2018年1月29日月曜日

(メモ)松本文明氏の「それで何人死んだんだ」という言霊は鎮める必要がある

2018年1月25日、日本共産党の志位和夫氏が最近の米軍ヘリ不時着などに対する国会発言に対して、自由民主党の松本文明氏は、「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばし、昨日(29日)、内閣府副大臣を引責辞任したという。安倍晋三氏も任命責任については口にしていた(29日予算委員会か)。『赤旗』[1]の取材に対して、死者が出なければ良いという考えでは「全然ない」と返答したという点、松本氏の野次が一種の軽口を意図していたものとは理解できる(。『赤旗』は、「開き直った」という表現を用いているが、この表現は、政略上、許容できる範囲の厳しさである)。ただ、わが国において、言霊を恐れない松本氏の姿勢は、およそ日本人らしくない。これから、この言霊が召喚するかも知れない帰結を、松本氏には分からないであろう理路によって、説明しよう。もちろん、この記事は、ここでの懸念が現実のものとならないことを願い、示されるものである。


松本氏の本件発言は、東京7区選出の衆議院議員(今期については、落選し比例復活)のものとしては、選挙区の事情に通じていないことを表す。一体、彼と、その支持者たちは、どれほど防音性能と耐衝突性能が高く耐火性能を有する自宅で夜を過ごしているのであろうか。彼の自宅の所在を調査すること自体が不穏な行為と受け取られるであろうから、そこは調べることのしないまま、揶揄しておく。今後、彼にとって、支持者回りは不可欠であろうが、そこでは、全身を「耳にして」上空の状況をも把握すると同時に、市街地大火に対する想像力を働かせるように努力すべきと思う。

私の住む衆議院小選挙区は、東京7区の南西部に隣接する東京8区であり、羽田空港の新滑走路の運用開始以後、夜間22時台には、なかなか濃密な間隔で、民間のジェット航空機が音を聞き取れるくらいの高度で飛行するようになった。これらの航空機は、国際便(旅客機)であって、着陸待機のために旋回しているようにも思えるのであるが、これまた、調べること自体が不穏な行為と認定されるであろうから調べない。とはいえ、7区の住民も、十分にその音を聞き取れるに違いない。旅客機の旋回半径や高度などを考慮して、北限が私の自宅あたりにあるのかも知れないと想像することもできるが(これも調べない)、7区の上空も通っているものと予測できるかのように、北の方から音源が移動しているように聞こえることもある。(念のため、この判断が当たっていようがいまいが、東京都23区の木造密集地域の上空を民間機が航行していること自体は、確定的な事実である)。

2018年1月現在、東京都の密集市街地上空を航空機が飛行しなければならないのは在日米軍のせいである、とする論調が力を持つ虞は、厳然として存在する。横田空域の存在は、人々により広く知られつつあり、その存在を米国による日本占領状態を示す証拠であるとする論調も、また、有力さを増しつつある。オリンピック反対に係る議論が、観戦客を迎え入れる上で旅客機の容量が一杯であるという話にまで及ぶとき、横田空域のために東京23区・城南地区の上空が混雑しているのである、という意見までは、ほんの一歩であり、この指摘が現に見られない訳ではない(。全体の文脈を把握していないので、具体的に紹介しない)。羽田空港・新滑走路開通に係る騒音上の懸念は、私の地元において、すでに示されている(。厚木基地のひと頃の騒音に比べれば、その大きさは無音に等しいが、大田区の北部では、ひと頃に比べ、はっきりと聞こえる程度に大きくなっているであろう)。新・東京オリンピックについて、その時期だけであれ、横田空域・基地を民間開放すべきではないのかとの議論も、現に見られる(が、私には整理し切れていないから、恣意的になることを避けるため、これまた引用しない)。

他方、大変に捻れた話になるが、わが国のリベラルが政治に対して健全な影響力を及ぼせるまでの勢力を取り戻すためには、在日米軍の方向性を見極めて、その活動を(裏で握らずとも)支援する必要が存在する。沖縄における一連の事故・ヒヤリハット事例について、在日米軍首脳部の主張(=事故は増えていない)は、日本人なら到底受け入れ難い種類の謝罪・認識※1を示しているが、他方で、この「やり過ぎ」な態度は、彼らが撤退する上で必要とする大義名分である「地元の意向=沖縄の人々の怒り」を醸成しようとしているものとも読むことができる(。トランプ氏のスタイルを想起せよ)。沖縄の人々の怒りは、暴力へと直結する虞が常に否めないが、また、(戦争屋の手先や極左などの)無用な暴力を肯定する連中がそれに常に乗じようとしているが、在日米軍が戦争抜きに撤退するための必要条件でもある在日米軍の撤退は、力の空白をわが国の自衛隊が埋めるように達成されるのであれば、わが国の相対的な独立を意味するのであるから、ネトウヨの皆様が強硬に主張するように、単なる一方的な危険を意味するのではなく、好機にもなる。この動きは、戦争屋にも力を与えうる危険を有するが、健全な国内の防衛産業の発展をも意味しうる(。もっとも、現況では、トランプ氏の辣腕セールスマンぶりに敵うべくもないが)。この一方で、日本のSNS上の「リベラルな」言論は、純情過ぎる人々によるためか、従来型の国際秘密力集団による資金援助を受けた人工芝によるためか、随分と暴力的な表現に流れがちであり、周囲もこれを正当化しがちである。これを排しつつも、世論の主流派の意向を揺るがせにしない形で示さなければ、在日米軍もトランプ氏も、自身の決定を正当化しにくいという事情が存在する。このために、戦争屋には与しないという前提を置きながらも、ある程度までは彼らの横暴に反発してみせる姿勢が、われわれ日本国民には求められているのである(。この姿勢は、沖縄の人々の基地負担を軽減することになれば、結果としてはリベラルと呼べると思うが、いかがであろうか。もちろん、「圧政者」が交替するだけという可能性は、濃厚である)。この反発が成功体験に結び付き、しかも、目に見える形で、ネトウヨなどの撒き散らす「中・韓・北・露の脅威」が立ち現れなかったときには、リベラルに対する日和見派の無党派層は、リベラルの論調を受容するであろう。わが国の大多数派である、日和見派の無党派層は、無知と臆病を動作原理としているので、彼らを惹き付けるには、可視化された実績と「この人たちに付いて行っても大丈夫」という安心感(、ただし、安全であるか否かは問わないし、根拠がなくとも構わない)の二つが重要ということになる。この点は、フィリピン共和国のロドリゴ・ドゥテルテ大統領の方法を参考にすべきであろう。

航空事故に対する認識は、事故時の乗員の行動と、後の報道と言論形成過程によって、(当事者ならびに遺族からの評価ではなく)周辺ならびに後世からの評価が大きく変わることがある。わが国(日本国籍)の航空機の事故については、最近、調布飛行場で近隣住宅に重大な被害を与える民間機の事故(2015年7月26日)[2]があったとはいえ、一般に、飛行回数(トリップ数)・飛行距離の長さを考慮すれば、墜落事故が市街地に対して人身上の被害を及ぼすという事態は、ごくごく稀なものであると思う(。とはいえ、正確な計算や比較をしていない。『Wikipedia』日本語版の「航空事故」に紹介されている指標は、トリップ数あたりの事故率であり、これだけでは客観的な議論とはならない)。日本国内の事故に注目すると、ごく一部の有名な事例を除けば、日本人乗員の優秀さと責任感の強さを印象付けられる。米軍については、戦後からという非常に長いスパンで見れば、本土においても、たとえば、神奈川県においては、大和市内(1964年9月8日)[3]や横浜市内(1977年9月27日)[4]で墜落事故を起こしたことがあり、いずれも日本人の民間人が死亡している(。しかしながら、ここでは事故の規模や損害の大小自体を論じるつもりはない。その経緯によっては、事故が長く・強く記憶される場合があることを指摘できれば十分である)。ほかにも米軍機の墜落事故は存在し、同様の教訓を有するが、これら二件の事故が特徴的であるのは、乗員が墜落前に機体を放棄し、脱出して無事であったことによって、反米感情が少なからず高められる材料を与えたことにある(。米軍機の乗員が機体を放棄するという姿勢は、訓練ならびにプロコトルの一環であり、乗員ら自身には、それらを遵守するほかないことに注意すべきである。遵守しなければ、逆に乗員の責任が問われかねないことになる)。しかし他方で、神奈川県における米軍基地経済は、無視できない程度の規模であり、経済に留まらない共存のために、日米の双方の関係者が尽力し(、与党政治家が潤っ)ていることも事実である。これらの理由の絡まり合いを私に分析する能力と余裕はないが、結果的に、現地の人々が在日米軍を問題と考える程度は、沖縄により大きな負担をかけながらも、沖縄ほどには政治の流れを変えるほどの脅威とはなっていない。しかし同時に、義務教育課程において、先の事故に係る教育がなされ、一定の道徳的観点を成長させてきたことも、また(私の体験的な)事実である。

旅客機の事故は、当然、乗客・乗員だけでなく地上にも被害をもたらしうるし、思いも寄らない帰結を産むこともある。9.11は、事故とは形容できず、航空機を悪用した犯罪であるが、周知のとおり、世界に不可逆的な変化をもたらした。当時の連邦政府の報告書を真に受ければ、地上に最大の被害者数をもたらした航空事件であると言えよう。また、アムステルダム市内のベルメルミーア地区(Bijlmermeer, Amsterdam, Nederland)※2は、高層住宅街区であったが、自然犯(強窃盗・性犯罪など)の発生ならびに認知を減少させるため、1980年代の半ば以降、段階的にル・コルビュジエ風の高層住宅を改修しつつあった[5]。ところが1992年10月4日、エルアル航空機が墜落、11階建の高層住宅を破壊、乗員3名・乗客1名・住民43名の合計47名が死亡し、住民11名が重傷を負った[6]。一般的な犯罪に対しては従来よりも安全となるよう改修されつつあったモダンな高層住宅も、これだけの惨事となるような事故に対しては、対抗できるだけの耐衝突性能を備えることはできなかったのである(。事後に建物の耐衝突性能を検証する場合には、耐震性・耐風性が準用されうるが、よほど特殊な建物でない限り、わざわざ、物体が衝突することを前提とした構造計算は、行わないはずである。それに、巨大建築物であれば、風圧による方が、衝突によるよりも、建物全体についての変形力大きくる)。この事故は、総合的な再開発・改修を数ヶ月後に構想する契機となった[5]


