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2017年12月10日日曜日

(感想文)『John Wick』劇中の金貨について

キアヌ・リーブス(Keanu Reeves)氏主演の『John Wick』(2014年)のケーブルテレビ放送を録画し鑑賞した。

劇中で暗殺者たちにより使用される金貨の価値がどれくらいか、少々興味が湧いたが、流石はインターネット、議論自体は既出のようである(。しかし、納得はできかねる)。アダム・オズィメク(Adam Ozimek)氏は、金貨が独自の地下経済圏を形成しているものと推定されると解説している[1]。『StackExchange』のスレでは、深く考え過ぎるなという回答がトップに見られる[2]。しかしながら、劇中には、非常に多数のサービス要員が登場するが、実体経済との交換可能性が存在していればこそ、これらのサービス業者も存在できよう。このため、先に見たような外野の意見は、問題の本質をはぐらかそうとするものでしかない。現に、劇中においても、ミカエル・ニクヴィスト(Michael Nyqvist)氏演じるロシア・マフィアの頭目ヴィゴ・タラソフ(Viggo Tarasov)が、自宅の金庫・教会の地下金庫の双方において、金貨とドル紙幣の両方を保管していることは、映像として示される。おそらく、劇中では、組織犯罪集団は、両替商の機能をも兼ねており、それゆえに影響力を維持しているものとも解釈できよう。この点は、現実において、ビットコインが『シルクロード』で利用されていたことと類似するものと言えよう。

『John Wick』中の金貨は、1オンスのウィーン金貨[3]の実勢価格[4]よりも高価に取引される存在であるように見受けられる。劇中では、死体処理に一体一枚、暗殺者の監禁に一枚、安全が維持されたバーへの出入に一枚といった形式で使用されていた。ウィーン金貨は、1オンスが最大の重量(価格)であり、その直径(37mm)は、デイヴィッド・パトリック・ケリー(David Patrick Kelly)氏演じる死体処理業者のチャーリー(Charlie)への支払場面による限りでは、劇中の金貨と概ね同一であるから、比較対象として適切であろう。他方、真鍋昌平氏の『闇金ウシジマくん』では、死体処理が一体50万円という話があったものと記憶している。よって、『John Wick』中の金貨は、1オンスのウィーン金貨よりも、数倍の価値を有する(場合がある)と言えよう。チャーリー一座のサービス内容は、原状回復まで含めたものであり、荷物を持込む必要がある『ウシジマくん』の業者よりも上等である。円に換算すれば、チャーリー一座のサービスは、桁としては数百万円と観て良かろう。わが国の高級ホテルも、一泊百万円近くのサービスが存在することを思えば、安全な食事だけでなく、貴重な情報が提供されるバーへの出入りに対して、金貨一枚という価格は、あながち外れたものでもなかろう。百ドル単位の支出というものは、ニューヨーク市でも、東京でも、中流階級であると自認する人々にとっては、豪勢な一晩を意味するであろう。劇中の金貨は、この一桁上のサービスを提供するというイメージで良かろう。なお、賢明な読者にはお見通しであろうが、これ以上の具体的な価格の追究は、私には無理というものである。

そのほかの感想は、以下のとおり。

  • ロシア・マフィアの無軌道振りは、2014年のハリウッド映画界の戦争屋振りと呼応している。
  • 殺し屋という設定にしては、アクションが大ぶりである。良く体が動くなあとは感心するが、もっと省力的で良いのではないか。
  • 『PayDay 2』というゲームに導入されたJohn Wickは、武器にしても人体モデルにしても、良く再現されている。
  • たかが一匹のビーグルのために?という感想が見られる。しかし、わが国では、類似した言い訳の事件が存在し、少なくとも大マスコミがこの点を追及しなかったことは、忘れてはならない。
  • 交換可能性を追究しすぎると、アドルノがマルクスを援用して言うところの物象化(=何でもカネで換算し、固有の価値を理解できなくなること)を強化することになりかねない。しかしながら、「砂金を蓄積して信用供与の手段として利用するという方法は、国際秘密力集団の資産形成術の本丸である」というのが、落合莞爾氏の近年の主張である。金貨が使用されるという設定そのものについては、同意できる。

[1] Understanding The John Wick Economy
(Adam Ozimek(Contributor, Modeled Behavior)、2017年04月09日12:55)
https://www.forbes.com/sites/modeledbehavior/2017/04/09/understanding-the-john-wick-economy

[2] What's the value of the John Wick gold coins? - Movies & TV Stack Exchange
(2017年10月03日)
https://movies.stackexchange.com/questions/81029/whats-the-value-of-the-john-wick-gold-coins

[3] 田中貴金属工業株式会社|ウィーン金貨ハーモニー
(2017年12月09日確認)
http://gold.tanaka.co.jp/commodity/shohin/wien.html

[4] 田中貴金属工業株式会社|貴金属価格情報
(2017年12月09日確認)
http://gold.tanaka.co.jp/commodity/souba/index.php


