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2023年8月9日水曜日

ヤング(1984=2010)『徒歩で中国へ:古代アジアの伝道記録』ならびにその周辺

本稿では、ジョン・M・L・ヤング, 後藤牧人〔訳〕, 川口一彦〔監修〕. (1984=2010)『徒歩で中国へ:古代アジアの伝道記録』, イーグレープ.[1]〔以下、本書とする。〕(AmazonへのURL)について、読書メモを示す。なお、英語版の原書については、ネット上で閲覧できる[2]。ヤング氏自身の内心を正確に理解するには、原著を確認する必要がある。

本書は、景教の伝道と普及・衰亡までを概観し、衰退の理由を考察するもので、ヤング師〔以後は敬称を氏で統一〕の修士論文が底本。中国における景教は、ネストリウス派ではなく、アンテオケ学派の内容を備えていたとする。中国に伝播した景教において始まった死者礼拝あるいは祖先祭儀の習慣を、中国文化へのコンテクスチュアライゼーション(文脈化)を反映したものである一方、衰退の原因でもある〔p.194等〕と推察する。

本書の第3章〔pp.56-57〕に、広隆寺・その通称である太秦寺の謂れ・弥勒菩薩についての記述があるが、訳書では、参考文献として挙げられるP.Y.Saeki(1951)『The Nestonian Documents and Relics in China』[3]を含め、直接に参照した文献が示されない。なお、「P.Y.サエキ」は、「景教博士」と呼ばれた佐伯好郎氏が、同書を記す際に示した名である※1。ヤング氏は

手島氏によると603年に建てられたもともとの建物は、キリスト教建築であって
と記すが、この手島氏が誰であるのか、訳書では出所を欠く。また、ヤング氏は、佐伯氏が太秦(うずまさ)をアラム語のイェシュ・メシャッハはメシヤの意)であると主張したとも指摘するが、本訳書ではこの出所が明確な形で示されない。また、広隆寺の弥勒菩薩像について、ギリシャ神話のメタトロン神から影響を受けている、とヤング氏は指摘するが、これも明確な出所がない(ゆえに、この記述はヤング氏の観察に基づく結論である、と訳書を読んだ読者は推認することになる)。

本書の第9章〔pp.191-193〕では、先祖供養の要素を中国において導入した景教に伝教大師(最澄、天台宗)と弘法大師(空海、真言宗)が接触したために、日本の仏教にも先祖供養の伝統が持ち込まれた、と、M.アネサキ(1963)『History of Japanese Religion』, Charles E. Tuttle.を参照しつつ、分析する(。前掲書の著者は姉崎正治氏。出版年が没後(1949年没)であるのは、版を重ねたためか)。

私には、以上に示した本書に係るいずれの記述にも、大きな誤りがあるとまでは思えない。とはいえ、学術においてなら問題となる程度の不備は、以上に見たように訳書には存在するし、この不備に伴う政治性を扱うには(、また以下注でも扱う話題についても同様であるが)、十分な注意が必要である。また、この先の事実確認を進めるには、まず、英語原書を手掛かりに佐伯氏の著作に当たる方が、早かろうし、何より正確である。

※1佐伯氏のクリスチャンネームは、Peter[4]。なお、佐伯氏は、秦氏が古代ユダヤ人に由来するという点で、日猶同祖論を概ね肯定した。Wikipedia英語版の"Hata Clan"[5]に1908年提唱との記述があるが、原典は不明。本書監修者の川口氏は、佐伯氏に係るここまでの指摘事項を必要十分にカバーする記事を『クリスチャン・トゥデイ』紙に寄稿している[6]が、その記事中、佐伯氏の日猶同祖論について、ユダヤ大資本の導入を企図するために根拠なく提唱したものと批判する。

読書メモは以上であるが、原著者のヤング氏は、この政治性に十分に注意した結果、本書の題名を採用し(、また、題名については訳者の後藤氏は、忠実に原典の意図を踏襲し)たとも読める。




