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2018年3月7日水曜日

(書評)大抵の大卒者は沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』を読むべきである

沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』[1]は、岩波ジュニア新書であるが、大半の日本人が一読すべきであろう。論文の要件(インテグリティ)、事実と意見の区別、事実の収集方法、自説の整理方法、文章作法(パラグラフ・ライティング、段落書き)、ゼミへの参加と指導、といった基礎的で網羅すべき項目が、コンパクトにまとめられている。ある日本人が大学を卒業した実力があると主張するためには、同書に示された内容を修得している必要があろう。とりわけ、商業雑誌に良く見かけるような、体裁の乱れた文章を書いている多くの「研究者」にこそ、熟読してもらいたい。

もっとも、新聞を重要な情報源とすべしとの第2章第2節は、巧妙なウソとして誤読される可能性を持つ内容となっている。端的には、

しかし、新聞は、ジャーナリズムのルールに従って、事実と認めてよいと記者と編集者が判断した事柄のなかから、人びとに伝える価値があると認められるものを選んで記事にしています。〔…略…〕

という記述〔p.46〕は、現時点の典型的「ジャーナリズム」に対する誤解を避けるためには、「ジャーナリズムのルールなるものが金主の意向を反映するあまり、伝える価値のある事実を欠落させていることもある」旨の記述にまで、非難の調子を強める必要がある(。もっとも、この書籍に対して、ここまで啓蒙的な役割を求めるのは、期待し過ぎというものかも知れない)。

以上に見たように、新聞に係る記述の恣意性は認められるものの、沼崎氏の書籍は、たとえば、木下是蔵氏の『理科系の作文技術』[2]と比べても、段違いに有用である。私がかつて大学の学部生であった頃(平成6年度)、木下氏の著書は、大学生協に平積みにされており、私は、推されるままに同書を購入した。その後、同書のおかしさに対して、最近まで気が付かずに過ごしてしまったが、仮に当時、沼崎氏の書籍に先に触れることができていたならば、文章作法については、無駄な努力をせずに済んだかも知れない。というのも、木下氏は、段落の重要性について触れてはいる〔4章〕ものの、同書自体は、段落書きが徹底されていないからである。木下氏は、実のところ、段落書きの効用を十全に考察してはいない。というのも、パラグラフ・ライティングされた書籍は、速読に不慣れな読者の読書スピードを増加させ、結果として彼らの利便を増進するからである。段落書きされた文章は、この点、消費者本、消費者主権主義である。木下氏は、前掲書の第1章で主張していたほどには、読者の都合を執筆時に考慮していなかったと批判できよう。

木下氏の著書は、案外無視できないほどに広範な負の影響を、日本語論壇に与えているやも知れない。稚拙な文章の書き手が偉くなり、しかも多数派を形成しているとき、ろくでもない文章を読み落とした責任は、読者の側に押し付けられてしまう。読者が作品に不満を持っても、作品が低質であるとの認識が共有され、これらの作品を超えようとする良質な書き手が現れなければ、言論市場は変化する機運を持たないであろう(。この点、文芸作品の質には、恐れ入るばかりである。面白い作品が市場に溢れている)。木下氏は、段落書きの効用を将来の書き手に分かりにくく伝えたことにより、思わぬ負の影響力を日本語環境に対して発揮してしまったが、もはやこの世にいない。遺族にとっても出版社にとっても、売り続けることしか、この書籍から利益を引き出す方法がない。ここに、学術書についてのボトルネックがある(。この話は、ノンフィクションやエッセイについても、該当しうる)。

賞味期限が存在するにもかかわらず、著者によって引導が渡されなかった書籍は、ゾンビのようなものである。50年前なら50年前の事情を読み込んで(、一部に見られる表現によれば、「情報を抜いて」)、その書籍に当たれば良い。当時の事情を調査する必要のある学者やジャーナリストであれば、それらの書籍にも、遺物としての一定の価値を認めよう。しかし、商業原理ゆえに賞味期限切れの書籍が売り続けられるとすれば、ここで文章作法について見たように、日本語環境全体を汚染するという思わぬ副作用を生む。汚染された環境は、汚染された書き手を再生産する。汚染された多数の書き手は、特定言語の人間社会を停滞へと陥れる。この自家中毒は、ゾンビ・パンデミック(大流行)と呼んで差し支えないであろう。例外として、ビジネス書やソフトウェアの解説書、自然科学に関する書籍が挙げられよう。これらの書籍に賞味期限が存在することは、ほぼすべての読者に理解されているであろうからである。言論環境までを考慮したとき、出版社は、自身のビジネスに後ろ指を指されたくないのであれば、後継者の発掘と指導までを含まなければならないのかも知れない。この点、残念ながら、日本語という情報環境は、ゾンビ・アポカリプス(黙示録)後の世界にある

木下氏のダメ紙上講義の瘴気に当てられた実例としての私にも、読者としての責任のいくらかはあるが、木下氏の書籍を長く流通させた社会的構造に対しても、多少の恨み言をぶつけても構わないであろう。というのも、最近、エーリッヒ・フロム氏の著作を改めて能動的に読み進めてみるにつれ、『自由からの逃走』やその続編にあたる『正気の社会』については、段落書きが徹底化されてはいないものの、(木下氏の著書に先立つ)中後期の著作においては、エッセイであっても、完全な段落書きが実現されていることに気が付いたからである。教えてもらっていたならば、明らかに気が付けたであろう、という程度の明瞭さである。通常、私は、新書をベタ読みするのに2時間程度を要していたが、同程度の分量である『反抗と自由』などは、15分くらいで段落読みできるようになっている(。もちろん、飛ばし読みであるが、的確に飛ばし読みできるようになったと自覚できている)。

パラグラフ・ライティングという文章作法を信用することは、二点の理由から、リベラル的であると言える。まず、この言論システムを信頼することは、個人の野放図な論説の制作という自由を制限するが、システムに対する信頼そのものは、社会契約説を参照するまでもなく、リベラルであると言える。次に、論説における段落書きは、「この作法を知る読者」すなわち他者を思いやることにつながるから、ロールズ風のリベラルでもある。パラグラフ・ライティングが言論界で貫徹されていれば、言論人同士の誤読・誤配は少なくなろう。また、つまらない外野の声を雑音化することにも役立とう。「つまらない外野」の中には、文章作法のなっていない論者も含まれるということになる(が、そこは、論者自身が修正すべきことである。誰でも発信可能な時代において、「知識人」という旧来の権威が相対的に無力化されることは、避けられない)。

他方、日本のように、公用語の影響力が自国内に限定された国家においては、段落書きされた文章表現は、社会集団が効率よく情報を吸収できるという観点から、社会防衛主義的であると言うこともできる。わが国の事情は、ドイツやイタリアといった、遅れてきた帝国主義国家においては、共通するものであろう。旧植民地においては、高等教育が英語で行われる状態が標準的となっている。皆が統一された読書術・文章術を修得していれば、文章を効率よく、かつ的確に理解することが可能となり、結果、議論の正確性も向上しよう。そうであるべきところ、しかも日本語論壇に舶来ものをありがたがる風潮があるにもかかわらず、なぜか、文章作法だけは、未熟な状態に留まっている。自称「保守」や「国家主義者」の著者の大半が段落書きできておらず、その理由についても言及していないことは、社会防衛主義者から見たとしても、お粗末な事態である。この事態は、「保守」や「国家主義者」の大半がマウントを取りたいだけの権威主義者に過ぎないのではないか、という疑いをも抱かせる材料でもある(。もちろん、本稿は、「正しい知識」という観点からのマウント・ポジション狙いのものである)。

私は、効率的かつ効果的な読書体験を、日本語話者・日本人の生き残りに役立つものと考える。民族のサバイバルには、非常に広範な分野に散在する知識を集成し、知恵(知性)へと変化させることが必要となる。段落読み・段落書きは、各人が実践すれば、社会において、その作業効率が指数関数的に高まるという集合的効果を生じよう。また、段落書きされた文章は、国際秘密力集団の手口に通暁した上で、日本人に対して的確な助言を提供している人々の所在を示す手掛かりとなるやも知れない(。敵方もパラグラフ・ライティングされた書籍で効率的に学習している以上、民族独立の意志と知識との両方を兼ね備えた人々が、その知恵を伝達しない訳がない)。

ただし、読書体験の向上した社会に何が生じるのかは、私には分かりかねることである一方で、羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』[3]は、この帰結に対するヒントを与えているような気がする。同書は、ゾンビ物の例に漏れず、群像劇となっている。そのうちの一人、ビジネスマンの「浩人」は、映画を早送りで見るといった「時短」を習慣とする。彼は、ゾンビ映画を時短で見た後、ネットで他者の感想を検索・確認した上で、自身の感想を大勢のものへと修正する。挙げ句、関連事項を次々と検索し続け、時短で節約した45分間を浪費してしまう〔p.73〕。この先は、ネタバレとなるから、オチは、同書に譲ることとしよう。


[1] 沼崎一郎, (2018.1).『はじめての研究レポート作成術(岩波ジュニア新書865)』, 東京:岩波書店.
http://id.ndl.go.jp/bib/028725437

[2] 木下是雄, (1981.9). 『理科系の作文技術』, 東京:中央公論社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000001522014

[3] 羽田圭介, (2016.11). 『コンテクスト・オブ・ザ・デッド = CONTEXT OF THE DEAD』, 東京:講談社.
http://id.ndl.go.jp/bib/027697574




2018年7月27日20時27分訂正

一部の表現や誤記を訂正した。

2018年2月22日木曜日

(一言)TPP11=CPTPPを読みこなせる日本人はどれだけいるのか

TPP11=CPTPPの案文が2018年2月21日に公開されたこと[1]を『スプートニク日本』経由で知った。ニュージーランド政府のウェブサイトを確認したが、確かに公開日が21日である[2]。私は、数週間前に気になり、条文を探しまくってみたことがあるが、徒労だったことになる

