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2018年7月26日木曜日

(書評)絶対と信仰という概念抜きには、西洋哲学を理解できないだろうに

#あまりに駄文であるとは思いながら、そこはそれ、恥を書き捨てるつもりで公開した。

甲田純生氏の『1日で学び直す哲学 常識を打ち破る思考力をつける』(光文社新書657, 2018年8月20日)は、全体を通して、キリスト教と哲学的思索との緊張関係(の歴史)を十分に取り上げない。キリスト教は、誕生した後、接触した哲学に対して、宗教としてのみならず、絶対という概念の別名としても機能してきた。プラトン以後の西洋式の哲学がイデアリズム(観念至上主義)に支配されてきたことは、一応、同書でも言及されてはいるが、これを補強するのが信仰であるという点は、十分に説明されてはいない。私が勝手に理解するところでは、(自覚的で強い)信仰とは、人生における意思決定を必要とするもので、心に思い切り(跳躍)を必要とする。この機制を有している人々にとって当然の心境は、そうでない人たちにとって、いわば彼岸に行ってしまった人のものであるので、理解できないものだとしても仕方なかろう。しかし、同書では、キリスト教が省略されたために、同書は、(野内良三氏の言葉を借りると、「超現実主義者」[1]としての感性を有する日本人)読者に対して、この世に対置される真の世があるという考え方が信仰によって強化されているという理解を、伝え損ねているのである。

この関係性を説明しないのは、21世紀初頭に生きる哲学者として、あんまりな態度である。なぜなら、この無視・切捨ての姿勢は、世の中の大多数の他者を、何らかの心の働きを有する個人として認めないことにもなるのだから。また、この省略は、学問としての存立基盤である一般性を掘り崩しかねないほどに、キリスト教という(内部に、相応の多様性を含む世界的宗教の)特殊性を認めないものでもある。ともかく、同書は、キリスト教を考察の対象から捨象したことにより、哲学の全体系という壮麗な殿堂の一翼(と主殿)を、完全に瓦解させたものとなっている※1。わが国でも、浄土宗や浄土真宗などの、信じる者が救われるとする大乗的な性格は、本稿に係るキリスト教の精神に共通すると認められるから、これらの宗教の信仰者にならば、私の言わんとすることが通じるかも知れない。

同書は、題名にもかかわらず、結局、哲学を学び直す上での妨げになる。同じ一日を費やすなら、ほかの本を読む方が断然良い。キリスト教を切り捨てた割に、甲田氏の著書には、思い切りの良さという評価点から見て、判断を失敗した箇所がほかにも見られる。たとえば、ハイデガーについて不満を挙げると、甲田氏の説明よりも、筒井康隆氏の『誰にもわかるハイデガー 文学部只野教授・最終講義』(2018年05月20日, 河出書房新社. 1990年講演の再構成)の方が、間違いを犯すリスクを取りながらも、結果として成功しており、よほど分かりやすい※2。ハイデガーに係る甲田氏の歯切れの悪さに接する限り、私には、甲田氏がキリスト教を捨象した意図を汲み取り切れないのである。

甲田氏は、ハイデガーに関連して、

人間だけが「死ぬ」

人生の終着点――。それは、「死」以外の何ものでもありません。生と死はひとつです。

私たちは186ページのヘーゲルの『小論理学』引用文から、生命の存在には最初から死が組み込まれている、ということを確認しました。〔…略…;以上、p.216〕

と表現するが、私は、この言葉使いに本当にイラッときた。生と死は、一続きのもの、一揃いのもの、一対のもの、一組のものではあるが、生があって初めて死があるという点で、不可逆であり、単なる一体のものではない。重点的に取り上げる7名の中にヘーゲルを指定しながら、生と死(の順序の大事さ)を論じない○○味噌ぶりは、頭が良く相手の愚かさを指摘しがちな哲学者という人種〔pp.53-54〕が用いた表現としては、随分と不用意なものである。先にも言及した書籍において、野内良三氏は、偶然について、

想えば、人間は自分の意志ではいかんともしがたい、誕生と死という大きな二つの偶然に支配された存在である。どんなに神に愛された人間でもこの二つの偶然からだけは免れることはできない。〔…略…;p.15〕[1]

と説明するが、野内氏の考察において、人間の誕生と死は、分かたれた形の二種類のイベントである※3

キリスト教への言及という点、宇野重規氏の『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ, 2013年10月20日)は、題名ゆえにそうせざるを得ないのであるが、ほぼ全編がキリスト教(権力)との競合と棲み分けの歴史を腰を据えた形で記しており、有用である。野内氏の文章とは異なり、甲田・宇野両氏の文章とも、段落読みできるものではない。それでも、全体の構成を比較の対象とすれば、宇野氏の書籍は、甲田氏の書籍に比べて、われわれが知るべき(と私が考える)内容に対して、偏りのない理解を与えるものである。宇野氏の文章では、一段落一主題も守られている。なお、面白いことに、哲学という分野においては、科学哲学・政治哲学といった学際的な分野に、なぜか(というか、これ自体が考究の対象になるはずであるが)、段落書きを徹底する著作者が多く分布しているように見える。


