2017年9月30日土曜日

今回の総選挙の争点は、核武装を認めるか否か、原発を認めるか否かの二軸で分類できる(2)

本稿は、前稿(2017年9月30日)の続きのつもりである。


希望の党は自民党との連立にあたり「原発ゼロ」の放棄を通じて「アウフヘーベン」を果たす

三浦瑠麗氏のブログ記事[1]を関西弁風に直してみたというブログ記事[2]は、三浦氏の記事よりも秀逸である。三浦氏は、「消費増税先送り、原発ゼロ、憲法改正」という希望の党の政策の組合せを、「どこまでも乾いたプラグマティズム(=現実主義)」と評価している。これを、keigo氏は、「これな、組み合わせがなんかイヤらしい感じするわ。」と関西弁に訳している。この訳は、三浦氏の見解にない意図を付加しているようにも受け取れるが、希望の党の個別の政策同士に対する違和感を的確に表現している点で、三浦氏の評価よりも優秀である。

希望の党の「原発ゼロ」と「憲法改正」という組合せは、「北朝鮮の核の脅威」という「情況倫理」の下では、後者が(TPPよりも)前者を無効化する虞が高いという点において、相容れない組合せである。リベラルや安倍氏の政策に比較して、小池氏一派の政策は、いずれも、真剣に検討する必要性を感じない。選挙で主導権を握り、選挙後の連立に向けての取引材料とするという方針で説明できるからである。これを空疎な表現で言い換えると、「どこまでも乾いたプラグマティズム」となる(。プラグマティズムの用法が間違っているのは、公然の秘密というやつであろう)。この点、一応、三浦氏の解説は間違ってはいないが、表現の無駄な装飾はさておくとしても、小池氏の「止揚」に係る解説まで加えておかなければ、「この人、何も分かっていないのを小難しい言葉で誤魔化しているんではないか」と疑われても仕方がなかろう。

小池氏が今回の選挙について「アウフヘーベン(止揚または揚棄。sublation, aufheben)」の語を利用するのは、「原発ゼロ」と「憲法改正」という組合せに係る非整合性を何とかして接合する試みを指すものと解釈できる。複数の人々によってすでに指摘されているが、「止揚」の内実は、選挙後に自民党と希望の党とが連立を組む過程で、「原発ゼロ」が取引材料にされるというものであろう。逆に、連立の条件として原発ゼロを自民党が飲むとすれば、これこそは、「大どんでん返し」である。ただ、「政界渡り鳥」との異名を取った小池氏の評判を思えば、希望の党が「原発ゼロ」を放棄するというケースの方が、より現実的である。いずれにしても、「憲法改正」ではなく、なぜか、「原発ゼロ」を巡る対立軸が調整の中心に据えられるという方向性こそが「アウフヘーベン」の中身を指すものだと考えて良い。豊洲市場を巡るドタバタが良き前例となろう(。なお、本件選挙を通じて、豊洲市場カジノ転用説も実現したとすれば、それは国益上悲しいことであるが、私の悲観的な見立てがまたもや実現したことになり、痛し痒しである)。


次回に続く


[1] 虚無感の内実ー衆院選を前にした日本政治の激動 - 山猫日記
(2017年09月28日)
http://lullymiura.hatenadiary.jp/entry/2017/09/28/105854

[2] 三浦瑠麗の小池百合子を応援できない理由を関西風にアレンジ〜自民党、希望の党、民進党、誰でもいいから保育園作って!〜
(keigo、2017年9月29日、更新2017年9月30日)
http://kosodate-mens.com/2017/09/29/post-514/


おまけ

三浦瑠麗氏のブログ記事は、段落読みできない。手抜きということであろうか、それとも、文章作法を知らないということであろうか(棒)。三浦氏は、私と同世代であるだけに、後者である可能性が高そうである。人間は、他者と比較してしまう存在である。本稿の文章作法が三浦氏のものよりも学術的であるというメタなネタを織り交ぜておいて、本稿を締めておきたい。




2017年9月30日19時修正

表現に不足があったところを追加し、淡赤色で示した。




2017年10月1日14時22分修正

次稿へのリンクを追記した。

(メモ)「保・保・革の三つ巴」は先の都知事選と同様の構図である

本稿は、題名で意を尽くしている。この主張は、掲示板『阿修羅』のあるコメント[1]を読み、気が付いたものである。このコメント自体、都議選と都知事選を混同しているので、しれっと知らぬふりをしておいても良いが、まあ、そこは格好を付けるところではなかろう。泥縄の情報ハンドリングを身上とする者の強みである。なお、『阿修羅』は、最近、とみにおかしなコメントが増えているが、それでも、ゴミの中に光るものを見つけられることがある。ゴミの多くは、非自民党系で、かつ、ごくごく最近参画した組織によるものであろう。私の中の対カルトセンサーの針は、振り切れた状態である。


[1] <総選挙>前原-小沢が解散の日にぶつけた超ド級の奇策(田中龍作ジャーナル) 赤かぶ
(記名なし(4. FPjIUjEAXI: dlMefKak7dA)、2017年9月29日03:33:45)
http://www.asyura2.com/17/senkyo233/msg/169.html

都議選は国政選挙〔...の...〕実地の試験であったと見るべきである

今回の総選挙の争点は、核武装を認めるか否か、原発を認めるか否かの二軸で分類できる(1)

要旨

本稿の意図は、おおかた題名で尽くされている。その論拠は、「原発の維持は核兵器の維持に必要である」という従来から見られる正当な(、しかし「陰謀論」と中傷されがちな)指摘に求められる。題名のとおりの分類方法によって、現時点で離合集散する政界人の立ち位置を3種に区別できる。すなわち、原発賛成・核武装賛成の自民党、原発反対・核武装賛成の希望の党、原発反対・核武装反対の左翼である。希望の党は、フレッシュな若手だけで構成されているというイメージを与えようとしているが、その実、米国に拠点を置いていた旧・戦争屋勢力を復権させるため、核兵器を国際的な核兵器ネットワークから調達して配備するという方針を潜ませている。ゆえに同党の「脱原発」には、十分な警戒が必要である。他方で、現在の自民党執行部が志向する核武装のスタイルは、戦前を彷彿とさせるような超国家主義的なものでありながらも、アナルコ・キャピタリズムを信奉する戦争屋の差配に基づき、核兵器の完成品を米国から輸入・配備するという可能性を排除できない。とはいえ、現今の日米関係は、自民党が、米国の産業界の言い値で米国の核兵器を配備するという形ではなく、自主核武装を志向しているという理解と整合的に推移している。従来、わが国は、原発賛成・核武装反対という「核の平和的利用」を建前としてきたが、この象限の意見は、3.11と北朝鮮の「核ミサイル実験」を経て、ほとんど成立の余地を失っており、留まることができないものと化している。


#昨日までの間に、相当数の人々によって指摘され、今回の選挙戦の構図が「どっちもどっち」として固まりつつあるようであるから、本稿は、要旨だけでも、とりあえず公開して「波に乗る」こととしたい。私個人は、民進党のように「希望の党」へと「アウフヘーベン」することだけはあり得ない、と考えている。


はじめに(本ブログを通覧していない人向け)

本ブログでは、数々の怪しげな公開情報を取扱うが、その主な理由は、「福島第一原発事故という巨大組織犯罪を生じさせた諸要因を鑑みれば、わが国の数々の組織が集合体として原子力を扱うのは無理である」という結論を導出するために、論拠を構築するためである。この点、本ブログの趣旨は、緩い様でいて、私の中では一貫している。ただ、私のそれぞれの主張は、全体を捉えれば、「陰謀論者」と呼ばれる人々にとっても支離滅裂なものであろう。しかし、その「矛盾」は、迷路の中に放たれたモルモットのごとき日本語情報環境と、それぞれの「分かれ道」におけるその都度の判断から生じた結論が、通常人の判断と異なることから生じたものである。複数の事象に対する見解の組合せがテンプレ的なものに陥るという結果は、「陰謀論者」と呼ばれる人々の思考過程にも良く見られるものであり、そのステレオタイプを、私自身は「セット思考」と呼び(2016年7月26日)、警戒している。

「陰謀論者」と中傷される者の多くは、不正選挙、人工地震、福島第一原発事故による健康被害、わが国政府の隠された核開発、のそれぞれを肯定するであろう。これらの個別の話題を肯定するにせよ、否定するにせよ、それぞれの議題が存在すること自体を知る機会が必要であるが、この点は、本稿では問わないでおこう。全体としての賛否の組合せは、2の4乗=16通りがあり得る。「陰謀論者」の多くがこれら話題の全てを肯定する一方で、圧倒的大多数の日本国民は、これらの話題の全てを否定するであろう。16通りの可能な見解があっても、人々のほとんどは、自らの判断に基づき、すべてを否定する見方に留まる。陰謀論に親しむ人であれば、すべてを肯定する見方を採用して、そこから出ようとはしない。この結果には、同じ物の見方をする人が存在しているという、(情報の受け手である)個人の認識が作用している※1

私は、いずれの実在をも認めるが、後者三点については、その実在を確認できる手段に乏しいとも考える。不正選挙は、一般人の感覚で見れば、公開情報だけでもネタが割れた状態にある(が、研究として実証するには、なかなか難しい題材である。2016年9月7日拙稿)。不正選挙に係る具体的な告発やリークは、その仕組みの全体を解明するための有力な手がかりとなっている。人工地震は、欺瞞的な日本語マスコミさえも、北朝鮮の核実験がこれに伴い生じた地震波を検出することにより確認されるという技術的な事実を前提にしているのであるから、理論的には当然存在すると考えるべきである。この一方で、自然地震と人工地震との判別は、可能な場合もあるが、一般人では行いにくいものであるとも考える※2。福島第一原発事故による健康被害は、通常のユーザの権限を超えて、SNS上のアカウント同士・リアル社会との紐付け作業を実行可能な人物には把握できているものと考える。ただし、そのためには、相当多額の研究資金か、何らかの便宜が必要になる※3。わが国政府の核開発は、噂としては確定的な感があるが、実際の調査は、日本人にはほとんど無理であろう。被爆国であるわが国が非公然と核開発に邁進しているという話を具体的(ジャーナリスティック)に追求することは、日本人調査者に対して、生命・財産上の具体的な危険をもたらすであろうから、私だけでは扱いきることのできない話でもある。

(次稿(2017年9月30日)へ続く)


※1 話し手の肩書きは、聞き手にとって、話者の見解の正しさを検証する作業を省略するという効果がある。言論で商売をしている人であれば、自らの立ち位置を変えることは、固定客を逃すことにつながる。小林よのり氏のように、変化を売りにする例外を除けば(2017年4月20日)、商業的な話者にとって、見解を変えるという作業は、なかなか思い切れるものではない。この点は、最近、ポール・クレイグ・ロバーツ氏も批判していたことである[1]。これに類似した理由となるが、博覧強記をセールスポイントにする人もまた、言論商売においては、カネを取ったという疚しさも手伝い、訂正に踏み切ることができなくなるということもあろう。出版社を始めとして、仕事先の複数の人々に迷惑が掛かるというのは、誤りを迂闊に訂正できない理由のうち、最大のものであろう。

※2 ただ、自然(が引き起こした)地震と人工地震との分別は、理論的には、なかなか難しい作業である。自然地震の数が限定されており、しかも、周期的に生じると考えられている地震であっても、前回の波形との比較は、困難なためである(。せいぜい、数回分しか比較対象が存在しない)。井口和基氏は、周波数で簡便に分別できることを指摘しており、これも首肯できる[2]。ただし、この方法は、核爆弾を使用した場合のように、威力の極めて大きな一回性の爆発を前提としている。この点、悪事を企む相手の油断や手抜きを必要としており、いわゆる偽陰性(false negative)を見逃す危険性を有する。ただ、前掲の記事の末尾において、井口氏も、地震波が複数の(核)爆発の重ね合わせによって再現できるか否かを検討すべきであると指摘している(。この点は、2016年9月10日の拙稿でも言及したことではあるが、井口氏の言としても紹介したように読めないので、ここで改めて明記しておく。ただ、井口氏は核爆発のみを地震の原因としているようで、この点は別記事[3]からも推定可能であるが、注水(蓋をしながら掘削した穴に海水を流し込む)や、二酸化炭素の地中封入による地震も考慮すべきである、と付け加えておく。これらの手法まで考慮しないと、地震波を再現可能か否かという逆問題を解くことができないのではないか、というのが拙稿における文章の隠された意図であった)。

※3 孫崎享氏がヒラリー・クリントン氏の言を引いて「置かれた場所で花を咲かせよ」[4], [5]というとき、孫崎氏は、「日本においていわゆる宮仕えをする者で、かつ、良心的に行動しようとする者」に適用可能な見解を述べている。ただし、孫崎氏は、知に対する再現可能性(あるいは複製可能性)と、ハンナ・アレント氏が指摘したような、組織に所属することに必然的に付随する責任について、深い洞察には及んでいない。これら両点の組合せは、少なくとも、わが国の学術環境については、「官僚の役に立つ限りにおいて、学者を利用し、御用学者がその統制に服する」という悪しき形で発露しており、一部の学識経験者には批判されているところである。わが国では、官僚が後から当事者としての経験を生かして学問に天下りすることが通例となりつつあるが、彼らの多くは、相当に不勉強である上、情報公開を十分な形で実施してこなかったのであるから、自らの(実務者としての)公務員としての経験を私消している上に、学術上の肩書きを悪用して、自説を補強したり、自らの失敗を糊塗しようとしているものとも批判できる。俗な言葉で揶揄すれば、まるで自家発電である。ただし、孫崎氏がヒラリー・クリントン氏の言を引用すること自体は、孫崎氏のクリントン氏に対する評価を必ずしも意味しない。『小説 外務省』には、「中国系から一時間約七五〇〇万円もらっていて、日本の方を支持するだろうか。クリントン夫妻の親中、反日は有名である。〔p.74〕」という記述も見られるが、この記述もまた、客観的な評価に留まるものと判定できる。


[1] 歴史とジャーナリズムの武器化: マスコミに載らない海外記事
(Paul Craig Roberts、2017年8月28日=30日)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9493.html

[2] ついに「311が核爆弾の人工地震であった証拠」が見つかった!?:高周波と音波の存在! : Kazumoto Iguchi's blog
(井口和基、2012年02月07日20:06)
http://quasimoto.exblog.jp/17336865/

[3] ザ・「人工地震」:その特徴と我々西日本の将来とは?オーマイガー! : Kazumoto Iguchi's blog
(井口和基、2014年03月05日11:00)
http://quasimoto.exblog.jp/21751556/

[4] 『小説 外務省:尖閣問題の正体』(孫崎享, 2014年4月, 現代書館), p.53.
http://id.ndl.go.jp/bib/025361076
#リンクはNDL-OPAC。

[5] 『小説 外務省II:陰謀渦巻く中東』(孫崎享, 2016年3月, 現代書館), p.268.
http://id.ndl.go.jp/bib/027135230
#リンクはNDL-OPAC。




2017年9月30日14時15分追記

「次稿」へのリンクを同稿の公開後に追加した。




2017年10月2日06時25分訂正・追記

文中の誤記を訂正した。

冷泉彰彦氏が9月28日付の『ニューズウィーク日本版』のコラム[1]において、25日の小池百合子氏の原発ゼロ政策[2]に対して、核武装とは相容れないことを指摘していたことを、今朝方知ったので、付け加えておく。冷泉氏の業績を的確に把握しないままに、このような感想を抱くことは危険ではあるが、類似の見方をする言論人がいたことから、私は、自分の解釈に対して自信を増したつもりでいる。もちろん、小池氏の政策の非整合性に対する指摘については、私には、先取権がないことになる。

ただし、冷泉氏は、小池氏の政策が相互に矛盾することだけを指摘している。冷泉氏のコラムは、意地悪に表現すれば、25日の小池氏の記者会見のみを参照して、エネルギー政策に係る概況を示し、そこに矛盾があると指摘するに留まるものである。誰もが知るような商業的な媒体に寄稿できるだけの名声を獲得して(おり、その名声に伴う正確性に係る責任を有して)いる書き手が、まさか、自力で調査を完結させ、校閲作業を完了しているとも思えないが、仮にそうであるならば、2000文字超の冷泉氏のコラムは、時差とワークフローを考慮すれば、実質、26日中に完成されていたと目される。冷泉氏の表現に見られるように、サラリとした感触の違和感を表明するだけであれば、編集作業も円滑であろう。同時に、『ニューズウィーク』誌にとって、小池氏の「アウフヘーベン」なんて話は、タイムスケジュール上も、取扱うだけの余裕があるとは言えないのであろうが、編集方針上も、解説する余地など、生じるものではないのであろう。

冷泉氏の鮮やかな体躱しに対して、本ブログは、国際秘密力集団の手口を理解するという目標を掲げているから、小池氏の方針について、考察を進めよう;小池氏の政策の相互矛盾は、選挙期間を通じて混乱を生むが、これらの公約を押し通す;その混乱は、選挙後、「原発ゼロか、核武装の放棄か、どちらかを選べ」というダブルバインドを強制する;この混乱を通じて、小池氏が満足できるだけの当選者数を確保した場合、まず間違いなく、放棄される政策は、原発ゼロとなろう。当選者数が十分ではなかった場合であっても、原発ゼロは、投棄されるであろう。

このダイナミクスは、上掲に掲げた「3グループの中から、1グループだけを選ぶ」という実際の選挙の仕組みとは異なり、投票者の中では、二段階のダブルバインドを経て実現される運びとなる。卑近なイメージとしては、徒競走ではなく、1対1の準決勝から始まるトーナメント戦を思い描けば良い。原発ゼロを是とする人は、核武装という小池氏の持論を知らなければ、あるいは核武装(核の傘)を容認すれば、小池氏に到達する。原発を容認する人は、安倍晋三氏に到達する(。ほかの受け皿がないからである)。核武装を容認するか否かから、判定作業を出発させる人々は、リベラルに到達しやすくなる。この仕組みを知る人が「今回の選挙は、安保法制に対する是非である」と主張する場合、彼らは、リベラルへの誘導を図っていることになる(。このようなアジェンダ設定を行う匿名者は、おそらく、プロ筋であろう)。もちろん、私は、今回については、選挙民をリベラルへと誘導す(るよう努力す)べきであると考えるし、仮に、安保法制の完成を重視するにしても、小池氏の二枚舌を許容すべきでないと考える。

本追記は、「破・両建て」を企図する上で、現実に駆使されている方法を暴露したものと自負している。何にでも「両建て」を見出してしまうことは、国際秘密力集団という敵を過大視し過ぎている上、ダイナミクスを飼い慣らすという目的意識を有してもいない。それどころか、恐怖により、人々を萎縮させる目的を有しているとも認められなくもない。知ること自体は、間違いなく重要である。言論者には、両建てというトリックを伝えることが何よりも求められよう。ただ、両建てという構図は、出発点に過ぎない。これに加えて、最近のトレンドは、「両建てという文法を知り、密かに体制内において裏切りを企図する者が、両建て構造における当初の予定調和(=止揚)を脱線させる」というものである。私には、この点を的確に宣伝し、その達成を支援する必要があるように思われるのである。


[1] 小池都知事の「希望の党」、原発ゼロ政策への疑問 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
(冷泉彰彦、2017年09月28日13時40分)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2017/09/post-943_2.php

もう1つは、同時に小池氏は「ゼロ・エミッション(排出ガスゼロ)」への工程も示すとしている点です。表面的には「反原発」と「ゼロ・エミッション」は同じような環境保護政策として、耳に心地よく響くかもしれません。ですが、この2つを両立させるのは難しいのです。矛盾する政策と言っても過言ではありません。

[2] 東京新聞:小池氏 原発ゼロ表明は初 希望の党代表 過去には断言せず:政治(TOKYO Web)
(木谷孝洋、2017年9月27日 朝刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201709/CK2017092702000125.html




2017年10月04日訂正

10月2日追記分を訂正し、淡橙色で示した。

2017年9月23日土曜日

独裁者の目的は、カネそのものではない

独裁者の心性は、おおむね、自身と家族の安寧を求めるもののようである。社会を下から見上げるしか能の無い私からすれば、想像するか、過去の書物を紐解くほか、この命題を追究する術はない。ただ、リアル社会で自身の生き残りを賭けて陰謀を企図し実行する必要があることは、まったく以てストレスフルであろうこと位は分かる。『反マキアヴェッリ論』を著したフリードリヒ2世は、君主の公明正大さを最重要の資質として説いたが、現実には、チェーザレ・ボルジアを超えるかの権謀術数を巡らせ、七年戦争(1756~63年)において、ナポレオンに先立ち、内線作戦を持久的にやってのけている。理想と現実、建前と本音の対比ということになろうか。

独裁者にとって、カネは、部下の忠誠心や兵器と同じく、身の安全を確保するための手段の一つであろう。決して、カネそのものが目的となっている訳ではない。権力者が多大なカネで身の安全を買った歴史的事例としては、たとえば、(私が最初に思い出したものでは、)リチャード1世の十字軍からの帰国途中におけるドイツ捕囚(1192~94)が挙げられようが、これは、十字軍における味方でもあったオーストリア公レオポルト5世に「裏切られた」という点でも、なかなか面白い事例であるように思う。

さて本題;元・日経記者の加谷珪一(かや けいいち)氏は、『現代ビジネス』の『Yahoo!ニュース』記事で、金正恩氏の行動原理をカネであると推定し、金氏自身の口座を凍結すると暴発を招くと述べる中で、田中眞紀子氏についても、末尾の引用のように、中傷と見えるような記述を加えている[1]が、これは、金氏よりも、田中氏への非難を隠れた目的としているものと考えられる。その理由は、記事に示された事実関係に、昨今の情勢を加味すれば、十分に説明できるものである。第一に、加谷氏の記事が、金氏の行動原理を説明する上で、重要な論点の大部分を欠いており、安易な作りである。第二に、衆議院新潟5区への立候補を田中氏が検討していることが報じられている。言い換えれば、北朝鮮情勢について中身がなく、田中氏に対する中傷としてタイムリーに機能する記事は、言論工作としか結論付けようがないものである。

