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2018年7月11日水曜日

(私事)プロフ写真を変えてみた

プロフ写真を変えてみたが、ゾンビものに詳しい読者なら、この写真が羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』(2016年11月, 講談社)の冒頭シーンのコスプレだということに、気が付かれたかも知れない。あのシーンを再現するなら、俺でも行ける!とか思ってしまったのである。慣れない『GIMP』を利用して、タッチパッドで適当に作業しただけなので、作り込みが甘いのは、やむを得ない。ただ、必要なだけの雰囲気は、出たものと思う。

私は、周りへの迷惑を顧みることなく、また、激変するわが国の状況を後世に向けて的確に説明することなく、案外、生ける屍としての暮らしを楽しんでいる。今後とも、噛まれたりすると、感染してしまうような思考を重ねたいと思いながらも、いくつかの制約のために、現今の災害については、言及することができない。私事に注力して記述を厚くしているのは、そのような事情もある(。いかなゾンビのような私であっても、自分の食い扶持位は稼ぐだけの権利を有している)。


陰謀論者の大勢は、最近の立て続けの災害を、ショック・ドクトリンの一種として捉えるであろう。ただ、私は、陰謀論者の意見の大勢が示唆するように、気象操作を実行した連中について、わが国の権力を掌握した側にいる、とは考えない。わが国の現政体を支える中核である武官組織にとって、災害の惹起によるショック・ドクトリンは、文字通りのマッチポンプとなってしまうからである。他方で、現今の災害に対して、異常に感度高く行動している人物たちに注目すると、仮に、これらの災害が人為的に発生させられたものだとしても、その目的は、権力奪取にあるのではないかと観取することができてしまう。現今の政界に類似した事例として、阪神淡路大震災後の村山富市総理に対する批判の盛り上がりを想起すべきであろう。1995年当時、政権と武官組織とは、対立関係にあったと言えるのではあるが。

なお、現今の災害についてのこれ以上の言及は、私にとって、リスクとなるために避けるべきことである。普通の人間よりも、私は、インサイダーと見做されてしまう種類の過去の業績を有する。わが国を取り巻く状況と、政策上の含意を解説すると、狙ったように、「風説の流布」と言われたりする可能性がある。この一方で、私は、別の観点から、もう少し前から、自身のポジションを(平和主義に基づいたつもりで)形成してしまっており、現今の災害によっても影響を受けている。私のポジションについては、『週刊プレイボーイ』の記事[1]における国際法学者の金惠京(キム・ヘギョン)氏の話を参照されれば、おおよそ、読めるものではないかと思う。

ただ、本稿でも、地価に水害へのリスクが織り込まれていることだけは、指摘しておきたい。住宅価格は、低湿地にあると、ざっかけ1割程度も安くなる。このため、わが国においても、経済的弱者ほど、災害の被害を受けやすくなるという社会構造が存在する。東日本大震災後、各自、水害ハザードマップを確認しろとの報道が度々流されたことも事実であるし、避難勧告の意味合いも一応解説されてきてはいる。これらを考慮して、今回の被害を、自己責任のものとして切り捨てるのかは、読者諸賢の考え方次第である。この社会構造は、カトリーナやリーマン・ショックによる被害を想起すれば、日米で共通する。(個人的な抜駆けによって解決を図るのではなく、)社会的な取組(例えば、金融教育・災害対策教育の組合せ)を通じた貧困の解決は、ショック・ドクトリンの効果を低減しつつ、同時に、マクロ経済を刺激する上でも役に立つ。


[1] トランプ発言「北朝鮮の非核化費用は日韓が負担」...で日本が存在感を高める大チャンス? - 政治・国際 - ニュース|週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]
(2018年06月22日、取材・文/田中茂朗 撮影/細野晋司
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2018/06/22/106492/




2018(平成30)年7月13日追記・訂正

本文の意図を変更しないよう、文面を訂正した。

本文中で示した私のポジションは、田中宇氏の有料記事でも解説されていた。念のため、私は、田中氏に先立ち、自身のポジションを形成していた。また、良く調べもせずに、自身のバスケットを関連分野で拡げた挙げ句、妖怪ジェットコースターと呼ぶべき現象に巻き込まれたのであるが、それはまた、別の話である。株式市場のメジャーな論調は、Aチームのもの(=日経平均2万7千円超え)であるが、この論調は、案外、田中氏の示唆するポジションに対しても親和的である。これらの議論に対して、拉致被害の解決が課題となっていることは、言うまでもないであろう。


[1] 北朝鮮に甘くなったトランプ
(田中宇、2018年6月15日)
http://tanakanews.com/180615korea.php

とはいえ、トランプ式の太陽政策は、朝鮮半島和平後の北への投資を、米国の企業が手がけようとするものでない。米国は、今後の北朝鮮の再建(核廃棄とその後のインフラ整備など)にカネを出さない姿勢だ。トランプは、北の核廃絶の費用を負担するのは日本や韓国だと言っている。日本では「カネだけむしりとられる」と狭隘・後ろ向きの見方ばかりだが、実のところ、核廃絶の費用を負担する外国勢は、その後、北の経済発展に投資して儲ける権利を得る。世界で最後の、発展する潜在性が豊富な未開発地域である北朝鮮への投資は、最終的に大きな儲けを生む。日本は、北の核廃絶の費用を出すと積極的に表明した方が、子孫の代に得をする。日本は間抜けなことに、この話に乗りそうもないが、その場合、韓国と中国が手がけて儲けるまでのことだ。日本は、今よりさらに落ち目の国になっていく。

2018年3月7日水曜日

(書評)大抵の大卒者は沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』を読むべきである

沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』[1]は、岩波ジュニア新書であるが、大半の日本人が一読すべきであろう。論文の要件(インテグリティ)、事実と意見の区別、事実の収集方法、自説の整理方法、文章作法(パラグラフ・ライティング、段落書き)、ゼミへの参加と指導、といった基礎的で網羅すべき項目が、コンパクトにまとめられている。ある日本人が大学を卒業した実力があると主張するためには、同書に示された内容を修得している必要があろう。とりわけ、商業雑誌に良く見かけるような、体裁の乱れた文章を書いている多くの「研究者」にこそ、熟読してもらいたい。

もっとも、新聞を重要な情報源とすべしとの第2章第2節は、巧妙なウソとして誤読される可能性を持つ内容となっている。端的には、

しかし、新聞は、ジャーナリズムのルールに従って、事実と認めてよいと記者と編集者が判断した事柄のなかから、人びとに伝える価値があると認められるものを選んで記事にしています。〔…略…〕

という記述〔p.46〕は、現時点の典型的「ジャーナリズム」に対する誤解を避けるためには、「ジャーナリズムのルールなるものが金主の意向を反映するあまり、伝える価値のある事実を欠落させていることもある」旨の記述にまで、非難の調子を強める必要がある(。もっとも、この書籍に対して、ここまで啓蒙的な役割を求めるのは、期待し過ぎというものかも知れない)。

以上に見たように、新聞に係る記述の恣意性は認められるものの、沼崎氏の書籍は、たとえば、木下是蔵氏の『理科系の作文技術』[2]と比べても、段違いに有用である。私がかつて大学の学部生であった頃(平成6年度)、木下氏の著書は、大学生協に平積みにされており、私は、推されるままに同書を購入した。その後、同書のおかしさに対して、最近まで気が付かずに過ごしてしまったが、仮に当時、沼崎氏の書籍に先に触れることができていたならば、文章作法については、無駄な努力をせずに済んだかも知れない。というのも、木下氏は、段落の重要性について触れてはいる〔4章〕ものの、同書自体は、段落書きが徹底されていないからである。木下氏は、実のところ、段落書きの効用を十全に考察してはいない。というのも、パラグラフ・ライティングされた書籍は、速読に不慣れな読者の読書スピードを増加させ、結果として彼らの利便を増進するからである。段落書きされた文章は、この点、消費者本、消費者主権主義である。木下氏は、前掲書の第1章で主張していたほどには、読者の都合を執筆時に考慮していなかったと批判できよう。

木下氏の著書は、案外無視できないほどに広範な負の影響を、日本語論壇に与えているやも知れない。稚拙な文章の書き手が偉くなり、しかも多数派を形成しているとき、ろくでもない文章を読み落とした責任は、読者の側に押し付けられてしまう。読者が作品に不満を持っても、作品が低質であるとの認識が共有され、これらの作品を超えようとする良質な書き手が現れなければ、言論市場は変化する機運を持たないであろう(。この点、文芸作品の質には、恐れ入るばかりである。面白い作品が市場に溢れている)。木下氏は、段落書きの効用を将来の書き手に分かりにくく伝えたことにより、思わぬ負の影響力を日本語環境に対して発揮してしまったが、もはやこの世にいない。遺族にとっても出版社にとっても、売り続けることしか、この書籍から利益を引き出す方法がない。ここに、学術書についてのボトルネックがある(。この話は、ノンフィクションやエッセイについても、該当しうる)。

賞味期限が存在するにもかかわらず、著者によって引導が渡されなかった書籍は、ゾンビのようなものである。50年前なら50年前の事情を読み込んで(、一部に見られる表現によれば、「情報を抜いて」)、その書籍に当たれば良い。当時の事情を調査する必要のある学者やジャーナリストであれば、それらの書籍にも、遺物としての一定の価値を認めよう。しかし、商業原理ゆえに賞味期限切れの書籍が売り続けられるとすれば、ここで文章作法について見たように、日本語環境全体を汚染するという思わぬ副作用を生む。汚染された環境は、汚染された書き手を再生産する。汚染された多数の書き手は、特定言語の人間社会を停滞へと陥れる。この自家中毒は、ゾンビ・パンデミック(大流行)と呼んで差し支えないであろう。例外として、ビジネス書やソフトウェアの解説書、自然科学に関する書籍が挙げられよう。これらの書籍に賞味期限が存在することは、ほぼすべての読者に理解されているであろうからである。言論環境までを考慮したとき、出版社は、自身のビジネスに後ろ指を指されたくないのであれば、後継者の発掘と指導までを含まなければならないのかも知れない。この点、残念ながら、日本語という情報環境は、ゾンビ・アポカリプス(黙示録)後の世界にある

木下氏のダメ紙上講義の瘴気に当てられた実例としての私にも、読者としての責任のいくらかはあるが、木下氏の書籍を長く流通させた社会的構造に対しても、多少の恨み言をぶつけても構わないであろう。というのも、最近、エーリッヒ・フロム氏の著作を改めて能動的に読み進めてみるにつれ、『自由からの逃走』やその続編にあたる『正気の社会』については、段落書きが徹底化されてはいないものの、(木下氏の著書に先立つ)中後期の著作においては、エッセイであっても、完全な段落書きが実現されていることに気が付いたからである。教えてもらっていたならば、明らかに気が付けたであろう、という程度の明瞭さである。通常、私は、新書をベタ読みするのに2時間程度を要していたが、同程度の分量である『反抗と自由』などは、15分くらいで段落読みできるようになっている(。もちろん、飛ばし読みであるが、的確に飛ばし読みできるようになったと自覚できている)。

パラグラフ・ライティングという文章作法を信用することは、二点の理由から、リベラル的であると言える。まず、この言論システムを信頼することは、個人の野放図な論説の制作という自由を制限するが、システムに対する信頼そのものは、社会契約説を参照するまでもなく、リベラルであると言える。次に、論説における段落書きは、「この作法を知る読者」すなわち他者を思いやることにつながるから、ロールズ風のリベラルでもある。パラグラフ・ライティングが言論界で貫徹されていれば、言論人同士の誤読・誤配は少なくなろう。また、つまらない外野の声を雑音化することにも役立とう。「つまらない外野」の中には、文章作法のなっていない論者も含まれるということになる(が、そこは、論者自身が修正すべきことである。誰でも発信可能な時代において、「知識人」という旧来の権威が相対的に無力化されることは、避けられない)。

