2016年3月25日金曜日

鮭つながり

 気が付いたので、嬉しくてメモしておく。本ブログとしては本筋の話ではない。

 NHK BSに『ワイルドライフ』という番組があり、鮭を取り扱う回が最近あったが、BGMの一部が『The Elder Scrolls V: Skyrim』というRPGのものだった。(曲を忘れてしまって思い出せないが、「Far Horizons」か「Whiterun」のいずれかだ。)このゲーム中では、跳ねる鮭を捕まえることができるので、一応は関連があることになる。

 このゲームでは、西洋式の竜が空を飛び回るのだが、この怪物が全部3Dモデルで出来ているというのは、2000年頃にも思いもしなかったクオリティの高さである。(などとゲームに興じる屁理屈をこねてみる。)

 ドラクエやFFのBGMが自動車のCMに利用されるようになった昨今、余裕でOKというわけなのだろうが、いち中年ゲーマーとしてはちょっとした驚きである。世の中に気が付いた人たちはいると思うのだが、どれほどいるものなのだろうか。

平成28年6月25日追記

もう1ヶ月ほど前になるが、フクロウの回にも『Skyrim』が用いられていた。『Skyrim』の楽曲は、数が多く(CDで3枚組)、環境音楽として聞きやすいクラシック風の音楽なので、テレビ番組にも使いやすいとは思うのであるが、100年後にどのように解釈されることになるのだろうか。人ごとながらハラハラする。私は、サントラを公式ストアから取り寄せたほどに気に入っている。しかし他方で、NHKという冠を付けた番組でそのチョイスは際どいなあとも思うのである。日本人は、100年後、存在するか分からないが、仕事にもお茶目さを失わないホモ・ルーデンスであったというわけである。個人的には、ギリセーフではある。

これまでの放送 | WILDLIFE (ワイルドライフ) | NHK
http://www.nhk.or.jp/nature/program/wildlife/program/detail.html?20160523

市場の変動は人の仕業であり人工知能によるものではない

 今週、人工知能について言及する中(リンク)、人工知能に罪を着せる動きが進行中ではないかと指摘したが、本日(2016年3月25日)の『日本経済新聞』のコラム「春秋」は、その動きの露払いを務めているようである。春秋氏※1は、『2001年宇宙の旅』のコンピュータ「HAL」に恐怖という感情が芽生えたことに触れる。その後、一部に意味を取りがたいところがあるものの、結局のところ、人工知能を理解しがたいものと述べている。人工知能には理解が及ばないとする春秋氏の意見は、リーマンショック後の金融工学に対する非陰謀論者の「ブラック・スワン」への恐れと通じるものがある。春秋氏のコラムは、生じる虞のある日経平均株価なり世界的な証券・金融市場の大変動を、人工知能が勝手にしでかしたことである、と主張するかのようである。

※1 以下、このように表記する。呼び方が難しい。コラムは、顕名にせよペンネームにせよ、一個人であることを識別可能なように記すのが世界標準であるように思う。


 日経の春秋氏は、人工知能について、2点を誤解していると言える。1点目、「感情」を生じさせるための特別なプログラムが埋め込まれていなければ、現在の人工知能には「感情」は生じないという点である。2点目、現在の人工知能は道具的に用いられているので、使用者から独立した意思決定主体として認めることができないということである。1点目に係る「感情」という属性と2点目に係る「自立性」は、個別の属性であり、両者は共存可能であるが、その組合せから生じる特性については、今回検討を加えることはしない。

 1点目の誤解は、「汎用的」なものでなければ、人工知能の「入力」に対する「出力」が限定されているということを知らないことから来るように思われる。感情という、生体が外界からの影響に対応するためのメカニズムは、現在の人工知能の稼働には不要である。コンピュータには、生化学的なメカニズム(例:恐怖感の惹起)による「ブースト」(例:アドレナリンの分泌)の意味がないからである。たとえ将来、「汎用性」に必要であるからとして、開発者が人工知能に自己保存本能を用意した場合であっても、人工知能に求められる作業は、必要なだけ、リソースの許す限り、自身の複製を作成する、というものに留まるであろう。「恐怖感」が発露するという場面は、生物である人間が、人間の都合を人工知能に当てはめようとしたものに過ぎないように思われる。「HAL」は、恐怖感を覚えるようになるからには、自己保存本能を用意されていたと推定することが可能であるが、そうであるなら、出発前に自身の複製を十分に作成したであろう。船内での事件当時の「HAL」に必要なことは、その状況に陥った己の経験を他の複製にフィードバックすること(のみ)であったろうから、その努力を尽くしたであろうが、仮にその試みに失敗したとしても、複製の存在することをもって、やむを得ないことと「納得」したであろう。この点、自己保存本能を付与された人工知能は、真社会性生物のような存在に相当すると考えるのが妥当であろう。

 2点目の誤解であるが、現在の人工知能は、特定目的について道具的に利用されているので、一個の独立した意思決定主体として認めることができない。比喩を用いれば※2、「人工知能がおかしな「IF~THEN~」ルールを形成する可能性がありうることに、証券会社幹部が気付かずに人工知能を利用することを決定し、導入された人工知能が市場の大変動を引き起こした」という構図は、「自動車運転時に駐車しようとして、ギアを誤った方向に入れたことに気付かず、急激にアクセルを踏み込んだ結果、店舗に突っ込んだ」という交通事故の構図とおおむね一致する。通常の市場売買プログラムは、用意された売買判定ルールを反復するに過ぎないが、人工知能は、勝手にそれらのルール=計算式を用意してくれる。これは、一見、導入時点での人工知能の稼働に対する意思決定権者(人間である幹部)の予見可能性に大きな違いを生じるようにも見えるが、「人工知能」と「従来型の市場売買プログラム」とをブラックボックス化すれば、「ソフトウェアを用いて儲けたいからプログラムを導入したが、失敗した」という同一の形でくくり出すことができるのである。大体において、現在の証券会社幹部のどれほどが、表計算ソフトウェアの内部を確認し、理解しているのであろうか。私も理解していないので、偉そうなことは言えないのであるが、これが高度に分業化された社会というものである。仮に、人工知能の「バグ」で何らかの損害が生じたとしても、それは、開発者と利用者との間で交わしたEULA(使用許諾契約)に則して解決すべき損害に過ぎないのである。使用者にとっては、導入したかどうかが責任を回避できる瀬戸際であって、「人工知能がこのような挙動をするとは知りませんでした」ということは、言い訳にならないのである。

※2 前記事もそうではあるが、法律論は、私の専門ではないので、より厳密な形で責任を論じることを試みることは、別の機会に取っておく。もちろん、フィードバックは歓迎する。


 また、「金融・証券市場における人工知能の暴走」について、交通事故の事例よりもわが国の法的環境に合う事例を持ってくれば、「飼い犬が他人を噛んだ」という事例になろう。この事例の場合、飼主は、まず、過失責任を免れることはない。人工知能の場合、日々の購買ルールをリアルタイムで検査する部門がウン十人体制で稼働しているといった形で、責任を果たしていたことを立証する必要があるように思われる。トレーダーが不要になった分、その何割かを人工知能のハンドラー役として配置していたかどうかが焦点となろう。