(その名が出てきたため、脱線して記しておくと、また、本段落以降も、本稿のごとき低水準のメモを公開する目的の一つとなるが、)なぜ、ネストリウス派による主イエスの神性・人性に対する解釈が異端とされたのか、また、なぜ、量子論が研究されている現代においてすら同派に対する異端との言挙げが撤回されぬのか、私には理解し難い。単性説・両性説・単意説・合性説等々は、とっくのとうに、観察不能性という観点から考察し直せたのではあるまいか。少なくとも、「"単性説" "両性説" "観察" "二重性"」というクエリをググらせてみても、日本語ではクリスチャンのものと明確に認められる議論が返ってこない。女神転生シリーズの信者が西村博之版2ちゃんねる(sc)にどこかからコピペした記述の断片[7]が、何なら一番、私の疑問に答え得るような努力を(同シリーズを崇める目的の下で)払った結果、何となく私の疑問に係る考察をしてみせたかのような配列を提示している。クリスチャンにとっては、「主イエスが(罪なき人として)十字架に掛けられた」ことだけが、大事なのではあるまいか。議論は必要であろうが、この話題は、直前のカギカッコに含まれる考えを持ちつつも意見を異にする相手が父なる神により救われぬとの言明を公に示すに十分な深刻さを持つものとは、私には思えない。他面、ユニテリアンについては、(イエスを人であるとのみ考える派を含むがゆえ、ただでさえ高等批評が必要であると考えてまとまりのない結果に陥っている)私には扱いかねるものの、それでも、ユニテリアンもまた、クリスチャンが迫害する対象としてはならないとも言えるのではあるまいか

(私もある程度はこのカテゴリーに含まれるつもりであるが、)四福音書の内容を信じる者は、観察可能性を念頭に、主イエスの神性と人性の二重状態を信じるほかなく、信じる者ならクリスチャンであるといった程度に、緩く捉えるべきではあるまいか(。この私見が各種信条の形成過程を押さえぬものであることは、重々自覚はするが)。人間として主イエスが十字架までの生を生きたとすると、(また、単性説の説明は、時間軸において途切れることなく人性か神性かのいずれかを有するとの副バージョンを含み、この副バージョンによるならば、という条件を必要とはするものの、)数々の奇跡の説明が付かない。しかし、主イエスを取り巻くごく近傍(、たとえば、衣の房)に父なる神が奇跡を起こされていたという説明は、断然、成立する。神性のみで一貫するとする解釈は、創世記において示されたアダムによる罪を(人としての)イエスの血が贖ったという理解を成立させぬ点では、困難を抱える。が、同時に、紀元1世紀前後から現在に至るまでの人間の観察不能性を考慮すれば、無下に否定できるものでもない。ただ、正直、かくもつまんねぇ話で、権力争いどころか流血に至る種類の対立を繰り広げてきたものである、と、これまでこの課題に関わってきた「聖職者」達を評価できるのみである。しかし、この一方で、これらの無駄に(文字通りの)真剣な考察があって初めて、20世紀以降のごく微小なスケールでの物理学における観察可能性の議論がここまで進んできたものとも考えうる。ゆえ、神の采配ならびにこれを慕い求める人間の努力には、無駄など一切ないのかも知れない(。とはいえ、やはり、私には、現在のキリスト教の歴史において、相当程度、無用に血が流されてきた、としか思えない)。




なお、クリスチャン・トゥデイ紙については、(己を現代のキリストであると自称するという)ダビデ張こと張在亨のグループとの関係性が指摘されており、このうち、キリスト新聞社の記事[8] には、一定の信憑性が認められるように思う。このややこしい指摘をふまえると、研究者は、よくよく、持論の正確性や己の社会的な地位等に基づく正統性がカルトに悪用されぬよう、注意し身を処す必要があるのではあるまいか。要注意人物共が(第三者には)どこまでも野放しと見えるままに存分に活動する今の世の中は、確かに邪悪である。この世の邪悪に対抗するためには、クリスチャンこそが学術上の瑕疵を生じない程度の警戒心を絶やさぬことが必要であるとも思える。本稿に見た程度に、景教を巡る研究そのものに相当の政治性を看取できるが、その政治性に対し、ここに見た研究者の複数名が、期せずしてか学術上の水準を満たさぬ成果を世に問うているためである。




公平のため述べておくと、私は、あくまで事実を事実として受け止めた上で、罪が主イエスにより赦されると信じる者についてはそうあって欲しいと祈る。この点、事実を歪めることは、人間が他者に対し施す赦しに伴う行為を、誤った内容のものとしてしまいかねない。父なる神は、間違いなく、全人類の全行為を把握されているであろうけれども、である。