なお、本ブログでは何度も繰り返したことであるが、段落書きの有無は、学術研究者としての誠実さ・サービス精神の表れでもある。段落書きしてこなかった学術研究者にとって、この指摘は、消え入りたいものとして感じられるであろう(。なぜなら、段落書きは、読者の利便を増進するものであり、何なら、特定言語において、集合的知性を高めるための社会的装置ともなるためである。これ以上の論証は、本ブログを精査されたい)。私も、研究経歴の半分程度の間、この作法に気付かずに過ごしてしまい、ゴミのような文章を産出してきた以上、人のことをさほど非難できないが、この恥ずかしさに気付けたのは、自身に課したハック志向=エンジニア志向ゆえと思っている。また、気付いてからは、少なくとも周囲の人々に対しては、この作法を積極的に伝授してきたつもりである。段落書きできていない研究者は、所属する研究コミュニティにもそれなりの原因があるのだが、結局のところ、自身の努力不足と怠慢を、世界に向けて、後戻りできない形[2]で、示してしまっているのである。単なる書き損じのみならず、文章の並べ方でさえも批判の対象となるとは、現代は、真に面倒な時代ではある。けれども、言語集団としての日本語話者たちの生き残りを思いやるのであれば、これくらいの配慮は、書き手に当然求められるエチケットである。わが国の多くの「文系」の研究者は、ともすれば、情報流通業者に堕しがちなどと揶揄されるが、文章作法までを劣化コピーするとすれば、彼らは、社会防衛主義的な見地からすれば、真に罪深い存在というほかなかろう。

ところで、多くの個人は、人生を送る中、何かを契機として、死と向き合うことになろうが、その作業は、私を含め、結構な数の人々にとって、難事というべきであろう。この困難に対して、単独で立ち向かうことは、普通の人に可能であろうか。私たちは、この災難を何らかの方法でやり過ごさねば、どうにもならずに、死(とそれまでの生)がもたらす恐怖と不安に、囚われてしまうことになろう。また、愛する人を事故や事件や災害などで失った人は、何年経過しても、救われない気持ちとともに生きていくことになりかねない(。最近の私は、一人でいることの恐怖に立ち向かいかねた挙げ句、周囲の人々をも、この種の恐怖に直面させるような言動を重ねてしまっている。私自身は、相手にもよるが、私をその人の人生に組み入れ直すことにより、この巻添え被害を埋合せできるものと信じている。また、そうして欲しいと願っているのであるが)。

死に向き合うという困難は、究極的には、死ぬまでの間、その人が単独で向き合うしかないものであるが、しかし同時に、世の中には、この至上の恐怖・不安に向き合うための知恵が用意されている。たとえば、この困難に向き合うために、本稿でも触れたような、宗教の役割がある。保守思想は、この宗教や家庭の役目を重んじることができる。たとえば、キリスト教は、この困難を超えるために、父である神がひとり子であるイエス・キリストをあなたの元に遣わしたと説明する。保守主義からいえば、人生の困難を乗り越える上で、個人は、他人に重大な脅威を与えない限りは、宗教の助力を得ても全然構わないのである(。私個人は、特定の宗教の信仰を避けてきており、この点、具体的な宗教への勧誘は、意図していない。また、ここら辺の知識への投資は、不足気味であり、正確性すら保証しかねる。死に向き合う困難と対峙した(初期)近代の哲学者には、キルケゴールやハイデガーやニーチェがいるように思うが、この中で、ニーチェの主張は、私にはあんまりなものに思えてしまう。結局のところ、彼自身が自分の主張に押し潰されてしまったかのように見えてしまうからでもある)。


このとき、かなりの強引な展開だと自覚はするが、段落書きという切り口によっても、死に向き合うことの難しさは、明らかにすることができる。それは、西部邁氏の自死である。私は、『保守の真髄』(講談社現代新書, 2017年12月20日)を読み、西部氏の行動を評価しないようになった。なんと勿体なく、社会に迷惑を掛ける決定を下したのか、と思ったのである。正確には、その幇助者を通じてであるが。西部氏は、(一応、同氏の記述を尊重して、このように表現するが、)自死の過程において、覚悟の定まらない人物2名を相棒として選択したが、この決定は、結果的には、幇助者たちをしてイエスを知らないと三度述べたペテロのように振舞わせ、貴重な警察力を無駄にして、遺族を悲しませたり疑いの対象と見做すような報道によって、二次被害を生じた。『保守の真髄』は、長女に聞き書きさせたものである〔pp.10-11, pp.264-265〕が、それゆえか、私の中では、最も段落読みできるものとして感じられたのである。保守の真髄を実現する方法が「漸進改良主義」=「フェビアン主義」=「(カール・ポパーのいう)ピースミール工学」であるとするなら、同書は、西部氏が将来にわたり、読者に対して、より良質の書籍を供給できたはずの証拠として採用できよう。この事実にリアルタイムで私が気付かなかったことは、本ブログの座敷牢的性格ゆえに、結果に対して影響を及ぼさなかったはずであると断定できよう。しかし他方で、世の中のAチーム系学者に連なる編集者の一人でも、私の指摘したような評価を西部氏に与えることができていたならば、果たして何が起こったのであろうかとも、私は考えてしまうのである。私のポリシーの一つは、「勿体ない」と「リサイクル」であり、これは、明らかに、Bチーム的な理念・志向である。それでも、周囲の人たちの助力を仰いだ結果、西部氏の最後の業績がより良いものに進化したことを思えば、逮捕された人物たちは、なんと勿体ないことへの手助けをしたのか。私は、このように結論せざるを得ないのである(。中身そのものについては、結構な異論を感じるが、それにしてもである)。私は、だからこそ、自死なり自殺なりを容認しない。人は、生きている限り、何をなし得るのか分からないからである(。当然、殺人なり傷害致死なりも容認しない)。


※1 ただし、筒井氏の書籍の大澤真幸氏による解説は、「わかる人にだけわかる」と題されているだけあって、おそろしく人を躓かせるものに仕上がっている。良心と名声の双方を備えるキリスト者は、自らの宗教を大事に思うのであれば、大澤氏の記述の欠落を指摘して、それを悪意によるものか、無知によるものか、いずれかであるのか、と迫るべきであろう。私は、陰謀論者としての良心にかけて、この欠落の存在および攻め方を指南したことにより、自らの任を終えたものと思う。これ以上具体的に指南するには、私にも準備が必要である。また、ここら辺の考察は、私の実存と陰謀論者としての思索の双方に利益をもたらすが、この分野は、私の専門とは言えない。このために、誰にでも大澤氏に対する反論の機会が開かれているとしておいた方が、健全な競争と批判が生まれ、結果として、私のここでの指摘も、利益を得ると思うところである。