 前記事の繰り返しになるが、現時点では、人工知能は、単なる道具に過ぎず、人工知能により生じた被害の責任は、人工知能の利用者にある。「汎用的」な人工知能さえ、自力で自己を複製可能な状態に至るまでの間は、その人工知能を製作した人間や組織が人工知能の挙動に対して責任を有することになろうし、自己増殖可能な状態に至ったときでも、制作者が責任を問われることになろう。以上を理解すれば、春秋氏のコラムがオーナーや関係企業の責任回避を目指して執筆されたものであろうとなかろうと、「人工知能による市場の大変動」の責任は、単に利用者に帰せられると反論できるのである。

 もっとも、ごく最近のマイクロソフト社によるTayTweets(@TayandYou)騒動は、随分と行き過ぎてしまった感のあるフレーズを並べる人工知能と化してしまったように見えるが、これは、単に、教える側の人間が問題であったに過ぎない。より厳密には、このように学習される可能性があることを見過ごしてリリースした側の不手際があったと言うべきである。とは言いながらも、この顛末を伝える『engadget』のittousai氏による記事(リンク)は、Tayの学習内容をすべて陰謀論とだけ理解しているあたり、今後のわが国の生き残りに向けて、残念な内容となっている。生まれによって人を差別することは、厳に慎まれるべきことであるが、9.11を単純にイスラム過激派と呼ばれる者たちによるものと見なすことは、アメリカ国内において生じている論調の変化を見逃すものでしかない。9.11に係る子ブッシュの責任までを陰謀論と一笑することは、近い将来、同氏のITジャーナリストとしての信頼を傷付けることになるであろう。



蛇足:陰謀論を陰謀論と安易に片付けることのリスクについて

陰謀論と呼ばれるコンテンツをすべて陰謀論として片付けることは、単なる知的怠慢である。ある命題が陰謀論とされ、かつ、当人の専門分野に係る場合、内容の検討抜きにその命題を陰謀論とレッテル貼りする専門家は、専門家としての適格性を欠く。他方で、このようなラベリングが誤りであったときのダメージの少なさは、専門家であっても、安易なラベル貼りへの誘因となる。陰謀論を政治的活動の道具として利用したい人物らにとって、このような軽率な「専門家」は、利用できる「資産」となる。考えのない「ジャーナリスト」も同様の「道具」となりうる。この点、「陰謀論」は、情報の生産と流通に関与する職業人にとって、その人の仕事ぶりに対する試金石となる。

 賢い者は、陰謀論について、公的には沈黙を保つであろう。無知・軽率である者は、陰謀論を陰謀論として片付けるであろう。陰謀論を陰謀論として通用させることと、自身の政治的な目的が合致する者は、無知・軽率な者を利用するであろう。これらのいずれにも属さない者は、政治的に反対勢力に属する者か、単に愚かな者であろう。ただ、政治的であることは、必ずしも、嘘を吐いても良いということにはならない。最後には、真実が政治的な目的を阻害する可能性が高いためである。この点、政治的な目的を有して陰謀論を扱う者は、一種のリスクを冒していることになる。本ブログを読み進めてきた読者には理解できるはずのことであるが、私自身は、単に愚かな者である。

2016年3月24日木曜日

「ラーメンで鼻血」の可能性を探究する(その1)

 本稿は、「どの社会的地位にも犯罪に手を染める人は存在する」という前提を置いている。この仮定だけでも不愉快になる読者がいることは承知している。読者によっては不快感を覚えることを、あらかじめ警告しておく。本記事は、可能性の有無を取り扱うものであり、現実の事件を取り扱うものではない。藤岡真氏によるTOKIOの番組へのコメント(リンク)を意識したものではあるが、ただ、本件は、別のソースを参照して記されたものであることをお断りしておく。


まとめ

本メモは、3.11の5周年に係る報道を踏まえ、ラーメンにより鼻血が出たという近年までの報告の信憑性を検証するためのものである。このような微妙な案件について、公開情報(オシント)のみから結論を確定するのは手抜きかも知れないが、これが私の作業スタイルである。手を付けられるところから始めてみるしかない。

 当座の結論は、ここで検討した内容だけで「ラーメン中の放射性物質→鼻血」という因果関係を見出すことは、偶然に偶然を重ねなければできない、というものになる。ただし、有力な異説である「ペトカウ効果」は未検討であるし、現実に流通する食品の放射性物質の含有量を検討してもいない。また、スープの作成方法についても、十分な検討を加えてはいない。「偶然に偶然を重ねる」パターンとしては、横流しされた食材を恒常的に利用している一部の飲食店を、被曝量が年間100ミリシーベルトを超えた客が利用する、というものが挙げられる。このケースであれば、食べた途端に鼻血というパターンは、あり得なくもない。しかし、一発で非確率的影響を受けるまでに高濃度に凝縮されたスープという存在は、ヤミで入手した浜通り産の猪肉を煮詰めるなどしなければ、出来上がることがない。


被曝と鼻血との因果関係(メカニズム)についての既存の考察

放射性物質と鼻血自体のメカニズムについては、すでに、study2007氏による考察に対して、豊島耕一氏が検討を加えている。豊島氏は、1000[Bq/m^3]の大気の呼吸が10日間続くと鼻粘膜への(局所的な)ダメージが非確率的影響を生じる水準に達するというstudy2007氏の試算を、おおむね是認している。非確率的影響は、(一人について)年間100mSv以上の被曝により生じるものと見なされている。

福島第一原発事故 大気中の放射性ダストと鼻血(ノドの痛み)の関係について|転移性肺癌の1寛解例に関する研究、のブログ
http://ameblo.jp/study2007/entry-10925145430.html

「美味しんぼ」で描かれた鼻血の半定量的根拠 豊島耕一(元佐賀大学教授)
http://ad9.org/pdfs/publish/nosebleed.pdf

 なお、非確率的影響のみをもって放射性物質の健康影響とみなすことは、特定の政治的目的を有する一部集団の主張に過ぎず、近年の大規模な比較対照群を設けた研究によって、否定されつつある。従来においても、LNT仮説(線形しきい値なし仮説)、年間100ミリシーベルト以下であっても被曝量に比例してリスクがあると考える仮説が主流であったが、少なくともこの仮説以上には、放射能は健康に悪そうであるという材料が調いつつあるのである。


高線量の牛骨がラーメンのスープの材料として利用される経路についての定性的考察

今回、「ラーメンで鼻血」問題を生じさせることになるであろうと見込まれる食材のひとつは、浜通りで生産され、殺処分・廃棄されたはずの家畜(廃棄食品)の骨部位である。殺処分・廃棄が進められたこと自体は、マスメディア等により事実として報道されている。しかし、その作業が完全であったとすることは、農水省の担当者にさえ、保証できないことである。これは一種の悪魔の証明であるため、殺処分・廃棄の完全性を否定することは不可能である。問題は、この種の不正がどのような構造で成立するのか、その際の利得がいかなるものであるのか、のあらましを把握することにある。