加谷氏の記事には中身がない、と言うのは、件の記事が世に出た形式が商業ベースであるにもかかわらず、以下に示す論点に全く答えるものではないからである。スイスという国名は、(金氏の留学先であったにもかかわらず、また銀行大国であるにもかかわらず、)記事中に一つも出てこない。同国に所在するプライベート銀行が世界中の金持ちから信用されてきており、ここ数年のタックス・ヘイブンに係る機密漏洩被害を免れているという事実を述べてもいない。今朝、報じられた[2]が、中国の銀行政策に関する動向がほとんど述べられていない。2016年2月の北朝鮮による核実験に先立ち、2015年12月末に中国の銀行がいくつかの口座を凍結していることは、『東亜日報』に報道されている[3]。そもそも、金一族の財産がいかなる状態にあり、どこに保管されているのか、概説・推測すらしてくれていない。独裁者たちと国際銀行との共依存的関係という、より重要な社会関係についても、まったく述べていない(。現時点においても、世の中には、複数の独裁政権が存在する。それらの独裁政権にとって、北朝鮮に対する制裁は、人事ではない。ゆえに、銀行が安易にアメリカなどの政府の圧力に屈することは、結果として、預金の流出を招くことになる。これは、一種のジレンマである。陰謀論者の多くは、「全員がグル」という結論を安易に採用しているようであるが、ここら辺の緊張関係こそは、中露が国際秘密力集団との関係を変化させることができた理由の一つであると考えることができる。相互にタマを握っていてこそ、「飴と鞭」は、お互いに対して機能する)。ここらで打止めとしておくが、プロフェッショナル(=カネを貰っている者)には、これ位の疑問には答えてもらわなければならないであろう。

田中氏は、リチャード・アーミテージ氏に対して直接反論したことが公知となっている数少ない政治家である。この一事だけでも、田中氏は、わが国のステイツパーソンであると言いうる。その当人が(、これまた、わが国のステイツパーソンの一人である)鈴木宗男氏と事を構えてしまったことは、わが国では、日本のために尽力する(はずの、政治家とは言えない存在、たとえばフィクサーや官僚のような)黒子が、政治家の利害対立を上手く治められなかったという点で、反省すべき材料である。とにかく、誰がリークしたのか分からないような[4]、何なら捏造かも知れない話を、具体的な裏取りの証拠を提示せずに確定的に記してしまう加谷氏は、果たして、日本国民の味方であるのか。アーミテージ氏と田中氏との関係、加谷氏の記事を並置された場合、「アーミテージ氏に類する存在から田中氏をディスるように依頼されたのだな」と類推することは、自然な論理というものである。

なお、金正恩氏の行動原理は、加谷氏の記事のようなゴミではなく、『ビジネスジャーナル』の掲載する長井雄一朗氏による高英起氏へのインタビュー記事[5]を参照した方が、よほど分かりやすい。

金正恩の行動原理は、考えようによってはシンプルです。金正恩を頂点に、その親族を中心とする体制の安定に尽きます。
『ビジネスジャーナル』は、「経済評論家」の渡邉哲也氏(2017年6月12日2017年9月9日)の「解散風」に係るちぐはぐな解説[6]を載せたかと思えば、もう少し物騒な米朝開戦に係る与党議員の談話[7]を載せていたりもする。渡邉氏の解説が、なぜちぐはぐであるのかは、次のような理由による。製造に係る来歴はともかく、北朝鮮がわが国に向けて核ミサイルを撃つことができることは、現時点においても確定的である。このため、安倍晋三氏が解散に踏み切るとすれば、その理由は、日朝関係だけを考慮した訳ではなく、米朝関係をも考慮した結果ということになる[7]。(2017年9月10日にも、少しだけ言及したが、)アントニオ猪木氏は、武貞秀士氏を帯同して北朝鮮の外交委員会委員長の李洙墉(リ・スヨン)氏と面談した[8]が、帰国の途において、来年の建国祭までにミサイルが完成する見込みであると推測していた。米国へ北朝鮮のICBMが到達することが誰の目にも明らかになったことが衆議院解散の契機となるとすれば、そのタイミングは、来秋までの間、いつでも構わないということになる。右翼であるように装う渡邉氏は、実のところ、とてもアメリカに配慮した発言を提示したことになる。以上が、ちぐはぐであるという理由である。逆に、米朝開戦が12月に控えているという話まで出てくるのであれば、それは、話の筋が通ることになる。『ビジネスジャーナル』は、『トカナ』も擁する『サイゾー』系列であるから、これらのニュースの個別の真偽はともかく、苫米地英人氏の好みや洞察も反映されているということであろう。ただ、渡邉氏個人の中で、以上の情報が統合されて提示されていない点で、すでに、読者は、渡邉氏の見識を疑っても良いということになる(。誰かから提供されたネタをそのまま横流ししているものと観ることも、あながち否定できない)。

なお、ここで事実(と思われた話)を並置して真意を唆すという方法は、加谷氏の採用した方法と、全く同一である。何だかヘッドセンテンスだけでは、納まりが悪いので、オカルト的なジョーク?で締めておこう。苫米地氏は(科学を利用して)現代の魔術師と呼ぶにふさわしい実績を達成している。加谷氏までを現代の呪術師の一員に加えるのであれば、私も解呪者の末席に座すことになろう。


[1] 金正恩氏の「海外資産」にだけは触れてはいけない (現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
(加谷珪一、2017年9月14日8:00)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170914-00052887-gendaibiz-int&p=3

資産家〔...は、...〕資産を保全するための努力や苦労は惜しまず、非情な措置も躊躇なく決断する。

〔...略...〕

かつて田中真紀子氏は「世間には敵か家族か使用人の3種類しかない」と評したことがあったが、これもある種の資産家的な思考回路といってよいかもしれない。

[2] 中国で北朝鮮口座を全面凍結
(北京=共同通信、2017年9月23日02:04)
https://jp.reuters.com/article/idJP2017092201001914

中国の四大銀行である中国銀行や中国工商銀行などが、中国人民銀行(中央銀行)の指示を受けて、中朝貿易の約7割が通過するとされる遼寧省で北朝鮮の企業や個人が所有する口座を全面凍結したことが22日、分かった。複数の銀行当局者が共同通信に明らかにした。

[3] 中国の大手銀行、北朝鮮口座を凍結 : 東亜日報
(丹東=ク・ジャリョン、2016年2月22日07:15、更新2016年2月22日07:20)
http://japanese.donga.com/List/3/03/27/525958/1

中国の銀行最大手、工商銀行の遼寧省丹東分行など中国東北3省の一部の銀行が、北朝鮮人名義の口座に対する中国人の入金と口座振替のサービスを昨年〔#2015年〕12月末から停止していることが確認された。18日の米国の北朝鮮に対する超強硬制裁法が発効される前に下された措置で、〔...略...〕

[4] 田中眞紀子氏が「世の中には、敵と、家族と、使用人と、三種... - Yahoo!知恵袋
(rosachinensis22、2014年12月2日05:05:06)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10138927920

金美鈴さんの書かれたコラムを見ると、〔...略...〕「朝日新聞」2001年6月7日付とでておりました。しかしこれはどこから出た話なのか?乱暴な言葉ですが、正直、官僚に対しては捩じ伏せるような対応も時には必要と思われます。おそらく外務省から報道機関へのリークではないでしょうか?

[5] 北朝鮮と米国、お互いに軍事攻撃できない可能性 | ビジネスジャーナル
(長井雄一朗、2017年09月18日)
http://biz-journal.jp/2017/09/post_20618.html

[6] 安倍首相、北朝鮮の脅威増長のなか衆院選強行の「暴挙」の事情 | ビジネスジャーナル
(2017年09月19日)
http://biz-journal.jp/2017/09/post_20647.html

任期満了が近づくにつれて解散のカードは効力が弱まるため、来秋あたりがタイムリミットだった。しかし、年明けの1~3月は予算編成があるため解散はできない。さらに、北朝鮮情勢は悪化することはあっても改善する見込みは小さく、〔...略...〕来年のほうが危険度は高まる。

[7] 12月以降に北朝鮮を軍事攻撃、米国が安倍首相に伝達で衆院選前倒しか…有事想定で準備か | ビジネスジャーナル
(2017年09月20日)
http://biz-journal.jp/2017/09/post_20652.html

〔...略...〕ある与党議員は語る。

「安倍首相が早期の解散総選挙を決心したのは、トランプ米大統領側から『12月以降、北朝鮮を攻撃する』と内々に連絡を受けたからだといわれています。〔...略...〕

[8] 北朝鮮「制裁を増やせば実験も増やす」 猪木参院議員の訪朝で労働党副委員長語る : J-CASTテレビウォッチ
(2017年9月12日15:33)
https://www.j-cast.com/tv/2017/09/12308193.html

猪木議員と武貞教授らが面談した相手は、すべての外交を取り仕切る外交委員会委員長のリ・スヨン北朝鮮労働党副委員長。

〔...略...〕

「制裁や米韓軍事演習は北朝鮮の生存権を犯すものであって、それが続く限りミサイルや核の実験を続けていく。〔...略...〕




2017年9月25日訂正

抜けていた参照文献への言及部分を追加した。

2017年9月22日金曜日

今週吹いた「解散風」は理解できないものである

今週のマスコミは、揃って「解散風」を報じているが、現時点の国会における政党の外面的な勢力図を考慮すれば、本当に理解できないことである。「モリ・カケ隠し」との野党側の非難は正しいが、これだけが理由であるとは、到底納得できない。読売などが指摘する消費税の使途の限定化という目的は、真面目に検討する気にもなれない程に、取って付けた感がある。しかも、前週の15日、株式会社ムサシ(7521)の株価は、14日に比較して、一段、上昇した状態から取引が開始され、一日中、14日とは異なる価格帯での値動きを見せている。

「解散風」の違和感の理由として、現状、与党が両院で絶対多数であり、しかも衆院三分の二を押さえているという事情を挙げることができる。あと1年3ヶ月の間、与党の全議員が法案に賛成するという前提さえ成立していれば、法律は通し放題である。安倍首相の立場から想像してみると、戒厳令を臨時国会で強行採決しても良いくらいである。これに対して、安倍氏が解散に踏み切った場合、確実に、マスコミの報じる「情勢」は、現与党への逆風となる。10月下旬までは、森友学園疑惑・加計学園疑惑だけでも、マスコミのネタは十分に保つであろうから、「無党派層」の他罰的な投票行動は、マスコミに踊らされたものになるであろう。選挙に係る不正が全くなかったとすれば、「2017年10月の衆院選」も、2009年と同様、大規模な「反動」が生じよう。

与党内部に実は深刻な亀裂が存在すると考えると、解散する理由も多少はあるように思われるが、それでもなお、説明不足の感がある。9月20日には、何故か、石破茂氏がフジ『めざましテレビ』に出演して、自民党の立場を説明していた(。念のため、私は、この番組を流し見した)。株式会社ワイヤーアクションは、この点について、石破茂氏が「不快感を示す」と記述している[1]が、この表現は、妥当である。問題は、なぜ、フジテレビが石破氏に意見を求めたのかという点である。石破氏の肩書きは「元幹事長」である。与党ベッタリのフジ・産経グループなのに、現・幹事長の二階俊博氏にアポが取れないというのは面妖である。二階氏は先の内閣改造を経ても、党幹事長に留任しており、この点、盤石に役目を務めてきていると解釈することができる。二階氏からは、フジテレビの期待する「画」が得られなかったものと考えるのが妥当であろう。本ブログでは、この手がかりに認められる亀裂を、「クリーンなイケメンに注意せよ」という佐高信氏の小泉純一郎氏への批判に連関させて述べてきた(2017年8月28日)。二階氏も石破氏も、イケメンというイメージからは程遠い。ただ、「クリーン・ダーティ」の別で言えば、二階氏は、西松建設事件において、小沢一郎氏と並び指摘されたことからも想起できるとおり、明確に「ダーティ枠」に分類できる。他方、石破氏は、目立ったスキャンダルに相対的に欠如しているという消極的な理由から、「クリーン枠」に対置できよう。2017年現在、日本語マスコミに付与された「ダーティな」イメージは、日本国民一般にとって、一周回って信頼すべき証として機能している。仮に、解散が行われ、自民党が議席を減らすということがあれば、石破氏がマスコミに披瀝した「建前」の「正しさ」は、石破氏の党内における地位を向上させることになろう。この虞からしても、勝てる見込みがなければ、安倍氏が解散に踏み切ることは、自滅的な行為というべきである。公平に見て、望み薄ではあるが、逆に、安倍氏が現在以上の党勢を実現できたとすれば、緊急事態条項の創設に向けて、党内の結束を固めることができるというものである。

先の内閣改造においては、マスコミの「推しメン」である「クリーンな政治家」の入閣の噂が飛び、三宅雪子氏がこれを諫めたものである[2]が、この見込みが実現しなかったことを思えば、マスコミが主導型の解散報道は、一層怪しく見えるものである。解散が報じられれば、衆議院議員は、ただでさえ制限されているリソースを選挙に投入しなければならない。参議院議員も、応援演説に忙しくなろう。解散が報じられるだけで、野党政治家も、与党の造反分子も、人的資源を具体的な政策に投入することが難しくなる。この「解散風」は、偽計であるとすれば、野党を振り回すことにもなり、マスコミ報道が当てにならないことも示せるという点で、一石二鳥の効果を有するものである。

『リテラ』が報じる「自民党独自の世論調査」[3](の怪しさ)は、補助線の一つにはなりそうである。世論調査は、必ず系統誤差が出るものである。もしかすると、自民党の発注担当者には理解できない種類の変更や、人為的な工作のために、結果を自民党有利と誤認させるような系統誤差が生じているのかも知れない。たとえば、RDD方式(電話番号を無作為に選択、自動的にダイヤルする仕組み)に携帯電話が加えられたというケースを考えることができるが、これは、今月中に切り替えられたというものでもなかろう。読売新聞は2016年4月[3]、朝日新聞は2016年7月[4]、日本経済新聞は2016年4月末[5]、RDD方式の対象に携帯電話番号を加えている。この携帯電話や、固定電話番号のいくつかが、サクラにより用意されたものであるという可能性は、十分に考えられる。「飛ばし」の携帯電話がどれほど存在するのか、また、これらの携帯電話にどれほどのRDD方式の着信が実現するのかは、なかなか読み切れないが、あからさまな作為がなければ、かなり小さな確率の話ではあろう。世論調査市場は、事実上、寡占状態にある。月例の世論調査におけるRDD方式については、独占とみなせるものと考えることもできる(が、それを具体的に確定する作業は、本ブログのスタイルを超え、ヒュミントの領域である)。「RDD方式」と言えども、(層化無作為二段抽出は当然としても、特定地域内に存在する全ての番号に等しい抽出確率を付して)ランダムな番号をいつも取得している訳ではなかろう。前回までに判明した電話の名義の別(企業・個人)などは、データベース化され、RDDを運用する企業の資産として、「ランダムな電話番号を発生させる」際に、活用されているはずである。この「RDD発生器」に「サクラへの発信サブルーチン」が仕込まれているというケースは、可能な脆弱性として、考えておくべきであろう。最近、内閣支持率が劇的にV字回復したようであるが、このV字回復を果たすのに必要な番号数は、都道府県ごとに3件もあれば、十分に間に合う。従業員数10名程度の世論工作企業が世論調査企業をクラックした場合、かなりのことが可能になる。マスコミの飼い主は、従来の人的資産を現在も活用できる状態にあれば、安倍氏を自滅的な解散に踏み切らせるために、自民党執行部を錯誤に陥らせるための情報を仕込ませるという工作を命令し、実行させることも可能であろう。

現在の「解散風」を、「マスコミとその黒幕」対「内閣+武官組織」の苛烈な騙し合いの一環から生じたものと捉えてみると、事情が分かったような気になってくる(が、本当のところは、私には、なお分からない)。「マスコミとその黒幕」は、CIAのスパイであった正力松太郎氏が読売新聞社という新聞企業の頂点を勤め、原子力政策を推進してきたことに代表されるように、日本社会において、(無国籍大企業群のための)対日情報機関そのものと言っても良い機能を果たしてきており、「嘘」を多用してきた。他面、現政権の盟友集団(2017年6月10日)である警察・自衛隊の情報機関も、3.11以後はとりわけ、偽計と秘密とを濫用してきた。本ブログは、ここ半年ほど、これらの勢力の暗闘を支持する結論を採用してきている。このような集団同士の騙し合いにおいては、今まで嘘を吐いてこなかった人々(スリーパー)までもが、ここぞとばかりに偽計を講じることもあろう。100%嘘を吐かないという存在は、大変貴重である。しかし、今回の検討においては、大マスコミ(に所属してきた人たち)は、嘘を吐くものと考えた方が良いであろう。

仮に、現政体の選挙における切り札があるとすれば、それは、「現実には死亡しているが、行政実務上は死亡が登録されていない人たちの票を上乗せする」という手段である。これは、「生・権力」の応用技である。死者数が改竄されている可能性については、以前にも、定性的に脆弱性を検討したことがある(2016年7月29日※1)。ただ、この不正は、死亡数を改竄するという作業だけではなく、具体的な投票行動を偽装するという作業をも必要とするものである。従来、指摘されてきた不正の方法には、自動開票読取装置への不正アクセス、投票箱(の中身)のすり替え、開票時の票の交換などがあるが、これらに比べ、組織的な死者の隠蔽は、ハードルが高い。同一人物が別人になりすまして何度も期日前投票するという不正の方法は、すでに噂されてきたところではあるが、これ自体が、なかなか困難である。故人の不在を隠蔽し続けられるだけの人的資源を期待できない組織、つまり、公的機関がこの種の不正を組織的に行う場合、相当の連携と機転とが必要になる。他面、故人が高齢者であるならば、年金詐欺により利益を獲得できるという誘因もあるから、組織的に実行される可能性も、なくもない。

選挙における不正な方法のうち、自動開票読取機の悪用という方法は、非・自民党に連なる組織に現時点で占有されている。この推定の正しさは、過去の二度の都議選を通じて、明白に裏打ちされている。統計的手法では到底説明できない先の都知事選の大差は、『MS Excel』の基本的な加減乗除だけで、見事に、裏社会における過大な見積の結果として示されているのである(2016年8月21日8月30日)。この脆弱性は、最優先で塞ぐべき抜け道であるが、この不正な方法は、同時に、管理者を常に貼り付けておくという(不正の実行者にとっての)弱味を有する。解散が行われた場合、その開票業務の入札結果は、とんでもなく面白い安値競争になる可能性が認められそうである。


とりあえず、今のところ、私にも分かると言えそうなことは、以上である。


※12016年2月25日の拙稿は、この不正が実際にあり得るのかを検討するためにも利用可能な方法論を実際に使用してみたものである。


[1] [めざましテレビ (2017年9月20日放送回) ]の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版)
(株式会社ワイヤーアクション、2017年9月20日か)
https://tvtopic.goo.ne.jp/program/cx/105/1097753/

〔...略...〕解散については自民党の石破茂元幹事長が「解散は総理の専権」と述べつつ不快感を示す、民進党・那谷屋参院国対委員長が〔...略...〕非難するなど、与野党から批判や戸惑いの声が聞かれている。〔...略...〕

[2]

[3] 自民党独自の世論調査で、いまなら議席を増やせるとの結果が|LITERA/リテラ
(記名なし、2017年09月18日)
http://lite-ra.com/2017/09/post-3461_2.html

しかも、決め手になったのが、自民党が独自で行った世論調査だったという。

「自民党は独自で定期的に世論調査を行っているんですが、9月はじめの調査で、いま、選挙をやれば、現状維持は確実。情勢によっては議席を大幅に増やすことができるとの結果が出た。〔...略...〕」(全国紙政治部記者)

[4] 内閣支持 50% : 選挙 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
(記名なし、2016年04月04日15時05分)
http://www.yomiuri.co.jp/election/poll/20160404-OYT8T50146.html

[5] asahi.com(朝日新聞社):世論調査 - ニュース特集
(記名なし、2017年9月21日確認)
http://www.asahi.com/special/08003/rdd.html

[6] 内閣支持53%に上昇 本社世論調査、地震対応「評価」  :日本経済新聞
(2016年5月1日22:00 日本経済新聞電子版)
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS01H2G_R00C16A5MM8000/

日本経済新聞社とテレビ東京による4月29日~5月1日の世論調査で、〔...略...〕

調査の方法 日本経済新聞社とテレビ東京の世論調査は、今回から対象年齢を18歳以上にするとともに、これまでの固定電話に加え携帯電話にかける方式を始めた。〔...略...〕




おまけ:嘘を嘘と指摘しない「情報戦争」の弊害について

「情報戦争」は、一般の(情報探索の手段と資源が限定された)国民にとって、弊害の方が大きい。嘘が嘘を呼び、誤報がさらなる誤解を招くからである。マスコミや政体により示される情報に対して、処理できないほど多くの割合で嘘が混入するようになると、一般人は、何を信用できるものなのか、手がかりを失ってしまう。2017年現在、個別具体的な事実に対する国民の認識は、互いにいがみ合う二種類の勢力の「対立」ゆえに、相当におかしなものと化している。

情報戦争の帰結のアホさ加減は、たとえば、ポリコレ(Political Correctness)運動が中国共産党による扇動活動であるとする『2ちゃんねる(sc)』のスレ主の理解[1]に表れている。この理解の枠組は、タヴィストック人間関係研究所を悪魔化する「陰謀論者」の意見と、ほとんど同一である。問題なのは、この板のほとんど誰もが、この類似性に無自覚であるものと見えることである。一般の陰謀論者に比べて、一部の『2ちゃんねる』住民の認識の歪みは、無自覚であるだけに、病的な度合いを強めている。この無自覚性の遠因には、学識経験者の無知と臆病がある。