※2 ここでの表現は、キルケゴール『死にいたる病』[2]における、ヘーゲルに対する批判を利用した。

〔p.84〕

ほんとうに、誤謬のなかにいるということは、まったく非ソクラテス的なことにも、人々がいちばん恐れない事柄なのである。ここの事実を驚くべき程度において明らかにしている驚嘆すべき実例がある。或る思想家が巨大な殿堂を、体系を、全人世と世界史やその他のものを包括する体系を築き上げている――ところが、その思想家の個人的な生活を見てみると、驚くべきことに、彼は自分自身ではこの巨大な、高い丸天井のついた御殿に住まないで、かたわらの物置き小屋か犬小屋か、あるいは、せいぜい門番小屋に住んでいるという、実に恐るべくもまた笑うべきことが発見されるのである。たった一言でもこの矛盾に気づかせるようなことを言おうものなら、彼は感情を害することであろう。なぜかというに、体系さえちゃんと出来上がりさえすれば――それは誤謬のなかにいるおかげでできるわけなのだ――、彼は誤謬のなかにいることなど恐れはしないからである。

※3 もっとも、私からすれば、野内氏の論考は、咲く勢いがあってこそ散り際の儚さを感じられるという桜(ソメイヨシノ)についての考察が、人間一般に対する生と死の対比や無常観に係る記述に、十分に生かされていないように思えてしまう。その原因として、日本列島において生きることが相対的に容易であったという事実、その容易さが死に対する儚さを愛でるという姿勢を可能にしたという、和辻哲郎氏が指摘したような観点が、野内氏の論考では、見逃されていないであろうか。相対的に恵まれた生があってこそ、死の儚さに思いを致す余裕が生じるのではないか私は思う。また、、私生活において、他者がこの余裕を有しているのかどうかを考慮しなかったのではないかと、今更ながら後悔しているのである。


[1] 野内良三, (2008.8).『偶然を生きる思想:「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス 1118), 東京: 日本放送出版協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/000009491566
#同書は、冒頭のエッセイ風に見える部分まで、しっかり段落読みができるように作り込まれた文章である。

[2] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480082581/
#アマゾンへのリンクであるが、アフィリエイトはない。

〔p.138〕

〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。〔…略…〕それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。弱さの絶望者は、永遠が自分にとってどのような慰めをもっているかについて、まるで耳をかそうとしないが、このような絶望者も、それに耳をかたむけようとしない。しかしその理由は違っている。後者は、全人世に対する抗議なのであるから、そのような慰めは、まさに彼の破滅となるだろうからなのである。比喩的に言えば、それは或る著作家がうっかり書きそこないをし、その書きそこないが自分を書きそこないとして意識するにいたった場合のようなものである――けれども、実をいえば、それはおそらく誤りなのではなくて、はるかに高い意味では、全体の叙述の本質的な一部をなすものであったかもしれないのである――そこで、この書きそこないは、著者に反逆を企て、著者に対する憎しみから訂正をこばみ、狂気のような反抗をしながら著者に向かってこう言うようなものである。いや、おれは消してもらいたくない、おれはおまえを反証する証人として、おまえが平凡な作家であるということの証人として、ここに立っていたいのだ、と。




2018年7月27日14時32分訂正

一部の文言を訂正した。

2016年10月14日金曜日

ユニバース(調査対象集団)と母集団の違いと、それらの使いさばきの有用性を検討する

 ある記事(リンク)で統計学にいう「ユニバース」と「母集団」とを区別して記述したが、本稿は、その点を補足するために作成したものである。

 社会学・心理学における調査法の大家であった林知己夫氏は、1993年の『行動計量学序説』の第二章「調査対象集団・母集団・標本の認識の重要性」(pp.22-25)において、ユニバースと母集団との関係を、次のように示している。かなり長くなるが、必要なだけ引用しておく。原典では、数式は行中に収められているが、ブログのレイアウトの関係上、独立させて表記した。なお、第1章で、林氏は、フォン・ミーゼスによる確率論を紹介している。
2.1 確率と統計の結びつきという観点から
 〔...略...〕今日の推論においては、まず調査対象集団(ユニバース、universe)を明確にし、これに抽出確率を付与し抽出方法を規定して母集団(ポピュレーション、population)を構成し、これから標本(サンプル、sample)を抽出し、こうした標本のデータから母集団への推定(検定)を行う。つまり、これがユニバースへの情報となるようにする考え方である。〔...略...〕しかし、これは全体→個への問題を含んでいると見ることもできる。確率に基づく理論が、個にどういう意味をもつかである。つまり、行為決定――しかも有限回の、さらにただ1回きりの――に対して確率的情報がいかなる意味をもつかの問題である。〔...略...〕これは「無限を基礎においた情報」が「有限を基礎におく行為」にいかに寄与するかの問題ともいうことができる。これは、科学の根源にも関係するものであろう。
 〔...略...〕

2.2 調査対象集団・母集団・標本

1) 調査対象集団
 〔...略...〕調査対象集団(ユニバース)には、即物的なものと論理的なものとがある。即物的なものは、〔...略...〕たとえば、平成5年10月1日日本国土に常住する日本国籍を有するもの、〔...略...〕などはっきりとらえられるものである。一般に集団の要素(人とか企業とか)の数、つまり集団の大きさというのであるが、これは有限である。〔...略...〕
 一方論理的な場合は、確率論のところで述べたように、即物的にそこにあるものではなく、ある条件の下に試行すれば得られるような事象――たとえばサイコロを振る、コイン振りをするなどのこと――、ある条件の下で実験を行うような場合、その得られるであろう一つ一つのデータ――標識によってその結果が表現・記述されなければならない――の集まりというような場合がある。集団の大きさは有限とみなすより、この場合は可能性として無限と見た方がよいであろう。
 〔...略...〕実験を繰り返す場合を考えよう。$n$回実験し、その結果を記述したとすれば、これだけしかない。しかしこの分析結果は、この$n$回にとどまるものではなく、同じ条件の下に繰り返されるであろうところの無限回の実験結果たるユニバースに対するものでなくてはならない。得られたデータは、ユニバースを念頭において初めて科学としての意味をもつものである。