CPTPPについては、発効条件自体、長らく秘密にされてきた。発効条件は、従来のマスコミ報道による限りでは、11カ国中6カ国以上の承認を必要とするというもの[3]であった。一応、その条件は、この度公開された英語版[4]の第3条第1項に継承されている。しかしながら、従来の根拠のうち、国民に対して全くのオープンアクセスであったものは、茂木敏充大臣(内閣府特命担当大臣(経済財政政策))の会見資料くらいしか[5]存在しなかった(。国民向け説明会の資料もあるが、やはり、条文そのものを掲載していなかったために、根拠とはいえない)。しかも、茂木氏は、TPP11=CPTPPの条文の「Annex I」の「Article 3」に記されていると明言していた[5]が、今回、ようやく公開された条文と対比する限り、いつの間にか、Annexが一つ消え失せたことになる。およそ、「子供たちのごっこ遊び」と呼べる頻度で、ルールが変更されている。

しかも、CPTPPの英語は、(厳密ではあろうが、)構文上、難読と呼べる程度のものであって、大学入試で出された日には、「ムーミン谷はフィンランドにある」説どころではない阿鼻叫喚状態が生じそうである。しかしながら、一般的な日本人が到達可能な理解がいかなるものになるのかを検証するため、また、個人的な答え合わせを兼ねて、第3条第2項をGoogle翻訳[6]にぶち込んでみたところ、予期せぬ程に内容を理解できるような回答が帰ってきたので、その翻訳結果を引用しておく;

本契約が第1項の下で効力を生じていない本契約の署名者については、本契約は、その署名者が適用される法的手続きの完了を書面で預託者に通知した日の60日後に効力を生ずる。
もっとも、22日08時35分の時点で、なぜ、Google翻訳が正確といえるレベルの答えを返したのかは、謎である。


CPTPPに見る秘密主義・選民主義は、官僚・大企業・学術研究機関に所属する自称エリートたちの平常運転モードであるとはいえ、全くの他人事ながら、心配になるものである。CPTPPの下に展開されるであろう構造的不正は、CPTPPの制定に関与して恩恵を受けてきた人物たちの連帯責任となって、必ずや、応報的に機能するためである。CPTPPは、末代まで祟る(庶民にとっての)不平等条約であり、他民族にも恨まれることにもなる。この時空間上の広がりゆえに、どのようなフィードバックが生じるのかは、誰にも予想できまい。大体、渡されもしないし読めもしない契約書に、誰が判を付くというのであろうか。悪徳商法そのものと同一の構図である。わが国の成人であっても、約款を実際に読むか否かは別として、約款が提示されたこと自体を信頼し、契約を進めていよう。CPTPPに対する国民感情は、お手盛りの世論調査では汲み取れないものであろう(。内容を理解している国民は、CPTPPが一種の「国策」であることをも理解しているであろうから、やんわりと調査拒否するであろう)。その辺をよくよく弁えておかなければ、自称エリートたちは、思わぬ事態を迎えることになるやも知れない。


[1] TPP11の条文が公表される 3月に署名へ - Sputnik 日本
(記名なし、2018年02月21日21:54、更新2018年02月22日00:46)
https://jp.sputniknews.com/business/201802214603609

[2] Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership text | New Zealand Ministry of Foreign Affairs and Trade
(2018年02月22日確認)
https://www.mfat.govt.nz/en/trade/free-trade-agreements/free-trade-agreements-concluded-but-not-in-force/cptpp/comprehensive-and-progressive-agreement-for-trans-pacific-partnership-text/

[3] TPP11、6か国承認なら発効…大筋合意
(読売新聞・ダナン=田中宏幸、2017年11月12日)
https://www.msn.com/ja-jp/news/money/%EF%BD%94%EF%BD%90%EF%BD%90%EF%BC%91%EF%BC%91%E3%80%81%EF%BC%96%E3%81%8B%E5%9B%BD%E6%89%BF%E8%AA%8D%E3%81%AA%E3%82%89%E7%99%BA%E5%8A%B9%E2%80%A6%E5%A4%A7%E7%AD%8B%E5%90%88%E6%84%8F/ar-BBER65Y

〔…略…〕新協定の発効条件は、11か国のうち6か国の国内手続きが完了してから60日後と定めた。

[4] COMPREHENSIVE AND PROGRESSIVE AGREEMENT FOR TRANS-PACIFIC PARTNERSHIP
(2018年02月20日18:48:41作成、21日11:07:39変更、22日閲覧)
https://www.mfat.govt.nz/assets/CPTPP/Comprehensive-and-Progressive-Agreement-for-Trans-Pacific-Partnership-CPTPP-English.pdf

[5] 茂木大臣による記者会見の概要【PDF:85KB】
(2018年01月25日)
https://www.cas.go.jp/jp/tpp/naiyou/pdf/tokyo1801/180123_tpp_tokyo_kaiken.pdf

[6] Google 翻訳
(2018年02月22日確認)
https://translate.google.co.jp


#多忙のため、引き続き、ブログ更新をサボりがちとする予定。世界の動きも速すぎて、追随するので精一杯。




2018年02月25日追記

念のため、21日夕刊と22日朝刊の『読売新聞』『朝日新聞』『日本経済新聞』を確認したが、『読売新聞』22日朝刊のみが、CPTPP条文の公開を2面で報じていた。およそ300字程度の小さな扱いである[1]。『Yahoo!トピックス』[2]を見ても、『日本農業新聞』と『ロイター』くらいしか、本件をタイムリーに報じていないようである。23日、トランプ大統領がターンブル豪首相と会談後の記者会見でTPP復帰を示唆した。ひょっとして、トランプ氏が各国国民に対する情報提供を企図したのではないかと思えてしまう程に、主流マスコミは沈黙している。


[1] 記名なし, 「新TPP 発効条件緩和/7条の協定文を公表」, 『読売新聞』2018年2月22日朝刊14版, 2面総合.

[2] 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の関連情報 - フォロー - Yahoo! JAPAN
(2018年02月25日確認)
https://follow.yahoo.co.jp/themes/0f7c5fc9f157e88c2731/

2016年12月25日日曜日

ブラックジャーナリストは公職に相応しい存在か

わが国では、高度成長期以後、護送船団形式による表の企業経済が躍進する影で、国際的には競争力が劣位にある企業分野における経営者、これに圧力を加えて利益を得ようとする職業右翼活動家や暴力団などが離合集散しつつ、勢力の均衡が実現されるという、合法から非合法まで連続的な位相を見せる経済界が存在してきた。その膨大な経済活動には、グレーからブラックまでのジャーナリズムが寄生してきた。表向きはジャーナリスト、探偵業、出版業、金融業などからなる業態である。彼らは、正業者と濃厚に交流しつつも、明確な棲み分けを行い、ときに警察の情報源ともなり、ときに総会屋として活動することなどを通じて、ウラ情報の表社会への還流に一役買ってきた。他方、わが国の労働組合は、このような状態に対して、鵺的な存在として機能してきたとはいえ、企業単位という性格のために、結果として、他国に見られるような犯罪組織からの強い影響免れてきた。

後世に生きる筆者の目には、当時の「黒幕」と呼ばれる大物たちは、自らの裏社会における地位を確固としたものにしていた一方で、「表社会」における公的な名誉までは求めなかった紳士に映る。あくまで黒幕と呼ばれるに相応しい節度を身に付けていたからこそ、大物と認められていたようにも見えるのである。昭和51(1976)年に明らかとなったロッキード事件によって全国区で有名となった二人の黒幕、児玉誉士夫氏と小佐野賢治氏は、この見方に該当するように見える。児玉誉士夫氏は、現時点から見れば、職業右翼と呼ばれうる存在であるし、小佐野賢治氏は、企業家でありかつフィクサーであったと言えよう。両名とも、毀誉褒貶の激しい世界に身を置いていたにもかかわらず、私には何らかの節度をわきまえていたようにも見える。当時の社会においてさえ、関係者のみならず、テレビやマスコミ報道に踊らされた無知な層を除けば、社会から憎からず思われていたと見て、間違いではないであろう。現在の視点からすれば、悪人を擁護することなどあり得ないと思われるかもしれないが、悪を自覚する者が棲み分けの重要性を自覚していたゆえにその地位に相応しい尊敬を獲得していたことを、私は指摘したいのである。おそらく、某ビジネス書が指摘するとおり、自らの影響力の範囲と実力とを一致させ、維持することは、ある人物が黒幕であろうと、後世に認められるための要件なのであろう。

ところが、両氏のような生き方を可能とした、鉄の四角形とも言うべき政官財暴の均衡は、平成3(1991)年の暴対法制定を嚆矢として、大きく変化することとなった。昭和63(1988)年のリクルート事件を始めとして、証券・金融分野を通じた「不祥事」が一部の週刊誌ジャーナリズムによって「スクープ」され、「黒幕」と呼ばれうる怪人物が活躍する余地が失われ、バブル崩壊直後に制定されたこの法律は、裏社会の空白を埋める形で官僚の統制を強化するという機能を果たした。この傾向は、平成7年のオウム真理教による(と裁判を通じて認定された)一連の事件後には、さらに強化された。バブル崩壊後の氷河期とも形容された不況を理由に、企業社会が裏社会との関係を断ち切るようになったのである。この背景には、暴対法の施行を確実なものとするために、体力のある大企業がベテラン警察官や警察官僚の天下りをより多く受け入れるようになったことが指摘できる。裏社会から官公庁へと権益が移行したのである。

その主張がいかなる動機に基づくものであるかは慎重な検証を必要とするが、この時期辺りまでのわが国裏社会の人物や組織は、法や分を弁えることを重視すると公言してきた。たとえば、「カタギには手を出さない」「違法薬物禁止」という種類の言明である。これらの言明は、縦割り主義的な結果を生じることとなり、わが国では、大学という組織は、一部の私学を除いては、これらの裏社会との接触が比較的小さなものに留まってきた。大学や学校法人は、一部を除き、左翼と見なされる組織により占拠される一方、大学に巣くう極左集団などは、一般的には、裏社会とは呼ばれなかった。もちろん、大学が純真無垢な組織であり続けてきたという訳ではない。たとえば原子力産業は、用地買収や左翼団体に利用される裏社会の強面たちと交際する必要があったし、大企業の総務部は、大企業社会において、その種の難しい業務を一手に引き受ける必要がある部門である。体育会は、このようなマッチョさを要求される分野の格好の人材供給源となったのである。このコネクションは、必要悪として、わが国社会の「大人」なら、当然視てきたものと言えよう。