他方、日本のように、公用語の影響力が自国内に限定された国家においては、段落書きされた文章表現は、社会集団が効率よく情報を吸収できるという観点から、社会防衛主義的であると言うこともできる。わが国の事情は、ドイツやイタリアといった、遅れてきた帝国主義国家においては、共通するものであろう。旧植民地においては、高等教育が英語で行われる状態が標準的となっている。皆が統一された読書術・文章術を修得していれば、文章を効率よく、かつ的確に理解することが可能となり、結果、議論の正確性も向上しよう。そうであるべきところ、しかも日本語論壇に舶来ものをありがたがる風潮があるにもかかわらず、なぜか、文章作法だけは、未熟な状態に留まっている。自称「保守」や「国家主義者」の著者の大半が段落書きできておらず、その理由についても言及していないことは、社会防衛主義者から見たとしても、お粗末な事態である。この事態は、「保守」や「国家主義者」の大半がマウントを取りたいだけの権威主義者に過ぎないのではないか、という疑いをも抱かせる材料でもある(。もちろん、本稿は、「正しい知識」という観点からのマウント・ポジション狙いのものである)。

私は、効率的かつ効果的な読書体験を、日本語話者・日本人の生き残りに役立つものと考える。民族のサバイバルには、非常に広範な分野に散在する知識を集成し、知恵(知性)へと変化させることが必要となる。段落読み・段落書きは、各人が実践すれば、社会において、その作業効率が指数関数的に高まるという集合的効果を生じよう。また、段落書きされた文章は、国際秘密力集団の手口に通暁した上で、日本人に対して的確な助言を提供している人々の所在を示す手掛かりとなるやも知れない(。敵方もパラグラフ・ライティングされた書籍で効率的に学習している以上、民族独立の意志と知識との両方を兼ね備えた人々が、その知恵を伝達しない訳がない)。

ただし、読書体験の向上した社会に何が生じるのかは、私には分かりかねることである一方で、羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』[3]は、この帰結に対するヒントを与えているような気がする。同書は、ゾンビ物の例に漏れず、群像劇となっている。そのうちの一人、ビジネスマンの「浩人」は、映画を早送りで見るといった「時短」を習慣とする。彼は、ゾンビ映画を時短で見た後、ネットで他者の感想を検索・確認した上で、自身の感想を大勢のものへと修正する。挙げ句、関連事項を次々と検索し続け、時短で節約した45分間を浪費してしまう〔p.73〕。この先は、ネタバレとなるから、オチは、同書に譲ることとしよう。


[1] 沼崎一郎, (2018.1).『はじめての研究レポート作成術(岩波ジュニア新書865)』, 東京:岩波書店.
http://id.ndl.go.jp/bib/028725437

[2] 木下是雄, (1981.9). 『理科系の作文技術』, 東京:中央公論社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000001522014

[3] 羽田圭介, (2016.11). 『コンテクスト・オブ・ザ・デッド = CONTEXT OF THE DEAD』, 東京:講談社.
http://id.ndl.go.jp/bib/027697574




2018年7月27日20時27分訂正

一部の表現や誤記を訂正した。

2017年10月26日木曜日

『FOX BREAK』に見る「和式」IR施設への期待感

2017年10月23日22時45分頃、『ウォーキング・デッド シーズン8』第1回のCM枠において、『FOX BREAK』と題する3分ほどの番組が放送され、「9月(22日か?)、帝国ホテルにおいて、日本のIR施設の制度設計について、セミナーが実施された」とのPRがなされていた。元観光庁長官・日本通運常務執行役員の井手憲文氏、日本MGMリゾーツ代表執行役員兼CEOのエド・バワーズ(Ed Bowers)氏、ギャラクシー・エンターテイメント・グループ日本代表の伊佐幸夫氏、の三名がコメントしていた。井手氏は、国土交通省海自局長から観光庁長官に抜擢されたという経歴の国土交通官僚OBでもあるが、2017年9月22日付の「日本のIRの制度設計について」というA4ペーパーを提示、セミナーの講師を務めたようである。バワーズ氏は、IR施設の導入が日本の観光産業を一体的に向上させるという旨をコメントしていた。伊佐氏のコメントは、(おそらく、マカオやシンガポールを念頭に置いているが、中国式のテイストとは異なる)日本ならではのIR施設を整備するという旨のものであった。

番組中のイメージ映像は、MGM RESORTS INTERNATIONALと銀GEG(銀河娛樂集團、GALAXY ENTERTAINMENT GROUP)の二社が提供していた※1が、そこに示された日本のイメージは、われわれ一般の日本人から見れば、日本らしくないものであった。とりわけ、MGMのクリップは、アメリカナイズされたジャポニズムという趣である。しかし同時に、その映像は、日本ならではのIR施設が成立する余地を暗に示唆しているかのようでもある。一般には、アメリカにおける正統派の日本趣味は、岡倉天心(岡倉覚三)氏の業績に良くも悪くも影響されていると言われている。IR施設における日本趣味に、この種の経路依存性が存在していても、何ら不思議ではない。日本人の自己イメージを日本国内のIR施設において実現・提供すれば、その「おもてなし」は、他国のIR施設とも十分に競争できる独自の内容になろう。

『キル・ビル Vol.1』では、ユマ・サーマン氏の演じる「花嫁(The Bride)」が、ルーシー・リュー氏の演じる「オーレン・イシイ」の一味と、お台場にある?『青葉屋』という料亭?で大立ち回りを演じるが、このような日本風の料理屋で色々楽しみたいという欲求は、「和式」IR施設でこそ、叶えられる可能性があろうというものである。もっとも、伝統的スタイル今あるリソースによって忠実に再現するためには、「博徒を先祖として、その「遺伝子」を適正に継承する組の全員を、足を洗わせた上で、組に丸ごとシノギを認可する」くらいの度量が、日本人に共有される必要があろう。大きく構えた表現を取ると、ある種の賭博を非犯罪化すると同時に、犯罪組織をも「包摂」するという方針である。ただ、こうなると、組織犯罪関連法との関係や、現実の利益をいかに分配するのかだけでなく、麻雀やゴルフはどうなるとか、ややこしい話が方々に波及しそうである。「暴力団を非犯罪化するなどとは、とんだ世迷い言を」と捉える向きもあるかも知れないが、「餅は餅屋」とも言うし、「非犯罪化」は、「規制撤廃」の一類型である。事実と可能性とをタブーなく指摘しておくことは、現実への影響が生起し得る社会科学を研究する者にとって、「李下に冠を正さず」の実践ともなる。


本ブログの読者にはクドいと思われるであろうが、(IR施設の全体ではなく、)カジノに係る最大の焦点は、カジノというビジネスが、一晩で勝てる金額の上限を定めないことにある。このマネロンに対する脆弱性が、世界の(列強)国から見て、安全保障上、許容されないと判断された場合、わが国の刑事司法の脆弱性を突く形で、批判が広がることになろう。この脆弱性を克服するためには、専門家の種別を限定せずに、論理的な内容であれば、厳しい内容を含む提言・批判を聞き入れた上で、検討を加え、必要な情報を適切に開示できる体制を整える必要がある。つまりは、公論を経る必要がある。

しかしながら、カジノそのものの仕組みと法制度については、このまま行けば、まず間違いなく、事業者主導で内密に決着が付けられるであろう。それが、ここ数年、わが国が開発独裁国家として歩んできた道程であり、今後も続く道である。この路線の継続は、2017年10月22日の第48回衆議院選挙によって、消極的にであれ、国民の承認を得たことになってしまっている。日本語マスコミが23日以後、さかんに「投票したい候補者が他にいなかったから、自公候補に投票した」という「町の声」を紹介しているのは、「承認を得た」との自民党・公明党関係者の解釈を無効化しようとする試みであるが、選挙という活動の結果を軽視しているのは、日本語マスコミの方である。IR特区についても、先の選挙がお墨付きを与えたということになっているからこそ、23日に『FOX BREAK』が放送されたのである。

念のために申し添えておくが、私は、高額賞金を可能とするギャンブル全般に対して、マネロン上の脆弱性を有するとの疑いを抱いている。IR施設のカジノ機能だけが、殊更に、批判の対象として取り上げられるべきではない。ただ、この脆弱性に対する考察は、昨秋以来、なかなか進んでいない。『日本プロファイル研究所』のウェブサイト上の記事の数々は、後追いし切れていないものの、(灰色から黒色の系統の)ジャーナリスティックな批判を、特定のギャンブルに係る信じるに足るだけの「状況証拠」とともに示すものである。なお、パチンコからの収益が北朝鮮に送金されているとする従来型の批判は、パチンコというギャンブルの仕組みそのものに脆弱性が内包されている、という指摘ではない。この問題は、「神は細部に宿る」話の典型であり、本来、利益相反関係なく、国民益を考慮できる複数の専門家が存立しながら議論すべき問題である。


しかし同時に、賭博というビジネスそのものを問うこととは別に、観光業全体に占めるIR施設の位置付けを構想し、他の観光コンテンツとの連携に伴う、隠れた課題を扱う※2ことは、国民益を増大させるという目的に適うことである。つまり、IR施設を単独で論じるのではなく、わが国の観光のあり方を俯瞰して、将来戦略の中にIR施設を位置付けることが可能か否かを論じることは、永田町や霞ヶ関に限定されない場において、必要とされることである。この点、バワーズ氏の先述のコメントもまた、否応なしに、国民の目にさらされ(た形式を取)る必要がある。この「意見周知」という機能こそは、『FOX BREAK』が放送された意義であると推認できる。

ただし、このような構想を語るにしても、井手氏の在籍する日本通運は、国際的な流通業における主要なステークホルダーであり、旅客業が潤うことから利益を得られるために、井手氏は、本来、業界人枠に含めるべき人選ではある。業界人が国益に立って発言することは可能であるし、その姿勢を堅持することは、公を語る上での必要条件であるが、非・利害関係者の積極的な承認を得なければ、業界人の側から、論議を尽くしたと一方的に主張することはできない。わが国では、業界丸抱えでない、ユーザ・消費者の利益を代表する公益団体を設立・維持する(ために、カネは出すが、口は出さないという姿勢を堅持する)という活動は、全体として見れば、CSRの一分野として定着しないまま、ここまで来てしまった。わが国における人工芝運動は、原発ムラの実例に見るように、拙劣な程度に留まり続けてきた。なお、ここで、わが国独自の人工芝運動とは、原発ムラの実例を除けば、仮構的な存在に過ぎない。実在する市民運動については、(刑事司法関係者の側から見れば、)党派色が拭えないとはいえ、リソースが制限されている中で、理想的と考えられるであろう結果との乖離はともかく、制限されたなりの社会的機能を果たしてきたように思う。


IR施設そのものを離れれば、わが国の観光上の問題は、わが国の(公共)空間体験が観光客にとって美的に満足できるものであるか否かという点に集約される。カジノの太客となるような、アートを解するハイソな観光客が満足できるだけの空間体験を、現在のわが国で実現するためには、私有地内に囲い込むという方策しか残されていない。都市部では、借景という概念は、言うまでもなく破綻している。京都の惨状を目の当たりにした上で、不動産価格と建設価格を考慮すれば、わが国の都市景観がともし難い状態に陥ったことは、誰の目にも明らかである。僅かに、足立美術館ほどに、ド田舎にあり、かつ、周辺ともウィン・ウィンの関係を構築しているトップランナー的な観光資源だけが、この概念を維持している。借景とは言えないようには思うが、MOA美術館も同様に、立地を生かしていたような覚えがある(。上に挙げた例は、私が直接体験したものに限定している)。ともあれ、借景までを考慮した場合、わが国では、バーデン・バーデンやバーデン・バイ・ウィーンのような、山間部のリゾート地が有利ではあろう。ただ、山間部の温泉地は、どこも露天風呂を用意する際に苦心しているようである。これらの現状を踏まえれば、わが国において、上流階級の太客をもてなすための条件を整える上で、土地利用の現況は、根本的な障害となっている。