日本語社会は、徹底的な価値相対主義に陥って久しいが、少なくとも、犯罪学研究を対象に取る限り、その弊害は、悪しき方向へと作用している。山本七平氏は、「独自」の「聖書研究」からこのような結論を提示した。安富歩氏は、3.11以後、「立場主義」を精力的に「分析」している。彼らの指摘する相対主義は、「両建て」から「止揚」への伏線であるとも解釈できる。犯罪学(というアカデミズムの場)においても、今世紀初頭以来、規範性が軽視され、実証性が重視されている。このとき、竹中平蔵氏のような「知の裏切者」を規範的な観点から非難しないことは、誤情報を積極的に産出・流通させる行為をも黙認したことにもなりかねない。規範主義に対しては、怠惰という非難が冠せられてきたが、他面、実証主義に対しては、臆病という批判が冠せられることはなかった。しかしながら、組織犯罪・企業犯罪は、計量的研究に馴染みにくいという理由を付すことができるため、実証主義者は、この喫緊の課題から逃れることが容易となっているのである。


[1] 【画像】 アメリカのポリコレ騒動が某国の文化大革命と瓜二つと一部で話題に
(2017年08月20日16時31分01秒~)
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1503214244




2017年9月22日23時00分追記

朝日新聞が今朝の朝刊で、解散および公約についての石破氏の批判を取り上げていた[1]。この批判は、本文中で述べたように、石破氏の選挙後の立ち位置を左右するものとなる。

同じ紙面で、中曽根康弘氏の孫で、弘文氏の長男の康隆氏が立候補する考えを表明したことも伝えられている[2]。この報道も「マスコミのイケメン報道にこそ気を付けよ」という黄金則を補強するものであり、また、下半身ネタに日本国民が弱いこと、また、自民党が割られんとする動きが存在すること、を指摘する事例となる。陰謀論だけで、ほとんど用が足りてしまうほどの簡明さである。

[1] 『朝日新聞』2017年9月22日朝刊14版4面総合4「「何のための解散か」石破氏が批判/公約にも反発」(岩尾真宏)

[2] 『朝日新聞』2017年9月22日朝刊14版4面総合4「■群馬1区 中曽根元首相の孫も出馬表明/自民票奪い合いか」(記名なし)

〔...略...〕1区の候補者をめぐっては、県連が週刊誌で女性問題などが報じられたことを理由に、1区支部長の佐田〔玄一郎〕氏に代わる候補者に尾身〔朝子〕氏を選んだ。この選考の際、康隆氏も名乗りを上げていたが、選ばれなかった。

2017年9月16日土曜日

(メモ)「憑依系」の隣接概念

国際秘密力集団の採用する方法論のうち、「憑依系」は、下記のいずれの表現にも隣接する概念であるように思われる。「憑依系」とは、組織や活動の本来の目的に対して、異なる目的を抱いた人物が加入・潜入し、内部で力を得て、活動を変容させるという方法論である。「憑依系」に類似した表現は、ほかにもまだまだあろうし、そもそも「背乗り」という用語で広く知られた悪事の手口でもある。「憑依系」は、『国際秘密力研究』の菊池氏により命名されたが、「憑依系」が「両建て構造」の一翼を準備する方法であるという点こそは、全体の絵図を描くために必要な認識である。「両建て」の使用場面こそは、(現在では)菊池氏(のみ)が指摘する「国際秘密力集団」の「秘密」の要点であろう。


  • 諺や故事成語などとして、「換骨奪胎」「庇を貸して母屋を取られる」「本歌取り」
  • オスヴァルト・シュペングラー(Oswald Arnold Gottfried Spengler)氏の「仮像(かぞう、pseudomorph)」。鉱物が外形を保持したまま、ほかの種類の鉱物に置換されること。ガナシア『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(2017, 早川書房)にも引用されている。
  • 山本七平氏の「対象の物神化」あるいは「臨在感的把握」。山本氏は直接に「乗り移る」という表現を利用する。
  • 宮台真司氏の「ネタがベタになる」。オウム事件にも応用されている(はず)。
  • ジョエル・ベスト(Joel Best)氏のモラル・パニックにおいて機能する、メディア・活動家・専門家・公的機関の相互作用からなる)「鉄の四角形」。佐々木俊尚氏の「マイノリティ憑依」は、これの劣化コピーと理解して構わない。



2017年9月17日追記・訂正

本文を一部訂正した。「背乗り」と「スナッチャー(コナミの同名のゲームが最初である、はず。本来は、snatchingとかになろう。)」と「子取り」と「アイデンティティ窃盗」のいずれが古い概念であるのか、全然把握していなかったことに気が付いた。随分と心寒く思っているところであるが、そこは怠惰が勝るので、あえて宿題として放置する。




2017年9月23日追記

裏取りが進んでいないので、これを確定的に記して良いものかは悩ましいところであるが、落合莞爾氏の『天皇とワンワールド:京都皇統の解禁秘史』(成甲書房, 2015年10月)は、マニ教が他宗教に自身の性格を混淆させることを、強く主張している。落合氏の説は、人類がかなり以前から活発に移住・移動していたことを前提に置いて展開するものであるが、この前提を認めれば、それなりに信憑性があるように思う。人類が短期間に大きく移住しているとする落合氏の前提自体は、演繹的には無理のないものである。また、経験的にも、私の(少なくなっている記憶容量の)頭の中に入っているものを、とりあえず出すだけでも、次の4点の経験的研究(活動)によって肯定できる。文化人類学の古典であるが、レヴィ・ストロースが「発見」した南太平洋の島々に係る社会・親族関係の精緻さは、この前提を肯定する材料である。考古学に関連しては、最近の葦船に着目する動きは、これに連なるものであると言える[2]。ロシアの歴史学者であるレフ・グリミョフのパッシオナールノスチ(ラテン語のパッシオに由来、故事成語風に言えば、臥薪嘗胆)は、プーチン大統領の思想に多大な影響を与えたとされているが、グリミョフ自身は、キャリアの初期において、匈奴を研究しており、匈奴が鮮卑の檀石槐に敗れてから西に大移動しフン族となったという説を提唱した[3]。マーティン・バナールの『黒いアテナ』第二部は、環地中海文化圏が航海技術に裏打ちされたものであることを指摘する[4]。後者の2点は、実証主義者の中では、少数説であるようにも見受けられるが、各研究分野において蓄積された従来の成果が横断的に結合されることにより、初めて提唱することが可能となった種類の研究成果であると思われる(。この種の横断的研究は、エンリッチメント教育の最上の成果からしか得られないものでもあり、実を結びにくいということでもあろう)。

落合氏の説の学術的な課題は、個別の命題の当否もさることながら、その説のほぼすべての論拠が、アブダクションによるものであり、かつ、その説の正当性を、他人にはアクセスできない種類のヒュミントに基づき主張している点である。このスタイルは、わが国の社会科学研究者の正統派となっている実証主義とは、真っ向から対立する。また(、先に挙げた書籍三冊とは異なり)、落合氏の記述のスタイルが書籍であるにも関わらず、相当にとっちらかっていることも、同書の学術上の信憑性を著しく低める要因である。もっとも、この断片的な記述自体、刊行を「さる筋」が認めるに当たり、提示した条件であるものと好意的に解釈することはできる(が、それでも、ねぇ…と言いたくなるほどの構成である)。


#以下、書籍のリンクは、NDL-OPACの固定リンクである。

[1] レヴィ=ストロース〔著〕, 川田順造〔訳〕, (2001). 『悲しき熱帯 1(中公クラシックス)』, 東京: 中央公論新社.

[2] 太平洋横断プロジェクト | カムナ葦船プロジェクト
(2017年9月23日)
http://kamuna.net/?cat=10

[3] チャールズ・クローヴァー〔著〕, 越智道雄〔訳〕, (2016?=2016).『ユーラシアニズム ロシア新ナショナリズムの台頭』, NHK出版, 第7章.

[4] マーティン・バナール〔著〕, 金井和子〔訳〕, 小田実〔解説〕, (2004). 『黒いアテナ 古典文明のアフロ・アジア的ルーツ(2〔上〕)』, 藤原書店.




2017年9月25日訂正

9月23日分を訂正した。




2017年11月8日追記

鈴木真治氏の『巨大数』を読み、アルキメデスが宇宙を埋め尽くすだけの砂粒の数を概算により求めた話が、仏教やジャイナ教に伝播していることを知った。同書でも言及されていた『巨大数研究 Wiki』に、この数の具体的な内容が示されている[2]ので、参照されたい。鈴木氏は、巨大な数が聞き手の判断を麻痺させる旨を指摘していた。巨大な数が人を魅惑するという点は、鈴木氏の指摘のとおりであろう。この点まで含めれば、仏教やジャイナ教における巨大数の導入は、国際秘密力ネットワークの事跡として数えることができるのではなどと、つい、考えを押し進めてしまいそうになる。


[1] 鈴木真治, (2016.9). 『巨大数』(岩波科学ライブラリー 253), 東京: 岩波書店.
http://id.ndl.go.jp/bib/027556890

[2] 砂粒を数えるもの | 巨大数研究 Wiki | FANDOM powered by Wikia
(2017年11月8日確認)
http://ja.googology.wikia.com/wiki/%E7%A0%82%E7%B2%92%E3%82%92%E6%95%B0%E3%81%88%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE

2019年5月20日訂正

明らかな誤りを訂正した。




2017年9月15日金曜日

(メモ)2017年9月15日の北朝鮮のミサイル発射の報道に際しても、三大紙は、宇宙空間に言及しなかった

本日(2017年9月15日)夕刊の読売・朝日・日経の三紙は、いずれも、1面記事において、今朝の北朝鮮が発射した弾道ミサイルの軌道の最高高度が約800kmであったと明記しながらも、この高度が宇宙空間と呼べるものであることに何ら触れていない。『読売新聞』は、防衛省などの話として高度を明記する[1]。『朝日新聞』は、情報源を明記しない[2]。『日本経済新聞』は、官房長官の菅義偉氏の談話を引用する[3]

唯一、『朝日新聞』は、社会面記事[4]において、インタビュイーの言葉を借りて、高度に係るタブーが存在することを示唆している。引用のとおり、回答者は、不安・安心の別を述べているに過ぎない。公務員の言明としては、優秀である。細部の取扱を間違えると、責任問題になりかねないがために、朝日新聞も、必要十分な情報を掲載したものと認められる(。また、このために、私も、必要十分と認められる部分を引用した)。

今回の軌道の最高高度も、事実関係に係る政府関係者の言明だけに注目すれば、本来であれば、「日本の上空」と言うよりも「宇宙空間」と言うべきである。高度に応じた空間の区分に従えば、北朝鮮への批判は、本来、「宇宙空間を軍事的に利用した」とするのが正しい。この点に言及せずに、政府関係者が「日本の上空」というフィクションに拘泥する理由には、対立関係を強調するという意図があるものと言えようが、マスコミ関係者がこのフィクションに付き合う必要性はない。日本語の大マスコミは、平和を愛好する人々の正確な理解を妨げるという点で、平和主義者の敵であると言うべきであろう。

読売新聞は、今回も大張り切りの感がある。安倍首相の声明全文をはじめ、大本営発表の細かい経緯を知りたいのであれば、参照するに値しよう。自ら号外を配布したとも言う[5]ほどである。号外を発行する決定を下した同社の幹部は、確実に騒ぎを大きく見せたい意思を有していたものと断定できよう。


[1] 『読売新聞』2017年9月15日夕刊4版1面「北ミサイルまた日本通過/襟裳岬東2200㌔に落下/「グアム射程内」誇示か」(記名なし)

防衛省などによると、ミサイルは約19分間、約3700㌔・㍍非行史、最高高度は約800㌔・㍍だった。〔...略...〕

[2] 『朝日新聞』2017年9月15日夕刊4版1面「ミサイル再び日本通過/飛距離最長 3700㌔/北朝鮮 グアム射程実証か」(ソウル=武田肇、牧野愛博)

最大高度は約800㌔、飛行距離は過去最長の3700㌔に達したとみられる。小野寺五典防衛相は「米領グアムに十分届く飛距離」とし、〔...略...〕

[3] 『日本経済新聞』2017年9月15日夕刊4版1面「ミサイル再び日本通過/飛距離3700㌔/北太平洋へ グアムも射程に」(記名なし)

菅氏は記者会見で、最高高度は約800㌔㍍と推定されると表明。「(発射高度を通常より高くする)ロフテッド軌道ではなかった」と述べた。大陸間弾道ミサイル(ICBM)かどうかについては「必ずしもそうではない」と指摘した。

[4] 『朝日新聞』2017年9月15日夕刊4版17面「発射「またか」早朝当惑/運転見合わせ、広範囲で」(記名なし)

各地の自治体は早朝から対応に追われた。〔...略...〕落下位置を示す起点として前回同様、名指しされた北海道えりも町では企画課の荒井すぐるさん(30)が午前7時10分ごろに庁舎に到着。〔...略...〕「はるか上空を飛んでいるようなので怖さは感じないが、もうやめてほしい」

[5] 『読売新聞』2017年9月15日夕刊4版13面「本紙が号外発行」

〔...略...〕号外約1万8000部を発行し、全国の主要駅などで配布した。

2017年9月13日水曜日

命の危険を感じる人物が嘘を吐くのは仕方がない(のか)(1)

「エクストリーム自殺」における「遺書」の信憑性は、生前の意向に左右される

殺すぞと脅されながら書かれた文章に、果たして真意が込められているかどうか。甚だ難しい問題である。エクストリーム自殺した人物の懐に「自殺するのはやむを得ない」と書かれた遺書があったとしても、読者は、その「遺書」を信用するであろうか。その文書の「作成者」に直接問いかけることは、もはや適わないのである(。蛇足であるが、死者から応答の不在というテーマは、自殺そのものについての研究にも付随することは、2015年10月28日の拙稿で指摘した)。

わが国では、政治家なり有名人が疑問を感じさせるような形で「自殺」して、自殺として片付けられてしまうことは、結構な割合で存在する。「自殺」した政治家に殺される可能性が少しでも認められるにもかかわらず、自殺と断定してしまうことは、真の犯人に対して、刑事司法機関が敗北を最初から認めたようなものである。そうでなければ、完全な現場保全の後、世界の環境が変化した直後、その仇を速やかに討てるように、怠りなく準備を進めておくべきであろう。そのような話は、2017年9月現在、世人には、全く分かるように聞こえてきてはいないのであるが。

「自殺」における「遺書」の信憑性は、死者の普段の言動のブレ・揺れが少なければ、著しく高まるか低められるかの両極端な方向性を取る。平素から自殺念慮を強く訴える人々を、周りの人々は、放置してはいけない。本当に自殺してしまうからである。逆に、そのような素振りを見せない人が実は悩んでいたというケースは、良く言われることがあるが、偽情報だと思った方が良い(。「自殺の前に、本人からの訴えがない」というのは、自殺にまつわる誤解の一つである)。「自殺」者が「実は悩んでいた」という言明が周囲からなされるとき、何らかの不都合な真実が潜んでいるものと考えた方が、色々と据わりが良い。

わが国では、殺人事件に対する捜査のハードルが相対的に高い。ほかの事件に比べて、極端に多くの人的リソースを用いる。捜査が失敗したときの責任問題など、組織上の影響も大きい。犯人が見つからないという結果に対して、国民の側が極端に不安に駆られるという構造も認められる。これらの事情は、犯人を発見できる見込みが立たないエクストリーム自殺について、警察が捜査に踏み切れない障害となる。マスメディアの視聴者も、「へぇ~自殺だって」と大本営発表を鵜呑みにするのではなく、「また殺人か?何やってんだ警察は?」と思うべきである。警察も、このようなプレッシャーが厳然として存在してこそ、犯人を発見できる見込みの薄い捜査にも取り組めるようになる。社会防衛主義がファシズムに対抗するような活動を作り出しうることも、論理的には認められるのである。また、「陰謀論」を信じる庶民の心性は、健全に発揮されれば、政治犯罪に対して、謂われのない自殺を予防するという信じられないような効能を発揮しうるのである。

最終的に死のリスクを覚悟すべき人たちが突然「自殺」したとき、その死によって「利益を得る」者がいる場合、この「自殺」が殺人であったという可能性は、当然高まることになる。この「利益を得る者」が普段から死(に直結する物質で、犯行がバレにくいもの)を扱う者である場合、なおさら、自殺ではなく、殺人が疑われるべきである。人は習慣の生物でもあり、大抵の物事には慣れるようにできている。「エクストリーム自殺」がドアノブにタオルを掛けての首吊りというパターンは、このような手口に習熟した殺人集団が跋扈してきたことを窺わせる証拠である。米国において、この種の首吊りが非常に少ないことは、銃社会であることの長短が表れていると解釈もできる。足の付かない銃で殺すのが楽であるという事情もあれば、首吊りに見せかけて殺そうとする前に、警戒しているターゲットから反撃を受ける可能性も高いという訳である。


政党政治が機能してこそ「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もありや」も成立する

「政治家なり有名人なりが、自分の信念なり仕事なりを後続に託すことが期待できているとき、未練を持たずに身を捨てる」という行為は、わが国においては、比較的良く見られるものである。ここでの最大の要因は、武士道と家制度の組合せであると言えよう。このようなことを記しながら、私が己を犠牲にできるかと問われると、様々な理由から甚だ怪しいが(、それに、本ブログでは、己を犠牲にするような方法論をまったく採用していないが)、それは置いておこう。とにかく、出処進退に対する相場観は、勝俣恒久氏などの原発ムラに係る現在進行形の事例を除けば、わが国では、統一されているものと思われる。それにしても、インラック氏とタクシン氏の兄妹と言い、ドバイは、国外逃亡者に優しい都市である。バビロン?ねえバビロンなの?とか思ってしまうのである。

わが国には沢山のタブーがあるから、政治家は、結構な割合で、身の危険に晒されていよう。このとき、大抵の政党政治家は、自らが身を退きながら、その危険を訴えるということがない。この理由は、与野党の別、政党の警察との距離、脅す者、の三種の組合せによる場合分けを行えば、まあまあ論理的に説明できる。ただ、本稿で興味があるのは、国際秘密力集団による政治上の脅迫のみであるから、それ以外は省略しよう。

わが国の与党政治家に対する国際秘密力集団の脅迫は、従来であれば、アメリカ合衆国に権力の源泉を有していた旧・ジャパン・ハンドラーズによるものが典型的であった。というより、基本的には、わが国の政治家全般に対する脅迫において、旧・ハンドラーズが関与しなかったものは、なかったものと考えて良い。この事実を踏まえれば、皮肉とも言えようが、旧・ハンドラーズによる一連の攻撃を除けば、公安事件について、わが国の警察が優秀であり続けてきたという実績を認めることができよう。1960年10月12日の日本社会党委員長の浅沼稲次郎氏の刺殺事件も、国際秘密力集団の指示に基づき、各種右翼団体に資金提供がなされた結果、生じたものと解釈できる。実に、活動的なアホほど、カネで釣られるものである。わが国の職業右翼の大多数は、カネを基本原理として動き、言論には言論で対抗するなどの基本的な社会のルールを知らない。

わが国の政治家にとって、旧・ハンドラーズによる自身への脅迫は、結局、しぶしぶ受け入れるか、文字通り「身命を賭す」事態に至るまで撥ね除けるかしか、対処の方法がなかった。というのも、旧・ハンドラーズの飼主が強欲であるがゆえに、交渉(ディール)・妥協の余地は、大抵存在しなかったからである。与党政治家(ほとんど自民党)の場合には、自分が身を退いても、派閥の力関係のために、席を他派閥に譲らなければならなかったであろうから、派閥内からの突き上げを食らうことにもなる。警察もいざというときには動けない(ように、治外法権が使われたと指摘されている。「横田からアラスカ行、パンツ一丁」というやつである)。野党政治家の場合には、端から警察を当てにできないし、警察を頼ったこと自体、公安警察に対して弱味を見せたことになる(と解釈されていよう)。何より、大抵の政治家は、わが国の法律に抵触せずには生きていけないから、いずれは、東京地検特捜部が待ち受けている。公職選挙に係る連座制は、政治家本人への危険を著しく高めてもいる。裁判の公正さに期待しても、裁判官の中にも出世などに目が眩む人物が必ずいようから、彼ら「イヌ」が使われて、ベルトコンベアで一丁上がりである。命令を受け入れることができない(勇敢な)政治家たちは、疑獄で失脚するか、突然死するか、エクストリーム自殺するか、あからさまな場合には暗殺されるという結果となっているのである。もっとも、国際秘密力集団の本拠である米国においても、政府紙幣の発行を企画した大統領は、実現の前に暗殺されている。事情は、どの国でも同様であるのかも知れない。

「陰謀論」を信じない民主主義体制において、大抵の政治家は、「背負うもの」が大きく、かつ、選挙民の「身命を賭した」忠誠を当てにできないために、国際秘密力集団の「命令」を聞かざるを得ない。政治は、家族総掛かりの商売であり、世襲の商売でもあるから、ハンドラーズの要求を断るには、家族(の最年少者まで)が(いずれは)経緯を了承でき(るものと見込め)なければならないであろう。要求を撥ねつければ、一家は、揃って路頭に迷うことになりかねない。選挙民の一部は、事情を知れば、国際秘密力集団の要求を拒否した政治家に投票し続けるであろうが、四六時中、彼らがボランティアで護衛するという訳にはいかないであろう。それに、「活動的な」連中にこそ、二心持つ者が混じりがちであるのは、職業右翼の大多数によって、良く証明されていることである。