#しばらく執筆が滞っていた上、毒にも薬にもならない内容であるが、勉強不足・作業不足のため、まだまだ滞る予定である。

2016年8月3日水曜日

『SAW』シリーズの「ゲーム」はテストであってゲームではない

 疑問が氷解するきっかけがあったので、忘れないうちに記しておくことにする。

 『SAW』シリーズ、18禁映画を話題にしたい。こう見えて、快楽主義者な私は、このシリーズを嫌悪するとともに、非常な違和感を感じてきた。初作を観たとき、かなりの初期に、犯人が分かってしまい、めっちゃ萎えた、という経験も影響している。それよりも何よりも、このシリーズ中で用いられる「ゲーム」という言葉に引っかかってきた。バレバレだが、私は、普通の人よりは、ゲーマーである。

 同シリーズの主人公、ジグソウの(初作なら二人が目覚めた後の)決め台詞は、I want to play a gameであるが、私からすれば、奴の意味する「ゲーム」は、どう見ても、生きるに値するか否かの「試験」であって、英語で正確に意味する用語を探せば、私に言わせれば、testである。もちろん、私は、奴が「ゲーム」の語を「生の価値を体感するために、痛みに耐える」という作業内容を指して用いていることを、理解しているつもりである。また、一応、ジグソウは、奴なりの基準によって、ゲームとテストという語を相手によって使い分けているようではある。

 しかし、『SAW』シリーズにおける「ゲーム」という語が意味する、「痛みが用意されており、我慢する必要があって、報酬は自分の生命である反面、失敗はほぼ例外なく死」という状態は、明らかに、ゲーム数千年の歴史が想定する「ゲーム=遊戯」の伝統的な意味に反したものとなっている。通常の意味でのゲームは、大抵の人にとって、成功報酬は低いかも知れないが、失敗による不利益もほとんどないものである。なお、賭博とゲームが深い関係を有しながら発展してきたことは、これまた共通の理解であろう。賭博に起因するゲーム上の失敗・敗戦には、不利益が付随しがちではある。しかし、それは、あくまで、賭博という行為に係る話である。それゆえ、ゲーム自体が不利益を生じさせるということではないはずである。

 このように、「ゲーム」に対する基本的な誤解が向こう側に認められるため、私は、『SAW』シリーズを受け付けないのである。『死亡遊戯』なら良く分かるし、楽しんで観たというのは、落ちていないであろうが、オチのつもりである。

2015年10月15日木曜日

『レイルウェイ 運命の旅路』を観て(感想文)

 泰面鉄道建設に従事させられた英国兵捕虜のエリック・ロマックス氏を描いた※1『レイルウェイ 運命の旅路』を観ていて、日本は、基本的に国民しか資源がないにもかかわらず、個人を代替可能な存在とみる伝統があるのかな、と思った。無常観が底流にある限り、百姓には逃散という最終手段があり※2、キリシタン大名は女性を海外に売り、江戸は梅毒で若い働き手を減らしまくるも常に次男坊以下が送り込まれ、というように伝統は続く。第二次世界大戦時に大多数の日本人が(そして相手方も)国際法を無視し捕虜を虐待したのは、捕虜になることを潔しとせずという戦陣訓を過度に重視したことの裏返しであろう。資源が国民しかないわが国では、戦陣訓のような馬鹿げた心得を部下に説き、国民に自決を強制する一方で、本国の上司はのうのうと私腹を肥やす。これが、わが国の平常運転の姿なのだ。デービッド・アトキンソン氏自身が解説する小西美術工藝社の経営手法(『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』)は、その整然さが、ほんの少しだけ、会田雄次氏の『アーロン収容所』を連想させる。日本人による捕虜虐待は、まさに※3今現在の日本企業のスタンダードである使い捨て労働と、正社員に対する不当な優遇を彷彿とさせるために、目的を達成する上で必要な限りの合理性を追求する英国式経営が、対比として連想されてしまうのだ。
 憲兵で通訳の永瀬隆氏の青年期は、ロンドンをベースとされているという石田淡朗氏が演じており、壮年期は真田広之氏が演じているが、それぞれ、役に要求される繊細な感じが画面に出ている感じがとても良かった。(←月並みな表現で申し訳ありません。)ロンドンには3.11後、9千人以上が移住している。その中には、3.11の戦犯も含まれるのであろう。それらの戦犯が、自身らの子供たちと同様に、現地で、ほかの若者たちが飛躍できるよう支援するのであれば、後の世代が彼らを赦すことも、やがては可能になるのかもしれない。先の大戦についての書物を読めば読むほど、それは期待できないことのようであるけれど。

※1 これ以上書くと、ネタバレなので書きません。
※2 逃散した百姓がどのように扱われたのかについては、多少承知しているが、逃亡奴隷が容赦ない扱いを受けた他国・他の事例と比較すると、マシなのかもしれない。
※3 昨今の流行を真似てみた。本当に、現在のわが国の政府は、国民の虐殺が目的であるならば、まさに素晴らしい戦果を発揮している。