本書は、北一輝の独特な文体を、正統的なマルクス主義理解に立ち、明快に読み解くものである。
本書の白眉は、第5章「天皇制止揚の回廊」及び第6章「第二革命の論理」にある。渡辺氏は、正統的なマルクス主義の理解に立ち、北の『国体論及び純正社会主義』に対する通俗的な理解を一蹴する。北は、人間が共同的な存在であるという信念の下(第4章)、当時の天皇制を社会主義に至るまでの過渡期とみなし、当時の社会における明治天皇崇拝(=国体論)を立憲君主制に矮小化しようと試みた(第5章)。北は、当時の政治状況を、社会主義への移行が藩閥や地主階級によるブルジョアジーにより妨害されているものとして描き出した(第6章)。天皇制を社会主義革命の道具として扱うかのような北の構図は当局に見抜かれ、『国体論~』は発禁処分を受けた(第6章)。『国体論~』の視座は、辛亥革命の体験記としても読める『支那革命外史』や『国家改造原理大綱』にも共通するものである。ただ、『~大綱』は、天皇制との直接対決から転じて、天皇を社会主義革命の道具として扱うとした点で、『国体論~』とは異なる戦術を取る(第10章)。
渡辺氏は、北がヘーゲルをどの程度知っていたのかを不明としながらも(p.122)、北がブルジョア市民社会におけるアトムとしての個人主義を否定し(p.166)、西郷隆盛の周囲に見られた日本コミューン主義を弁証的に導き出した(p.169)ことを評価する。また、渡辺氏は、北の思考の論理性(=手段)を土俗的ではあり得ないものとしつつも、その議論が西欧型市民社会を拒否して共同主義(信仰)に到達したこと(=結果)をもって、土俗的であったと看取する(p.175)。他方、渡辺氏は、北の理論の鋭さと、北の提示した社会主義革命の空想性について指摘し、その乖離が後年の企業ゴロのような生活の原因となったのではと仄めかしている(第10章以降)。
本書は、北一輝の思考の断絶性と逆説性を浮き彫りにする。断絶性は、著作の内部においては、理論の鋭さと計画の拙さに、著作と現実との対比においては、著作の視野の広さと企業ゴロとしての生活倫理の低さに、見て取ることができる。逆説性は、社会主義に至るために天皇を利用するという主張にも読み取ることができるし、北の出自と才能とに係る記述にも窺うことができる。
ところがいっぽう、社会主義とは彼(#北一輝)にとって、〈共同社会〉主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもなく土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基層民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。(pp.175-176)しかし、中世の偏局的社会主義と近代の偏局的個人主義との統合を目指した北の方法は、いろいろな留保を置きながらも、大局的には、国家=社会を個に優先させる全体主義的政治哲学の系統に属するものとなった(p.178)と、渡辺氏はいう。換言すれば、その理論から生じる落差を埋める試みに、北は失敗しているのである。その理由の一つめは、公民国家(ネイション・ステート)について、北がギリシア・ローマの戦士共同体的国家のように国民が生命を捧げる対象であると美化し過ぎたこと(pp.180-183)である。二つめは、北が明治国家を封建的観念から解放された自律的な人格と見なし、全体イコール個であるという国家理念を示したことである(pp.184-186)。渡辺氏は、「民族国家という視点を廃棄できぬかぎり、その命題はつねに国家至上主義的マヌーヴァーに終る。(p.188)」という。北の思想は、スターリンや毛沢東が辿った歴史と同一の成行きを辿った(p.188)のである。
本書は、先の引用のようにパラグラフライティングされており、(私の文に比べると随分)読み易い。同時に、(私のように)猫も杓子もマルクス主義という時代よりも後に生まれた読者にとって、マルクス主義がどのように革命史観から脱却しつつあったのかを窺う上でも、本書は貴重である。革命には流血が伴うが、本書は、その命題に対するマルクス主義者の知性の到達点を示唆するものでもある。現在のわれわれは、郵便性という東浩紀氏が日本で広めた概念なども手に入れており、北の言説の数々に対して、また違った読みができるのではないかと思う。(#すでに偉い人がやってるはずだが、私は三歩で忘れる動物なので、メモなしに思い出せない。)