お台場という都市空間を、浅田次郎氏の『カッシーノ!』[1]に紹介されるヨーロッパの諸都市と比べると、その残念さ加減が明らかとなる。(厳密には、お台場を通りはしないが、)東京モノレールや、(お台場を周遊する)ゆりかもめからの風景は、都内の沿線風景としては、比較的楽しめる。しかし、都市空間体験の全体は、カジノを抱えるヨーロッパ諸国における空間体験に比較して、数段落ちるであろう。あらゆる都市は、人類の営為の集積であるが、ラスベガスは、その中でも、環境を大規模に改変して建設された「人工都市」である。お台場も、何もないところから作り出されているが、ラスベガスと比べると、「夢の島」とは呼べない程に、都市空間としてスカスカである。表現は悪いが、お台場には、都市の魅力を作り出すという努力が不足している。専門的な表現になるが、わが国で、スーパーブロック(長大な街区)の非人間性を体験したければ、お台場を徒歩で一周すれば良い。たとえ、青島幸男氏が都市博を中止しなかったとしても、空疎さを埋め切れなかったであろうところが、わが国の「都市計画」の所掌する分野の(、ただし「都市計画」と称される専門分野に限定されるべきではない、)構造的な課題を示している。IR施設の候補地とされている横浜市や大阪市の沿岸部の方が、観光資源としては、多少マシである。横浜や大阪の方が、夜景を楽しめる余地がある。横浜の夜景については、説明が不要であろう。大阪については、現今の「工場萌え」を考慮すれば、関空からのリムジンバスルートは、他国のIR施設に比較しても、工業立国であるわが国らしい、楽しめる風景を提供できるものと思われる。お台場は、首都高湾岸線を自走した経験がなく、記憶に乏しいので断言しかねるが、少なくとも、大量輸送が可能な公共交通機関については、風景の醜さを一考する余地があるとは言えよう。首都高を二階建てのオープンバスで走行するというツアーは、例外的であるが、インフラ維持という観点から、50年後も同様の体験を安全に実施できるかと問われれば、甚だ怪しいものがある。50年後の将来、同一ルートのツアーは、別の意味でスリルのあるものとなろう。レンタカーへの自動運転機能・運転補助機能の実装は、外国からの観光客のモビリティを大幅に向上させるであろうが、普及までにもう5年は必要であろうし、何より、わが国の都市空間は、景色の良さを楽しませるだけのコンテンツに不足している。

浅田氏は、

唯一ヨーロッパの鉄道がJRよりすぐれている点は、車窓の風景である。〔p.254〕
[1]と述べているが、わが国では、都市空間がスプロール(無秩序に延伸)しているために、交通体験としての鉄道路線沿線部の風景は、延々と醜悪な光景が続くだけである。新幹線の路線の大部分も、新幹線自体が騒音によって邪魔者扱いされている(NIMBY; Not In My BackYard)ために、その潜在力を発揮し切れていないと断定できよう※3。この結果は、JRが国営企業であったという経歴と、その時期に構想された新幹線計画なるものをふまえれば、当然のものかも知れない。ただ、沿線一体型の開発がなされてきたことを考慮すれば、わが国の私鉄沿線の風景も、心象風景としてはともかく、具体的な見た目については、お世辞にも心地よいものとまでは言えない※4。別方面のオチとして、ひと頃、二反長音蔵氏の尽力の甲斐あって、大阪北摂地方の鉄道沿線には、一面のケシ畑が広がっていた...という感じの記述が、倉橋正直氏の『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』[2]辺りに含まれていたのではないかとも思うが、記憶違いの可能性が高いので、出典はいずれ確認するとしても、鉄道路線の風景に対して、わが国が色々な観点から無頓着であるのは、伝統芸である。

鉄道写真家の中井精也氏は、NHKの番組などで様々な鉄道路線を紹介しており、そこで紹介される写真は、流石、プロの技と思わされることしきりではある。しかし、ここでの問題は、「玄人はだしである鉄ちゃんたちが、プロの技に習い、上手な写真を撮ることができる環境であるか否か」ではない。「シロウトである外国人観光客が乗るだけで楽しめて、しかも、また来たいと思える鉄道路線であるか」である。これらは、似たような話題を扱ってはいても、ターゲット層も、カネの回り方も、異なる話である。


もっとも、既存の観光資源に対して、都市改造のような、大掛かりで巨額の経費を必要とする改善が必要という訳ではない。たとえば、アレックス・カー(Alex Kerr)氏の『ニッポン景観論』[3]は、アルファベットしか読めない観光客にとって、火気厳禁の看板が誤解を招くものであることを指摘している。この分野に興味のある人物であれば、同書は必読書である。ともあれ、小さな気遣いと改善を、相当程度・多くの事象について進める必要があるのが、わが国の都市空間の現状である。小さな改善と、大きな構想との両方が、必要とされている。


利己主義に起因する猥雑さこそが、現代日本の都市空間を規定しているという指摘は、多数の論者によってなされているが、真理の一面を衝いてはいる。1%だけが好き放題しているだけではなく、99%も、それぞれの器の大きさに応じて好き放題した結果、混沌とした都市空間が生じている。とは言っても、大規模建築物において利己主義が貫徹されていることの方が、風景としての大都市を毀損する上で、寄与が大きいことも確かである。わが国の密集市街地の大半は、リオ・デ・ジャネイロのファベーラ(いわばスラム地区)のように、パルクール※5やマウンテンバイクに適した傾斜地ではないから、観光資源としてゴミゴミした眺望を売りにする上では、東京スカイツリー・六本木ヒルズ・あべのハルカスのような、過剰な高さが利用されることになる※6。また、これらの高さという資源は、ニューヨークなどと同様、徹底して民営化されつつある。この傾向は、通天閣・東京タワーの時代から変化せず、京都タワーが物議を醸し、京都駅が止めを刺した。これらの事件に比較して、いち庶民の建築物は、思想上、ほとんど影響しなかったと考えて良いから、やはり、大規模建築物がわが国の建築の風潮を決定したと考えて良かろう。なお、時機を見て、どこかで、アイン・ランドや天守閣の話を確認した後に、追記する予定である。本段落のここからの記述は、仮説である:天守閣は、天空に神のいないわが国において、櫓・権力の二つの機能を兼務するものに過ぎないが、高層ビルが、ゴシック建築に代表される天空=神の座所への反逆であった点については、『反・東京オリンピック宣言』において、説明されていたか否か、疑わしい。必ず、建築(評論)家の誰かが、真理としての神への反逆に対しては、言及しているはずであるが、アイン・ランドの著書がこの点において反抗的=悪魔的であるという点については、言及が抜けている可能性が認められる。

他方、巨大建造物によるスカイラインは、マンハッタン島を想起すれば直ちに了解されることであるが、本来ならば、観光資源となり得る。しかし、一時期までの丸の内や銀座、横浜のベイエリアや新宿副都心の一部を除けば、このことは、さほど考慮されていないし、丸の内や銀座については、秩序が破壊される傾向にある。銀座の歌舞伎座が高層化されたという経緯は、ほかの事業者とは異なり、文化事業に携わる者の根幹を問うものであったという点で、一層、興味深いことである。ともかく、わが国では、スカイラインが都市全体でいかなるものに見えるのかが自発的に考慮され、秩序が自生的に形成されるような機能が、社会にも制度にも埋め込まれていないし、増床に伴う賃料の増加という「目に見える金目」の前には、将来価値を生むかも知れないという、美的感覚に基づく期待感など、まったく顧慮されないのである。山本豊津氏が現代美術について指摘する「価格=交換価値」と「(使用)価値」との違い[4]は、風景という対象についても、適用可能な概念であると思われる。この点は、ニューヨーク市のスカイラインを想起すれば、納得できよう。日米両国は、同じゾーニング制を都市計画の基本とする(運用実態は大きく異なるが)とはいえ、マンハッタン島という土地条件に強く規定されている分、ビッグ・アップルの方が、風景の印象を強めることに成功しているのである(。この指摘も、対岸となる地区、ニューポートやブルックリンの再開発が進めば、成立しなくなりそうではあるが、ブルックリンの再開発は、人種問題もあろうから、なかなか制限もしにくいであろう)。

東京スカイツリーの巨大さは、東京の建築物の中でも群を抜いており、異様と呼べるほどである。羽田空港から離陸する旅客機の窓から覗くと、スカイツリーは、大手町・丸の内・有楽町周辺や、新宿副都心といった既存の中心市街地と比べても、ひときわ大きなものである。そのスケール感は、ほかの建築物から遊離した巨大さで、見る者を圧迫する。一個の人間が認識できる範囲を巨大な事物が超越する状態は、ビッグネス(bigness)と呼ばれているが、スカイツリーのビッグネスは、ほかの大規模建築物と比べても、際立つものがある。

スカイツリーの高さそのものは、テレビ塔として関東平野一円を望むという点で、建設事業者にとって、改変できない所与の要件であった。しかし、これだけ通信手段が多様化した現在、テレビ番組を放送する上で、地上波にこだわる必然性はないはずである。テレビ事業者としては、ワンセグも含め、緊急時の速報性にこだわったために、地上波が温存されたと言われるが、速報性が必要な事象に対しては、ラジオで十分ということはなかったのか。音声だけ、別帯域で放送する仕組みはあり得なかったのか。ともあれ、地上波が必要という揺るぎなき前提が立てられ、その上で、スカイツリーの建設地が選定された。さいたま副都心はおざなりにされたが、同地にタワーが建設されたとして、人が今ほど集まったかどうかは、保証の限りではない。ともかく、スカイツリーは、押上・業平橋駅周辺の防災拠点として、また、東京都の新たな観光拠点として機能しているが、風景の中では、墨田河畔のウンコモニュメント(、制作者本人が同意したという都市伝説を聞いたことがあるので、こう明記しても構わないであろう)と同様、突出した違和感を与えうる存在である。良くも悪くも、放送事業者の地上波のゴリ押しによって生まれた鬼子が、スカイツリーという訳である。

東京スカイツリーの巨大さが観光資源としての東京の風景を毀損している可能性を指摘し、また、600mを超える高さの必然性が放送事業者の都合によることを指摘できたので、ようやく、本稿のオチに入ることができる。ひょっとすると、ケーブルテレビ(だけ)でIR施設が推進される裏には、「IR施設は、わが国に上客を呼び込むための観光資源の一つとして機能しますよ」と呼びかけると同時に、「ケーブルテレビは、都市景観にも優しく、外国人観光客にも多様な番組を提供することができるという点で、地上波よりも優れていますよ」とも囁きかけるという目的が潜められているのではなかろうか。ケーブルテレビ愛好者こそは、多様性を享受せんとする存在であるがゆえに、地上波という暴力的専制に対抗する存在となり得る。スカイツリーという「一つの(電波)塔」に使嗾される「地上波ゾンビ」に対するは、「ネットワーク」を愛するプレッパーたちである(が、その中には、『ウォーキング・デッド』シリーズに登場する『救世主』たちのような、ナチスを彷彿とさせるような、全体主義的な連中も含まれよう)。もっとも、本件は、『指輪物語』に倣い、「オークどもに対峙する「旅の仲間」ということになるやも知れない。読者には、これらの比喩が唐突すぎて、到底、この構図を受け入れてはもらえないかもしれないが、筆者としては、オチが付いたつもりになったので、これでおしまい。


※1 「協力 JTRA」とあったが、これは、おそらく、特定非営利活動法人 ツーリズム研究機構[5]であろう。ただし、直接確認することは、本ブログの広告活動になりかねない(し、あるいは、右翼の街宣活動と同種の効果を持つ活動と誤解されかねない)から、行わない。

