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2017年4月18日火曜日

(メモ)『発声練習』の著作権法に対する理解は大丈夫か

はてなブックマークにおける著作権の難しさは、はてな民自身に気付かれていて、一部については検証も見られる[1]。かと思えば、現在進行形で情報系のアカポスであると推測される匿名者が『はてなダイアリー』で『発声練習』と題するブログを運営し、その中で、著作権法違反となることが明らかな「学芸員はがん発言」と題するエントリ[2]をアップしているのを見るにつけ、日本社会はやったもん勝ちであるとも思ってしまうと同時に、このような公開のメモをシェアできる著作権法であれば良いのに、という複雑な感情をも覚えてしまう。この記事[2]は、フェアユースという利用形態に照らせば、十分に許容されるものであるし、むしろ良いまとめである。しかし他方で、社会的身分があるはずの人物が、仮に許諾を得ずに、この記事を作成して公開したのであれば、随分と皮肉な、問題のあることである。

『発声練習』の匿名者は、実社会で行って恥ずかしいことは、ウェブ上でもしてはいけないことを学生向けに引用・教示している[3]から、著作権法違反自体は、恥ずかしくないことなのであろう。それが証拠に、そのエントリから直リンが張られている、学生向けと認められるウェブ作法についての2記事[4], [5]にも、著作権という概念が登場しない。二つのエントリー[6], [7]やそのほかのエントリーの端々から、この匿名者は、情報系のアカポスであることが十分に推定される。教える側がこの状態では、学ぶ側に自己規制が働くことを期待することはできない。

すべては憶測であるが、この匿名者は、著作権法の問題点を読み込むことも、その知識を更新しようとする努力も怠ってきたのであろう。大学学部生のときに『はてなダイアリー』で開始した[8]スタイルを漫然と継続してきたのではないか。それが証拠に、放送業者が国会図書館における番組アーカイブ化の流れに反対する理由の主たるものが何であれ、全放送の閲覧可能化が、わが国でデモに参加するだけの勇気を持つ人々にとって、現実の脅威として受け止められることを理解しかねている[9]。彼(女)のこれまでの著作権法違反を理由に、アカポスを追われ、(小保方晴子氏が理研の籍を剥奪されるなら、剽窃=パクリも立派な違背行為である。)アカデミックキャリアとしては、二度と浮かぶ瀬がないとすれば、いかがであろうか。はてなという日本企業(サーバも日本か)を根城にしている割には、彼(女)の理解は、かなり甘いと言わざるを得ない。利用規約違反[10]でもある。

著作権法の非親告罪化の際には、法執行機関・匿名者の双方が、いかなる対処を取るのか、見物ではある。私のここでの指摘は、匿名者にとって、一段、ハードルを上げたという機能を有する。私は、フェアユースくらいは認めた方が、ギスギスし過ぎない世の中になると思う。ゆるい見解だが、そんな辺りでおしまいとしたい。省庁縦割り・専門分化の弊害も指摘したかったが、この語を本稿に掲示しておくだけで、問題の根幹に迫る上では、十分であろう。学識経験者と呼ばれる人物であっても得手・不得手があることと、必要に応じて柔軟に対処できるだけの余裕が社会になければディストピアが生じること、の一例を示してみたまでである。


[1] はてな民はコンテンツの著作権についてどう思っているの?
(記名なし、2013年10月03日11時40分34秒)
http://anond.hatelabo.jp/20131003114034

[2] 学芸員はがん発言 - 発声練習
(記名なし、2017年04月17日)
http://next49.hatenadiary.jp/entry/20170417/1492403253

[3] 学生がはてなダイアリーを使うときに気をつけるべきこと - 発声練習
(記名なし、2009年02月09日)
http://next49.hatenadiary.jp/entry/20090209/p4

[4] 補足:学生がはてなダイアリーを使うときに気をつけるべきこと - 発声練習
(記名なし、2009年02月11日)
http://next49.hatenadiary.jp/entry/20090211/p1

[5] あなたがTwitterを使うときに気をつけるべきこと - 発声練習
(記名なし、2010年12月05日)
http://next49.hatenadiary.jp/entry/20101205/p1

[6] 内定通知書あるいは雇用契約書って所属大学の規則ではどうなっているの? - 発声練習
(記名なし、2017年03月29日)
http://next49.hatenadiary.jp/entry/20170329/1490719398

[7] 匿名化ツール - 発声練習
(記名なし、2017年04月17日)
http://next49.hatenadiary.jp/entry/20170417/1492419013

[8] このブログ名について - 発声練習
(記名なし、2007年12月22日)
http://next49.hatenadiary.jp/entry/20071222/p1

[9] 新聞や雑誌を保管・閲覧可能にすることとの違いを主張しないとダメじゃない? - 発声練習
(記名なし、2015年07月06日)
http://next49.hatenadiary.jp/entry/20150706/p2

著作権については留意すべきだけど、他の話については新聞や雑誌を保管・閲覧可能にすることとの違いがわからないと放送側の懸念に賛成できない。

[10] はてな利用規約 - はてな
(2015年8月2日改定)
http://www.hatena.ne.jp/rule/rule

第6条(禁止事項)
1. ユーザーは、本サービスを利用するに際し、以下のような法律違反行為を行ってはなりません。
a. 著作権、特許権等の知的財産権を侵害する行為




2017(平成29)年4月18日追記

冷泉彰彦氏と田中宇氏は、(当たり前ではあるが、)ともに、著作権法上も適正な、段落読みの可能な文章により、米国の動向を説明する論者である。櫻井春彦氏は、(図表の掲載にあたり、)そこまで厳密に著作権法を厳守しているとはいえない。佐藤則男氏・春名幹男氏・手嶋龍一氏・池上彰氏の文書のいずれも段落読みできない。佐藤優氏も大抵の場合は段落読みできないし、細谷雄一氏も段落読みできない。(記憶から、また、現在ブラウザで開いていた記事から判定した。)

これらの英語に馴染んでいるべき人々の文章作法を確認すれば、昨今の言論状況を整理するに当たり、少なくとも、ジャーナリストは、あまりアカポスに相応しい人種であるとは言えないようである。法律と同じく、科学においても、手続きこそが正当性を担保する材料の一つと見做されている。この点、元・日本のジャーナリストの文章は、残念なまでに、日本の新聞記事の執筆作法に毒されているようである。国際情勢を知るために参照される日本人(だと思われるが、本当のところは分かりかねる)ジャーナリストの文章は、一段落一主題が守られておらず、読込みに不要な時間を要する。形式が遵守されていない文章である場合、読者が文意を見逃した責任は、作者の側にもある。

2017年3月31日金曜日

福島県の県民健康調査は脱落に留意すべきである

Abstract

In the Frequently Asked Questions released in 2017 March 30th in Japanese (link), Radiation Medical Science Center for the Fukushima Health Management Survey, Fukushima Medical University (link), admitted to the public that the Fukushima Health Management Survey treated thyroid cancer patients as dropouts if they had been once categorized to the observation group. This can be interpreted as a typical example in statistical wars after Fukushima Dai-ichi Nuclear Power Plant accident.




本文

OutPlanetTVの昨日付記事によると、福島県立医大が、(2017年3月)30日に、これまで公表しているデータ以外にも、甲状腺がんと診断されていれた子どもが存在することを認め、ホームページに公表したという[1]。OurPlanetTVの記事には直接のリンクは存在しないが、おそらく、放射線医学県民健康管理センターのウェブサイトにおける2017年3月30日付の「Q&A[2]が問題の内容である。私の手にかかると、余計にややこしくなりそうだが、言い換えてみよう。「当センターの実施した甲状腺検査の結果、経過観察に区分された県民の皆様が、今後、甲状腺癌等を発症されたとしても、当センターでは感知いたしません。癌を発症されたとの情報を当センターに寄せられたとしても、当センターとしてはその情報を取り扱いかねます」ということである。

この宣言は、統計を取扱う者から見れば、社会現象を取り扱う(社会)統計学や疫学において、脱落と呼び習わされている現象を、当局が公式に認めたことを示す。この種の脱落があり得ることは、従来から懸念されてきたことであるが、社会的に認知される程の大きな声となってはこなかった[3]。検査において患者の見逃し(偽陰性)が生じることは、原理的にやむを得ないことである。また、今回のケースは、数値の捏造のために、患者をわざと見逃すという最悪の裏切りが生じたことを示すものでもない。この点、統計処理の最前線は正常に機能している。問題は、集計の段階で生じている。私の批判は、ほとんど常に、バックエンドにおける企画・分析・解釈の段階に向けられてきたが、本件でも、同様の構図が再確認されたことになる。

県民からの報告を計上しないことは、統計を取扱う目的に反する行為である。同センターの言い分は、関係機関とのやり取りを含めた個人情報保護体制を構築できないというものであり、この理屈には、一定の正当性を認めることができる。しかし、これだけを理由に目的を逸脱することは、本末転倒というものである。業務体制を拡充し、報告を受け付ける体制を整備することが本来の使命である。

このような反発必至の文言で、すでにバレていることが、なぜ今頃になって公開されたのかは、私に追及しかねることであるが、その理由については、いくつかの予想を立てることができる。いずれも、日本社会において、機能不全と不幸が広がりつつあることを予感させる内容である。まず、退任者・異動者が本点を認めるよう主導したものであるという可能性が認められる。医科大学の事務方も研究者も、年度末に色々異動があることから、何らかの内部告発に準じた動きを感じ取ることができる。もっとも、実際のホームページの表記は、むしろ、お役所にありがちな怠慢・縦割りを読者に印象付ける内容となっているから、文書の公開は、担当者の責任逃れという側面をも併せ持つものでもある。(#2017年4月2日、この場合が原因であったと知った。後段を参照。)他方で、患者の側からの働きかけは、最大の理由であると考えられるとともに、深刻なものである。救済のベースに乗らない可能性が認められるためである。事故前、甲状腺癌の確率は、100万分の1程度とされてきた。経過観察に区分された(つまり、一回以上の検査を受け、偽陰性と判定された)被検査者の中から、異常や癌が数名生じることは、事故の影響なしに生じ得ないことであると判定できる。

おまけ

「知る人ぞ知る」ことを公式に認めざるを得なくなるときは、「リアリティの管理」と一般の理解との間に大きな隔絶が生じているときでもある。日本語社会において統計が「リアリティの管理」=「建前」のツールとして機能しているという事実は、当然のものではある。(もっとも、私自身が明示的に指摘した形跡を残しておくことは、私個人の利益のためには大事なことであるので、繰り返しておく。)福島第一原発事故は、統計戦争※1における総力戦とも呼ぶべき状況を作り出してもいる。「戦争」の喩えは、様々な(不正な)手法が用いられる可能性が排除できないこと、しかし他方で、敗戦時に裁かれることになる行為とそうではない行為の区別が付けられることをも想起させる点、優秀である。本件の設計の不備は、統計の利用者が正確な状態を県への問合せに応じて知ることができるのであれば、許容される行為であろう。しかし、患者の救済を怠ること、数値の改竄自体を行うことは、「戦犯」となる行為である。「戦争」は、人類の常態であり続けてきたが、現代の先進国社会からすれば、異常事態である。

福島第一原発事故は、権力構造の末端から頂点に至るまで、明らかな嘘が許され続けるという、異常事態を出来させており、統計業務に対しても正常な感覚を失わせている。ほかの統計についても、材料に事欠かないが、従来の指摘の繰り返しになるために、本稿は、ここで終えることとしよう。

※1 statistical wars; ジョエル・ベスト氏の語。ただ、われわれ日本人は、この概念を非言語化された状態では理解してきたと主張できる。統計書が第二次世界大戦中に刊行されなくなった歴史を有しており、山本七平氏の「員数主義」という用語で理解しているためである。




Reference

[1] 184人以外にも未公表の甲状腺がん〜事故当時4歳も | OurPlanet-TV:特定非営利活動法人 アワープラネット・ティービー
(記名なし、2017年03月30日18:13)
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/2108

[2] 放射線医学県民健康管理センター | 二次検査で経過観察となり、保険診療を受けていた方が、経過観察中に甲状腺がんと診断されて手術を受けた場合、さかのぼって県民健康調査の「悪性ないし悪性疑い」の数に反映されたり、手術症例数に加えられたりするのですか。
(記名なし、2017年03月30日)
http://fukushima-mimamori.jp/qanda/thyroid-examination/thyroid-exam-other/000396.html

[3] 2015.12.11 復興特委「明らかに多発、異常事態」 参議院議員 山本太郎 赤かぶ
http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/815.html
#コメント8番の「知る大切さ」氏の指摘。一部、「偽陰性(false positive)」についての言及もあり、内容が混乱しているが、この度の県民健康管理センターが明らかにした「Q&A」を下敷きとすれば、次の指摘は、正しいものであったことになる。

この件〔#引用者注:検査前に異変が生じて診察・治療を受け、手術済みである場合〕福島県の担当課に確認済みです。
手術数にカウントされていません。又この場合、県の甲状腺検査で見つかったガンでもないので、甲状腺調査の件数にもカウントされません。 県の甲状腺検査で見つかったガンでもないので、甲状腺調査の件数にもカウントされません〔...略...〕(自由診療扱いを元から追えない制度設計になっている)




2017年3月31日7時追記

『2ちゃんねる』の「甲状腺癌、白血病などの被ばく疾患情報スレ75 [無断転載禁止]©2ch.net」の389番の書込み[4]が、NHKに報道される運びとなったこと[5]を受けてではないかと推測していることに、遅ればせながら気が付いた。(#後段を参照。)この推理は有力であるが、NHKの報道が原因ではなく結果であったという可能性も残る。「関係者の体を張った内部告発」の候補に、福島支局から異動するNHK関係者も含まれることも、確かである。

[4] 甲状腺癌、白血病などの被ばく疾患情報スレ75 [無断転載禁止]©2ch.net
(匿名、2017年03月30日20時33分)
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/lifeline/1489845727/

[5] 4歳児の甲状腺がんが報告されず|NHK 福島県のニュース
(記名なし、2017年03月30日19時50分)
http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6055124091.html

2年前に委員会のメンバーが、こうした仕組みの問題点を指摘した際、県立医科大学は検査後にがんと診断された患者については「別途、報告になる」と説明していましたが、報告されていなかったことになります。
委員会の委員で福島大学の元副学長の清水修二特任教授は、「正確な情報を明らかにして分析するのが使命で、隠しているという疑念を生じさせないためにもどういう経緯であっても患者が確認されれば、きちんと事実として公開すべきだ」と指摘しています。