1990年代におけるブラックジャーナリズムの変化を理解する上で大事なことは、顕名性がユーザに浸透していたダイヤルアップを通じたパソコン通信環境から、知識に乏しく匿名的であると誤解するユーザを多数含むインターネット掲示板へと、アングラ情報流通の舞台が変化したことである。この結果、ウラ情報は、世紀の変わり目頃には、『2ちゃんねる』に代表されるインターネット上の掲示板に書き込まれることが習いとなった。プロキシサーバを介することにより、書込主は、一定の匿名性を期待することもできたが、ときには、証券市場に重大な影響を与える情報さえ、インターネットの特徴を知らない初心者(に見える、あるいは初心者を装う)ユーザによって、(一見)不用意に書き込まれ、大々的に流通することになったのである。

わが国の「匿名掲示板」の巨人であった『2ちゃんねる』は、「匿名」との評判からか、今世紀初頭には、真偽不明の、株価に影響を与えうる内容も大量に書き込まれる掲示板となっていた。この動きには、多数の企業人までもが関与し、その関与自体が明らかになるにつれ、さらに読者を引きつけることとなった。考えの浅い投稿者がプロキシサーバを経ることなく、インサイダーや風説の流布に相当する危険のある内容を投稿するようになった。企業が自社のIPアドレスから直接その内容を把握しようとするという、現在からすればほほえましい動きも見られた。書込みや閲覧が、身元確認につながりやすい携帯電話から行われることもあった。これらの条件が組み合わさることにより、2ちゃんねるの運営者や、それに連なる人物たちは、真偽不明の内容に加えて、取得していないと主張していたログを利用して、ブラックジャーナリズムを本格展開する機会を手にしたのである。

犯罪予防の基本である、「犯罪者の認知する犯罪の機会は、ほとんど常に利用される」という教訓は、先述した環境によって、『2ちゃんねる』の展開するブラックジャーナリズムにも該当することとなった。『2ちゃんねる』は、最後にはサーバが「クラッキング」され、有料サービスの購入に利用されていたクレジットカード情報が匿名化ネットワーク上に流出したことにより、この巨大掲示板を舞台とした明らかな犯罪の痕跡が匿名化ネットワークの世界には残されることとなった。個人だけでなく、永田町に近い組織や、企業までもが情報を監視し、あるいは流通に荷担していたことが認められるようになったのである。

インターネット上の明らかな経済犯罪の痕跡を確認したとき、自ら動くことが可能な組織は、検察と証券取引委員会であるが、これらの組織は、今世紀型のブラックジャーナリズムに還流したはずの利益を十分には解明しなかった。株価操縦等が外形的に認められる痕跡から実際に立件に至った事件は、到底、『2ちゃんねる』の運営に連なる人脈の資金流通を止めるものとはならなかったのである。それどころか、この巨大掲示板を活用しつつ、巨万の富を築き上げたロスジェネ世代の怪人物たちの一部は、政界進出を目論むことさえした。この時点で、日本的サブカルチャーを装うアングラ業界の人物たちは、戦争屋に連なる政治人脈と交友関係を結ぶことにさえ成功していたのである。

政界進出及びマスコミ買収に伴う反動という形で、いわゆるライブドア事件が生じたことは、わが国において、一定の「抵抗勢力」が結果として国益を保全してきたことを逆説的に示す証拠であると言える。しかしながら、ライブドア事件を捜査した部署は、東京地検特捜部であ、同部による捜査は、とうてい不法行為の全容を解明するものとは言えないものであった。いくつかのエクストリーム自殺については、その解明がほかの凶悪事件をも解決に導きうるものであったにもかかわらず、解明が行われることなく、放置されたことを指摘できる。

検察までもが一大疑獄の可能性が強く疑われる凶悪事件を放置した結果、これらの活動に関与してきたことが十分に認められる人物たちは、多少の抵抗に遭うも、大きな発言権を日本語社会において確保することに成功し、現在に至っている。彼らが作り上げたオルタナティブな情報インフラは、現在、情報操作のためのツールとして、現政権に大いに活用されている。内閣機密費は、これらの情報操作に利用されていると指摘されている。もちろん、われわれ一般人には、その確実な証拠を掴むことは適わない。

わが国の勢力均衡状態と縦割り文化をふまえれば、「闇の紳士録」に掲載されるであろうほどに成長したこの分野の有名人たちは、現時点では、羽目を外し過ぎている。日本社会は、彼らが従来の役割、たとえば投資家として振舞う限りにおいて、従来の「ビジネス」に従事することを許容するであろう。固有の社会的役割に従事することの代償として、アングラ業界の人材は、それに見合う報酬を得てきたと言える。その地位を超える報酬(名誉や地位)を望むことは、社会によって許容されていないのである。

このような状況を鑑みるとき、この状況に責任の一端を担うはずの役職に、公職における資質を問われる人物が収まっていることは、大変興味深いことである。


参考

遠藤健太郎オフィシャルブログ » Blog Archive » ストロスカーンと中川昭一
http://endokentaro.shinhoshu.com/japan/post1952/

篠原尚之 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E5%B0%9A%E4%B9%8B

メンバー 東京大学 政策ビジョン研究センター
http://pari.u-tokyo.ac.jp/info/member.html


#東京大学政策ビジョン研究センターは、東京大学基本組織規則第21条の規定(全学センター)に基づき設置される研究部門であり、公共政策学連携研究部・公共政策学教育部、法学政治学研究科、経済学研究科、工学系研究科、医学系研究科を出身母体とする研究者の、いわば寄り合い所帯である。相乗効果が見られれば、わが国の行く末を決定する上で良い政策を形成可能な組織であるとは思われる。

東京大学政策ビジョン研究センター運営委員会規則
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_honbun/au07410191.html

附則
この規則は、平成25年4月1日から施行する。
(了解事項)
1 第3条第1項第3号「前2号以外の本学専任の教授のうちから若干名」とは、5~10名とする。なお、当分の間は、公共政策学連携研究部・公共政策学教育部、法学政治学研究科、経済学研究科、工学系研究科、医学系研究科からそれぞれ1名を含む若干名とする。
2 センター教員の選考にあたっては、センター規則第2条の趣旨にのっとり広く専門研究者の意見を徴するものとする。

東京大学受託研究員受入実施要項
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_honbun/au07408461.html

東京大学教職員倫理規程(untitled - syuki17.pdf)
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_syuki/syuki17.pdf
(平成16年4月1日東大規則第27号)
改正平成17年3月28日東大規則第360号
改正平成18年3月30日東大規則第120号

(倫理行動規準)
第3条教職員は、本学の教職員としての誇りを持ち、かつ、その使命を自覚し、次の各号に掲げる事項をその職務に係る倫理の保持を図るために遵守すべき規準として、行動しなければならない。
(1) 教職員は、職務上知り得た情報について一部の者に対してのみ有利な取扱いをする等不当な差別的取扱いをしてはならず、常に公正な職務の執行に当たらなければならないこと。
(2) 教職員は、常に公私の別を明らかにし、いやしくもその職務や地位を自らや自らの属する組織のための私的利益のために用いてはならないこと。
(3) 教職員は、法令及び本学の諸規則により与えられた権限の行使に当たっては、当該権限の行使の対象となる者からの贈与等を受けること等による疑惑や不信を招くような行為をしてはならないこと。
(4) 教職員は、職務の遂行に当たっては、公共の利益の増進を目指し、全力を挙げてこれに取り組まなければならないこと。
(5) 教職員は、勤務時間外においても、自らの行動が本学の信用に影響を与えることを常に認識して行動しなければならないこと。

小佐野賢治 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%B3%A2%E6%B2%BB

児玉誉士夫 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB




平成29年3月1日修正・追記

文意を損なわない程度に、読みにくい部分を修正した。追記・修正部分は淡赤色で、削除部分はコメントタグにて残してある。

本稿の修正を行うきっかけに至ったのは、遅ればせながら、昨年暮れ(2016年12月15日)に川上量生氏?が山本一郎氏を指して陰で「総会屋2.0」と呼び習わしている旨をコメントして以来、この語がバズったことをようやく知ったためである。

なお、本稿の原本は、昨年9月14日あたりに準備を終えたものである。関係各位に対する辛辣なクリスマスプレゼントとして、用意してみたものであった。「タブー抜きで」私の中では確実に正しいと思われる情報を用意する、という本ブログの趣旨に照らせば、結果として、本稿は、えらく文脈依存的なものになってしまった。もちろん、この状態を知った現在も、この状態を継続しているということ自体、入れ子構造を狙ったものに他ならないことまで、賢明な読者にはお見通しのことであろう。

閑話休題。裏社会あるいは泥棒政権(クレプトクラシー; kleptocracy)にとって、市場規模5兆円とも見込まれるカジノ(IR)産業への食込みが邪魔されないことは、ソシャゲ業界における権益確保よりも、よほど大事なことである。表の経済規模にかかわらず、効果的なマネロン対策がカジノ運営に適用されるか否かは、国際社会で日本国が独立国として長期的に生き残るための要件である。これとは逆に、マネロン装置としてカジノを悪用可能なことは、裏社会にとっての権益を意味する。現在のIR論議の下では、カジノの脆弱性、すなわち勝ち金の大きさは、従来のギャンブルシステムを大きく上回るものになることが見込まれる。この議論に立ち入らせることなくカジノの話を終息させることは、裏社会にとっての権益確保につながる。マスメディアを通じて名前の売れている人物たちから山本氏に寄せられた批判の中に、山本氏の主張するカジノの話が一つも出てこないことは、私にとって、一つのサインである。