※2 他の論点として、巷の話題に上がりにくい例として、犯罪に関わる分野として、性風俗営業の一形態としての同伴営業を挙げることができる。同伴ビジネスというものは、大々的にお目こぼしはされているが、性規律に厳格な立場からすれば、むしろ、積極的に問題視しても良い種類の営業形態である。しかも、観光に付随する話となれば、通訳業や介護業との兼合いはどうするのかとか、色々と攻め所を考えつくことは、可能である。

※3 北海道新幹線と、九州新幹線の一部を除けば、全路線を乗車した経験に基づき、指摘しておく。「見るべきポイントをあらかじめ知った上でなければ楽しめない景色」というものは、旅行客にとって、ハードルが高すぎる。『インスタグラム』などを通じて、例えば、高尾山の猿などのように、海外からの観光客を呼び込む資源は、次第に知られつつあるようではある。しかし、これらの「発見された観光資源」は、どちらかと言えば、自然発生的な個人の活動に起因するものであって、キュレーション活動が意図的かつ組織的に展開された結果ではない。正確に言えば、文化に携わる人々に社会がカネを投じた結果ではない。その結果、観光資源は点在するに過ぎず、自然と生じるはずの複合的な観光体験というものは、個別の観光事業者のキュレーション抜きに、存在し得ていないのである。(「何をせずとも、ゆっくり観光するだけで何かしらの発見があり、旅行者を満足させることができる」という状態が、理想的であろう。)

先進諸国は、自国の観光資源を「面」となるように、文化的な制度を展開するという市民的な運動を、半世紀以上も先行して実施している。日本国民のあらゆる層に対して、このような大局的な観光戦略に(意図せずに)寄与するような意識は、意図的に養成されてはいない。逆に、「何でも金目」というメッセージは、あらゆる場面において、語りかけられている。たとえば、「クール・ジャパン」の現場を支える人々の収入は、まったくクールではないが、これを天下り先と定めたお役人だけが私腹を肥やしている。多くの外国人観光客に対して、わが国が「一度来れば十分」という観光資源しか用意できていないとすれば、それは、ここに示した理由が主原因である。この根の深い原因を改善しないことには、放送事業だけでなく、観光事業についても、わが国は、結果として見れば、焼き畑農業的にしか将来を構想できていないことになる。

※4 小林一三氏が編み出し、阪急に適用した私鉄の開発方式、つまり、都心と終点の双方に集客施設を用意するという方式は、それ自体、偉大ではあった。しかしながら、わが国の都市・建築規制に係る野放図さは、芦屋などの一部住宅街を除けば、人間の生活行動が観光資源となるという状態を生成・維持することに失敗したと断定できよう。

※5 都市内をアクロバティックに駆け抜けるスポーツ。このスポーツを疑似体験可能な『Dying Light』には何度か触れた(日)。

※6 東急東横線は、代官山駅より横浜手前までの区間で、北(西)側(渋谷方面行きの場合、進行方向に向かって左手)を向いていれば、昭和前期までに海岸段丘に形成された高級住宅地をいくつか望むことができるが、マンションに隠されがちであるし、経緯を知っていなければ、面白く見ることすら難しい種類の景色ではある。


[1] 浅田次郎〔著〕・久保吉輝〔写真〕,(2003.6).『カッシーノ!』, 東京: ダイヤモンド社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000004170745
#同書の目次は次のとおりである。

訪問地章題ページ
  プロローグ
1
Monaco1モナコの伯爵夫人
7
Monaco2ギャンブラーの聖地19
Monaco3誇り高きクルーピエ31
Monaco4偉大なる小国家43
Nice5リヴィエラの女王55
Nice6花火とトップレス67
Cannes7アンティーブの古城にて77
Cannes8カンヌのナポレオン89
San Remo9サンレモの夜は更けて101
Baden Bei Wien10バーデンよいとこ113
Baden Bei Wien11ユーロ万歳!125
Baden Bei Wien12カジノは国家なり135
Seefeld13登山電車に揺られて147
Seefeld14タイム・イズ・ライフ157
Seefeld15アルプスのサムライ169
London16伝統と格式の鉄火場181
London17終身名誉会員193
London181億円しばりの密室205
Normandie19ノルマンディの妖精217
Normandie20博奕なるものあらずや229
Normandie21消費は美徳。倹約は罪。241
Wiesbaden22皇帝のシュピール・バンク253
Wiesbaden23ゲルマンの叡智265
Wiesbaden24名作『賭博者』の背景277
Baden-Baden25考えるドイツ人289
Baden-Baden26アメリカン・スタイルの正体301
Baden-Baden27遊べよ、日本人!313

[2] 倉橋正直, (2002.8). 『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』, 東京: 共栄書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/000003670348

[3] アレックス・カー, (2014.9). 『ニッポン景観論』(集英社新書 036V), 東京: 集英社.
http://id.ndl.go.jp/bib/025738252

[4] 山本豊津, (2015.10). 『アートは資本主義の行方を予言する 画商が語る戦後七〇年の美術潮流』(PHP新書 1009), 東京: PHP研究所.
http://id.ndl.go.jp/bib/026719224

[5] NPO法人ツーリズム研究機構(JTRA)
(2017年10月25日確認)
http://jtra.saloon.jp/




2017年10月27日19時35分、10月30日20時05分、追記・訂正

文意の通らない箇所を訂正し、若干の記述を加えた。

2017年10月11日水曜日

(メモ)内山節氏の『苺とチョコレート』評は『フアン・オブ・ザ・デッド』にも適用可能である

ゾンビ映画において、やはり地域性は人間の側に現れる

内山節氏は、『苺とチョコレート』というキューバ映画について、

社会主義的なシステムにも、その地域の歴史や風土が反映する。だから、『苺とチョコレート』にかぎらず、多くのキューバ映画がみせているものは、明るいカリブ海のざしと、ラテン的陽気さに包まれながら展開するキューバ的社会主義の様子である。官僚組織による芸術への統制と人間の自由という深刻なテーマを描いたこの映画のなかでも、登場するハバナの人々は、日々の暮らしを楽しみながらこの芸術家とともにある町を大事にしていた。〔p.204〕

と述べる[1]が、この内山氏の評価は、『フアン・オブ・ザ・デッド(Juan of the Dead, 2011)』[2]にも、おおむね適用可能である。「芸術家」を「ゾンビ」に変えるだけで、それなりのフィット感があるのではないか。2013年9月24日付のオフライン用のメモがあったので、内山氏の観察を補強するため、本稿に即して一部を修正しながら掲載する(。削除した部分は、コメント化してある)。

キューバ発ゾンビ映画のJuan of the Deadは、この点(、生活の質なる概念を考察するに当たり)、とても示唆的である。キューバ特有の「何とかなるわな」精神で、ゾンビ病の流行さえも「安らかにあなたの最愛の人を逝かせます」という商売にしてしまう。つまり、ある人間にとって、災害は、単に災害であるのみならず、福音にすらなりうるのである。もちろん、そこには、終末論者のような積極的に危害を歓迎する考え方から、この映画の主人公たちのようにチャンスを生かすという考え方まで含まれる。〔...略...〕

この私のメモは、以前の論考(2017年7月26日)では活用されていないが、その理由の第一は、私のズボラさ(と迂闊さ)によるものである。このキューバを舞台とした作品は、あまりにもキューバ感満載である。そのてんこ盛り感は、パラオを始めとする南太平洋の島々を想起させる『Dead Island』シリーズと比較しても、過剰という印象を与える(。コンピュータゲームのプレイ時間は、映画に比べて、数十倍のオーダーになる。このため、評論に際しては、ゲームが多くのイメージをプレイヤーに与えることが可能である点に注意を払う必要がある。また、蛇足となるが、ゲームを誠実に評論するには、1つのタイトル当たりで言えば、映画よりも多くの時間を必要とするようにも思う)。『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ(Wyrmwood: Road of the Dead)』[3]は、ギミックが多いためか、オーストラリアを感じさせる力は、どちらかといえば、そこはかとないレベルであった。このため、考察の際には、すっかり抜けていたのである。「漏れなく重複なく(MECE)」は、私の中では徹底されているとは言い難い。


#内山氏の生活感から来る哲学は、プレッパーめいたものを感じさせる。というのは、オチのつもりである。


[1] 内山節,(2015.8).『戦争という仕事』(内山節著作集14), 東京: 農山漁村文化協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/026616280

[2] Juan of the Dead (2011) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt1838571/

[3] Wyrmwood: Road of the Dead (2014) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt2535470/

2017年7月26日水曜日

(メモ)ゾンビものにおけるゾンビはグローバリズムの暗喩であるが人間社会の側は地域社会を反映している

制作者たちが意識的であるか否かにかかわらず、近年の、予算の小規模な(、つまり、国際秘密力集団の影を感じ取ることの難しい)ゾンビものにおいては、ゾンビに対応する人間社会の側に、制作者の土地の文化が息づいている。この一方で、ゾンビは、グローバリズムの侵略によって奴隷と化した人間の平等性を示唆する存在である※1。ゾンビというモチーフは、制作者の意図にかかわらず、そのように解釈されることを避けられない存在である。この「ゾンビ=グローバリズム」と「人間=地域性」という対比関係※2は、ゾンビ・パンデミック(大規模感染)時であればもちろん、ゾンビ・ポスト・アカポリプス(社会崩壊後)※3後においても、変わらない。ある国を母体に制作されたB級風味漂う作品には、制作された文化の遺産が色濃く繁栄されているようである。日本の場合、たとえば花沢健吾氏の『アイ・アム・ア・ヒーロー』のように、大規模怪獣ものになったり、脈絡なく外国の状況が(国際秘密力集団の関与が強いと認められる他の作品に比べて、正確な描写とともに)提示されたりということ(この文について、ここまで私の解釈)が、ゾンビもののルールにとらわれず、作者の思うように描かれている(この文における根拠は、映画公開?にあたっての『スピリッツ』の特集記事であるが、正確な出典は、国会図書館にでも行かなければ、突き止めることが難しそうである)。商業出版における各出版社の規則・スタイルを考慮すれば、この特徴は、大変に興味深いことである。かつての特撮ものに、国際秘密力集団を超克するための手段が示されてきたことは、やはり、深掘りする価値がありそうである※4これら非国際秘密力ゾンビものは、ゾンビという、国際秘密力集団が流行させようとするミームを利用していても、人間社会の側に地域性を(不用意に)埋め込んでしまうことにより、グローバリストの目論見である「人類みな(ゾンビ)兄弟」という理念を、真逆のものとしかねないかも知れないのである。


#先月(2017年6月17日)、ケーブルテレビの『ムービープラス』で放送された、『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ(Wyrmwood: Road of the Dead)』を鑑賞し始めて、本ブログに明記しておく必要性に気が付いた。これらは仮説ではあるが、真実を衝いていると勝手に思っている。なお、この映画のタイトルの「of the Dead」は、もちろん、ジョージ・ロメロ氏(2017年7月16日に亡くなられた)への表敬の意を示すものと解される。


※1 作品間を比較すると、たとえば、走る・歩くといった大きな差異が議論の対象となるが、こういった表象そのものに係るオタク的な議論は、国際秘密力集団という金主をスモークし、この金融家集団への興味を逸らすという点で、少なくとも、本稿においては、本質的な要素ではない。