また、家族意識により、きわめて強く結ばれた支持母体がなければ、政治家は、国際秘密力集団からの脅迫を、何とかやり過ごすのが安牌ということになる。国際秘密力集団から脅迫を受けるとき、政治家は、彼らが暴力を必要に応じて段階的に振るうことを知ることになる。ターゲットとなった政治家は、いずれは家族も被害を受けるのでは、と心配せずにはいられないであろう。家族を手にかけると脅すことは、将来において、お互い様となるがゆえに、わが国の戦国時代においてさえも、最後の手段であった。社会の「記憶」と「手」が長ければ、国際秘密力集団は、脅迫相手の子孫を手にかける前に、犯人たちの子孫に対する追及を正当化することになるものと覚悟しなければならない。ただ、これには、例外がない訳ではない。太平洋を横断したチャールズ・リンドバーグの息子の誘拐殺人事件は、彼に対する脅迫の一環であったと一部に指摘されてはいる(が、私には、十分に肯定するだけの材料がない)。わが国における類似の話は、田中角栄氏と眞紀子氏の親子関係に見出すことができる。田中角栄氏は、娘の田中眞紀子氏にまで至るほどの地元の熱烈な支持を得ていたが、国際秘密力集団に対抗した結果、立花隆氏からの「筆誅」を始めとする、手厳しい制裁を受けることになった。また、田中眞紀子氏への小泉純一郎氏のアプローチと裏切りを見れば、国際秘密力集団の振付方法は、少なくとも、当人が政治家として活動する場合には、子孫の代までも「祟る」ように作られるものである。

本来ならば、政党とは、志を同じくする人々が結成する組織である。一人が倒れても、仲間に意志を継いでもらえるという期待があってこそ、政党は、十分に機能し、内部の結束は高まるものである。ただし、現代社会は十分複雑であるから、大義を一つとしていても、個々の議題に対して複数の方略を採りうることがある。このとき、「セット思考」(2016年7月26日)の弊害に陥ることを避けるため、政党内部では、個々の議題について意思統一を図るための擦合せ作業が行われるべきであり、明確な党議拘束がなくとも、決められたことには党員が従うことは、当然でもある。わが国では、個々の議題について意思統一を図るための擦合せ作業は、野党や小政党でしか機能していない。政党政治の本来の機能は、公明党を除けば、わが国では、与党サイドにおいては、全く混沌の内にある。与党の成員は、権力の維持を目的とするために、元々、変節しやすい性質を有する。それに加えて、国際秘密力集団の関与があるために、公約違反や造反が度々生じるのである。

昨秋までのドナルド・J・トランプ氏の選挙戦は、結束の固いファミリー意識を有する有権者層と、「陰謀論」とのレッテルに対する健全な懐疑精神という、二つの要件を満たすものでもあった。この双方の条件が揃って初めて、国際秘密力集団(=1%)に対する異議申立てが可能となったのである。もっとも、陰謀論そのものを信じる心性は、健全な民主主義には不要である。必要なのは、国民の健全な懐疑心であり、候補者・政治家周辺の強力な警護体制である。これらの条件は、犯罪組織の付け入る隙を与えないという形で、民主主義が健全に機能する上で、必須の(、ただし消極的な)条件である。


次回予定(#本ブログの例に漏れず、予定は未定)

「分かりやすい嘘」については、本ブログで何度か述べてきたが、「死の危険」まで取り上げることにより、ようやく、わが国特有の「左側」からの「皇室批判」という「陰謀論」の存在に対して、批判する準備ができたように思う。その事例として、鬼塚英昭氏が挙げられる(拙稿2015年10月25日2016年10月31日)。この「皇室批判」を論駁するためには、ここまでに見たように、政治家を例に取り、「役職に代わりがいること」の価値を述べた上で、次いで、「生き残るために必要なこと」を考察するという段取りが必要であった。この段取りは、「エア御用」的でもあるが、この種の「忖度」が「国体の守り方」のデフォルト状態であるのは、戦前の天皇機関説と天皇主権説を巡る議論や、現今の皇室制度に対する議論の外形を思えば、同形であるから、何ら恥に思うこともなかろう。

2017年9月10日日曜日

(メモ)三大紙の中では、今朝は何かが起きたはずであった

今朝(2017年9月10日・日曜日)は、どうやら、大マスコミの予定では、何かが起きるはずであったらしい。というのも、読売・朝日・日経の三紙とも、1面に掲げられる予定であった記事が流れたことを窺わせるレベルの記事によって、1面の全てが埋められているからである。桐生祥秀氏の9秒98という記録は、当人には大変申し訳なく感じるけれども、斉一的で意図的な空白を埋める上では、完璧な話題という訳にはいかない。それだけの金銭上の対価も、桐生氏自身に行かないようにも思われる。『読売新聞』の1面(14版)は、「桐生9秒98/100㍍ 日本人初/苦闘4年 体幹鍛え終盤強く」が2/3を占め、「対北制裁/中露 協議応じる構え/11日採決 米、安保理に通告」、同じ並びに「空自・米空軍 共同訓練」であった。『朝日新聞』の1面(14版)は、「桐生9秒98/100㍍ 日本選手初の9秒台/重圧も挫折も突き破った」が約6割、「尖閣へ出漁「中国政府の命令」/国有化5年」が約4割である。『日本経済新聞』1面(14版)は、「介護費膨張 3つの温床/25年に20兆円/ムダの解消 急務」という小川和広氏の調査報道記事が上段の半分を占め、下段に「電波の民間開放促進/公共機関利用料上げ/規制改革会議」、「桐生9秒98/陸上100/日本人初9秒台」、「スズキ、インド配車と提携/運転教習4万人、購入促す」が順に並ぶ。桐生氏の記事が小さめだが、まあ三等分の範囲内であり、いずれも記名なしである。

わが国の「三大紙」は、ほとんど、『トカナ(tocana.jp)』に出てくる「情報筋」[1]とノリが同じである。むしろ、『トカナ』の方が話題が早いだけ、ニュースとして価値があるということにもなろう。本稿は、もちろん、三大マスコミ紙のデスクが揃いも揃って戦争屋の手羽先であったというオチを示すために、編まれたものである。9日までに戦争など起こらない(2017年8月19日)と主張していた私からすれば、「ねえねえどんな気持ち?」のアスキーアートのノリである。


[1] 【緊急警告】「8月15日~9月7日に米朝戦争勃発の可能性大」政治関係者が衝撃暴露! 日本に難民が3千万人以上押し寄せる!
(2017年08月04日、記名なし)
http://tocana.jp/2017/08/post_14055_entry.html




2017年9月10日23時45分追記

読者の中には、紙面の制作ルーティンから言えば、9月9日に何かが起きるはずだったのでは?とツッコまれた方もおられよう。9+9=18=3×6=666だというやつである。それは、私もそう思う。表現に微妙なものがあったことをお詫びするが、しかし同時に、それは察していただけると幸いである。一応、考えていた理屈は、「午前1時台に何かが起こっても、それはそれで何かが起こったことになる」というものであった。それに、3.11のように、秒の単位まで組み込んだ「小町算」を行えば、「獣の数字」に係る解釈は、何とでもなる。数字カルトに変な「言い訳を与えない」(R.V.クラーク氏の「状況的犯罪予防」)ために、このような否定方法は、常に用意されておく必要があるとは言える。もっとも、この理路は、一旦、「数字遊びによってカルトの強大さを信じ込んでしまっている人たち」の言説を無効化し、その上で、「数字なぞ、どうとでも解釈できるのであるから、トリックの本質に目を向けよ」と指摘して、「カルトの宣伝を行う人たちが裏で手でもタマでも握ってんじゃね?」と暗示するという、数字カルト以上に、捻くれたものである。つまり、数字カルトの権力の本質は、数字カルトを指摘する「間主観性」あるいは「相互作用」に由来するのである。呪いは、基本的には、信じている人にしか効果がないのである。




2017年9月11日修正・追記

現時点までのケアレスミスを修正し、淡赤色で示した。


宮島みつや氏が『リテラ』において、『真相深入り!虎ノ門ニュース』における青山繁晴氏による、2017年9月4日から9日にかけて米軍が北朝鮮を攻撃するという発言を批判していた(ことを本日に知った)。宮島氏の書き起こしと表現を信用すれば(、そして、私には信用できるものに思えるが)、9日の建国記念日における北朝鮮への攻撃を期待していた一派がおり、その中に、青山氏が含まれることになる。過半の「信者」は、今回についても、青山氏の「大外れ」を都合良く忘却するか、無視することになるのであろう。あるいは、わざとガセを流した人物に青山氏が騙されたか、はたまた、青山氏がこのように主張したから北朝鮮が自重したなどと、都合良く解釈するのかも知れない。が、依然として、青山氏に託された「預言」が成就しなかったことは、よくよく記憶されるべきであろう。

期限を切って戦争を期待する発言を公開の場で述べることは、「トランプ時代」における将来予測の方法としては、相当に下策である。予言を外そうとする「敵」の諸力が働くからである。それらの「敵」とされた中国の国力は、トランプ時代において、米国に伍し、あるいは、北朝鮮の軍事力のバックボーンともなっているロシアの軍事力は、米軍に勝るとも劣らないものとなっている。ただ、『新ベンチャー革命』のH.Y.氏の言うところの「旧・戦争屋」の手下たちは、散り散りとなっているために、期限を指定して活動しなければ、思うような連携が取れないほどの状態に追い詰められているものとも認められる。9月11日の現在、旧・戦争屋たちは、逃亡しなければ、16年前の報いを受けるということになっているのではなかろうか、などとも想像できる。

トランプ大統領の「治世」の様相は、田中宇氏の「隠れ多極主義」という表現により、的確に指摘されている。隠れ多極主義においては、権力の空白域が方々で産まれたが、その空白は、「ディール」を経て、「西側」に含まれるシリアにおいては、今春までに、確実かつ迅速に埋められた。その空白域を埋めたグループは、現実の全面戦争を避けるように、(しかし、何度も指摘しているように、)緊張悪化は避けずに、「旧・戦争屋」を放逐するように活動している。このチキンレースによって、多くの解釈は、同一方向にあるように見えながら、戦争に対する話者の意志は、隠されながらも、厳然と二分されているのである。現時点の国際情勢は、まるで、道教の世界であって、緊張を治めようとしないにもかかわらず、自然に納まったかのような様相を呈している(。が、もちろん、そこには、たとえば、入念な米軍のサボタージュなどが存在する)。

各国のリーダーを始め、現今の国際情勢について言及する話者が戦争に対していかなる意志を有しているのかは、最後の最後まで、あるいは、方向性をあらかじめ弁えて解釈しなければ、区別できないように隠されている。米国民は、当人たちの多くが気が付いていないのかも知れないが、トランプ氏を選出したというチャンスに賭けて、「覇権」を「損切り」する※1ことに成功したように見える。後世において、トランプ大統領の「極東情勢に対する責任の欠如」を非難する声がどこかから出るかも知れないが、アメリカ国民からすれば、「アメリカ合衆国をリストラして軟着陸させた名経営者」という評価が下されることになるものと予測される。他方、日本国民は、アメリカが「狭き門をくぐり抜けた」という外部条件が満たされたとはいえ、その上で、福島第一原発事故を起こして私益に邁進する「政体」を信頼しなければならないという、さらなる「狭き門」に直面している。付言しておけば、トランプ氏の当選に関して、日本人の言論は、大勢としては妨害する方向にしか機能しなかった。この中、青山氏がトランプ氏の当選を「予言」していたのは、親族に係る固有のビジネスを通じた「預言」であるようにも解釈できる。ただし、本件を確定することは、ヒュミントの領域であるし、青山氏の発言が奔放であるがため、「両賭け」「両建て」の一環として、青山氏に「トランプ氏当選」を宣伝する役割を与えたものと観ることもできる。青山氏の発言の奔放さについては、後ほど説明する。

国際情勢を論じる者の、各アクターに対する「評価」は、各アクターの勢力を変化させようとする意図をも兼ね備えている。というよりも、現実を変化させようとする意思の強弱に関わらず、発話すること自体が、各アクターの勢力に影響を与える。これが「情報戦」の本質である。アホが発話すること自体、友軍誤射となりかねないし、アホが集団で発話すれば、大誤爆ということにもなりかねない。当然、青山氏も、ここでの「話者」にも含まれ、しかも、今や公人である。青山氏の発話の影響力※2は、かつてなく、金銭的な利益のみならず、日本国民の生命にも直結するものとなっている。

青山氏の発言のすべては、「9日までの米軍による北朝鮮への攻撃」発言に至るまで、旧・戦争屋を第一義的に利するように一貫してきたが、「隠れ多極主義」の方法論が『国際秘密力研究』の菊池氏の言うところの「憑依系」であるために、旧・戦争屋を放逐する方向にも機能している。この点、青山氏は、旧・戦争屋の影響力を測る上での「炭鉱のカナリア」であって、大変に「使いやすい」。「カルロストシユキ」氏(@CarlosToshiyuki)のツイートラインは、青山氏の発言の奔放さをウォッチし続けているが、その良質なまとめを見る限り、青山氏本人のジャーナリストとしての裏取り能力は、残念ながら、誰もが疑問を抱くことができるものである。たとえば、青山氏の新宿歌舞伎町の出会い系バーに係る発言[2]を挙げることができる。「カルロストシユキ」氏の提示する資料は、いずれもMAD動画であるから、恣意的な切出しが含まれるかも知れないが、少なくとも、青山氏には、ほかにも前例がある。『リテラ』は、『週刊文春』2016年06月30日発売の青山氏に係る記事を紹介している[3]が、そこでも、在ペルー日本大使公邸占拠人質事件に係る青山氏の取材交渉能力が揶揄されている。

なお、『週刊文春』に青山繁晴氏が攻撃されたケースは、『週刊文春』に係る拙稿(2017年9月7日)の主張を覆すものであるようにも見えるが、この事例は、応用例の一つであるから、順序良く(、私にとっては都合良く)、解釈を進めていく必要がある。『週刊文春』は、本来、青山氏と戦列を同じくする。私が敵味方の区別を誤っていなければ、『週刊文春』の飼主は、青山氏について、「常々の言動の危うさ」と「参議院議員という身分を得たことによる、敵方からの諜報上の接触」を警戒する必要があったということになる。この二点ゆえに、『週刊文春』は、警告と周知を兼ねて、青山氏の「戸棚の中の骸骨」を公知としたものと認めることができる。『週刊文春』と青山氏とのやり取りは、「導火線に火の点いた汚名という名の爆弾をキャッチボールし合う」ようなものであり、直前にキャッチするのは、もちろん、青山氏なのである。これが、国際秘密力集団の走狗操縦法の現在形という訳である。念のため、明記しておくと、本ブログの読者には当然であろうが、本段落の表現は、可能な解釈を提示しただけである。※3

これに対して、9月11日の『スーパーJチャンネル』では(18時頃、北京空港において)、アントニオ猪木氏の北朝鮮からの帰国途中が報道されており、おおよそ、「北朝鮮は最後まで計画を続けると述べていた、また、来年の建国祭は盛大に行う予定であるらしい」との談話があった。猪木氏の話は、来年の建国祭までに、北朝鮮がワシントンDCを射程に含める核弾道ミサイルを実装する意図があることを伝えるものである。つまり、それまでの間、彼らが敗北に直結するような選択肢を取ることはない、とも解釈できる。猪木氏の談話は、猪木氏がわが国で最高クラスのインタビュー能力を有することを示す例であり、ニュースと呼ぶに値する。青山氏の話や、青山氏の意見に同調する種類の報道は、果たして、ニュースと呼ぶに値するのであろうか。この点を鑑みれば、数多のネトウヨに対して、私の表現が皮肉さを抑えきれないものになるのは、やむを得ないことである。


※1 私のいう「トランプ政権の覇権に対する損切り」とは、「覇権に骨絡みとなっている国際秘密力集団からの影響力を減じる」ことでもある。国際秘密力集団の利益集団を分割し、その一部とのみ、外部者として付合うことにより、その影響力を相対的に減じるのである。現在までの極東情勢の推移は、古歩道ベンジャミン氏の系統の、一般的な陰謀論に指摘されるところの「ロックフェラー(旧・戦争屋、軍事・石油系)対ロスチャイルド(金融・原子力系)」でいえば、ロスチャイルド系のアジェンダに沿うように推移している。その推移に対して、アメリカは、「従来のように、旧・ハンドラーズを通じて、宗主国として関与することがない」と宣言しているものと考えられるのである。

※2 多くの「学識経験者」、とりわけ「御用学者」も、この魅力の虜である。この点をふまえ、不肖の「エア御用」系ブロガーとしては、「よりマシな方を応援する」という方針で、思想を表明しているつもりである。また、この反面、影響力の範囲を考慮しているつもりでもある。真のプロフェッショナルは、すでに、ここで見るような指摘を、本ブログよりも高度に実践し、現実社会において活動を行い、現実への大きなフィードバックを果たしているはずである※4

※3 「私企業」への問合せは、社会関係(担当者との人間関係)を生じる。つまり、ヒュミントの領域である。相手が公人であっても、問合せは、ヒュミントの領域へと立ち入ることになる。

※4 オシント(公開情報の継続的な分析、私に言わせれば解釈、Open Source INTelligence)における危険は、相手が出してくる情報を組み立てた結果、相手の狙ったような絵図を描いてしまうことであると言われている。この危険は、個人の能力と方法に起因して、かなり大きな確率のものとして、厳然と存在するものである。私も、解釈を誤るという危険から逃れることはできないが、私にも、無料のブログを紡ぐ当座の意図があり、誤りは、その意図の下に発生するものと解釈されたい。私の意図とは、「私自身が、福島第一原発事故という犯罪の分析、ならびに時事問題に係る各種の解釈について、どの犯罪学者よりも、タブーを省略せずに、事件の探究を行った」という「実績」を、無料で公開の媒体によって、公知のものとしておくことである。この意図は、固定ページに示したように、三方良しを目的としているつもりではある。オシントに限定して記事を公開する意図については、前日(2017年9月10日)のネトウヨ×ニセ科学批判に係る拙稿を併せて参照すれば、不用意に発言するアカポスに対する「ググれカス」地雷として機能するよう企図していることも、ご理解いただけよう。


[1] 青山繁晴が「今週、戦争が始まる」とトンデモ解説で北朝鮮危機を煽りまくり! でも月末のサイン会はやるよ!|LITERA/リテラ
(宮島みつや、2017年09月08日)
http://lite-ra.com/2017/09/post-3441.html

〔...略...〕こんな軍事シミュレーション(?)をまくし立てていた。

「〔...略...〕金一族が地上に出てきているときに(アメリカは軍事作戦を)やりたいんですよ。〔...略...〕9月9日、北朝鮮の記念日、ひょっとしたら出てくるんだったら、そのときも(米軍の攻撃が)ゼロとは言えないんですよ。で、金一族の暗殺だけっていう限定攻撃もないので全部込みでやるんですよ。斬首作戦込みで(飽和攻撃を仕掛ける)」〔...略...〕

[2]

[3] 「文春砲」に疑惑を追及された参院選候補・青山繁晴の珍発言集! 外交の専門家なのに「タックスヘイブン」の意味を知らず…|LITERA/リテラ
(2016年06月30日)
http://lite-ra.com/2016/06/post-2377.html




2017年9月12日修正

11日分の追記を、当初の意図を変えないよう修正した。

(妄想)安倍=トランプ「ディール」の中身を「自主核武装の黙認」であるとすると蜜月に合点がいく

本稿も、題名で意を尽くしている。昨年(2016年)11月・今年(2017年)2月の会談において、特に、1度目の会談において、この消極的な「密約」が成立したのではないか。なお、この推測は、ようやく辿り着いた感のあるものであるが、仮説に過ぎない。つくづく、私は、察しが悪いものである。ただ、ようやく得心のいったこの仮説から、到底、逃げられそうにはない。2016年11月までにおける、私自身の推測の延長でもあるためである。直接の契機は、石破茂氏の最近の核武装論議のディテールに違和感を覚えたことであるが、陰謀論に類する話題を真面目に取り上げているブロガーのどなたかが、選挙キャンペーン中のトランプ氏の日本・韓国に対する発言のうち、核武装を容認していたことを再度指摘していたことから、ようやく色々とつながった感があるというものである。

この仮説によって、たとえば、半田滋氏が昨年11月に指摘していた[1]方向性は、真逆のものであることが分かる。日本国は、原材料一式を数兆円で購入し、自主核武装へと邁進する。米国は、在日米軍を撤退させ、核兵器に係る調達を(ロシア・中国・フランスに負けない程度に)高値で請負い、その代わり、日本国政府の「自主防衛」政策を黙認する。日米ともに、「ウィン=ウィン」の関係性である。自主的な核武装の黙認という項目を第三者に置けば、安倍氏・トランプ氏・自主核武装の黙認は、安定的な三角関係を構成する。わが国では、対米自立派の賛成を得ることができ、国際的戦争屋(『新ベンチャー革命』のH.Y.氏のいう「旧・戦争屋」)の影響力を削ぎながら、核武装という利権を、安倍政権ならびに旧財閥(系戦争屋)が独占できることになる。アメリカでは、あからさまに高められた北朝鮮との戦争の危機を回避しながら、アメリカ・ファーストの理念に立ち戻ることができ、しかも、「Made in U.S.」である核兵器オペレーション一式を、パッケージとして売り込むことができる。材料の一部は、もちろん、原発ムラを潤す。

北朝鮮にとっても、この日米間の「密約=deal」は、対日関係・対米関係、それぞれについて、天恵となる。「北朝鮮から核兵器を購入して核武装」は、冗談としてちょくちょく見かけるが、マスコミ全般の見解に比べれば、はるかに正解に近いのではないか。8月29日のミサイル発射について、日本国政府は、宇宙空間の存在に言及することなく北朝鮮を非難することにより、また、北朝鮮も安倍政権の設定した「非難の土俵」に上がることにより、「領空内の飛行」というフィクションに立脚し、宇宙条約違反の責めを逃れている。メキシコのICAOとIMOに対して、事前に通告があったという『フェイスブック』の未確認情報があると言われているが、現実の軌道とされる政府発表の限りでは、飛行空域および落下海域は、相当に限定されるはずである(から、何らかの目的を以て、また、メキシコと北朝鮮との外交問題のフックとして、この未確認情報が流された可能性も認められる。話者の氏名までセットにされた上で、この種の情報は、流布されるべきである)。この真偽不明の情報は、本稿の興味に限定して解釈すると、宇宙空間から思考を反らすという効果を有するものと言える。北朝鮮のミサイル問題の本来の焦点は、宇宙空間の平和利用に違反することであるが、その検討は、日朝両国政府によって、意図的にずらされてようとしているのである。米国政府はと言えば、国内に対しては、北朝鮮の脅威がかつてなく高まったため、戦争には踏み切れなくなったと、トランプ大統領が突然宣言する。同時に、電撃的な米朝会談が実現され、戦闘なく終戦が実現する。和平条約が実現するのかは分からない。

