さらに読者を引きつけることとなった。考えの浅い投稿者がプロキシサーバを経ることなく、インサイダーや風説の流布に相当する危険のある内容を投稿するようになった。企業が自社のIPアドレスから直接その内容を把握しようとするという、現在からすればほほえましい動きも見られた。書込みや閲覧が、身元確認につながりやすい携帯電話から行われることもあった。これらの条件が組み合わさることにより、2ちゃんねるの運営者や、それに連なる人物たちは、真偽不明の内容に加えて、取得していないと主張していたログを利用して、ブラックジャーナリズムを本格展開する機会を手にしたのである。

犯罪予防の基本である、「犯罪者の認知する犯罪の機会は、ほとんど常に利用される」という教訓は、先述した環境によって、『2ちゃんねる』の展開するブラックジャーナリズムにも該当することとなった。『2ちゃんねる』は、最後にはサーバが「クラッキング」され、有料サービスの購入に利用されていたクレジットカード情報が匿名化ネットワーク上に流出したことにより、この巨大掲示板を舞台とした明らかな犯罪の痕跡が匿名化ネットワークの世界には残されることとなった。個人だけでなく、永田町に近い組織や、企業までもが情報を監視し、あるいは流通に荷担していたことが認められるようになったのである。

インターネット上の明らかな経済犯罪の痕跡を確認したとき、自ら動くことが可能な組織は、検察と証券取引委員会であるが、これらの組織は、今世紀型のブラックジャーナリズムに還流したはずの利益を十分には解明しなかった。株価操縦等が外形的に認められる痕跡から実際に立件に至った事件は、到底、『2ちゃんねる』の運営に連なる人脈の資金流通を止めるものとはならなかったのである。それどころか、この巨大掲示板を活用しつつ、巨万の富を築き上げたロスジェネ世代の怪人物たちの一部は、政界進出を目論むことさえした。この時点で、日本的サブカルチャーを装うアングラ業界の人物たちは、戦争屋に連なる政治人脈と交友関係を結ぶことにさえ成功していたのである。

政界進出及びマスコミ買収に伴う反動という形で、いわゆるライブドア事件が生じたことは、わが国において、一定の「抵抗勢力」が結果として国益を保全してきたことを逆説的に示す証拠であると言える。しかしながら、ライブドア事件を捜査した部署は、東京地検特捜部であ、同部による捜査は、とうてい不法行為の全容を解明するものとは言えないものであった。いくつかのエクストリーム自殺については、その解明がほかの凶悪事件をも解決に導きうるものであったにもかかわらず、解明が行われることなく、放置されたことを指摘できる。

検察までもが一大疑獄の可能性が強く疑われる凶悪事件を放置した結果、これらの活動に関与してきたことが十分に認められる人物たちは、多少の抵抗に遭うも、大きな発言権を日本語社会において確保することに成功し、現在に至っている。彼らが作り上げたオルタナティブな情報インフラは、現在、情報操作のためのツールとして、現政権に大いに活用されている。内閣機密費は、これらの情報操作に利用されていると指摘されている。もちろん、われわれ一般人には、その確実な証拠を掴むことは適わない。

わが国の勢力均衡状態と縦割り文化をふまえれば、「闇の紳士録」に掲載されるであろうほどに成長したこの分野の有名人たちは、現時点では、羽目を外し過ぎている。日本社会は、彼らが従来の役割、たとえば投資家として振舞う限りにおいて、従来の「ビジネス」に従事することを許容するであろう。固有の社会的役割に従事することの代償として、アングラ業界の人材は、それに見合う報酬を得てきたと言える。その地位を超える報酬(名誉や地位)を望むことは、社会によって許容されていないのである。

このような状況を鑑みるとき、この状況に責任の一端を担うはずの役職に、公職における資質を問われる人物が収まっていることは、大変興味深いことである。


参考

遠藤健太郎オフィシャルブログ » Blog Archive » ストロスカーンと中川昭一
http://endokentaro.shinhoshu.com/japan/post1952/

篠原尚之 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E5%B0%9A%E4%B9%8B

メンバー 東京大学 政策ビジョン研究センター
http://pari.u-tokyo.ac.jp/info/member.html


#東京大学政策ビジョン研究センターは、東京大学基本組織規則第21条の規定(全学センター)に基づき設置される研究部門であり、公共政策学連携研究部・公共政策学教育部、法学政治学研究科、経済学研究科、工学系研究科、医学系研究科を出身母体とする研究者の、いわば寄り合い所帯である。相乗効果が見られれば、わが国の行く末を決定する上で良い政策を形成可能な組織であるとは思われる。