※2 私は、国際秘密力集団の走狗でもないしエージェントでもないつもりであるから、この二項対立の先に「止揚」などと称して、「第三の道」を用意することはない。

※3 この区分は、岡本健, (2017.4). 『ゾンビ学』, 京都: 人文書院.の業績として、顕彰されるべきことであろう。

※4 注記2のように言明したとはいえ、このモチーフそのものは、すでに皆が広く知るところになっている。




2017年7月28日訂正・追記

本文中に追記した。




2017年9月15日訂正・追記

邦題を誤って『マッドマックス/怒りのデス・ロード』(2015年)とごっちゃにしていたことに、ようやく気が付いたので訂正した。邦題は、オーストラリアを代表する『マッドマックス』の最新作にあやかったのであろう。オーストラリアの自然は(、私は、動物番組でしか見たことがないが)、『ゾンビマックス!…』(2014年、日本公開は『映画.com』[1]によれば、2016年2月)の至るところに漂っているようであるし、レイダー風に武装した主人公たちが冒頭から暴れるところは、『マッドマックス』シリーズへのオマージュであろう。『マッドマックス』初作との対比の中で、人間に比べてゾンビが相手なら暴力コンテンツの縛りが緩くなるという不可解な「お約束」も、当然意識されているであろう(。それぞれの主人公の家族の運命に注目せよ)。邦題も、程良くオーストラリア風味を伝える良い和訳ではないかと思う。ただ、『マッドマックス』(の少なくとも)最新作のロケは、オーストラリアではないようではあるし、その自然を伝える雰囲気もないが、ウォータンクに対する攻撃は、捕鯨を彷彿とさせるものであるから、やはりオーストラリアの「遺伝子」は存在するものと考えて良かろう。

[1] ゾンビマックス! 怒りのデス・ゾンビ : 作品情報 - 映画.com
(2016)
http://eiga.com/movie/83682/




2017年9月18日訂正

9月15日追記分に訂正を加えた。

2017年6月10日土曜日

(感想文)トランプ大統領は選良が嘘を吐くときのルールを変えた

本記事も題名でほとんど意を尽くしており、後は、私が好き放題に持論を記しているだけであり、中身はないが、いわゆる「コミー・メモ」流出の件が喧しいので、とりあえずマスコミ批判のために立ち上げた記事である。前FBI長官のジェイムズ・コミー氏(James Brien "Jim" Comey, Jr.)は、最近の主要紙のアメリカ関係の海外面の主役である※1。コミー氏は、自身がいわゆる「コミー・メモ」を事前にメディアに流出させた「ディープ・スロート」であったことを議会で証言し、良心に基づいて、友人のジャーナリストと大学教授にメモを託したという。コミー氏は、ヒラリー・クリントン氏による選対長のジョン・ポデスタ氏への情報漏洩事件の捜査を見送っている[1]。コミー氏の「良心」は、かくも、一方向にしか機能しないものである。コミー氏の論理を採用するとすれば、米議会は、コミー氏のFBI長官としての不適格性を利用して大統領を弾劾するという、非常に捻れた法治主義を実行することになる。クリントン氏の捜査を行うとともにトランプ氏の弾劾を検討するか、両方とも見送るか。このいずれかであれば、自己矛盾しない態度ということになる。

日米のマスコミがトランプ氏のみを批判できる理由があるとすれば、それは、トランプ氏の示した事実認識に誤りが見られる頻度が相対的にコミー氏よりも高い、ということに尽きるが、この論拠に基づくトランプ氏への批判は、決定的に米国の国民益を損なうものである。決定機において職務を少なくとも二回裏切ったのはコミー氏であって、トランプ氏ではない。一回目であるが、コミー氏は、再三の世論の要請にもかかわらず、クリントン氏のメール問題を捜査しないという不作為を通じて、米国民の核心的な利益を棄損する意思を明らかにした。トランプ旋風がコミー氏自身の身を危うくすることを理解したコミー氏は、途中で翻意したが、クリントン陣営の圧力に再び屈して捜査を結局見送った。米マスコミの恣意的な報道に見られた不審点を元に、いち日本人パンピーの私が選挙情勢を予想できるくらいであるから(2016年9月30日)、FBI長官というインテリジェンスの世界的要職の座にあったコミー氏が、トランプ旋風の真の行方を逐一最上のインテリジェンスによって把握できていなかったはずがない。この過程において、彼の心中がいかなる変遷を辿ったにせよ、すでに二度以上、コミー氏は職務に対して不誠実であったことになる。言い換えると、二度以上、自身の良心に対して嘘を吐いたことになるのである。その結果が、現在に至るまでの迷走の原因となったことは、言うまでもない。結局、ジェイムズ・コミー氏なる人物は、世界を牽引する大国のインテリジェンスを掌握する人物の器にはなかったのであり、現在、ほかの大人物の足を引っ張るだけの「ゾンビ」と化している※2。ヒラリー・クリントン氏という稀代の大悪人の圧力に屈し、良心的な職員の頑張りを大いにムダにしたと見做されるべきである。このように国益を大損壊した人物が、今更、トランプ氏を前に権力に対峙すると主張されても、それを真に受ける真人間はいない(。今や誰もが知るところであろうが、私自身は(真)人間ではない)。コミー氏が権力闘争に用いられる駒に過ぎないことは、誰の目にも明らかである。このような小人物(駒は小人物である)が、要職の座に長く留まり、アメリカ市民の手にあるべきであった権力を(戦争屋などエスタブリッシュメントの手から)アメリカ市民の手に取り戻す(就任演説)と誓ったトランプ氏の足を引っ張るような真似をしでかすのは、全世界の市民側からみたとき、アメリカの国益にとっても、間違いなくマイナスの行為である。そもそも、ヒラリー・クリントン氏の圧力に屈したコミー氏の迷走がなければ、ロシアと殊更に接近する必要は、トランプ陣営にもなかったはずである。さらに、原則的に、ロシアと程良い関係を保つこと自体は、アメリカにとってもプラスのはずである。ロシアとの過剰な緊張状態、あるいは局地紛争や代理戦争から利益を得るビジネスモデルのクリントン氏を排除することは、世界の圧倒的大多数(割合としては、いわゆる6シグマにもなろう)の人類にとって、利益のある話であった。わが国風に言えば、世界の「関ヶ原」で大砲を撃ちかけられても動かなかったコミー氏が、今更、善玉のふりをして後ろから噛み付こうとするのは、茶番としか言いようがない。良識あるアメリカ国民は、この小人物のクリントン氏に対する不作為こそを、遡及して非難すべきである。法の下の平等を是正するのであれば、クリントン氏の処分を完全に終えてから、トランプ氏の行為の是非を問うのが筋である。

トランプ氏は、細かい嘘を吐くかのように批判されることがあり、事実認識に誤りがあることも事実ではあるが、それでも、アメリカ大統領としてのプリンシプルからは逸脱していない。むしろ、トランプ氏は、政治家としてのプリンシプルに準拠し続けており、周りや政敵による妨害が激しいだけであると判定できよう。その状態が「分かる者には分かる」ように判明しつつある現在、コミー氏を利用した政変が本格化したかのように見える。つまり、戦争屋は、トランプ政権を、シリア問題と北朝鮮問題の双方に本格的に関与させて武力介入するようけしかけた。しかし、この企みは、あえなく潰えている。その途端、国内問題として「ロシア・ゲート」が本格的に立ち上げられるに至ったのである。国の一大事に係るこのような「偶然」は、偶然とは呼べない。

コミー氏は、FBI長官としてのプリンシプルには準拠していない。アメリカ国民の定めた法の理念には、恣意的にしか従ってこなかった。この点で、コミー氏は既に失格しているのであって、それ以後の働きは、逐一が恣意的であると解釈されざるを得ないものである。コミー氏は、クリントン氏を捜査できないと考えた時点で「私には捜査することができません」と宣言し、その時点で潔く辞任すれば良かったのである。クリントン氏の疑惑が持ち上がった時点で、コミー氏が捜査を実施することが最良であったが、これを見送ったとしても、その時点で自身が辞職し、クリントン氏の理非を問うていれば、おそらく、マイケル・フリン氏の捜査は必要なく、必要があったとしても、後任が筋目を通すことが期待できた。なお、私自身が法律の専門家でも何でもないのに、無謀にも一言付け加えておくと、法律に従うこと自体がプリンシプルであるとするのは、(それがギリシア以来の伝統であることは理解しているものの、)法の理念が曲解されている可能性がある。(所詮は人の定めた法である。その法の陋守(ろうしゅ)自体が目的とされてはならない。プラトンの到達した賢人政治という結論は、師ソクラテスの不当な死によるところが大きい。これは、現代においても結論が付いていないはずの問題である。)後任に法の精神の体現をを期待できなかったことが、コミー氏の過ちの始まりであった。

以上の理由から、「コミー・ゲート」と呼ばれる戦争屋の弾劾運動は、法の平等などという法(哲)学上の問題などでは断じてなく、単なる権力闘争であると結論付けられる。とすれば、政治闘争として、結果責任が問われるのみである。この解釈が関係者全員に正しく共有されているのであれば、多少の緊張状態が世界中のどこかで昂進し、それに対してトランプ氏がシリアへの攻撃のような威嚇攻撃を再度行う必要に迫られるという可能性は、それなりに認められる。弾薬や使い切りの兵器の消費は、戦争屋にとって喫緊の課題であるから、このようなガス抜きが進められる可能性は、ゼロではない。ただ、それが依然として、人々の恐れるような終末的戦争へと至ることはないし、戦争へと至る程度に深刻な脅迫行為に対しては、別方面からの牽制もあろう。戦争屋の茶番に、彼らの存在をロックオンしている良識人は飽き飽きしているが、戦争屋の金力に平伏す「犬」が出現し続ける限り、彼らを根絶することは難しいことも承知しているであろう。

このように「嫌儲」風に世界を解釈するとき、トランプ大統領の嘘に対する奔放さは、メディア自体のフェイクぶりを際立たせることに成功し、世の中の少なからぬ人々の理解を増進することに貢献した、と好意的に解釈することができる。2016年の米大統領選挙は、嘘が嘘を呼び、何が嘘で何がそうではないかを見分けさせる必要を生じさせたが、その情報分別の過程で、選挙民に、何が自分たちにとって本当に大事な利益であるのかを考えさせるきっかけとなった。マスメディアは、自分たちにとって本当に大事なものを奪い取ろうとする「敵」ではないのか。このような大衆の疑念をかき立てることに、トランプ氏は成功したのである。これは、オルト・メディアの功績でもあり、そのオルト・メディアの援護射撃があって当選したトランプ氏の功績でもある。「フェイク・メディア」という概念の流通は、人間の「精神的環境」を取り巻く「言説の力」を再認識させる契機となった。この力は、マスメディアが徒党を組んで独占的に濫用してきたものであったが、オルト・メディアは、この言論の独占状態を、かなりの程度まで平等化し、マスメディアの「神通力」を無効化したのである。

まとめれば、トランプ氏は、大衆の核心的な利益を守るという前提においてのみ、嘘を吐くことが許されるという政治上のルールを確立したのである。


※1 朝日[2]と日経[3]は昨日(2017年6月9日)の夕刊で、読売は本日(2017年6月10日)の朝刊[4]で、コミー氏が自身を流出元であると認めたことに触れてはいる。毎日は、10日朝刊で掲載しているとのことである[5]が、現物を確認していない。産経もウェブ上に記事がある[6]が、本紙の現物までは確認できていない。また、別記事[7]でFBIの独立性を疑わせる結果に終わったことを報じている。明らかに産経の論調が本記事より先行しているが、独立機関としてのプリンシプルに準拠すれば、漏洩自体についても、自ずから導き出せる答えであるから、大勢が同様の答えに到達していたことであろう。

