私の評価は、★★★★☆。(星4つ)
本書は、坂本龍馬暗殺、伊藤博文暗殺、大正天皇崩御、5.15事件等において重大な役割を果たし、テロリストの頭山満や井上日召の思想に多大な影響を及ぼした維新の志士の一人である、「日本の黒幕」、田中光顕の一生における悪の側面を暴き出した大作である。田中光顕は、1843(天保14)年の生まれ、土佐藩出身で、後に警視総監や宮内大臣を勤めた。70歳で退職した後の25年間、三菱財閥からの資金を利用して、いわゆる右翼人脈に対して多大な影響力を発揮した。芸術家のパトロンとしての側面も有し、膨大な蔵書を青山文庫として寄贈した。
鬼塚氏は、青山文庫(リンク)に収められた資料等を含め、多くの書籍の間に見られる矛盾や空白を読み解き、「鬼塚史観」とも言うべき近代史を描き出している。その内容は、従来の通説とは、大いに異なるものである。例えば、坂本龍馬暗殺は、従来、幕府側の者によるものとされてきたが、鬼塚氏は、丁寧な資料の解読を通じて、この通説を覆す。ここでの種明かしは、もったいないので、本書で堪能されたい。
とはいえ、本書には大きな問題が二点ある。第一の問題点は、説明や時系列上の構成が行きつ戻りつしていて、きわめて読みにくいことである。伊藤博文暗殺に係る7章近辺は、文章がこなれていたが、そこでも、安重根の「伊藤博文の罪状15か条」についての説明は、問題の本質を含むがゆえではあるが、唐突に出てくるものになっている。また、鬼塚氏が在野の歴史研究者であることに起因するのであろうが、本書は、パラグラフライティングされておらず、複数の読み方を許す表現をいくつか含む。第二の問題点は、第二次世界大戦直前の人々の動きや、現代の研究者または作家に対する批判が、あまりに短絡的なものであることである。同業者を名指しで挙げて批判するのであれば、これだけの大著であるから、多少のページを割いて、具体的な批判に足るだけの証拠を挙げても良いであろうが、それはしていないのである。近年の歴史学研究者の著書は、パラグラフライティングされており、標準化された読み方を許す内容であるとともに、誤読を招かない文章(だけ)で構成されている。科学的方法とは、主張の中身もさることながら、主張に至るまでの形式をも要件に含める。鬼塚氏の文章がアカデミックな方法に則らず、特に複数の読み方を許容する文章を含むことは、氏の主張の信憑性にも影響する欠陥である。
以上の二点の問題点をもって、星一つ減じているが、(二つ減じても良い程度の酷さの文章の複雑さではあるが、)内容の幅広さと同時代性は、満点ものである。通説に立つ者、既得権益に安住する者にとって、本書は、単なる陰謀論の域を出ないものであろう。しかし今こそ、わが国の行く末を憂慮する者は、本書を通じて田中光顕の「テロル」の方法とそれを支えた拝金主義を知り、その悪に対峙するための方略を思索すべきである。
#専門分野にかかるゆえに、あまり適当に記すと反撃を受けそうだが、現時点のわが国では、刑罰の有効性に関しては、厳罰性(刑の重さ)よりも確実性(確実に捕まえること)が重要である、と理解されている。犯罪は、確実かつ公平に捕まえることが大事である。確実に逮捕することが大事だとはいえ、この理解は、福島第一原発事故にはなかなか該当しない。放射性物質が少量でも健康に悪いことは、最近の研究で明らかにされつつあるが、放射性物質の散布が過失傷害罪のみに当たるとしても、その被害者が数千万人単位であり、海外にも及ぶという点で、フクシマ事故は、前代未聞である。私は、このような理解の下に記事を執筆している。このため、記事の間で、矛盾するかの表現があるかもしれないが、それは、単に対象を扱う切り口が異なるだけである(ということにしておいて欲しい)。
2015年10月25日16時追記
鬼塚氏は、下巻の巻末で、本書を田中光顕の伝記ではなく、田中氏の生涯を追うことで幕末から昭和に至る歴史の暗部を描いたと主張する。しかしながら、私には、田中光顕の一生を十分に理解できたとはいえ、ほかの暗部までを立証したと言われると、疑問を抱かざるを得ない。立証というより、推測を述べたというに過ぎない。特に、平沼騏一郎と昭和天皇との関係については、立証したとは言いがたい。その点は、いずれ、他著を参照し直し、結論を出すことにしよう。