もっとも、マネロン装置として悪用しうる余地のあるカジノという存在は、道具でしかない。誰が・どのように・いつ・誰をもてなすために・どれだけ用いるのか、が分からない限り、政治過程におけるマネロン装置としてのカジノの善悪を最終的に判定することは適わない。他方で、これを犯罪予防システムの脆弱性として観る限り、これを放置することは、マネーロンダリングに対して厳しい視線の注がれる昨今、自称先進国の一員であるわが国としては、賢明なこととはいえない。社会システムの不具合を指摘することは、私の一応の仕事の範疇なので、ここに明記しておく次第である。

組織犯罪にとっての「利益」とは、通常の営利企業において所属者が職業人として必要とされる労力を抜きに、その労力に見合う以上の不正な対価を組織が入手できることであるから、この利益の生じる機会を取り除くことは、効果的な犯罪予防対策となる。その利益=旨味は、通常の経済活動と同様、経費を差し引いて得られるものである。言い換えると、カジノの生じさせうる脆弱性も、ごく素朴な形とは言え、経済的な観点から分析可能である。カジノにおけるマネーロンダリングで必要となる経費の中で、カジノ経営から完全に独立した要素として扱うことが可能なもの、つまり、切り分け可能な存在として、ジャンケット(への請負)を挙げることができよう。彼らは、麻雀等でいう代打ち、パチンコでいう打ち子にも相当する。この存在に着目すれば、以前に言及したように、勝金の上限額を、たとえば30万円程度の、一般人にとっては大勝ちしたと思える一方で、一回だけの接待を通じて高級官僚や政治家や職業的犯罪者への賄賂とするには割に合わない金額に設定することは、有用な犯罪予防対策となりうる。

蛇足。ギャンブル機関のマネロン装置としての性能は、トランザクション(勝ち負けに伴う金銭の授受一対)の回数と、そのトランザクションごとの勝金の金額に依存する。他のギャンブル運営に比べて、カジノがマネロン装置として優れている点は、勝金の多額さにある。この点、競馬の三連単が導入された経緯や、競艇の結果が荒れがちで勝金が高額化しがちであることは、示唆的である。従来のカジノでプレイされているゲームを含め、従来のギャンブル運営を通じたマネロンでは、胴元がマネロンを感知し得ないことはあり得ない。とすれば、勝金の高額化を是とする意見は、マネロン対策の厳格化と対になって語られなければ、邪な意図の下に発せられている可能性があると勘繰ることが可能である。李下に冠を正さず、である。

蛇足2。IRで認可されるゲームの種類が従来型のようにディーラーの関与の余地が高いものとならない場合、カジノ運営企業が何らマネロンに関与しなくとも、あるいはマネロンの排除に尽力しようとも、脆弱性が生じることになる。たとえば、同じ卓の中でゼロサムとなる種類のゲーム、たとえば麻雀が認可された場合を挙げることができる。金銭の授受を発生させたい二者が同じ卓を囲み、接待麻雀を行えば良いだけだからである。カジノ事業者は、このようなゲームを導入するのであれば、このような場を提供したと非難されないために、すべてのゲームの手番を記録する必要がある。贈賄側の「手抜きの悪手」を記録する必要が生じるためである。この全手番(一回のゲームにおける全トランザクション)の記録が、割に合わない手間のように見えてしまうのは、私だけであろうか。従来型の、ディーラーの関与が決定的なものであるゲームであっても、ディーラーの公正さを示すために、全手番を記録する価値はある。ここまでの対策を実行する企業が運営するのであれば、カジノ運営は、従来型のギャンブル経営に比較して、よほど健全であるということになろう。ただ、このような記録体制自体は、勝金の高額化を無制限に許容する材料とは見做されないであろう。あくまで、他のギャンブル形態との比較を通じて、公正であると見做される程度にまで、勝金の高額化を認めるという程度に留まろう。




2017年05月15日追記

「Ken Sugar」氏(@ken_sugar)の以下のツイートが大きく引用されていたので、この点を付記するとともに、brタグのレイアウトをpタグに変更した。「Ken Sugar」氏による山本一郎氏の肩書きに対する見立ては、通常人が正しいと信ずるに十分な材料である。ただ、「Ken Sugar」氏は、本記事の本文中に示唆した内容までは、視野に含めていないようである。山本一郎氏よりも批判されるべき人物が、ほかにいる。分かりにく過ぎたかも知れないので、明記しておこう。美人局なんて、ブラックジャーナリストの典型的手法ではないか。このように指摘することが、本記事のもう一つの意図であった。

Members | Complex Risk Governance Research Unit, UTokyo Policy Alternatives Research Institute
(2017年05月15日確認)
http://pari.u-tokyo.ac.jp/unit/crg/en/about/members/

2016年10月20日木曜日

専門家による人格攻撃:「分かりやすい嘘」の応用法

#本稿は、豊洲市場に係る別記事(リンク)を別の言葉で言い換えたものである。あまりにもったいないので、記事数を増やすというやくたいもない目的のために、再利用することとした。URLの英文と和文タイトルは一致しないが、それぞれの言語環境の文脈に照らして使い分けることとした。

 陰謀論を報じるジャーナリズム等における「分かりやすい嘘」の効用には、真実と抱合せで「セット販売」することにより、権力者にとっての「都合の悪い真実」を公知のものとするというものがある。この方法は、諜報の世界の(表向きの)ルールである「言いたくないことは言わなくとも良いが、わざと誤りを述べてはいけない」という原則に逆らうものであるが、諜報の世界に属すると見ることのできるメディアにおいても、この規準(=プリンシプル)に反する事例を見出すことがある。他方で、このセット販売は、学問のルールには明確に抵触するものであるから、できる限り避けなければならない。これらの概念は、以前、2点の記事にまとめている(リンク1, リンク2)。

 専門分野について、分かりやすい嘘であっても意図的に嘘を吐いてはならない、また、相手を誤解させないように話すべきである、という「誠実性」は、専門家に求められる資質の一部である。わが国では、専門家の誠実性は、その道で地道に研鑽を積めば、自然と肌身感覚として養われるものと考えられていよう。専門の研修課程によって「型」の定着を促進することも可能であろうが、メンター(精神的な指導者)の存在に触れることが重要であるという理解は、近年、とみに有力である。

 ほかに、専門家としてのプリンシプルの一つには、批判を行う場合には、個人の人格攻撃を避けるというものも挙げられる。私は、大半の日本人の常識的感覚からすれば、明らかに「貧乏農場」組である。それでもなお、学者として尊敬に値する人物の作法に、相手の人格を貶める発言をしないというものが含まれること位は忘れていない。この言明を「嘘吐きのクレタ人」によるものと考えると、話がややこしくなるので、とりあえず、本記事のここまでの議論は、いったん信用してみて欲しい。ただ、専門分野に係る話題を取扱うときに、のっぴきならないほどの悪意に直面した場合、これに対していかに批判を返すのかは、時代と場所を超えた、人類普遍のテーマであろうと考えられる。この種のルール破りへの対応方法が難しいことは、ソクラテスの毒杯の故事に端的に表現されているように思う。

 専門家の社会的発言には、利益相反関係を有さないという規準もある。ただし、専門家が自身の家庭を維持できる程度に適正な労働の対価を受領することは、後世の検証材料として衆目に晒されることを前提に、許容されるべきことである。この基準を許容しないと、わが国では、ほとんどすべての社会活動に関与する専門家が欠格となる。大半の人物は、マスコミに無償で出演することも見合わせることになる。一見、気兼ねなく発言できるのは、年金暮らしの高齢者ばかりということになるが、これら高齢者もまた、世代という共通の利害から逃れることができず、元の職場等における人間関係等から生ずる利益相反関係から完全に自由ではない。(元の)職場において形成された友人関係・人間関係は、他者がある専門家の言動を批評する際、扱いに困る材料となろう。極端に言えば、人間は、生きたままでは、利益相反関係から自由になれる訳がないと見ることも可能である。

 とは言っても、直感を許すならば、「分かりやすい嘘を吐く」「相手を煙に巻く」「個人の人格を貶める」「論拠ではなく悪意を先行させる」ことが、いずれも専門家らしからぬ態度であることは、受け入れ易いことであろう。ここに示す規準のそれぞれは、いざ論証しようと思うと、なかなか難しいことであり、ギリシア古典哲学以来の哲学の課題であり続けてきたように思う。本稿で扱いきれる話題ではないから、私の理解は、別途、ゆるゆる積み上げてみることにしたい。最初の二つの命題は、それなりに表現が異なるものの、安富歩氏の『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』, (2012年1月, 東京:明石書店、NDL-OPAC)で説明されていたはずである。

 三番目に挙げた「個人への人格攻撃」は、ケネディ大統領暗殺事件に関連して作成され、後に公開されたCIAの文書によって、政府の工作活動の一環として行われうることが公知のものとなっている(リンク1)。政治的事件に係る真実を(学術的に)追究する個人に対しても人格攻撃が行われるという危険は、福島第一原発事故後のわが国においては常態であるが、歴史上も認められることである。白井聡氏の表現を借りれば、今日の日本社会が「本音モード」(『永続敗戦論』, 2013年3月, 太田書店, p.25)に入ってきたことの表れであるとも言える。なお、白井氏の論説については、稿を改めて検討したいが、後段で少しだけ批判することになる。

 ここまでに示した命題が正しければ、専門家による理由を伴わない人格攻撃は工作活動の一種である、という「定理」が導かれる。専門家とて一個の人格であるから、他人に対する好悪の情は当然に存在する、と仮定することに何の問題もない。しかし他方で、専門家が自身の分野を説明する際には、論理を先行させなければ好悪の情の理由を説明することすら適わない、という論理は、専門家の認知機能に深く刻み込まれているであろう。この論理が適用されていないかに見える専門家の言動は、真に専門家ではない人物によるものか、専門家による言動ではあるが別の理由に駆動されているか、のいずれかに該当しよう。専門家である・ないの区別と、何らかの特別な理由がある・ないの区別からなる4通りの組合せのうち、3通りによるという訳である。