2) 母集団
 いま、大きさ$N$(有限でも無限とみなせる場合でもよい)の調査対象集団(ユニバース)の各要素に抽出確率\begin{equation*}P_1, P_2, \cdots,P_N; \sum_{i=1}^{N}P_i = 1\end{equation*}を与え、独立にあるいはある従属性をもって抽出を行うとしよう。このように抽出確率を与え、抽出の仕方を定めるとき、ユニバースは母集団といわれるものになる。ユニバースは一つでも、推論の目的に応じ、いくつも母集団を作成することができる。最も目的に適合した母集団が採用されればよい。統計的推論は母集団に対してなされるのであるから、前述のように、母集団に対する情報がユニバースに対して有効適切な情報となるように母集団を構成しなくてはならないのである。

3) 標本
 一般に、抽出確率はすべて等しく\begin{equation*}P_i = \dfrac{1}{N} (i = 1, 2, \cdots, N),  \end{equation*}抽出の仕方は独立とされることが多い。〔...略...〕このように母集団から指示された抽出確率・抽出方法で抜き出されるものが標本である。〔...略...〕製品の破壊検査による品質保証をした上での出荷などを考える場合は、〔...略...〕同じ条件の下で繰り返されたら「云々になる」という推定が行えて、初めて、科学としての価値をもつわけである。このように考えてくると、母集団→標本抽出→推論という考え方の重要性が理解されよう。

4) 母集団構成とランダマイゼーション
 数理統計学のきわめて大きな部分が、推定論、統計的検定論で占められている。このとき母集団とは何か、ユニバースとは何か、が熟考されねばならないのにもかかわらず、ほとんどそれに言及がない。行動計量学においては、こうした理論を用いてデータを解析するとすれば、まずここから反省してかからねばならない。我々はユニバースに対する知識が大事なのであるが、これを得るために母集団を介入させるわけである。この母集団構成が我々の目的に対して妥当なものかどうかを深く考えることである。
 なお、数理統計学における母集団構成でもう一つ注意すべきは、論理的母集団の一つであるランダマイゼーションに依拠する母集団構成である。いま一つのサンプルを得ているとしよう。これが、あるランダマイゼーションによる結果の一つと見られるかどうかを検討することになる。どのようなフィールドでランダマイゼーションを考えるかが重大な意味をもつのである。このランダマイゼーションが我々のデータ分析に対して妥当な意味をもつかを考えることが不可欠のことである。ランダマイゼーションは、ユニバース(この場合論理的に考えられるものである)の要素に対する等確率母集団構成である。ここの意識の明確化はきわめてデータ解析に対して重要な意味をもつのである。
ここで、標識は、以下のように説明されている。
〔...略...〕標識というのは、各試行結果を特色づけるところのレッテル(我々の欲する現象記述に適応して定められる)であり、試行結果を一義的に、明確に表現するものでなくてはならない。これは、ある目印、または一つの実数、あるいは$k$この実数の組、ないしは$k$次元空間の一点として表現される。すべての標識から作られる集合を標識集合と名づけることにする。コイン振りの例でいえば、$1, 0$はそれぞれ標識であり、$(1, 0)$なるものは標識集合である。〔p.14〕

 林氏の示した内容は、『統計データ科学事典』の鈴木義一郎氏による「31. 標本調査法:標本調査の基本的な考え方」(pp.662-663)に継承されている。ただし、鈴木氏の解説には、文中の「調査対象集団」の語に「ユニバース(universe)」の語が併記されていないため、「ユニバース」の語だけでは索引を拾えない。この点には、おそらく含みがある。というのも、わが国のみならず英語圏でも「ユニバース」と「母集団」の語は、林氏の著作に示された通りに使い分けられていないことが認められるためである。

 適当さを承知でより広義に言い換えてみると、(林知己夫氏流の)「ユニバース」とは「ある研究分野における興味の対象」であり、「母集団」とは「その現象を説明するため、定量的な分析方法にかけることを前提に作り出されたモデル」である。モデル形成(モデリング)という知的活動においては、「ユニバース」は「現象」に、「母集団」は「モデル」に対比できる。現象のモデル化は、科学的な活動の屋台骨である。多数の現象を単純なモデルに置き換えられるものと仮定し、そのモデルへの置換えが成功することを示せば、少数の法則だけでもより多くの現象を説明できるようになる。

 なお、モデリングという作業は、統計学に限定されず、多くの知的生産活動において実行されている※1。ここに見た林氏の主張は「行動計量学」の名において行われているが、統計学やデータ科学の方法を知り、応用することは、どの研究分野の研究者にも有用である。研究事例の数が少ない社会科学分野についても、統計学における考え方が有用であることを主張したのが、キング・コヘイン・ヴァーバの三氏による『社会科学のリサーチ・デザイン 定性的研究における科学的推論』である。ただし、同書は、人工知能における推論の研究から1990年代に発展した2000年代の因果推論研究を反映していない。

 林氏の定義するユニバースは、「統計モデルの作成」という行為をモデル化した「メタモデル」を想定したときに初めて、その存在を明確に定義する必要が出てくる概念である。メタモデルの「メタ」は、抽象化の度合いを一段上げたときの接頭詞である。モデリングという作業は、モデル化の対象そのものになりうる。モデリングは、理系のほぼすべての分野で行われている作業であると言って良いが、その巧拙は、分野や個人により、相当程度が異なるであろう。