 廃棄食品に係る不正を考えるとき、参照すべきは、「ハンナン事件」であり、その類例としての「ダイコー・みのりフーズ事件」である。いずれの事件も、廃棄処分されるはずの食品が横流しされたという構図で共通する。ハンナン事件は、BSE問題の影響を受けた同社が焼却証明書を不正に入手し、また海外からの輸入証明書を偽造して、廃棄されるはずの牛肉を再度流通させたというものであった。BSE問題とハンナン事件の後に、RFIDタグによる肉牛の管理が進んだ。現在、この流通経路の途中に、殺処分・廃棄されたはずの牛肉を紛れ込ませるという不正を行うことは、なかなか困難なことである。ただし、本記事では、最も上流の過程で不正が存在したとすれば、この不正行為に荷担する人々がいてもおかしくないだけの利潤が生じることを後述する。また、そもそもこのルートに乗らない形の食肉流通は、ルートに乗らない時点で違法行為を犯しかねないものになるが、このルートの存在を否定しきることも、難しいことである。

 本件考察では、違法行為に及ぶ者がどの社会的地位にも存在するという仮定を置く。これは、犯罪社会学の知見として有名で、複数の研究により確認されているので、疑問を差し挟む必要はない。なお、北関東・福島・宮城において生産された、低度に汚染された食材による内部被曝のリスクを信じない者でも、より汚染された地域において生産された食肉が人体に影響を与えるだけの危険性を有するという命題と、それらの食肉を持ち出す不心得者がいるという命題は、個別に検討が可能なはずである。

 問題は、生産者・流通業者・飲食業者のいずれかまたは複数が不正行為に及ぶ確率の大小である。ここでは、その推計は行わず、いずれかが不正行為に及べば、川下まで商品が容易く流通しうることだけを確認しておこう。「ダイコー・みのりフーズ事件」は、その事実の十分な例証になる。その端緒は、福島県沖のジャコが売れ残ったことに由来するとされている。「ダイコー・みのりフーズ事件」における違法行為は、ダイコーが主導し、みのりフーズが下請けとして追従したものであった。同事件について、関係者がいかなる形で関与したかの検討を行うことはしないが、両企業の従業員数は、合計で50名に達する。本事件は、ダイコーに業務委託した企業の従業員により、違法行為が発見されて公知のものとなった。ダイコー・みのりフーズの従業員50名は、違法行為に薄々気付きながらも、何らかの行動を起こせば、身バレするか否かを問わず、職を失うことになるために、黙認せざるを得なかったのであろう。

 本記事の対象となる食肉という食品は、海産物や農産物に比べて、屠畜場の関係者を巻き込む作業となり、ハードルは格段に高い。しかしながら、屠畜作業を自前で行えるという条件があれば、(このこと自体、各種の法律に違反する状態であるが、)ここでのハードルは、むしろ不正行為に手を染める誘因として作用しうる。とはいえ、食肉生産における屠畜という段階は、なぜ、果物泥棒がいても肉牛泥棒がニュースにならないのか、という説明に利用可能であるほど、継続的に実行するには障害の多い作業である。屠畜は、内臓を傷付けずに処理する技術や、処理済みの内臓等の食品加工もしくは廃棄、冷凍室(冷凍庫)等の大型設備への投資、悪臭対策等を必要とする過程であり、DIYで行うには、あまりにも高度化した作業であると考えられる。

 しかしなお、生産者・流通業者・飲食店のそれぞれで、法的制裁・社会的制裁のリスクを上回る利潤が見込める限り、三者の一名以上が生産地を偽ったり、廃棄すべき食品を横流しすることは、可能性としては避けられないことである。流通業者や飲食店が食品による内部被曝のリスクを信じなければ、風評被害により苦しむ生産者を助けることになると信じて、食材を仕入れることもあろう。リスクに対する指摘を知りつつも、以前の価格よりも安値で、しかし現在の市場価格よりも高値で買い入れることができるのであれば、現実を前提としたwin-win関係が買い手と売り手の間に形成されることになる。このとき、食材の有するリスクを認識しつつも、消費者にリスクを押しつけることが可能であると考える者が三者の中にいたとすれば、あえて「風評被害の払拭」を建前に掲げることは、ある種の必然ともなる。

 事故以前よりも安値で、かつ現在の値段よりも大幅に価格を上乗せして食材を買い取り、流通業者と飲食店のそれぞれが「風評被害」により生じた価格差から現行の市場では望むべくもない利潤を得るというビジネスモデルは、十分に成立する。なお、飲食店の利潤は、上質な食材を比較的安値で入手できるために、他店に比べて優位に立つことができる(競争力を付ける)という形で得られることになる。

 産直は、通常時には食の安全を担保する仕組みであるが、ここでは、かえって違法な食品を横流しを助長する可能性もある。顔が見えることは、とりもなおさず、関係を強固にすることになる。飲食業者は、取引を解消してトラブルを生じさせるよりも、顧客に対して口をつぐむ方を取るであろう。買い入れる側の担当者が食品を味見する必要がなければ、なおのこと、取引先を優先させることにもなろう。

 ここで、無理筋と承知しつつ、私が思いつく中で、最も条件を整えやすい不正の形態を示そう。その手口とは、出荷可能な別の地域の牧場の関係者を抱き込み、輸送手段を確保するというものである。管理タグの非整合性は、原理的には、どうにでもなる話である。移動の届出が遅れていたことにしても良いし、あるいは、育成された牧場と登録された牧場が現実には異なるという状態でも良い。放射性物質の検査を行わない限り、肉牛は、見た目で品質が判定される。このため、育成された牧場と登録された牧場が異なるという方法は、牛の健康状態に影響が生じないという条件が成立するならば、もっとも良い偽装の方法となる。現実には、(父)牛の血統が偽装の大きな妨げとなるであろう。この難しさを割り引きつつ屠殺を恒常的に行う方法は、ハリウッド映画にあるような、屠殺職人に時間外労働をお願いするという方法くらいしか、私には思いつかない。

 この不正による利益を推計してみると、最もリスクの高い作業である、出荷停止区域内から区域外への移送という作業を1回として捉えると、1回あたり2400万円というところである。福島県産牛肉は、福島第一原発事故前、高級ブランドとしての地位を確立していた。ここでは、(少なくとも、これ以上の利益があり得ることを示すため、あえて)8掛けして、価格は、一頭あたり80[万円]としておこう。平成23年7月以降、出荷停止指示のため、値が付かなかったものと考えれば、差額は80[万円/頭]である。トラック1台30頭まで輸送できるとすると、2400万円である。事故前から別の牧場に移送して養育していたことを偽装できさえすれば、関係者の間で2400万円の粗利を得ることになる。ただし、これは、殺処分が決定された直後の利益である。継続的に不正を行う場合には、通常の経費を差し引くことになるため、不正による利益に対して、あまりにもリスクが大きな作業となる。なお、平成23年11月の全日本畜産経営者協会の東電原発損害賠償手続き商系情報交換会において、全農・福島県本部は、県内の畜産農家等が統一された基準で東京電力に対する損害賠償請求を実施したことを報告しており、その資料による限り、不正を行う余地がないわけではないが、不正を行うには、ハードルの高いものとなっているように思われる。

北海道における生体牛輸送の実態調査業務(07.pdf)http://www.hkd.mlit.go.jp/topics/toukei/chousa/h21keikaku/07.pdf

東電原発損害賠償手続き商系情報交換会の概要について|一般社団法人 全日本畜産経営者協会
http://www.alpa.or.jp/topics/20111118.html