戦争屋のうち、米朝緊張関係を煽っていた人物たちは、ハシゴを外され、新たな緊張関係において供給されるべき兵器の種別が異なるがゆえに、権力の座から失墜する。かくして、新・戦争屋と旧・戦争屋の世代交代が生じるのである。日本国は、米国と北朝鮮との「和解」を尻目に、日朝の緊張関係を理由として、公然と、自主核武装へと舵を切る。問題は、その後であるが、この解釈の前に、南北朝鮮関係を検討しよう。

南北朝鮮関係については、分かりかねるところが大きいが、おおよそ、次のような流れではないか。韓国には、また、北朝鮮にも、半島の統一を志向するグループがある。南北朝鮮は、平和裏に統一する可能性も認められる。このとき、日本国民のマジョリティは、半島統一の衝撃によって、核武装を志向する。この筋が有力そうに思える。南北統一には、中国の認可が必要であるが、習金平国家主席の権力が強化されると同時に、一部の人民軍幹部の権力交替が生じたことは、消極的な形による黙認のサインである可能性が高い。中国共産党政権にとっても、北朝鮮と一部軍部の癒着を牽制することは、中国の統一という国是を維持・強化することにつながる。ロシアは、極東については、それぞれのプレイヤーと「仲良く商売ができる」ということと、従来から国民に予測されている以上に領土を縮小しないこと、の二点を落とし所であると考えているのであろう。

新しいパワーバランスにおいては、緊張関係の維持を前提とした、軍事産業に係る市場の再編がポイントとなろう。ロシア・中国の二国については、実際には、領土的な野心は存在しないものと考えられる。しかしながら、中ロの二国が現時点よりも「割を食う」ことは、大国となった両国の国民が許さないであろう。他方で、統一が成るにせよ成らないにせよ、朝鮮半島と日本の大衆は、敵を必要とする心性を育んでしまっている。副島隆彦氏の言う「アジア人同士争わない」は、墨守すべき大義であるが、この大義と軍需産業の軟着陸は、切り分けて考慮すべきことになろう。戦争屋の暴発を防ぐためである。このとき、「局限せらる四島」以外は、創出された緊張関係ゆえに、「政争の具」にされる可能性が非常に高く認められる。それゆえに、わが国では、核武装が必要であるのだという論調が沸騰し、アメリカが核兵器を供給するという段取りが取られよう。ロシアの(中東や南アジアやインドにおける)ビジネスも、中国の(アフリカにおける)ビジネスも、軍需産業であるが、両国は、日本を市場として開拓することまでは、アメリカとの関係を考慮して、控えるであろう。かくして、わが国は、実験的なものまで含めて、兵器に溢れるという状況に陥る可能性が認められる。わが国は、軍事兵器の一大輸入国として、他国に貢献することになろう。この道行きを間違えると、わが国と朝鮮半島は、旧来の戦争屋の勢力を温存し、第三次世界大戦計画の再来を企図する勢力の楽園と化すことになる。

ここまでに見た予測(妄想とも呼べる)における、最大の問題点は、日本人・統一朝鮮人それぞれの無知な庶民の吹き上がりであり、民主主義が衆愚主義に堕する危険性である。国際的戦争屋は、必ず、パワーバランスの変化に付け込み、従来においてわが国から得ていた利益を奪還しようとするに違いない。都民ファーストの会の隆盛ぶりなどを見るにつけ、わが国は、リーチがかけられた状態である。ただ、アメリカが内需主導型・公共事業型の方向へと転向することは、トランプ大統領によって宣言されている。よって、在韓米軍・在日米軍の撤退について、公共事業の雄であるベクテル社あたりからの横槍というものは、存在しない(ように、ディールすべきである)。通常兵器のブローカーからの横車や、これだけの絵図を描けなかった情報関係者(つまりは、学識経験者)の嫉妬、変化に乗り損ねた金融関係者によるねじ込みは、盛大に生じるであろう。

この大変化に対して、頭の切り替えができない人間は、圧倒的大多数であろうが、彼らの振舞いこそが、日・韓・朝の三か国関係の鍵となる。最大の問題となるのが、日本列島と朝鮮半島との(、米中露を含まない、3カ国のみの)緊張関係である。この関係性は、十分に制御されていない。安倍晋三氏・文在寅氏・金正恩氏の良好な三角関係(の強固さ)に対する各国民の承認や信頼は、存在しない。また、わが国のマスコミは、末期的症状を呈している。福島第一原発事故によってボロボロとなった日本人一般の認知能力は、他国に不信を抱かれている。このとっちらかった状況は、国際的戦争屋(旧・戦争屋)にとって、最大の利用資源・機会である。

幸い、北朝鮮の攻撃能力は、アホにでも分かるくらいに増大しつつある。アメリカ国民が冷静に北朝鮮情勢を判断し、DPRKとは戦争ができないと理解し、そのように動くことができれば、各国民の状態も、アメリカに倣えとばかり、沈静化へと向かうであろう。さらなるポイントは、この北朝鮮の事例を、「北朝鮮に倣い、(主権ならびに通貨発行権の確立ではなく、)パワーバランスの転覆を目論む国がある」というガセを主張するための材料として、マスコミに悪用させないことである。「北朝鮮の台頭は、戦争屋の勢力を削ぐために必要な措置であり、許容せざるを得なかった」としながら、北朝鮮が核「強大国」に相応しい、節度ある行動へと移行するように求めなければならないし、北朝鮮も、態度の変化を内外に明示しなければならないであろう。北朝鮮の豹変ぶりは、予想できなくもないが、わが国と韓国の庶民は、その豹変ぶりについて行けず、モロに吹き上がることになろう。

安倍氏がトランプ氏から核武装を容認されたとしても、国際的戦争屋(旧・戦争屋)の影響力を排して、核武装を実現できるか否かは、まったく見通しが立たない。本ブログに示された私の見解も、大概、人を見る目がないものである。しかし、それにも増して、マスコミに登場する「有識者」の顔触れを思い浮かべれば、マスコミの人を見る目のなさは、日本国民の知性の発現状況を推量する上で、致命的に危ういものである。マスコミ自身、多くの走狗を抱えているから、仕方がないとは言える。走狗たちは、走狗同士の付き合いゆえに、最後の最後まで、アホな解説に終始し、一蓮托生となるのであろう。

わが国が自主的に核兵器を維持・管理できるかを考えた場合、まったく無理と考えるべきである。福島第一原発事故という、明らかな先例がある。日本国民は、失敗に向き合い、学ぶことがない。わが国の政策分野には、PDCAが定着していない。核兵器の運用に当たり、失敗は許されない。目黒区立図書館の蔵書の書込みのレベルが大変に低いことは、何度か指摘した通りである。それらの書込みは、利用者の相互作用の結果、生じ、放置されているものである。防衛省の「頭脳」や、東大(駒場)・東工大が所在するにもかかわらず、その程度なのである。

日本人の相互作用の結果は、大概、その組織における「一番のアホ」に左右される。誰もが、責めを負うべきほどのアホという訳ではない。大概の人々は、むしろ優秀である。しかし、どのレベルのアホにでも扱えるレベルの道具でなければ、組織内では、必ず、その道具を使った事故が起きる。そのアホが道具を適当に使用する機会が必ず訪れるためである。加えて、アホ同士が集まると、思いも寄らない低レベルの展開が生じる。福島第一原発事故における[中曽根康弘]×[正力松太郎]が戦後まもなく「つき」、[安倍晋三]×[勝俣恒久]が非常用電源装置について「こね」、[武黒一郎]×[菅直人]が官邸で食らった「天下餅」を想起すれば、私の主張の前には、誰もが沈黙せざるを得ないであろう。それぞれの掛合せによって実現された結果は、個人の賢愚はさておき、確実に、ここに集められた全員のパフォーマンスを下回るような、アホの塊である。この点、前稿(2017年9月10日)でも紹介した書籍であるが、ガナシア『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(2017=2017、早川書房)[3]は、良著ではあるが、同書133ページ以降の福島第一原発事故に対する解釈は、偶然性を強調し過ぎるものである。個人の能力低下に係る非線形性や、人間の平常運転としての非力さを失念しているのである。とにかく、(アホに合わせて)核兵器を運用することは、現今の日本語環境に身を置く限り、戦争屋の軛を脱してもなお、世界を核戦争に導きたいのかと、危惧を覚えずにいられないことである。

こうなってくると、「自主核武装」をポスト戦争屋の米国に容認されたとしても、わが国の運命は、壮大な自爆事故へと至りそうなものである。その結論は、私(の懐具合や将来)にとっても、悲しいものである。このため、その詳細を述べることはせず、「妄想」は、ここいらで打ち止めとしておこう。本件も、「共有地の悲劇」の典型的な事例である。

付言しておくと、ここで念頭に置く「ディール」の中身は、田母神俊雄氏の構想した「ニュークリア・シェアリング(nuclear sharing)」が前例として想起されるが、その具体的なあり方は、相当に異なる種類の安全保障上の均衡を生み出すものと予想される。今夏、田母神氏の公的な発言を防ぐことには、相当に切迫した事情があったというべきであろう。田母神氏の自前主義も、もちろん、田母神氏への苛烈な制裁に影響しているものと考えて、間違いはない。核の傘の共有方法は、「神は細部に宿り給う」典型例である。


[1] アメリカが「駐留費全額負担」を求めてきたら、こう言ってやればいい(半田 滋) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
(半田滋、2016年11月20日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50232

100%なら1兆217億円

〔...略...〕

米軍を「日本の傭兵」にする

[2]ジャン=ガブリエル・ガナシア, 伊藤直子監訳, (2017=2017)『そろそろ、人工知能の真実を話そう』, 早川書房.

〔p.133〕

カタストロフィーの商人は、カタストロフィーを「納得できる(plausibule)」ものとするように腐心してきた。〔...略...〕

賢明なカタストロフィー論

ここまで一般的なカタストロフィーについて説明してきたが、実は今、カタストロフィー〔p.134〕の新しい予想形が登場している。新しいカタストロフィー論は、単なる想像に基づくのではなく、論理的な計算に基づき、未曾有の大事件が突発的に発生する蓋然性を測ろうというものである。〔...略...〕しかし、突発的な事故に関しては、過去に起こったことがないために、備えるのが難しい。たとえばチェルノブイリや福島の原発事故は、予測可能な原因によって引き起こされたのではなく、さまざまな出来事が連鎖した結果、引き起こされたものである。一連の出来事は、確かに起こりうる蓋然性があった。しかし、それらの出来事が重なって、ひとつの大きな結果に至ることは、予測を超えたことだったのだ。福島の例では、マグニチュード八・九の地震が起こった際、原子力発電所の原子炉が自動停止した。だが、停止後も核崩壊による熱が発生し続けたため、原子炉を急速に冷やす必要性があった。それなのに、地震により冷却に必要な電力の供給はストップしていた。加えて、堤防は六メートル以下の津波しか想定していなかったのに、一四メートルを超える津波が起こった。その結果、非常用のディーゼル発電機が津波による浸水で故障した。本来ならこの非常用ディーゼル発電機が、通常の電源が止まった際も電気を供給し、注水冷却用のポンプを動かすことになっていたのだが、それが不可能になってしまったのだ。その結果、長い時間、原子炉の温度は上がり続けていたにもかかわらず、冷却用〔p.135〕の水を送ることができなくなっていた。それに加えて、地震の揺れや津波によって生じた混乱で、救援の到着も遅れてしまった。こうして地震の発生から数日間、温度の上昇が続き、それが原子炉格納容器の気密性の喪失、燃料棒の熔解、放射性ガスの拡散を次々と引き起こし、いくつもの爆発事故が誘発された。このような悲惨な事態が連続して起こることなど、人々はまったく予測せず、何の備えもしていなかったのだ。予測できていれば、ここまでの事態にはならなかっただろう。こういった事態の連鎖は、原発事故だけではなく、たとえば、飛行機の事故など、現在のさまざまなカタストロフィーに当てはまる。

数学者、経済学、哲学者であるジャン=ピエール・デュピュイは、この種のカタストロフィーに対して、科学的なアプローチを試みる必要性を主張している。〔...略...〕そしてテクノロジーの進化によって起こるとされるカタストロフィーに対する心構えとして、「賢明なカタストロフィー論」129の必要性を訴えた。〔...略...〕

#私も、ここで批判される「カタストロフィーの商人」かも知れないが、私は、ガナシア氏よりは、下っ端として「日本人のエリート」に直に接した経験を通じて、「目上」の人間の何割かがその地位に相応しくない振舞いに及ぶ様を目の当たりにしている。また、そのような逸話に興味があるがゆえに、説明に十分なだけの事例を収集できている。もっとも、この辺は、個人攻撃になるから、話す訳にはいかない。会社員であるなら、誰しも、これは駄目だという上司の顔を、一人以上は、思い浮かべられるのではなかろうか。ガナシア氏の主張は、人間の善性を過度に仮定するものである。私は、人の関与する要素については、生起確率を何なら1と置け、と述べているだけである。部品の破断・破損確率は、確率のアプローチに乗るが、人は、ときには悪意を以て、システムにダメージを与えるものである。ガナシア氏の主張自体、フランス政府による核パッケージの売込み材料の一つとして使われない訳ではないのである。




2017年9月13日22時追記

ウォルター・ラッセル・ミード氏(Walter Russell Mead)がウォール・ストリート・ジャーナルに2017年9月5日付で寄稿していることを知ったが、題名を見る限りでは、「核武装ドミノ」を煽る側であるものと解釈できる。この存在を知ったのはつい先程である。この点は、一応、強く主張しておきたい。ミード氏の論考を参照せずとも、国際秘密力集団という手がかりを得ていれば、同じ結論に至ることができるという結果は、むしろ、ミード氏の理解の枠組みが何らかの影響を国際秘密力集団(の存在)から受けていることを、窺わせるものである。

論評の前に、ミード氏の記事を参照しなかった言い訳を記しておく。デジタル媒体は、現在はキャンペーン中であるが、高額である。無料でないことは、私のルールから外れることである。ただし、目黒区立図書館ではアジア版本紙を閲覧できる。とはいえ、費用対効果もあり、また、余分な支出の増加は、現行のスタイルを大きく変えることにもなる。しかも、本文において示したとおり、「神は細部に宿る」タイプの話であるから、論説が有料であることは、たとえ、事前に存在を知っていたとしても、検討の対象にはならないということである。

トランプ氏のアメリカが覇権を「損切り」して極東アジアから手を引けば、近代になって初めて、アジア人自身による勢力均衡が成立することになるが、それのどこが悪いのであろうか。その結果が愚かにも、アジア人同士の戦争となろうと、新・華夷秩序の出現であろうと、あるいは大東亜共栄圏の再来であろうと、それはそれで、アメリカという外部者の影響が抜けているという点で、民族自決の理念が実現しているのである。この点、ミード氏の論考の題名にあるような、「「米国第一主義」かアジアの平和維持か」というような二者択一は、二者択一である必要がない。本来、議論の構成要素は、「米国第一主義か否か」と「アジアの平和維持に関与するか否か」に二分される。題名だけから、ミード氏がダブルバインドを狙っていることは、丸分かりなのである。

もちろん、極東アジアにおける勢力再編の過程において、戦争が起こされてはならない。しかし、ロシアのプーチン大統領のおかげで、極東アジアにおける権力のプレイヤーたちは、旧・戦争屋が手ぐすねを引いて待っていることを理解できる程度には、理性的であろう。旧・戦争屋がアジア人同士を殺し合わせ、人口削減と利益拡大を一挙両得として狙っていることは、広く知られているであろう。陰謀は、公知となった時点で、半ば失敗したようなものである。ここで仕込まれている陰謀は、「アジア人同士を争わせて、何なら核の危機を引き起こす」である。


[1] 【寄稿】トランプ氏は日本の核武装を望むのか - WSJ
(Walter Russell Mead、2017年9月5日14:58JST、「【寄稿】トランプ氏は日本の核武装を望むのか:「米国第一主義」かアジアの平和維持か、戦略的ジレンマに陥る米政権」)
http://jp.wsj.com/articles/SB12810352159357984435504583373462788943602

現代の帝国主義は走狗を育むために貧困と差別を用意する

要約

先進諸国において、貧富の差が二極化し、差別が奨励されつつあるのは、権力の走狗を恒常的に育成し、飼い慣らした状況を維持する上で、二極化した環境が適しているからでもある。「支配する側」に信用や高潔さが求められる社会であれば、社会の二極化は、走狗を「貧乏農場」へと逆戻りさせるぞと「躾ける」上で、都合が良い。「臑の傷」を持つ走狗は、いざとなれば「使い捨て」できる。走狗の「使い捨て」という「リサイクル」行為は、他の走狗に対して一罰百戒を意識させるためにも喧伝される。

#例によって、要約と本文の対応状態が甘々であり、しかも、十分な下調べがないのは、ご容赦いただきたい。また、本稿は、「従来の記事作成で得た知識を踏まえた上で、できるだけ独力で新規性の高そうな内容を考案してみよう」という実験的な方法により、作成している。このため、先人が発明したはずの「国際秘密力集団のアジェンダを乗りこなす」ための「車輪を重ねて発明」した形になっている(はずである)。私が自身に課したテストの答案のようなものであるので、答えが先人の考察に見られるからと言うだけで、パクリと短絡することは避けられたい。


社会上昇を志すサイコパスは、走狗の候補となり得る

他者に冷淡で、目的を達成するために手段を問わない人物は、どの社会階層にも誕生するものであろう。残念ながら、私の不勉強もあり、社会階層の移動者に含まれるサイコパスの割合を定量化した最新の研究(の有無)の紹介はできかねるが、現代のような社会のあり方では、サイコパスが社会上昇を果たした層に含まれていても、全く不思議ではない(。むしろ多いとする研究があることは承知しているが、一般化の方法に問題があるような記憶があるので、いずれ、再度確認してみたい)。サイコパスであるがゆえに階層を下降することも当然あるが、含意に乏しい話題であるし、本稿の興味からは、微妙に外れることである。

社会上昇を果たした層の中にサイコパスが含まれるという言明は、サイコパスでなければ社会上昇を果たせないという言明と全く別物である。前者の言明が実現する確率は、ほぼ1であると見なせるが、後者の言明が実現する確率は、ほぼゼロである。社会上昇の意味が私の思うところと一致する読者は、私の個人的な体験からも、前者の確率をゼロ、後者の確率をゼロであると考えても良かろう。後者の確率は、社会上昇した人が多数に上ることを思えば、論理的にもほぼゼロである。以上によって、ここまで(の本文部分)における主張は、論理的にも倫理的にも、全く問題ないであろう。

一般的に、貧困層の環境は厳しく、謂われのない差別は被差別者の心をも荒ませる。その苦境を脱するために何でもする人物は、走狗の候補者として目を付けられる機会も多くなろうし、自ら望んで違法(すれすれの)領域の活動に身を投じることもあろう。目上の知己に悪しきロールモデルがあれば、それを真似る機会も多くなろう。各国において、組織犯罪集団に特定地域の出身者が多いと指摘されがちであることは、コネクションというものの重要性を鑑みれば、理由のないことではない。しかしながら、特定コミュニティ出身の個人が暴力に手を染めるものであるとか、特定コミュニティに「犯罪性向がある」といった主張は、原因と結果を(意図的にか)混同している。この種の「犯罪傾向が集団に現れる」とする議論は、20世紀初頭に流行した素朴な種類のものである。ある個人が(構造的)暴力に訴える属性を有しており、かつ、身の周りの重要な先達に(構造的)暴力を振るう前例がいると、その個人は、そうでない環境に置かれた個人よりも(構造的)暴力に訴える機会に巻き込まれがちである、という定性的な関係があるだけである。この定性的な因果関係を、特定民族・特定人種の全体に敷衍することは、過度の一般化というものである。


安定的な組織社会は、個人の制裁に対する予測を可視化し、部下の弱味を悪用し易くする

人は、一旦得た(他人も欲しがる)ものを失いたくないものであり、組織内の関係においても、その心性は維持される。人間の執着心は、哺乳類の多くに見られる本能に根差すものであるから、人間社会にとっての前提条件である。となると、ポイントは、組織において、不正の予防がいかに研究・実行されるかということになろう。上下関係のある組織において、下位の人物は、本人に咎められる理由がなくとも、上位の人物の失敗や犯罪を引き受けるという理不尽を通じて、上位の人物の寵愛を受けるという役回りを得ることもあろう。上司の失態を上手に尻拭いした部下が出世するのは、暴力団においても同様であるし、歴史上、茶坊主や宦官の成功例には、この主張を裏付ける事例が良く見られる。制裁を受ける謂われのない「カタにはめられた」個人も、この応用例である。(良い意味で)古典とも呼べようが、『新宿鮫』シリーズの「鮫島警部」は、この応用例の中でも、傑出した創作物の先例である。