また、鬼塚氏は、北一輝の無思想性、特に社会構想の欠如を批判するが、少なくとも、天皇の下の平等という概念は、戦後のわが国におけるいわゆる安保闘争の広がりを支える一翼となったという点を見逃したものである。鬼塚氏がどう評するかと、一般大衆がどのように受容するかは、別の話なのである。無内容であろうが、思想の道具性、またテクストの郵便性が、後世に思わぬ余波を生じうるのである。
あと、ウェブでかなりの断片的な情報がGoogle検索で得られるようになった現在、書籍の価値は、確実な知識を系統立てて入手できることにも求めることができる。というより、その重要性は、相当程度、増している。索引もなく、人物関係表もなく、年表もない点は、大変残念である。私に心当たりがあることを承知で記すが、犯罪性向の強い人物は、その人間関係が、(よほどのことがない限り、)焼き畑農業的なものとなる。人物間の関係性を示した時系列表があるならば、その点がかなり明確になったであろう。これは、HTMLなどマークアップ言語の得意とするところであるから、インタラクティブな手段があれば、それによった方が良いが、いずれにしても、人に素早く知識を提供できるようにすることは、サービス精神の一つの表れであると、犯罪地図(という一覧性の高い二次元情報)を製作する個人としては、強く信じるところである。
2017年11月8日修正・追記
レイアウトを、brタグからpタグに修正した。
約2年後の現在、読み直してみると、困ったことに、鬼塚氏が皇室に対して抱く憎悪に対して、十分な警戒心を読み取れないように思える。記述が甘い理由は、当時の私の無知に起因する。この点、わが国の生き残りに陰謀論を活用したい読者は、十分に注意されたい。
しかしなお、「鬼塚史観」を含め、維新の志士たちおよび皇室周辺の活動の「真実」を求める「陰謀論者」の論考は、現実の史学者に対して、妙な形のプレッシャーを与えているようにも見えてしまう。本稿で示した話だけに限定すれば、今年(2017年)6月に放送されていたNHKの『英雄たちの選択』「龍馬暗殺 最期の宿に秘められた真相~なぜ近江屋だったのか?」[1]は、この実例として挙げられよう。この番組は、新史料を元に、「坂本龍馬が永井玄蕃との会合のために近江屋を利用していたところ、帰途に尾行されて居所がバレた」と推認していた。龍馬を殺した真犯人は、日本の歴史を学んだ者なら誰もが興味を持つ話題であろうから、「陰謀論」業界における話題の隆盛とは関係なく研究が進められていても、何らおかしくない。ただ、史料の元の所有者が情報操作を意図していた場合、「新史料」が発見された経緯とタイミングは、彼(女)の意図に即したものとなっているであろう。仮に、この見立てが当てはまる場合、「新史料」を読み解かせるために見出された人物は、すべてを含んだ上で情報をコントロールできる能力を(持つと、相手に信頼感を抱かせるだけの誠実さを)有する(と、史料の所有者に見込まれた)か、文書が発掘されたコンテクストを読めないほどに利用し易いKYか、いずれかになろう。龍馬暗殺は、「田布施システム」なるものが存在するとすれば、この権力の確立に至る上での(多数の)分岐点の一つである。この可能性を含み、「研究成果」の公開に係る文脈を理解しておくことは、後々、色々びっくりせずに済むことにつながりうる。以上が、真偽の判別をつけかねているものの、とりあえず、2017年時点の私の感想である。
[1] NHKネットクラブ 番組詳細(英雄たちの選択「龍馬暗殺 最期の宿に秘められた真相~なぜ近江屋だったのか?」)
(2017年6月15日08:00~09:00)
https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20170615-10-28095
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