 多数の専門家が論理を尽くして議論するためには、論敵に対する一定の節度が必要である。論者がどこまで腸を煮えくり返らせていてもである。自然犯という、被害(者)が基本的に存在する主題を取り扱う犯罪学においては、間違いなく、この自制は被害の当事者には困難な障害となる。この点、心の安定のために邪悪を避けるという選択肢が法学や犯罪学に端から存在しないことは、明白である。認知科学にも存在しないであろう。ある犯罪とラベルを貼られた行為に邪悪さがあるか否かは、考察者の言葉として外部に表出されるか否かは別として、常に検討される手続であろう。およそ、例外(状態)なる概念を考察する学問分野は、邪悪という例外を避けることは避けられないように思う。他者により犯罪被害を受けた当事者がこの節度を維持しながら論理を構築することには、心の強さが必要である。心の強さとは何かという考察には、あと30年くらいは必要そうなので、考察を省略し、とりあえず「心が強い」と表現するとして、心の強い当事者による告発は、他者の心を打つ可能性が高くなるものである。しかし、この命題を受け入れようとすると、このような論理の構築を心の弱い者が行うことは不可能であるのか、あるいは、このような不幸を経なければ同種の論理を構築することが妨げられるのか、という二種類の厄介な「言論者の資格」に係る疑問が生じることになる。

 少々脱線すると、被害者だけが当事者足り得るという極論の怪しさは、「司法実務に従事した人物だけがそれらの業務を評価できる」という条件の緩め方では明らかにはならないが、「大罪を犯した者だけが人生の悲惨を述べることができる」という方向に少しだけ条件を緩めた途端、露わなものとなる。これに対して、「犯罪学者は、(犯罪者の行動について理解する必要はあるが、)犯罪者となる必要はない」という命題は、今のところ、それほど明解な考察を経ることなく、妥当なものとして受け入れられている。ただ、この対偶となる「犯罪者は、犯罪を説明できる」という命題に接すると、これを否定する学識経験者の差別性が明らかになるのは興味深いところである。先の「嘘吐きのクレタ人」の比喩が表れるのである。「犯罪学者が自殺を論じるのに、自殺を企図する必要はない」という命題も、疑問なく許容されている。「失業と犯罪との関係を論じるのに、失業する必要はない」についても、名のある学者の多くが言及しないままに失業を論じているし、「平均的日本人」のうち(#私は、統計と構築主義については多少物を知っているつもりである)、考えてみたことのある者の割合も少ないであろう。他方、「企業労働者と犯罪との関係を論じるのに、企業の就業経験は必要ない」という命題は、多くの日本人には、耳に逆らう高慢さに受け取れられるであろう。「教師には社会経験がない」という表現は、この種の反発を端的に示すものである。以上の脱線部分に係る議論は、私の中では、想像力こそ基本という、独善的なものに置き換えられている。ただし、ここで言論に携わる者の要件の免罪符として、想像力を導入したり、(犠牲となった)仲間(対する贖罪)意識といったものを導入したりすると、臆病者が「戦後」に発言することを認めることにもなる。ハンナ・アレントの考察は、ここでの考察に役に立ちそうな気がするが、だからと言って、これを全面的に認めると、これまた勝者総取りのルールとなる。私には、タイムリミットが来るまでに、答えが出そうにはなさそうである。

 ただ、このような多様な背景と個性を持つ論者からなる多人数の集団から有益な議論が引き出されるためには、一定の秩序が必要となる。その秩序は、匿名・顕名の入り乱れる中の刹那的な応酬から立ち現れるものと、顕名で長期的に議論を行う中で築き上げられるものとでは、内容が異なるものになるであろう。本記事で私が念頭に置く議論とは、後者、つまり、専門家が公益を議論する場合である。自分の食い扶持だけが賭けられた場合と、一国の興廃が懸かる場合とを比較すると、本来、これらのモードには、異なる議論の雰囲気があって然るべきである。発した言葉が影響する範囲の広さが異なるのである。

 現今の日本社会のポピュリズムが悪いとすれば、それは(特に社会的に身分のある)個人が言行に責任を取らないからであり、輿論の取扱いを通じて私益を図る者が多数であるためである。この論点は、真の意味でのエリート主義、ノブレス・オブリージュにつながるので、現行スタイルのポピュリズムが蔓延した社会において、「右」と呼ばれる者に避けられがちである。他方で、この論点は、「勇ましいことを言う者から戦争に行け」「安全だという者から率先して食え」という意見に代表されるように、「左」とされる者からはしばしば提示される議論である。私は、戦争と福島第一原発事故についての上掲の意見に賛成するが、それは、わが国の1%が99%を犠牲にして、戦争と福島第一原発事故の双方ともから利益を得ている現状を前提にするからである。わが国の1%の全員が我が身を擲って、99%に降りかかる個人別のリスクの分量を遙かに超える個人のリスクの分量を引き受け、戦争の予防と福島第一原発事故の収束に協力を呼びかけるのであれば、私はその呼びかけに賛成する。なお、1%は既得権益層であるが、従来の既得権益層と呼ばれる99%の中には、たとえば、農林漁業者が含まれる。連合は99%のふりをしているが、ここ20年の労使交渉が先進諸国との給与所得水準に実質的に倍程度の差を与えるものとなった事実を踏まえると、1%に含まれる。この違いは、区別する必要がある。民主党時代まで遡る必要があるが、円高の時期に海外を旅行した者であれば、一回の食事代に日本における同ランクの食事の倍程度の金額を要したことに気が付いているはずである。家賃については、一見評価が難しいように見えるが、わが国に広く見られるスプロールと通勤時の混雑という外部不経済を加味すれば、やはり割高である。

 「差異ある共通の責任」を国内環境にも導入し、1%の引き受けるべき責任が追及されていない事実を前にすると、専門家が嘘を吐いてまで「お上」の政策に批判的な庶民を人格攻撃する理由は、言論のプラットフォームを破壊するという悪意によるものと看破することができる。現今の福島第一原発事故に係る御用学者の発言は、(満州事変に始まる)アジア・太平洋戦争の敗戦直近における、証拠隠滅作業の一環に対比できる行為であり、故意によるものである。彼ら1%の行動は、白井氏の言う「否認の構造」には、決して当たらない。福島第一原発事故に対し責任を有するという自覚があるからこそ、後世において自国民から断罪される虞のないように、各種の言論工作に奔走するのである。東大話法は、話者の私益を追求し、庶民の1%への非難を煙に巻くためのツールである。確かに、大江健三郎氏が発言した内容を白井氏が引用するように、99%は侮辱の中に生きているであろう。しかし他方で、わが国の1%の大半は、自らの生存という大目的、そのための利益を確保するという中目的に基づき、もっぱら当座を凌ぐという小目的の達成のために、人格攻撃すら厭わなくなっているのである。


2016年9月3日土曜日

わが国の言論・学術界が不正選挙を考究しないことの帰結を予測する(準備をしよう)

#本稿では、いちいち断るのが面倒くさいため、不正選挙は、基本、存在するものとして読んでいただいて構わない。存在すると考える理由は、過去の記事を参照されたい。不正選挙は、私を含む一般人には、具体的に誰が企画・実行したのかを同定することは不可能ではあろう。しかし、一部の選挙では、出口調査に調査設計上の失敗があるにしても、シンプルな推測統計学上の知識を活用すれば、起こり得ない程度の得票数の増加が見られるなどといった、不可解な状況があることも事実である。不正選挙の存在を否定したい者は、好きなようにすれば良いが、本稿は、一般人ではない者が徒に否定することを戒め、その道行きを予測する(ための準備を行う)ものであることに注意されたい。




 アメリカ政府で経済政策担当の財務次官補を務めたことのあるポール・クレイグ・ロバーツ氏は、今年の米大統領選挙に係る不正選挙の虞について、
アメリカ人が、責任を負わない権力の勃興を許してしまった事実から、我々が知るべきなのは、国民による職務怠慢のかどで、アメリカ合州国民が有罪だということだ。アメリカ人は、責任を負う政府を必要とする民主主義を維持しそこねたのだ。 ※1
と述べている※2(訳はリンクによる)。不正選挙を含む不正の蔓延は民主主義を健全に機能させようとする国民の努力が不足していたからである、とロバーツ氏は理解しているのである。この指摘は、アメリカ国民にとって、結果責任を問う、厳しいものである。とはいえ、賭けられているものが「核戦争の実現」とすれば、リベラルな米国民は、本来、身につまされるものがあるのではないか。

 他方、わが国では、不正選挙とその害は、大部分の国民に認識すらされていない。仮に、ロバーツ氏の檄が功を奏して、戦争屋の残党がアメリカから敗走したとすると、彼らが目指す先は、わが国くらいしか残されていないことになろう。ただし、その撤退は、単に時間稼ぎにしかならないであろう。これらの経緯から生じる結末として考えられるものには、わが国が「戦争屋」用のゴキブリホイホイとなるというものがある。本稿では、今までの記事とやや重複するが、この点を再度検討しておくことにしよう。

 以前の記事(リンク)で軍産複合体と戦争屋とを区別した理由は、広義のセキュリティ産業を構成しうる多数の人物たちの内で、同国人に対して真に邪悪と呼ばれうる行為に手を染めた者の割合がそこまで高くはないであろうことが予想され、責任の軽重に応じて、これらの人物たちを区別する必要が認められたからである。真に邪悪と呼ばれうる例は、たとえばインテリジェンス業界のルールを破り部下を売り渡した高官であり、予備選に係る疑惑を内部告発しようとしていた一般人を問答無用で射殺した暗殺者である。学術的な知見を幾度も歪曲して多数の国民を苦しめる政策を支持する意見へと誘導した学術研究者であり、いかがわしい政府高官向け接待施設を擁する企業の会長でもあるという存在も、この者が日本人であるとすれば、われわれにとって邪悪であると呼べるであろう。戦争屋の具体的な数字は、現在のトルコのように、今後の世界情勢に応じて詰められていくであろうが、アメリカにおいては、数千万人のセキュリティ関係者のうちの数万人程度となるのではなかろうか。(#淡赤色部分は2016年9月6日追記)