2017年3月31日22時台追記

NHKのニュースのいう「仕組みの問題点」とは、2015年2月2日開催の「県民健康調査」検討委員会 第5回「甲状腺検査評価部会」における質疑を指すものと考えられる。議事録9ページの、部会員の春日文子氏と事務局等関係者の鈴木眞一氏(福島県立医科大学教授)との質疑を指してのことではないか。

[6] 「県民健康調査」検討委員会 第5回「甲状腺検査評価部会」議事録(109093.pdf)
(2015年2月2日開催)
https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/109093.pdf




2017年4月2日追記

『Togetter』のまとめ[1]から、『3・11甲状腺がん子ども基金』の確認作業から、本件が大きく報道されるに至ったことを知った。このまとめ中では、木野龍逸氏による同基金の記者会見[2]の様子が紹介されているが、木野氏は、この脱落を「通称『別枠』」と呼んでいる。まとめのコメント欄で、虹屋弦巻(@nijiya_hige)氏は、16~55名の偽陰性の患者がいるのではないかと予測している。先に挙げた予想の中では、最悪のケースから、事務局(医大および県)側が言い逃れできない状況に追い詰められるという状況が生じたことになる。福島第一原発事故については、目に見える被害が多発するまでは、関係者が隠蔽しようとし続けることになろう。実際、「パラメディカルなど、内部から声が上がらないというのはおかしい」(記者会見の38分25秒以降)[2]と、同基金のサキヤマ氏は、質疑応答において指摘している。

[1] 《「3・11甲状腺がん子ども基金」の確認作業で、福島県民健康調査のまやかしが分かった》 - Togetterまとめ
(2017年4月1日、@karitoshi2011)
https://togetter.com/li/1096219

[2] 3・11甲状腺がん子ども基金会見(ノーカット) - YouTube
(2017年03月31日、木野龍逸)
https://www.youtube.com/watch?v=kUk42w0zIYc

2016年9月7日水曜日

日米における不正選挙の追究の成功は福島第一原発事故の収束につながりうる

#本稿は、題名がすべてであり、先日の米国における不正選挙追及に係る記事(2016年9月3日)と随分重複するところがある。いずれまとめ直すことがあるかも知れないが、そのときは、構成を大きく変え、出典を充実させる予定である。見出しを付けたのは、途中、大きく論旨が方向転換するためである。


不正選挙の学術的な追究には工夫が必要である

今までの記事から受けるであろう印象に反するかもしれないが、7月31日開票の東京都知事選についての私の関心は、選挙の開票作業における不正にある。明確な犯罪である開票時の不正の可能性を追究することは、一応、私の本業(であったことと他人には見なされうること)の範疇である。現状に至るまでの主要な選挙の過程が国民の意思決定を正当に反映したものであれば、人命を軽視するわが国の現状を受け入れることもやむを得ない。しかし、投票用紙読取分類機への不正な介入は、明白に犯罪であり、この犯罪によって、開票結果が真の民意と全く異なるものと化していたとすれば、日本国民の全員が現状に対して責任を負う必要はない。この犯罪を予防・抑止し得なかったとして国民からの責めを負うべきは、無邪気な選管や、不作為という政治的な振舞いを続ける検察、怠惰な学識経験者であろう。

不正選挙に対する一般の指摘は、不正が行われたとするもの、不正の余地があるとするものの二種類がある。両者の指摘は、個別に是非を検討されることが肝要である。一回限りの不正について着目すると、論理上、前者は後者の十分条件であり、後者は前者の必要条件となる。両者は、もちろん、同一の話者によって指摘されうる。これらの機微が分からない者は、議論に参加する資格がないが、現実には、不正選挙の否定側と肯定側の双方にわたり、無知からか、または、作為的にか、両者を混同した議論が見られる。

本ブログの今までの記事は、不正が行われたとするものの範疇に含められる。不正の余地の存在を、投票用紙読取分類機の非開示性、投票用紙読取分類機にネットワーク接続機能※1とバックドア※1、※3とが存在するという告発、一票○万円という内部告発※4に求めている。この点、先達の業績に重要部分をタダ乗りしている。これらの考究の方が、研究としてはむしろメカニズムを追究しているものであるだけに、一般への訴求力もあるはずである。

※1 大阪における「不正選挙」疑惑追及者Aさんインタビューダイジェスト版(聞き手:IWJ記者) | IWJ Independent Web Journal

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/315772

上記※1は、書き起こしがネットで流通しており、便利である※2

※2 <不正選挙疑惑1>「開票途中に4台中4台、全ての計数機が交換された」AさんインタビューIWJ(文字起こし) - みんな楽しくHappy♡がいい♪

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-4671.html

※3 弁財天: 差し替えたのは投票箱ではなくデータベースだな。(Tomcat7のハングアップ) update20

http://benzaiten.dyndns.org/roller/ugya/entry/tomcat7-hangup

※4 自民党関係者からの超ド級の爆弾情報① 〜1票⚪︎万円で票の差し替え…「ドン」に完全支配された不正選挙〜 - シャンティ・フーラの時事ブログ

https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=115059

本ブログの記事は、いずれも、外形的に、簡素なシミュレーションによって、確率としては非常に起こりにくい結果が生じていることを述べているだけではある。とはいえ、これらの作業にも、類似の先行事例が見られることから、わが国の投票用紙読取分類機を用いた開票結果について、同様の結果が生じうることを示すことは、不正選挙に係る一般性を拡張する事例研究とはなる。ミラー[編著](2008=2014)『不正選挙』, 亜紀書房は、包括的に不正を指摘する書籍であるが、本ブログ中の宜野湾市長選挙についての一連の検討(1:2016年1月28日2:2月1日3:2月3日4:2月8日)は、同書の一部を参考に、これをシミュレーションによって図示する方法に変えてみたものである。

本ブログで実施してきた作業は、研究として世に問うには、不充分と見なされるものであり、研究に仕上げるためには、工夫が必要となる。本ブログの情報は、誰もが入手可能な材料と追試可能な方法により、不正の蓋然性を推論しているという点によって、公開するに値する情報となっているはずである。しかし、問題を漏れなくダブりなく簡潔にカバーしている訳ではないので、ノンフィクションとするにはより多くの作業が必要である。他方、ここでの内容を、研究として十分な状態に高める上で必要とされる査読者は、この内容については、出現を期待することはできないであろう。この状態は、「帯に短し襷に長し」である。また、本ブログでの考察が実務に与える意味こそ大きいものの、論拠としては、不正が行われたことを示唆するという程度に留まるものである。確実な不正の証拠として法廷で利用できるものとまでは言えない。本記事は、不正の余地があり、現に不正以外の原因によって認められにくい大差が生じている、という事実をもっぱら二次情報(情報の発信者によって産出され、すでに加工された情報)によって指摘するものに過ぎない。

わが国の社会環境、研究環境の下では、前途のある職業研究者が不正選挙の存在を追究することは、ほとんど困難である。先が見えており、後進に迷惑をかけることなく、バカな真似をできる大御所ならば、不正選挙を思う存分追究できたのかも知れない。しかし、周辺にまったく影響を与えることなく、この種の作業を実施可能な人物は、わが国における組織人にはいないのではなかろうかとも考えられる。

#問題は、わが国の社会で、不正に荷担する側が「五人組」を良しとする根性を発揮することにあると言える。この「五人組根性」は、「第二の敗戦」時に恣意的な権力の利用を「戦勝国」側にも許す根拠となる、いわば諸刃の剣である。ただ、この心性は、加害者の家族や落ち度のある被害者を迂闊にも公の場で非難する者が後を絶たないことに示されるように、国民に広く行き渡ったいじめる側の感性であり、これを前提としない訳にはいかない。また、商業主義に毒された物書きが多いことによっても、この吊し上げの心性は、加速されている。

不正選挙の追究は、職業研究者には、二点の相互に影響する学術活動上の理由によって敬遠される。一点目は、陰謀論者によるものとはいえ、すでに世間一般で指摘されていることを追認しても、新規性が認められないというものである。二点目は、わが国のように政治的に振舞う研究者・報道関係者・官僚が多い中では、不正選挙の追究が政治的動機に基づくものと曲解されることにある。いずれの理由も、誤解に基づくものであるが、不正選挙の研究は、ここに挙げた理由のいずれによっても、「触らぬ神に祟りなし」というものになる。


不正選挙を指摘する者へのラベリングが学術的な追究を阻害している

不正選挙の存在を指摘する声は、世間でもそれなりに認知されており、職業研究者の中にも、その声を知る者はいよう。リサーチ・クエスチョンの立て方次第で、不正選挙の追究は、研究としての要件を満たすと予想される。しかしながら、不正選挙の存在を検証するという目標だけでは、およそ、優れたリサーチ・クエスチョンからは程遠い状態にある。すでに「不正選挙が存在する」という、かなりの確実さを持つ申立てが一般に見られる以上、新規性が認められないからである。いかにして自動開票読取機による不正選挙が成立するのかを考察する作業に新規性を認めるためには、一捻りが必要である。

新規性を確保するための追加的な作業は、「現場との円滑な関係を大切にするように」との指導を受けてきた社会科学系の研究者にとって、ジャーナリストと同様の危険を要求するものであるように映るであろう。一般の人々や海外の研究者から見れば、この「ラポール」は、馴れ合いの象徴であるように映るかも知れない。しかし現に、行政機能の行く末を決定するような勉強会・研究会・審議会等に学識経験者としてのお呼びがかかるような研究者にとって、この種の「ラポール」は、自身の主張を社会に適切に反映させるために必要であり、行政組織内の会合は、自身の主張を実装するための社会的装置としても機能している。そうである以上、この「飴」を自ら放棄することになる不正選挙の追究作業は、わが国のマスコミの国際関係の報道が一般人にとって表面上穏やかな印象を与える(ように工夫されている)ものである現在、それほど賢明な行為とは思われないであろう。

不正選挙への疑いが、過去の事実を問うものであれ、不正の余地を問うものであれ、すでにトンデモ扱いされかねない形の批判を浴びていることは、研究者に対して、この話題への関与を躊躇させる最大の要因として機能する。本来、研究とは、研究題材そのものよりも、研究手法(への誠実さ)によって批判されるものである。研究対象そのものよりも、研究上の手続が、ほかの研究者によって検証されるのである。そうでなければ、超常現象や宗教を研究する余地など、成立しないことになる。ただ、この基本に加えて、社会科学系の研究者は、研究対象である社会に対して自らの研究が影響を及ぼしうること、またその結果、社会から反作用を受けるという点について、自覚が求められることになる(橋爪大三郎氏と島田裕巳氏に対する批判(2016年1月27日)を参照)。ところが、不正選挙は、2016年の現時点においては、議論の作法に無知な、大多数の利害関係の薄い話者や、不正選挙の虞を検証されないことによって直接の利益を得るという意味での利害関係者の関心をただちに喚起する話題と化している。特に、利害関係者の存在が重要であり、彼らの存在は、不正選挙に対する疑惑を冷静に検証する上での現実的な障害として機能している。


社会制度の不正の余地の追究は研究として成立する

不正選挙が成立する余地を問うこと自体は、研究行為となる。このことは、選挙という社会的活動が間接民主主義国家であるわが国の根幹を形成することにも起因する。不正選挙という過去の事実の帰責を問うことは、明らかに政治的行為ではある。しかし同時に、不正選挙に係る指摘を元にして、社会制度基盤(アーキテクチャ)の機能不全を問うことは、結果的に政治的影響を生じるにせよ、調査・研究の一種である。複数のアクターを仮設してゲーム理論に基づく利得を探索するという研究も成立するであろう。ここまでに用いてきた論述方法は、構築主義(ラベリング理論)を下敷きにして、規範的観点を据えて展開してきたものであるが、この方法は、不正選挙に係る全般を分析する上で見通しの明るいものであると思われる。

しかしながら、選挙において不正の余地があることを指摘するという研究は、本来、不正の余地がある点を指摘されたために追加の検証コストを要することになる「利害関係者」にとっても、「痛くない腹を探られない」ために必要な営為である。現に重大な申立てがなされ、外形的に不審な結果が見られる現時点において、「利害関係者」自身がシステムの完全性を主張したり、システムの安全性の検証作業を放置することは、性悪説に立つ外部者から見れば、疑惑を深めるだけのことでしかない。間接民主主義を採用する国家では、選挙のすべての過程において、どの国民から見ても成立するような透明性が確保されている必要がある。この透明性こそは、間接民主主義において少数派が納得するための正統性に必要とされる要件である。

一国の社会制度が健全に機能しているか否かを研究を通じて確認していくことは、国や地方公共団体から俸給を支給されている研究者の共同の責務である。一国における職業研究者は、正確な知識の産出を社会的な目的として付与されているが、この知識の対象は、当然、その国の社会制度を含むものである。職業研究者の全員が社会制度基盤の良好な維持を目的とした研究業務に従事する必要はないとはいえ、全員のうちの誰かがこの課題に取り組む必要があり、また、この誰かの研究業務が不当な政治的圧力に阻害されることのないよう、全員が研究活動の健全性を維持する責務を有する。このようにして成立しているはずの国公立の研究コミュニティの中から、まったく不正選挙を検証しようとする者が現れず、また、この検証を行おうとする者に対して支援を与えることがなかったとすれば、この状態は、研究者たちが自らの存立基盤を蚕食して顧みなかった「共有地の悲劇」と呼びうるものである。


米国の不正選挙の追究は福島第一原発事故の収束につながりうる

ただ、全世界中の不正選挙の最たるものは、わが国における選挙ではなく、米国大統領選挙における投票機の不正である。米軍の駐留という現実によって、身動きの取れない状態にある国は、わが国を含めてかなりの多数に上る。今までの歴史をふまえ、なお、米国が今後も同様の枠組による国益の確保を目指そうとするのであれば、民主主義国家を標榜する上で必要な機能を確保することは、決して米国の利益に逆らうことにならないであろう。わが国における不正選挙の根絶は、米国の今後の動向次第ということになるが、それでもなお、追及される必要はあろう。

2000年及び2004年のアメリカ大統領選挙における数々の不正は、アメリカ合衆国という国の威信を大きく低下させ、米国に追従することへの疑問を、影響下の国々の国民に抱かせることとなった。2004年の選挙は、2001年の9.11以降における外国での米軍の活動のターニングポイントとなり得た。しかし、開発に従事したエンジニアが不正を告発した証言があるにもかかわらず、プロプライエタリな電子投票機が同年の選挙では利用され、世界の大多数の国民に嫌悪された子ブッシュが再選されるという結果を得ることとなった。この結果は、アメリカ国民に対して、諸外国の国民から多大な悪感情が寄せられるという負債を課すものとなった。国民の恨みが100年以上にわたる悪影響を生じさせることをふまえれば、不正選挙という犯罪の対価は、一国にとって高価なものとなる。