東京大学政策ビジョン研究センター運営委員会規則
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_honbun/au07410191.html

附則
この規則は、平成25年4月1日から施行する。
(了解事項)
1 第3条第1項第3号「前2号以外の本学専任の教授のうちから若干名」とは、5~10名とする。なお、当分の間は、公共政策学連携研究部・公共政策学教育部、法学政治学研究科、経済学研究科、工学系研究科、医学系研究科からそれぞれ1名を含む若干名とする。
2 センター教員の選考にあたっては、センター規則第2条の趣旨にのっとり広く専門研究者の意見を徴するものとする。

東京大学受託研究員受入実施要項
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_honbun/au07408461.html

東京大学教職員倫理規程(untitled - syuki17.pdf)
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_syuki/syuki17.pdf
(平成16年4月1日東大規則第27号)
改正平成17年3月28日東大規則第360号
改正平成18年3月30日東大規則第120号

(倫理行動規準)
第3条教職員は、本学の教職員としての誇りを持ち、かつ、その使命を自覚し、次の各号に掲げる事項をその職務に係る倫理の保持を図るために遵守すべき規準として、行動しなければならない。
(1) 教職員は、職務上知り得た情報について一部の者に対してのみ有利な取扱いをする等不当な差別的取扱いをしてはならず、常に公正な職務の執行に当たらなければならないこと。
(2) 教職員は、常に公私の別を明らかにし、いやしくもその職務や地位を自らや自らの属する組織のための私的利益のために用いてはならないこと。
(3) 教職員は、法令及び本学の諸規則により与えられた権限の行使に当たっては、当該権限の行使の対象となる者からの贈与等を受けること等による疑惑や不信を招くような行為をしてはならないこと。
(4) 教職員は、職務の遂行に当たっては、公共の利益の増進を目指し、全力を挙げてこれに取り組まなければならないこと。
(5) 教職員は、勤務時間外においても、自らの行動が本学の信用に影響を与えることを常に認識して行動しなければならないこと。

小佐野賢治 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%B3%A2%E6%B2%BB

児玉誉士夫 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB




平成29年3月1日修正・追記

文意を損なわない程度に、読みにくい部分を修正した。追記・修正部分は淡赤色で、削除部分はコメントタグにて残してある。

本稿の修正を行うきっかけに至ったのは、遅ればせながら、昨年暮れ(2016年12月15日)に川上量生氏?が山本一郎氏を指して陰で「総会屋2.0」と呼び習わしている旨をコメントして以来、この語がバズったことをようやく知ったためである。

なお、本稿の原本は、昨年9月14日あたりに準備を終えたものである。関係各位に対する辛辣なクリスマスプレゼントとして、用意してみたものであった。「タブー抜きで」私の中では確実に正しいと思われる情報を用意する、という本ブログの趣旨に照らせば、結果として、本稿は、えらく文脈依存的なものになってしまった。もちろん、この状態を知った現在も、この状態を継続しているということ自体、入れ子構造を狙ったものに他ならないことまで、賢明な読者にはお見通しのことであろう。

閑話休題。裏社会あるいは泥棒政権(クレプトクラシー; kleptocracy)にとって、市場規模5兆円とも見込まれるカジノ(IR)産業への食込みが邪魔されないことは、ソシャゲ業界における権益確保よりも、よほど大事なことである。表の経済規模にかかわらず、効果的なマネロン対策がカジノ運営に適用されるか否かは、国際社会で日本国が独立国として長期的に生き残るための要件である。これとは逆に、マネロン装置としてカジノを悪用可能なことは、裏社会にとっての権益を意味する。現在のIR論議の下では、カジノの脆弱性、すなわち勝ち金の大きさは、従来のギャンブルシステムを大きく上回るものになることが見込まれる。この議論に立ち入らせることなくカジノの話を終息させることは、裏社会にとっての権益確保につながる。マスメディアを通じて名前の売れている人物たちから山本氏に寄せられた批判の中に、山本氏の主張するカジノの話が一つも出てこないことは、私にとって、一つのサインである。