 邪悪という表現は、誤解のないように指摘しておくと、私自身が相手をそのように理解していることを否定するものではないが、それよりも、国民一般の邪悪なものに対する嫌悪感が社会を変化させるであろうことを重視するものである。ある事象や人物を邪悪とみなす人々の感情は、大きく世界を動かす原動力となる。おおよそ、「西洋的」なマスコミが好意的に報道した各国の「カラー革命」は、精密に制御されていない多数の人々の感情により加速したものであるが、おおむね、負の結果しかもたらすことしかなかったようにも見える。それでも、ここ数年の間に、世の中は、「カラー革命」の失敗を経て、大きく変わり始めてきたように見える。その原動力は、やはり、人々の好悪という感情であろう。

 エリートとみなされる地位にある者は、現代の民主主義国家における要請である「国民の生命・健康・財産の保護」という本来のプリンシプルに違背した決断を下した場合、結果の出目を問わず、後世の一般国民には邪悪な決定を行ったと見なされるであろう。権力者にとってのプリンシプルが「権力の維持」となりがちであるということは、時代と地域を問わずに、一般庶民に気付かれていることである。この点の困難さについての理解があるがゆえかは不明ではあるが、トルコのエルドアン大統領の対米・対露関係と国内政治における変節に対して、日本のマスコミは見解を決めかねているように見える。しかしながら、多少なりともマキャベリスティックな見方に立てば、彼個人への制裁が単に順序の問題に過ぎないことは、ほとんど自明である。曲がりなりにも機能する独裁政権の下で、(どこの手の者かは分かりかねるが)自称イスラム国に繋がりかねない手下の責任がまず問われるであろうが、最後には、自称イスラム国の石油輸送キャラバンと深い関係を持つとされる息子や、トルコにおける混乱の最終責任者であるエルドアン氏自身が、合法的あるいは国際政治上許容されている手段ですげ替えられるという段取りが予定されているのであろう。なお、知識人のプリンシプルは、自身が正確と思える知識を産出して皆に提示することであるが、必要に応じて現実にも介入する必要があろう。

 戦争屋は、容易に国境を超えて不正に蓄財し、いざとなれば海外に逃亡できる存在であるという点において、その手下と見なされうる大多数の「軍産複合体の兵士」とは異なる存在である。わが国の大企業において、不正に従事した人物たちには、自分自身では気乗りしないものの、仕事だからという理由で平時における悪事に手を染めたという者も多いであろう。アフガニスタンからリビアまでの広範な地域における軍産複合体の戦争犯罪も、同様の事情を含むであろう。軍産複合体は、(1)利得を独占するごく少数の戦争屋と、(2)これらの戦争屋に指示・脅迫・懐柔されるか、あるいはその存在すら知らずに流れに棹さし、仕事がある・食っていけるなどの消極的な形式での利得に与ることができた大多数の成員からなるものとみなすことが適当であろう。イラク侵攻等における民間軍事企業の悪行の数々も、そもそも子ブッシュ政権のあからさまに誤りであった決断がなければ、生じなかったことに注意する必要がある※b

 アメリカの戦争屋エリートは、イラク戦争以降の邪悪な決定の数々によって、アメリカを危険に追いやったのであるから、早晩、アメリカから逃亡する必要に迫られるであろうが、その先は、おそらく日本となるであろう。いわゆるファイブ・アイズのほかの国は、英語圏という言語・法的環境のために、第一の選択肢となりうるが、戦争屋の敗北時にはアメリカ本国と同調するであろうから、逃亡先として明らかに不適格である。ほかの候補には、たとえばスイスなどが挙げられようが、EU諸国に囲まれ、銀行も顧客の秘密を固守することがなくなって久しいため、人命を徒に奪うことを良しとしてきた戦争屋にとっては、隠れ家として不充分な印象が拭えない。ウクライナや東欧諸国では、ロシアの実質的な影響力から逃れることができない。小さな国は、基本的に安全ではない。大国同士の相互抑止を期待できなくなる上に、一国のヒュミントが小さくなる。他のより大きな国にヒュミントを求めることができる位であれば、そちらの国を頼るであろうからである。

 現在の日本では、高機能な空調施設を有する邸宅と直営農場を札束で調達でき、一般の日本国民が望み得ないような安全な生活を送ることができる。日本国内の対中好戦派を上手く制御できれば、突発的かつ決定的な戦争状態に陥ることなく緊張状態を維持し、日本国民が本来必要としていた程度を大きく上回る軍事負担を日本国政府に押しつけることにより、当座の生き残りを図ることができる。先進国であり、国内の複数地域において上質のサービスを享受できるという条件を付せば、今のところ、日本は筆頭候補となる※c。海外からの刺客は、特に極東アジア系の外見のものでなければ、警察がかなりの程度ブロックしてくれるであろう。何より、当座のところは、在日米軍の存在という現実と独立国である日本という建前との兼ね合いが戦争屋を逮捕する際の日米当局の話合いを難しくしてくれる。もっとも、この点については、日米当局の関係者が各自の役目の本道に立ち戻り、粛々と仕事をすれば、かつての仲間たちからは裏切り者扱いされるかもしれないが、戦争屋たちは簡単に処理されてしまうという図式(が、戦争屋にとっては虞)がある。

 ただし、戦争屋が逃げてきたとしても、わが国が第二次世界大戦の敗戦国であるという事実は、わが国が戦争屋の安住の地になり得ない最大の要因となり得る。カイロ宣言、ポツダム宣言及びサンフランシスコ平和条約によって形作られるはずの現在の大多数の日本国民の領土に対する理解と、同じ材料から組み立てられたはずの戦勝国の理解との齟齬は、日本の再占領という、日本国政府及び日本国民にとっての危険を招来しうる余地を残すものである。現在までの間、同盟国でもある戦勝国アメリカの影響力が行き及んでいたからこそ、わが国と中国とがそれぞれに指摘する領土問題は、比較的局所的なものに限定化されていたと見ることも可能である。この状況下において、戦争屋が逃げ込み、その影響力を政府に対して行使し続ける日本国という新たな局面が生じたとき、これに対して、米・中・露の三か国が共同して圧力をかけるなどということはあり得ないと考えることは、世界が帝国主義的な様相を強める昨今、かなり楽天的な姿勢であると言わざるを得ないであろう。歴史修正主義者が批判するごとく、東京裁判が公正とは程遠いものであったとするならば、何らかのイベントを契機として日本が再占領され、戦争屋とわが国の歴史修正主義者たちがまとめて始末されるというシナリオは、歴史修正主義者を含めた日本国民全員にとって、現実に生じうる脅威である、ということになる。

 加えて、わが国における「第二の敗戦」の進展するペースは、おそらく、戦争屋の予想を超える速いものとなっている。先週末のNHKの番組『解説スタジアム』(トップリンク)では、原発の経済的価値がNHK内の「寿司友」の解説委員によっても否定された※dという。この話は、戦争屋の米櫃に砂が撒かれたようなものであるが、おそらくは、アメリカ国内の動きの余波でしかない。NHKの解説委員ら全員が自らの良心とプリンシプルに拠って能動的に立ち上がったということではなく、アメリカの国益を追求するアメリカの愛国者に指示されて、今回の放送が成立しただけであろう※e。しかし、NHKの解説委員らの言動は、毒を以て毒を制するものに過ぎないにせよ、日本国内の勢力だけでは、日本国内における戦争屋のプロパガンダが機能しなくなる虞を戦争屋に対して明示したものと言いうる。

 ここで、「第二の敗戦」という事態をあらためて定義しておくと、「日本人の多くが考えていたよりも、日本社会が遙かに悪い状態であったことが露わになること」というものになる。「第二の敗戦」は、日本と他国の具体的な戦争により日本が負けることから生じるものに限らない。日本国内における社会活動がいったん停止状態に陥ることなどを通じて、または、より穏当な方法を通じて、日本人の大半が状況を知ることが、「第二の敗戦」の基本的な要件である。「第二の敗戦」は、事実※fというより、事実などをきっかけとして日本人の現状認識が変わるか否かの問題である。

 「第二の敗戦」が現実化したとき、国際社会は、少なくとも日本国からは正当な賠償を要求するであろうが、日本国民一人一人に対してもいかほどの責任を求めるのかは、不正選挙に対する日米両国民のそれまでの反応に大きく左右されるであろう。この見通しは、かなり多様なシナリオの結末に共通するものであると考えられたものである。シナリオの根幹は、以下の二点の箇条書きに集約されるため、箇条書きのまま示すこととしよう※g
  • アメリカ大統領選挙の結果により、アメリカの対日政策が決定される
    • トランプ氏の共和党なら「第二の敗戦」加速(ただし、敗戦時の衝撃小)
      • 福島第一原発事故の解決への圧力増加
      • 在日米軍の再編成(トモダチ作戦訴訟の対日利用)
      • 日本国内の不正選挙に対する影響あり
    • クリントン氏の民主党なら「第二の敗戦」減速(ただし、敗戦時の衝撃大)
      • 福島第一原発事故の解決への圧力変化なし
      • 在日米軍に変化がないように政策管理
      • 日本国内の不正選挙への影響なし
    • 第三のケース?何それ美味しいの?
      • 第三のケースでは、アメリカは国際社会で尊敬される地位を回復できる見込みがなくなる。アメリカのセキュリティ関係者は、これを全力で阻止するはず(であると期待したい)。
  • 日本国内のメディアがアメリカの対日政策に追従し、忖度することにより政策を加速させる
    • トランプ氏の共和党なら報道統制を解除する方向へ
      • 福島第一原発事故の正確な現状が報道される
      • 米国では不正選挙に係る調査報道が正統的な地位を得る
    • クリントン氏の民主党なら報道統制の維持
      • 日本の対中・対露関係を悪化させる報道が企図される
      • 不正選挙に係る話は米国のものといえども日本ではトンデモ扱いが続く