東京23区の地上部において死者を伴う航空事故が発生したとき、以上の知識を総合すれば、「それで何人も死んだだろ」といった非難が沸き起こり、しかも、それが横田空域と関連付けられないとは、誰にも断定できなかろう。しかも、その帰結は、私には全く予想しにくいものである。現在の言論状況を鑑みれば、この種のフック的表現は、強力に言論統制が加えられることになるものと予想できる。しかし、その統制の実態は、現在における権力闘争の暗部を通じて、必ずや、現政権に不利なようにバラされることになるであろう※3。これに対して、最近の実績として、在日米軍機なり、旅客機なりの飛行機が脱落させた部品は、幸い、地上部重篤な人身被害を生じさせた訳ではないし、沖縄における米軍機の不時着等についても、整備状態の悪さと民間委託の適正さについてはともかく、事故時の乗員たちが最善を尽くしていることは間違いないものと読める。しかし、現在の在日米軍のわが国における社会的評価が混乱した状態に置かれていることも、また間違いなかろう。この混乱に拍車をかけるという点で、また、ここで説明したような含みを踏まえれば、決して出てこないような野次を口に上らせたという時点で、松本氏が自らを処分することは、当然である。また、保守の側からも、ここに示したような批判と懸念とが出ないとすれば、わが国の保守の想像力の乏しさは、必ずや、今後の混乱に拍車をかけることになろうし、私が本稿で示した落着シナリオに至る条件は、彼らが潰したと評価できることにもなろう。

松本氏の失言は、ひたすら謝罪し続けるのが妥当であるし、野党も、頃合いを見て矛を収め、(NHKのミサイル誤報の影に存在した可能性が認められる)重大事故の予防に全力で協力すべきである。この阿吽の呼吸こそが、世界に追随するコツというものであろう。繰返しになるが、両建て構造を乗りこなすのが、現在のトレンドである。今後の謝罪とその経過に係る与野党・両陣営の塩梅は、わが国の政治家の狡猾さと公正さを量る上での水準器として作用するであろう。

最悪のシナリオに対して、密集市街地に居住する国民が可能な対策は、整備されているはずの消火器の設置場所を確認しておくことと、雪かきくらいであろうか。粉末系消火器でないと、油火災を有効に消火することはできない。手元に消火器があったとしても、粉末系消火器ではない場合は、十分に考えられる。自助・共助は、雪かきを除けば、なかなか有効には機能しないであろう。杞憂であることを祈るばかりである。3時半近くにも航空機の音がした、というオチで、本稿を締めることとしよう。


※1 2018年1月21日放送のTBS系『サンデー・ジャポン』は、小室哲哉氏の記者会見について、週刊文春記者にモザイクを入れ匿名でその意見を述べさせていたが、(映像では男性に見える)彼は、英語では自身ならびに組織からの謝罪と受け取ることのできる日本語表現を、一度たりとも使用しなかった。およそ、彼の態度は、日本人のステレオタイプらしからぬものであり、本件記事に係る米軍側の主張に類似したものである。参考まで、『デイリースポーツ』が本件を報じていた[7]。ここで、『週刊文春』記者を批判する理由は、小室氏のスキャンダルを報じたことによって、『週刊文春』が多くの日本人を悲しませることをしでかしながら、悪びれもせずに自身の主張を通そうとするからであり、また、このインタビューにおける態度自体が日米友好に毒を盛る種類の行為となるからであるが、それ以上の他意はない。つまり、ほかの人物・組織を批判する意図はない。

※2 「ベイルメルメール」と表記されることが多く、Googleマップ(の当地)のカタカナ表記もこのようになっているが、発音を提供するサイトの音声を聞き[8]、従来から「ベルメルミーア」と表記されてきたことをふまえ、これを採用した。カタカナ語表記するなら、「ベイルメルミーア」のように聞こえた。

※3 近年、類例のない寒波が首都圏に大雪を降らせたが、世界的に寒波が到来しており、米・中・露の三か国にも到来している。しかも、一か国だけにおいて、その威力が奇妙なほどに急激に低減したなどという報道もない。今回の大雪によって、戦争屋というカルト集団が好ましいと思うほどに多くの人々の命が失われたとの話もない。気象兵器は、他国に対して使用した場合、戦争行為(宣戦布告抜き、不意打ち)ともなる。大雪は、サービス業をエンジンとする諸国の経済全体に対しては、ボディブローのようなダメージを与えるから、よほどの仕込みができていなければ、現政権にとっても、ない方が良い。米露は、エネルギー輸出国であるから、その面では潤うかもしれない。以上の錯綜した状況は、わが国についても、安倍政権と旧・戦争屋が手を握ったと考えるよりは、安倍政権とこれを支える武官組織が旧・戦争屋とは対立状態に近いことを窺わせるものである。日米中露の4か国の中では、冬期の寒波攻撃に対して、ロシアが最も耐性を有しているようにも思えるが、プーチン大統領が正教の水垢離?をしなければならないときの寒波は、結構なリスクであるように思う。また、平昌に雪が足りなかったから大寒波を到来させた勢力があるとすれば、「ちょっとちょっと!」といった感じである。このとき、平昌からロシアが排除されたことにも、注意すべきである。寒波攻撃が実在のものであるとすれば、韓国とエネルギー企業以外は、直接に潤わない。韓国政府が関与していたと考えることも、まあ無理筋である。人工降雪機に比較して、気象操作は、明らかに「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」(『論語(陽貨)』)であり、韓国は儒教文化圏である。雪かきをしなければならない国が増えたという理由は、なかなか本命に近そうである。リアルタイム(に近いタイミング)で上空から地上を眺めることができる人物たちは、この予想の当否を分かっているのであろう。


[1] 副大臣「何人死んだ」/米軍事故 志位質問に暴言ヤジ
(記名なし、2018年01月26日)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-01-26/2018012602_02_1.html

[2] 調布市PA-46墜落事故 - Wikipedia
(2018年01月30日閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E5%B8%83%E5%B8%82PA-46%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

[3] 大和米軍機墜落事故 - Wikipedia
(2018年01月30日閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

[4] 横浜米軍機墜落事件 - Wikipedia
(2018年01月30日閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

[5] ポール・ヴァン=ソメレン, (1995).「都市計画家の夢と悪夢と目覚め オランダにおける都市計画・建築・安全・防犯の交点」『JUSRIリポート』別冊5(国際防犯フォーラム・IFCP95 安全な街づくり・住まいづくり), 都市防犯研究センター, pp.39-50.

[6] 事故No,19921004a
(外山智士、2018年1月30日閲覧)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/civil_aviation/cadb/wadr/accident/19921004a.htm

[7] 文春記者、小室の引退に「本意ではない結果」 サンジャポ取材に語る/芸能/デイリースポーツ online
(記名なし、2018年01月21日)
https://www.daily.co.jp/gossip/2018/01/21/0010915873.shtml

[8] Bijlmermeer pronunciation: How to pronounce Bijlmermeer in Dutch
(2018年1月30日確認)
https://forvo.com/word/bijlmermeer/#nl




2018年1月30日15時追記

文を追加し、文言を修正した。文末の修正部分を除けば、文章の意図を増やしたり修正したものではない。

コインチェック社からのXEM流出は、コンピュータ犯罪の観点ではなく権力・組織犯罪の観点で理解すべきである

本ブログの読者であれば、仮想通貨の危うさと信用の源については、よくよくご理解いただいていたはずである。このため、コインチェック社において、26日にNEMについて異常が検知され[1]、総額580億円相当の仮想通貨が流出した[2]が、この問題についてはもちろん、それ以前のビットコインの恐ろしい乱高下についても、万が一にも、難を逃れた本ブログの読者がおられるかも知れない。

ただ、『John Wick』中の金貨について言及した拙稿(2017年12月10日)は、本ブログが、偶々、世間の荒波とシンクロした一例である。まったくの偶然であり、私自身も、偶然ゆえに驚愕している。誰からも示唆や指示を受けた訳でもなく、誰にも具体的な示唆や指示を与えたつもりもなく、そもそも、誰にも話さずに、録画した番組を視聴した結果について、自分の興味の赴くまま、それのみに基づいて、作成した記事である。このために、拙稿には「毒にも薬にもならない内容」と記したのである。とはいえ、念のため、本ブログは、極力、庶民の生活に荒波を立てないよう、しかしながら、一般的事実(、見方を変えれば、応用の利く知識)の伝達を目的に、手抜きや誤誘導を試みる「学識経験者」のケツを蹴り飛ばすべく、作成されている(というユルユルな方針を持っている)。

『日本経済新聞』が「仮想通貨がマネーロンダリングに使われる虞がある」と社説で偽情報を流布する力に比べれば[3]、現実に『Tor』を利用した『Silk Road』においてビットコインが取引通貨として使用されてきたことを指摘する私のブログなど、まったくゼロに等しい影響力である。実体験の範囲については、口座名としてビットコインが示された取引を持ちかける書込みを目にしたということに過ぎないといえば、それまでである。ビットコインの脆弱性、『Tor』が論理的に通信を傍受される可能性については、公知の事実と呼べるものになっている(、いずれも、数は力なりという信念がヒントになるところ、現代社会の特徴を良く反映しているものと言えよう)。囮捜査の権限のない一般人としては、十分な調査に基づく指摘を行ったというべきであろう。仮に、他の研究者が、参与観察を大学などから許可を受けて公的組織として実施するとしても、せいぜい、問合せメールを送るくらいで打止めであろう。それ以上は、優れたジャーナリストの領域である。

このとき、私が見ていた27日(土曜日)19時のNHKのニュースで、岩下直行氏が、犯罪者にも魅力的になったために狙われるようになったという旨を述べていた。因果の向きが違うやろ~、魅力的になるようにワシが育てたんよと犯罪者たちが言うんちゃうんか~、と私はツッコミを思わず入れてしまったのであるが、世の中、どれくらいの人々が同じ気持ちを抱いたことであろうか。おそらく、NHKを見ていた裏社会の人々は、全員がシンクロ率100%でツッコんだに違いない。その発言の厳密な書き起こしは、遠い将来において実行されない可能性がない訳でもないが、この恥となる(ものと私には思われる)岩下氏の発言は、NHKのウェブサイトには掲載されていなかった[4]。これは、もしかすると、その文言の不適切さに岩下氏が気が付いたか、NHK職員が自発的に気が付いたかによって、訂正されたためかも知れない。