加えて、多くの組織が安定的に維持されている社会において、人は、「通常のコースから外れたときに失うもの」を可視化し易い。従来の日本式株式会社のような横並び的な環境においては、追放処分や降格処分(後者は、一般的ではないが)は、周囲の人物によって、失われたものをかなり細かく査定できよう。将来が予測し易いためである。わが国においては、減点主義によって一人の官僚の出世が閉ざされたとき、彼(女)の全生涯における機会損失費用は、数%内の誤差で計算することも可能であろう。このような可視性は、失敗におけるリスクを(失敗の確率か、ハザードの大きさか、具体的なパラメータについては分かりかねるが、)多めに見積もる要素として機能する上、失敗したときには、保身へと人を駆り立てる原動力となる。

組織内における権力関係に、擬似的な家族関係・友人関係・同胞意識が加われば、個人が不正に手を染める余地は、フラットな社会関係よりも増加するものであろう。組織における指揮・命令関係は、その存在自体が、部下の意思決定に対して、不正を行う方向へと影響を与える。拒否しようと思うとき、部下は、クビになることを思う必要がある。同意するとき、上司の命令は、不正に対する部下の合理化を促進する。上司にとって、部下に命令するという行為は、自分自身で不正を働くことに比べ、ハードルを低くするという機制を有する。

弱味を抱えながらも(、あるいは、「汚れた」身となったとしても)、社会的身分の上昇・維持を志す人物は、上位の人物からみれば、利用しやすいものである。「箪笥の中の骸骨(skeleton in the closet)」は、公衆に提示すると脅すことでこそ、役立つものである。履歴書の「賞罰」欄は、法律により規定されている職種であれば、必要ではあろうが、悪用されないとも限らない。それに何より、「前科者」が余分に苦労する話は、枚挙に暇がない。加害者が被害者に対して(、あるいは、その代わりに社会に対して、)償うことは必要である。しかし、たとえば、オーバーステイの外国人を搾取する雇用主は、不法滞在という犯罪を現に犯している外国人よりも、弱味に付け込み、同国人からの制裁を逃れ易いという点で、一段と犯罪的である。「飴と鞭」は、普遍的な使役の方法ではあるが、使い方によっては、大変に卑劣なものとなるのである。


わが国の企業社会文化の変容は、個人を企業犯罪に荷担させんとする圧力を高めている

そもそも、わが国の企業風土ならびに社会生活は、明治期以降、財閥化・大企業化が進んだ後、健全な状態であり続けてきた訳ではない。企業間・国際競争の激し過ぎる現代において、生き残りのためには、企業風土そのものが、健全とは程遠い状態とならざるを得ないのかも知れない。上場企業であっても、その来歴がグレーなものや、その経営者に良くない風聞がまとわりつくものは、それなりの数に上る(。上場市場に対する国際秘密力集団の関与を思えば、ゆえなきことでもない)。汚された企業イメージは、容易に払拭できないために、(優秀ではなかったり、箍の外れた)特殊な人材をますます引き寄せることになる。そうなると、士気の低い成員の忠誠を無理矢理にでも維持するために、マッチョなノリが要求されたり、擬似的な家族関係が強調される。部下に言うことを聞かせるために、パワハラが横行することにもなる。このような組織内部における関係性は、広く国民一般に理解が共有されているために、(別の企業の従業員として、同様の圧力下にある、オフタイム中の)顧客の横柄な態度を増長させる。

この点、わが国の会社主義は、とりわけ、バブル崩壊後、リストラによって社員の終身雇用制という「底」が取り払われたために、リストラの利益を上回る形で、成員が構造的不正に荷担する素地を多く作り出したと言えよう。ブラック企業においては、バレなければ何でもあり・何ならバレても政治力や実力行使でねじ伏せる・そのために従業員を使い捨てることを厭わない、という風潮が決定的となって久しい(。このような体質は、相当の昔から変化していないが、マスコミが取り上げないだけである)。加えて、高度技能を要求する一部の業界を除けば、終身雇用制の下で就業状態(キャリア)を継続させてきた人物に比べて、一定年齢以降の再就職がきわめて不利なものとなるという状態は、相変わらず継続している(。たとえば、女性の出産後の就業条件を想起すれば、戦後を通じてこの指摘が該当することは、大体において正しかろう)。これらの条件の組合せは、個人差こそあれ、確実に、個人が企業活動における組織的不正に荷担せざるを得ない環境を強化している。

企業犯罪というとき、個人による職務・職階を悪用した犯罪と、組織犯罪との二種に大別できようが、後者こそ、コンプライアンスの対象とする上で、公の工夫が求められる分野である。個人の企業内犯罪は、従来のコンプライアンス体制によって効率的に予防され得る。しかし、現今の「何でもあり」の「自由」主義国家においては、一旦覇権を制した企業のコントロールを、いかんともし難くなっている。TPP11が宣言されていることは、その証左である。「国際的」企業に対するトランプ政権の「飴と鞭」は、評者によって評価が二分されるであろうが、少なくとも、アメリカ国民の利益を増進させるという建前については、間違ってはいない。

なお、コンプライアンスの度合いを定量的に論じる場合、福島第一原発事故を鑑みれば、わが国の企業犯罪は、警察の認知活動はともかく、3.11によって、決定的に顕在化・増加し、放置されていると結論付けられる。京円という単位の損害など、通貨発行権でも有している存在でなければ、生み出せる種類の不正ではないし、度重なる違法行為が黙認されているからである。何度でも繰り返すが、福島第一原発事故は、東京電力だけを見ても、世界史上、最大規模の企業犯罪であり、権力犯罪である。

福島第一原発事故の放置状態は、わが国社会のモラルハザードを確実に悪化させている。ただし、個人が企業犯罪に荷担せざるを得ない圧力は、脱原発に係る社会活動のテンプレ的な失敗からも生じている。三宅洋平氏周辺に対する角本ゆり氏の告発(2017年9月9日記事参照)は、その典型例である。人工芝運動は、至るところに存在し得る。われわれは、個人として、何事につけても判断を下す必要がある。この点は、伊丹万作氏の『戦争責任者の問題』にも、善き前例を見出すことができる[1]


[1] 伊丹万作 戦争責任者の問題
(青空文庫所収、2017年9月10日確認)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。


竹中平蔵氏は、わが国における国際秘密力集団の「走狗」としてのロールモデルである(が...)

竹中平蔵氏は、現在の「従業員使い捨て社会」を用意した人物であり、「貧乏になる自由がある」との旨を語ったことが広く批判されているが、彼の言葉には、彼を駆動させる原動力が端的に示されている。つまり、貧乏こそが竹中氏の恐れる「自由の双貌」の「片面」である。竹中氏は、今の生活の維持・向上のためには、努力を惜しまないであろう。この点、竹中氏と暴力団構成員の動機付けと行動原理は、彼(ら)の財産を維持・増加させるという目的に対して、同一のものと見なせよう。より正確に表現すれば、竹中氏の今までの言動と実績は、今後、彼が不法な行動に手を染めないという確信を一般の大衆に与えるものではない。竹中氏の行動原理が暴力団のものと同一であると気が付けば、素行の悪い弁護士や銀行員を暴力団が「カタにはめて」利用することがあるのと同様、竹中氏や彼を使嗾する存在が「臑に傷持つ」者たちを利用しており、竹中氏自身も「臑の傷」を放置されている可能性を認めることもできよう。

竹中氏自身の「臑の傷」が放置されている状態は、彼を凋落への不安に基づき駆動させるために必要な措置ではあるが、一般的には、「何でもあり」というメッセージを世間に与え、さらなるモラルハザードを誘発する。竹中氏については、相当に信憑性のある(現在では)職務違反行為(となる過去の行為)や利益相反行為が指摘されているが、これらの指摘は、竹中氏の「アキレスの踵」となっている。(常温核融合や宇宙エレベータやSTAP細胞に係る)学術的な醜聞が処罰される一方で、単なる剽窃が学術コミュニティの成員に放置されていることは、一般に対して、「竹中氏が本業に対して重大な背信をしでかしながら、大きな顔をしていられるのであるから、国際秘密力集団に対しても何をしても良い」という思想を正当化する危険性がある。この点、誰の目にもあからさまに悪人に見える走狗を国際秘密力集団が飼い続けることは、国際秘密力集団にとっても、そのつながりがバレることを思えば、弊害が大きいはずである。ただ、この種の社会的な懸念は、現時点のわが国では、ごくごく一部の差別主義的な言辞を弄する若~中年世代の「極右」や「極左」にしか表れていないようである(。それに、『国際秘密力研究』の菊池氏の考察のとおり、あるいは、「ᴹ 」氏(@q_MW_p、文字コード変換の問題から、正確な表記ではないかも知れない)の写真付きツイートに示されるとおり、彼ら「極右」や「極左」が両建て戦術の一翼でない保証は、どこにもない)。

国際秘密力集団にとって、アメリカ合衆国は、世界各国における走狗の候補を見繕うのに適した国である。移民社会であり、金融、先端的産業、学術研究の中心地でもある。かろうじてアメリカンドリームという経済的成功も夢見ることもできる。このため、各国の優秀で野心的な若者が、自ら挑戦の機会を求めてやって来る。ただ、競争が激しいために、何でもする人間は、何でもすることを余儀なくされることもあろう。同国のホワイトカラー社会は、マウンティング社会でもある。一般に、アメリカは、失敗を恐れずチャレンジする心性を賞賛すると指摘されているが、社会保障の底が抜けていることも事実であるから、元の貧困に逆戻りすることを恐れる心性の持主ならば、なおのこと、不正への誘惑に抗し難くもなろう。その環境は、東洋的伝統に譬えるならば、蠱毒を育成する過程のようなものである。(貴志祐介氏の『悪の教典』は、悪人たちのマウンティング社会=蠱毒を描くことが目的であるようにも思われる。)

私が密かに驚嘆しているのは、わが国において、竹中氏を筆頭とするような洋行帰りの(国際的な)戦争屋の手下たちが、悪しきロールモデルとして、長らくのさばってきているにもかかわらず、この前例に積極的に倣おうという若年層が、竹中氏の横溢振りに比べれば、IT業界を舞台にしたマッチポンプを除けば、増加し続けるようには見受けられないことである。それとも、彼(ら)のような、日本人らしからぬ印象を与える悪人に、日本語話者の人々が感化されるのには、もう少し、特殊な条件があるのであろうか。ロスジェネは、竹中氏の思想によって割を食うことになった世代であるが、この世代は、社会人となった時期に、竹中氏の台頭とやりたい放題を目の当たりにすることとなった。会社内においては、当時の中高年世代がリストラに遭ったために、先輩に鍛えられる中で人の良さに触れる機会も、相対的に少なかったと言えよう。堀江貴文氏に代表されるように、ロスジェネが、世の中、やったもん勝ちの風潮に染まるのも仕方がないことである。他方、赤木智彦氏の最近までの思想の変遷は、竹中流の「構造改革」のしわ寄せを蒙った「負け組」から脱しようと苦闘する人物の視点を反映したものであった。堀江氏と(デビュー当時の)赤木氏の両者の「身分」に対比されるような(私も含めた)中年世代の階層意識は、「勝ち」と「負け」を峻別し、一部の「勝ち組」に加われなければ生きる意味がないと短絡するような、救われないものである。しかし一方で、中年世代の階層意識は、競争に対しては、「同じアホなら踊らにゃ損々」といわんばかりに統一されたものでもある。しかし、現在の20代・30代(の高学歴者たち)は、(若年世代を悪く言うつもりは全くないが、)もう少し、ナチュラルに保守的であり、内発的であり、周囲の環境に(何なれば、過剰)適応しているように思われる。橋下徹氏がワシントンDCで開陳するも(詳しい解説は、2017年6月10日記事)、橋下氏の言う「第三世代」は、微妙な年代差によって、相当に異なる様相を見せているように思われるのである。


「ミーイズムの極致」を「消極的なファシズム」として認めれば、現今のファシズムは完成済みである

わが国では、福島第一原発事故という「破局」を迎えても、社会運動が機能しなかったほどであるが、これは、ファシズム化の現れと言うよりも、ミーイズム(利己主義)が極致にあったからと言うべきである。若者が粛々と個人の生活に勤しみ、福島第一原発事故を我が事として引き受けないのは、「生活ファシズム」と呼べる現象かも知れない。もっとも、同事故を当事者として引き受けた人々の多くは、当事者としての活動に留まる傾向が認められよう。この状態は、「それはそれで」問題のある状態である。いとも簡単に、己の経験のみにとらわれ、自ら分断統治状態を引き起こしうるからである。

大多数の人々が反原発運動を継続しきれなかったという実態は、「安全厨」に代表される層への同化圧力というよりも、単に、関心を持続させる姿勢が欠如してきたからである、と考えた方が良い。(マザー・テレサの言う「愛情の反対は無関心」に似ている。)ファシズムは、同化への圧力を指すが、その「同化」の内実は、「タブーのリストに載せられたことをしない限りは放置される」という、消極的な形式を取る。現時点のわが国における生活者が関心を向けることのできる対象は、彼らの人生の持ち時間に対して、はるかに多い。それに、大多数の人々が従来通りに生活していかなければ、3.11の影響に対する「軟着陸」もあり得ない。「軟着陸」などとフェビアン主義者(を自覚すれども相互承認されていない私)が主張するとき、すでに、彼らは、「両建て」の陥穽に落ちているのかも知れない。

ともかく、現時点において、わが国のファシズムは、従来の一般的なイメージにあるような同一性を強要していないという点では、究極的段階には到達していない。現今のファシズムは、「庶民は、勤労し、庶民らしい生活に集中せよ」という一つの命令を等しく国民に強要する点では、紛れもなくファシズムである。しかし、「権力の米櫃に手を突っ込まない」限りは「権力が牙を剥かない」という点で、消極的な段階に留まるのである。「ブラック企業で景気良く働いてもらって株価を上げてもらって皆ハッピー」という点では、また、「貧乏になり野垂れ死ぬという自由」を選択肢として提示する点では、つまり、「奴隷か死か」という選択肢を与えているだけ、単に「お国のために死ね」というよりもマシである、と強弁しうるのである。

逆に考えれば、現在のわが国は、すでに「消極的なファシズム」の完成形を楽しんでいることになる。どういうことか。重複を多く含むことになるが、項を変えて、いくつかの事例を考えよう。


「消極的なファシズム」=「フィール・グッド政策」=「マトリックス」が完成した形跡は、方々に認められる

一部の研究者が大規模災害・事件の後に一時だけ関心を示すのは、それが彼らの研究費を増加させる機会であるためであり、研究生活を生き残る上で、有用そうに見えるからである。しかし、わが国の社会にとっては大変に不幸なことに、福島第一原発事故は、総じて、「その影響がない」というアジェンダに基づく研究者のみに対して、研究費の割当を増加させた。福島第一原発事故の探究に係る「タブーのリスト」は重層的である。特に、「核開発」と「北朝鮮」との掛け合いは、最も底に沈められた種類のタブーである。これらを取扱わんとする誠実な研究者は、キャリア形成に勤しみ、テニュア(在職権)を獲得するなどして、安定的な地位を占めなければならない。この道程を思えば、ノーム・チョムスキー氏のような存在は、「超人」とも形容すべき成功例である。

「経済活動」を個人に応じて盛り上げているという条件を満たす限りは文句を言われないという点で、わが国の二度に渡るファシズム経験は、「多様性と自由」を許容する。現在のファシズムは、経済的苦境に発した(とされる)第二次世界大戦前のファシズムと、同形の道程にある。当時の経済においても、裸一貫からスタートした個人には、「真の経済活動の自由」とは、「野垂れ死ぬか搾取されるかの自由」の別名に他ならなかった。また、通貨発行権の統合過程は、「国際秘密力集団」との確執抜きに語ることはできない。つまり、経済活動の自由とは、現実に保障された存在ではなかった。当時のアントレプレナーから見れば、まず最初に、「中央銀行制度ありき」であった。その下に、圧倒的な経済的格差が存在した。金融工学技術の発展は著しいが、「「信用」供与の方法」と(手持ちの)資本の非対称性、という金融の基本的な仕組みは、むしろ強化されている。当時も今も、経済学の発展とは関係ないかのように、政商が幅を利かせ、常人では望み得ない安定さで、庶民と数桁は異なる利益を上げているのである。

経済活動の外面的な「自由」に比較して、不倫・LGBTに係る性向・煙草(や大麻)等の嗜好品・肥満は、厳しい制裁を受ける傾向にあるが、その理由は、これらの生活習慣がいずれもファシズムの「母体」となる「純血の人口集団」を縮小しうるためである。この傾向は、ミシェル・フーコーの指摘した「生=権力」の表出であり、ナチス・ドイツにおいて実行されたことは、周知の事実である。これらマイノリティの志向は、現代の日本においても、一種の贅沢品と見做されている。その好ましさに対する判断は置くとして、不倫に対する非難(2017年9月7日)は、思考を省略しがちな「マジョリティ」の相互承認の度合いを高めるという副作用も生起させる。現実には、マジョリティが幻想に過ぎなかったり、切り分け方によって容易に他者の判定が変わる危険性が認められる可能性があるにもかかわらず、である。「セット思考(2016年7月26日2017年6月4日記事の注も参照)」の恐ろしさは、本ブログの方々の記事で指摘したところである。単なる2×2の4通りの区分方法によっても、大衆という存在は、二段階の二者択一を強いられることにより、容易に一つの結論へと扇動される危険性を有しているのである。

第二次世界大戦前のわが国においても、現在の格差社会においても、個人が経済的に成功する上での「覇道」は、政商となるか、投機で一山当てるというものである。両者の方法は、同一人物の内部で結合すれば、より効率的に利益を生むものとなる。インサイダー情報が利用できるからである。さすがに現時点では、このような稚拙な方法が用いられないと思いきや、特区制度に係る各種の醜聞は、竹中氏を筆頭とする「学識経験者」が利益相反を承知で特定企業に有利な決定を下すという形で進められていることを明らかにした。特区制度は、見方を変えれば、企業にとっての租界」である。この方面に係る悪事の手口は、自然犯や庶民一人一人を相手とする詐欺とは異なり、100年経過しても、さほど進化することがないようではある。犯罪者同士の競争や、刑事司法機関との知恵比べが存在せず、後世への継承が限定されているためであろう。

金融取引市場という「鉄火場」の周辺で、若くて野心的な人物が「経済的成功を収めた人物」の役割を演じるフロント要員として、国際秘密力集団にリクルートされることは、暴走族が暴力団員の供給源であることと、まあまあ相似する。ただ、国際秘密力集団の権力の源泉は、多岐に渡る権力を利用した二項対立構造にある。このため、彼らは、たとえば、政・官・財・軍・学、各界の出世街道においても、彼らの役に立つ「犬」を見つけなければならない。国際秘密力集団という権力ネットワークが存在すると仮定すれば(、そう考えて良いだけの材料もあるが)、このような徴募ルートも存在すると考えること自体、特に不自然なものではない。われわれは、社会に組織があることや、それらの組織に固有の目的があることを疑問に思わない(ように教育されている)し、「高度に発達した組織」を「専門家が運営・自治」するというスタイルにも、疑問を抱かない。ポイントは、リクルートされた「フロント要員」の才能次第で、「支配」が「善き人間牧場」にもなり得れば、「地獄」にもなり得るという点である。

国際秘密力集団の主要ツールの一つは、通貨発行権と、この権利の「(国家権力からの)独立性」である。2017年9月8日朝刊の『日本経済新聞』「デジタル通貨 中銀に待望論/英中など構想 日本も研究/金融政策 効力堅持へ」(1面14版)で、仮想通貨に中央銀行が取り組もうとしていることが1面で報じられたが、その記述は、欺瞞に満ちている。一時期、ビットコインは、Torを利用したアングラ仮想市場である『Silk Road』を通じて、薬物や武器等の違法な取引にも使用されていた。この仮想通貨に「信用」を与えたのは、地下経済とそのネットワークでもある。これに中央銀行が新規に介入することは、中央銀行が違法取引に対しても積極的に信用を供与したということになる。犯罪者たちが不換紙幣を使用するのは、一国の社会に承認された道具を利用している(ただ乗りしている)だけであり、これは、やむを得ない種類の脆弱性である。他方、犯罪者たちが形成した信用供与のネットワークに中央銀行や主要都市銀行が介入しようとすることは、順序が逆となるのである。それとも、両者は、同一種類の道徳的主体であるのであろうか(棒)。


明らかに、ウォシャウスキーきょうだい(平仮名なのは故意)の『マトリックス』は、違和感に発する「ファシズム」をモチーフに作り込まれている。なお、『アノニマス』を産んだ『V・フォー・ヴァンデッタ』へと続く流れは、明らかに、一つの啓蒙的集団を意図している。なお、『マトリックス』第3作の機械を『未来少年コナン』だと思った観客は、きっと中年世代に違いない。というので、「緩い絆」からの連想オチになるが、宮崎駿氏の人となりを知らなかった(2016年11月13日)川上量生氏が「人工知能をして回帰分析を語らしめることが面白い」という旨[2]を、組合せ爆発の恐ろしさを知らずに宣い(2015年5月14日記事も参照)、挙げ句に、(両建ての古典でもある)グノーシス主義に由来する、「仮像された(=換骨奪胎された)」種類のシンギュラリティ仮説[3]を無邪気に肯定することは、これまた『マトリックス』ばりに入り組んだ「誤解の迷宮」というべきであろう。耳学問であるにしても、川上氏の理解は、どうにも、「知恵のある側近」から得られたものではないという印象を受けるものである。地位と知恵とが連動していないのは、「わが国」のITビジネスが「他国」のものに太刀打ちできない理由であるように思われる。藤井太洋氏の『ビッグデータ・コネクト』(2015年4月, 文春文庫)のディテールは、完全に「中の人」のそれであって、CCCの図書館業務を彷彿とさせるような、同時代的な危険性を、文字コードというネタまで織り込んで、的確に提示したものであるが、藤井氏の著作に見られるような知恵が、一体どうして、トップに到達しないのであろうか。そう言えば、川上氏が宮崎氏から叱責を買ったのも、ゾンビのような動きの人工知能をプレゼンした場であった。人工知能というバズワードは、図らずも、当人の器量を明らかにしてしまうようである。