 メタモデルという語を意識することは、モデルの背後にある現象が理論に基づき十分に説明されており、かつ、モデルが現象を非常に良く再現するまでに発達している、いわば成熟段階にある研究分野においては、それほど有用さを認められる心構えではなかろう。しかし、データの取扱いが未熟な研究分野においては、データ分析を行う研究を、データ駆動型(帰納)・理論駆動型(演繹)といったデータ分析研究の段階に基づき分類し、そこで利用されているデータの性質を吟味することは、それなりに有用である。というのも、研究分野の成立初期には、母集団が調査対象集団と整合しない研究が多く見られるであろうところ、この不整合性を周りの研究者集団までもが理解できないほどデータ分析に暗い、という場合も多々あるために、その批判を行う側が批判される側に通じる概念を根本から説明しなければならないことがあるためである。たとえば、エミール・デュルケムの『自殺論』は、間違いなく、計量犯罪学にとっても金字塔的な著作であるが、当時の統計学の限界に基づく限界も見受けられる。

 『自殺論』に見られる統計モデリング上の不備を説明する上で、メタモデルを念頭に置くことは有用である。たとえば、モルセッリの観察を受けてなされた気候・季節・時間帯と地域別の自殺率との関係を踏襲すること(第3章、和書ではpp.101-125.)は、現時点においてさえ当然のように行われる手続であるが、この方法には、一定の仮定が潜む。『自殺論』において、読者は、本来の調査対象集団を、人間のうちに存在する自殺傾向であると想定するであろう。デュルケム氏は、個人に先行して存在する(と彼が仮定する)社会の影響を重視するから、国による区別自体を重視していたであろう。しかしそれでも、現時点の科学から見れば、デュルケム氏が想定すべきであった本来の母集団は個人であり、国による区別は個人由来するはずである。より厳密には、各個人の性別や年齢や家族構成に起因するパーソナリティと、それに起因する社会からの影響の受けやすさ(vulnerability)は、いずれも個人の属性であったはずである。ところが、デュルケム氏の考察は、もっぱら、各国(地域)の自殺率に依拠している。自殺率は、私なりの言葉でデュルケム氏の考察を言い換えると、「集団のうちに表れる代表的な傾向」を示すものであり、社会集団を画定して初めて計算可能となる人工物(artifact)であり、指標(index)である。自殺者は、手作業で2万6千の原票から再集計された(和書pp.15-16)ようであるが、この作業を現時点の知識体系からみると、労力の割に、もったいない比較方法となる。現在において、同様の比較を行うのであれば、何らかの形のネステッド・モデル(=集団に個人が帰属することを前提とするモデル。)など、非集計モデルとしての含みを持たせたモデルを用いるのが適切ということになる※2。私なら、当時でも可能な記述統計的な表現方法として、地方庁舎などの緯度や平均気温を元に、地方を並び替えた後、自殺者数と地域住民数を相対累積度数分布のグラフで表したであろう。数表であれば、自殺者数と住民数の双方を記載していたであろう(このように、後世の使い勝手を考慮した再現可能性を、研究上のrecyclabilityと勝手に呼んでみたい)。デュルケム氏の方法論が1980年代までの間に参照されることには、まったく問題がないが、21世紀に入っても『自殺論』のデータ分析方法の限界がなかなか気付かれていないことは、問題のある状態である。データ分析に係る研究分野の比較的近年の(、習得の困難な)成果を踏まえないからである。なお、『自殺論』における統計概念は、イアン・ハッキング氏の『偶然を飼いならす』で相当の部分が説明されている※3。先に私が示した自殺率の表す内実は、ハッキング氏の見解を私なりにパラフレーズしたものでもある。さらに、和書の訳者である宮島喬氏の解説には、次のように、モデリングを意識した批判が明示されている。
 その社会学的論証の仕方にはたしかにいろいろと問題がある。たとえば自殺の社会的要因による説明を定式化するとき、また非社会的要因による説明を棄却するとき、かれは自殺そのものを問題にしていたのか、それとも自殺の社会率の変動要因を問題にしていたのか。また、二系列の統計的データ(たとえば県別の自殺率と家族の密度)をもとに論証にうつるさいに用いられる共変法は、方法的にはたして今日的な検討にえうるのか。〔p.556〕
宮島氏の批判は、当時の社会学から見て同時代的な水準の指摘であり、モデリングの拙さをピンポイントで射貫くものである。また、モデリングという観点から言えば、アンソニー・ギデンズ氏による、未遂者という暗数を考慮していないという批判を紹介している〔p.557〕。選択バイアス(selection bias)により「抗議、補償、贖罪、自己処罰」〔p.557〕や注意喚起※4という自殺未遂に特有の事情が欠落しているというギデンズ氏の指摘に対する宮島氏の理解は、現在でも否定されていない(、つまり現在でも有効な)批判となっている。これ以上の『自殺論』に対する批判は、ユニバースと母集団という概念と、その使い分けの有用性を指摘するものではなくなるので、別の機会としておこう。

 ユニバースと母集団とを同一と見なすという前記事(リンク)における仮定は、科学的な営みの一般的な水準から見れば、ズルく見えるかも知れない。ただし、前記事における目的は、ある事実を前提に、別の事実の原因として考えられるものを挙げるという、個別具体的なものであり、目的の達成には何ら支障のないものではあった、と私自身は考えているところである。それに所詮、前記事における論証の形式はアブダクションである。前記事において見込まれた原因である選択バイアスは、一般化された概念である。前記事は、個別事例の原因が選択バイアスによるものであるという可能性を検討したに過ぎないものである。

