2015年10月23日金曜日

オウム真理教による一連の事件の教訓(その1)

 近年、地下鉄サリン事件を含め、オウム真理教に対する再度の見直しが国際的にも始まっているようである。ロシア連邦内で、オウム真理教の大規模な摘発があったという。ソ連崩壊時のロシアにおける制度的・精神的混乱に乗じる形で、オウム真理教が定着したと聞く。オリガルヒ(政商)がやりたい放題であった当時と現在とでは、ロシアの国内事情は、大きく異なるということなのだろう※1

時事ドットコム:オウム施設摘発=ネットで信者拡大-ロシア報道
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201510/2015102100103&g=pol

※1 私も、一応、大人を気取っている。読者が時事通信の記事から私の主張に至るのはおかしいことだ、と感じるようであれば、それを否定することはしない。

 翻って、わが国は、どうであろうか。第一に、一連の事件の全容が解明されたとは言いがたい。第二に、被害者への支援も手薄い。第三に、事件対応における失敗は、責任者であるはずの公安幹部による強弁で糊塗されてしまい、一国民の眼から見る限り、再度同じ失敗が繰り返されてもおかしくはない※2。第四に、わが国では、カルト宗教に勧誘されかねない(無知な)若者を保護するためのシステムがまったく欠如した状態である。大学の事務・教務に丸投げ、というのが実態である。

地下鉄サリン事件前に強制捜査の機会も NHKニュース
(Internet Archive Wayback Machine収録分)
https://web.archive.org/web/20150320132649/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150320/k10010022681000.html

※2 これまた大事なことであるが、一介の国民の目にはそう映る、ということに重点が置かれているのであり、そう見えてしまうという状態は、対策を企画・実行する上での条件である。対策の条件には、対策が不十分に見える限りは、対策が不十分であるという批判を免れることがないという状態までが含まれる。仮に、現在の対策の稚拙さがハニーポットの如きものであるとした場合、批判を甘受するところまでが受け容れざるを得ない条件ということになる。それが対策を講じる者の仕事の辛さである。これに対して、(本記事に係る)私の仕事は、正当な評価を加えることである。

 第三の点に関連する個人的な体験を述べよう。近い人には話をしたことがあるが、地下鉄サリン事件後に起きた新宿駅での未遂事件のとき、私は、事件の舞台となったトイレに入ったことがある。埼玉から大学に行く途中の乗換え時の利用に便利だったので、事件前からそれなりに利用していたトイレであったのだ。当日、腹が緩くなり、トイレに駆け込んだは良いが、なかなか空かないうちにウェーブが去ったので、小だけして涙目で山手線に乗り換えた。そういうことがあったことは、後から知った。

 第四の点についてであるが、平成6年の入学時にオウム真理教と思しきサークルの勧誘を受け、ハガキを受け取ったり駒下の某マンション三階の部屋まで連れて行かれたことと言い、私の中では、オウム真理教による(と認定された)一連の事件は、私の中では、遠い世界の話ではなく、被害者にも加害者にもなり得たという点でも、それなりに現実味のあるものとして残っている。そのサークルの勧誘自体は、決して暴力的であったり、ほかの宗教団体のような圧迫感のあるものではなかったが、「富士山を望む湖のほとりの合宿所」というふれこみの場所までついて行っていたならば、どうにもならなくなっていただろうと思っている。ただし、当時の状況を思い起こす限りでは、無理には連れて行かれたことはなかっただろうとも考える。勧誘については、「板子一枚下は地獄」ではあるが、当時、板子はあったのである。

 オウム真理教の事件後も、一人暮らしの大学生や留学生に対する支援は、わが国では劣悪なままである。留学生に対しては、原理主義者であるかどうかを疑うという、マイナスをゼロにするためのルーティンはあるようだが、原理主義者から留学生を守り、やがては母国などで(わが国のためにも)活躍してもらうための支援という、ゼロやマイナスをプラスに転じるための施策も必要である。そうであるべきところ、現状がまったくお寒い状況であることは、周知の事実であり、ここでは、例を挙げる必要はないだろう。例を挙げ、類似事例の責任者をすべて処分するとするならば、どれだけの首が飛ぶことか。

 フルブライト奨学生に代表される他の先進諸国の留学生制度は、その制度を用意した国のファンを増やす役割も果たしているが、わが国の留学生支援に対する財政上の理解は、その辺のセンスを決定的に欠いている。南京大虐殺の記憶遺産認定を非難するあまり、UNESCOの負担金を減らすと放言した逸話は、その典型例である。負担金の減額分は、そのまま留学生制度の充実に当てれば良いのであり、そのように主張すれば、少なくとも国内からの非難を受けることはなかったのである。(その際、天下りによる中抜きの排除は、もちろん必要である。)事実認定に不服があったとしても、真実がわが国政府の信ずるとおりであったとするなら、やがては、留学生が主要な地位を占めるに至ったとき、誤りは、自然と訂正されるはずであろう。

 教育とは、未来の世代、利害関係者への再配分である。投票権のない世代が利益を享受するだけに、通常よりも高い倫理性に基づく制度設計が必要である。南京大虐殺の記憶遺産認定を巡る国内のドタバタ劇は、どの立場の日本国民にとっても、わが国の留学生を含めた教育システムが破綻しており、わが国の政治が極めて短期的視点に陥っていることを示す良い証拠となっている。南京大虐殺が事実であったとすれば、事実でないかのように発言する政治家を輩出した国民を育成した事実をもって、また、南京大虐殺が事実でなかったとすれば、そのような誤った理解の流布を阻止できない程度の社会科学系の研究者たちしか育成できなかった事実をもって、わが国の教育システムは非難されるべきである。

 オウム真理教の一連の事件と、現在のわが国に対するその教訓については、機会を見て深掘りしていきたい。ただ、事件そのものについては、優れた先行文献が見られることであるし、多くの人が現在も影響されている事件である以上、過去に遡ることについては、自ずと限界もある。とりあえず、以上の文章は、私の主張を知る上で十分なものであろう。

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