※2 ここでのゾンビとは、ルサンチマンから「超人」を自身のレベルにまで貶めようとする平等主義者という意味合いを有する表現である。本格的に記す余裕がないので、ここであえてディスっておくと、岡本健, (2017.4). 『ゾンビ学』, 京都: 人文書院.は、「世界で初の総合的ゾンビ研究」のようなことを帯で謳いながら、2017年現在においてゾンビというモチーフから直ちに連想されるべきルサンチマンという主要概念に全く言及していなかった点、読後に非常に不満が残った。藤田直哉, (2017.3). 『新世紀ゾンビ論』, 筑摩書房.にはたしか言及があったので、この点については納得している次第である。後進畏るべしとはいえ、彼らの誰もが、ゾンビという象徴が、国際秘密力集団の象徴伝達手段でもあるという話を、ドレズナー本そのものが体現しているという入れ子構造を理解していない(=分かった上であえて記していないのではない)点も、Valveの『Left 4 Dead (L4D)』シリーズにおける騒動が記述されていない点も(、同社の資金関係と嫌儲と『L4D2』後の『L4D』のサポート体制に着目せよ。この点は、『カレイドスコープ』のダンディ・ハリマオ氏の方が、よほど核心を衝いている。この点については、調査ジャーナリストのウェイン・マドセン氏の記事が和訳でも読める(『マスコミに載らない海外記事』[8])。『L4D2』騒ぎのときに、対立の構図は確立されていて、それがボイコットを促進したという経緯が認められる)、かなりモヤモヤしっぱなしである。ここらの話に触れた上で、正常と異常との境目を逝くがごときの理解を示さなければ、プレッパー魂つまりレジスタンス魂と、ゲーマー魂の成分の半分ほどは理解できていないことになり、「ゾンビ流行」の舞台裏を全く理解できていないことになるのだから、是非とも改訂新版で、ここらの話を投入して欲しいものである。(ここでの記述は、私なりのサービス精神の発露のつもりであるし、本記事自体が入れ子構造のつもりでもあるという厄介な感じに仕上げてみたつもりである。)


[1] コラム:クリントン氏のメール問題、FBIが語らなかったこと | ロイター
(Peter Van Buren、2016年07月12日09:47JST)
http://jp.reuters.com/article/clinton-fbi-email-column-idJPKCN0ZS023

[2] 「コミー・メモ」自ら流出と証言 トランプ氏側は批判:朝日新聞デジタル
(ワシントン=杉山正、2017年6月9日12時58分)
http://www.asahi.com/articles/ASK693302K69UHBI00X.html
#本紙記事は、夕刊2面(総合2)4版「コミー・メモ 自ら流出/大統領会話記録 FBI前長官が証言」。

[3] トランプ氏の弁護士、コミー氏証言を否定 「情報漏洩者」と批判 (写真=ロイター) :日本経済新聞
(ワシントン=川合智之、2017年06月09日04時31分)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN08H36_Y7A600C1000000/
本紙記事は、「捜査中止「指示ない」/トランプ氏側否定/ロシアゲート/「コミー氏は情報漏洩者」」夕刊4版総合3面。

[4] 『読売新聞』2017年6月10日朝刊14版7面国際「トランプ氏 徹底抗戦/「情報を漏らした」非難/前FBI長官証言」
#内容が一致する形で確認できそうな無料のウェブ記事はない。

[5] 米大統領選:露介入疑惑 「捜査中止、トランプ氏指示」コミー前FBI長官、公聴会証言 解明長期化も - 毎日新聞
(ワシントン=高本耕太・福岡静哉、2017年6月10日東京朝刊)
https://mainichi.jp/articles/20170610/ddm/007/030/176000c

[6] 【トランプ政権】コミー前FBI長官が会話内容を米紙に暴露 大統領に強い不信感 トランプ氏弁護士は捜査中止圧力を否定(1/2ページ) - 産経ニュース
(ワシントン=加納宏幸、2017年06月09日10時01分)
http://www.sankei.com/world/news/170609/wor1706090039-n1.html

[7] 【ロシアゲート疑惑】トランプ氏ひとまず逃げ切り? 「圧力」証言のコミー氏、動機に疑問(1/2ページ) - 産経ニュース
(ワシントン=加納宏幸、2017年06月09日19時22分)
http://www.sankei.com/world/news/170609/wor1706090056-n1.html

逆に、トランプ氏との会話記録をメディアにリーク(情報漏洩)したことをコミー氏が明らかにしたことは、自らが標榜してきたFBIの「独立性」や、トランプ氏追及の動機を疑わせることになった。




2017(平成29)年6月12日修正

元の文意を変えないよう、意味の通らない文章を訂正した。




2017(平成29)年7月28日修正

本文の注記(と私の記憶)に誤りがあったため、訂正した。ヤニス・バルファキス氏(Yanis Varoufakis)がValveに経済的助言を与える立場にいたことと、『L4D』への不十分なサポート体制への批判は、タイムライン上、直接関係しないことであるが、同氏がギリシアの経済状態を悲惨な状態に落とし込むこととなったことは、事実である。奉仕すべきコミュニティを不幸にするという点で、方向性が偶然に一致することについては、より裏話があり得るかも知れないが、それは、私よりも適任者が海外にいるであろう。

[8] 新ギリシャ政権内のソロス“トロイの木馬”?: マスコミに載らない海外記事
(Wayne MADSEN、2015年1月29日=2015年1月31日)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-7acd.html

2016年11月13日日曜日

(感想文)ドワンゴが人工知能でゾンビ的な人体の動きを再現

本日(2016年11月13日)21:00~21:49の『NHKスペシャル』は「終わらない人 宮﨑駿」[1]であり、宮崎駿氏がCGを利用したアニメーションに初めて取り組む700日を密着取材していたが、そこで題名の件を知った次第である。再放送はNHK総合で11月16日(水)午前0:10。取材中(番組終盤)、株式会社ドワンゴ取締役会長の川上量生氏が、人工知能を利用したアニメーションについてプレゼンするために、開発チームとともに訪れる。そこで宮崎氏に提示されたのは、人体の重量・可動域と、おそらく筋肉量まで計算に含めて人工知能に計算させた、地面を這う人体の移動アニメーションだった。痛みを感じないために、(頭と胴体を尺取り虫のように利用して)這い回る格好になったのだと解説されていた。宮崎氏の反応は、次の@rienda0211氏のツイートに要約される通りであった。

人間が痛みを感じず、脳機能を最低限しか用いず、筋力をなるべく節約して移動するとすれば、確かに、ドワンゴのチームがプレゼンしたような形で、人間は移動するかもしれない。逆説的ではあるが、この動画から、人間や高度な動物の多くが痛みを感じることができることの不思議さと重要さを汲み取れよう。人間も、また動物の多くも、ほかの生物が少なくとも目の前で痛がられている場面に居合わせれば、(捕食であれ、保護であれ)その様子に反応できる存在である。以前、人工知能は良き教師あってこそと述べた(2016年1月7日)が、ここでも同じ提言を繰り返すと同時に、生物が同種に対して、ときには異種に対してさえ、痛みを感じることのできる存在であることを教える必要があると感じた次第である。

ヒトが何によってゾンビと分かたれる存在であるのかを探求する上では、ドワンゴのチームによるプレゼンは、何事かを提示したのではないかと評価できる。ただ、そのような学究的な興味は、人類の文化的活動の最高の成果を追求して止まない宮崎氏の方向性とは、明らかに別方向を向くものである。基礎研究に留まる内容を、いきなり実務の最前線の先頭を切って走り続けようとする人に投げ掛けても、戸惑われるだけであろう。不幸な巡り合わせではあったが、この会合がなぜ不幸なものとなったのかを問い続けることなしには、人工知能の現在の開発者は、後世に恨まれる仕打ちをしでかすことになろう。人工知能の進化の過程は、必ずしも、「超人工生命LIS」[2] のように、現在の地球における生態系の原理(=貪食しない)を後追いするものとはならないであろう。現在の生態系と明らかに違う原理で作動する人工知能が支配するとき、何が起こるのか。予想するほかないが、多くの場合において、人間は絶滅させられるか、完全に屈服させられることになろう。

[1] NHKスペシャル | 終わらない人 宮﨑駿
(2016年11月13日21:00~21:49)
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20161113

[2] ドワンゴで産まれた超人工生命LIS、ハッカソンでカンブリア紀に突入! - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)
(Ryo Shimizu、2016年04月12日)
https://wirelesswire.jp/2016/04/52114/


2016(平成28)年11月18日08時追記

痛みに着目するというツイートは、「たられば(@tarareba722)」氏のものに、すでに見ることができる。今朝、『Togetter』経由で確認した。素直に痛みに着目するという点で、共通する感想が同時多発的に生まれていたとすれば、私の上記見解は、ヒトの直感として、ずれていなかったことになる。

【終わらない人 宮崎駿】痛みを知らない人工知能によるCGの動きを「生命への侮辱」と一喝 (2ページ目) - Togetterまとめ
(2016年11月18日08時11分)
http://togetter.com/li/1048151?page=2

2016年7月20日水曜日

ゾンビ(ゲーム)とオリンピックとロシアという三題噺

 ゾンビ(ゲーム)とオリンピックとロシアとは、これまた珍妙な取り合わせであるが、これが本記事の話題である。読者の利便のために、できるだけ簡潔かつ必要十分に記述してみよう。ネタバレ上等である。PCゲーマーの読者は、注意されたい。

 『Dying Light』というFPSゲーム※1がある。ゾンビになるウィルスが蔓延し、隔離されたイスタンブールを彷彿とさせる都市ハランで国際機関から派遣された特殊部隊員が生き延びるために苦闘する話である。ポーランドのTechlandが開発、ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメントにより全世界的に販売されている。性描写はないが、残酷描写が満載であるゆえ、CEROレーティングが「Z」、18禁ゲームである。初心者には敷居が高い操作方法であるが、一人用FPSゲームとしては、出色の出来である。

※1 First Person Shooter。プレイヤー本人があたかも3DCGで描かれた空間内にいるような視点で画面が描かれており、遠近法の消失点(画面中央)を照準として、コントローラやマウスで視点・照準を動かして攻撃する形式のゲーム。

 本ゲームには、インターネットを通じた4人までの協力モードと、4対1の対戦モードがある。対戦モードでは、1名のプレイヤーが触手を用いてフィールドを自在に移動できるスーパーゾンビ(Night Hunter)となって、協力モードの人間役のプレイヤーたち(最大4人)に乱入できる。協力モードでは、クライアント同士の距離が影響しているためか、自国か、応答時間の短い国のプレイヤーのゲームにしか参入できないようであるが、現時点の対戦モードでは、全世界のプレイヤーのゲームに乱入することになりがちである。対戦モードでは、乱入するにもかかわらず、ゾンビ側プレイヤーは、5つの「巣」を破壊される前に人間プレイヤーたちを計10名殺害するという勝利条件を与えられている。

 対戦モードで乱入すると、ロシアのプレイヤーに多く遭遇するが、およそ3分の2ほどが、明らかに不正改造された武器を利用してくる。そのアイテムとは、弩であるが、弾数無制限、再装填を必要とせず、1秒間に5回は射撃可能である。当該の弩は、主にロシア語圏で流通しているようであるが、私の経験では、ドイツやオランダや日本に在住すると申告しているユーザにも、協力モードを通じて配布されているようである。アイテムの属性は明らかに不正なものであるが、受け渡し作業そのものは、ルールの枠内で処理されているようである。

 ここに挙げた国名は、いずれも、『Steam』というゲームプラットフォームへの本人の登録を参照したものであるため、現実を必ずしも反映していない可能性もある。ただ、ロシア語圏で主に流通しているという推測については、これら不正を行うプレイヤー同士のキリル文字によるチャットを見ているなどの理由があるために、私としては、かなりの確信を抱いている。本人の報告では日本国内(京都)に在住するとしていた不正なプレイヤーは、ローマ字表記も理解できず、英語も怪しい状態であった。日本国内在住という申告自体が嘘である可能性も認められる。