 SNSにより選挙の候補者が直接聴衆に訴えかけることが可能となった現在、不正選挙という話題は、主要メディアだけでなく、SNSによる主要候補の動向にも左右される状態となっている。アメリカでは、共和党候補であるトランプ氏が不正選挙に言及し、これをヒラリー・クリントン氏が否定している。日米両国のマスメディアは、従来、不正選挙を陰謀論に過ぎないかのように扱ってきた。これに対して、トランプ氏は主要メディアこそがアメリカの民主主義に対する敵であると公言しており、このことは、主要メディア自身にも認識されている。これに対して、わが国では、先の参議院選挙の東京都選出候補の中では三宅洋平氏が、都知事選では犬丸勝子氏が、公然とSNSにおいて不正選挙に言及しているが、わが国のマスメディアからは黙殺された状態にある。

 アメリカにおける不正選挙についての指摘は、大統領という大きな権益とも相俟って、やや捻れた構図を生み出しているが、少なくとも、多数のアメリカ国民に電子投票機に対する警戒心を抱かせたものと思われる。というのも、マーク・クリスピン・ミラー[編著](2008=2014). 『不正選挙』, 亜紀書房.の邦訳版は、共和党寄りの電子投票機器メーカによって、一貫して民主党への票が共和党へとすり替えられたことを主張しているためである。しかし、同書の指摘とトランプ氏の主張は、本ブログではおなじみの概念となった『国際秘密力研究』の「菊池」氏の指摘する「両建て戦術」をふまえれば、ともに正しいものであることを容易に認めることができるものである。つまり、クリントン氏が今回のアメリカ大統領選挙において「不正選挙」を用いる集団の代理人であるという考え方は、トランプ氏とミラー氏らの主張をともに両立させるものとなるのである。なお、ミラー氏は、民主党の予備選においてバーニー・サンダース氏の票が盗まれた可能性を指摘する記事を自身のサイトに掲載させている。サンダース氏の票が盗まれたという指摘は、トランプ氏の主張と何ら矛盾するものではない※h


 なお、『不正選挙』には、その方法として、選挙人登録における不正や機会の不公平さ、投票所の設置や投票機の設置台数に係る選挙管理委員会の恣意的な変更、選挙活動における経費の高額化、選挙運営の民間委託などが挙げられているが、何よりも、連邦投票支援法に規定された電子投票機こそが、最大の問題であると見ることができよう。わが国においても、ほかの点に問題がない訳ではないことを示す証拠があるものの(リンク)、電子投票機と民間委託との組合せこそが最大の要点であると言えよう。

 トランプ氏やロバーツ氏やミラー氏のような、アメリカの異なる党派に属しつつも、マスメディアによらずに生きてゆける有力者が、ともに不正選挙の可能性と危険性を論拠とともに提示している一方で、マスメディアの力によらなければ生きてゆけない報道人が不正選挙などないと一蹴している。これは、明らかに捻れた状態である。多数の報道人の過去の意見は、十把一絡げにGoogle検索で得られるので、これらの意見は省略することとしよう。こうした折に、ブルームバーグは、アンドレ・ターター氏によるトランプ氏のツイッターを分析した結果を掲載しているが、ターター氏によれば、FOXはトランプ氏の軍門に降ったかのようであるという※3。FOXは、共和党エスタブリッシュメントを支援するために設立された報道企業であり、マスコミの中では新参者であったが、トランプ氏に批判され、このたび、飼い馴らされたということになろうか。いずれにしても、マスメディアのオーナーが誰であるのか、という点に立ち入ることのない考察は、賢明ではない。情報を分析するとき、「何の利益があるのか」※4を問うことは、基本であろう。

 不正選挙という概念が一般に浸透していないという事実は、我々が自身の見解を形成する際に、いかに周辺情報が、つまりはマスコミや学識経験者の影響力が大きいかを示唆する材料となっている。「権力者」にとっての目的が権力の維持になりがちであるという指摘は、単独で国民に提示されれば、そのとおりであるということになろう。話者がマスコミであろうが、ブロガーであろうが、教師であろうが、ジョン・アクトン卿の「権力は腐敗する。」※5という言葉は、単独で提示されれば、無理なく受容されるであろう。この命題から「次の選挙に勝つために、不正な方法を含めて、権力者はできるだけの策を講じる」と言われることに対しても、情報が単独であるならば、人は同意できるであろう。しかしながら、マスコミやら不正選挙が表になると困る人たちによって、自国の選挙システムについての瑕疵などあるはずもないという言説が大量に提示されていると、不正選挙の存在を論理的に示す言説を前にしても、人は、不正選挙が存在しうるという説を、自分で考えた上で自身のものとして採用することに踏み切れないであろう。人は、好きこのんで少数派の意見を採用したくはないのである。とりわけ、少数派の意見がエア御用学者などによって否定されているとき、専門家でもない人々が少数派であろうと正しいと思われる意見を採用することには、かなりの難しさが認められよう。

 仮に、わが国においても社会的分業が望ましい形で発揮されていたとすれば、不正選挙の蓋然性は、志ある学識経験者によって説得的な論拠とともに提示され、その説がほかの学識経験者を含む知性ある国民によって検証された後、大多数の国民に受容されて有効に監視されるという経路を経て、ほとんど存在し得ないものとなっていたであろう。この点、学識経験者やマスコミの沈黙や誤誘導の罪は、一等重いものとなる。政治学者を始めとする社会科学系の研究者が不正選挙の存在について沈黙し、マスコミも不正選挙の可能性を追及しなかったことは、近い将来において、彼らの存在意義が問われることの原因にもなろう。ただし、彼らの中で不正選挙の存在を解明し提示した者がいたとしても、その内容を精査して肯定できるだけの読者層を期待できなかったという弁明には、聞くべきところもあろう。要は、今までであれば、猫の首に鈴を付けるのが誰であったのか、というイソップの寓話と同様の構図が成り立ち得た訳である。

 この点、トランプ氏の指摘は、不正選挙の危険性に脚光を浴びせる上で画期的な役割を果たしたものと言うことができる。トランプ氏の資金力と発信力が、不正選挙という重大かつマイナーな話題を第一線のヘッドラインに載せることを可能にしたと言えよう。ロバーツ氏の経歴はむしろ共和党寄りであり、ミラー氏は民主党寄りと言えようが、両党の知識層から不正選挙についての情報発信がなされるようになったことは、二大政党の対立の影に隠れて利益を享受してきた存在を明るみに出すことに役立つであろう。また、彼らの指摘が情報の受け手に真剣に検討されることは、アメリカの学識経験者の層の厚さ(または薄さ)を明確に示すことにつながるであろう。

 不正選挙の危険についてアメリカ大統領候補が言及した後の現時点において、観察対象である政治が不正選挙という犯罪によって明白な機能不全に陥っているとき、学識経験者で安定的な身分を有する者が沈黙を保つことは、社会の暗黙の期待を裏切ることになろう。人は、自身に馴染みのない複数の物事を相互に結びつけて考えるということがなかなかできない存在である。しかし同時に、人は、その道の先達によって、それなりの解説をしてもらえれば、相当に高度な内容をかなり容易に理解することができる。これが、教育の効果であり、人がここまで高度な文明を築いてきた理由でもある。わが国では、不正選挙を示す材料は、相当に多くが認められるが、これらを説明のつくように並べてみせる人の中に、本来なら、社会の中でその役割が期待されるはずの人々が見られないのである。

 アメリカでは、民主主義を機能させるための戦いが天王山を迎えようとしているが、日本では、負けが見えている「戦争屋」のツールである不正選挙について、ごく一部の市井の人々が言及するだけである。この状態は、臆病な知識人・マスコミ、勇気ある変わり者、無知な一般人、戦争屋とその手下、という類型化によって、戯画化されよう。このキャラクターたちは、いかにして、今後の「第二の敗戦」において、断罪されるのであろうか。このように考えてみると、おおよその道行きは見えるのではなかろうか。なお、「第二の敗戦」を考察する際、冷戦が現実の危機をはらみつつも壮大なフィクションであったという理解は、補助線として機能することになろう。



 オチをひとつ。9月2日は降伏文書調印の日であったが、NHKの『歴史秘話ヒストリア』は、再現ドラマが中国国内で作成されたと思われる、始皇帝についての特集であった。また、その直前には、安倍首相がウラジオストックでプーチン大統領と会談したことが報道されるとともに、11月のペルー会談、12月15日の山口訪問が速報テロップで示されていた。日付との一致が何を意味するのかは私にも分かりかねるが、一体どれほどの日本人視聴者がこの一致に気付いたのかは、本稿の趣旨とも関連する話である。


※1 トランプ 対 ヒラリー: 最終弁論: マスコミに載らない海外記事
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-9a55.html

※2 Trump vs. Hillary: A Summation -- Paul Craig Roberts - PaulCraigRoberts.org
http://www.paulcraigroberts.org/2016/08/25/trump-vs-hillary-a-summation-paul-craig-roberts/

※3 Donald Trump’s Twitter War on the Media, by the Numbers - Bloomberg Politics (Andre Tartar, 2016 Aug 19)
http://www.bloomberg.com/politics/articles/2016-08-19/donald-trump-s-twitter-war-on-the-media-by-the-numbers

※4 cui bonoの意味 - goo辞書 英和和英
http://dictionary.goo.ne.jp/ej/20908/meaning/m0u/


※5 「権力は腐敗する。絶対権力は絶対腐敗する」というような格言の発言者はアクトンと聞いているが正しいか。... | レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000167282


※a 原文は次のとおり。私が指摘するのはむしろ僭越だとは思うが、構文上、正しい訳である。ただし、「合衆国」を「合州国」と訳すことにはひとつ捻られた事態が存在することを理解しているつもりである。一種の歴史修正主義の臭いがこれらの語の使用に係る議論には認められるのである。
That Americans permitted the rise of unaccountable power tells us all we need to know about the dereliction of duty of which United States citizens are guilty. The American people failed democracy, which requires accountable government.