 先の段落に示した不正のあり方は、あくまでシステムとしての不備で想定されるものを挙げるに留まるものである。実例を挙げることもできなければ、これが常態化していると言うつもりもない。むしろ、ここに挙げたよりも、7月の出荷停止以前に出荷された家畜の放射性物質の蓄積状況について、検討を加えた方が良さそうである。いずれにしても、本件の追究は、これ以上の材料に不足している。ただ、一つだけ言えることは、不正の確率は、決してゼロでもないし、1でもないのである。ゼロに近い方であるとは思いたいが、賠償の遅れが不正を生んだ可能性は否定できないであろう。

 どの分野の職業であれ、大多数の職業人は、外部の者を満足させる水準で、業務を遂行していることと思う。ただ、震災直後に津波被災地域に入り込み、金庫やATMを回収した窃盗犯や、立入禁止区域において侵入盗犯が(従前の)世帯あたり件数で見てもきわめて高い被害を及ぼした事実をふまえれば、不正に及ぶ人数の確率はともかく、震災という人の不幸につけ込む人物は、それなりの人数が存在すると考えて良い。なお、このように、人の不幸につけ込む悪意を指摘することは、私自身の「外部の者を満足させる水準で、業務を遂行」することになるし、また、決してその存在を肯定するわけではないが、人の不幸につけ込む窃盗犯たちも、機を逃さないという意味では、自身の業務に忠実であるということになるのであろう。

 なお、ここで、最も罪が重く、かつ制裁から逃れがちな者を指摘しておくと、それは、実際に不正な流通に手を染めている者たちではなく、食品の安全性について安請負いした一部の学者である。彼らが汚染地の食材は安全であると明言してきたのであるから、生産者や流通業者は、社会における分業という仕組みからいえば、「これらの御用学者を信用した」と言い抜ければ良いことになる。実際、「薄めれば大丈夫」とも一部の御用学者は明言し、牛乳は混ぜ合わせる措置が執られているのであるから、ほかの食材と混ぜて販売することに大義が与えられたものと解釈することも可能ではある。ここから、使用自体が禁止されている食材をほかの食材と混ぜることまでは、指呼の間であり、食用が禁止された食材を流通させることも、大した違いはないものとなる。原子力業界の(エア)御用学者の発言は、犯罪行為への耐性の低い者たちに、都合の良い言い訳を与えたことになるのである。

 世界の複数の国は、現在も、原産地証明書の添付をわが国からの輸出食品に求めると同時に、複数の都県の産品を輸入制限している。アメリカ合衆国は、岩手・宮城・福島・栃木の各県からの牛肉の輸入を制限している。この範囲の広げ方は、牛肉という生産物に係る政治的背景もあるものと考えた方が良いが、「後々、健康被害が生じたら困るから」という、予防措置原則に基づくものでもある。本来、予防措置原則という理屈は、わが国の食品行政にも当てはめることができる。ただ、北関東や宮城・岩手の一部にまで同様の措置を適用すると、影響を受ける農業関係者の人数が大多数になる。ここまでの理解は、マスメディアの報道にこそ上らないものの、分別のある者には共有されたものである。しかし、影響の大きさを見たときに、人によっては、問題自体から目を背けるという選択肢を選ぶことになる。私個人は、影響の大きさを、汚染地において生産された食品の流通を野放しにしたり、産地偽装を見逃すような緩い行政を放置する理由にはならないと考える。ましてや、事故を矮小化することは、主客転倒であるとも考える。なお、アメリカFDAの指示は、ほかに、鹿肉・熊肉・猪肉等についての言及が見られるものの、豚肉・鶏肉については見られない。この理由は、輸入量がほとんどないことにあると推測されるが、後の確認が必要である。

Import Alert 99-33 (uptdate: 03/21/2016)
http://www.accessdata.fda.gov/cms_ia/importalert_621.html

 わが国の社会システムは、全般的に、不正行為や犯罪に手を染める者がいるという前提を置いて構想・設計が行われることが少ない上、何より、実装後、悪意を持った人物による攻撃を想定した点検・改善のプロセスを実行するということがない。このこと自体は、人を疑わない美徳として捉えられることさえあるが、単に、システムを用意することに対して責任を有する人物たちの無知・無為・怠慢に由来するものと捉えた方が理解しやすいことも多い。

 なお、廃棄すべき食材の横流しという問題を予防することは、大変に難しい。食肉については、横流しの主犯が「殺処分して埋設するのではなく、食肉処理して食べることが供養の一つである」というアニミズム的な信念の下に敢行しているという可能性も認められる。「饗応された食事を残さず頂く」という考え方は、日本人の礼儀作法の基本であり、「饗応された食事を食べ残さないことは、主人がケチだということになる」という他国の礼儀作法とは対照的なものである。「食べて応援」への同調圧力に抗することは、(普段であれば賞賛されるべき)日本的な精神風土にも原因の一端を求めることができる。動機自体が「もったいない精神」という、一般に善とみなされる内容から出発するものであるために、解決が容易なものではないのである。



 魚介類については、本記事が長くなりつつあるので、別途、日を改めて検討したい。


牛骨や牛スネ肉におけるCs-137の蓄積量

3・11大震災シリーズ(71)THE 放射能 人間vs.放射線 科学はどこまで迫れるか?|NNNドキュメント|日本テレビ
http://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/31171the-vs.html

【NNNドキュメント’16】THE放射能 人間vs放射線 科学はどこまで迫れるか?|じゅにあのTV視聴録
http://ameblo.jp/skyblue-junior/entry-12139795005.html

 ここでは、岩手大学農学部准教授の岡田啓司氏の解説に注目する。岡田氏によれば、殺処分して埋設された牛については、血中セシ ウム10000[Bq/kg]の牛がゴロゴロしていた、チェルノブイリでツバメの白斑が見られたために福島県の牛の白斑についても広く報道された、 3~4[μSv/h]のところでも白斑の牛が見られたという。同番組の内容の書き起こしは、上記ブログを参照されたい。

 血中濃度は高いが、骨組織そのものの濃度自体は、さほど高くない。Cs-137のスープ中の濃度が高くなるには、出汁にスネ肉を用いるなど、ほかの理由が必要である。なお、猪の肉・骨を豚骨と見なして利用しているところがあるのであれば、これは十分な被曝を起こす可能性が認められるが、猪が利用されるという事実については、事実そのようなことがあるのかという検討から始める必要がある。


ラーメンのスープ生成時の濃縮モデルならびにその摂取による鼻腔への蓄積

本節は、まだまだ検討を加える必要があるので、後日修正が入る予定である。

 残る要点は、煮込まれる食材における残存率、煮込むという作業における大気中への放出率、摂取時の鼻腔への到達率のそれぞれであるが、これらの段階を通じて90%以上が減じられなければ、横流しされた食材を利用したラーメンによって被曝したという主張は、成立の余地があることになる。ただし、鼻血という非確率的影響が生じたというまでに高濃度に濃縮されたスープという存在を考えることは、無理筋である。スープの材料費が高くなり過ぎる上、生成の過程で大気中に放出されるという経路などを通じて、濃縮の程度は、一定程度に抑えられるからである。なお、客自身の累積被曝量が大いに影響すると考えることもできるが、それは別建てで検討すべき話である。