#本稿は、尻切れトンボであるが、ここまで。まだ手を付ける余裕がないが、藤井氏の話を取り上げたので、ここに開陳しておくが、ペンネームそのものの効用や、小説の形を取り現実の危険を指摘するという方法も、「分かりやすい嘘」の一つであることは間違いない。若杉冽氏の紡ぐ物語も、ここでの指摘に含まれる好例である。山本七平=イザヤ・ベンダサン氏の問題点は、読者の誤解をペンネームによって誘ったことであり、対照的に、(意向を尊重して名寄せしないが)賀茂川耕助氏のブログは、このペンネームに派生する原則に忠実であるがゆえに、傾聴されるべきである。


[2] 川上量生「中国のネット管理政策は正しい」 | 最新の週刊東洋経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
(長瀧菜摘、2017年08月22日)
http://toyokeizai.net/articles/-/185263

僕は手法として面白いと思った。ただ、あれはAIではなく普通の統計技術を使っているだけで、番組制作者が言いたいことをAIが言った体にして、「AIがそう言っているんだから、しょうがないじゃん」みたいな話にしていて、それが斬新ではある。

たぶん、機械に主導権を奪われる未来は来る。〔後略〕

[3]ジャン=ガブリエル・ガナシア, 伊藤直子監訳, (2017=2017)『そろそろ、人工知能の真実を話そう』, 早川書房.の第5章ならびに第8章は、川上氏への反論ならびに批判として、時宜に適った好著である。ガナシア氏の筆致からは、「国際秘密力集団を誠実に語る上でのルールを知る」学識経験者として、貴重であるという印象を受ける。




2017年9月10日13時15分追記

本文中の日本経済新聞の記事名を出典として明示した。

また、道化や漫才師が笑い(冗談)を通じて真実を伝えることも、「嘘に託して真実を語る」種類の事例として挙げることができよう。ウーマン村本氏がネット右翼に「おもろない」と評されることは、笑いの品質だけが貶められることであって、ウーマン村本氏の批判そのものが無効化される訳ではない。とにかく、フィクションに真実を織り交ぜるという方法論は、自己言及のパラドクスの応用例であり、真実を伝えようとするときの人類の知恵である。最初からこれらの意義を否定しきることは、色々と理解を貧しくする。しかし、この方法は、多用し過ぎると、真実と虚偽の弁別ができなくなるという点で、まことに厄介ではある。




2017年9月11日00時40分修正・追記

修正箇所を、淡赤色で示した。「ᴹ 」氏(@q_MW_p)の写真付きツイートの所在を確認、追記した。

『国際秘密力研究』の「菊池」氏が、「臑の傷」について、先行研究に忠実にツイートしているが、菊池氏の表現は、山尾志桜里氏まで権力の走狗であったように受け取れる程、「傾向」という表現によって一般化されたものとなっている。しかし、実際に山尾氏がそうであったかを判定することは、もう少し時間を置く必要があると考える。というのも、原発ムラとの確執を含め、山尾氏による結構な種類の発言が、国際秘密力集団の推進する政策に逆行するものとなってきたからである。山尾氏による原発ムラやTPP等への批判は、国際秘密力集団に許された範囲内なのかも知れないが、山尾氏の政治家としての実績を評価するには、物事の順序というものを考慮しなければならない。山尾氏が国際秘密力集団と何ら関わりのない善玉としてデビューし、頭角を現した後に、初めて国際秘密力集団からの接触があり、その要求をはねた後に、スケコマシのお相手が一種の「刺客」として送られてきたという場合も、論理的には成立し得る。もっとも、山尾氏が前原誠司氏を支持してきたことは、私の見立てに逆行する一つの材料ではある。ただ、国際秘密力集団とその権力の源泉という「おとぎ話」は、知る機会がなければ、一生知ることのない高学歴者もいるものと思われる(。この高学歴者の無知に係る主張は、体験的な印象から発するものであるから、一般化を必要とする)。

他者を国際秘密力集団の走狗と言挙げする例として、メイコウ氏の『イルミナティ』の巻末にある太田龍氏の「監訳者解説」による、五名の作家・ジャーナリストに対する言明〔p.443〕を挙げることができるが、このような言明は、複数の現象に対してある個人が国際秘密力集団を利する動きをしていなければ、避けられるべきことである。私から見れば、太田氏こそが前科者(テロ犯)であり、積極的な理由なく、名前の表記を変更するような、最大の走狗である。名前を変えるには、合理的印象を与える各種の方法がある。走狗であると判断できる行動の一種類に、通常人が変えない場合に、名前や読みの表記を変更するというものを挙げることができる。また、太田氏は、走狗の割合を過大推計しており、数量的感覚に欠けるようにも思われる。太田氏の「余計な一言」があるゆえに、『イルミナティ』という良著は、わが国では、かなり複雑な立ち位置を占めるに至った。太田氏の批判は、一種の自己言及のパラドックスである。成甲書房は、太田氏の「裏切り」によって、まんまと「米櫃に砂を撒かれた」のではないか。何より、名指しされた古歩道ベンジャミン氏が「世の中には、複数の秘密結社が存在しており、協力・敵対関係を変化させている」旨を指摘しているところである。以上が、太田氏の『イルミナティ』監訳業務に係る、現時点の私の見立てである。この見立てを変えるには、相当程度に衝撃的な内容の、確定的な情報が必要となる。(太田氏の実績に言及する前に、もう少し、余裕を見ておきたかったが、仕方ない。いずれは、言及せねばならなかったことでもある。)

つまり、世の中は、国際秘密力集団の走狗で満ちている訳ではなく、突出した事例が幅を利かせているに過ぎないのではないか。これが、私の見立てである。友軍誤射は避けるべきことであるというのが、私のポリシーの一つでもある。自然と記述が保守的になるのは、ご容赦いただきたい。





2017年9月12日訂正・追記

11日追記分を訂正・追記した。




2017年9月23日追記

22日、東京大学の古沢明教授と武田俊太郎助教による、汎用の量子コンピュータの基本原理を示した論文が、Physical Review Letters電子版に掲載された。私がこの話を最初に知ったのは、時事通信の記事[1]であるが、残念ながら、この記事は、何が大発明であるのか、読者に的確に情報提供するものではない。代わりに、メディアであれば『EE Times Japan』の記事[2]を、あるいは、直接、東大と科学技術振興機構(JST)の共同発表ページ[3]を参照すべきであろう。後者は、堅めの文章であるが、必要十分にどのようなブレイクスルーが生じるのかを理解させてくれる文章であり、サイエンス・コミュニケーションの好例であると評価できよう。

量子コンピュータには、いくつかの計算スタイルがあるが、その中で、量子アニーリングという手法は、組合せ最適化の計算を高速に行えるという特徴を有しており、実用化が進められている[4]。汎用量子コンピュータであれば、もちろん、組合せ最適化の計算にも高速に対応できる。この計算こそが、本文中で言及した「人工知能による回帰分析」にも活用できるということになる(。使用場面は、データのスクレイピングならびにクレンジング、各データのモデルへの投入・除外ならびに当てはまりの良さの計算、の二段階に分類できようが、いずれにも応用可能なものと考えることができる。後者については、確実であるが、前者については、不勉強のために、断言はできかねる)。

量子コンピュータもここ数年のバズワードであるのだから、川上量生氏の口からこの語が語られていた場合、東洋経済の記者は記事に組み込んでいたであろう。逆に、このような連関は、川上氏の中では生じていなかったということになる。拙稿では、微妙な表現であるが、人工知能の自律性を否定する論考において、量子コンピュータに触れてはいる(2015年12月3日)。なお、この記事では明記していなかったが、茂木健一郎氏が「アハ体験」に量子効果が関係している可能性を指摘したのは、ロジャー・ペンローズ氏の量子脳(仮説)を受けてのことである[5]。川上氏は、人間の脳と人工知能研究と量子コンピュータとの関係性を解説してくれる側近に恵まれなかったということである。なお、忘れない内に一言だけ触れておくが、苫米地英人氏は、いずれかのYouTube動画で、専門でもある人工知能の話を、ざっくりかつ的確に解説していたはずである。


[1] 大規模計算、効率良く=新方式の光量子コンピューター―東大 (時事通信) - Yahoo!ニュース
(2017年9月22日22:23)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170922-00000068-jij-sctch

[2] 究極の大規模汎用量子コンピュータ実現法を発明 (1/2) - EE Times Japan
(竹本達哉、2017年09月22日13時01分)
http://eetimes.jp/ee/articles/1709/22/news018.html

[3] 共同発表:究極の大規模光量子コンピュータ実現法を発明~1つの量子テレポーテーション回路を繰り返し利用~
(2017年9月22日)
http://www.jst.go.jp/pr/announce/20170922/index.html

[4] 量子コンピュータ開発が加速、用途は人工知能:日経ビジネスオンライン
(中田敦、2015年12月18日)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/061700004/121600061/?P=1

[5] 『ペンローズの量子脳理論:21世紀を動かす心とコンピュータのサイエンス』
(ロジャー・ペンローズ〔著〕、竹内薫・茂木健一郎〔訳・解説〕、徳間書店、1997年)
http://id.ndl.go.jp/bib/000002595352
#リンクは国会図書館。

はてなダイアリー(匿名)の「ニセ科学批判とネトウヨが結び付けられるようになったことについて」のセンスは決定的に悪い

題名の理由は、「ニセ科学批判が非英語圏に対する政治工作活動でもあり、その実行の過程で資金源を合法的な出版活動により確保することにもなる」という疑似科学批判の政治上のメカニズムを理解していれば、決して、

なお、あくまで自分の観測範囲ベースなので、それ以上のエビデンスや統計的な根拠はない。ほしかったら基盤Bでも持って出直してきたら調べてやらんでもない。
などという傲岸不遜な表現が出てくることはないためである。私の今までのブログ記事をすべて読めば、冒頭の主張に係るほとんど全ての論点がカバーされていることが、研究者を名乗る以上は、理解できるはずである。この「増田(anonymousから転じて、はてなダイアリーにおける匿名者を指す)」は、自身の無知に由来して「エビデンス」の欠如を主張するが、「エビデンス」の意味をも誤解している上、私がブログという媒体を通じてオシントのみによりながらそれぞれの論考を発表してきた意味をも受け止め損ねている。この「増田」(たち)の考察は、後続のもの[2]も、また、コメント欄も、決定的に無知であり、集合知などというものが存在しないのではという疑いをも抱かせる。繰り返しになるが、研究者の無知は、(道義的には当然、また、本件に関しては、事前の調査を決定的に欠いているため、違法性を構成するという点において、)罪である。

そもそも、この方面に誠実に取り組む人物であれば、私の論考こそ読み損ねる(ことがあってはならないが、可能性は残る)ことがあっても、今夏に本件話題に取り組もうと考えたのであれば、『リテラ』の宮島みつや氏の記事[3]を見逃すはずがない。この「増田」は、「豆腐の角」という表現に相応しい人物であって、公費を支給される資格が全くない。


[1] ニセ科学批判とネトウヨが結び付けられるようになったことについて
(記名なし、2017年07月26日)
https://anond.hatelabo.jp/20170726215433

[2] なんだか、投稿しても途中で切れてしまうので、追記部分だけをトラックバ..
(記名なし、2017年08月02日)
https://anond.hatelabo.jp/20170802040735

[3] (4ページ目)産経「別冊正論」が丸ごと一冊「霊界特集」! オカルトに急接近する産経新聞のグロテスクな思惑|LITERA/リテラ
(宮島みつや、2016年12月21日)
http://lite-ra.com/2016/12/post-2791_4.html

2017年9月9日土曜日

(メモ)角本ゆり氏による三宅洋平氏周辺の大麻使用に対する公衆への告発は真実と認められる

角本ゆり氏による告発[1]は、私が「大袈裟太郎氏のゆうちょ銀行口座凍結は国際的な大ブーメランになり得る」と題する記事(2017年6月12日11時)をアップした後に、『Facebook』に投稿されたものである。非会員に向けて公開された時期は、私には確認できていない。告発が騒がれ出したのは、今月(2017年9月)の5日頃である。角本氏による「告白(以下、法律用語には当たらない意図で使用する。)」は、

大袈裟太郎氏のように、昨年の夏からジャーナリズム活動を始めた(本名と思しき氏名等でもググってみても逮捕歴を報じるニュースの見られない)人物を犠牲者として、しかも、それが外国メディアからはレイシストと見做されかねない人物のグレーゾーンな活動によって惹起されたものであるとすれば、弾圧の方法としては、相当の下策である。
と私が記したことの前段部分(特にカッコ書きの部分)に対して、決定的な反証として機能する。角本氏の指摘が事実であるとすれば、単に有罪に持ち込めるだけの条件が整わなかったが、三宅洋平氏やほかの人物は、少なくとも一度は、テロ等準備罪の適用対象となる犯罪に手を染めたことになる。しかしながら、私の指摘も、執筆当時であれば、妥当であったことには変わりがない。事情を知った現在は、三宅氏と仲間たちも、渡邉哲也氏と仲間たちも、いずれも、それぞれの行為に対して、批判すべきであると考える。

大袈裟氏は、角本氏の指摘が当たらないと否定しているようではある。しかしながら、両者のコミュニケーションは、ツイッターにおけるブロック合戦のような様相を呈しているようであり、その詳細を私が詳らかに検討することは適わない。素朴に考えれば、大袈裟氏と角本氏のいずれかが、公に対して嘘を吐いていると考えることになる。この話題の真偽について、最終的な判断を下すには、私にも、世間一般の人々も、なお時間を必要とするであろう。また、大袈裟氏に対する私自身の前記事は、凍結して、本記事と併せて、読者からの評価を待つほかなかろう。

角本氏の告白は、私には、真実であると思われる。角本氏の告白が一種の讒訴であるとすれば、顕名で提起される必要性はない。虚偽であるとすれば、よほどの理由があるに違いない。(その告白が虚偽である場合の)よほどの理由としては、たとえば、顕名で脱原発活動に従事しているために家族を抱えるという脆弱性を狙われたというもの、三宅氏を最適なタイミングで裏切るために近付いたというもの、の二通りを考えることができる。ただし、後者の場合は、相当に強固な後ろ盾を必要とする。いくら「左」側が相手であり、生活に余裕があろうと、幼い子供たちを抱えながら、社会に多大な影響を与える種類の嘘を吐くことは、まったくもって、非整合的である。

角本氏のツイッターにおける言論のスタイルは、総じて、是々非々である。(リツイートではない)角本氏自身の言葉によるツイートを遡及して、今年6月27日分まで遡及した結果、そのように判定した。是々非々というスタイルは、「両建て」を見抜き真実を追うという目的に対して、三宅氏周辺に見られるニューエイジ思想(信仰)という「セット思考(2016年7月26日)」に比べ、遙かに有効である。「集団内の力学」に左右される大袈裟氏や三宅氏の主張より、角本氏の言論は、信用できるという印象を与えるものである。仮に、角本氏が嘘を吐いているとすれば、その計略は、近年のわが国のツイッター界隈では見たことがない程、高度に作り込まれたものである。

角本氏の指摘は、一見、三宅洋平氏による不正選挙に係る主張を無効化するもののように見えるが、実際には、「両建て」構造の暴露を通じて、わが国の宿痾を相対的に可視化する方向に作用する。不正選挙の虞が三宅氏によって指摘されてきたことは、本ブログでも言及したことである。ゆえに、私にとって、角本氏の指摘を採用することは、私の言説の全体までが無効化されかねない危険性を有することになる。にもかかわらず、私には、角本氏の指摘は、それだけを見れば整合的に思える。というのは、私も触発された大袈裟氏の口座凍結騒ぎによって、角本氏が告に踏み切ったものと解釈できるからである。角本氏は、私とは異なる観点から、つまり、三宅氏や大袈裟氏を信用するなという意図だけに基づいて、記事を執筆したのであろう。しかし、角本氏の指摘は、たとえ、片務的な意図に発したものであったとしても、角本氏とごく一部の人物たちしか知らなかった事実を公にした結果、お互いに「臑に傷を持つ」人物たちの「両建て」を暴露するという、予期せぬ結果をもたらしたのである。私にとって都合良く角本氏の告を解釈すると、そういうことになる。

不正選挙や大麻解禁(2016年1月19日)は、いずれも、(国際秘密力集団の)ビジネス(チャンス)である。「誰が利益を得るのか」という原則は、ここでも適用可能である。角本氏の指摘は、真実であった場合、「左」側にとっては思わぬ打撃となるが、日本社会を正常化する過程においては、必要なものであったということになろう。ニューエイジ思想は、「大麻やLSDなどの違法薬物に対する信仰」と「抱き合わせ販売」されることで、いざとなれば、「薬物の違法使用」を成員の「臑の傷」として利用できるよう、社会工学風に言えば、「設計」されている。かくして、ニューエイジ思想は、「両建て」の一翼としての「人工芝運動」として駆動し始めるのである。

角本氏よりも、私の方が「運動」全般に対して、過度に臆病であるが、組織的運動というものに対する私の不信は、大学新入生時代、田舎出のぼっちのためにオウム真理教の学生信者から勧誘を受けたという、私の経験に骨絡みのものである。私が大学生の頃には、カルト宗教の勧誘競争が喧しかったものである。ロスジェネの世代体験は、オウム真理教事件という相当に悪い形で顕在化した結果、角本氏の世代における一部カルト宗教に対する経験の欠如につながるべく、大学行政に反映された。角本氏と思しきブログには、自身が役に立つか否かを悩む文章が見られるが、役に立たないものなどないのである。それが超越的存在というものの摂理である(棒)。

角本氏の顕名での告発は、三宅氏周辺の大麻の違法?な使用に対する事実の摘示を「裏切り者」に対する不信感抜きに成功させたものとして、テロ対策上、高く評価できる。「組織の中に警察のスパイがいる」という不信感(と、実際にスパイがいたとされる事実と)は、内ゲバ(集団リンチ)を通じて、連合赤軍をわが国史上最大の極左テロリスト集団へと変貌せしめた。角本氏は、自身のSNS上の言論(とそこから窺うことのできる現実の活動)を通じて、(明らかに生活レベルは「上」のものであるように思われるが、)一人の母親としての議論を誠実に編んできたように見える。その言論は、少なくとも、言論だけで判定する限り、自身の安穏とした生活をリスクに晒してでも、社会的に訴えるべきことを訴えたように、私には思われる。「この人が言うなら、三宅氏周辺には、そのような疑いがあるのであろう」という印象を与えたのである。この指摘は、三宅氏周辺グループを孤立させ、極端な方向へと走らせる懸念こそ残るものの、三宅氏の仲間たちが極度の不信感を相互に抱きながら、「裏切り者」を探すという作業を不要なものとした。それゆえ、三宅氏らがきっぱりと大麻の使用を中止し、合法化を訴えるに留まるように変わるのであれば、関係者全員が結局は利益を得るという「結末」を迎える可能性を残すものとなっているのである。実に、理に適った告発の方法である。仮に、角本氏の告発が、一種の(警察の不作為をテコとした)工作活動であり、ここに示した「結末」へと至った場合、私が行政警察活動(生活安全警察活動とも呼ばれている)として考える理想型の一つを実現したものと言えよう。現実に刑事司法機関を動かすことなく、あるべき安定的状態へと、関係者全員を軟着陸させたことになるからである。

もっとも、角本氏の告は、彼女なりの熟慮に基づき、なされたものと主張されているとはいえ、その帰結に対する考察は、主観の域を出なかった可能性が認められる。たとえば、山尾志桜里氏に対する角本氏の評価は、角本氏自身の環境と主観に根差したものである。この角本氏の評価は、前稿において、たとえば、私が

現時点の日本文化が不倫に対して不寛容なこと自体が問題の核心ではない。日本国民が己を知らないがために、『週刊文春』ごときに良いように振り回されていることが問題なのである。
と評価した(2017年9月7日)ほどには、周辺の環境を考慮したものではないものとも認められる。もっとも、自身への好印象がそれぞれの言説から形成されることを見越した上で、今回の告発・山尾氏への評価を、現在見られる形に調整した可能性も十分に残る。[山尾氏の不倫(への非難)]を[三宅氏への告発(への信憑性)]につなげ、同時に、[三宅氏への告発(への信頼性)]を[山尾氏の不倫(に対する批判への同意)]につなげる、という「双方向」の印象強化である。(私は、考え過ぎだと思うものの、)この可能性が妥当するとすれば、角本氏は、読者を完全に手玉に取るレベルの政治巧者ということになる。『たびレジ』に登録するくらいの御仁であるからには、この可能性は、ない訳ではなかろう。ぱっと見、夫君の職業も分からないし。


[1] Kakumoto Yuri - よくよく考えたんですが、やっぱり書きます。... | Facebook
(Kakumoto Yuri、2017年06月13日12時40分 JST)
https://www.facebook.com/yuri.sakuma.39/posts/1403045166453493




2017年9月11日・14日修正

当初の意図を変えないよう、文面を変更した。

2017年9月7日木曜日

(感想文)『週刊文春』に批判される人物は総じて文藝春秋社員以上にマトモである(が...)