ここからが本題;香港映画は、わが国に一足先駆けて、裏社会が警察に子飼いのクリーンな青年を送り込むという映画を複数世に問うてきた(が、正確な話は、遠い後日にしっかり調べるかも知れない)が、最近のわが国の裏社会も、その種の不正の方法を実行してきたという記事を、いずれかで目にしたが、これもまた、遠い後日に調査予定)。

これと同じ囲い込み戦法は、システムにも応用されるという点において、国際秘密力集団の得意技である。①彼らにとってのみ利益が上がるように、かつ、②確率的に粗相をする企業が表れるように(=企業を対象とする保険数理的に)、かつ、③粗相をしでかした企業のみが責任を負うように、システムを整備し、然る後、④そのシステムの脆弱性をエクスプロイトすることに、血道を上げるという方法論である。公認されたバックドアを仕掛けられるだけの大義名分があるとすれば、それはまた、悪用の余地を拡げることもあるやも知れない。しかし、先の①~④であれば、④のみが犯罪と呼べる行為となりうる可能性を有しているのであるし、①~③は、あくまで、システムに欠陥があるに過ぎず、それは、社会の通常営業に過ぎないという訳である。④も、システムがやられることを見越して、システムがやられたときに空売りできるよう、準備しておくこと自体は、国際社会から認められた種類の作法である。皆が努力を重ねる中、悪いのは、対策をサボったために不幸な生贄となった企業のみである。脆弱性がゼロデイから相当に遅れたとか、推奨される対策を実行してこなかったとかは、いわば、重過失の類いである。ここには、社会システムの設計者の側には、何ら落ち度がない。このようなことに、社会システムがなっているのである。悪意を有する人物や組織は、ほとんど決定論的に、おいしそうなところに、牙を研ぎながら待ち構えている。新規ビジネスに乗り出す若人には、それを重々承知して欲しいものである(。私のようなオッサンの戯言を真に受けなかった人たちの損害であるために、今回の話には、同情する余地が少ない)。もっとも、今回の流出事件は、仮想通貨に対して注ぎ込まれたカネの量からいえば微々たる金額であろうから、私は、今回の話を、一罰百戒を目的とした見せしめ・警告であった可能性があるものとも想定している。仮想通貨を育てようという人たちにとっては、現実認識を改めるという意義があったことになるからである。当事者たちには、何とも取返しの付かないことではあるが。


[1] Coincheckサービスにおける一部機能の停止について | コインチェック株式会社
(2018年01月26日)
http://corporate.coincheck.com/2018/01/26/29.html

[2] 不正に送金された仮想通貨NEMの保有者に対する補償方針について | コインチェック株式会社
(2018年01月28日)
http://corporate.coincheck.com/2018/01/28/30.html

[3] 仮想通貨の健全な発展に国際協調を  :日本経済新聞
(2018年01月21日付社説・記名なし)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO25953630Q8A120C1EA1000/

各国で同じ規制を一斉に入れる必要はないが、仮想通貨の普及とその影響、健全な発展に必要な規制について当局間で情報交換を進める必要がある。仮想通貨はマネーロンダリング(資金洗浄)に使われる恐れもあり、その対策には国際協力が不可欠だ。

[4] コインチェックから仮想通貨流出|NHK 首都圏のニュース
(記名なし、2018年01月27日19時16分)
http://www3.nhk.or.jp/lnews/shutoken/20180127/1000007134.html

これについて、仮想通貨に詳しい京都大学公共政策大学院の岩下直行教授は「NEMは、主要な仮想通貨に比べると取り引き量が少ないこともあり、対策が後回しになったのではないか」として、セキュリティー対策が不十分だったことが流出につながった可能性を指摘しています。




2018(平成30)年1月29日・30日修正

事実関係に係る記述を変えたつもりはないが、細かい表現を修正した。

昨日までの間に、コインチェック社は、仮想通貨の価格下落を受けて、損害見積額を460億円に切り下げたようであるが、よくよく、社会システムに係るセンスのない決定である。同社の粗相ゆえに仮想通貨の価格が下落したのであるから、損害賠償請求裁判においても、被害直前までの値動きを参照すべきであるという意見が認容されることであろう。落ち度があり、それをCEOが記者会見の場で認めたことが大きく報道されてしまった以上、この被害者寄りの意見の認定は、確定的と考えて良いであろう。これでは、コインチェック社が社会に対して公表した方針は、同社が損切りを意図していたとすれば、その効果が真逆のものとなる。ひいては、同社に対する将来の新規顧客を大きく減少させるだけでなく、業界全体にも影響が波及しうる。定性的には、以上の傾向が認められるであろう。




2018(平成30)年2月2日訂正

仮想通貨プラットフォームNEM上の通貨単位がXEMである[1]ことから、題名を「NEM」から「XEM」へと変更した。実質的な理解を妨げるものではなかろうが、誤りは誤りであろうから、お詫び申し上げる。また、NEMの相場変動によって、賠償見積額の算定が580億円を超えていたとすれば、いかなる賠償額を支払う必要があったのかという問題についても、拙論の考え方は、甘かったものと思う。詳しくは別稿(2018年02月02日)に譲る。なお、コインチェック社の補償については、以下のとおりである[2]


[1] NEM (暗号通貨) - Wikipedia
(2018年02月01日閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/NEM_(%E6%9A%97%E5%8F%B7%E9%80%9A%E8%B2%A8)

[2] 不正に送金された仮想通貨NEMの保有者に対する補償方針について | コインチェック株式会社
(2018年01月28日付)
http://corporate.coincheck.com/2018/01/28/30.html

1月26日に不正送金されたNEMの補償について
総額 : 5億2300万XEM
保有者数 : 約26万人
補償方法 : NEMの保有者全員に、日本円でコインチェックウォレットに返金いたします。
算出方法 : NEMの取扱高が国内外含め最も多いテックビューロ株式会社の運営する仮想通貨取引所ZaifのXEM/JPY (NEM/JPY)を参考にし、出来高の加重平均を使って価格を算出いたします。算出期間は、CoincheckにおけるNEMの売買停止時から本リリース時までの加重平均の価格で、JPYにて返金いたします。
算出期間  : 売買停止時(2018/01/26 12:09 日本時間)〜本リリース配信時(2018/01/27 23:00 日本時間)
補償金額  : 88.549円×保有数
補償時期等 : 補償時期や手続きの方法に関しましては、現在検討中です。なお、返金原資については自己資金より実施させていただきます。

2018年1月28日日曜日

(メモ・書評)トランプ氏はダボス初登壇であった

とは、BBCワールドの『デイトライン・ロンドン』(2018年1月27日23:30~00:00)の特派員ヘンリー・某氏(東洋系の男性)のお話であり、America Firstではあるが孤立主義ではないとも解説していた。トランプ氏の登壇は、ビル・クリントン氏以来、アメリカ大統領として、18年ぶりであるともいう。トランプ氏は、世界で最も富の集積する都市の不動産王の一人であり、父親の代からの不動産業を大きくした二代目実業家である。この経歴を考え合わせれば、ダボス会議のアウトサイダーから見れば、トランプ氏がダボス会議と関係を有してこなかったこと自体、希有なことであると言えるように思う。この点、オバマ大統領もまた、上手く逃げを打ってきたのかも(2017年2月3日)知れない(。今年はどうなのだろうかという疑問に分かりやすく答えてくれているマスメディアは、予想通り、ぱっと見、見当たらない)。子ブッシュ?あまりにも戦争屋のイヌっぷりが甚だしいので、ダボス会議の参加者全員の印象を悪くするという判断があったのでは、と考えることができる。平和のために開催されているというダボス会議の建前もあろうけれども、現実に日本語を喋る戦争屋がたっぷり参加している以上、この建前は、全然通用していない。

ダボス会議については、現在では一応と呼べる程度に低レベルであり、最早メッキが剥げて久しいが、良好なイメージが維持されるように、各種のイメージ操作が行われている。その証拠の一つを引用しながら解説してみよう。ダボス会議の偽善性はバレバレであるから、そのような証拠を挙げる必要自体がないのでは?と思う向きもあるかも知れない。しかし、脱構築という作業は、社会科学において発明された永久機関のようなもの(、果てしなくネタを生産可能な方法論)であり、単に文章を引いて「こいつは庶民の敵だと思うのだけれども、皆、どう思う?」とだけ記すことがわが国の著作権法によって許されない昨今、どうしても、必要な作業でもある(。事実をメモして、同時に、自分の意見をたるものとして提示するという作業が不可能な点で、著作権法は、真に具合が悪い。なお、脱構築という用語自体を陰謀論者としてネタ気味に利用していることも、否定はしないが、ロスコフ氏の記述を欺瞞溢れるものとして誤読してみせる作業は、脱構築の亜種ではあろうとも思うところである)。


クリントン政権の商務省・国際貿易担当副次官からキッシンジャー・アソシエイツの取締役へと転身し、多数のグローバル・エリートとの交流経験から『超・階級』(2008=2009、光文社)を著したデヴィッド・ロスコフ(David Rothkopf)氏は、序章において、ダボス会議の様子と役割を叙述するが、それら(の記述)は、きわめて誘導的・欺瞞的である。まず最初に、ロスコフ氏は、その出席者たちについて、元アメリカ政府高官の言葉を借りて、