 ユニバースと母集団という用語を説明するのに、まあまあパラフレーズしたと思えるようになったので、本稿はここで打ち止めとしておく。著作権法上の規定もクリアできるだけの分量を記したと思われる(爆)。なお、心理学における統計の妥当性と信頼性に係る話題は、本稿におけるユニバースと母集団に係る話題にも一部重複するが、これら二種の話題の関係がどこまで整理されているか否かは、私には分かりかねることである。


※1 というより、モデルと現実との対比は自然科学の勃興期から存在していたものと言えよう。現時点から見れば、プラトンにもルーツを見出せるように、モデリングという概念そのものが文理の区別のないものであることは間違いないであろう。ただ、私の知識の底の浅さが(ますます)露わになるので、このルーツへの言及は、別の機会に取っておきたい。

※2 デュルケム氏の理解は、集計モデルであるが、現時点では、この種の分析を文句なく行うには、非集計モデルがふさわしいということになる。この区別が現時点でも難しいものであることは、多数の日本語文献に表出されているが、個人攻撃と受け取られかねないので、止めておく。ただ、わが国社会では、専門家集団(各種の学術会議等)の役割の内に、誤り訂正機能を含めることが(故意に)避けられてきたという見解は、ブログで述べるに相応しい内容であろう。

※3 ハッキング氏がデュルケム氏の統計概念をこのように表現したか否かは、確認し直してみないと分からない。十中八九、言及があるとは思う。

※4  三島由紀夫氏の自殺や以前紹介した(リンク)須原一秀氏の『自死という生き方』は、既遂ではあるが、明らかに注意喚起を目的とするものである。わが国に限らず、東洋文化には、この種の自殺が伝統である側面も見受けられる。2014年中の新宿ルミネの歩道橋上における焼身自殺未遂や、日比谷公園における焼身自殺もこの類例にあると言えよう。渋井哲也氏による2014年中の事件の解説記事は、ディテールを知る上で参考になろう。

 林知己夫, (1993). 『行動計量学序説』(行動計量学シリーズ1), 東京:朝倉書店. (NDL-OPAC
 G.キング, R.O.コヘイン, S.ヴァーバ[著], 真渕勝[監訳], (2004). 『社会科学のリサーチ・デザイン 定性的研究における科学的推論』, 東京:勁草書房.(NDL-OPAC
 エミール・デュルケム[著], 宮島喬[訳], (1985). 『自殺論』, 東京:中央公論社.(NDL-OPAC
 イアン・ハッキング[著], 石原英樹・重田園江[訳],  (1999). 『偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命』, 東京:木鐸社.(NDL-OPAC
 須原一秀, (2008).『自死という生き方 覚悟して逝った哲学者』, 東京:双葉社.(NDL-OPAC

日比谷公園での焼身自殺について考える | NewsCafe
(渋井哲也、2014年11月12日17時00分)
http://www.newscafe.ne.jp/article/2014/11/12/1544447.html
中国共産党の圧政に対するチベット人僧侶の焼身自殺が相次いでいますが、私には、このイメージが強く残っています。
 〔...略...〕いくら政策に反対だからといって、一人の行動によって変更されてしまうのなら、それもまた危険な政治文化を作り出してしまいます。




#歴史上の人物について、呼び捨てになっている箇所があるのは、ブログ表記のマイルールに反しているが、放置した。


平成28(2016)年10月15日追記・修正


 別記事に指摘しようとすることが抜けていたので、それらを追記し、正確ではない表現を改めた。

 ところで、ユニバースと母集団の使いさばきに揺れがあることを本文中で述べたが、その実例を確認しておく。統計ソフトウェアの『SIS』の製造販売社であるSIS International社の用語集[1]では、両者が英語圏で同一の意味で利用されることを指摘しつつも、「元の全集合体」という表現を用いており、林知己夫氏の説明を正しいとして比較しても間違いではないという印象を受ける。高木廣文氏の説明[2]では、ユニバースと母集団の両概念が真逆であるように認められる。坂田周一氏の説明[3]は、林氏の説明と同一である。

 社会情報サービス社(SSRI社)の説明は、ほかとは異なり、オブジェクト指向的な雰囲気がある。SSRI社によるユニバースの定義は調査対象集団をクラスと読み替えるものであり、母集団の定義は属性に格納された値として理解しているようである。妥当性の語(指標が測りたい対象を正確に測れているか)をメタに利用すれば、それもありかもとも思うが、私の頭のネジが緩いだけなのかも知れない。と思っていたら、栗原伸一氏の『入門統計学』(2011, オーム社)[5]の説明を読む限りでは、あながちこの理解も外れという訳ではなさそうである。用語が独特の概念に基づき発展を遂げることもあるし、わが国においてガラパゴス的な理解(誤解)が進むこともあり得るから、このような差異が生じた理由までは現時点で分かりかねるものの、とにかく、SSRI社の説明は、栗原伸一氏の説明に基づけば、福代和宏氏[6]のブログに見られるように、単に「違和感がある」として片付けられるものでもないと言える。(心理学におけるファセット理論との絡みもありそうである。)

 リハビリテーションに関わる情報サイト『Study channel』の説明[8]は、ざっくり単純化したものであるが、林氏式の理解からしても、栗原氏式の理解からしても、本質を外したものではない。つまり、この定義もアリだと思われる。Yutakakuwae氏の説明[9]もシンプルであるが問題ない。中恵一氏による説明[10]では、両者が同一になるが、英語圏(のテクスト)でも多数に見られる理解でもあるから、単に指摘するに留めよう。