[1] 徒歩で中国へ : 古代アジアの伝道記録|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
(2023年8月9日確認)
https://id.ndl.go.jp/bib/000010882243

[2] By Foot To China: Mission of The Church of the East, to 1400
(2023年8月9日確認)
http://www.aina.org/books/bftc/bftc.htm

[3] The Nestorian documents and relics in China - 国立国会図書館デジタルコレクション
(P.Y.サエキ、2023年8月6日確認)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1675728

[4] P. Y. Saeki - Wikipedia
(2023年8月6日確認)
https://en.wikipedia.org/wiki/P._Y._Saeki

[5] Hata clan - Wikipedia
(2023年8月6日確認)
https://en.wikipedia.org/wiki/Hata_clan

[6] 新・景教のたどった道(57)景教を日本に紹介した人々(1)佐伯好郎 川口一彦 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ
(2021年8月17日11:51、川口一彦)
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29861/20210817/shin-keikyo-57.htm

[7] 愛の道阿修羅 真・女神転生ウィッチオブフォローワーズ2
(2021年12月4日~)
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/gamerpg/1638628217/

[8] ダビデ張グループ脱会者が緊急声明 消えぬ苦痛 報復に怯える日々 2018年10月11日 - キリスト新聞社ホームページ
(2018年10月11日)
http://www.kirishin.com/2018/10/06/19090/




2023(令和5)年8月15日訂正・補足

私自身の当初からの執筆意図を曲げぬよう、本文を一部訂正した。

私の意図を明確に改めて述べておく;原著者のヤング氏については、間違いなく、景教研究を巡る日本での事情を踏まえ、題名含めた内容を注意深く執筆したことが原著の内容から読み取れる。事実を事実として記すことは、研究の基本である。これを曲げると、後世の研究者に余計な負担を掛けるだけでなく、彼らからの誤解も呼びかねないこととなる。私からすれば、ヤング氏の著書を正確に和訳することに、何らかの問題があったとは思えない(が、己に対する嫌がらせ等を見極める作業を通じて、日本人全般に対し一律となる・アッサンブラージュと呼べる種類の言論統制が存在することを理解するにも至っており、こう意見表明すること自体がトリガーとなっていることを重々自覚もする。しかし、この再帰性を込みにしたとしても、正しく原著を訳した方が、結果的には、各人にとっての公平な判定を(死後に)受けることができるのではあるまいか。なお、ここで誰からの判定と明記しなかったのは、当然ながら、クリスチャンであろうと非キリスト者であろうと、好き好きに解釈できる余地を残したためである)。

なお、恥ずかしながら、ごく最近まで、アラム語が存続の危機にあるという話がディープ・ステイト共の策略の一つである可能性に気付いていなかった。(トランプ政権より前の米国を主たる暴力装置としつつ、そこに関与する米国人達の心身をも傷付けてきた)イラクからシリアに至る地域を対象としたグローバルな戦争屋共の策謀は、聖書に係る歴史修正主義の実践をも兼ねていた可能性が高かろう。正統なクリスチャンを自認する者達がどのように本件に係る己の責任に気付き行動を改めることになるかについては、皆目見当が付かない。が、この点についての事実の解明・被害者達への補償もまた、当然、戦後に必要な営みであるのではあるまいか。この点に係る動きの(今の権力を保持していると大多数から見える者共からの)ゼロ回答ぶりを考えると、まだまだ、我々は、第三次世界大戦の渦中に置かれ続けることになるのであろうか。

2017年9月3日日曜日

オカルトにはオカルトの効用があるが、悪用されがちであるし、オカルトへの批判も、同様の危険を有する

以前に述べた(2016年1月16日)が、「分かりやすい嘘」が社会に向けて発信されることには、それなりの効用がある。爬虫人類や地底人や未来人や宇宙人や吸血鬼やその他の超自然的存在といった、他者にとっては虚構と見なせるような「存在」からの「預言」という形で、あるいは未来に対する「予言」という形で、現実に係る真実を述べることは、責任の所在を曖昧なものとして、通常人ならば発言に社会的責任を問われることを題材としながら、自分自身が真実と思うところを述べることを可能とする、という効果を有するのである。なお、先の記事では「未来人」への言及が欠落していたが、われわれ現代人からすれば、「未来人」も、当然、同様の仮構的存在である。