「おそらく仲間としての一体感が生じているのだろう。彼らは自国民への忠誠心よりも、ダボス会議とそこに参加する同族達への忠誠心のほうが強いのだ」〔p.44、序章、ページ数は訳書〕
とは記す。しかし、私は、この記述を、ロスコフ氏が自身の客観性を高めるべく用意した、一種の藁人形(論法、自分たちが打ち倒せるレベルの仮想敵を用意して、それを打ち倒してみせる論法)であると理解する。同時に、私は、この記述から、批判者を明記した場合に批判者に対して、ダボス会議の主催者連中から加えられる報復(の大きさ)までを、読み取ることができるように考える。批判者が、物理的に口封じされたり、今後の彼(女)のビジネスへの影響が生じることをロスコフ氏が恐れたために、匿名とせざるを得なかったと考えられるのである。この点、図らずも、ロスコフ氏自身、この内輪の批判者を仲間として認知していることも暴露してしまっている。仲間ではないから損害を与えて報復されたくないという意見もあり得るが、ま、ダボス会議の部外者(である私)が判定して記述したことが、書籍の読まれ方の出力としては、全てである(という具合に話の流れを切断できるのが、構築主義の便利なところである、と私は勝手に思っている)。

ロスコフ氏は、ダボスに批判的な外部の人々へと直接接触した話を示さずに、他方で、その参加者については、一方的に人間味溢れる人物として描き出す。ロスコフ氏は、ウゴ・チャベス、エボ・モラレス、ウラジーミル・プーチン、マフムード・アフマディネジャド、イェルク・ハイダー、ジャンマリ・ルペン、ルー・ドブス、パット・ブキャナンの各氏の名を挙げ、彼らが

富と権力を持つ者たちがグローバルな陰謀組織を形成して、祖国との関係を断ち、私利私欲のためだけに行動することによって、世界に脅威をもたらしている、というような話をしょっちゅう持ち出す。〔…略…〕これらの人々にとって、ダボス会議はたんなる経済会議ではなく、敵の本拠地であり、グローバル化を指揮する将軍たちが世界征服を企んでいる場所なのだ。〔p.47〕
と、被害妄想気味の扇動者であるかのように彼ら批判者を描く。もっとも、自らを含むダボス会議の参加者たちをうまく戯画化できているという点では、(このように、あえて自分たちを悪く描写するとともに、批判者の攻撃性を際立たせることによって、あくまで批判者の内部のみで批判に示された負のイメージが共有されているかの印象を読者に与え、読者を自分たちの側に引きつけることが期待できるという意味で、)再帰性を良く理解している。さすが、キッシンジャーの弟子、(投資分野において、再帰性の語を主唱してきた)ハゲタカ・ファンドの首領である(あった?)ジョージ・ソロス氏に連なる一味の広報官である(。タイ・バーツの通貨危機におけるソロス氏の動きを、ハゲタカと呼べない訳はあるまい)。この一方で、「霊感に満ちた作品で知られる〔p.60〕」パウロ・コエーリョ氏の口を借りて、その参加者を

「ここにみんなが集まっているのは、ケーキを等分して、その分け前をもらうためだという、ダボスについての古典的な神話がありますが、私はそうは思いません。

この十年、毎年参加しているからでしょうが、ダボス会議には二つのレベルの人々が来ているということを、これまでになく強く感じるようになりました。一つはビジネス・レベルの人々です。彼らについて私はよく理解できていませんが、〔…略…〕。しかし、もういっぽうには第二のレベルの人々、すなわち人間レベルの参加者がいて、その役割は年々大きくなっています。彼らは会議の参加者に一種の建設的な自覚を促すのです。〔p.57〕

〔…略…〕

〔…略…〕たしかにこれはエリートの集まる会議です。しかし、みんながこうして集まっているのは世界を統制するためではなく、じかに会って相互理解を深めるためなのです」

ミルズやウェーバーのような社会学者なら、まさにそのような人間的な対話こそが集団の結束を強め、まとまりのない同輩たちの集まりをそれ以上のものに変化させるのだと主張するだろう。〔…略…〕その点について問いただしたとき、コエーリョはちょっと困ったような顔をした。彼が口ごもったのはおそらく、ダボス会議ではいくつかの分科会や委員会のメンバーになっているからで、反グローバリストや陰謀論者からの批判を和らげたいという考えがあるのだろう。正規の一員として、ダボス会議は秘密組織などではなく、ただ個人のつながりがあるだけだと言いたいのだ。〔p.58〕

と擁護する。私からすれば、コエーリョ氏は、自身を金持ちたちの「弾よけ」であることを自身が認識していないかのように説明できるという点で、立派に国際秘密力集団の走狗の役割を果たしている(。人ごとのように話すという、「東大話法」の規則8が該当する。私もこの方法を意識的に利用しているが、この方法に意識的であることを示すことこそ、社会的事実に係る観察可能性を維持する上での極意であるとも思っている。私のように考えれば、私のように考えることができる、と言うのは、トートロジーであるが、これが構築主義というものの極意である。「オマエの中ではそうなんだろう」というアレを打ち立ててみせるのが、構築主義の悪用の究極形態であろう)。アンジェリーナ・ジョリー氏もコエーリョ氏と同様の役割を果たしてきたが、芸能人は、ダボス会議において、寄付金の流れを自分たちの善意および正義感の適う方向に振り向けさせることで自己満足感を高めると同時に、ダボス会議が社会に貢献しているということを金持ちたちの代わりに主張する、という役割を与えられている。このことは、個々の事情や意見を捨象して、外形的にとらえれば、否定しようのない事実である。これこそが、コエーリョ氏が信じたいとする従来の「システム〔p.61〕」を、アウトサイダーから見たときの評価である。また、対外的にダボス会議の立場・建前を説明すること自体によって、彼ら芸能人は、自分たち自身の後ろめたさをも解消する機会と、自分たちの名高める機会の双方を得ることができる。諺で言えば、虎の威を借る狐であり、スネ夫症候群ということになろうが、これ自体が売名・つまりはビジネスチャンスにもなるという点で、真にいかがわしいサイクルが形成されている。このようなシステムにおける意志決定においては、インターネット社会、いや、SNS社会を迎えた現在においても、彼ら芸能人が多くを搾取する顧客でもある「民主主義」各国における選挙民の意志は、何ら反映されていない。コエーリョ氏やジョリー氏を選挙民が大変に嫌っているとしても、彼ら選挙民は、経済システム内部において広告業者が自分たちの取り分を差っ引いていくことを通じて、彼ら芸能人の上がりを負担させられている。この「搾取される側」の意志決定過程からの排除こそが、ナショナリストによって汲み上げられる不満の中心にある。にもかかわらず、ロスコフ氏は、また、コエーリョ氏のインタビューは、この論点について触れようとはしない。「オマエらが勝手に世界の形を決めるな」という各国の「忘れられた階層」の平等意識と不満は、厳然として存在する。まさか、2018年現在、マスゴミのいうこの事実を、当のダボス会議の参加者たちが認めない訳にもいくまい。ロスコフ氏は、自身の記述から、この庶民の不満を完全に欠落させながら、ニュージャージ出の自分自身を、パンピーの側にいるかのごとく描こうとする。わが国の国民で、竹中平蔵氏を庶民の代表と考える人々が、どれだけいるのか。竹中氏が国会議員として獲得した票は、庶民の代表としての期待に基づくものでは決してなかろう(し、もちろん、私は、それ以上の不正があるものと疑っている)。一般人の意思決定過程への参画の欠如に係る記述「世界を支配する」連中の側にいるロスコフ氏の記述から抜けていることは、そのまま、「世界を支配しようとする目論見からわれわれが排除されている」とナショナリズム支持者が感じることの、確固とした根拠である(。それに、学者の役割は、事態を過不足なく理解できるように説明することであるから、ロスコフ氏は、ダボス会議の役割を説明することに、学者・専門家としては失敗したことになる。2018年1月27日記事・補論)。

また、ロマン・アブラモヴィッチ氏について、次のように記すあたりは、先のプーチン氏への言及と対比させれば、よくよく、ロスコフ氏の立ち位置が「ヤツら」と「我ら」のいずれに近いものかを明らかにしている。

〔p.80〕

公平性と拡大する不均衡の問題はさておいて――のちほど述べる――どの分野においても、ごく一部のやり手たちが、群を抜く巨額の報酬を受けとっているという、同様の結果が生じていることは明らかだ。

しかしながら、私は本書の目的に則して、特定の事業分野における富や業績よりも、国際的な影響力の面でこうした状況が典型的に見られる人々に焦点を当てたい。ロマン・アブラモヴィッチ――ロシアの新興財閥オリガルヒの一人で、シベリア地方の知事も務め、イギリスのサッカー・チーム〈チェルシー〉のオーナーでもある――は、そうしたエリートの一人である。

〔…略…〕

〔p.81〕

どの人物も百万人に一人の逸材である。〔…略…〕

地球の全人口六十億人のうち、六千人ほどがそうした人々で、人間の行う事業のあらゆる分野に見ることができる。〔…略…〕〔p.82〕

これらの個人の決定的な特徴は力だ。〔…略…〕

彼らはその才能、業績、財産、または、これら三要素のなんらかの相乗効果によって、ひじょうに大きな影響力を手にした数少ない人々である。〔…略…〕影響力は人格ではなく、人格の欠陥から生じることもある。たとえば冷酷さ、一つの考えへの偏執狂的なまでの個室、強欲といったものだ。

現時点までにおいて、アブラモヴィッチ氏は、複数の疑獄への関与が指摘され、(先に見たように、ダボス会議を批判する当の)プーチン政権との裏取引が匂わされてきた(。これが、「先進諸国」の「マスメディア」の「中立的」な記述に基づいて「客観性」を担保されたとされる『Wikipedia』の英語版の記事(リンク)から受ける印象である)。このとき、アブラモヴィッチ氏を「逸材」という語を用いてロスコフ氏が形容したことは、訳書の記述であるとはいえども、事実である(。訳者の責任であるというつもりは、微塵もない。職業的作家が商業出版システムと上手に付き合い、訳書の品質をコントロールすることの重要性は、村上春樹氏が『職業としての小説家』(2015、スイッチ・パブリッシング)で述べている。人物について「逸材」の語が利用されるとき、これが好ましからざる性質を有する意味で用いられることは、皮肉以外の場合を除けば、まずない)。ロスコフ氏は、好ましくない人格(、これを、「人格の欠落」といった形で表現することは、よくよく覇道一神教的な精神によって、ロスコフ氏が駆動されていることを示す証拠である。)が突出した力の源泉となった可能性について、言及してはいる。しかし、全体を通じてみれば、ロスコフ氏の記述は、人格者であるために成功した高潔な人物たちがダボス会議に集合し、毎年の交友関係を暖めているという印象へと、読者を誘導しているのである。以上、ロスコフ氏は、世界の99%から見れば、エリートの観察者・研究者というよりも、立派にエリートの代弁者である。