2008年、2012年、2016年の大統領選挙活動においても、不正選挙の存在が指摘され、批判された。(現在進行系の出来事についても指摘するのは、研究生活上、愚かなことではあるが、)WikiLeaksという怪しい手段により日の目を見ることになったにせよ、ヒラリー・クリントン氏は、ベンガジ事件への関与が指摘されている。これを隠蔽しようとして、司法関係者があり得ない動きを見せたことまでが判明しており、批判されている。これらの事実と日常生活において用いられる意味での因果関係が認められるが、五名の予備選に係る民主党関係者が謎の死を遂げている。今回のアメリカ大統領選挙活動を不利なものとするであろうが、ヒラリー・クリントン氏の不正得票疑惑に対する民主党員の検証は、アメリカという国の威信に関わることになろう。

米国、次いで日本における不正選挙の根絶は、福島第一原発事故の正当かつ合法な収束の前提条件として機能するゆえに、重要である。福島第一原発事故に関与する、わが国の非常に広範な分野で禄を食んできた多数の人物たちは、結果として事故を収束できていない。これは、組織内の個人が個々に頑張ったとしても、何にもならないという見通しを有していることにも起因する、典型的なモラルハザード状態である。この停滞状態を変化させるために、誰にとっても合法的かつ正当と思うことのできる解決方法のうち、選後の歴史から見て、最も有効なものは、わが国では、米国からの政治的圧力を通じた斉一的なパッケージの採択しかあり得ない。それゆえに、米国の不正選挙の根絶がわが国の不正選挙の根絶に先立ち、必要となるのである。(#大変に情けない話であるが、天皇陛下のお言葉を、特別立法によって取り繕おうとする「政体」である。)

ところで、政策パッケージという考え方自体は、道具でしかなく、その中身の取合せこそが問題である。プラザ合意以降のわが国の米国との交渉は、わが国における規制・慣行を緩和・打破するという基調で行われてきたものであり、政策のパッケージ化は、ゲームの一種のルールであり続けてきた。単に、日本側のカウンターパートの知的レベルが大きく低下したために、TPPのような、両国民の大多数にとって論外な中身のパッケージが提示されるようになっただけである。米国の国益を確保・向上しようとするグループによる正当な圧力によって、両国民にwin-winの関係をもたらし、今まで超法規的・脱法的な利益を上げてきた無国籍大企業群から不当な利潤を取り戻すパッケージであれば良いのである。なお、丸山和也氏の「51番目の州」発言(2016年2月18日)は、政策パッケージとして、最大の奇策という位置付けになる。

不正選挙の根絶によらない福島第一原発事故の解決に至る道筋として、中国やロシアによる介入が考えられる。これは、世界中の関心ある層に向けて発信されている情報を総合すれば、現実にその動きが認められるものであり、かつ、短期間のうちに、チェルノブイリ事故と同程度の封込めを期待できるものである。中露による介入のほか、米中露による協調的な介入というものも考えられることは、当然である。この主張は、個人の生命を等しく価値のあるものとして合理的に思考する人物によって、十分にあり得ることと認められるものである。

ただし、不正選挙の根絶を経ずに行われる、他国によるわが国への内政干渉は、社会防衛主義的な様相を帯びる可能性が十分にある。この社会防衛主義的傾向は、全体主義的に振舞うわが国の特定の社会集団にとって、受け入れ難い理由として利用可能なものである。この結果、わが国の特定の社会集団は、世界からみれば、日本国内における抵抗勢力として機能している。領土に福島第一原発事故由来の放射性物質が到達している米中露の三か国にとって、現「政体」は、扱いの難しい存在となっているのである。


#一応、ここまでの議論によって、わが国における不正選挙と福島第一原発事故という二大犯罪の関係性が、本ブログで取り扱われることの説明を果たせたように思う。また、最終節の議論によって、矢部宏治氏のTPPと原発がセットになっているという議論が、必ずしも成立する訳ではないことが示唆される。物事の解決には、色々なルートがあり得るということである。




2017年6月9日修正

タグをpタグに変更するとともに、内部リンクのタグを修正した。

2016年8月3日水曜日

自称「懐疑主義者」が陰謀論の解明を阻害してきたという外形的事実と、今後の陰謀論業界の動向を推定する

懐疑主義者が、調査の利便上、懐疑主義を研究するための組織を形成する、または既存の組織に参画する、ということは、あって全く不思議ではないことである。このとき、組織本来の目的を逸脱する意図を有する人物によって、その組織を利用した研究・広報活動が本来の目的から逸脱しようとする場合もあり得よう。その場合、本来なら、懐疑主義者は、その状況に対して、疑義を呈するであろう。それは、その懐疑主義者が真に懐疑主義的であるならば、当然の展開である。同様に、組織の名によって、何らかの情報が外部に発信される場合には、発信される内容にその組織における健全な多様性が反映されるよう、注意深く関与するであろう。この予想、あるいはこの予想から派生する懐疑主義者に対する期待も、もちろん、懐疑的であるという懐疑主義者の習性に由来するものである。

組織というものは、いったん確立すれば、個人によって利用されるという余地を常に生むものである。それは、組織化に伴う分業や指揮命令系統という、組織のメリットそのものに由来する特徴である。組織が組織としての長所を発揮するために、分業・専門化は、必須である。分業しない組織は、おおよそ、個人の集積と変わらないであろう。組織に所属すること自体を組織に所属するメリットとみなすことはできるが、メンバー間のコミュニケーションによって個人の行動に何らかの棲み分けがなされる場合、これは、一種の分業と言って良いし、組織に所属したことによって相互の安全保障や外部の敵からの相互扶助が達成される場合には、この機能自体が共同することから生じる一種の分業であるとみなすことは、さほどの無理筋ではない。いずれにせよ、分業体制が組まれると、個人が分業体制通じて組織を動かす余地が生じる。この点に思いが至らない懐疑主義者は、懐疑主義的ではなく、懐疑主義者を自称する観念主義者に過ぎない。自分たちの所属する組織に対して、懐疑的であってはならないという考えは、まったく妥当ではない。

本稿の読者は、現在のところ、大変ディープな方たちか、または、偶然迷い込んだ方かのいずれかであろうから、私が念頭において記述した組織の名称については、わざわざ注記する必要もないであろう。ここで、懐疑主義者の研究組織を考察する上で、大事な観点を導入しよう。それは、陰謀論と呼ばれるコンテンツの一部に、現実の(莫大な)利益が直結しているという基本的な命題である。例を挙げれば、中央銀行制度に対する疑義というものは、このコンテンツの最たるものである。

現実の利益と分かつことのできない陰謀論上のコンテンツが存在するという事実は、ある言語における陰謀論の動向を注意深く観察し、核心的な利益を確保するために必要となる介入を行うという活動に対して、価値を発生させる原因となる。この種の活動は、すでに設立されている懐疑主義者の研究組織に潜り込みこれを乗っ取るか、あるいは、懐疑主義者のための組織を新規に立ち上げ、そこでゴキブリホイホイのように活動の大半を囲い込むかのいずれかによって、比較的容易に達成できる。何なれば、相手国が仮想敵国であれば、この活動は、相手国の財政を上手に利用することにもつながることを期待できる。

いずれにしても、陰謀論における特定命題(の取扱い)が特定集団の利益と関連している場合、陰謀論に係る組織的研究活動を監視する活動の存在を単純に否定することは、あまりスマートとはいえないことである。その説明自体が、健全な懐疑主義者に対して、余計な疑念を呼び起こすスイッチとなりうるからである。否定する役割を与えられた者の説明があまりに稚拙であると、かえって疑念を深めることになる。大抵の社会的出来事に係る陰謀論は、この疑惑が深められた状態に達している。私には、伝統的な情報流通産業が築き上げてきた正統的であるというイメージによって、どうにか、これらの疑惑を抑え込もうとしているように見受けられる。この状態は、インターネット時代において、疑念を有するに至った懐疑主義者をなだめることもできず、にっちもさっちもいかなくなった終末的な状態であろう。喩えれば、「デバンク」側の「マスコミ砦」がインターネットによって陰謀論者に包囲された状態である。無論、カラー革命に代表されるように、インターネットを乗りこなす試みも進められているが、今年のアメリカ大統領選挙に係る動向のように、揺り戻しもあり、必ずしも成功したとは言い難いであろう。

大事なことは、この種の役割を与えられた組織が論理上存在することを、単純に否定することではなく、その実態を追跡しにくくすることである。最善は、全対象者がこの組織が望ましいと見なす理解のあり方に、学習を通じて到達した状態である。しかし、この理想的状態は、達成条件が厳しく限定されたものである。次善は、誰が、どのような形で、どのような報酬を獲得しつつ、この種の業務に具体的に従事しているのかを、重要人物については、見えにくくすることである。敵国が相手であれば、「健全な懐疑主義者」の候補を要職に就けず、これらを徐々に「利用しやすい間抜け」に置き換えていくことは、一つの方法となろう。逆に、この種の活動を防護する側は、「利用しやすい間抜け」が間抜けであることを示すなどの方法によって、期せずして国益を毀損する人物を、注意深く、国益に資する人物に置き換えていくなどするであろう。これらの方法は、攻撃側も防御側も、ともに利用可能である。

応用例として、監視側にとって、「健全な懐疑主義者」を、人格に問題があるかのような出来事に巻き込むというものもある。しかし、この方法は、基本的には邪道であり、利用を避けるべきものである。というのは、第一には、この方法論が公知のものとなった場合、一般人であっても、この方法に対する「気付き」を形成してしまい、何に・誰に対しても、この教訓を応用するようになるからである。第二には、この方法が一種のルール違反であって、ルール違反をすること自体が先進国としての要件から自国を遠ざける可能性を生じさせるためである。このルール違反的手法は、一種の麻薬のようなものであって、即効性はあるが、担当者に真の国益を見失わせ、相手(国)の良識ある懐疑主義者に、嫌悪感を催させる可能性が高いものである。無用な反感を買うこと、真の国益に照らした場合には、大きなマイナスとなりうるのである。

可能であるならば、陰謀論に係る言説は、言論の正しさ自体によって防護されるべきである。この点、中央銀行制度に係る思想は、かなりの成功を収めたものとして、参照に値する※。中学校において、全中学生は、「日銀の独立性」を学ぶ。この一方で、現政権には、通貨発行量を増大せよと日銀総裁に詰め寄るという場面を演じさせる。「日銀の独立性」というフィクションは、大多数がこれを一種のアングルであるとは捉えなかったゆえに、証券取引を活発化させ、株価を上昇させ、価格の振れ幅(ボラティリティ)から利益を得ることのできる大口取引業者を潤すという循環を生み出すことに成功した。

※ ただし、国民国家へと各国家が回帰しようとする現時点において、この事例は、必ずしも、私が取り上げるに相応しいものとは言えないのかも知れない。

冷戦などという「大きな物語」の下にないままに国民国家同士が勢力の均衡を目指す現時点以降の国際社会においては、陰謀論のいくつかの主題については、思い切った転換によって、当時の事情を「白日の下に晒した」(あるいは晒したかのごとくに見せる)方が、結果として、陰謀に従事した集団や組織に対するダメージを低減できるかも知れない。真に責任を有する集団や個人に対して、全ての責任を負わせて、司法取引を図るという方法を目指すのである。その結果、陰謀論に係る言論界についてもパワーシフトが起こることは、やむを得ないであろう。しかし、そのパワーシフトに伴う怨嗟の声は、さほど問題にならないであろう。なぜなら、自称懐疑主義者が真に懐疑主義者であったとすれば、単に本人が反省すれば済む話であるし、そのように自らを改めるにやぶさかでない人物であれば、健全な方向への転換にも、スムーズについていけるであろうからである。他方、懐疑主義者を自称してきた観念主義者は、このような変化について行くことが難しいであろうから、ご退場願うことも必要となろう。狼少年がついに狼少年として処遇される日が来るという訳である。この種の観念主義者との手切れは、少々の関係性が生じていたとしても、スムーズにいくはずである。社会の側や陰謀論者の側は、ここぞとばかりに、たとえば9.11についての自称「デバンク側」を嘘吐き呼ばわりするであろうから、非難されている側が何を主張しようとも、なかなか聞く耳を有してもらえないであろうからである。

従来の陰謀論によって利益を得てきた層にとって不幸であったのは、国民国家として、許容されるレベルのルール破りと、真のルール破りとを見分けるための能力を有し、その具体的な線引きを実行できるだけの人材を、適切に配置してこなかったことにある。わが国に限定して言えば、重要な任務に従事するはずの言論業界や社会科学系の研究者という職務に、能力不足気味の人材しか配置できなかったことは、利益を得てきた集団にとっては、大変に不幸なことであった。もう少し、優秀なフロントマンを雇うべきであった、というのが私の率直な感想である。

基本的に原則論的なことを記しながら、ようやく、私が陰謀論に係る日本の話題を避けてきた理由の全体を、おぼろげながら記述することができたように思う。わが国における、健全な懐疑主義を謳う団体は、すでにデバンクされてしまっている人材が跋扈し、それが見破られている末期的状態にある。これらの団体が健全な機能を発揮していることに対して、社会の同意を再び得ることができるようになるためには、これらの団体は、デバンクされた人物とは切り離された形で、再起動される必要があろう。現状のように、恥の上塗りのような形で機能している状態は、見苦しいものと言えるし、「陰謀を指摘する側も、否定する側も、どっちもどっち」という状態を作り出し、工作費を無駄遣いしているだけでもある。また、迫り来る9.11の再検証に向けて、これらの無能なフロントマンには、交替しておいてもらった方が一般の信用を得やすいという事情もある。

インターネットの普及は、ある事件についての可能な考え方を、おおむね列挙して網羅するという状態を実現した。人々は、それらの説の中から、自分の好みと判断を通じて、好きな説を選択できる状態にある。このとき、重要なのは、キュレーションのセンスであり、各説を提示する人々への信頼感である。また、世界が子ブッシュ政権時代を経験したために、われわれは、世界各地の一般人であっても、生半可な説明ではなく、誰が利益を得たのか、その報酬が正当で適正なものかについても言及する説明を求め、好むようになっている。ゆえに、今後の世界は、陰謀論に対しても、科学的思考やそれに準じた方法、また功利主義が適用される時代を迎えることになるであろう。科学的態度は、虚偽と事実を見分ける上で、多くの人にとって、便利な方法である。また、功利主義が重視されるのは、陰謀論が持ち出される背景に「利益を生み維持する構造」の存在が認められてきたため、また、今後も認められるであろうためである。今後の世界では、陰謀論によって誰が利益を得たのかを問い、そこに不正があればその是正を求める一方で、国民国家として正な理由があれば、その理由に理解を示すという、ごく基本的な思考過程が判定基準となろう。陰謀論の産出・是正・解呪に従事する職業人は、その職務の範囲に忠実であったか否かを、今後、厳しく問われることになろう。