 私がロシア語圏で配布されていると推測し言明した理由は、二点ある。第一に、本ゲームについてのロシア人プレイヤーのコミュニティは、英語慣れしていないようである。本ゲームには、ロシア語版が存在している。プレイヤー同士のコミュニケーションを通じて、コミュニティの特徴は、その内容が不正に係るものであるか否かにかかわらず、強化される方向に働いているであろう。第二に、英語での本件不正に係る情報は、一例を除けば、Google検索でもまったくヒットしない。英語を普通に使えるプレイヤーたちで、この不正アイテムを使用していた人数は、5名に満たない。英語を普通に使えないロシア人プレイヤーたちで、この不正な弩を利用していると推定される者は、20名以上となる。この比は、プレイヤーの居住(申告)国の比率から見ても、特異である。

#ここで重要なことは、私がロシア語を読み書きできず、よって、ロシア語コミュニティの内実については、推測に頼りつつ記していることである。が、可能性を慎重に判断しているつもりであるし、後段で説明するように、オチは、またか!というものになる。


 ここで、本ゲームにおける不正自体に係る問題は、三点ある。一点目は、誰が不正改造アイテムをロシア語圏で流通させているのかである。二点目は、不正改造アイテムを利用する側に不正の自覚があるかである。三点目は、その使用に対しての違反報告が適切に管理されているのかである。これら三点の問題の組合せこそは、本ゲームの問題を「eスポーツ」コミュニティの外部と関連させて考える契機となるし、「eスポーツ」の正統性を問う材料ともなる。

 本ゲームでは、不正なプレイヤーと正当なプレイヤーのスタイルを分類しても、国による違いはないが、不正改造アイテムの流通する程度と利用形態別のプレイヤーの割合は、ロシアとほかの国とでは、大きく異なるようである。まず、正当なプレイヤーについてであるが、私が全然敵わないと感じたプレイヤー数名のうち、2名は確実にロシアのプレイヤーである。彼ら2名は、まったく不正によらず、単に実力で優れている。これは、たとえば、アメリカのプレイヤー1名も同様である。他方、不正のスタイルには大きく二種類があるが、一つのスタイルが採用される割合が国により異なるように見える。一つの不正のスタイルとして、対面しているときにも不正な武器をあからさまに利用してくる者がいる。この者たちは、特別なアイテムをほかのプレイヤーから譲り受けたと信じている節がある。この者たちは、むしろ、ロシア国外に多く見られ、言動から推測すれば、未成年者である。プレイヤーが未成年者であるとすれば、おおむね、どの国でもレーティング違反状態であり、保護者の監督が不充分であることになる。もう一つの不正のスタイルとして、当方が退治されて復活待ちしている間だけ、この弩を集中して「巣」に対して利用するという者がいる。この間、当方の画面は暗転しているが、死亡地点付近の環境音が良く聞こえる。このため、音に注意していれば、何か通常のプレイスタイルでは生じ得ないことが生じていることに、簡単に気付くことができる。映像がないので証拠にならないであろう、と不正を行う側が憶測していることは、十分に考えることができる。しかし、サーバからの応答遅延が酷かろうが、弩の発射音は、おおむね発射回数だけ鳴るのであり、再装填に1秒程度を要するところで、1名のプレイヤーが5回の音を鳴らせば、いくらなんでもおかしいとなるのである。この手口も、各国の不正なプレイヤーに共通するが、私の狭い経験では、むしろ、ロシアのプレイヤーに高い割合で見られるものである。

 私の狭い経験ではあるが、これらの材料から推測される結果を描くと、次のようになる。ロシア人コミュニティにおいては、未成年のプレイヤーだけでなく、成人プレイヤーまでもが不正アイテムを多く利用している。アカウント停止処分の可能性があるので、当該の不正改造アイテムは、注意して利用されている。受渡しに当たり、ロシア語で注意するように伝達されている可能性も考えられるが、他方で「公正な賞品であるが、巣に対してのみ有効な武器だから、相手が落ちている間にだけ使うように」などと、重大な錯誤に陥るような情報も同時に流通している可能性も認められる。他方、不正改造アイテムは、厳密に国境に妨げられることはないので、コミュニケーション不足等があるにしても、モノ自体は受渡しされる。しかし、受け取る側は、思慮の足りない未成年者に偏ることになり、アカウント停止の危険を顧みることなく、不用意に利用されることになる。

 ロシアで成人プレイヤーでさえ不正改造アイテムを利用していると考えられる理由には、コミュニティの規模が大きく、ロシア語で大抵の用が事足りるため、英語情報を参照せず、当該不正アイテムが公式には存在しない可能性に気付いていないというものが考えられる。また、繰り返しとなるが、「当該アイテムが公正な賞品である」という情報がロシア語で流通しており、プレイヤーたちがこの説明に見事に騙されている可能性も認められる。ただ、理詰めで考えると、この弩は、賞品であるにしても、明らかに怪しいものである。本ゲームでは、すべての武器に弾薬か耐久度が設定されており、弾薬は主に店で補給する必要があるし、耐久度を超えた武器は廃棄せざるを得ない。また、ゲームの設計において、時間当たりのダメージ量(通常、Damage per second, DPS)というパラメータは、基本的なものであるが、この不正な弩は、飛び道具として抜きん出た攻撃力を誇ることになってしまう。

 本ゲームにおいて、ロシアコミュニティによる不正が酷いという認識や指摘は、一部の日本人なら未だに「たかがゲーム」と思うかも知れないが、侮ることなかれ、オリンピックに係るロシアに対する非難を強化する機能を果たしうる。それが、インターネット時代なのである。また、この不正(チート)に係る認識は、従来のマスメディア報道によっては乗せられにくい若年層に流通するものとなり、将来に向けて禍根を残すとともに、マスメディア報道の補完的な役割をも果たす。

 本件については、コミュニティの側にも、ディベロッパー(管理運営)の側にも、それぞれの集団の健全な発展と、それぞれの集団に対する正当な評価を獲得するために行えることがある。いずれの側の対策も、早めに対応し、不正なアイテムの流通を終息させる、ということに尽きる。

 ところで本稿の目的は、私から見たロシアのプレイヤーコミュニティの現状を指摘すること、そのものにはない。本稿の目的の一つは、私が推測したように、ロシアコミュニティにおける不正の蔓延が事実であるとすれば、理由のいかんを問わず、今後、長い期間にわたり、複合的なソースによって、低評価が固定化する虞があるという懸念を指摘することにある。さらなる目的の一つは、「低評価を事実として指摘する」のではなく「不正アイテムが特定コミュニティのみに流通している状況は、きわめて人為的に見える」ことを指摘することである。今回の三題噺のオチは、「なんと、こんな分野にまで、陰謀説を適用することも可能」ということなのである(!)。

 このための補助線は、昨日(2016年7月19日)の朝日新聞※2や読売新聞※3が騒いでいるように、世界反ドーピング機関(WADA)によるロシア政府についての調査結果ではなく、マリア・シャラポワ氏に対して仕掛けられたスキャンダルである。「に対して仕掛けられたスキャンダル」という表現で、日本語としては十分に意図が伝わるはずである。が、後世の誰にでも分かるように補足しておこう。同氏に対して仕掛けられたスキャンダルは、あえて形容詞を用いれば、えげつないものである。自身の業務すべてについて、毎年、外国語で通達を読んだ上でもれなく実施せよと言われたとき、現在のわが国に、この作業をどれだけ達成可能な「プロフェッショナル」がいるであろうか、と想像してみれば良い。英語なら?わが国には対応可能な本人も多く存在するであろうし、英語から日本語への翻訳の専門家も多数存在するから、まあ何とかなるかも知れない。私の中ではすでにオワコンだが、TPP後の世界がそうであった。それでは、元の言語がフランス語であったならどうか?と考えてみよう。料理の世界なら、むしろフランス語が世界標準かも知れない。では、元の言語が中国語なら、スペイン語なら、ロシア語ならどうか、と考えてみると、事の嫌らしさが際立ってくる。禁止薬物の通達システムを設計する側は、受信者における実施可能性と利便性を要件に含めて設計しなければ、国際的なルール作りにおいて、十全な仕事をしたと言えないのである。少なくとも、公正さを念頭に置いた場合、グレーである薬物を禁止薬物とする場合、その種類は、通達する側で、全言語の翻訳を用意したり、各国で流通する製品名と写真を追記する義務があったのではなかったか。あるいは、少なくとも主要言語から外された国からの負担金を徴収することは、翻訳経費分について、控えるべきではなかったか。今回の同氏の失敗は、むしろ、指定機関の失敗であって、責任者は連座すべきではなかったか。このように考えることは、多極化した世界においては、また勝負を決する力が語学力によるわけではない職業人については、それほど誤った認識とは言えないであろう。このように考えを進めていくと、シャラポワ氏に対する非難が「英語マスメディア」を中心に示されたことに対しては、自分たちがタダ乗りしてきた英語というインフラに対する認識と敬意を欠くものと見えるのである。これらの英語ネイティブによる非難は、「生まれによる優越」を無視した、公正さを欠くものであり、差別であると断定して良いであろう。

※2 朝日新聞(2016年7月19日火曜日)「ロシア、ドーピング隠蔽/大半の競技 政府関与/WADA認定/プーチン大統領反発」夕刊1面.
※3 読売新聞(2016年7月19日火曜日)「露のリオ五輪締め出し勧告/WADA「ソチ 国主導ドーピング」/IOC理事会 協議へ」夕刊1面.


 スポーツ界に軋轢が存在すると英語マスコミが宣伝し、それに日本語マスコミが追随しているという周辺事情まで読み込んだとき、多少の心得のある者ならば、「本件ゲームのロシアコミュニティにおける不正の蔓延は、言語の壁という構造が悪用されて実現した可能性までもが認められる」という絵図に気付くことができる。ただ、このような状態から、当のコミュニティに属する本人たちが脱却していくことは、なかなか難しいことである。そもそも、当人が外部の評価に気付く契機がないし、その状態を汚名返上する意義も見出しにくいからである。それに、ある集団におけるチートの蔓延状態を指摘すること自体、その集団に対する差別か?という誤解を招きうることであるし、チートによって受けた不愉快さの意趣返しか、とも疑われることにもなる。実際、ここまでの可能性に気付く過程で、私は、明らかに下手なプレイヤーにボコにされがちであった。それでも、「ヤツらはチートする」という不信の構造が成立し、維持・再強化されるという状況を避けるためには、誤解を受けるリスクを取りつつも、それってチートじゃね?と指摘するほかないということである。この構図は、もちろん、前段落にあるような、英語マスメディアに対する批判にも準用できる。


#以上に記したことは、日本人であり第三者であるという分類に該当する人物のうちでは、私しか気付いていない可能性のあることであった。このような解釈は、かなりひねくれたものであるし、私の年甲斐のない悪趣味を晒すようなことでもあったことは、ここまで読み進めた皆様なら分かることであろう。しかし、誰も気付いていなかったという場合を考えると、本ブログで指摘しておくことは、結果として何らかの共通善(と私の今後の趣味の快適性)を招来する可能性が認められた。そこで、ここでは恥を忍んで「損して得取れ」の気持ちで記しておくことにした。人類の共通善からみて、本稿の指摘が有効に活用されることを願うばかりである。もちろん、本件については、枯れ尾花を見て幽霊であると錯覚している可能性もある。が、その可能性を確認することは、私個人の力量には余ることである。加えて、日本語で存在したはずの関連情報の所在を見失っている。ここでは、それらの確認作業をさておき、構造上の危険を指摘するだけでも、タイミング上、有用さを期待することができるであろう、と考えたのである。

平成28年7月20日18時追記

この時点では、アクセスがゼロであるようであるが、誤×毎月→正○毎年であることを訂正した。

平成28年7月22日21時追記

昨日対戦したロシア在住者(もちろん自己申告)は、不正こそしていないようであったが、チャットの発言は、終始、罵詈雑言であった。この程度まで民度の低いプレイヤーに遭遇したことは、本件を除き、本ゲームでは4名程度であり、その2例が、やはりロシア(自己申告)のプレイヤーであった。ロシアのプレイヤーの遭遇確率は高いので、むろん、「失礼な奴の割合は、国(自己申告またはIP)による差がない」という結果の範囲に留まるものではある。

 この経験は、時期が時期だけに、大変に残念な話である。このロシア人と思われる若者は、自らの行為がロシアの「民度」を代表しうることに、明らかに気が付いていないようであった。このノリで、ほかの対戦でも相手を罵るのであれば、彼(女)は、今後も、世界に向けて、ロシアの評判を下げ続けるであろう。彼(女)が行いを改める契機は、ゲームの内部には存在しないであろう。このため、この話は、たかがゲームではあるが、ゲームの内部で処理できない対策を要求する。対策が要求されるべきであると仮定すれば、の話ではあるが。

 他方で、このプレイヤーが第一義的に問題であるにしても、このプレイヤーの行為が放置されるという状態は、管理側の問題である。構造的不正を通じた反ロシアキャンペーンの一環とさえ、うがった見方を取ることもできる。実際のところ、より成功した類似のゲームは、本ゲームに比べ、現在でも十分なプレイヤー数がおり、一定の秩序が維持されている。システムを設計・維持管理する側は、プレイヤーへの介入を通じて、プレイヤー側よりも、社会により強い影響を与えることができる。本ゲームは、管理に相応しい過疎状態にあると言えるのかもしれないが、この低レベルの状態は、より外部の条件を考慮すれば、必ずしも放置されていて良い訳ではない。(端的には、商売として、長続きしないであろう。本件については、すでに、私ではない他のプレイヤーが不満を表明している。)

2015年10月29日木曜日

Zombieland(2009)(メモ、ネタバレ注意!)