なお、同書は、段落書きされている。国際秘密力集団の代理人に対抗する側も、効率性を上げるために、ぜひ、学ぶべきところは学ぶべきと思う。西部邁氏の論説が段落書きされていなかった、言い換えると、同時代的な学問水準に到達していなかったことは、その影響力と相俟って、「保守論壇」の健全かつ迅速な発展を阻害したものと言える(2017年6月11日)。

「スーパークラス」の定義が「流動性の高い〔p.163〕」走狗を含む(例:トニー・ブレア氏、ミハイル・ゴルバチョフ氏)時点で、同書は、これまた誘導的である。ブレア氏とゴルバチョフ氏は、政界を引退した結果、スーパークラスからも引退したという形で、閨閥ネットワークの存在を糊塗する材料として、利用されている。「権力から身を引いた結果、慎ましやか、かつ、穏やかに暮らすことのできる元・スーパークラスがいる」といった案配で、説明材料として提示するための枠である。細川護煕氏は、この枠に入れることができるやも知れない。細川氏の場合には、メトロポリタン美術館(The Met;ロンドン警視庁も同様の愛称に作品を展示してもらえるというおまけ付きである。もちろん、このネットワークは、複層的に権力集団の関係を強化することに寄与している。これらの「引退した人々」は、その生き方自体が、一面的には安全、かつ、名声を博せるものとなっているという点で、国際秘密力集団によって「リサイクル」された事例となっている。ロスコフ氏が自身を走狗という地位にあると認識しているとすれば、ロスコフ氏の「スーパークラス」の定義自体が、自身の走狗ぶりを際立たせる理解の枠組であると評価できよう。

隣接分野に対比してみると、ロスコフ氏のエリート論に対する役割は、疑似科学(のうち、国益に影響を与えると見做された意見)に対する「と学会」の役割と同等である。

#今後、引用と記述をやす可能性はあるが、これで十分な評価材料が貯まったように思うので、本稿はおしまい。


2018年1月28日・31日訂正

明らかな事実関係の誤りと文面の一部を訂正した。メトロポリタン美術館と著作権法の主従に係る二点の誤りについては、お詫びする。

2018年1月27日土曜日

トランプ氏のダボス発言は本心を隠したものに見える

現在、世界は多極化しつつも全体として良い方向に進みつつあるが、主な理由の一つは、ドナルド・トランプ氏の情報発信スタイルに求められよう。トランプ氏の過激な表現は、現実には「名」を「実」に近付けるように機能している。それだけでなく、その実力行使のスタイルも、戦争屋ならびにマスゴミの常識の斜め上を行くものである。「何をするのか分からない」というスタイルによって、相手を劣位に追いやり、事態をノーマライズする。まるでプロレスの乱戦のような発話方法が、トランプ氏の流儀であると言えよう(。これは、「小沢内閣待望論」=「ポスト米英時代」氏の慧眼を勝手に拝借した表現である)。

マスコミは、トランプ氏の言葉には嘘や物議を醸す表現が多く含まれると批判するが、何なれば、これらの不適切な内容は、意図的に発信されている。自らの真の意図を隠し切り、重要ではない誤りに批判を集中させるための弁法であろう。真実の所在を判定する技術を持たない人々にとっては、「フェイク・ニュース」※1というトランプ氏の批判と、それに対するマスコミの反論は、「オマエは嘘吐きだ」「いや、オマエこそ嘘吐きだ」と言い合う子供の喧嘩と同程度にしか見えないものである。しかし、マスコミの欺瞞を暴くという点では、この論戦には意味があった。この結果、現在、大多数の人々は、大マスコミが金主の核心的な利益を保護するために、重要な話をしなかったり、嘘を吐いたりしてきたことを、当然の事実として受け止めている。ただ同時に、残念なことではあるが、このメディアの欺瞞性は、大多数の人々にとって、一般的な事実としてのみ受け取られている。具体的なマスコミのウソを自分たちで暴こうとする人たちは、まだまだ一部に限られていよう(。これはこれで、世界の流れを決めてしまうことになるだけに、一抹の不安を覚えかねないことではある)。大多数の人々が「メディア・リテラシーの勧め」のような話をまともに実践しないのは、多忙であったり、ウソを見抜くためだけに相当の労力と金銭をかけることを厭うからであろう。このことを考慮すれば、本来であれば、NHKや主要新聞、特に「皆様のNHK」がウソを吐かずに、ダボス会議のスポンサー名ならびに出席者名、彼らと彼らが所属あるいは所有する企業の資産額および関係性を、正確かつ粛々と掲載するのが、最も効率的かつ劇的に、わが国の世界に対する理解を改善する方法である(。カネの集め方は、ノブレス・オブリージュを産む)。

ともあれ、「トランプ氏がマスコミの話さない真実を語ることにより当選した」という認識が普及しきったという現実を直視して、自らを正さないことには、マスコミに勝ち目はない。選挙期間以降のトランプ氏の攻撃によって、彼ら主流マスコミの評判は、不可逆的に低下している。マスコミには、(アメリカの事例に限定するが、)ケネディ大統領暗殺、アポロ有人月面着陸計画、同時多発テロ事件の不可解な点の数々、イラク戦争の開始の端緒とその始末、ワシントン政界の児童虐待疑惑、ウォール街、連邦準備制度理事会といった、数々の正確に説明できない事項、いわばタブーが存在する。これらの疑惑に切り込めないままでは、読者・視聴者からみて、マスコミは、弱味を抱えた存在と見做される。トランプ氏は、これらのタブーに切り込む政策を公然と口にすることによって、マスコミを直接・間接に攻撃してきた。マスコミがこれらのタブーに自ら切り込まなければ、マスコミは、トランプ氏を取り扱おうとする時点で、トランプ氏よりも劣位に置かれることを余儀なくされる。陰謀論が、トランプ氏を有利にするテコの役割を果たしているのである。もちろん、この構図は、マスコミの中でも、多少目端の利く人物には共有されてはいよう。彼ら報道人に勇気がないことは、この状況を打開し、世界の権力構造をもう少し(だけ)マシにする上での、ボトルネックの一つである。裏切る人数が少なければ、マスコミの金主に粛正されることになろうから、イヌの地位から抜け出せないのも、理由がない訳ではないのであろうが。


以上の事情をふまえると、トランプ氏がダボス会議という「蛇の巣」において発言した内容を真に受ける人たちは、以下で述べる二点の理由から、余程、ナイーヴである。理由は、前段までの説明から自然に導けるが、改めて、二つに整理すると分かりやすい。一つは、ダボス会議における暗殺の危険、もう一つは、マスコミ自身がトランプ氏の発言の信憑性を低いものとして扱った結果、トランプ氏自身が、その状況を逆用できるようになってしまっていることである。後者は、「自己言及のパラドクス(嘘吐きのクレタ人、オオカミ少年)」と呼ばれる逆説に係る下地を、トランプ氏が作り出し、マスコミが追認したことによるものである。

まず、アメリカ大統領と言えども、常に暗殺の危険があり、これを避ける必要がある。このことは、子供でも知る話であるが、大事な話であるから、何度でも繰り返しておくべきであろう。死の危険があるとき(、あくまで現実の危険が存在しているときに限られようが)、人が方便としてウソを吐くことは、許されることであろう(2017年9月13日)。トランプ氏の発言や政策の根幹は、従来の権力集団からアメリカ国民に利益を還元しようとするものであるから、確実に、死の危険を伴うものである。ダボス会議は、戦争屋を含む国際秘密力集団の例会である。彼ら主催者と対立する人物が、そのような場で発言したとしても、その内容に対しては、死の危険がある以上、何らの責任も存在しない。なお、ケネディ大統領のときと同様、副大統領がいるではないかという指摘は、野暮であり、発言者の立ち位置を明確にするものである。

次に、マスコミは、A:トランプ大統領を常々嘘を吐くと批判しながら、B:ダボス会議におけるTPP発言を大々的に報道したことになるが、このマスコミの言論AとBは、マスコミ自身によって、支離滅裂なものとなってしまっている。というのも、マスコミがトランプ氏を普段からウソ吐き呼ばわりしてきた以上、ダボス会議における発言は、マスコミによれば、守られるか否か分からないことになる。こうなると、このダボス発言は、マスコミの解釈を加えた場合には、人々の役に立つ内容を伝えたことにならないことになる(。守られる・守られないという二値的な確率に従うと考えてみると、マスコミのお墨付きが、かえって、エントロピーを高めることになる)。しかも、主流マスコミは(、たとえば、田中宇氏のように、隠れ多極主義であるといった)、トランプ氏の内心がどこにあるのかを聞き手が落着できるような、役に立つ洞察を加えた実績もない。今更、マスコミ自身が形成した「ウソ吐きトランプ氏」というイメージを撤回するにしても、放置するにしても、「フェイク・ニュース」であるマスコミ自身が、「トランプ氏のダボス発言は、真実である」と言う訳にはいかないのである。少なくとも、読者なり視聴者にとっては、マスコミの言うことの真偽を判定することは、今では不可能である。

「トランプ氏がウソ吐き」「TPPというマスゴミの金主にとって有利な条約への加盟を示唆」という矛盾する関係にある情報を、同一の法人格が発出することだけでも、随分と不審なことであるが、このような自己矛盾的な報道をマスコミ各社が一斉に取ることは、マスコミ全員こそがウソ吐きでありそうだという印象を高める結果となっている。この印象を高める材料として、建前としての報道の独立性がある。つまり、マスコミ各社が、各自の自由な心証に基づいて、この決断を個別に下したことになっている。この建前によって、マスコミは、期せずして、「「ウソ吐きがTPP再交渉詐欺を言い出しました」というニュースを、ウソ吐き集団が揃って報じた」という、「陰謀論なる内容を説いているがためにウソ吐きと呼ばれているであろう私」でもビックリしてしまうような状況を作り出したのである。成員一人一人の内心は知らない(し、「こんな人たち」の人格を慮る必要もないように思える)が、外形的に見れば、複数のマスコミが、集団的かつ一斉に、かつ、独自の判断に基づいて、このような愚行に至る論調を用意したことになる※2。マスコミの言うことを真に受けてみると、以上の理由から、ダボス会議の結果は、マスコミの意図にかかわらず、またもや、マスコミがトランプ氏をディスったという実績だけが積み上がったことになる。