もっとも、マネロン装置として悪用しうる余地のあるカジノという存在は、道具でしかない。誰が・どのように・いつ・誰をもてなすために・どれだけ用いるのか、が分からない限り、政治過程におけるマネロン装置としてのカジノの善悪を最終的に判定することは適わない。他方で、これを犯罪予防システムの脆弱性として観る限り、これを放置することは、マネーロンダリングに対して厳しい視線の注がれる昨今、自称先進国の一員であるわが国としては、賢明なこととはいえない。社会システムの不具合を指摘することは、私の一応の仕事の範疇なので、ここに明記しておく次第である。

組織犯罪にとっての「利益」とは、通常の営利企業において所属者が職業人として必要とされる労力を抜きに、その労力に見合う以上の不正な対価を組織が入手できることであるから、この利益の生じる機会を取り除くことは、効果的な犯罪予防対策となる。その利益=旨味は、通常の経済活動と同様、経費を差し引いて得られるものである。言い換えると、カジノの生じさせうる脆弱性も、ごく素朴な形とは言え、経済的な観点から分析可能である。カジノにおけるマネーロンダリングで必要となる経費の中で、カジノ経営から完全に独立した要素として扱うことが可能なもの、つまり、切り分け可能な存在として、ジャンケット(への請負)を挙げることができよう。彼らは、麻雀等でいう代打ち、パチンコでいう打ち子にも相当する。この存在に着目すれば、以前に言及したように、勝金の上限額を、たとえば30万円程度の、一般人にとっては大勝ちしたと思える一方で、一回だけの接待を通じて高級官僚や政治家や職業的犯罪者への賄賂とするには割に合わない金額に設定することは、有用な犯罪予防対策となりうる。

蛇足。ギャンブル機関のマネロン装置としての性能は、トランザクション(勝ち負けに伴う金銭の授受一対)の回数と、そのトランザクションごとの勝金の金額に依存する。他のギャンブル運営に比べて、カジノがマネロン装置として優れている点は、勝金の多額さにある。この点、競馬の三連単が導入された経緯や、競艇の結果が荒れがちで勝金が高額化しがちであることは、示唆的である。従来のカジノでプレイされているゲームを含め、従来のギャンブル運営を通じたマネロンでは、胴元がマネロンを感知し得ないことはあり得ない。とすれば、勝金の高額化を是とする意見は、マネロン対策の厳格化と対になって語られなければ、邪な意図の下に発せられている可能性があると勘繰ることが可能である。李下に冠を正さず、である。

蛇足2。IRで認可されるゲームの種類が従来型のようにディーラーの関与の余地が高いものとならない場合、カジノ運営企業が何らマネロンに関与しなくとも、あるいはマネロンの排除に尽力しようとも、脆弱性が生じることになる。たとえば、同じ卓の中でゼロサムとなる種類のゲーム、たとえば麻雀が認可された場合を挙げることができる。金銭の授受を発生させたい二者が同じ卓を囲み、接待麻雀を行えば良いだけだからである。カジノ事業者は、このようなゲームを導入するのであれば、このような場を提供したと非難されないために、すべてのゲームの手番を記録する必要がある。贈賄側の「手抜きの悪手」を記録する必要が生じるためである。この全手番(一回のゲームにおける全トランザクション)の記録が、割に合わない手間のように見えてしまうのは、私だけであろうか。従来型の、ディーラーの関与が決定的なものであるゲームであっても、ディーラーの公正さを示すために、全手番を記録する価値はある。ここまでの対策を実行する企業が運営するのであれば、カジノ運営は、従来型のギャンブル経営に比較して、よほど健全であるということになろう。ただ、このような記録体制自体は、勝金の高額化を無制限に許容する材料とは見做されないであろう。あくまで、他のギャンブル形態との比較を通じて、公正であると見做される程度にまで、勝金の高額化を認めるという程度に留まろう。




2017年05月15日追記

「Ken Sugar」氏(@ken_sugar)の以下のツイートが大きく引用されていたので、この点を付記するとともに、brタグのレイアウトをpタグに変更した。「Ken Sugar」氏による山本一郎氏の肩書きに対する見立ては、通常人が正しいと信ずるに十分な材料である。ただ、「Ken Sugar」氏は、本記事の本文中に示唆した内容までは、視野に含めていないようである。山本一郎氏よりも批判されるべき人物が、ほかにいる。分かりにく過ぎたかも知れないので、明記しておこう。美人局なんて、ブラックジャーナリストの典型的手法ではないか。このように指摘することが、本記事のもう一つの意図であった。

Members | Complex Risk Governance Research Unit, UTokyo Policy Alternatives Research Institute
(2017年05月15日確認)
http://pari.u-tokyo.ac.jp/unit/crg/en/about/members/