デバンクって何じゃ?という方には、下記に参考リンクを示した。同サイトは、私が陰謀論について一般人以上に知識を深め始めた時期には、すでに十分知られていたように思う。(デバンクそのもの用語を説明するサイトではない点に注意すべきである。)

参考:奇説珍説博物館 | トンデモミュージアム
http://www.tondemo.info/




平成28年9月2日・11日修正

淡赤色の部分を意味が通るように修正した。




平成29年10月28日修正

淡い橙色の部分を訂正し、前回修正部分の削除記号をコメント化した。あえて訂正したことを示すまでもない変更内容であると考えたためである。また、brタグをpタグに変更した。

2016年1月8日金曜日

大国の「1%の国民」の役割は、99%の利益を図ることに尽きる

#以下は、私の平成28年の所信表明演説でもあるエッセイである。従来の記事と重複が多いものの、どこかの政党のTPPに対する態度に比べれば、内容はブレていないはずである。

 本ブログでは、さんざん国際的な事件に対して、他国についての踏み込んだ言及を重ねているが、それでも、一応の私のブログにおける言論は、日本国内の現況へのフィードバックを念頭に置いているつもりである。私は、何らかの国際的な関係に言及する際、その内容が日本(語)の犯罪予防研究や計量犯罪学的手法にとって、なにがしかの利益があるように、文章を記してきたつもりである。他国の行動を批判的に記す場合、その行動が日本にとって直接の利害を生じさせる場合を除けば、他国を批判すること自体に重点が置かれるというよりも、他山の石とするために、その行動を取り上げているつもりではある。もちろん、筆が滑りがちなので、読者がそう受け取れないところがあったとしたら、話の対象となった他国(民)に対して申し訳なく思う。

 大抵の研究者は、1%側に含められる存在であるが、その利益の還元先は、本来ならば99%の国民とすべきである。1%には1%の役割があるが、現時点のわが国では多くの1%が期待される役目を果たしていないので、その利益は、顧慮するに及ばない。TPPは、いざというときに日本国内の1%が尻をまくってシンガポールやブルネイにでもトンズラするためのツールでもある。TPPは、アメリカ国民に奉仕するはずのアメリカの1%層にとっては、いざというときに汚染された日本国内に建設された要塞のような別荘へと落ち延びるためのツールである。TPPは、どこに逃げても同様のサービスを享受できるようにするための保険としても機能するものである。本来ならば、大多数の国民がそれなりに生活していける状態を維持しているという実績を挙げてこそ、99%は、1%が1%にふさわしい特権を享受することを容認するのである。「貧乏になる自由がある」のではなく、「そこそこ、つまり文化的な水準で、安全に安心して暮らせる自由がある」のである。ただし、希望はゼロではなく、ごくまれな割合で、わが国の精神面でのトップを含め、99%のために尽力される方々もいらっしゃることは確かである。そうした状況下、本来の「御用」学者の役割は、国民の安全を守ることのできない1%に逃げ道を与えることではなく、物事の正道を示すことにある。

 日本人研究者の発言が日本国民の利益に適わないか、逆らうものであるか、もしくは国民益の向上に代替策よりも貢献しないものである場合、その発言がいくら正しい内容を述べているように聞こえたとしても、日本国民に対して損失を与える虞があることを併せて伝えない限り、その研究者の議論は、偏ったものとして批判されるべきだろう。事実であり公益に資するものであり事実と信じるだけの根拠を合わせて記す限り、エッセイを書いてもかまわないだろうし、私も現にそうしているが、同時に、現代の研究者という職業は、国民という限定された利益共同体の付託を受けて成立している職業であることにも留意すべきである。私のような三下でも分かる詭弁を、私よりもよほど社会に貢献すべき地位にある人物が弄することは、国民の利益を損なう。福島第一原発事故については、そのような利益競合や、将来の利益を見込んだ発言が多く見られる。事後収賄という犯罪が存在することを、研究者は理解すべきである。

 いま現在、海外経験のある企業人に比べ、海外経験のある研究者の発言の方が、よほど私益を優先させた発言を流布しているのは、面白いことである。企業人は、第一に私益を追求するのが仕事であり、税金や寄付という形で公に利益を還元するのは副次的な役目に過ぎない。しかるに、日本人社会を見るところ、企業人たちは、公益を追求すると期待されているはずの者たちよりも、よほど公益に資するという概念を体現しているように見える。

 ところで、兵卒が精強で将校が無能という先人たちの評価は、日本の公的組織に対しては、現在も通用すると言えるかも知れない。トップの能力差は、『エコノミスト 2016 世界はこうなる』における並び順、カラーと白黒の別が暗示するように評価されているのだろう。それにしても、同誌の尻尾の振り方が面白い。ともかく、2015年は、いろいろな物事の趨勢が国際関係に注目する者ならば誰でも分かる程度に決定的になった年として、今後に記憶されることと思われる。それに対して、わが国は、報道統制をかけることにより対応しよう、と無駄なことをしているようである。

 国際関係におけるトップの能力について、一点、私は自身の不明を恥じている。もののついでだし、本件に関連しているとは言えるので、あえて言及しておこうと思う。その誤りとは、安倍晋三氏に対する「ヒトラーのようである」という評価に対して、「習近平氏こそヒトラーだ」という趣旨の反論をどこかで読んだが、この指摘に対して、私が「センス悪いなあ」と密かに抱いていた感想である。その感想とは、習近平氏は、むしろ恰幅の良さ・体格の良さやヘアスタイルなどから、スターリンに似てるだろう、というものだ。そうしたならば、第二次世界大戦を彷彿とさせる役者が対峙するという構図を再現できるわけだ。ところが、ヒトラーに擬せられた側はきわめて挑発的であるものの、そのカウンターパートとして立てられた?はずの習近平氏は、北朝鮮というジョーカーに手こずらされているように、いち日本人の目からは見えはするが、第三次世界大戦にならないような流れを国際的に形成することに成功しつつあるようにも見える。また、内政では、腐敗によって大がかりな謀略を働くだけの不正蓄財を進めてきた勢力を、反腐敗のスローガンの元に抑えつつあるようだ。

 現在の中国政治にせよ、またロシアにしても、一国の歴史には流れがある。昨年一年のうちにも、相当の出来事が生じている。堅実に現在の地位まで上り詰めた習近平氏は、腐敗層の追及の手を緩めず、改革開放の成功の立役者ともいえる上海閥までターゲットに含めているがゆえに、現在も上海株式市場は急降下、ということもあるのだろう。ロシアでは、ウラジーミル・プーチン氏は、功罪両面の評価が確定しつつあるボリス・エリツィン氏に抜擢されたわけであるが、ソ連邦崩壊後に国富を簒奪したオリガルヒを屈服させ、また追放などしたがゆえに、ウクライナや中央アジアにおいて、その経緯を快く思わない者たちからの反撃を受けているのであろう。『エコノミスト 2016 世界はこうなる』の中央に陣取るアンジェラ・メルケル氏も、EU加盟国の経済を担う国のトップとして、ギリシアの債務問題を乗り切り、フォルクスワーゲン社の不正という問題(の仕掛け)に対応しつつ、わが国を損なう勢力が原発に固執する姿勢をも正そうとしてきた。前年3月の訪問は、AIIBについてよりも、おそらく原発がらみの話である、という見立てがすでに多くの人から指摘されているが、そのことに対して、私は納得を覚えている。(申し訳ないが、その考察の起源について把握していないので、リンクは省略する。)

 大国の指導者は、その地位に就いただけの実力を備えているのならば、仮に、その地位に上り詰める過程において、第三次世界大戦などと言う絵空事を現実に目論む、金力豊富な「黒幕」との関係が生じたことがあろうとも、権力の掌握後には難しい関係を上手に扱い、「黒幕」の「陰謀」を逆手にとり、国民の安全と利益の確保に転換するのだろう。「黒幕」は、「歴史が繰り返す」かのように見せかけるべく、前回、つまり第二次世界大戦のイメージを想起させるべく、キャスティングにも介入したのであろう。しかし、その「黒幕」は、習近平氏には、まんまとしてやられたというわけであろう。以上が、良い方に転んだという意味ではほっとできる、私の見込み違いである。漫画で喩えるのもどうなのか、というツッコミは抜きにして、習氏やプーチン氏のノリは、配役という意味では、『ベルセルク』に出てくる髑髏の騎士のようなものだと勝手にこじつけているところである。われわれ大多数の日本人は、俎上の鯉であるが、ぴちぴちもがけば、水滴くらいは大河に落ちるかもしれない、といったところだろうか。

2015年11月24日火曜日

著作権法の引用に係る硬直的解釈は、知識社会における「共有地の悲劇」を招く

#毎日、学術的な方法に基づき、正確かつ新規性のある内容を作成し、投稿しようとすることは、私にはとても無理なことである。学術的な方法を心がけると、難度が格段に上がる。今までの不勉強が、最も根の深い問題であり、基礎的な先行文献を収集して読み込むことに、多くの時間を取られている。また、過去、ブログに移行する前に作成してきたテキストファイルやデジタルノートなど、デジタル化した作業メモを成果に直結できていないことは、我ながら、もったいないことであるように思う。しかしながら、私を取り巻く外部環境に問題が全くないわけではない。本記事は、その外部環境を話題に取り上げる。

SNS中心のウェブ上で流通する(論文以外の)日本語情報の多くは、学識経験者の発信したものでも、含まれる情報密度が低めであるが、その背景は、三点の理由が考えられる。第一は、著作権法における引用の問題がある。第二に、現今の日本語ウェブ環境では、正確性よりも先取性を過度に重視する傾向、あるいは「言った者勝ち」の風潮がある。第三に、学術的な文章の読み書きの作法が日本語話者に浸透していないという現実がある。第二と第三の観点は、知識社会における「情報爆発」を舞台とした「共有地の悲劇」であり、相互に関連している。このほか、ウェブ上の書き手と出版業界における書き手は、両立していない場合が多いこと、また、ウェブ上で有名になり出版社からお呼びのかかるようになった論者の世代交代が「マタイ効果」によって進まなくなっていることなど、わが国の情報産業における固有の課題も挙げることができようが、これらの課題については、別稿で考察することとしたい。

第一点目の理由は、わが国の著作権法であるが、この法律は、硬直的に運用されると、ウェブ社会においては、学術的な文章作成過程とまことに相性の悪い存在となりうる。一つ一つの資料についてブログ記事を作成したとすれば、その主従関係において、ブログ主の主張が従たる関係にあるとみなされる虞を否定できないためである※1。自分の言葉で引用部分をパラフレーズしたとしても、文献についてのメモを掲載することは、著作権法違反の非親告罪化と、主従を総合的に判定するという従来からの引用に対する解釈との組合せをふまえれば、相当に危険な行為と化す。言うまでもなく、著作権法違反の非親告罪化は、ACTAひいてはTPPを見据えたものである。このような危険を承知しているかは不明だが、学術的な内容を含む匿名ブログには、自身の意見や情報が明らかに従たる関係にある記事をアップする形式が無視できない程度に多く見られる。

第二点目の理由は、正確性よりも先取性を重視しすぎであるという風潮であるが、この風潮は、文章の質を高めるための推敲作業を省略する誘因となりうる。査読制度は、先取性を優先する著者の焦りに対して、一定程度の質の文章を保持するための制度でもある。学術関係者は、査読を受けるならば、新規性が高いとみなされる部分の情報密度を一定以上に維持し、読者を新規性の高い情報へと誘導するように文章を整理するはずである。しかし、このような推敲作業は、現在のSNS+Googleという、拙速が限りなく尊ばれる環境下では、後手を踏む工程となるだけに終わる可能性が高い。

通信理論において、導入部分においては、「0を1と間違える」ことと「1を0と間違える」ことは、必ずしも異なる種類の誤りであるとはみなされないように思われる※Aが、実社会においては、これらの二種類の誤りは、まったく異なる結果を意味する。真犯人に無罪判決を下すことと冤罪を着せることは、異なる結果を異なる二人に及ぼす。わが国の法制度は、この二つの誤りのうち、冤罪を避けるように制度を整えてきた。ところが、犯人を捕まえるための警備システムは、あまりに誤報が多いと困りものではあるが、しかしそれでも、侵入者を見逃すことをより大きな問題だと見なす。テストの採点に不備があり不合格となった学生には、救済措置が与えられるのが常であるが、だからと言って、採点基準が改められたことにより、ギリギリ合格であった学生が不合格に落とされることは、まずないと言って良い。統計学は、数学を基礎におきつつ社会現象を対象とする学問体系であるが、主要なツールである(ネイマン=ピアソン流の統計学的)検定は、「見逃し」と「早とちり」とを区別して扱い、基本的に「早とちり」してしまう失敗(第I種の過誤)を一定に保とうとする。

近年のウェブ環境下の日本語言説は、短文や動画像中心のSNS情報が大量に流れゆくという特徴のために、(多義的な意味での)間違いを含むとしても、他人の興味を引く情報を速報することが優先される。この風潮が昂じて、ここ数年、アルバイト店員がいたずらをSNSにアップするという流行に至ったと理解することもできる。東欧諸国では、高所での曲芸(パルクール※2)がその代替物として流行しており、深刻な社会問題になった。有名な事例では、官邸ドローン事件も、JR東日本連続放火事件(2017年4月17日;今となってはこの呼称に誤りがあるとも言えるが、このままとしておく。)も、古くは秋葉原無差別殺傷事件もそうであるが、大きな事件後、容疑者のアップしたコンテンツに対するアクセスは、飛躍的に増加する。神戸連続児童殺傷事件の犯人の元少年がウェブサイトを開設したことも、この流れで見ることができる。村上直之, (2011). 『近代ジャーナリズムの誕生』[改訂版], 現代人文社.か、澤康臣,(2010). 『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』, 文藝春秋.がジャーナリズムも同様の側面を有することを指摘していたような覚えがある。私の記憶がこの点で正しいかどうかはともかく、これらの書籍は、それぞれ、犯罪予防研究者なら一読に値する。

いたずらや犯罪などの事実が炎上して本人の責任に見合う以上の(社会的)制裁が加えられがちである一方で、専門家として社会に認知されている学識経験者の言説が、明白に間違っていようとも、実際的な制裁に帰結しにくい※3という事実は、注目されて良い。学識経験者のコミュニティの成員が外部からの真正性に対する指摘・批判を無視し、コミュニティがその状態を黙認するようであれば、その状態は、専門外における比較的些細な話題に係るものであろうと、自らの存立基盤を蚕食しかねない。なぜなら、学識経験者に期待されている役割は、専門分野について是々非々で物事の真偽を検証することであり、間違いを訂正しないという態度は、この役割期待とは相容れないものだからである。