強いて付け加えるならば、一般人にとっては、トランプ氏の権力がダボス会議にも完全に及ぶほどに正常化されてはいないというのが、唯一の、そして残念な情報であろう。ただ、その力関係は、ほかの材料から、十分に窺い知ることのできるものである。たとえば、1月22日のアメリカ連邦政府の一部閉鎖は、これと同内容の勢力分布を示唆するニュースである。われわれ一般人ができることは、世界情勢が良くなることを念じつつ、気長に待つことであろう。

それに、トランプ氏の発言に再交渉という条件が付された以上、非常に面白い展開が予想できる。旧TPPこそは、ISDSを含め、無国籍大企業群の意向が十全に反映された、各国の国民を裏切る契約であった。しかし、再交渉ということになれば、交渉に関与した全員のリストを渡せ、誰が何を策定したのか、誰が何を主張したのかを知らせよ、といったトランプ大統領の要望に、応える必要も出てこよう。その際、米国の連邦議会議員でさえも交渉過程を知ることができなかった、という基本的な事実を思い出す必要がある。「再交渉」という「毒素条項」によって、当事者各国の裏切り者のリストは、世界最高クラスの暴力を指揮できる権力者の手に一挙に渡ることになりうる(。NSAやCIAの良心ある職員の出番である)。わが国であっても、夜も眠れない売国奴たちを高見の見物としゃれ込める機会は、ゼロではない。このような毒素条項ありきでは、再交渉は、潰れる運命にあろう。『WikiLeaks』を通じたタックス・ヘイブンに係る漏洩事件は、この前準備でもあったのであろう。英国のメイ首相がトランプ氏を直接ディスったという日本語報道が目立って見られないことは、ここでの私の推測の補強材料である。日本人のTPP条文作成者の確定的リストが出てくるようなことがあれば、それはそれで、今回、トランプ大統領の仕掛けた罠に、戦争屋(の一部)がまんまと引っ掛かったということを意味しよう。


※1 「フェイク・ニュース」という表現の流行は、マスコミの信用が実際にはどの程度であったのかを良く示している。さらには、「フェイク・ニュース」という誹謗を通じて、口にすることも憚られた種類の「タブー」も、公然と語られることが許されるようになっている。実績を考慮すれば、「フェイク・ニュース」という表現は、現在のマスコミの「真の名」として、世界流行語大賞に相応しいものである。なお、本注記における形容は、私なりのアーシュラ・K・ル=グウィン氏への追悼のつもりである(2018年1月22日没)。とはいえ、本稿で取り扱った話は、大変に捻れたものであるから、ご当人がいかにトランプ氏の治世を評価していたかは、また別に調べる必要がある。

※2 一部のテレビ報道には、この発言を疑問視していたものがあるようにも思うが、半分寝ていたので、どのチャンネルであったのかを含めて、詳細は分からない。昨日の夕刊三紙(読売・朝日・日経)については、トランプ氏に対する不信を前面に押し出した見出しの記憶はないが、本日では、この種の疑問を含む論調が見られるようになっている。たとえば、『日本経済新聞』の河浪武史氏の本日朝刊3面記事の見出し[1]は、「変心か乱心か」である。これは、河浪武史氏の主流マスコミの論調に対する忠誠ぶりを良く表していると言えよう。「乱心」という文言は、およそ、日常生活において、上司や勤務先のトップを茶化すときくらいにしか見られるものではなく、他者を褒めるものではない。もちろん、トランプ氏の「再交渉」という文言は、トランプ氏の主張が後世において正しかったことを担保する役割を果たしており、現時点でマスコミがトランプ氏を誹謗したことは、将来において、マスコミがゲス野郎であったことを示すまたとない証拠として機能するのである。マスコミの連中は、どうやら、当人たちがダブルバインドを仕掛けられたことに、気が付いていないようである。田原総一朗氏に(2017年10月24日記事)弟子入りしなおしたらどうか。


[1] ダボス(スイス東部)=河浪武史, 「変心か乱心か/トランプ氏、突如「TPP再検討」/産業界から見直し圧力/日本、再交渉に否定的」, 『日本経済新聞』, 2018年1月27日朝刊3面14版(総合2).




補論:情報を扱う職業に課せられた情報発信のルール

一般的に、機微に触れる情報を取り扱う人物には、嘘を吐かないという第一のルールと、都合の悪いことは言わなくて良いという第二のルールが、暗黙裏に課せられている(2016年10月20日)。もっとも、このルールは、情報機関ならびにジャーナリズムの実務についてのみ厳密に該当する、と考えるべきであろう。そうしないと、研究者・教育者は、(個人情報などの)いくら機微に触れる情報を扱うことがあるとはいえ、真実を過不足なく伝達するという社会的機能を果たせなくなるし、政治家は、先に見たように、ウソを吐くことを通じて、国益・国民益を守ることができなくなる。本段落の話は、本ブログの過去の記事と重複するし、読者にとっては釈迦に説法であろう(。なお、臨床研究における患者の個人情報や質問紙調査の回答者名などは例外的に秘匿できるが、それでも、研究の再現に必要な条件などは、他の研究者が後追いできる程度に公表する必要がある。あまり細かい話をしても、本稿の論旨に影響せず、意味がない)。

二元配置を利用して、以上のルールについて、要素を{本当のこと, ウソ}と{話す, 話さない}という二軸にまとめてみると、もう少し、情報のルールというものが分かりやすくなる。2×2=4通りについて、{許されている、許されていない}という二値が成立する。二元配置は、コンサルタントや広告商売などで、良く使われる方法である。無論、これが「二軸の両建て」という「セット思考」が仕組まれがちな理由の最たるものであろう、と私は見立てている(2017年10月24日)。

研究者は、公に向けて、専門分野について{本当のことを話す}{ウソは話さない}というルールを課せられている。{本当のことを話さない}という態度は許されていない。池上彰氏が学者としてダメなのは、この点である(2018年1月25日記事・26日追記)。もちろん、{ウソを話す}ということは、許されていない(。福島第一原発事故については、大変に多くの「学者」がこのルールを逸脱したが、社会的制裁は、ごく小さなものであった)。特殊な場合に、「分からないことは、分からないと話す」というものがある。専門分野について、彼(女)に分からないことがあってはならない(←これは言い過ぎかもしれないが、大体、本人も恥ずかしいであろう)が、専門外の事柄については、「その道の専門家は知っているのかも知れないが、私には分からない」ということも、まあ、許されることであろう。私は、このような事態に度々遭遇するが、その度に仮定を重ねて、手抜きをしている。私の態度は、怠惰きわまりないが、それでも、知ったかぶりだけは、ここに挙げたルールに違背する可能性が高いために、本ブログでは、一応、避けている。

なお、「分かりやすい嘘」(2016年1月16日)という手段を有効に利用すると(2016年7月26日)、一部の権力集団に問題視される種類の情報を一般に流通させることが可能となる※3。本稿に見たトランプ大統領の発言スタイルは、この方法を、意識的に使いこなした結果であるとも言える。他方、わが国の政界については、何とも言えない。というのは、トランプ氏ほどに、安倍晋三氏のうつけぶりが上手であるとは、私には思えない(、つまり、素で読み間違いしていたりすると見える)からである。しかし他面で、結果として、現時点の安倍政権が戦争屋との情報戦争に勝つために、うつけ者のふりを許容しているという可能性自体は、否定できるものではない(。ただし、繰り返しで残念なことになるが、強調しておけば、その情報戦争の結果、現政体が勝利したとしても、日本国民の貧困層を救うことになるとは思えない。2017年06月10日記事)。


※3 この方法は、「マジ卍」という流行語が『気まぐれコンセプト』でも(1月6日発売号かで)取り上げられ意図的な操作の対象となっていることからも窺えるように、最近のわが国の広告業界においても、意識されているものと認められる。ただ、「マジ卍」自体に係る意図は、私には明確ではない。昨年末、『5ちゃんねる』に、鏡に映すと逆さ卍となることが投稿されている[2]。これは、『ダ・ヴィンチ・コード』の冒頭で、卍を反転させる様子を見逃した者によるものであろうが、ナチス礼賛だという誤解に基づく批判が生じたことを想起すれば、前例のない話ではない。「マジ卍」の流行の目的は、若年者を誤解させ、卍を誤用させた上で、仏教者と地図作成者による反駁を惹起させるという教育的な回路を作動させるというものであろうが、その原動力が「連合国vs枢軸国」という第二次世界大戦型の両建て構造を狙ってのものなのか、これを戯画化して脱構築するという反・両建て勢力によるものか、あるいは双方の勢力が相乗りしているのか、が読みにくいのである。ホイチョイ・プロダクション(ズ)は、今年に入り、朝日新聞のインタビューを受けている(1月4日あたり?要確認)くらいであるから、まあ、国際系走狗であると判定して構わない。しかし、たとえば、和久井健氏の『東京卍リベンジャーズ』の題名にも見るように、卍という用語の流行が、暴走族文化辺りからも発しているように見える点、なかなかその根を追いにくいように思うのである。和久井氏は『新宿スワン』のリアルさで名を上げた訳であるから、どちらかといえば、半グレに造詣が深いものと考えて良いであろう。半(はん)グレ=六本木=ヒルズ族~麻布署~テレビ朝日~米大使館とか、箱コネでいえば、やはり国際系であろうか。これは、定性的に連想できるものを並べただけであり、確定する必要がある。私がその種のヒュミントを使用しない(し、元から不得手である)と宣言していることは、繰り返すまでもなかろう。そうそう、溝口敦氏がわが国最高レベルのジャーナリストであることは、半グレという名に掛詞を入れたことにも表れている。掛詞が氏自身による公的な説明だけに留まらないのでは?というのは、私の偏見である。話が脱線しそうになったが、以上の材料に加え、本件『5ちゃんねる』なり『おーぷん2ちゃんねる』なりの投稿は、投稿日(2017年12月)、元のツイート主の開始日(2017年5月)とプロフの「闇属性」と撮影日(2017年9月)、広告代理店系漫画家(であるホイチョイ自身)に係る提灯記事、「マジ卍」がよく分からないと辞典編集者が解説する毎日新聞記事[3]との関係から判断すれば、本件は、炎上覚悟のアイドル商売であると同時に、その商売自体が政治的な意図を含んでいると結論できよう。また、このような穿ち読みは、余人にとっては、間違いではあるまい。