以下は、書評というより、要約である。
北の思想は、生まれ故郷の佐渡島を感じさせない、論理で貫徹されたものであった(第1章)。北は、23歳にして『国体論及び純正社会主義』を著した。北は、わが国旧来の土着共同体や基層民社会に息づく市民社会への反発心を活用しながら、社会主義国家に到達するための道程を思索した。北の回答は、明治維新から立憲君主制としての天皇制へ、次に社会主義へという、二段革命であった(第5・6章)。しかし北は、普通選挙のほかに、その理想を実現する具体策を見出すことができず、国民が普通選挙を利益の授受関係としか理解しなかったことを読み誤った(第6章)。
渡辺氏によると、昭和36年の日露開戦論に際して北が唱えた主戦論は、典型的な労働者階級の祖国防衛論である。北の論理は、科学的社会主義を無政府主義と区別するものは国家の存在であり、ロシアの帝国主義に対峙し、社会主義を実現するためには、主権国家である日本を防衛する必要がある、というものであった。この論理は、第一次世界大戦における第二インターナショナルの立場に先行するものであると、渡辺氏はいう(以上、p.72)。ただし同時に、「議会を通ずる社会主義革命」、革命遂行のための「機関と羅針盤」としての国家、という科学的社会主義の道具立ては、開戦論における北の思想の中心ではなく、むしろ民族国家主義が本質である、と渡辺氏は指摘する(pp.72-73)。乏しい領土と資源しか持たない国家は国際的プロレタリアートなのだという佐野・鍋山の転向上申書の論理は、北の以上の主張に先取りされているという(p.74)。
『国民対皇室の歴史的観察』は、後年彼が『国体論及び純正社会主義』で展開した乱臣賊子論の原型である。彼は、「克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を戴く、是れ国体の精華なり」という「国体論」が「妄想」にすぎぬことを、この論文で示そうとした。そのような妄想が「学問の独立を犯し、信仰の自由を縛し、国民教育を其の根源に於て腐敗毒しつゝある」からである。それはわが国の光栄ある歴史と、祖先の大いなる足跡を冒瀆するものであるばかりか、「黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途」をはずかしめるものなのである。いかにしてそれは打破しうるか。「わが皇室と国民との関係の全く支那欧米の其れに異ならざるを示」すことによって、打破しうる。こう前おきして彼は、蘇我氏より徳川氏に至るまで、日本国民は一貫した乱臣賊子にほかならなかったことを、赤裸々な筆致で素描するのである。(pp.61-62)『国体論及び純正社会主義』は、受容までに20年の歳月を要したが、同書で示された天皇制との闘争路線は、「自殺と暗殺」『革命評論』明治39年11月10日号によって、天皇制を「革命の側に盗み」取るものに変更された。度重なる著書の発禁と革命評論社を中心とした「十三年の経験は、彼にろくでもないものを、より多くつけ加えた」(第7章)。
『政界廓清策と普通選挙』でさらにわれわれの注意をひくのは、この青年が「満韓に膨脹せざるべからざる帝国の将来」という言葉を書きつけていることである。(...略...)ほぼふた月前に発表した『日本国の将来と日露開戦』において、満州・朝鮮・東南シベリアを「大陸に於ける足台」として領有することを主張していたのである。(...略...)むろんこれは内田良平の『露西亜論』あたりに示唆された着想であろう(...略...)。(pp.65-66)
見るごとくこの青年は、すでに二十歳の時点においてかくのごとき対外膨脹論者であった。これは彼の終生変らざる本質のひとつであって、北の思想の骨格をごく表面的に要約すれば、天皇制打倒と大陸膨脹主義の特異な結合、すなわち天皇なき革命的大帝国主義と形容してさしつかえない。もちろんこの膨脹主義は、その道義的根拠を説明されねばならない。それはこの二十歳の若者の可憐な道心であった。九月十六日から二十二日にかけての佐渡紙で、彼はさらにおなじ論題で再論を行った。(p.66)