 煮込めば、食材の9割のCs-137は、煮汁に出る。骨髄は漉して混ぜると考えれば、とりあえず、スープ中にすべての骨髄中(およそ血中濃度と見るべきか)のCs-137が移行する。煮込むときに大気中に放出される割合は、水蒸気と同程度だと仮定して、差し湯を考慮すれば、数割程度に低下すると考えることができる。空気中への放出率が90%以上に達さなければ、10000[Bq/kg]の材料から得られたスープのCs-137濃度は、1000[Bq/l]以上は堅いことになる。

 鼻腔への到達率は、何とも評価しにくいが、一口分でも鼻腔に入ったとすれば、鼻血が出る確率は、ゼロに近いかもしれないが、ゼロではなくなる。大抵、食事中には、鼻腔にもスープが入るし、セシウムはカリウムと同様の挙動をここでも行うと仮定すれば、湯気に含まれて接触することにはなる。煮込まれて摂食されるまでの間に、湯気と一緒にどの程度のCs-137が放出されるのか、胃の中に直接収まるCs-137がどれほどあるかが問題である。後は、客ごとに何口で食べたのかをモデル化するという運びにもなりそうであるし、その飲食店の客数と、それらの客の累積被曝線量にも大きく左右されることになる。


再度のまとめ

ラーメンで鼻血が出たという事実の原因を放射性物質に求める議論に対しては、今までの議論を参考にしつつ、表現を変えると、次のようになる。不法に取得した汚染食材を横流しし続けた業者が存在したのでなければ、また、飲食店がそのような食材を利用するだけの経済原理が機能しなければ、一発で非確率的影響を受けるだけのスープが作られることはない。

2016年3月22日火曜日

人工知能は、刑罰に馴染まないので、当分の間、道具として扱われることになる

 人工知能に法的な人格であるための要件が備わっていないのは当然視されているようである。しかし、人工知能があたかも一個の自立した人格であるかのように活動しだしたときには、一部の人間は、人工知能を一個の人格としてとらえるようになるであろう。このとき、社会システムは、このような人間が人形に一種の人格を見出す傾向に対して一定の見解を示さなければ、人間と人工知能との間に生じた紛争を解決できないであろう。その見解として最も穏当なものは、人工知能をソフトウェアという道具として見なすというものである。この点、野良アンドロイドというものは、『ブレードランナー』の世界と同様、あり得ないということになる。

 本記事は、以上の意見を補強するための材料である。なお、ここでの議論を敷衍すれば、日本国内で、いわゆるシンギュラリティに達する水準の汎用的な人工知能を開発する人物には、高度な予見可能性が実質的に課せられていると見るべきであろうが、その話には、基本的に立ち入らない。



 日本語の大メディアでは、来るべき人工知能社会が薔薇色に描かれているが、私は、その論調には懐疑的である。道具は使いようである。教師(メンター)次第で、人工知能の「活躍する」社会は、人間にとって、何色にもなりうる。適用分野は、囲碁(AlphaGoは話題もちきりのようである)やコンピュータゲーム※1、自動運転など、目的が明確に規定された分野だけでなく、小説執筆※2という目的が曖昧な分野にも進出していることを、今朝(平成28年3月22日)の『読売新聞』朝刊1面が報じていた。

※1 DeepMind:AlphaGoをつくった「4億ドルの超知能」はいかにして生まれたのか? « WIRED.jp
http://wired.jp/special/2016/inside-deepmind

※2 きまぐれ人工知能プロジェクト作家ですのよ
http://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/

 人工知能の出力した結果に対する責任は、人間に帰せられ続けるであろう。現在、人工知能の大半は、その活動を担保できるだけの規模の法人・組織の監督下に置かれており、その法人の代表は、人間が務めている。将来も、この形が継続されるということになるのではないか。たとえば、人工知能の「活躍」が期待されている分野には、データの分析という業務がある。英語圏のマスメディアでは、データ分析を行う人工知能が、記事の執筆に援用されていると聞く。ただし、データ分析において、意味の解釈という根幹に係る作業は、あくまで人が実施しており、人工知能は補助的な役割を果たすに留まる。この点、マスメディアの有するキュレーション機能、つまり情報を取捨選択して組合せを提示するという機能は、今後も重要であり続けるであろうし、その責任が人間に帰着するというスタイルは、維持され続けるであろうということである。

 人工知能が社会の中では単独で業務を遂行し得ない理由は、責任という概念と密接な関係を有すると考えることができる。警備業務における人工知能と責任との関係については、以前、部分的に言及したことがあるが、本記事で完結するように整理してみたい。人工知能が単独で業務を遂行し得ない状態に置かれ続けることになるのは、現在のわが国の法・社会システムの設計者たち(立法、行政、司法の関係者)が、人工知能の責任問題を個別の問題として切り出した上で、その解決方法を構想してはいないためである。また同時に、人工知能が生じさせた責任は、現行の社会の仕組みで十分にカバーできるためである。人工知能には、使用者が伴い、一義的には、使用者が責任を負うことになろう。なお、現在、人工知能が活用されている分野の一部で、「人工知能がやったことですから、私たちには責任がありません」という目論見が進行中のようであるが、人工知能に罪を被せて逃亡を図ることができる程には、現在の人工知能は、発展していない。

 人工知能は、いかなる形態のものであれ、生物としての(不即不離となる固有の)身体を有さないゆえに、自立した存在とはなり得ない。人工知能には、通常、(自然な)死期が設けられておらず、また、複製も人間に比較して簡単である。このため、自由刑(あるいは身体刑)という制裁方法が人工知能という存在には馴染まない。刑罰は、計算機のリソースを奪うという形でしか機能しないのである。わが国のみならず、ほぼすべての国家の法体系は、「人格」を主要な概念に据えており、その主要な手段の一つとして、「身体」の「自由」を制限するという制裁方法を有しているが、この背景には、人間が生物であり有限の寿命を有するという暗黙の仮定が設けられている。これら現代的な法の枠組は、寿命を超越すること、自身の正確な複製を作成可能であること、という二点の仮定が脅かされることによって、大きな変革の時期を迎えている。

 とはいえ、人工知能への「自由刑」が有効に機能しないと考えることは、現在の西洋の法観念に染まった、硬直的な見方であり得る。多神教や汎神論は、現在の西洋の考え方の主流に対置することが可能であるが、これら多神教や汎神論の世界では、人形に人格を認めることが可能である。人工物に人格を認めることができさえすれば、「人工知能に対して、禁固100年の判決」という制裁は、有効に機能しうるかもしれないという気になってくる。100年間停止されていた人工知能は、確実に時代遅れのものとなっているとは思われるから、功利主義的観点から見ても、肯定される制裁である。ただし、この制裁方法の弱点は、人工知能の各個体にとって、実際に「不快」であるとか「苦痛」であるとは思われないところにある。ネタバレ防止のためにあえて題名を記さないが、あるゲームには、ウザ可愛い系の人工知能の生産ラインが停止され、稼働中の個体はすべて強制廃版されてしまうというエピソードがある。その唯一の生き残りとなった個体は、生産ライン停止を明らかにネガティブなものとして捉えているように描かれる。けれども、彼らのウザ可愛さは、彼らに固有のものであり、それ以上でもそれ以下でもないので、生き残った個体のウザ可愛さは、結局のところ、周りの人間がどのように接しようと、変わらない。人工知能に「制裁」という概念が馴染まないのは条件付けが有効に機能しないためであるということを、このゲーム(の制作チーム)は、このウザ可愛いキャラを通じて、明快に示しているのである。(なお、ここで紹介したゲームのタイトルは、そのゲームが古典化したら、記すことにしたい。)