[2] JK「まじ卐Tシャツ着てみたよ~」自撮りパシャッ
(2017年12月24日・元ツイートの表示時刻は2017年09月04日か)
http://hawk.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1514122104/

[3] ネットウオッチ:女子高生御用達「マジ卍」 起源不明の新語、意味は 頭抱える辞書編集者/「すごく」の強調? - 毎日新聞
(大村健一、2018年1月10日 毎日新聞東京朝刊)
https://mainichi.jp/articles/20180110/ddm/012/040/045000c

2018年1月25日木曜日

(感想文)ヘーゲルのニュートン力学に対する批判は難癖に近い

『ヘーゲル初期哲学論集』(平凡社ライブラリー、2013年)所収の教授資格取得論文「惑星の軌道に関する哲学的論文」(1801年)[1]は、予断を以て臨むと、従来指摘されてきたような致命的な誤りを補論に含むだけでなく、どうにも、ニュートン力学全体に対する敵意を払拭できていないように読めてしまう。訳者の村上恭一氏の解説によると、この論文に対する後世の批判は、補論に対して集中しており、論文全体が不問に付せられることとなった〔p.519〕という。その補論は、太陽系における惑星同士の距離が等比級数状となっているとの主張を、思弁的に展開するものである。ニュートン力学に対するヘーゲルの誤解・難癖は、ほかにも本文中に複数を認めることができるが、それらは、現代の中等理科教育を修めた者からすれば、何とも据わりの悪いものである。万有引力による円運動における慣性力の方向が円の接線上、進行方向であるとする誤り〔p.329〕は、訳注にも指摘されており、これは翻訳書のミスを引き継いだものではないかと、村上氏は解説している〔pp.389-392の訳注34〕※1。また、完全に誤りとまでは言えないが、天体の質点を仮構的な存在とするモデリングの有用性を一旦は認めながら〔p.324、注20〕も、ニュートン力学が力を分割して考察するという方法を否定する辺り〔pp.327-329〕は、およそ、整合的な態度ではない。ヘーゲルがいかなる合理的な理由に基づいてこのような記述に至ったのか、私には(、モーメントを意図していたの?などと、適当には理由を予想できるものの)、その思考を追い切れない。

本ブログが考えるヘーゲルの失敗の理由は、もちろん、高校物理に係るものではない;ヘーゲルは、実のところ、フリーメーソンのグランドマスターでもあったというニュートンに対して敵意を有していたために、ニュートン力学に対しても個人攻撃を試みるあまり、『プリンピキア』に対する誤読が甚だしく、突飛な補論についても、自己検証を欠いたのではないか。これが、下衆(である私)の勘繰りというものである(。つまり、これが、ヘーゲルの誤りの原因として、採用可能なアブダクションの一つである)。以前も触れた(2017年8月28日)が、改めて考えてみ(て、一部の内容を微妙に変更す)ると、弁証法が提唱された事情について、彼が単なる走狗であった場合、(昭和の)仮面ライダー的なキャラであった※2場合、国際秘密力集団とは無関係ながらも弁証法のアイデア自体が偶然に一致した場合、という三通りを、仮想的には考えることができる。本記事に見たヘーゲルの誤りは、このうちの残念なものが真実であったという可能性を高めている。とりわけ、先に言及した補論の内容は、現代においても有神論的な神秘主義者が良く主張する種類の宇宙観に良く類似する。悪感情と先入観に基づき、先人の思考を追っているからこそ(、私がヘーゲルの思考を追い切れないのと同様に)、ヘーゲルは、ニュートン力学の全体を捉え損なったのではないか。ヘーゲルの思考のうちに、オカルトが入り込む余地は存在しなかったのか。

このような読み方は、真面目に科学史に取り組んでいる研究者たちにとって、迷惑この上ないことかも知れないが、これでも私は、組織犯罪・権力犯罪における最重要事例の歴史を追究しているつもりである。国際的な権力ネットワーク(=国際秘密力集団)の存在自体は、現代においては、間違いなく真である(と、私は考えている)。ただ、その歴史と悪意の範囲がどこまで広がりを有するのかについては、人により見解が異なるようである(。ただ、いわゆる啓蒙時代における西欧貴族社会や、西欧の秘密結社のうち、著名なものについては、その内実が闘争か協力かを問わなければ、これまた関係が深いものと確実に主張できそうである)。彼らの影響力の範囲を大掴みしておくことは、現代の様相を理解する上でも、必ず役に立つ種類の作業であろう。ただ、わが国の倫理教育を見るに、高校までの教科書に留まる内容だけでは、この種の興味を満たすことはできない(。ただし、わが国の倫理教育は、国際秘密力集団の全貌を理解する上で、必要な内容を網羅している)。私が抱いている種類の疑いを確認するためには、疑いのかけられている人物について、原文と当時の事情に通じた解説書が必要である。日本語でこのような書籍に安価に接することができるということは、大変に恵まれたことである。逆に、仮に、この種の悪意を有する権力集団が現実のものであるとするならば、日本人の大多数は、世界の実相を理解するための材料を十分に手にしながら、みすみす、その機会を逃しているということになる。

#通常、好き嫌いという感情は、社会科学において言及すること自体を避けられがちであるように見える。しかし、この感情は、ヘイトについては主題として取り上げられるように、世界を動かす大きな要因の一つである。犯罪や戦争を考察する場合にも、必ず考慮されるべき要素である。STS研究においては、特定個人の他者に対する好悪が科学研究という活動に影響するという可能性は、考慮されているのかも知れないが、この話を前面に押し出した議論を展開し過ぎると、自らの土台を掘り崩すことにもなろう(。ラポールと社会的身分は、どの研究でも重要である)。

もちろん、ヘーゲルの立ち位置についての私の疑いは、(私の中でこそ、鉄板レベルであるが、)仮説に過ぎない。ただ、神意によって(←適当)惑星が等比級数状の距離で分布しているなどという考え方は、自然科学に馴染んだ者であれば、当時の思考水準であっても、一蹴できそうに思われる。当時の実態こそ私には分かりかねるものの、仮に、ヘーゲルが現役であるうちに、当時の知識人がこの論文に対する決定的な反駁を加えることが定性的に可能であったとすれば、この補論は、国際秘密力集団によって、ヘーゲルの裏切りを抑制するために加えられた一種の保険であったという場合をも可能性に含むことができる。自分でも、相当に猜疑心の強い理解であるとは思うが、現代における国際秘密力集団のリサイクル手法(2017年9月7日)を参照すれば、可能性がまったくのゼロという訳でもあるまい。逆に、自然科学の発展に比べれば、人々を脅す技術は、200年以上が経過しても、ほとんど進歩していないとも言えそうである。


※1 これは、一応、私にも一回目通読したときに指摘できたことであるので、訳注だけに頼らない形で提示しても構わないであろう。また、この誤りは、些末かつしばしば起こる誤りではあるが、飯山一郎氏の掲示板『放知技』における佐野千遥氏と「木枯し紋次郎」氏との論戦において、「木枯し紋次郎」氏が提示した誤り(リンク)と同種である。この誤りを佐野氏が指摘しなかったことは、佐野氏の古典物理学に対する理解の程度を暴露するものである。時の経つのは早いものである。

※2 いわゆる平成ライダーは、残念ながら、現在、小学館『ビッグコミック・スピリッツ』で連載中の『風都探偵』を含め、一番大事な構図を強調する姿勢に欠けているように見えてしまう。その重要な構図とは、人類の敵に育成された主人公が、人類という種に味方して、同族に立ち向かうというところである。


[1] G.W.F.ヘーゲル〔著〕, 村上恭一〔訳〕, (2013). 『ヘーゲル初期哲学論集』, 平凡社ライブラリー.


#本記事のファイル名については、市村操一氏の「Publish, or perish!「出版せよ、しからずんば死を」」, 『東京成徳大学臨床心理学研究』, 13,2013年.を参考とした。





2018(平成30)年1月27日追記

ニュートンとヘーゲルは、本人の器量を示すのに、うってつけの先人のようである;文春新書の池上彰氏と佐藤優氏の対談本『新・戦争論』(2014)[2]は、「新帝国主義」に係る佐藤氏の次の発言を掲載している。

〔p.243〕

外交面においては、ニュートン的な力学モデルです。すなわち力による均衡。新帝国主義国は、相手国の立場を考えずに自国の立場を最大限に主張する。相手国が怯み、国際社会が沈黙するなら、そのまま権益を強化していく。他方、相手国が必死に抵抗し、国際社会も「やり過ぎだ」と言う場合には譲歩する。それは心を入れ替えたからではなくて、譲歩をしたほうが結果として、自己の利益を極大化できるという判断によるものです。

これは、非常に古典的な力学モデルで、ある意味では、新自由主義的、新古典派的な市場モデルと似ています。強いて言うと、動学的均衡モデルに似ている国際関係です。そういうことを強調したいので、「新帝国主義」という言葉を打ち出したわけなのです。

この後、佐藤氏は、カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』[3]の冒頭を引用しながら、世界大戦を避けるべく活動したいと抱負を述べる〔p.250〕。世界大戦を避けるという目的には全面的に賛同できるし、「新帝国主義」の時代であるという佐藤氏の説明には、先の説明の不確かさを除けば、納得できる。しかし、dynamic equilibrium modelの内容が何を意図しているのか、私にはとんと分からない。おおよそ、各国の力関係で交渉の内容が決まるということを意図しているのであろうとまでは分かる(。ある1つの物体に対して、互いに逆向きの2つの力を加えるということであろうか。そうであるなら、完全に2つの力が同じ大きさでない限り、力を加えられた物体は、どこまでも等加速度運動をしてしまうことになるし、力の向きが真逆でなければ、やはり合力の方向にどこまでも等加速度運動することになる(。これこそ、パートナーシップというやつである)。もちろん、ここでは、古典力学の範囲内で、意地悪になるように、モデルを想定してみている)。