彼が依拠したのは端的にいえば、帝国主義の相互性という論理である。これは一面では、白人種の先進帝国主義列強の包囲攻撃のなかで、平和政策で妥協をさぐろうとするのは、座して死を待つものだという論理である。眼には眼を、帝国主義には帝国主義をという次第であって、しかもこの帝国主義は、強者の帝国主義に抵抗する弱者の帝国主義であり、アジアの黄人種にとっては自衛権というべく、「上帝」もこれに対しては「寛大」たらざるを得ぬというのである。これはいわば危機の論理といってよく、「吾人は白人の奴隷として彼等を養はんが為めに生れたる者に非らず」という蘇峰の『日本之将来』の口移しに見るように、明治ナショナリストの基本的危機感の系譜に属する何の変哲もない論理である。(pp.66-67)
だがそれは一面では、「吾人は不幸にして帝国主義の罪悪の時代に生る」という居直りの論理でもある。英国がボーアにほどこし、米国がキューバにほどこしたところを、日本が満州にほどこして何がわるいか、日本ばかりが悪者と指弾されねばならぬ理由はないというのであって、これはのちに昭和前期の日本帝国の外交担当者が、内心かたく持したばかりでなく、たびたび外に対しても表明した論理であった。そしてこの領土再分割の論理は、世界史を民族の生存権の闘争と解する北の民族興亡史観的解釈のストレートな産物でもあった。(p.67)
ただこのシニックなリアリズムに立ちつつ、この二十歳の青年は(...略...)自分の説くところを「侵略」と自認しつつ、その悪を通じて結局は善をもたらしたいという可憐なのぞみをかくすことができなかった。(p.67)
中国への渡航後、北は、大隈重信に入説するため『支那革命外史』を執筆し、日本と中国が革命帝国として共存するためのプランを提示した(第9章)。日本は、英国をアジアから駆逐し、香港・シンガポール・豪州・ニュージーランド・英領太平洋諸島を奪取する。インドは独立させる。中国は、ロシアと戦争し、内外蒙古を確保する。日本は、ロシアからバイカル以東のシベリア沿岸諸州を奪う。満州は日本が保持する(p.289)。同書は、辛亥革命の証言としての意義を有するとともに、北の予測の鋭さと計画の空想性との乖離を示す資料としての価値を併せ持つ。大正5年には法華経を受容している(第9章)。
中国再渡航後、帰国前に『国家改造原理大綱』を執筆した(第10章)。同書は、『国体論及び純正社会主義』の具体化に向けての法律論を含み、『支那革命外史』に示された対外膨脹主義の綱領でもあった。天皇制ファシストの理論上の手本となる「擬ファシスト」と見なされながら、大資本廃絶の指向性が極端に過ぎること、天皇を社会主義革命の道具として利用する天皇観が行間に読み取れることの二点により、北は、『大綱』の責めを負い、やがて刑死することになる(第10章)。北は、帰国後、皇太子に法華経を献上(p.328)し、大川周明と仲違いし(pp.333-335)、手下の浪人を養うために恐喝事件の糸を陰で引いたり企業から金をせびったりした(pp.335-344)。
最近、私自身は微妙に近代史づいているが、それには理由がある。満鉄=現今の日本出身の財閥、(大陸)浪人=ネトウヨ、といった図式は、ほかの要素や成員が大きく異なるとはいえ、現今のわが国における不穏な空気の理由を、それなりに十分に説明できるように思うからである。近年、わが国の大財閥は、四割程度の株式を国際金融勢力に取得されているが、私の理解によれば、当時の財閥の行動様式は、最近のものとさほど変わりない程度に国際化されたものである。
鬼塚英昭(2013)の書評(リンク)では、北一輝の理解を通俗的なものに基づき記したが、この点を補足しておきたい。第一点、本書ほどに北一輝の著書を読み込んでませんでした。アホですんません。第二点、それでも、安保運動当時の大衆がどう受け止めたかが重要であり、本書の底本が1985年なので、結果としては、当時の大衆は、おそらく、私のような通俗的な読みをしていたと考えた方が妥当だろう。横断歩道を皆で渡った感がある。
陰謀論は、玉石混淆であり、整理されなければ、私の頭では追い切れない。その作業を通じて北一輝についても私自身の考え方を明示することは、日本の行く末まで含めて的確な予測を行う上で必要不可欠な作業であるが、現在の時点では、その材料に不足しているし、(アホな話まで含めて個別の命題を逐一検証していく上で必要な)才能も不足しているかもしれないと感じ始めている。ペースを上げるとしても、あと2倍速くらいまでだし、それだけ頑張っても追いつかないかもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿
コメントありがとうございます。お返事にはお時間いただくかもしれません。気長にお待ちいただけると幸いです。