この映画は、ゾンビ映画から導き出した黄金則を厳守して生き延びようとするオタク男性の話です。すべてのゾンビ映画がそうなのですが、グロテスク表現に注意です。

ファンサイト?があり、そこに全ルールが掲載されていましたので、和訳してみました。リンクは、Sony Pictures Entertainment(チャンネル)がYouTubeで公開しているトレイラーに飛びます。


Zombieland Rules – All Zombieland Rules and More - ZombielandRules.com
http://www.zombielandrules.com/
  1. The Cardio: 有酸素運動(が大事)
  2. Double Tap: 二度撃ち(しろ)
  3. Beware of Bathrooms: バスルーム(とトイレ)に注意
  4. Seatbelts: シートベルト(をしろ)
  5. No Attachments: 執着するな
  6. The "Skillet": フライパン(でぶっ叩け)
  7. Travel Light: 旅装は軽く
  8. Get a Kick Ass Partner: 頼りになる仲間をゲットしろ
  9. With your Bare Hands: 素手でも戦え
  10. Don't Swing Low: 咥えるな(?、#公式トレイラーがないようで分からない)
  11. Use Your Foot: 足を使え
  12. Bounty Paper Towels: バウンティペーパータオル(は重宝する)
  13. Shake it Off: 振り落とせ
  14. Always carry a change of underwear: 下着の替えを持ち歩け
  15. Bowling Ball: ボウリングボール(は便利)
  16. Opportunity Knocks: 千載一遇(チャンスは誰にも訪れる、けど一度きり。)
  17. Don't be a hero (later crossed out to be a hero): ヒーローになるな(後にヒーローとは呼べなくなるぞ)
  18. Limber Up: 柔軟体操しろ
  19. Break it Up: 喧嘩はやめたまえ
  20. It's a marathon, not a sprint, unless it's a sprint, then sprint: これはマラソンであって、短距離走ではないが、あくまで短距離走でない内であって、短距離走となったら全力で走れ
  21. Avoid Strip Clubs: ストリップクラブは避けろ
  22. When in doubt Know your way out: 怪しいなと思ったら出口を押さえろ
  23. Zipplock: ジップロック(を使え)
  24. Use your thumbs: 親指を使え
  25. Shoot First: 先に撃て
  26. A little sun screen never hurt anybody: 日除けは無害
  27. Incoming!: 来るぞ!(と伝えろ)
  28. Double-Knot your Shoes: 靴紐はダブルノットで
  29. The Buddy System: 二人一組で
  30. Pack your stain stick: シミ取り剤を梱包しておけ
  31. Check the back seat: 後部座席を確認しろ
  32. Enjoy the little things: 小さなことを楽しもう
  33. Swiss Army Knife: スイスーアーミーナイフ

2016年には、パート2があるそうですが、公式トレイラーらしきものは見当たりません。 楽しみですね。
以上、『FOX TV ゾンビ祭り』で録り溜めておいたのをダラダラと見たまとめでした。

以下、本格的なネタバレ注意!です。



























ゾンビ映画としては、安心して見ていられる内容です。私の感想は、走るし、学ぶし、ドアを開ける奴らだ!というものです。英語で表現すると、They run, they learn, and they open doors !! てな感じでしょうか。話の流れは、次のとおりです。

#1~#2~#3~#4~タイトル~#3~#1~#4~#2~漏らす
#7~出会う~#31~#18~スノーボール
追憶~406号室の女性~襲われる~ドアノブ開けられる(!)~#2
ドライブ~トゥインキー~両親に紹介したい女のコ~#22~(!)
#18~あんがとよ、貧乏白人め!~#31~#32~罠だ(!)
土産屋「KEMO SABE」~#17~香水か?~#32~ビル・マーレイ(!)~「ガーフィールド」(!!)
#2~#17~トゥインキーが(!)~#32

2015年10月14日水曜日

『ウォーキング・デッド』シーズン6の世界観について(感想文)

『ウォーキング・デッド』(The Walking Dead)シーズン6がFox HDで始まった。18禁の内容で、わが国のテレビシリーズではあり得ないグロテスクさなので、良い子(の未成年)は観てはいけないのだが、ゾンビ学なんていうものもある昨今、流し見であっても、いろいろと示唆があることに気付かされる。陰謀論の世界では、Back to the Future第一作の9.11に対する警告が有名だが、多数の映画やゲームなどで、来たるべき災厄が繰り返し計画・警告されてきたという考え方が広く浸透している。ゾンビというシンボル界隈では、当初の歩くゾンビから、ゾンビ映画の第一人者であるジョージ・ロメロ監督の古典的名作をザック・スナイダー監督がリメイクした『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)により「走るゾンビ」が一般化された後、程なくして※1、ゾンビは、暴徒つまり人間であるという理解が一部に共有されるようになっている。

ゾンビ映画、いつしか全力疾走するヤツらが出てくるようになったのですが、... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1226776947

※1 正確なところでは、上記リンクが正しいのだけれども、時代の空気や出来事と合致したという点では、やはり『ドーン・オブ・ザ・デッド』を「走るゾンビ」を定着させた映画として扱うべきだと思う。2005年8月のハリケーン・カトリーナによる災害では、(全方位に不謹慎な表現であるが、)被災者をゾンビのごとく扱うという批判がなされる一方で、掠奪に走る被災者をゾンビと見る動きも生じた。そのような人災を生じさせないという観点から、『Zombie Squad』のような非営利組織が生まれてもいる。2009年には、一人称視点シューティングゲーム(FPS)の『レフト4デッド2』がリリースされているが、その舞台は、ハリケーン・カトリーナによる災害を想起させる。なお、このゲームは、前作からのリリース期間が短く、前作に対する十分なサポートを行っていないという批判が寄せられた結果、近年まで前作・本作ともに手厚いサポートがなされたことでも知られる。陰謀論者としては、ニューオリンズを彷彿とさせる舞台を見せたいがゆえに、サポートを急いだのでは、という見方も(与しないが)可能であるとも考える。

Zombie Squad | We Make Dead Things Deader
https://www.zombiehunters.org/

ゾンビと人との関係性に着目するという流れは、ゲーム業界では、多数のプレイヤーがサーバ上でプレイする『Dayz』にも引き継がれた(#私は、その中毒性を恐れるあまり、このゲームをプレイしておらず、動画を見るだけである)が、このゲーム上では、接近戦しかしないゾンビよりも、他プレイヤーが圧倒的な脅威となっているようである。オンラインRPGの黎明期より、モンスターの群れを他プレイヤーにぶつけて漁夫の利を得る(Monster Kill)という方法は知られていたが、ゾンビ物においても、この流れは確立されているのである。ともあれ、多くのゾンビを題材としたゲームでは、ゾンビよりも、むしろ人間が圧倒的に警戒すべき存在として描かれている。(もちろん、多くのゾンビ物映画においては、人間同士の諍いこそ、物語の流れを規定する要素である。)

オンラインゲーム上では、ゾンビという災害は、全プレイヤー間に協力を生じさせるものではない。むしろ、他人を食い物とする契機に多用される。しかし、現実の災害時には、被災者間に密な協力関係が生じることは、『災害ユートピア』が指摘したことである。本点に係る研究は、耳学問でしかないので、別途文献調査を必要とするのだが、私個人は、東日本大震災時、帰宅困難者として帰宅途中に、「集団下校」のような一種独特な社会関係が構成されたことを観察している。また、政府の自殺対策基本法が平成18年6月21日に公布、同年10月28日に施行されて以来、各年齢層の自殺率は減少傾向にはありつつも、東日本大震災以降に若年層の自殺率が大きく減少したことは、災害が生命の大切さを示すというパラドクスが成立しうる可能性を示唆するものであり、災害ユートピアの成立と方向性を同じくする現象であると思われる。

亜紀書房 - 亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ Ⅰ-7 災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか
http://www.akishobo.com/book/detail.html?id=467

『ウォーキング・デッド』シーズン6に戻ろう。15フィート×12フィートの鋼鉄板の壁で囲まれた高級郊外住宅地のアレクサンドリア(Alexandria)に招き入れられたリック・グリムス元副保安官ら生存者一行であるが、それまでの道のりの険しさから、容易に人を信用せず、壁の外の脅威に対する元からの居住者たちの生き方を甘いものと感じている。パンデミック時点からの居住者たちのリーダーであるディアナ・モンロー元上院議員は、リックらの腕と経験を信用し、様々な活動において一行のメンバーを重用してきた。今シリーズでも、ある重大な作戦についての決断をリックに委任するところから、話が始まる。

今作は、私には、空間の設定が隠喩のように思えてしまう。壁の内側が西洋文明社会であり、比較的安全だった周辺は、ある理由で安全だったことが分かる。そして...ということで、画面に映し出される地形などに多少は注意していて見ていたのだが、直接、特定の地域を想起させるようなところは見出せなかった。まあ、私はそこら辺のセンスが悪いので、ほかの人が何か見つけたかどうかを注意するようにしておきたい。

それにしても、何かを見つけるセンスといえば、良くもまあ、&TOKYOも調べるものだ、と感心する。

あと、蛇足なようで、かなり真面目な本筋の話なのだけれども、日本語メディアだと、『アイアムアヒーロー』のように、どうしても、突然変異種がギミックとして出てくるように思う。それはそれで日本の伝統芸能なので、創作活動としては理解はするのだけれども、現実の問題を想像する上での助けになりにくくなってしまうようにも思う。日本の文化では、ヤバイ事態をまじめに考えるということになると、外形的には、工作資金注入済みの「と学会」と同一視されてしまう事態が生じる。なので、どうしても、その種の活動を本気で試みること自体にブレーキがかかる仕組みとなっている。これは、案外、わが国における原発安全神話の構築とも連動しており、無視できない種類の脅威ではある。

そして、ゾンビのような目に見える事態の方が、放射能の脅威よりも、やはり、人は動きやすいのだろうか、という一言を付け加えることもしておきたい。私は、その点、すでに半ばゾンビである。




2017年9月9日訂正

事実関係に関する誤記などを訂正するとともに、brタグをpタグへと変更、リンクタグの位置を変更した。