#私は、ナントカ人や超能力やオカルトを肯定する人物の見方と同様の結論を採ることが多いにもかかわらず、これらの超自然的な存在に対して、否定的である。ただし、この点自体を明らかにしておかなくては、私自身が陰謀論を取扱う者のルールから外れることになろうから、ここでも言明しておくが、私は、神という超越的存在を信じていない訳ではない。しかし同時に、「陰謀論者」に時折見られるように、私は、超越的存在やオカルト的な存在・能力をダシにして、自身の主張の正しさを補強したことはない。本ブログを通読すれば、その反例が見つからないという形で、この主張は疎明できるはずである。もっとも、一部の文章においては、私の個人的な体験(見聞きしたこと、一次情報)を、再現不可能な形で利用してはいるため、見る人から見れば、同じ種類の証拠を利用していると反論を受けるやも知れない。ただ、これを敷衍し過ぎると、われわれが社会を客観的に分析することは、到底、不可能ということになる。

人々の中には、爬虫人類や地底人や未来人や宇宙人や吸血鬼など、にわかに信じがたい種類の仮構的存在に託して、何らかの真実を発信しようとする者も含まれる。現実に、これらの表現者のどれほどが「嘘」に対して自覚的であるかは、分からない。ネット上に流通するオカルトの言説を定量化して、現実に信じているか否かを分別する作業などというのも、労多くして益少なしであろう。研究費を投じてこの種の調査を行う研究者たちがいる(いた)とすれば、確信を以て、先にやるべきことがあると指摘し批判することができる。その理由は、以下のようなものである。

仮構的(と一般人に思える)存在を語る」人々の中には、聞き手からすれば、「分かりやすい嘘」を利用して虚構に真実を託していると認められる場合も含まれるが、わが国で商業的に「デバンク(オカルトの「嘘」を暴くの意)」に従事する者たちは、この構図に触れないために、社会にとって、むしろ有害な存在となり得る。「デバンク」行為を自称する人物たちのいくらかは、この方法論に通じており、この「分かりやすい嘘に託された真実」が流布しないように監視するという役割を与えられていると推察できる。この種の「真実」のうち、最も監視されているものの一つは、9.11が自作自演(inside job)である、という疑惑である。それにもかかわらず、彼ら「科学主義者」たちは、現時点においても、「分かりやすい嘘」に隠された効用までを明らかにしようとはしない。なぜなら、現在の「トランプ時代=ポスト・トゥルース時代」において、「虚構に託して真実を語る」ことは、必要性自体が低下しているため、語り手側にとっての効用が総合的に低下しているものの、他方で、「虚構を信じるバカな人々」という種類のレッテル貼りは、今なお有効に機能するためである。私から見れば、前年と今年の『トンデモ○○』の栄冠は、大マスコミに与えられて然るべきである。しかし、「トンデモ」をウォッチするという活動を商業的に実施している人物たちが大マスコミを批判する程度は、「トンデモ」に分類される人物たちの著作への批判に比べれば、まったくもって僅少である。この差は、マスコミと彼らが共依存的関係にあり、これら双方の主体が「トンデモ」とされる人々と同程度に、現実をできるだけ偏りなく理解する上での敵であることを示す。

別の言葉で表現すると、わが国の「デバンク」筋は、大マスコミの誤り・フェイクメディアの誤り・陰謀論者の誤り・御用学者の誤りに接して、これらを等しく批判しないのである。しかも、その結果が総じて横並びになるというところは、いかにもつまらない「理性」の発揮のされ方というべきである。9.11の動機にブッシュ家の多額のカネが絡んでいることは、周知の事実というべきである。このとき、商業出版上で活動する「デバンク」筋による、9.11の真相追究者に対する批判を、等しくカネに転んだために生じたものと見ることは、何ら不整合なものではないのである。