情報密度が低い理由の第三点目は、学術的な文章の読み書きの作法が日本語話者に浸透していないという現実に求められる。この現実は、中等教育にパラグラフリーディング(ライティング)の課程を導入すれば解消される問題である。問題は、洗練された教育を受けられなかった(あるいは、私のようにその機会を無駄にした)成人が多数存在してしまっていることである。飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子, (2015). 『「30万人都市」が日本を救う! 中国版「ブラックマンデー」と日本経済』, 藤原書店.は、ロスジェネが未熟練労働者の状態に置かれており、今後技能を向上させる見込みもないと断じているが、専門的な文章執筆および読解能力については、そのとおりであろう※4。パラグラフリーディング(ライティング)の未学習世代が大多数を占める環境下では、大多数の話者は、効率的に情報を摂取も提供もできないので、他言語のコミュニティの成員に比べ、思索を深める上で不利な立場に追いやられることになる。反対に、ある研究分野における文章がすべてパラグラフリーディングできるものとなっていれば、研究コミュニティ全体の効率は、そうでない分野に比べて高くなる。パラグラフリーディングできた(良い)書籍で直近のものは、清水克行, (2015). 『耳鼻削ぎの日本史』, 洋泉社.である。歴史研究は、(私にとっては、)随分と日進月歩の感がある。

本ブログの多くの記事は、パラグラフライティングを心がけており、段落の最初の文章さえ読めば、論理が追えるように作成されているはずである。

正確性よりも迅速性が優先されるあまり大量の文章が算出され、文章が構造化されていないために大量の文章の正確性を判定しにくいという状況の下では、専門家として周囲に認められるための条件は、いきおい、肩書きがあること、質は問わないので実績があること、というものになる。また、個々の文章に対する是非が問われない環境では、ある論者についての評判は、現状のものから変化しにくくなる。わが国では、論者の当初の評判は、議論の正しさよりも、しばしば肩書きや資格を元に形成される。物事の真偽を判定する上で、ほかに手がかりを持ちにくい状況では、このことは、やむを得ないことであろう。しかし、何より困ることは、わが国では肩書きと議論の正しさが本来あるべき関連を有さないことである。たとえば、教授職を勤める人物が平気で嘘を吐き、その嘘を訂正しないということは、社会の正常な機能からすると、考えにくいことである。しかし、わが国では、よほど道を外れた発言でなければ、公職を追われることはないし、正職員であれば、その発言が犯罪として扱われない限り、本職を追われることは無い。このため、わが国では、肩書きを得た正職員こそ、クビにおびえる非正規職員に比べて、やりたい放題となることが否めないのである。このような硬直的状態は、論者の肩書きをきっかけとする「マタイ効果」の亜型であるとみなすこともできる。

個々の言説の是非が十分に検討されないままに大量の文章が産出される学術コミュニティは、何が正しいことなのかやがて分からなくなり、存在意義を失うことになる。この状態は、正しい知識に価値を置く「知識社会」における「知識体系」を劣化させるという点で、一種の「共有地の悲劇」であると見なすことができる。人間の文章読解速度には限界がある。そのため、ルールに準拠しない文章は、読者側の時間という有限の資源を奪い、批評を甘くすることにつながりかねないのである。

※1 一度、この危険性を検証すべく、木走正水氏が村上春樹氏に辛辣な批評を加えているブログ記事(リンク)について、著作権法上の問題がないかどうか、文字数をカウントしてみたことがある。その結果、木走氏は、2分の1を超えないように他者の記事を引用していることが分かった。ただし、その記事における解決方法は、スマートとはいえないものであるようだ。木走氏は、著作権法における引用に係る解釈にこだわるあまり、引用する必然性のない自身の記事を多量に引用し、文字数を増やしたことが認められるのである。別記事で紹介することにしよう。法律が誰にも平等に適用されるものであるから、木走氏の措置は分からなくもないが、このように著作権法上の規定が硬直的に解釈される状態は、学問の発展にとっても、ウェブ資源の利用法からみても、もったいないことである。

※2 どこかで学識経験者とみなされる人物が「ゲームなんかしてないでリアルで楽しめ」なんて言っていたような記憶があるが、リアルで『Dying Light』のようなことができる(リンク)のは、ほんの一握りの人たちだけだろう。実在のパルクール集団『YAMAKASI』による『MAXX!!! 鳥人死闘篇』(2004, 2作目)のようなアクションは、誰もに可能な動きではない。

※3 社会的制裁が学識経験者に加えられようとした事例として、光市の母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求事件(リンク)を挙げることができる。本件懲戒請求が殊更に注目された理由は、殺害事件における弁護に大衆の感情を逆撫でするような内容が含まれたこと、弁護士が地方テレビ局の番組でこの方法に言及したこと、弁護士会という専門的職業における自治に直結したこと、被害者遺族が来るべき裁判員制度の創設と実施に大きな影響を与えたこと、が挙げられよう。

※4 なお、同書は、パラグラフリーディングできない書籍であることを申し添えておく。ともあれ、少なくとも一昔前の、中学・高校教育課程の国語(現代文)の授業は、一文一文を逐次的に読み進めなければ文意を追えない文章を許容するものである。そのような教授法は、間違いとは言えないが、今時の情報爆発に十分に対応したものではない。しかし、このような教育環境の下でも、2ちゃんねるの「今北三行(今来た、三行で説明をお願い、の意)」や、これに起源を持つLivedoorニュースの「三行まとめ」が生まれている。これらは、きわめて優れた大衆文化だと思う。時間を節約するという同じ理由から、行政分野では、いわゆる「一枚物」が流行している。この動き自体は否定されるものではないが、アクセス性という点では、機可読性を高める措置が望まれる。(日本語フォントを用いたPDFでは、余分な改行記号が含まれ得る。)




2016年10月20日追記・訂正

情報を追記し、文意を変えない訂正を行った。淡赤色で示した。




2017年05月29日追記・訂正

本文中の誤記を訂正し、レイアウトのタグをpタグへと変更した。淡橙色で示した。

※A 伊藤隆〔編〕(1956=2012).『情報の哲学 ロシア哲学者の情報論』(東洋書店)所収、イリヤ・ベンチオノビッチ・ノビクの「サイバネティクスの哲学的・社会学的諸問題」は、シャノンの『通信の数学的理論』に対して、次のように述べている。

現在の情報理論では、通信容量はそれを占有する記号の量(ビット数)だけで扱われており、(単位)情報はどれも同一の価値しか持っていない。したがって、これにたいしては質的な面から情報を考察するような、情報の内容に冠する理論敵研究がどうしても必要である。(pp.26-27)
ここでの私のこじつけは、素朴なものではあるが、情報理論の創生期においては、さほど外れたものではないであろう。ここからの発展状況については、十分に追えていない。

2015年11月16日月曜日

今さら日本のTPP参加についての米国議会図書館議会調査局文書を読む

William H. Cooper & Mark E. Manyin, (13 Aug. 2013). Japan Joins the Trans-Pacific Partnership: What Are the Implications?, (CRS Report for Congress)
http://www.fas.org/sgp/crs/row/R42676.pdf

 今さら、あるいは改めて、日本のTPP参加による影響を解説したクーパー=マニーン報告(2013)を読んでみると、米国で対日政策を策定することは、専門家冥利に尽きることなのだなあと思わされることしきりである。全19ページの報告書であるが、過不足なく大事なことが整頓されきっている観がある。「大筋合意」に至るまでの経緯をふまえて、日本における主要なプレイヤーが論壇から脱落させられていく経緯を見ると、同報告書の分析が活用されていることがよく分かる。

 いくつかの日本語サイトでは、(その時々の世相の興味に応じた)重要な解説が見つかるし、以下に紹介する「あまのじゅく」ウェブサイトには、和訳もある※1。今さらながら勧めるのは、自身の不勉強を告白することにもなり恥ずかしいことであるが、「(日本側の)失敗(について)の研究(、つまり、米国による対日外交の成功についての研究)」の一環として、原文あるいは訳文に目を通すことをお勧めしたい。

 同報告書には、TPPに日本を巻き込むことにより得られる米国側の利益として、市場の開放※2、ルール重視の枠組と公正な紛争解決による非関税障壁の解決※3、TPPのシェア拡大※4が挙げられている。また、2012年の初期から自動車関連分野や保険分野やそのほかの非関税障壁について、そしてTPPをより高い基準で達成するため、米国が日本と一対一の懇談会を開催してきた、とのマランティス米国通商代表の発言が引用されている※5

 個人的には、15ページ以降の「Japanese Politics and the TPP」という項目が気になった。JAがここ40~50年間の対日通商交渉における主要な論敵となってきたこと、多様な利益団体と連携する中核的存在となってきたこと、主要な提携者として日本医師会があること、などが的確に記されている。この分析が世に問われた後、奇しくも、2013年の秋、2011年の日本医師連盟の収支報告書の不透明さについて、複数のジャーナリストやブロガーらが追及を始めている。この動きは、民主主義社会である以上、基本的に止めることができないものであり、この点、実に良くできている。こうして主要な連携先を失ったJAは、根拠法をも改定され、求心力を失うことになった。

 JAを分断統治するという戦術は、民主主義社会における喧嘩の作法というものを知り尽くした動きである。手先となって働いた日本人に対しては、軽蔑の念しか湧かないのだが、本件に従事した米国人に対しては、それと同じだけの尊敬の念を覚える。また、そのような才能を適切に使いこなすことができる社会に対しても、感心することしきりである。ところで、わが国の研究者・専門家は、そのキャリア形成において、英語圏の存在を無視することができない。わが国は、かつてのインドのように、マハトマ・ガンジー級の偉人を待つほかないのだろうか。



※1 私は共著者のマニーン氏の読み(和文表記)が知りたくて、Google検索したところ、和訳があることを知っただけで、一応、英語で読んだ。(ので誤解があるかも知れない!爆)

2013年5月1日付-米議会調査局レポート-和訳-20130601.pdf(あまのじゅく)
http://amanojuku.com/wp-content/uploads/2013/06/2013%E5%B9%B45%E6%9C%881%E6%97%A5%E4%BB%98-%E7%B1%B3%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%B1%80%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88-%E5%92%8C%E8%A8%B3-20130601.pdf

※2 Overall U.S. Objectives > Market Access (p.11)

※3 Overall U.S. Objectives > Rules-based Trade Framework and Impartial Dispute Settlement (p.11)

※4 Overall U.S. Objectives > Enhanced TPP (p.11)

※5 Overall U.S. Objectives (p.10)



2015年10月12日月曜日

ホールボディカウンタに係る報道に接して(感想文)

子どもの内部被ばくなしと発表 福島など2700人 - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/CN/201510/CN2015100801001587.html

 南相馬市立総合病院、ひらた中央病院、いわき泌尿器科の実施した検査という。内部被ばくがないというのは、にわかに信じがたいものがあった。関与した病院名から、おそらく、その筋で有名な坪倉正治氏が関与した調査ではないかと考え、Google様にお伺いを立ててみたらば、2ちゃんねる経由で次の記事が見つかった。この記事で、ようやく疑問がいろいろ解けたので、次にまとめておきたい。

子供2700人の内部被爆なし 福島など、病院グループ調査
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08HCL_Y5A001C1CR8000/

 記事には、次のようなくだりが含まれる。
 装置の検出限界値は50ベクレル。不検出だったことで、1年間の被曝量は16マイクロシーベルト以下と推計できる
検出限界が50ベクレルという低い値で抑えられていても、計測時間が短かったり、バックグラウンド値を高く設定したり、あるいは機器と被計測者との間に遮蔽物を置いたりすることにより、放射線が検出されにくいように調整することは可能である。これらのイカサマに近い手口を初めて指摘した者を調べることは大変であり、ここでは行う余裕がない。しかし、多くの人たちによって指摘されてきたことであるから、取り立てて私が初出を調べる手間を冒す必要はないだろう。
 私が指摘したいことは、ただ一点、わが国で統計を偽るようになったときは、すでに破局が見えているときである、ということである。昭和史に詳しい作家の保阪正康氏は、大本営発表について、「官僚の嘘」の典型例であり、次の段階を踏む展開を経たと述べている。(2009年の『官僚亡国』pp.23-24、初出は『文藝春秋』2008年11月号)
  1. 事実を伝える(戦果の上がっているときは頻繁に)
  2. 事実の表現を歪める
  3. 事実とは異なる表現に変わる(「撤退」を「転進」)
  4. まったくの虚偽のを情報を伝える
  5. 沈黙する
この保阪氏の図式を受け容れると、みなし公務員である東京大学教授を筆頭とする一部の研究グループがより多くの研究費を得るために、再現性のないデータに係る話題を報道機関に提供していくという行動が見られる現在は、虚偽の情報を伝えるという4段階目に至っていると推測しても支障ないだろう。(当該研究グループは、事故直後から問題含みの調査を進め続けてきている。しかし、結論ありきで計測を続けることにどのような目的があるのだろうか、裏帳簿のようなものがあるとして、それはどのようなところで共有されているのだろうか、ということを不思議に思う。)空間線量率が一年で数ミリシーベルトに達するとき、どうして埃も吸い込まず、許容範囲内で汚染された食品を摂取せずに済むのか。摂取してしまった放射性物質は、すべて体内から排出されたとでもいうのか。現在は、何らかの理由で少しでも問題のある数値が公表されると、今後の責任問題に発展する可能性が見込まれている時期である、というものが、最も通りの良い説明である。

 保阪氏は、佐藤優氏との対話もふまえ、「官僚は間違える」「(#公益や省益ではなく)個益を追及する」という前提に立ち、個別の事例について担当者の無能力や無責任を問うていくという、「冷めた官僚論」を築く必要がある、と指摘している(pp.38-40)。
 統計の操作が破局を目の前にした官僚の弥縫策の表れであるという主張も、すでに多くの人が指摘したことである。なので、ここには私のオリジナリティはほとんどない。私は、私なりに「枯れたアイデア」の変奏曲を演奏しているに過ぎない。しかしながら、なぜ、われわれは、この種の愚行を十分に防いでこれなかったのか、と考えることは、失敗の本質を突き止めるためにも必要なことである。また、その考察と、考察から得られた教訓の実践は、福島第一原発事故という新たな破局を経験し、かつ、その破局に責任を有する世代の責務でもある。

2015年5月31日日曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その3)