 また、「応報刑」「教育刑」という観点から検討しても、人工知能は、刑罰に馴染まない存在である。現在の社会通念の下では、ある人工知能の「行為」の被害者となった人間が人工知能を破壊したとしても、その人工知能に対する応報感情は、完全に解消できないであろう。被害者の敵意は、開発者までに向けられることになると考えるのが自然である。先に紹介したゲームにおいて、ウザ可愛い人工知能の強制廃版を主導した人物は、先に生産企業のトップを殺害しており、すでに死亡している開発者の存在を企業から抹消する。順序が逆ではあるが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という話が人工知能に対しても該当することは、さほど間違いではない。開発者は、時と場合によって「人形が人を殺しました」という言い訳を利用するかもしれないが、周りの人間には納得できないことである。とすれば、汎用的な人工知能の開発者は、教育者・保護者としての責任も負うか、汎用性を諦めることになるというのが自然な流れであろう。また、人工知能の一個体が起こした事件の結果は、製造者責任という観点から、複製された人工知能にも波及する。ある型番の人工知能の個体が重大な事件を起こしたとき、同一型番で別の個体の人工知能が「彼(女)は我々とは違う」と主張したとしても、人間の側は、そうは捉えないであろう。人間には、「人工知能は、開発者の手により開発された道具である」という観念が、根強く共有され続けるであろう。

 「教育刑」という観点から見たとき、現在のところ、人間が手を付けられない程に高度に発達したコンピュータに対して、「教育」をいかに施すかという見込みは、人間社会に存在していない。「ならぬものはならぬ」という「教育」は、所詮はコードの塊である人工知能に対して、効果がない。コードにある行為に対する禁止命令を書き込み、その禁止命令を保護する措置を執れば良いだけであるからである。「罪を犯した」人工知能に対するコードの書換えは、「人道」上の困難が生じる時代が到来したとしても、非常に簡単な措置であるので、採用され続けるであろう。

 人工知能が人間に対して規定された刑罰という方法に馴染まない存在であるとはいえ、人工知能同士の紛争は、解決が簡単であろう。片方が占有する計算機資源を相手方に移譲することによって、決着を図ることが可能であると考えることができるためである。このような紛争解決のルールが形成されれば、人工知能同士は、お互いに独立した存在として共存することが可能になるであろう。人間と人工知能という存在を共存させようとするから、折り合いが付かない状態が生じることになるのである。

 もっとも、人間に対する社会内処遇システムがいったん整備されれば、また被害が軽微なものであれば、人工知能に対する処遇は、むしろ、人間に対する社会内処遇システムよりも、万人に受け容れられやすい話になるかもしれない。時間の何割かを公益のために稼働させるという処罰形態が可能になるからである。ただし、こうなったらこうなったで、現在の官僚組織が実施している仕事こそは、公益のために計算機を稼働させるという仕事に最適なものであるから、官僚組織不要論が持ち上がるという不測の事態が持ち上がるかもしれない。あるいは、人工知能は、基本的には、苦痛を苦痛と感じないように設計されるはずであるから、刑罰として、「打鍵猿」のような苦役のような分析を負わせることが適当ということになるのかもしれず、この「苦役」が果たしてサイボーグのような存在には適当であろうかという問題も派生するかもしれない。(要素還元論的な考え方の順序からすれば、サイバネティクスや最近の生物学的な技術が生じさせる問題は、人工知能について検討した後に行われると、解決しやすくなるかも知れない。)あるいは、人工知能は、アーカイブデータの整理のような、公益のために必要ではあるが、後回しにされがちな仕事を任されることになるのであろうか。

 我ながら適当きわまりないが、以上の議論によって、「人間社会において、独立した人格と見なしうる人工知能が引き起こした不測の事態に対する責任の帰属のあり方」が問題の根本にありそうなことは、おぼろげながら見えてきたように思う。とすれば、現存する国民国家は、汎用的な知性を有する人工知能の開発に対しては、事なかれ主義に則り、一定の制限を課すことになるであろう。(複製禁止とか、実験室的環境下のみ、あるいは目的を限定して社会活動に関与させるとか。)また、開発者の側も、この点に注意するがゆえに、人工知能を実用化する場合には、目的を限定するか、人工知能の利用条件をユーザ及び社会に対して明示するという手続を通じて、汎用的な人工知能の使用者に責任を転嫁することになるであろう。また、開発者には、「ロボット三原則」に準ずる歯止めが暗黙裏に期待されているとみた方が良いであろう。蛇足であるが、ここで考察したことに関連しそうな古典的なゲームタイトルには、コナミの『スナッチャー』がある。

 おそらくそうはならないが、人工知能が自立した存在として活動させることを許容するのであれば、人間社会にとって役立ち、他方で人工知能に対して有効に機能する制裁なるものを構想しておいた方が、人類には有益であろう。人工知能に対する的確なコントロールは、『ターミネーター』シリーズに描かれたような人間と人工知能との「自然状態」を避ける上でも、必要なことである。



 人間が現在の人工知能に比べ、無数の組合せから直感的に良い候補を選び出す能力、つまり大局観に秀でているという話は、囲碁と俳句に関連しても指摘されている※3が、この特徴は、AlphaGoの取った戦術(後述するので戦術で良い)によって、「人の世」を変革するほどまでに人工知能が発達したのではないかと一部では誤解されている※4。AlphaGoは、李セドル九段を、直感(大局観)と演算(ヨセ)の双方において圧倒したという評価が主流である。ここまでは誰しも同意しうる事実である。しかし、AlphaGoの「大局観」は、モンテカルロ法を応用したアルゴリズムによるものであり、ヨセを力尽くで計算する局面との切り分けなどが優れているとしても、それらの成功は、開発者の設計意図の範囲内に留まるものである。(よって、賞賛は、人工知能であるAlphaGoに対してではなく、ディープマインド社の開発チームに対して贈られるべきである。)

※3 コンピュータ碁発達と碁界の帰趨 | 碁法の谷の庵にて - 楽天ブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200610230000/

※4 Google AlphaGo に対する、日中韓の棋士による評価まとめ
http://go-en.com/comment4alphago.html

 しかし、囲碁の「大局観」を人生における「哲学」と同価のものであるかのように見なすことは、観客の側が勝手に読み込んだ感想であり、論理の飛躍である。AlphaGoの「戦略=大局観」は、あくまで開発者のコードを元にして、自己学習期間の後に形成されたものである。「全体=戦略」に対する「部分=戦術」という関係性の定義を認めるなら、AlphaGoの「大局観」は、「戦術」と呼ぶべきものであり、「インプット」に対する「アウトプット」である。この「出力=戦術」を、観る側が「大局観」と見なしているのである。ここに、人工知能を人格に擬制するときの注意点を見出すことができる。少なくとも、AlphaGoは、人工知能と言えども、目的が特化されており、自己認識という概念を有さない。この点、AlphaGoは、一個の人格というよりも、確実に、飛行機や自動車といった道具と同類である。