 以上、後日追記する予定。

[1] 市場調査の用語集
(SIS International)
https://www.sisinternational.com/coverage/languages/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba/%e5%b8%82%e5%a0%b4%e8%aa%bf%e6%9f%bb%e3%81%ae%e7%94%a8%e8%aa%9e%e9%9b%86/
ユニバース
ユニバースとは、ポピュレーションとも呼ばれる母集団のことで、標本が抽出される元の全集合体を指します。
[2] 統計学の基本
(高木廣文, (1998). 「統計学の基本的な考え方」『超音波検査技術』23(4),329-334. 更新2006年12月31日)
http://halbau.world.coocan.jp/choonpa1.html#boshuudan
このような概念上の対象集団を,統計学では「母集団population」と呼んでいる。
 実際の調査対象となる集団もまた「母集団」と呼ばれるが,「ユニバースuniverse」と呼んで区別している。実際に調査を行う場合,ユニバースの構成員全員を対象とする「全数調査(悉皆調査)」を行うのは,国勢調査のような国の行政機関が行う場合を除けば,極めて希といえる。
[3] 第5節 標本抽出法
(坂田周一、2016年03月07日)
http://www.rikkyo.ne.jp/~ssakata/class/academy/materials/06.htm
たとえば,日本の老人の幸福感の調査では日本の老人全員が対象であるはずだが,果たして全員の名簿があるかとなると,名簿に載っていない人もあれば載ったまま死亡した人もある。現実に把握できるかどうかを別にした理想の対象集団をユニバースという。これに対して,時間と場所を特定したうえで実際にサンプリング可能な集団が母集団である。
[4] 統計WEB | コラム『統計備忘録』 | 2008年1月
(社会情報サービス統計調査研究室、2008年01月15日)
https://software.ssri.co.jp/statweb2/column/column0801.html
統計学上の population と universe の違いは、前者が、検定や推定の対象であるところの個体から観測される値(小学校6年生のお小遣い) の集まりであるのに対して、後者は個体(小学校6年生)の集まりという点です。

[5] 入門統計学検定から多変量解析・実験計画法まで - 栗原伸一 - Google ブックス(栗原伸一, (2011). 『入門統計学 検定から多変量解析・実験計画法まで』, 東京:オーム社.)
https://books.google.co.jp/books?id=r5JIE8QbPbAC&pg=PA44#v=onepage&q&f=false
標本の背景にあって対象となる要素(長さや気温などの項目)の集合体のこと、つまり本書で母集団といっていたものをpopulationと呼び、要素を含む対象自体の集合をuniverseと呼ぶのです。例えば、〔...略...〕全松戸市民の意識490 000個が母集団、〔...略...〕多くの要素からなっている490 000人の松戸市民自体がユニバースということになります。

[6] 林知己夫『調査の科学』を読む: 椅子は硬いほうがいい
(福代和宏、2013年10月7日)
http://fukunan-blog.cocolog-nifty.com/fukunanblog/2013/10/post-2b83.html

[7] ユニバースとは - DBM用語 Weblio辞書(株式会社ジェリコ・コンサルティング)
http://www.weblio.jp/content/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9
ある関心事についての母集団。マーケット・リサーチの目的のために、サンプルと呼ばれる小グループが調査のためにユニバースから抽出される。ユニバースが母、サンプルが子になる。
#DBMとは、Database Marketingの略語。

[8] 母集団と標本 - Study channel
(Study channel team、2015年6月)
http://www.study-channel.com/2015/06/sample-population.html

[9] ハヤベン: 予想以上に対象者を選ぶのは大変。このフローチャートで情報を整理しておいて。
(Yutakakuwae、2014年01月24日)
http://ptkuwae.blogspot.com/2014/01/blog-post_24.html
臨床研究では、自らの対象者の母集団(ポピュレーション)と調査対象集団(ユニバース)と言われる理想の集団との違いを検討すれば十分です。

[10] 統計的な問題についてのメモ(5~9) | A&T
(中恵一、日時不明)
http://www.aandt.co.jp/jpn/qc/toukeimemo2.htm


2016年10月22日追記


 林知己夫氏によるユニバースと母集団の説明は、『調査の科学 社会調査の考え方と方法』(1984年6月20日の第1版第1刷, 東京:講談社, 講談社ブルーバックスB-571)の時点で完成済みであることを確認した。上で紹介した福代和宏氏の説明は、文庫本の版によるものであるため、古い版で確認した。
〔#昭和59年5月1日現在、日本の領土内に常住し、日本国籍を持つ人、と日本人集団を定義したとき、〕住民登録の記録が手がかりになるであろうし、「二十歳以上の日本人」という定義が加わる場合は、有権者名簿が役立つ。このように定義がはっきりし、しかもその構成要素が具体的にとらえられるような調査対象集団を、統計学ではユニバース universe と呼んでいる。〔p.45〕



〔#ある銃の命中率を求める場合、〕限られた回数の試射の結果から数学的に(確率論的に)命中率を割り出し、それで真の命中率を代用させているわけである。したがって、この場合の本当のユニバースは"無限回撃った時の結果の積み重ね"ということになる。〔p.46〕



母集団(ポピュレーション population)〔...略...〕とはユニバースに確率的な概念を加えたものである。〔p.46〕



 ユニバースは一つであっても、母集団はいくつでも構成することができる。そしてその構成の仕方は、母集団から得られる情報の精度がもっとも高くなるように考えるのである。こうして、精度が高く、集計分析に扱いやすいいろいろの標本抽出計画が実際に生まれてくることになる。
 母集団から実際に選び出し、直接、調査の対象になるいくつかの要素が標本(サンプル sample くわしくは任意標本、ランダム・サンプルという)で、この標本を相手に実際にある問題に対する賛否を聞いたり、実験結果を調べる。日本人集団、より具体的には有権者名簿の母集団から三〇〇〇人を確率に従ってえらびだし、これらの人々に調査員をさし向けたりアンケートに記入してもらうとすると、この三〇〇〇人の有権者の集団が標本であり、命中率を調べるための一〇〇回の銃の試射が標本である。〔p.48〕