この見当外れの比喩がなかりせば、佐藤優氏の主張をより受容しやすくなるのにと思う「理系」の皆様は、圧倒的に多数派ではなかろうか。もっとも、ここで提言された改善策(=物理学なり経済学なり、数学を利用する学問分野の喩えを用いて見当外れとなることを避けよ)は、実行されないものと予測できる。現に、佐藤氏の理系に係る記述に対して、多くの批判がインターネット上に見られるが、それらが顧みられた形跡は、佐藤氏の近著から読み取れない。

一例だけ、佐藤優氏が外野の批判に対して過剰とも形容できる形で反応した事例が存在するが、これこそが日本の論壇の不毛を象徴する事例でもある;金光翔氏による「〈佐藤優現象〉批判」である。論文自体の出来は、2007年往時の私には、真似できない高度な内容ではある(。良くできているために、金氏の論文は、宣伝工作の一種として、佐藤氏には認定されたのではないか。この疑いを、私は、捨てきれていない)。佐藤氏には、自身の執筆活動を「召命」と見做している節がある。この佐藤氏の使命感は、金氏の論文を、文字通りの挑戦として受け取る理由として機能したように思われる。国=日本語の言論界を守る戦いという訳である。金氏が事後に岩波書店を解雇された話は、それなりに知られているし、加えて、それ以後、インターネット上で、金氏が論客として活躍できているという形跡を、私は見付けることができていない。この点、佐藤氏の意図がいかなるものであれ、佐藤氏が出版業界に対して築き上げた彼自身の影響力は、日本語の論壇を豊かにしたものとは、私には思えないのである。加えて、佐藤氏自身が、自己の評判を維持するためにも自己の誤りを修正するという習慣を職業的に形成したとは読めない辺り、つまり、出版業界が佐藤氏を従来以上に支援しているとは見えない辺り、出版不況には、何らかの構造的な問題が潜んでいるとしか思えないのである。金氏を社会的に排除して生じた結果が論壇の不毛さを増したという批判こそは、実は、私が未完としていた昨年の記事(2017年4月26日)のトリに持ってくる予定の話であった(。このため、本記事を以て、先の記事の続きとさせてもらう)。

佐藤優氏は、両建て構造を日本の出版業界に打ち立てたが、その後の日本語の論壇は、結果的には不毛さを増した。この点を示唆するヒントとして、私は、以前の論考(2017年3月28日)において、孫崎享氏も佐藤優氏も読める日本語論壇こそが良い旨を述べたことがある。日本(語)の出版界は、道義的にも、経済上も、また国家安全保障上も、金光翔氏を発掘し直す努力を払う義務がある。佐藤氏が金氏を排除するよう要請した当時の事情も、その努力によって、一層明らかになろうというものである。


#蛇足であるが、近々言及するつもりの話を、一段落だけで言及しておく。

池上氏は、ジャーナリストとしては優秀であると思う。佐藤氏が「ジャーナリストの職業的良心に基づいて、一貫して行動する〔p.252〕」と評することは、正当であると思う。知識人としては、語らなければならないことを語るべきときに語っていないので、失格である。エドワード・サイード氏※3やハンナ・アーレント氏の主張やその顛末を考慮すると、わが国の大多数の学者・研究者は、何とも意気地のない人物で多くが占められている。ジャーナリストは、(取材源について、)語りたくないことを語らなくとも良いという例外を認められているので、ジャーナリストとして、池上氏が優秀であるとすることはできるであろう。なお、『新・戦争論』においては、私から見て大事と思えることは、ほとんどすべて、佐藤氏が語っている。


※3 年末年始に、『知識人とは何か』[4]を超・久しぶりに読み返した。内容をすっかり忘れていたものの、本ブログが同書の劣化コピー的な内容となっていたことに気が付き、恥じ入った次第である(。異なる環境下で、同様の結論・心情に達する個人がいたということは、サイード氏の主張が普遍的な内容を有し得ることを意味する。逆(=私の主張が一般性を有する)は、必ずしも成立しないが、していたとすれば、それは嬉しいことである)。和訳書の解説は、姜尚中氏によるが、最近のテレビ・コメンテータとしての氏から受ける無力な印象は、この解説を記した頃の気持ちを忘れてるんじゃね?とも見えてしまう。ついでであるが、アマゾンの書評に☆1つを付けた連中で、現今の構造的暴力について声を上げ、自分でケツを拭いた(=経済的に独立した)人物がいるとすれば、大変な驚きである。ま、そんな奴は、これらのアマゾンの書評者の中には、一人もいないであろう(。ここでの根拠は、アマゾンの日本語サイトにおいて私の知る顕名の批評者が小谷野敦氏くらいである、というものである)。これは、図らずも、日本国民の限界というものを示しているのであろう。言論や知識の正確性に対して責任を有している人物たちの、生活上の要請から生じた小市民(たいじんの反対語の意味での小人)振りが、わが国の生存に係る主要なボトルネックである。この点、西部邁氏は、自身の主張を通すために、アカデミック・キャリアからドロップアウトした時点で、東京大学の助教授という十分な肩書きを利用できたとはいえ、見習うべき経済上の経歴を辿ったのではなかろうか。これは、どのような理由があろうとも自殺がアホらしい行為であると思う私としては、精一杯のお悔やみのつもりである(。終末期の痛みを除くための麻薬なら、私は使用を認容する。あと、トランプ政権以後も西部氏が日米同盟を許容しなかった理由も疑問である。追々、調べる可能性はゼロではないが、私に言わせれば、知識が足りない)。


[2] 池上彰・佐藤優, (2014.11). 『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』, (文春新書 1000), 東京:文藝春秋.

[3] ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 - Wikipedia
(2018年1月26日閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB18%E6%97%A5

[4] Edward W. Said〔著〕,‎大橋洋一〔訳〕, (1993=1998).『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー), 東京:平凡社.




2018(平成30)年1月27日訂正

一部、事実関係に係る誤りを訂正した(というより、自己発見した)。




2018(平成30)年1月31日修正

一部、文言を修正した。

2018年1月2日火曜日

(メモ)安倍総理のゴルフ友達はお互いに仲が良いのだろうか

安倍晋三氏が平成30年1月2日に御手洗冨士夫・経団連名誉会長、榊原定征・会長、渡文明・JXTGホールディングス名誉顧問とゴルフした(07:38~14:55)と、時事通信は伝えている[1]。会場となった「スリーハンドレッドクラブ」(は、「政財界一流人300人だけの会員で組織されている」とのことである[2]

私は、先のトランプ大統領訪問時の安倍氏のゴルフ接待を想起して、安倍氏が本当に仲の良いのは誰か、日本国民をどこに導くつもりか、を訝しんだ。安倍氏は、「財界天皇」(笑)と米大統領との間でバランスを取ることに苦心したのかも知れないし、双方の顔を立てることに簡単に成功するような人たらしなのかも知れない。「全員、元からグル」というオチも、あり得ることではある。松山英樹氏の本日の成績は、思わしくないようであるが、昨年11月の松山氏の接待は、日本国民にとって、大変に有難い功績ではある。

仲の良さを測る指標として、食事の回数の多さや一緒に過ごした時間の長さは、間違いなく利用できようが、それでも、ここでの予測については、そのまま利用できる情報ではない。食事回数及び一緒にいた時間の長さは、仲の良さとは、間違いなく正の相関関係を有しよう。つまり、長く付き合い続け、一緒に食事する回数が多ければ多いほど、仲が良いのであろう。しかしながら、今回のプレイ時間の長さは、1ラウンドという材料を与える情報に過ぎない。今回の「接待ゴルフ」に係る背景・文脈が分からなければ、結論は出せない。

どちらの側から誘ったのか、何を話したのかは、もちろんヒュミントの領域であるが、日本語を話す一般大衆(、ほぼすなわち日本国民)の大多数は、特別な伝手によらなければ、この情報を得ることは適わないであろう。理想的なジャーナリストとは、この内実を推測できる手掛かりを、その報道に接した誰もが理解できるように、消費者に提供しようと努力する存在であろう(、とジャーナリズムに対するハードルを上げておこう)。しかしながら、BBC(による安倍氏の転倒の映像[3])以上にメッセージ性のあるニュースを、日本語主流メディアが放送することは、当面の間(、数ヶ月間程度は)、あり得ないであろう。もちろん、会話の内容を四名以外も耳にしたであろうが、その情報が利用されないことは、世界的なお約束ではある。


ところで、日本人(あるいは日本語話者)である我々は、2018年頭、世界が全体として良い方向へと確実な変化を続けていることを示す報道に取り囲まれてはいる。ただし、それらの情報を日本語主流メディアが消費者の利益になるように提供しているか否かは、別の話である。どれほど良心的な個人であっても、大マスコミの内部において可能な仕事(あるいは工作)は、たとえば、デスクであれば重要な記事を隣接して配置する程度がせいぜいであろう。「分かる者には分かる」程度の仕事が果たして消費者の利益になるのかという疑問をマスメディア従業員の良識派に突き付けることは、可能ではある。しかし同時に、この疑問を解決しようとした個人に対する制裁が苛烈であり、それに対する他者の支援が欠落しがちであることも、また事実である。この構造的な隘路が解決される条件が生じなければ、主流マスコミの走狗ぶりは変化しないであろうし、わが国でその条件が生じるためには、もう暫くの時間を要することにはなろう。


#数少ない本ブログの読者の皆様におかれましては、今年が幸多き一年となりますよう。


[1] 首相動静(1月2日):時事ドットコム
(2018年01月02日16時24分)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018010200112&g=pol

[2] スリーハンドレッドクラブ のゴルフ場詳細【GDO】
(2018年01月02日閲覧)
http://reserve.golfdigest.co.jp/golf-course/detail/372301

[3] Trump carries on golfing as Japan's Shinzo Abe falls into bunker - BBC News
(2017年11月10日)
http://www.bbc.com/news/av/world-us-canada-41939359/trump-carries-on-golfing-as-japan-s-shinzo-abe-falls-into-bunker