前回の続きです。本稿がヴェーバーの劣化コピーであることは、読者諸賢には明白だと思います。本稿は、「わが国の国家官僚は、戦後の安定期に独自の見識を深めるに至ったが、犯罪学における定量的手法に係る司法官僚の見識は、体系化された学識ではなく経験知の範疇に留まる。」という主張の最初の三分の一程度の部分になります。後段は、専門性が高く美味しい部分なので、ずるいのですが、別稿に取っておきます。

政治家のプリンシプルは、結果責任を負うことを承知で理想を示すことであり、政策分野の専門家には、この点をふまえた行動が必要とされる

社会学の泰斗であるマックス・ヴェーバーは、政治家が結果責任を引き受ける存在であると指摘しているが、この指摘が正しいならば、言論の正しさを追求すべきであるという専門家の倫理は、政治家の言論に対しては適用されない。民主主義における政治家は、現状に対する理解と理想を示し、その実現のために付託された権力を行使する存在である。その理解や予測の正否は、専門家の言論とは異なり、正しさそのものによってではなく、選挙民によって判定されるものである。それゆえ、政治家の言論も、前回に言及した掛谷氏らの提唱する評価方法の対象とするには当たらないであろう。

基本的には、実務家に対する政治家の権力が徹底した制度を有する国家では、政権交代に伴い、政策分野の学識経験者も助言者の地位を論敵と交換することになる。特に、経済学を基礎に据える分野では、おおむね健全に学派間で議論が交わされていることもあり、この交代は自然なものと受け止められているように見える。政権交代に伴い理論が実施される機会に恵まれるという前提が見込めるのであれば、政策科学を研究する研究者にとって、その機会は、自らの信ずるところに従い、自身の主張を高める誘因となるであろう。ただ、民主主義における政治家は、理想を維持するとしても、その実現のために採用する理論を交換することを躊躇するべきではないし、実際のところ特定の理論に執着することはしないだろうが、政治家と同様の気軽さで、専門家が政治に重用されようとするあまりに自身の主張を曲げるようになると、事態はややこしくなる。

どの職業にも期待されるべき役割があるが、専門家に期待される役割は、前回記事で強調したように、最良の知識に基づいたときに得られる視座から、正しいと認められる意見を述べることである。専門家のよって立つところ、すなわちプリンシプルとは、まずは、真実に基づくことであり、最良の知性にも分かりかねることについて述べなければならないときには、最善の努力に基づいて当座の結論を述べることである。他方、政治家の曲げてはならないところ、すなわちプリンシプルとは、一国なり一地域なりについての理想である。権力がなければ理想は達成できないが、権力の維持のために理想を曲げることは、選挙民の期待や支持を裏切ることになる。

政治家の理想を分かりやすく解説することはともかく、政治家の理想の当否を判定することは、学者・専門家の業務ではない。専門知を有する専門家が顕名で、ある政治家の理想を擁護したり批判するようなことがあるとすれば、その振る舞いは、すでに十分に政治的である。政治的に振る舞う専門家は、その身分を保障されている場合、選挙民による制裁を恐れることなく好き放題に振る舞えるため、ときに専門家に求められるプリンシプル、つまり真実に対して誠実であることからも逸脱することがある。ある専門家が都合良く筆を曲げたという事実が見逃され続けると、物事の真贋を見極めるのに要する労力は、相当程度まで増大してしまい、社会に混乱が生じる。

この点、政策に直結する実学を研究する者には、相当に洗練された態度が求められる。犯罪予防研究という分野は、政策上の目的を達成するための実学であり、私の専門でもあり、また私の態度が十分に洗練されたものではないことを示す好例となりうるので、説明を加えることにする。前々回で触れたマルクス主義を継承した批判のひとつ(Garland et al., 2000)には、「社会の構造的不正義に目を向けず、その構造から派生した結果に過ぎない自然犯を予防するだけでは、構造的不正義の温存に貢献するだけである」というものがある。この指摘は、犯罪の予防という目的を相対化してとらえる必要性を指摘するものであるが、自然犯が地域の荒廃を生じさせ構造的不正義の温床となり得ることまでは見通していない指摘でもある。しかし同時に、この構造的不正義となるような荒廃した地域がわが国に存在するのかという問いは、把握することが相当に困難な状態にある。直感的には「荒れた地域」は存在するが、その荒れ具合を定量的に把握するだけの道具立ては、わが国の実務家には用意されているものの、これが研究者には公開されないという問題がある。専門知に忠実な態度で、この課題に言及しようとするならば、まず、この道具立てを入手して、的確に「荒れた地域」を抽出するという作業を行う必要が生じるのである。専門家には、ここで必要な道具立てをオープンなものにするという責務が課せられる。でなければ、定量的手法に必要とされる反証可能性を確保することができない。そこまで用意することなしに、上記の批判を一蹴することは、知的に誠実であるとは言いがたいことになる。しかし実際には、わが国の犯罪予防研究は、戦前より、このような反証可能性を十分に確保することが困難な状態であり続けたままである。

官僚のプリンシプルは政治家の指示を効率よく実現することである

ところで、現在の民主主義国家における官僚は、本来ならば、政治家の提唱した政策を実現するための実務を効率よく実施する組織人であることが期待される存在である。言い換えると、官僚のプリンシプルとは、政治家に指示された政策をスマートに実施することである。われわれ日本人が官僚を実務家と呼ぶ場合、この呼び方には、固定化された業務を確実に遂行するという機能を期待する含みがあり、政策を企画立案するという、I種公務員に期待される役割の一部は、この呼び方の期待する内容に含まないように思う。警察組織における実務には、犯罪者を確実に検挙して十分な量刑を課せるだけの証拠を検事に届けること、110番通報に確実かつ迅速な対応を行うこと、迷子から親の氏名や連絡先をうまく聞き出し落ち着かせること、等々の業務を実行するという含みがある。しかし、昨今の凶悪事件の原因を分析し、白書で解説を加えたり、ある行為が賭博罪にあたるかどうかの判断基準を決定したり、法案をその骨格から作成したり、といった政策立案に直結する行為、あるいは政策立案行為そのものを、官僚の実務と呼ぶことには違和感が残るのである。

今まで実務家という表現を用いてきたが、その理由は、ヴェーバーの指摘した官僚制の弊害を描出するために、官僚という用語を残しておきたかったためである。ヴェーバーは、官僚制が権力の円滑な行使を目的として組織されるものの、組織後には、その維持を自己目的化する傾向があることを指摘した。官僚は、もっぱら自己保存のために、ときに政治家の理想に追従し、ときに政治家の理想追求を陰に陽に妨害するのである。また同時に、官僚は、自己の権益の維持・拡張のために専門家や学説を使い分けることもする。

わが国の官僚制は、大戦後、業務の大部分において有効に機能してきた。特に、計画経済の運営と行政指導により、横並びの繁栄を達成するという、ある種の成功モデルを確立した。カレル・ヴァン=ウォルフレン氏は、この種類の成功が、社会の木鐸であるべき報道機関までもが政・官・財の円滑な活動を支援するという相互依存的なシステムによると観察し、これを鉄の四角形と呼んだ。鉄の四角形は、わが国ないしNIES諸国の成功が計画経済と父権主義という西洋と異なる価値基準を有するシステムによることを説明する方法として、多数の論者に受容されるものとなっている。この派生形の一例として、第五の主要なプレイヤーに「学」を挙げる植草一秀氏の説を挙げることができたりもするが、植草氏のモデルは、ウォルフレン氏の説明を複雑にする割には、現状をうまく説明できないように思う。この点は後に述べよう。

わが国の官僚制の成功の主要な背景要因として、朝鮮戦争以後の冷戦という、比較的安定し、かつ、構図が明解なものに見える物語が存在し続けたことを挙げることができる。核戦争の脅威は常に指摘され続けてきたが、相互確証破壊という理論が提示され、指導者層に共有された結果、奇妙なまでの調和状態が生じることとなった。また、東西の二大陣営の下に各陣営が二分されるという理解は、少なくとも先進諸国の一般庶民層に定着した。この一見分かりやすい構図は、弁証法の図式における「合」が、悲観的な想定のものとしては最終戦争しかあり得ず、また楽観的な想定のものは世界政府しかあり得ないという共通認識を流布させることとなった。「合」となる状態の想定が極端なものであり、また、悲観的な道筋のみが分かりやすく生じやすそうだと認められる状態が継続したことは、一部にオカルトや超自然信仰に走る者たちまでを生み出す素地となった。この点については、別稿で考察したい。

(次回に続く)

2015年5月27日水曜日

社会政策を専門とする学者が政治的に中立であるための条件とは(仮説)

Twitter上でのやりとりを記録するTogetterなどを見ると、コミュニケーションの成否が極端であるように見受けられる。その原因には、明らかに学者のコミュニケーション能力の巧拙がある一方で、相手の側の態度の良否もあるように思われる。一般人の発信内容の中には、教えを請うのではなく、単に文句を付けたい、不満を表明したいがために学者のアカウントに意見を寄せる者が多くいるようである。他方、高度にSNSの作法を発達させた学者の中には、そのような辻斬り的な意見を鮮やかに返り討ちにする様子を見せることで、SNS界の知的水準向上、自身の名声の確立などを狙う猛者もいる。

SNS上のコミュニケーションで炎上しがち(で記録されがち)な事例には、政治的な主題も多く含まれる。わが国には、政治は誰もが語って良いものであり、しかも、民主主義社会であるから、平等な意見として尊重されるべきであるという了解が広く一般に見出せる。私は、政治的主題は誰もが語って良いものの、その意見には優劣が存在し、専門家には、優劣の決定に至る経緯が明らかになっているものの区別が付けられるであろう、と考える。近時の専門的主題に係るコミュニケーションの不幸は、専門家がその職務倫理に照らして一般人を明らかに欺き続けている事例が相当数存在し続けているために、専門家に対する一般人の信頼が存在せず、どの専門家にとって自明な意見の優劣までもが、一般人にとって信じがたいものとして映るという状況を解消できない点にある。

こうした昨今、社会政策を専門とする学者の政治的中立性は、どうすれば確保できるのか。以下は、直感により、その条件を提示したものである。これらの確からしさは、当然、仮説以下のものであり、検討されねばならない。もっとも、これらは、生活安全条例制定をめぐる反対意見や、防犯分野に新規参入した研究者の活動がなぜ政治的であったのか、という検討を通じて得た結論なので、私の中では、容易に覆りそうにない内容ではある。
  1. 選挙で当選している政治家以外の者に対しては、その者が(学者の邪魔をするためではなく)勉強したいために指導を求める限りは、学生として対応する。
  2. 選挙で当選している政治家や実務家が意見招請した場合には、分け隔てなく受諾する。その際、少なくとも面談時間分だけはその者のために知恵を絞る。
  3. それ以外のときには、特定政党の立場によらず、受益者を可能な限り広い範囲に取り、思索を進める。少なくとも、受益者を「日本国民」「市区町村在住者」などと明確に想定する。


2015年9月16日:赤字部分修正

2015年5月26日火曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その2)

前回の続きです。なんだか、今回は、書き上げてみて、ヴェーバーの『職業としての学問』『職業としての政治』の劣化コピーの中でも、相当拙劣なものになってしまったように思います。でも、アップすることにしました。開き直りですが、そのような印象が正しいのなら、むしろ、その骨格は間違ったものではないでしょう。

実学的な学術分野の質は実務者コミュニティの質と人数により担保される

防犯研究と防災研究は、いずれも行政実務と深い関わりを有する実学的な学問分野でもあるが、これらの分野に生じている研究事情の差には、関連する行政実務のあり方も影響している。わが国の防災行政・防災研究は、具体的な災害を受けて発展してきている。多くの災害は、それぞれが歴史・文化・地域的な事情を反映しており、次に来るべき災害への教訓となり得る。しかし、次の災害への対策は、次の災害像を想定しつつ進めるほかないが、想定と異なる災害が生じうる以上、行政は、従来の災害を下敷きとするだけでは、災害対策の責任を全うできない。この点についての共通の理解があるからこそ、行政実務者は、学問上の根拠に基づいて政策を推進する必要に迫られ、学識経験者の主張に耳を傾ける姿勢を持つようである。また、次の災害の実相が分からないからこそ、防災研究には創意工夫が求められ、結果として、新規性のある研究が行われる。

基本的に、わが国の行政制度において学識経験者が何らかの役割を果たしている場合、その制度は、米国や英国を初めとする諸国の行政制度を反映したものである。わが国では、自然災害のメカニズムは自然科学者により説明されるべきであるという合意が存在する。自然災害の被害を受ける側にある社会基盤や建築物についても、工学者や技術者により取り扱われるべきであるという合意が存在する。司法制度には、少数の異論があるものの、心理学や精神医学を修めた者が犯人の心理を取り扱う過程が組み込まれている。

これら行政組織内に確立された専門的職能人を有する学術分野では、その専門的職能を有する行政職員の受入部局、つまりカウンターパートが存在するがゆえに、学識経験者との連携も円滑なものとなる。わが国では、回転ドアと呼べるような両方向の太いキャリアパスは存在しないが、行政職員から大学人へと転身する人物の専門的職能は、圧倒的に高等教育課程在学時の専門的職能と同一のものである。もっとも、防災行政という行為に求められる職能が判然としないがゆえに、わが国の防災行政職員には専門資格の修得が必ずしも求められないが、その反面、職員自身がその種の職能を向上させる際、試行錯誤を迫られることになる。

いったん行政組織内で専門的職能が確立されると、その行政分野の施策の学術的水準は、行政内の施策の水準が容易に低下しなくなるという点と、対応する学問分野の水準が低下しにくくなるという両点によって、担保されるようになる。ある行政分野において、専門的な思考様式を有する担当者がいったん多数派となれば、その行政分野における行為は、背景となる学問分野の水準に照らして明らかに程度の低い施策の採用を躊躇するようになる。また、行政実務の担当者は、指導教官なり地域の学識経験者なりに助言を求めるという行動を通じて、実務の水準をある程度のものに維持できるようになる。その職能に対応する学問分野では、人材供給先が拡大するだけでなく、同種の思考様式に共感する行政職員が増加するために、研究の糸口を見つけやすくなり、研究の遂行も円滑なものとなる。ただし、このような良い意味での官学連携が進むと、学識経験者も、行政行為に付随する結果責任を引き受けることにもなる。

実務者のコミュニティが外野の声の正しさを判定し尽くすことは難しい

ある学問的見地に基づき施策が推進されるべきという意見が外野から出された場合、ことは簡単ではない。その意見が制度上の裏付けを持たず、また圧力団体や政治家によるものでもない場合、わが国では、その意見は、良くともその場限りの調査研究として検討されるに留まる。この時点では、調査研究を通じて得られた経験は、行政組織の成員のごく一部にしか共有されない。調査研究の成果が実務担当者にとって大成功であった場合を除き、担当者が代替わりすると、行政組織としての施策の意義は失われ、学識経験者の努力は振り出しに戻ることになる。この経緯は、後任の実務担当者がリスクを避けつつ前任者との独自性を打ち出すという政治的判断のために生じる。