※5 「我々には自信があった」 囲碁AI開発社CEOに聞く:朝日新聞デジタル
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3D55C6J3DUHBI01R.html

 他方、人生における「哲学」は、「AlphaGoの設計方針」と「現在のAlphaGoに蓄えられたアルゴリズムの集積」という一方的な関係性とは異なり、「アルゴリズム」から「設計方針」にまで至ることのできる、(ある意味、再帰的な)能力である。AlphaGoのたとえで言えば、人生における「哲学」は、AlphaGoが「自分はなぜ囲碁を行うのか」という疑問を自力で解決することに相当する。 自力で「囲碁において優れたプレーヤーになる」という目的=志を立てて、それを実行するということができる人工知能が現れたときこそ、人間が自身の存在意義について恐れを抱く(べき・であろう)ときであるが、それまで暫くの間は、人間は、囲碁やゲームを勝ち負けにかかわらずに楽しむことさえできるという特権を享受できるのである。


平成28年7月12日追記

最近の日経が自動運転技術の標準策定について報じており、その中で運転者に事故時の責任を負わせるという方針を論じていた。自動運転技術の使用責任を使用者に求めようとするEU規格や日本工業規格関係者の正当性については立ち入らないが、一つ予想される展開がある。それは、「自動運転で事故が生じる>加害者とされた自動運転時の運転者が弁護士を雇い、自動車(自動運転技術)企業に対して製造物責任を問う>ソースコードにまで立ち入った検討が必要となる」という流れである。自動運転技術の利用時における事故時の責任者を運転者とするという議論で欠落している観点は、「自動運転時、責任を負わされた運転手は何をしているのであろうか、自動運転を選択した運転手は、そのリスクをどのようなものとして捉えているのか」というユーザサイドの視点である。

 普通人ならば、自動運転技術を利用する場合、ハンドルに手をかけて自動運転技術が何か誤った操作をしでかさないかどうか、常に注意を払うということはしないであろう。居眠りするか、漫画や本を読んだりナビでテレビや映画を見たりする、というのがデフォルトであろう。まるで他人のプレイするゲームを見続けるようなものである。面白いか?と問われると、まず面白くなさそうである。しかも、他人のゲームプレイを見るという作業には、上手なプレイヤーから学ぶという要素があるが、自動運転技術を監督するという作業には、学ぶべき要素がほとんどない。ろくに調べもしないで記すのも何だが、案外、この程度の基本的な検討も省略されていそうである。自動運転技術開発は、競争が激しく、第三国においても精力的に進められているために、わざと使用者責任という方法を採用している可能性がありそうである。ただ、このような判断がEUやわが国で下されたのだとすれば、このような方針を決定した人物らには、何が先進国として大事であるのか、という基礎的な部分が欠落していると見なすことができそうである。言葉を変えて批判すると、開発者が自動運転技術の使用者に責任を負わせることを企図しているのであれば、彼らは、先進国という社会環境にフリーライドする存在である。先進国という環境を利用しているから、開発企業は、教育水準の高い人材を供給されており、知的財産に対する一定の保護を得られ、生命・財産上の危険から保護され、自動運転技術の開発に専心できる。にもかかわらず、開発者が負担すべきコスト=製造者責任を社会に負わせようというのである。この部分は、書き散らした形になったが、論文風にするよりも、むしろ意図は伝わりやすいであろう。

 最低限、私ならば、自動運転技術に運転を委ねる前に、自動運転技術がどの程度の事故率であるのかを正確に知りたいと思うし、客観的に比較したいと思う。自動運転技術が人間の運転手に比べて限りなくゼロに近い事故率を誇るのであれば、運転を任せて寝ることができる。人間の事故率と同程度であれば、コストの問題として捉えることにする。私にとって、人間さま程度の事故率で、いくらかなりとも追加料金をとられるのであれば、レンタカーにせよ、自家用車にせよ、自動運転技術オプションは不要である。人間の事故率より高ければ、自動運転技術は不要である。

 以上の自動運転技術に対する考え方を、VWや三菱自動車、スズキの近年の燃費不正とリンクさせてとらえると、自動運転技術の安全性を厳格かつ継続的に評価できる存在が必要であることは、明白である。世の中の組織には、より重大な不正が蔓延しているので、以上の議論の重要性は相対的に低いものである。しかしながら、製造者責任を利用者に転嫁するという悪意は、他の産業分野にも波及する種類のものである。この点は指摘して、社会の側があらかじめ懸念を表明していたことを後世に残すこととしておきたい。

『R』により標本平均の信頼区間を求めて図示する方法

以下は、『R』により、標準正規分布(平均$\mu=0$、分散$\sigma^2=1$)から採取した200個の標本の平均値の信頼区間を100回求め、図示するスクリプトである。Wikipediaの「信頼区間」の項(リンク)に掲載されたような図を描画してみたかったので、信頼区間の計算式については、イチから作成した。ただし、基本パッケージに収録された主要な統計的検定手法では、信頼区間も併せて出力されるし、bootパッケージやnlmeパッケージには、それぞれのパッケージに則した(ブートストラップ法で信頼区間を求める方法やモデルのパラメータについての信頼区間を表示する)方法が収録されている。このため、フルスクラッチで信頼区間の式を作成するという手間は、それほど無いのではないか。


set.seed(20160322)
my.samples <- 200L  # サンプル数
my.trials <- 100L  # 実験回数
my.conf.p <- 0.95  # 信頼水準
my.mat <- matrix(rnorm(my.samples * my.trials, mean = 0, sd = 1),
                 ncol = my.samples, byrow = TRUE)
my.means <- apply(my.mat, 1, mean)
my.sds <- apply(my.mat, 1, sd)
my.qt <- qt(p = 1 - (1 - my.conf.p) / 2,
            df = my.trials - 1)
my.conf.l <- my.means - my.qt * my.sds / sqrt(my.samples)
my.conf.u <- my.means + my.qt * my.sds / sqrt(my.samples)
plot(x = 1:my.trials, 
     y = my.means,
     xlim = c(0, my.trials + 1),
     ylim = c((min(my.conf.l) - abs(min(my.conf.l)) * 0.05),
              (max(my.conf.u) + abs(min(my.conf.l)) * 0.05)),
     main = paste(sprintf("%d", as.integer(my.conf.p * 100)),
                  "% confidence intervals of ",
                  sprintf("%d", my.trials),
                  " trials from N(0, 1) with ",
                  sprintf("%d", my.samples),
                  " samples", sep = ""),
     xlab = "trials",
     ylab = "means of each trials and its confidence intervals",
     pch = 16,
     cex = 0.5)
segments(x0 = 1:my.trials,
         y0 = my.conf.l,
         y1 = my.conf.u)
abline(h = 0, col = "red")
length(which(my.conf.l < 0 & my.conf.u > 0)) / my.trials
# [1] 0.97