「仮構的存在に託して物を語る」人々の中でも、「超越的存在」に依りながら何かを伝えようとする人々には、度外れた利他性が求められる。「怪談」の類いを含め、「虚構の存在」をあたかも存在するかのように語る人々は、それだけで、虚偽を人々に広めていることにもなる。この種の発言は、発言者がフィクションであるという事実を内心に知りながら、「嘘を吐いている」という悪を超えるだけの公益性があると発言者が信じるがゆえに、「言論の自由」の一環として、世間に許容されている。このように解釈しても良いであろう。たとえば、「口寄せ」が許されるのは、「口寄せ」される個人と親しい関係にある個人がイタコ役に依頼し、社会に対して閉じた形で(、擬似的な親密圏において、)実施されるからである。この点、某新興宗教の教祖のスタイルが社会的に許容されるか否かは、その言説に大きく依存することになる。「虚構の存在からのメッセージ」の受け手となる人々の圧倒的大多数は、超越的存在を己の利益のみを目的として利用してはいないし、他人の言動に対しても、超越的存在が利他的であるというルールを適用するものである。(少なくとも、日本語環境における「神様」のデフォルトのイメージは、一般的に、利他的であるものと考えて良かろう。念のため、ここでは、「荒ぶる神」とか「祟り神」とかの存在にまで話を広げる必要性もない。)

絶対的かつ超越的な存在は、通常、絶対的な真・善・美として聞き手に受容されるから、仮構的存在として超越的存在を登場させる個人は、間違いなく、「嘘を吐いた」という結果に陥ることとなる。超越的存在は、間違っていてはならないが、人間は、ほとんど常に間違える存在である。自らの言説の正しさを補強・維持するために、超越的存在を騙る人物は、嘘を積み重ねなければならないが、やがては、それらの嘘が相互に矛盾するようになる。結局、この種の人物は、自らの言説を破綻させることになる。この点、超越的存在の名を利用しようとする人物は、詐欺師としては、一流ではない。

ただ、既存の大宗教は、社会内の組織として扱うべきであり、既存の大宗教の教義は、ここでの検討対象に含まれない。既存の宗教組織は、超越的存在としてではなく、社会内存在として確固たる地位を築いている。その組織が超越的存在を信奉しており、その教義が神によるものであるとしても、既存の教義に見られなかったようなオカルト的言説は、組織内の相互作用を経て、主要な成員に認定されなければ、「神の言葉」として信者に受け入れられないのである。

このように対比すると、個人が「神の言葉」として何かを語るためには、「語り手の意図が利他的なものと聞き手に受け止められる」という条件を含め、相当のハードルが社会に存在していることが分かる(が、私には、十分に整理できていない)。語り手の意図が利他的なものであるという条件は、絶対的なものではないが、言説の利己性は、隠されていたとしても、(本稿に見る「デバンク」筋の利己性のように、)いずれは、バレることになろう。利他性は、受容する側によって判断される性質であるが、その要件は、なかなか厳しいものである。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という警句も、間主観性・相互性を示すという意味では、同種である。受け手となる人々が、他人の善行や、偉業を成し遂げた人物のメッセージに対して、神の意思が表れているものと後付けで解釈することは、ありがちではある。聞き手の側には、「聞く耳」がなければならない。内容を理解できるだけの教養・教育が聞き手に備わっていることも必要であろうし、そのような聞き手が十分に耳を傾けるだけの余裕や環境もなければならない。(#本段落は、新約聖書の影響を多分に受けている内容である。)

この点、たとえば、「神様が、2011年3月11日の東日本大震災を私(だけ)に警告していた」などとする一部の「予言」に対して、人は、疑わしい印象を抱くものである。特に、その「予言」が後出しとなる場合には、なおさらである。聞き手は、この「予言」を信用した場合、その信用が彼(女)のみを利することになるという結果を、直感的に予想するものである。この微妙であるけれども決定的な「予感」は、(単なる仮構的存在に託す形ではなく、)「超越的存在に託して真実を語る」という行動には、利他性が求められるという黄金則を示すものである。この利他性は、庶民が占い師を頼ることが一般的に許容されながらも、政治家らの権力者たちがこの方法論に依存することに批判が寄せられることを踏まえれば、一層明らかになる。