しかし一方で、外野の声が正しいものであるとは限らないことも、当然である。とりわけ、誰しもがウェブ上で気軽に発言できるようになった昨今では、発言する有識者に対して結果的に見れば非生産的な言いがかりを付ける匿名者には事欠かないようになっている。匿名者を相手とする場合に問題となるのは、発言者がどの程度学習しており、どのような理解の枠組を有しているかについて、推し量ることが手持ちの発言だけによらざるを得ないことである。ある有識者は、しばしば匿名のツイッターに対して「中学生からやり直せ」という具合に切り返すが、相手の短い言論だけで相手を判断し最適な回答を返すためには、やむを得ない方法なのだろう。公開の言論が円滑に機能するためには、参加者が、相手の学識と自身の学識とに対して適切な理解を有していることが必要なのである。

前例を頼りにしてはいけないという条件を課して、外部の声の正しさを判定する場合を想定してみると、実務担当者が前例を尊重する姿勢を良く理解することができる。わが国の行政組織は、明確な前例主義であり、縦割り主義でもあるが、「突拍子もない」外部の意見に左右されずに安定した行政活動を進める上で、これらの二本の柱は、きわめて重要な役割を果たしている。しかしその反面、ある施策の必要性は、縦割りの中に入ることが認められない限り、どれほど確率としては高く生じうる事象に備えるものであっても、その事象が現実のものとならない限りは問題視されない。逆に、確率的にはきわめて低く生じる事態であろうとも、ある事象が現実のものとなった場合には、対策が必要であるとする非科学的な意見に振り回されることになる。L2クラス、30mの波高の津波という事象をめぐる近年の防災行政が、この事例に該当する。

専門家集団の役割は正しい意見を確からしさとともに述べることに尽きる

それゆえ、ある社会に、妥当な見識を共有する一定人数以上の専門的集団が存在し、前例のない事象や外部の意見に対して自由で高度な検討を加えることができ、その社会がその見識を尊重できるという状態は、その社会が道を誤らないために必要である。専門的な学会とその成員は、このような機能を果たす社会的集団として期待されているはずである。しかし、知見を改善する機能を有しており、外野の知恵を拒まないという条件が満たせるのであれば、どのような存在であっても良いのかもしれない。いずれは、『創世記エヴァンゲリオン』にも描かれたような、複数の人工知能のネットワークが専門家集団よりも、よほど良い知恵を出すことになるかもしれない。

専門家集団には、外部からの意見の真偽を、先入観なく、かつタイムリーに検討できるという能力が求められる。外部からの指摘に対して自由な考察を行い、正しい結論を出すためには、専門家集団の成員は、その言論の正しさについてのみ責任を負うという形の免責を受けられる必要がある。『学者のウソ』の著者である掛谷英紀氏は、同書で構想した言論保証協会を特定非営利活動法人として設立し運営している。商業出版時に供託金を預け、誤った予測に対しては、供託金を没収するという制度を提唱するのである。しかし、ある商業出版物の正否は、『朝日新聞』の「慰安婦報道」(を放置したこと)のように、長期的にも経済的な形で評価されるわけであるから、掛谷氏らの方法は、屋上屋を架すものであるようにも思う。

#まったくの直感ですが、『朝日新聞』の「慰安婦報道」は、「報道」の内容そのものではなく、「訂正」に時間を要したことの方が致命的であると考えます。仮に、同紙が誤報していたとしても、その事実は、ほかの報道機関等が間違っていない保証にはならないので、その点は、重々注意すべきかと思います。ここで、同紙の報道の真偽には触れていないことに注意してください。

専門家集団の成員、つまり専門家には、自己の言論体系の正しさに対して、絶えず検証と調整を加え続ける作業が求められる。専門家集団に必要とされている社会的機能は、権力者や顧客の意思を忖度することではなく、まずは正しい見解を提示することであり、その見解の確からしさを併せて提示することである。掛谷氏らの提唱する方法は、テニュアを持つ国立大学教員に対してであれば、妥当するだろう。大学教員の身分保障は、わが国と社会のために正しい言論を提示することが期待されているゆえの制度でもある。

#第一、日本国籍の現役教員のだいたい全員が、わが国の制度の恩恵を受けて学識を身に付けたのではと思います。例外として、私が(記憶だけで)すぐに思いつくのは、安藤忠雄氏やロバート・キャンベル氏くらいです。

専門家の判断の土台となる規範や倫理は、古今東西、軽々に変わらない可能性が高いが、専門性の中核となる知識は絶えず更新されている。加えて、特定の社会の安寧を専門家としての目的に据える限りは、その社会と周辺状況の変化に絶えず追随する必要がある。それゆえ、社会政策分野では(、つまり、犯罪学界隈でも)、国を誤る判断を下さないためには、専門家集団には、タブーを設けず、物事の真贋を素早く検討できる能力が求められる。もっとも、タブーを設けないという辺りで、情報収集が必要な範囲は、一個の学問分野を簡単に超えるものとなってしまう。

各学術分野における知見の有力説は、本来、専門家以外の利用者が真偽を吟味せずとも済むよう「硬い」内容とならなければならない。他分野の専門家であれば、吟味するだけの能力があるかもしれないが、吟味に時間を取られてしまうことになり、本業に集中できなくなる。実務家の本来の仕事は、有力説の吟味ではなく、決定された政策の遂行である。政策にこれらの知見を反映するのは、本来、政治家の仕事である。

次回に続く

2015年5月25日月曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その1)

ウェブ上の「情報爆発」は、今後も止まりそうには見えず、横断的かつ実学的な学問分野である、環境犯罪学・計量犯罪学の知のあり方に対して、いずれ深刻な事態をもたらすことになりそうである。本稿では、この予測を素描してみたい。もっとも、この予測は、加藤尚武氏による『価値観と科学/技術』の「今後は情報不足より情報爆発に伴う情報の取捨選択が問題となるであろう」という旨の指摘に基づけば、自然と導かれる結論であるので、私の予測は新規性のあるものではない。もっとも、この予測の誤りは、私にのみ責任が帰せられるものである。

本来ならば、科学的手法や科学と社会との関係を専門としない私が、犯罪学を取り巻く状況を俯瞰したり、今後は深刻な事態を迎えそうなどと予測することは、二重に不遜だと思われても仕方のないことである。しかも、この作業は、埋没費用となることを承知で進められたものである。大して新規性もない割に、敵ばかり作ることになる作業である。それなのになぜ?と問われた場合には、あえて、周りと空気と先行研究を読まないサービス精神ゆえであると回答したい。あえて追記すると、この分野において利用されるデータの性格に、もっと注意を払って欲しいためである。そのためには、わが国の環境犯罪学界隈では、そもそも、基軸となる技術や概念が十分に意識されていないことから指摘していかなければならない。本稿は、そのための捨て石となる議論である。

学問分野の維持には思想の見取り図と共通の思考の枠組を持つ成員が必要である

テキストデータとして蓄積され後追いできる言説が増加する一方、人が一定時間内に咀嚼できる情報量がそれほど向上していないために、どの学問分野においても、何らかの情報整理機能が確立されていない限り、いずれは情報収集作業に要する手間は、研究業務を圧迫するほどに増大するであろう。加藤氏の著書を読んだ私を例に取ると、最初に私が行うべき作業は、加藤氏の著書の参考文献を調べることであり、次いで図書館で件名検索することになる。その上で、当該の学会や研究者のゼミなどに参加するといった行動が理想なのであろうが、私には、本件でそこまで作業する必要があるものとは思わなかったので、そうしてはいない。ともあれ、これらの方法は、多くの学問分野で標準的な情報収集手法となっているが、成員がこの基本に忠実である学問分野では、これらの方法は、情報の縮約機能を同時に果たすものとなる。

伝統的な方法が根付いている学問分野では、標準的であるという評判を有する「教科書」があり、その書籍にすぐに行き当たることも期待できる。良い評判の教科書は、業界の見取り図を提示してくれるはずである。良書は、どの主張が正統で有力説であり、有力説への対抗言論にはどのようなものがあるか、またその有望性がどのようなものか、著者自身の考えをも客観的に位置付けた上で提示する。このような専門的な教科書が存在し、しかも学問分野のコミュニティでその認識が共有されている場合には、対抗言論として位置付けられている研究者であっても、その良著を尊敬し、その存在に言及する。その結果、初学者がそのような「辺境の地」であるかのような資料から出発しても、2段階ほどで「首都」の「アリーナ」に辿り着けるのである。ここで「2段階」とは、年季の入った研究者の論文→著書→教科書を指す。

ある学問分野は、分野を支える主要な言説の正しさに加えて、その成員間での理解の枠組が共通して初めて成立する。言い換えると、どの派閥に所属しようとも、業界の見取り図は一致するのである。争点があるときには、お互いの持論を良く理解した上で、相手の上を目指すのである。まるで週刊少年ジャンプにおける古き良きライバル関係のように、相手を認めているからこそ議論が成立するという点が大事である。これらの条件があってこそ、ある学問分野は、弁証法の図式に則り発展することができる。

ある学問分野が実質的に存続し続けるためには、ある問題が解決方法(の大枠らしきもの)とともに提示されており、その組合せが問題の解決に有望であると共感する者が集まり続けることが必要であるが、そこには、問題と研究者との力関係が介在する。問題の体系が一人の人物で扱うには大きすぎる場合には、その学問分野には、一時的に多数の研究者が集まることになる。参入の結果、問題が解決でき、知識を集約できれば良いが、そうでない場合、問題の全貌を把握する上で必要な知識や能力が増大することになる。その学問分野を見渡すための知識量や労力が増大すると、かえって、その学問分野の存続に必要な共通理解は、失われてしまうことになる。

この図式に則り衰退した学問分野の好例として、マルクス主義を挙げることができる。マルクス主義は、犯罪学にも、左派犯罪学と呼びうる分野を形成する程の影響を与えている。それら左派犯罪学から出発した研究者による、構築主義を援用した言説のいくつかは、現在のわが国における有力説となっている。マルクス主義と構築主義的な考察を行うこととの間には、明らかに区別を付けられる。しかし、これらの思考の枠組は、わが国の犯罪学関連の行政実務において、明らかに混同されている。場合によっては、社会防衛説のような極論を採る者でなければ敵である、という拙劣な見解がまかり通るほどである。この点を細かく検討する作業は、専門的で先進的な内容になり得るし、わが国が開発独裁的であるとする近時の危機意識にも通じる話になるため、できるだけ早い時期に取り組みたいことではある。しかし、本稿では、ひとまず、全体を素描することを優先しよう。

ついでに脱線しておくと、犯罪学関連のわが国の研究者にとって、マルクス主義に対する自分なりの(批判的な)見取り図を作っておくことは、必須の作業であり、決して無駄とはならない。マルクス主義は、社会の発展段階なるものを仮定して、これにヘーゲルの弁証法を適用したものと解釈できる。同時に、マルクス主義の提唱自体を、ヘーゲル式の弁証法の「正→反→合」図式にいう「反=アンチテーゼ」の段階であると見ることも可能ではある。それはさておき、本稿としては、マルクス主義の盛衰から、当初の物語がそれなりにシンプルであったにもかかわらず、その後に信条が分派しガラパゴス化したという教訓を読み取ることができる。また、隣国であるロシア・中国が異なる形態のマルクス主義を採用していたこと、今後もその影響は継続するであろうこと、さらには、弁証法のテーゼに則る形でコーポレートクラシーがわが国を席巻しようとしていること、などなど、犯罪学が真正面から対象としうる素材を理解する上で、マルクス主義への理解は欠かせないものなのである。

問題を解くための専門分化は避けられないがその成果は一般化されなければならない

問題と解決方法との組合せが一個人が扱うには巨大になりすぎた場合、必然的に研究分野の蛸壺化が生じる。蛸壺化の背景には、我々が万能の存在ではないという、どうしようもない事情が存在する。蛸壺化を避けるためには、問題を局所的に解決して、その問題についての知識を正確なものとしつつ、同時に、その解法の習得を容易なものとすることが一つの方法となる。知識の一般化という作業は、知識を正確なものとする上で必要だが、同時に、解法の習得を容易なものとするという点でも有用である。

興味が蛸壺化した結果、自分たちの学術活動に支障を来すことが明らかな場合、ある学問分野が共通の看板を掲げる一方で、内部に分科会などを形成して、特定の主題の深化に必要な議論の質と量を確保するということが普遍的に行われる。この行動は、学問の対象である問題群を俯瞰し、その解決に取り組み続けることからの逃げとも見えるが、問題解決の責務を組織化して安定化するという機能も有している。研究活動が大衆社会に組み込まれている現代では、安定して成果を産出し続けることが多くの研究者生活の維持に求められる。問題を限定化して解決方法を深めるという局所最適を目指す戦略は、たとえ問題の本質から目を背けていようとも、庶民出の研究者が当座の糊口をしのぐ上では必要不可欠な作業でもある。

研究分野の専門化という戦略は、教育学にいうenhancement教育に相当し、横断化はenrichment教育に相当する。後者の語義から受ける印象は「多様な種類の知識がある」というものであるが、横断化の機能は多量の知識を揃えることではない。横断化は、別個に深掘りされてきた先進的研究を通覧して、類似した成果を一般化し、共通基盤となる知識を整備し縮約するという機能を有しているはずであり、この縮約するという機能こそが期待されている。この点が強調されるようになったのは、私の狭い見識では、わが国では、ここ10年ほどのことであるように思う。

知見を広く収集し、良質の成果を選別して整理、統合するという技能は、サイエンス・ライターや科学部記者に期待される職能でもあるが、本来なら、横断的分野の研究者や論文の査読者にも必要となる素養である。そして、先に言及したように、この作業は、成功しなければ埋没費用となる。また、成功したかどうかの判定は、常に作業者にとって厳しい側に下される。それら横断的分野における知見は、整理・統合された状態にこそ新規性があるのだが、基礎研究分野の研究者にとっては、どこかで聞いたことのある話にしか聞こえないためである。