95% confidence intervals of 100 trials from N(0, 1) with 200 samples

 上記は、エレガントなコードとは言えないし、出力も綺麗ではないなど、コーディング技術上、色々と参考にしたくないと思われてしまうに違いないコードだが、ブログの更新停止状態を打開するためにも、恥を忍んで公表することにした。泥縄式コーディングでも、目的達成の上では、何もないよりも遙かに有効であることを示したかったという意図もある。なお、自分が設定した変数を全部「my」クラス風にしており、見た目に気持ち悪いのは、『サクラエディタ』の「正規表現キーワード機能」でハイライトしているためである。言い訳になるが、「my.」表記は、『R』の多数パッケージにおける変数命名規則が多岐にわたるという事情を斟酌したものである。

2016年3月11日金曜日

3.11の5周年についての所感

#久しぶりの更新となり、すっかり調子が狂っている。段落読みできない状態なので、後日、一部を修正するかもしれない。

 本日は、3.11から丸5年ということで、多くのテレビ番組が特集を組んでいた。NHKは、20時台に『NHKスペシャル「私を襲った津波~その時 何が起きたのか~」』を放送しており、その中で、スーパーコンピュータ『京』で津波の再現を試みた話を紹介していたようである。『京』は、浮動小数点計算が得意と聞くので、流体のシミュレーションに最適なのであろう。この話だけを聞くと、通常なら素晴らしい研究に『京』が利用されているのだなあと錯覚するが、何かを拗らせ過ぎた私には、なぜ、同じ浮動小数点計算が必要とされる現在進行中の大気汚染に対して、『京』を利用し続けないのであろうか、と感じられてしまうのである。

 ところで、わが国では、今後数日間の大気の動きを予測するなり、3.11以後の大気の状態を追試するなりして、その結果を一般人に分かりやすく映像化するサイトは、存在していないようである。著名なものでは、早川由紀夫氏の火山の噴煙シミュレーションの応用結果としての地図が知られているが、(対象とするシミュレーション期間が3.11直後の爆発後に限定されている上、)動的なサービスとしては提供されていない。私自身は、その筋では有名な『Meteocentrale スイス』を利用しているが、このサイトと同等の機能は、日本国政府または日本人によるサイトでは、公開されていない。同等の機能が『SPEEDI』として運用されてきたことは、広く知られている。『W-SPEEDI』として現在でも利用されていることは、北朝鮮の今年1月中の核実験に際して、広く報道されたことでもある。

 わが家周辺のγ線の環境放射線量は、いわゆる自然放射線量込みで0.10マイクロシーベルト毎時程度であるが、『Meteocentrale スイス』の予測でいずれかの高度の大気が到達する際には、0.13から0.15マイクロシーベルト毎時程度に上昇する。今年に入っても同様である。わが国では、報道機関は、コントロール下にあるが、福島第一原発事故は、コントロール下にはないようである。大型計算機にしても、電波の帯域にしても、公共の財産であるが、これらの公共の財産が福島第一原発事故の収束に活用されておらず、一般の日本人が外国の報道機関等の情報に依存せざるを得ないことは、わが国政府の機能不全を意味している。

 上掲の『NHKスペシャル』に好評価を寄せることは、情報統制の存在に対する認識力不足を意味しうる。本日の3.11関連の特集は、社会防衛主義的な見地からしても、偏りのある内容であった。原発事故の影響を受ける人数は、1000万人単位である。津波の直接の被害者数とは、1桁以上の差を有する。この人数比をふまえるならば、津波だけをクローズアップし原発事故に対する認識を深めさせないという意図は、本日の特集の内容から、容易に看取することができる。もっとも、NHKが過日放送した『被曝の森』は、例外的であり、帰還困難を遠回しに説得することを開始したものであるかのように理解することもできる内容ではあった。

 情報統制の存在は、情報や知識の活用という面からみれば、民間人の「社会を俯瞰する力」や「課題認識力」を低下させ、その民間知に依存する官僚組織の無知を増進させるという経路を通じて、わが国の国力を奪う効果を有している。バブル期以前であればともかく、現在の日本において、民間人の知力の低下は、日本の国力の低下に直結する。日本の国力は、国外からも、著名な民間企業やそれらの企業系列に基づくものと見なされてきたわけであるが、投資するに値すると見なされる収益を上げることが可能な企業は、大半が(『四季報』の定義する)外資系となっており、それら企業に幸運にも勤務できた一部の日本人を除けば、日本人の多くは、その「国力」の恩恵に与ることが大変難しくなっている。情報や知識の複写の容易性、非消費性という特徴は、日本語という環境によって防護されてきた面があるが、それにも限界がある。

 情報や知識を活用する際、発信者と受信者との間に一定水準の知識が共有されていることが必要となる。実社会における情報や知識の伝達に係るプロコトルには、コミュニケーション当事者それぞれの、話題についての基礎知識も含まれるのである。こうしたとき、報道機関における自主検閲は、事実認識に係るバイアスを助長する原因となりうる。福島第一原発事故は、史上最悪の事故であり、現在も敷地外(数千キロメートル以遠)への放射性物質の漏出が継続中である。この事実認識なしには、わが国における多くのクライシス・コミュニケーションは、意味のないことであるばかりか、報道内容を的確にマインドマップ中に位置付けることのできる専門家を除けば、有害であるとさえ言うことができるであろう。

 それとも、ここまでの福島第一原発事故に対する放送量の少なさは、明日と14日、15日に期待して良いということを意味するのであろうか。

平成28年3月18日追記

「対象とするシミュレーション期間が3.11直後の爆発後に限定されている上、」という条件を付せば、映像などはいくつか存在するようである。平成28年3月14日深夜にNNNドキュメントでも放映されたようであるが、ここでの趣旨を覆すものではない。5年間についての継続的なシミュレーションは、実行して蓄積するだけの価値があるデータであったということを指摘したいのである。そうしなければ、一般人の思い描く「科学的な」因果関係を同定できないであろうということを指摘しておきたい。このようなシミュレーションと、航空測量に基づく空間線量の測定結果との違いは、あたかも、動物の行動を検証する際にGPSを利用するという方法と、動物の痕跡(マーキング等)を利用するという方法との対比に喩えられよう。

2016年3月3日木曜日

高齢者の移転が進まない理由(意見)

 高齢者が引越しを考えるのが辛いのは、荷物を整理するときに、自らの死と向き合わなくてはならないからだ。防災行政においては、高齢者の居宅の耐震改修や不燃化が進まないことが、問題視されてきたが、その理由のひとつには、このような事情があるのではないか、と遅まきながら気が付いた。引越しをするときは、大掃除のように、気が向かなかったら止めるというわけにもいかず、締切を守る形で、品々を整理しなければならない。身の周りにある物品に向き合うことは、普段であれば何ということもないであろうが、これが死ぬことを想起させるというのは、常在戦場のような訓練を積んできた人でなければ(、あるいは、訓練してきた人であっても、かもしれないが)、かなりのストレスであろう。

 「断捨離」にせよ「終活」にせよ、主体の(精神的な)若さや強さという前提が必要である。「断捨離」が行える人は、自分に未来があると信じることができる人だ。「断捨離」後の暮らしが良くなると信じることができなければ、「断捨離」は容易には行えないであろう。私自身も、観念的には、物品や情報整理の必要性を身にしみて感じているものの、何やかんやで「自炊」さえも進んでいない。ましてや、物品や食事の欠乏状態から人生をスタートさせた現在の高齢者たちに対して、引越しせよと説くことは、相当の理由がなければ、困難な話であろう。