占いという行為も、その一連の動作に表れるとされる法則を、仮構的存在として利用している点で、オカルトと共通する要素を有している。ただし、占いの方が、オカルトよりも現実に対する影響力を発揮している点において、一層の注意が必要である。占いは、古代よりそうであったように、支配の道具でもある。占いは、探偵業務やカウンセリングと相補的な行為であり、ときには、洗脳に利用される手法も援用される。占いは、『国際秘密力研究』の菊池氏がいうところの「憑依系」の方法に分類されよう。マスメディア、特にテレビ局がいくら叩かれようとも、占いコーナーを設け続けるのには、占いという社会工学的な方法を、社会に認知・定着させ続けるという使命を帯びているからでもあると考えることができる。

政治家が占いに依存することは、古代においては常態であったようであるが、民主主義の現代においては、もはや許されることではない。民衆が占いを合理的な行為とは見なくなっているためである。「支配する側の論理」「詐欺師の気持ち」に立てば、古代の天文学は、「予言」を簡単に達成するための「支配の道具」であったと考えるのが自然な結論である。自然法則を探究する自然科学であっても、オカルトの悪用と変わるところのない結果=不当な支配を生み出すことに貢献しうることは、古代エジプト・バビロニア辺りに源流があるとされる国際秘密力集団の歴史からも、示唆されることである。

われわれ現代人は、現代科学と現代思想の枠内に留まる思想的道具と、現実に存在する技術を利用して、現実の個別の課題に対処するほかない。しかしなお、これらのツールのそれぞれは、相当に発達しており、四半世紀程度の学習に個人が資源を投資しても追いつかないほどである。このとき、「支配の科学・技術」が故意に秘匿され、国際秘密力集団の走狗によってのみ利用されているとすれば、その結果は、人類全体の発展にとって、きわめて歪な結果をもたらすことになる。オカルトと占いと科学は、いずれもが、支配に奉仕する奴隷となり得る。現代では、これらの利用方法は、定型化され、実践されているものと認められる。商業出版における「トンデモ」批判の不自然さこそが、その証明となっているのである。とすれば、商業出版上で「トンデモ」を糾弾する人物たちは、この道具性までを見越して批判の筆を進めなければ、「トンデモ本」の作者たちと同様、批判者自体が商業的に活動しているがゆえに、「地獄への道」を舗装しているものと読者に解釈されることになるのである。




2017年9月4日修正

本文の意図が正しく伝わるように、文言を修正した。(当初の意図は、変えていないつもりである。)




2017年9月5日修正

4日と同じ意図の下に、文言を修正した。




2018年7月16日修正

本文の意図を変えないように文言を修正した。

2015年10月23日金曜日

オウム真理教による一連の事件の教訓(その1)

 近年、地下鉄サリン事件を含め、オウム真理教に対する再度の見直しが国際的にも始まっているようである。ロシア連邦内で、オウム真理教の大規模な摘発があったという。ソ連崩壊時のロシアにおける制度的・精神的混乱に乗じる形で、オウム真理教が定着したと聞く。オリガルヒ(政商)がやりたい放題であった当時と現在とでは、ロシアの国内事情は、大きく異なるということなのだろう※1

時事ドットコム:オウム施設摘発=ネットで信者拡大-ロシア報道
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201510/2015102100103&g=pol

※1 私も、一応、大人を気取っている。読者が時事通信の記事から私の主張に至るのはおかしいことだ、と感じるようであれば、それを否定することはしない。

 翻って、わが国は、どうであろうか。第一に、一連の事件の全容が解明されたとは言いがたい。第二に、被害者への支援も手薄い。第三に、事件対応における失敗は、責任者であるはずの公安幹部による強弁で糊塗されてしまい、一国民の眼から見る限り、再度同じ失敗が繰り返されてもおかしくはない※2。第四に、わが国では、カルト宗教に勧誘されかねない(無知な)若者を保護するためのシステムがまったく欠如した状態である。大学の事務・教務に丸投げ、というのが実態である。

地下鉄サリン事件前に強制捜査の機会も NHKニュース
(Internet Archive Wayback Machine収録分)
https://web.archive.org/web/20150320132649/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150320/k10010022681000.html