わが国のいくつかの横断的な学問分野では、先進性という概念に対する十分な合意がないために、良心的なレビューにより周辺分野を理解して、その理解の枠組を共有するという行為が生じにくい。レビューという作業が報われないことになる見込みが高いという状態が続くと、研究コミュニティの構成員の多数がレビューを怠るようになり、終いには、レビューが専門誌に投稿されたとしても、その適否を確認する作業自体が忌避されがちとなる。過去の論文数がゼロというわけではないので、それらに言及するだけで十分だと、投稿者・査読者の双方が判断するようになると、その学問分野の進化の方向は、かくして、ガラパゴス化へと舵を切るようになる。その学問分野の過去の主要な論文が適切な理解の下に執筆されていない場合には、今後の方向が歪なものになる事態は避けられない。

わが国の横断的学問分野では、多少なりとも、異分野の成果を顧みないという意味で、ガラパゴス化が進みつつあると思われるが、ガラパゴス化は、必ずしも研究の質の低下に直結はしない。この事情は、防犯・防災などと並べられることの多い二つの研究分野を比較すると、直ちに了解できることである。防災研究は、成果を世界に発信すると世界でも先進的な内容であると認められるものを多く含むが、防犯研究のほぼすべては、英語圏の研究の二番煎じと解釈して良いものに留まる。同じガラパゴス状態であっても、進化を続ける中心地となっている防災研究では、和文論文を参照するに留まったとしても、新規性の高い内容へと発展する余地があるが、辺境の地に過ぎないわが国の防犯研究は、参照し続けたところで、下手をすると「四角い車輪を二度発明する」ことになりかねない。

ある学問分野において研究の質が低下する条件には、その学問分野における低質な研究の量が増加すること、研究の質を判別できない成員が多数となること、の2点があると予想できる。低質な研究が蓄積されると、参入障壁は低下する。低質な成員による研究が低質となることはもちろんであるが、低質な成員が多数派であることを認識した成員の研究の質も、競争のために低下しうる。すると、いったん質が低下すると、質の向上は望みにくいこと、また、当初の研究の質が低下する原因がキーポイントとなることが分かる。良質の前例が少なければ、その後投稿される低質の研究を低質であると判定しにくくなるであろうし、参照すべき先行研究の本数が少なくても許容されるようであれば、短期間にたまたま集中した低質の研究によって、続く研究が低質であっても採用されるという機序が働くことが考えられる。これらの条件は、必ずしも横断的な学問分野だけに特有なものではないが、基礎研究分野では、良質な先行研究が多く存在すること、参入に一定のノウハウと予算と設備が必要であること、などが考えられる一方で、横断的な学問分野の大半が新規領域であり、基軸となる技法や知識の吟味が甘いという事情があるために、横断的な学問分野に生じがちな問題であるとも言える。

次回に続く

2015年5月15日金曜日

放火研究の動向(私家版、パート2)

前回より


放火の環境犯罪学的研究と火災研究との精度感の違いは問題にはならない

不穏当な表現になるが、従来型の回帰分析を用いた政策科学系の放火研究は、火災研究者には、実に怪しげなものであると、適切に理解されてきたようである。少なくとも、その精度が低いことを理解してもらえてはいるようではある。自然現象を相手にするための道具立てを学習する課程は、モデルというものを利用する場合の相場観を養う機会となる。ある研究の正当性は、その研究を評価する研究コミュニティを離れて成立することはないから、怪しげな環境犯罪学研究が「放火に対する建築防火政策の効果はまったくない」と主張しても、火災研究コミュニティからは、健全な反論が提起されることが期待されよう。つまり、環境犯罪学者は、研究上の努力を節約していても、いずれは、それぞれの研究の正しさが見極められることを期待しても良いということになる。将来において、環境犯罪学上の誤りは、自然に淘汰されるものと期待できるということである。

ところがそもそも、火災そのものを研究対象とする研究者の承認は、環境犯罪学的な放火研究の成功条件には含まれない。つまり、従来の統計的手法を利用した、環境犯罪学的な放火研究が内包する限界について、共通の理解に至る必要性は、端から存在しない。放火研究という学際的研究において、知識の相違により軋轢が生じる蓋然性は、十分に高い。にもかかわらず、現実には、この辺の難しさを通過しなければならないことは、第一点目の「もったいない」事実である。「放火犯がまさに火を点けようとする環境」の空間スケールは、「可燃物及び着火源が容易に入手可能な現代」というマクロ環境をふまえると、直感的には「放火犯のパーソナルスペース」程度である。その空間スケールは、大きなものであるとしても「放火犯の視界の範囲」程度である。清永賢二氏らの「侵入盗の目の付け所」に関する研究にいう「向こう三軒両隣」程度の大きさの空間が最大のスケール感である。その「向こう三軒両隣」内に可燃物がないという状況は、わが国の「都市空間」では、きわめて考えにくいことである。放火犯になったつもりで考えれば、可燃物は身の周りにあふれているし、マッチやライターもありふれているから、われわれは、誰もが「放火しようと思えばいつでもできる環境」に囲まれて生活していると言っても良い。マンションが立ち並ぶ地域でも、オフィス街でさえも、可燃物はそこかしこに見つかるし、ホームレスを糾弾する気はないが、彼らがしばしば可燃物を不燃建築物の周辺に持ち込むこと自体は、事実である。

「いつ・誰が・何を用いて・どの物品に最初に火を点けたのか」という点の解明は、火災調査の焦点であり、火災研究者の腕の見せ所であろうが、環境犯罪学者の興味を満たすには、「現実の都市のミクロ空間下に火を点けるものがあるかどうか」が分かれば、十分である。両者の興味には、一種の断絶が存在するのである。このため、火災調査に見られるような厳密性は、正確な放火地点の把握に必須ではあるが、仮に、火災調査に現在ほどの厳密性がなかったとしても、環境犯罪学研究に必要な精度感が左右されることはない。(消防署の)予防課の担当者の説明は、信用できるものとして受け入れられ、そのまま研究に利用されて構わないであろう。その上、放火事件の現場には、素人目にも分かるほど、数ヶ月前もの燃焼地点の痕跡が残されていることがあるから、回顧的に放火地点を特定することは、不可能とは言えない。


警察側の情報が研究の精度感を決定的に左右する

その一方で、放火の統計的研究や、あるいは(地理的)プロファイリングなどの成否を決定的に左右するのは、犯人と事件のリンク分析、つまり、どの事件がどの犯人によるものであるのかを紐付ける作業である。にもかかわらず、警察の犯罪統計やリンク分析結果が外部の研究者に公開される公的な仕組みは、存在しない。外部の研究者は、裁判を傍聴し続けるという方法により、データを収集することが原理的には可能であるものの、現実的な手段ではない。次善の方法として、裁判記録を入手するよう努力するというものもあるが、これも系統性という点では、難がある。結局、回顧調査の枠組みに基づき、不完全な報道記事を元に、連続犯と事件との対応関係を調査するしかない。この作業も面倒くさいし、何より、リンク分析としての正確性を保証する役目が研究者に課せられるため、再現性に問題がある。

この事情は、「警察外部の研究者が放火犯と事件の対応関係を知るために報道記事を利用するしかない」という第二点目の「もったいない」事実を生起させる。警察関係者は、警察のデータが権力の源泉となり得ることを、報道関係者とのやりとりを通じて、重々承知している。私のブログ記事は、報道関係者への批判に満ちているが、それでもなお、通常の研究者に比べて、共生関係という観点から見て、彼ら報道関係者が多大な成功を組織として収めていることに、間違いはない。他方で、研究者にデータを公開(あるいは提供)して、彼らからの信頼と社会からの名声を獲得するという警察の作法は、お世辞にも洗練されたものとはなっていないし、現実に、そのような努力に見合う利益もごく小さなものである。「データの共有を進めれば、犯罪学はより進歩するのに」という研究者の嘆息は、数十年前から見出すことができる。これらの諫言は、研究者当人にとって、このような表出が利益にならないことを思えば、相当に根深い事情を指すものであり、社会が傾聴すべきものであると理解すべきであろう。




2017年9月9日修正

多くの理由から、一旦公開を見合わせていたところ、再度公開することとした。これに伴い、若干の修正を加えているが、大意に変更はない。合わせて、タグの体裁も変更した。

2015年5月14日木曜日

放火研究の動向(私家版、パート1)

#放火(火災)研究の動向を、通常のレビュー論文よりもメタな観点から、自戒を込めて短時間で不遜に記したいと思います。レビューとしても落第点の手抜き状態で、先進性もなく、生煮え状態のくせに、明日のわが身を考えずに顕名で各業界に喧嘩を売りまくりました。しかし、含みを持たせて表現しない方がわが国と後進のためになると都合良く考えてみましたので、ブログに記すことにしました。なお、括弧書きは、学術的な用法ではない(誰かの引用を表さない)ので、その点、ご容赦ください。


放火「火災」という表現

放火「火災」とは、消防法の所管する(消火活動の専門家でなければ手の付けられなくなった状態の)現象である。「放火火災」を「放火」と記しても、おそらく、消防関係者のほかは、気に留めることはあるまい。消防関係者も、(私の存じ上げる方々は、相対的に心が広めで熱いので、)問題視することはあるまいとも思われる。しかし、このように説明した上で、改めて「放火火災」と表記すると、読者の皆様には、研究者の自主規制を含みうる表現なのだなあ、とご賢察いただけるものと期待するのである。

社会学では、構築主義の観点から、この種の表現(の経緯や差異)を研究対象の範囲に含めている。「放火罪」と記すと、これは、法学者の専門領域になる。精神医学は、抽象的な意味での「放火犯」を相手にする。「放火犯」というように、表現を括弧書きとしたのは、精神疾患などによる責任無能力状態の者も含むためである。「放火火災」と「放火罪」という表現の違いは、実務についてみれば、「消火活動を優先させる」消防関係者と、「放火犯の検挙を目的とする」警察関係者との違いでもある。

「放火」や、その上位概念の「防犯」のような、組織間の連携・協調が必要な研究分野では、表現ひとつにも留意することが必要であるし、また、そうして初めて、総合的で効率的な対策の糸口も開けようというものである。しかし、幸か不幸か、これらの要素にまんべんなく目配りし、総合的に実務への還元効率を測定できるまでに入念に実施された放火の(また防犯の)政策評価研究は、今までに存在しない。放火犯一人や不燃建築物一棟についての限界効用を計測できるようになってしまうと、個別の研究分野には都合が悪い。放火に関わる多くの学問分野では、手弁当で実施可能な研究は限られており、追加的な研究予算を獲得することが必須業務であるためである


放火に係る政策評価研究の袋小路

困ったことに、私が学んだ環境犯罪学は、このような要素間の兼ね合いを理解の基本に据えている。環境犯罪学に基づく放火研究では、放火を、「放火犯が、放火しやすいところで、放火しやすい物品に火を点ける」というイベントとして理解して予防しようとする。「放火犯(犯行企図者)、放火対象物及び着火物(潜在的な対象物)、ご近所の目(抑止する存在の欠如)」という三要素のいずれに公的な資源を集中すべきかという問題は、それほど話題に上らないものの、実際、解答が必要である。人口減を受けて経済が(ほぼ必然的に)縮小する中、公共が支出できる予算も人員も減少するのが当然であるからである。

ただ、「こうした三種類の要素のうち、どの要素が効果的であるのか」という問いを立てることは、今のところ、現在のわが国の犯罪学界隈で利用されている標準的な回帰分析による限り、かなり無謀である。本点に係る現時点の環境犯罪学研究では、要素の組合せ(交互作用という。)に対する考察が不十分である。この課題を解決するためには、従来使われてきた手法を新規性のあるものに変えるか、または、優れた考察によって不要な交互作用を捨象するという作業が必要とされている。そもそも、従来の回帰分析による環境犯罪学研究では、交互作用は、ほぼ忘れ去られている。

従来型の回帰分析により先の問いを力押しで解くことが無理なことを、数字で示そう。ABC三種の要素を挙げた場合、ABCすべての組合せによる交互作用項(A:B:C,1種※1)、要素2種類からなる交互作用項(A:B,B:C,C:Aの3種)+要素一種のみの独立項(A,B,Cの3種)という、計7種類の影響を考えることができる。しかし、3種の要素に正確に対応する統計を収集することは、無理な話であるから、適当に3種類の統計によって各要素を代表させることを考えてみよう。すると、計9種類の要素では、合計で511(=2の9乗-1)通りの項が式に含まれることになる。これだけの項を含む式を十分な精度で分析するには、伝統的な方法では、2の511乗の個数以上のデータが欲しいところである。しかし、これは、約6.7*10^153であり、とても用意することができない数である。

従来型の方法では、程度の差こそあれ、どのみち直感に頼って作り上げられたモデルを元にする以上、利用する統計の種類が分析の見た目を左右する。もはや統計分析ソフトウェアを一から開発する必要はないし、そのような必要を強く主張する研究者もいないであろうから、誰でも、同じ統計を用いれば、同じような結果に辿り着ける※2。良心的に先行研究を読み込んで変数の集合を選択しても、分析結果は大差ないように見える。結局、使える統計が同じだと、事前の考察の深浅にかかわらず、誰もが同じような結果を得ることになりがちである。

疎行列を取り扱うことができる統計パッケージを用いたり、マルコフ連鎖モンテカルロ法を援用して交互作用を絞り込む統計パッケージを用いれば、ここで見たような直感的なモデル構築を避けられるかもしれない。ただし、期待されるような結果が得られるかどうかは、試してみなければ分からないし、後者は、人間の頭脳で交互作用を取捨選択した結果と比べて優れているかどうか、保証されるわけではなさそうである。新規性のある手法が成功したように見えるか否かは、分析したい現象の構造が事前に知られているかどうかに依存しそうである。

放火研究の評価というよりも、より包括的に、犯罪研究の評価について語っている塩梅になってきたが、これでようやく説明のお膳立ての元となる「政策科学系の放火研究の怪しさ・相場観」の説明が終わったと思うので、次回は、放火研究の評価に話の焦点を戻すことにしたい。繰り返しになるが、ルーティン・アクティビティ理論がいくら直感的に優れているように見えても、これを従来の統計的手法により説明しようとする試みは、いかにも無謀である。しかし、少なくとも、わが国における環境犯罪学界隈で、この事実は真剣かつ深刻に受け止められていない。これは、新規性のある知見ではなく、どちらかといえば常識の部類に入る。


※1 ここでの表記は、Rの記法に従う。Rのlm関数では、A*B*Cと表記すると、全交互作用項を自動的に推定してくれる。個別に交互作用項を設定したい場合は、A:Bのように表記する。

※2 だからこそ、GNUライセンスであるRは、大変ありがたいプラットフォームであり、今や、必須の研究インフラであると思う。しかし、それだけに、青木繁伸先生がRやExcelの関数におかしなところがある場合に警告されてきたことには、注意しておきたいとも思う。

次回に続く


2017年9月9日訂正

語尾の「だ」と「である」の混在を解消した。brタグをpタグに変更した。リンク切れを解消した。