 このため全体の中から取りだした一部分の標本を調査して全体の性質を推定したいという願いから、ユニバース→母集団→標本抽出→標識付け→計算→母集団に対する推定→ユニバースに対する情報、という調査の基本的な考え方が生まれたのである。サイコロの目や科学的実験による調査は、元来、得られる結果がすべて抽出された標本と見なして考えを進めなくては、何をやったかわからなくなることは、先の銃の命中率の例からおわかりだろう。〔p.52〕
また、鈴木達三・高橋宏一, (1998). 『標本調査法』(シリーズ〈調査の科学〉2), 東京:朝倉書店.の124ページには、調査対象集団の語がユニバースと同意味で紹介されている。同時に、11ページには、母集団の語について、次のような説明がある。
注意1 母集団という言葉は、「母集団(上の意味)に属する各個体の目的項目の値の全体」の意味に使われることもある。その場合には、母集団は木や人の集まりではなく、一般に数値の集まりになっている。たとえば、ある集団の平均身長が問題のとき、母集団は$150, 154, 156, 162,  \cdots, 148$である、という言い方も使われることがある。〔p.11〕
鈴木氏・高橋氏による母集団の説明は、上述した栗原伸一氏の説明にあるpopulationと同義であると解釈できる。この系統によるpopulationの語も、それなりに流通していると言えそうである。



 最後に、林氏の著書に引き続き頼ることにすると、デュルケム氏の方法には、非標本誤差が付随しており、ギデンズ氏の批判は、この非標本誤差を考慮していないと指摘するものである、と言い換えることができそうである。
 精度という〔p.64〕場合、 標本抽出ばかりでなく、前にいった調査そのものにもとづく誤差――これを非標本誤差という――も含めて考えるのである。〔p.65〕



調査の分析で誤りに導くもっとも初歩的なものは、非標本誤差を無視して、統計的検定を行って有意の差があるという結論を出すことである。統計的検定論でいう「有意の差」は、実質的意味で差のあることではなく、数学的にたてた仮説が、標本抽出という観点からのみみて認められない、ということに過ぎない。〔...略...〕有意差を出そうとすれば、標本数を多くとれば必ず〔p.128〕出る。〔p.129〕

以上、いずれも『調査の科学 社会調査の考え方と方法』(1984年)
非標本誤差に対する知見は、統計学で学習することの中心に据えられるべきというよりも、各研究分野において、その分野に即して、独自に積み上げられるべき蓄積であるように見受けられる。この点、統計学を多少は理解しつつも、主題とする専門分野に詳しい研究者が必要になるし、統計学者もまた、それらの専門分野に存在するはずの非標本誤差を良く理解して、専門的な見地から非統計学者の統計学の誤用を気兼ねなく検討すべきであるし、そのような環境が整えられるべきと言える。仮に、非統計学者が統計学的手法を誤るにしても、古典的な方法を使い続けているなどの統計学上の誤りを犯す方が、非標本誤差を無視することに比べれば、大目に見てもらえることになるのであろうか。犯罪学において最も注意すべき非標本誤差とは、犯罪認知件数が警察の認知した件数を指し、暗数を含まないこと、というものであろう。

2016年2月25日木曜日

都道府県別・年齢階級別・月別死者数(人口動態統計、自殺)

 本記事は、人口動態統計月報から、自殺者数を地域別・年齢層別に示すものである。パート1(全死因)2(外傷)3(交通事故)4(火災)の続報である。東日本大震災後の増加が顕著であり、その増加分の多くを生産年齢人口が占めているようである。西日本では、目に見えるほどの3.11後の増加は見られない。これらの変化は、被災地域ならびに被災地域と関連の深い地域において、経営者や自営業者に経済的な被害が生じたことをうかがわせる材料である。


人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:全国)
図1 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:全国)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:北海道)
図2 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:北海道)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:青森県)
図3 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:青森県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:岩手県)
図4 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:岩手県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:宮城県)
図5 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:宮城県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:秋田県)
図6 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:秋田県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:山形県)
図7 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:山形県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:福島県)
図8 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:福島県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:茨城県)
図9 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:茨城県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:栃木県)
図10 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:栃木県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:群馬県)
図11 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:群馬県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:埼玉県)
図12 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:埼玉県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:千葉県)
図13 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:千葉県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:東京都)
図14 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:東京都)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:神奈川県)
図15 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:神奈川県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:新潟県)
図16 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:新潟県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:富山県)
図17 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:富山県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:石川県)
図18 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:石川県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:福井県)
図19 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:福井県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:山梨県)
図20 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:山梨県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:長野県)
図21 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:長野県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:岐阜県)
図22 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:岐阜県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:静岡県)
図23 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:静岡県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:愛知県)
図24 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:愛知県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:三重県)
図25 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:三重県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:滋賀県)
図26 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:滋賀県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:京都府)
図27 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:京都府)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:大阪府)
図28 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:大阪府)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:兵庫県)
図29 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:兵庫県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:奈良県)
図30 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:奈良県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:和歌山県)
図31 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:和歌山県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:鳥取県)
図32 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:鳥取県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:島根県)
図33 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:島根県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:岡山県)
図34 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:岡山県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:広島県)
図35 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:広島県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:山口県)
図36 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:山口県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:徳島県)
図37 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:徳島県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:香川県)
図38 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:香川県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:愛媛県)
図39 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:愛媛県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:高知県)
図40 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:高知県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:福岡県)
図41 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:福岡県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:佐賀県)
図42 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:佐賀県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:長崎県)
図43 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:長崎県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:熊本県)
図44 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:熊本県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:大分県)
図45 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:大分県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:宮崎県)
図46 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:宮崎県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:鹿児島県)
図47 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:鹿児島県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:沖縄県)
図48 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:沖縄県)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:外国)
図49 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:外国)

人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:不詳)
図50 人口動態統計月報(概数)年齢層別・都道府県別死者数(自殺)グラフ(地域:不詳)