※2 これまた大事なことであるが、一介の国民の目にはそう映る、ということに重点が置かれているのであり、そう見えてしまうという状態は、対策を企画・実行する上での条件である。対策の条件には、対策が不十分に見える限りは、対策が不十分であるという批判を免れることがないという状態までが含まれる。仮に、現在の対策の稚拙さがハニーポットの如きものであるとした場合、批判を甘受するところまでが受け容れざるを得ない条件ということになる。それが対策を講じる者の仕事の辛さである。これに対して、(本記事に係る)私の仕事は、正当な評価を加えることである。

 第三の点に関連する個人的な体験を述べよう。近い人には話をしたことがあるが、地下鉄サリン事件後に起きた新宿駅での未遂事件のとき、私は、事件の舞台となったトイレに入ったことがある。埼玉から大学に行く途中の乗換え時の利用に便利だったので、事件前からそれなりに利用していたトイレであったのだ。当日、腹が緩くなり、トイレに駆け込んだは良いが、なかなか空かないうちにウェーブが去ったので、小だけして涙目で山手線に乗り換えた。そういうことがあったことは、後から知った。

 第四の点についてであるが、平成6年の入学時にオウム真理教と思しきサークルの勧誘を受け、ハガキを受け取ったり駒下の某マンション三階の部屋まで連れて行かれたことと言い、私の中では、オウム真理教による(と認定された)一連の事件は、私の中では、遠い世界の話ではなく、被害者にも加害者にもなり得たという点でも、それなりに現実味のあるものとして残っている。そのサークルの勧誘自体は、決して暴力的であったり、ほかの宗教団体のような圧迫感のあるものではなかったが、「富士山を望む湖のほとりの合宿所」というふれこみの場所までついて行っていたならば、どうにもならなくなっていただろうと思っている。ただし、当時の状況を思い起こす限りでは、無理には連れて行かれたことはなかっただろうとも考える。勧誘については、「板子一枚下は地獄」ではあるが、当時、板子はあったのである。

 オウム真理教の事件後も、一人暮らしの大学生や留学生に対する支援は、わが国では劣悪なままである。留学生に対しては、原理主義者であるかどうかを疑うという、マイナスをゼロにするためのルーティンはあるようだが、原理主義者から留学生を守り、やがては母国などで(わが国のためにも)活躍してもらうための支援という、ゼロやマイナスをプラスに転じるための施策も必要である。そうであるべきところ、現状がまったくお寒い状況であることは、周知の事実であり、ここでは、例を挙げる必要はないだろう。例を挙げ、類似事例の責任者をすべて処分するとするならば、どれだけの首が飛ぶことか。

 フルブライト奨学生に代表される他の先進諸国の留学生制度は、その制度を用意した国のファンを増やす役割も果たしているが、わが国の留学生支援に対する財政上の理解は、その辺のセンスを決定的に欠いている。南京大虐殺の記憶遺産認定を非難するあまり、UNESCOの負担金を減らすと放言した逸話は、その典型例である。負担金の減額分は、そのまま留学生制度の充実に当てれば良いのであり、そのように主張すれば、少なくとも国内からの非難を受けることはなかったのである。(その際、天下りによる中抜きの排除は、もちろん必要である。)事実認定に不服があったとしても、真実がわが国政府の信ずるとおりであったとするなら、やがては、留学生が主要な地位を占めるに至ったとき、誤りは、自然と訂正されるはずであろう。

 教育とは、未来の世代、利害関係者への再配分である。投票権のない世代が利益を享受するだけに、通常よりも高い倫理性に基づく制度設計が必要である。南京大虐殺の記憶遺産認定を巡る国内のドタバタ劇は、どの立場の日本国民にとっても、わが国の留学生を含めた教育システムが破綻しており、わが国の政治が極めて短期的視点に陥っていることを示す良い証拠となっている。南京大虐殺が事実であったとすれば、事実でないかのように発言する政治家を輩出した国民を育成した事実をもって、また、南京大虐殺が事実でなかったとすれば、そのような誤った理解の流布を阻止できない程度の社会科学系の研究者たちしか育成できなかった事実をもって、わが国の教育システムは非難されるべきである。

 オウム真理教の一連の事件と、現在のわが国に対するその教訓については、機会を見て深掘りしていきたい。ただ、事件そのものについては、優れた先行文献が見られることであるし、多くの人が現在も影響されている事件である以上、過去に遡ることについては、自ずと限界もある。とりあえず、以上の文章は、私の主張を知る上で十分なものであろう。