『週刊文春』が民進党の幹事長に起用されようとした山尾志桜里氏の不倫を報道することには、「国際秘密力集団に対して実害を与えない」という制約条件の下で『週刊文春』が公平な週刊誌メディアであるよう見せかける、という機能がある。『週刊文春』が(政治という職業に対して)能力のある政治家を貶めるために使用される「ゲスの極み」の道具であることは、ロッキード事件以来の伝統である。山尾氏の不貞に対しては、「将来のある身がやっちゃったな」という感想しか持たないが、細野豪志氏と山本モナ氏との路上キス写真が2006年10月の『フライデー』によるものという事実とは、対照される必要があろう。

山尾氏は、国会審議において、TPP締結交渉に至る非透明性を批判している(2016年4月5日[1]、5月16日[2])。これらの発言は、TPP賛成を唐突に言い出したかつての民主党へのブーメランになるとはいえ、国際秘密力集団にとって、困ったことを指摘している点では変わりなかろう。TPP交渉への反対者が「TPPお化け」を怖がっていると前原氏が揶揄したことは、広く知られている。TPPの推進という「両建て」の一翼を担った前原氏にとっては、痛し痒しというところであろう。

山尾氏の不倫報道は、今後の山尾氏が政治を職業にしようとし続けるのであれば、民進党議員の全員に対して、一種の「躾」あるいは「臑の傷」として、機能することになろう。山尾氏も、細野氏(が走狗の道まっしぐらに見えること)と同様、戦争屋の走狗への道を辿ることになる虞がある。戦争屋に近い筋に不正選挙のツールが握られていることは、先の都議選・横浜市長選を通じて示されている。この不正な権力の所在は、永田町の成員に理解が共有されているであろう。選挙に落選するかも知れない種類の弱みを作られた政治家が戦争屋の犬に成り下がることは、自然な成り行きである(。山尾氏は、原発ムラを主要な票田に抱えながらも、かつては、その意向を拒否した政治家でもある[3])。全国区であれば、山尾氏の弁舌を買いながらも下半身に対して寛容な選挙民を当てにできるのかも知れないが、衆議院・小選挙区は、そういう訳にもいかないであろう。

来るべき選挙において、山尾氏の今後を決定付ける選挙民の見識は、そのまま、国際秘密力集団に対する日本人の耐性を反映する指標となる。たとえば、フランスは、この手のお話を問題視しないという文化があるとされるが、同国の文化は、国際秘密力集団の手管の一つが通用しにくいという形で、有用性を発揮する。この効果は、目に見えにくいものであるが、カネ・女・酒の一つを無効化するという点で、大きなものがある(はずであるが、マクロン大統領という悪手が実現したのも、この寛容さゆえではある。むろん、フランス大統領選挙についても、不正選挙の噂は、根強く囁かれ続けている)。現時点の日本文化が不倫に対して不寛容なこと自体が問題の核心ではない。日本国民が己を知らないがために、『週刊文春』ごときに良いように振り回されていることが問題なのである。不倫も「ゲス」なら文春も「ゲス」であると心得ておくことが、わが国を外部からの政変に対して、強く保つ力となろう。


#なお、パパラッチされたメディアの種類は、不倫報道の顛末が異なることを意味しない。細野氏の不倫も山尾氏の不倫も、国民が広く知るべき種類の話には含まれる。しかし、それだけではなく、国民が広く知るべき種類の話の中には、「報道がゲスな意図を隠し持つ人物によって利用できる」という一般的な事実と、「『週刊文春』の報道がほとんど常にゲスに利用されている」という固有企業に係る相関関係も、含まれるのである。山尾氏の不倫報道は、前原誠司氏の民進党の成員に対して原発賛成への手綱を引き締めるという機能を有しており、山尾氏をリサイクル要員として使い倒すものでもある。リサイクルという点については、今年8月28日の拙稿も参照されたい。


最後になったが、『週刊文春』が報道するという予定を『読売新聞』が報道する[4]ことは、もちろん、「ゲス」仲間がどの辺まで広がっているかを示す良い材料である。


[1] 衆議院会議録情報 第190回国会 本会議 第22号
(2016年4月5日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/190/0001/19004050001022a.html

[2] 衆議院会議録情報 第190回国会 予算委員会 第20号
(2016年5月16日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/190/0018/19005160018020a.html

総理、TPPの議論のときは、私たち民進党が〔#熊本地震の直後に〕震災対応、人命救出に専念すべきだと主張したにもかかわらず、どうやら総理が一歩でも前に進めたいと言って、無理やり審議をやったじゃないですか。それも結局、TPPでは、黒塗り、ノリ弁当、こう言われた資料で、実のある議論ができなかったじゃないですか。あげくの果てに今国会断念で、被災地にとっても、この国日本全体にとっても結局マイナスしかない判断だったのではないですか。

[1] 私は、中電労組と原発推進協定を結んでいません:山尾しおりのブログ:山尾しおり(山尾志桜里)/衆議院議員/民進党 愛知県第7区 総支部長/瀬戸市・尾張旭市・長久手市・日進市・東郷町・豊明市・大府市
(2014年12月9日)
https://www.yamaoshiori.jp/blog/2014/12/post-336.html

[4] 民進・山尾氏に既婚男性と交際疑惑…文春報道へ : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
(2017年09月06日 19時26分)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20170906-OYT1T50100.html?from=y10




2017年9月7日9時修正

アクセスがゼロなのを良いことに、手抜きして、訂正箇所のコメント化・明示抜きに訂正作業を進めていたら、訂正中にアクセスがあったようである。文章全体の趣旨は変化させていないが、万が一、読者の理解が変わってしまうことがあれば、それは、私の至らなさのせいである。

2017年9月6日水曜日

(メモ)『LA 92』にも暴動を悪化させた「X」ロゴの野球帽の男たちが映り込んでいる

カネで雇われた工作員が平和的なデモを暴動へと激化させるという筋書きは、近年の「カラー革命」に良く見るパターンであるが、ナショナル・ジオグラフィック日本語版で最近放送された『LA 92』[1](日本における初回放送は、2017年8月29日22時、次回放送は、9月10日19時~[2])にも、そのような走狗と思しき人物たちが映り込んでいる。ロスの中心部に係るテレビ中継を再編集した「Parker Center: Downtown Los Angeles」の章では、徐々にエスカレートする抗議の様子が映されるが、その中で、黒地に白字の「X」のロゴが入った野球帽を被った人物たちは、警官への挑発を最前列で行い(録画開始時間から01:04:28、途中、1分40秒分のCM含む)、騒ぎの中心に陣取り※(01:04:39)、星条旗を燃やし(01:04:44)、公園の守衛所に殺到する人々の最前列に身を置き※(01:04:52)、ゴミ箱を守衛所に投げつけ※(01:04:59)、裁判所?に火の付いた紙の束を投げ込んで(01:06:39)いる。※印は、同一人物のようにも認められる。例外的に、立木に放火した肌の浅黒い男(ネイティヴ・アメリカン?)は、単独でカメラに写り、率先して犯罪を犯しながら、この野球帽を被ってはいない(01:05:11~)。撮影クルーは、極端な行動に興味を持つであろうから、極端な行動を取る者ほど、カメラに撮られることになる。撮影クルーの一部に、彼らと知り合いであったりグルであるという人物は含まれるかも知れないが、全員がそういう訳ではなかろう。Xロゴの野球帽を被った人物たちは、総勢100名を超える一般人が映像に示される中、極端な行動を取る一方、このキャップを被った人物たちが後ろの方で佇んでいたり、ほかの抗議者と同程度の(口だけの)抗議を行うことはない。彼ら「Xメン」に触発された人々が過激な行動に走るようになると、映画の流れの中では、彼ら「Xメン」は掻き消えてしまう。「X」ロゴは、マルコムX氏の暴力による抵抗を想起させるが、彼らが何者であったのかは、2022年以降に調べるなどしなければ、分からないのではと予想する。

パーカー・センター地区の中継映像に映し出された民衆が、「X」帽子を着用していたか否かと、他者を犯罪へと誘導するように犯罪を率先して実行したか否かは、次表のとおりにまとめられる。合計人数が100人というのは適当ではあるが、100人以上が合計で映されているように判断できるので、合計100人と仮定しても、主張の根拠は揺るがない。もとより、同一人物であるか否かを同定するのも困難な(暗所で撮影された)映像群であるから、顔認証などによる人物同定を試みるということは(、現時点ではできないし、)しない。一つだけ言えることは、明確に目的意識を持って犯罪を行おうとして同所に集合した人物というものは、それほどいないということである。


〔表頭〕犯罪を率先→
〔表側〕「X」帽子の着用↓
率先あり率先なし
帽子あり40
帽子なし1$\geq$95

日和見的な犯罪者たちは、結果として、この作品の中、至るところに映し出されているが、彼らを焚き付ける者がいなかったとすれば、必ずしも大暴動が生じなかった可能性も認められる。印象深いのは、韓国系の中年女性が「ここはアメリカだ」と叫び、素手で店舗の窓に立ちはだかるところ、あえて中に押し入ろうとした人物は、その場にいたうちの二人だけ(特に一人だけ)であったというシーンである。そのほかの暴徒は、押し入るか否かを躊躇しかねていたようにも見えたのである。58名の死者、2383名の負傷者が生じたという結果は、厳然たるものではある。ただ、個別の状況がいかに変化したのかは、なお、その場のなりゆきによるものとも思われるのである。

このキュレーションは、もちろん、監督のダン・リンゼイ氏とT・J・マーティン氏の観察眼によるものである。この「人工芝運動」を確定的に提示して見せた先取権は、簡単にググってみた限りでは、彼らのものである。(本当のところは、深掘りしてみないと確定できないが。)視聴者である我々の側にも「見る目」があれば、この理解に至ることは容易である。本作は、わが国の探偵ドラマよりも、はるかに物事の真相を見抜くことができるという点で、ミステリ映像であると言えよう。本作が2017年の現時点で放映されることには、当然、シャーロッツヴィルで同様の計画が進んでいたことを暴くという意味があろう。

『LA 92』では、終盤の映像を通じて、非暴力の重要性が訴えられる。戦争屋の計略に乗せられないために、非暴力は有用であるが、非暴力は無抵抗を意味しない。この点、わが国には、非暴力を阻害するような構造的暴力=組織性が非常に強固に存在しており、なおかつ、『LA 92』にも見たような、ある種の計略の存在については、これを組織的に否定する数々の勢力が認められる(。原発ムラは、その端的な事例である。「トンデモ」ウオッチャーに係る前稿2017年9月3日の解説も参照されたい)。わが国から単に目に見える暴力を排除するだけでは、なかなか、非暴力を貫くことは困難と見える。私が色々と先回りして予測しておくと、日本国民は、一時代において、大抵が百姓だったのだから、逃散という方法論を深く学び、応用すべきであろう。

『ナショナル ジオグラフィック』は、以前にも言及した(2017年11月6日)ように、放送局の中では、良心的?に放送する組織である。読者が適切に解釈すれば、風見鶏代わりになるとも言えよう。解読を必要とするところは、一般人向けとは言えないかも知れない。ナショジオも、『LA 92』のような番組を放送するからには、天網恢々という考え方を信じている節があるようにも思えてしまう。劇中では、パパ・ブッシュが何もしなかったという批判が示される一方、ビル・クリントン氏も登場し、アメリカの多様性が力とも分断ともなると訴えている。



[1] LA 92|番組紹介|ナショナル ジオグラフィック (TV)
(2017年9月6日確認)
http://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/2285

[2] 日本語版PDF(ナショナル ジオグラフィック(TV)番組表 2017年9月)
http://natgeotv.jp/files/pdf/timetable/tv/201709/ngtv_201709_mnt_jp.pdf

2017年9月3日日曜日

オカルトにはオカルトの効用があるが、悪用されがちであるし、オカルトへの批判も、同様の危険を有する

以前に述べた(2016年1月16日)が、「分かりやすい嘘」が社会に向けて発信されることには、それなりの効用がある。爬虫人類や地底人や未来人や宇宙人や吸血鬼やその他の超自然的存在といった、他者にとっては虚構と見なせるような「存在」からの「預言」という形で、あるいは未来に対する「予言」という形で、現実に係る真実を述べることは、責任の所在を曖昧なものとして、通常人ならば発言に社会的責任を問われることを題材としながら、自分自身が真実と思うところを述べることを可能とする、という効果を有するのである。なお、先の記事では「未来人」への言及が欠落していたが、われわれ現代人からすれば、「未来人」も、当然、同様の仮構的存在である。

#私は、ナントカ人や超能力やオカルトを肯定する人物の見方と同様の結論を採ることが多いにもかかわらず、これらの超自然的な存在に対して、否定的である。ただし、この点自体を明らかにしておかなくては、私自身が陰謀論を取扱う者のルールから外れることになろうから、ここでも言明しておくが、私は、神という超越的存在を信じていない訳ではない。しかし同時に、「陰謀論者」に時折見られるように、私は、超越的存在やオカルト的な存在・能力をダシにして、自身の主張の正しさを補強したことはない。本ブログを通読すれば、その反例が見つからないという形で、この主張は疎明できるはずである。もっとも、一部の文章においては、私の個人的な体験(見聞きしたこと、一次情報)を、再現不可能な形で利用してはいるため、見る人から見れば、同じ種類の証拠を利用していると反論を受けるやも知れない。ただ、これを敷衍し過ぎると、われわれが社会を客観的に分析することは、到底、不可能ということになる。

人々の中には、爬虫人類や地底人や未来人や宇宙人や吸血鬼など、にわかに信じがたい種類の仮構的存在に託して、何らかの真実を発信しようとする者も含まれる。現実に、これらの表現者のどれほどが「嘘」に対して自覚的であるかは、分からない。ネット上に流通するオカルトの言説を定量化して、現実に信じているか否かを分別する作業などというのも、労多くして益少なしであろう。研究費を投じてこの種の調査を行う研究者たちがいる(いた)とすれば、確信を以て、先にやるべきことがあると指摘し批判することができる。その理由は、以下のようなものである。

仮構的(と一般人に思える)存在を語る」人々の中には、聞き手からすれば、「分かりやすい嘘」を利用して虚構に真実を託していると認められる場合も含まれるが、わが国で商業的に「デバンク(オカルトの「嘘」を暴くの意)」に従事する者たちは、この構図に触れないために、社会にとって、むしろ有害な存在となり得る。「デバンク」行為を自称する人物たちのいくらかは、この方法論に通じており、この「分かりやすい嘘に託された真実」が流布しないように監視するという役割を与えられていると推察できる。この種の「真実」のうち、最も監視されているものの一つは、9.11が自作自演(inside job)である、という疑惑である。それにもかかわらず、彼ら「科学主義者」たちは、現時点においても、「分かりやすい嘘」に隠された効用までを明らかにしようとはしない。なぜなら、現在の「トランプ時代=ポスト・トゥルース時代」において、「虚構に託して真実を語る」ことは、必要性自体が低下しているため、語り手側にとっての効用が総合的に低下しているものの、他方で、「虚構を信じるバカな人々」という種類のレッテル貼りは、今なお有効に機能するためである。私から見れば、前年と今年の『トンデモ○○』の栄冠は、大マスコミに与えられて然るべきである。しかし、「トンデモ」をウォッチするという活動を商業的に実施している人物たちが大マスコミを批判する程度は、「トンデモ」に分類される人物たちの著作への批判に比べれば、まったくもって僅少である。この差は、マスコミと彼らが共依存的関係にあり、これら双方の主体が「トンデモ」とされる人々と同程度に、現実をできるだけ偏りなく理解する上での敵であることを示す。

別の言葉で表現すると、わが国の「デバンク」筋は、大マスコミの誤り・フェイクメディアの誤り・陰謀論者の誤り・御用学者の誤りに接して、これらを等しく批判しないのである。しかも、その結果が総じて横並びになるというところは、いかにもつまらない「理性」の発揮のされ方というべきである。9.11の動機にブッシュ家の多額のカネが絡んでいることは、周知の事実というべきである。このとき、商業出版上で活動する「デバンク」筋による、9.11の真相追究者に対する批判を、等しくカネに転んだために生じたものと見ることは、何ら不整合なものではないのである。

「仮構的存在に託して物を語る」人々の中でも、「超越的存在」に依りながら何かを伝えようとする人々には、度外れた利他性が求められる。「怪談」の類いを含め、「虚構の存在」をあたかも存在するかのように語る人々は、それだけで、虚偽を人々に広めていることにもなる。この種の発言は、発言者がフィクションであるという事実を内心に知りながら、「嘘を吐いている」という悪を超えるだけの公益性があると発言者が信じるがゆえに、「言論の自由」の一環として、世間に許容されている。このように解釈しても良いであろう。たとえば、「口寄せ」が許されるのは、「口寄せ」される個人と親しい関係にある個人がイタコ役に依頼し、社会に対して閉じた形で(、擬似的な親密圏において、)実施されるからである。この点、某新興宗教の教祖のスタイルが社会的に許容されるか否かは、その言説に大きく依存することになる。「虚構の存在からのメッセージ」の受け手となる人々の圧倒的大多数は、超越的存在を己の利益のみを目的として利用してはいないし、他人の言動に対しても、超越的存在が利他的であるというルールを適用するものである。(少なくとも、日本語環境における「神様」のデフォルトのイメージは、一般的に、利他的であるものと考えて良かろう。念のため、ここでは、「荒ぶる神」とか「祟り神」とかの存在にまで話を広げる必要性もない。)

絶対的かつ超越的な存在は、通常、絶対的な真・善・美として聞き手に受容されるから、仮構的存在として超越的存在を登場させる個人は、間違いなく、「嘘を吐いた」という結果に陥ることとなる。超越的存在は、間違っていてはならないが、人間は、ほとんど常に間違える存在である。自らの言説の正しさを補強・維持するために、超越的存在を騙る人物は、嘘を積み重ねなければならないが、やがては、それらの嘘が相互に矛盾するようになる。結局、この種の人物は、自らの言説を破綻させることになる。この点、超越的存在の名を利用しようとする人物は、詐欺師としては、一流ではない。

ただ、既存の大宗教は、社会内の組織として扱うべきであり、既存の大宗教の教義は、ここでの検討対象に含まれない。既存の宗教組織は、超越的存在としてではなく、社会内存在として確固たる地位を築いている。その組織が超越的存在を信奉しており、その教義が神によるものであるとしても、既存の教義に見られなかったようなオカルト的言説は、組織内の相互作用を経て、主要な成員に認定されなければ、「神の言葉」として信者に受け入れられないのである。

このように対比すると、個人が「神の言葉」として何かを語るためには、「語り手の意図が利他的なものと聞き手に受け止められる」という条件を含め、相当のハードルが社会に存在していることが分かる(が、私には、十分に整理できていない)。語り手の意図が利他的なものであるという条件は、絶対的なものではないが、言説の利己性は、隠されていたとしても、(本稿に見る「デバンク」筋の利己性のように、)いずれは、バレることになろう。利他性は、受容する側によって判断される性質であるが、その要件は、なかなか厳しいものである。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という警句も、間主観性・相互性を示すという意味では、同種である。受け手となる人々が、他人の善行や、偉業を成し遂げた人物のメッセージに対して、神の意思が表れているものと後付けで解釈することは、ありがちではある。聞き手の側には、「聞く耳」がなければならない。内容を理解できるだけの教養・教育が聞き手に備わっていることも必要であろうし、そのような聞き手が十分に耳を傾けるだけの余裕や環境もなければならない。(#本段落は、新約聖書の影響を多分に受けている内容である。)

この点、たとえば、「神様が、2011年3月11日の東日本大震災を私(だけ)に警告していた」などとする一部の「予言」に対して、人は、疑わしい印象を抱くものである。特に、その「予言」が後出しとなる場合には、なおさらである。聞き手は、この「予言」を信用した場合、その信用が彼(女)のみを利することになるという結果を、直感的に予想するものである。この微妙であるけれども決定的な「予感」は、(単なる仮構的存在に託す形ではなく、)「超越的存在に託して真実を語る」という行動には、利他性が求められるという黄金則を示すものである。この利他性は、庶民が占い師を頼ることが一般的に許容されながらも、政治家らの権力者たちがこの方法論に依存することに批判が寄せられることを踏まえれば、一層明らかになる。

占いという行為も、その一連の動作に表れるとされる法則を、仮構的存在として利用している点で、オカルトと共通する要素を有している。ただし、占いの方が、オカルトよりも現実に対する影響力を発揮している点において、一層の注意が必要である。占いは、古代よりそうであったように、支配の道具でもある。占いは、探偵業務やカウンセリングと相補的な行為であり、ときには、洗脳に利用される手法も援用される。占いは、『国際秘密力研究』の菊池氏がいうところの「憑依系」の方法に分類されよう。マスメディア、特にテレビ局がいくら叩かれようとも、占いコーナーを設け続けるのには、占いという社会工学的な方法を、社会に認知・定着させ続けるという使命を帯びているからでもあると考えることができる。

政治家が占いに依存することは、古代においては常態であったようであるが、民主主義の現代においては、もはや許されることではない。民衆が占いを合理的な行為とは見なくなっているためである。「支配する側の論理」「詐欺師の気持ち」に立てば、古代の天文学は、「予言」を簡単に達成するための「支配の道具」であったと考えるのが自然な結論である。自然法則を探究する自然科学であっても、オカルトの悪用と変わるところのない結果=不当な支配を生み出すことに貢献しうることは、古代エジプト・バビロニア辺りに源流があるとされる国際秘密力集団の歴史からも、示唆されることである。

われわれ現代人は、現代科学と現代思想の枠内に留まる思想的道具と、現実に存在する技術を利用して、現実の個別の課題に対処するほかない。しかしなお、これらのツールのそれぞれは、相当に発達しており、四半世紀程度の学習に個人が資源を投資しても追いつかないほどである。このとき、「支配の科学・技術」が故意に秘匿され、国際秘密力集団の走狗によってのみ利用されているとすれば、その結果は、人類全体の発展にとって、きわめて歪な結果をもたらすことになる。オカルトと占いと科学は、いずれもが、支配に奉仕する奴隷となり得る。現代では、これらの利用方法は、定型化され、実践されているものと認められる。商業出版における「トンデモ」批判の不自然さこそが、その証明となっているのである。とすれば、商業出版上で「トンデモ」を糾弾する人物たちは、この道具性までを見越して批判の筆を進めなければ、「トンデモ本」の作者たちと同様、批判者自体が商業的に活動しているがゆえに、「地獄への道」を舗装しているものと読者に解釈されることになるのである。




2017年9月4日修正

本文の意図が正しく伝わるように、文言を修正した。(当初の意図は、変えていないつもりである。)




2017年9月5日修正

4日と同じ意図の下に、文言を修正した。




2018年7月16日修正

本文の意図を変えないように文言を修正した。