※b 戦争屋エリートと下っ端との間には、自然に、悪行の種類に大きな分裂が見られることになる。殺人・強姦・放火・強盗は、いずれも、子ブッシュ政権以降の民間軍事企業によって行われていたことが認められるが、これらがわが国の平時では凶悪犯であることは、指摘するまでもなかろう。末端が戦争下において行う犯罪は、戦争屋エリートが自らの利益のために強行した犯罪により可能となった。この点で、戦争屋エリートの罪は、前線の兵士よりも数段重い。

※c このように戦争屋エリートたちが考えることは、合理的な思考の範囲内である。このため、このケースが実現してもしなくとも、犯罪学における「上流階級ならこのように犯罪を行う」という思考実験として、ここでの想像は、無駄ではないと言えよう。

※d 原発ゼロを目指すという政策自体は、世界中の人類の利益になることであるために、日本国民としても賛同の余地がある。ただし同時に、この政策変更は、放射性廃棄物の最終処分場の日本国内における建設にも直結するがゆえに、日本国民は、慎重に状況を見極める必要がある。

※e 今まで良心的に職務に従事してきた報道関係者に可能な手段は、重要なことを訴えた直後に、沈黙を強いられるか、エクストリーム自殺するかであった。今後の「第二の敗戦」時、報道関係者は、「戦時」の報道姿勢に対して、この選択肢をふまえた判定を下されることになるであろう。

※f 日本人の大半が認識を改めるだけの事実の種類としては、ほかの例として、首都直下地震等により首都圏一帯が機能不全に陥るというものが考えられる。他国かわが国の経済状況が決定的に悪化した結果、世界的な経済活動の不全が生じるというものも考えられる。いずれの場合も、決して荒唐無稽というレベルではなく、それなりには具体的な危険として対処が必要なレベルに達しているところがポイントである。これらの危険を顕在化させないためには、国民の(知的水準ではなく)知識内容の多くを現代社会に即して更新し、日本社会の弱点であった公的部門の社会活動の水準を大幅に向上させる必要があったのであるが、これを今更求めることは、木に縁りて魚を求むというものであろう。

※g クリントン氏当選というシナリオや第三のケースというシナリオから、「第二の敗戦」がいかに実現するのかという筋道は、私が語ることではない。硬直 的なわが国の法律がある限り、いくら無謀なことを記しているように見えても、私にも書けないことがある。書くとすれば、私自身に適用されている一種のゲームのルールが変更された(、あるいは、私がルールを変更した)ときである。

※h 一人の日本人として指摘しておくと、アメリカという国が申し分なく輝いて見えるためには、2016年大統領選挙については、サンダース対トランプという構図が成立する必要があった。少なくとも、サンダース氏の得票が正確なものであったことを検証すべきであったとは言いうる。しかし、この指摘は、頭の上の蠅を追ってから言うべきことであろう。

2016年8月31日水曜日

日本国民の免責のために安倍晋三氏の「アンダーコントロール」発言は機会あるごとに批判されるべきである

 2020年オリンピック招致に際しての安倍晋三総理大臣の「アンダーコントロール」発言(2013年9月7日)※1に係る真意は、後の国会において、数度、安倍氏自身により説明され(ようとし)たが、この顛末に対する批判は、英語圏ではそれほど高まりを見せていないようである。「アンダーコントロール」発言そのものは、英語圏においてもジャーナリスト※2、※3や反核団体※4などにより、放射性物質の海洋への漏出が続いているという推測と矛盾すると批判されると同時に、批判されたこと自体も報道の対象となっている※5。 しかし過日(平成28年8月26日)、Googleで「Abe Fukushima Diet "under control"」などの検索語を完全一致オプションとともに試してみたものの、「アンダーコントロール」発言に係る安倍氏の国会答弁について、後追いしている英語のページを発見することはできなかった。この作業は、私の調査資源からすれば、悪魔の証明に類するものであり、事実ではない可能性も十分に認められる。ただし、日本語では、安倍氏の国会答弁に対する批判は、ブログなどに見出すことができるから、英語マスメディア等では単にニュースバリューがないものとして片付けられていると結論することは、特に問題を生じる理解とは言えないであろう。

 英語圏では、招致委員会における安倍氏の発言は、単独で、国際公約として成立することが認められているようである。この点は、わが国の政治家一般に対する日本語マスメディアや日本国民(で声を大きく上げている者)の受け止め方とは異なる。この国内外の差は、そのまま、安倍氏による国会発言の検証に対する差にもなっている。国会に代表される日本語圏では、福島第一原発の状態を問うことに加えて、安倍氏の発言同士の矛盾を衝くことが議論の要件となっているかのようである。しかし、この条件が国会発言のみで満たされてもなお、安倍氏は自らの誤りを明確に認めることができないようである。

 海外では、日本国内のような議論は必要とされず、事故後の現実と安倍氏の発言との齟齬を見るだけで十分に責任を問うことが可能であると見る態度が主流であると考えて良いであろう。この差は、わが国の言論状況が日本語だけで完結しており、かつ、独特な形式に発達していることの例証となろう。また、この差は、日本語圏のウェブ言論に対する情報の検閲や統制が一定程度機能しており、あるいは一般人や、一般人に紛れる広告企業の被雇用者の側に迎合主義が見られるために生じたものと見ても差し支えないであろう。

 日本語ブロガーなどのサイトでは、安倍氏が収束していない旨を国会にて発言したことについて、批判する記事を容易に発見できる。たとえば、大沼安史氏は、「2020年に向けて、国際社会の厳しい指弾の的になって行くだろう。」と予測している※8

 安倍氏自身による「アンダーコントロール」発言に対する幾度かの国会での説明は、私のポンコツ知能では理解できない難解さを誇るものであるが、第186回参議院予算委員会議事録第5号(2014年3月3日)※9における発言の解釈を、私の現時点の知識から試みてみると、次のようになる。
  • 政府は、状況を的確に把握している
  • 敷地内での汚染水漏れも把握している
  • 漏れた後には、対策を実施している
政府という主語を明確に示すことができるのは、状況の把握に限定される、という点が重要であろう。これに対して、対策の実行に責任を負うのが東京電力であり、実際の作業に従事する主体は、もっぱら東京電力のn次下請け企業($n \geq 2$)に雇用された従業員たちであろう。この状態は民主党政権時代から踏襲されているため、安倍内閣のみに責任を帰することはできないが、この状態を知りつつも「アンダーコントロール」と海外において発言したことは、安倍氏自身の責任の範囲内に収まることである。

 3.11以後、日本語圏の言論は、明らかに混乱した状況にある。本来ならば明白に優勝劣敗を付けられるはずの議論が、カネに釣られた多数の匿名を 気取る者によって、原発ムラに都合の良いものに歪められている。エア御用学者も複数登場し、公の場で平然と嘘を吐いているが、社会的制裁もなく放置されている(「メルトダウンではないだす」)。この混沌は、言論の正確性に対する話者の感性を摩耗させるとともに、感性の鈍化した話者の表出がゴミ情報を発生させるという悪循環を生み出す。この悪循環は、「人気のある情報をトップに上げる」というベイズ統計を利用した現在の情報検索手法によって、さらに加速される。ゴミをゴミと識別できる読者が多数いなければ、同時的な言論を乗り切ることが難しいが、エアか否かを問わず、御用学者の言動が一般の国民を惑わせる。一般の国民が話者の属性によって話題に対する信頼の程度を上下させることは、責められることではない。専門家の役割は、専門について正確と思われる事柄を述べることにあり、互いに異なる専門を有する専門家同士も、互いの指摘を信頼する関係が成立するからである。

 わが国のトップが嘘を吐いたことを国民が放置し続けることは、わが国の政体・国体・国民のいずれにとっても不幸な結果を招来することになりかねない。国民の沈黙は、わが国では美徳であるが、他国では、消極的な同意とみなされかねない。この状態がよろしくないことは、以前の長い記事(リンク)で、村上春樹氏や小出裕章氏が外国に訴えたことなどに絡めて、十分に説明したつもりである。他国のインテリジェンス機関は、まず間違いなく、私が本記事で示した状態についても十分に把握した上で、静観しており、その利用の機会を狙っているはずである。

 帝国主義的な現今の世界情勢において、安全保障の意味でのセキュリティ、健康的な国民生活という意味でのセキュリティ、両方を維持・向上させるという目的を達成するためには、本記事で示されたような「政体」の詭弁が、勇気ある有名人のみならず、国民の一人一人によっても批判される必要がある。その批判は、何も具体的な言論を提起することによらない。わが国は、間接民主主義社会であり、投票行動によって意思を示すことができる。投票の秘密は、憲法(リンク)により保護されており、本来であれば、日本国民は、独立した個人として迫害を予期することなく投票できるはずである。

 なお、国民が示したはずの意思を内外の人々に誤解させるという点において、「不正選挙」は、外国からの危険を招来するものである。民主主義社会は、「皆で決めたことは(最善ではなく)仕方がないことである」ことを意思決定のベースとする社会である。民主主義社会下における個人は、社会全体として選択されたはずの結果を元に、次なる行動を決定するという(宮台真司氏の表現によるところの)再帰的な存在である。不正選挙は、この点においても問題のある方法である。不正選挙の結果、選択された(と国民に誤解を与えた)一味が何事かの悪事を国際社会において実行した場合、その報いは、この一味のみが引き受けるべきであろう。この点において、不正選挙の存否を追究することは、国際社会に対して国民の責任を減免するという意味を有する作業である。


※1 Presentation by Prime Minister Shinzo Abe at the 125th Session of the International Olympic Committee (IOC) (Speeches and Statements by Prime Minister) | Prime Minister of Japan and His Cabinet
http://japan.kantei.go.jp/96_abe/statement/201309/07ioc_presentation_e.html

※2 Did Japan Lie Its Way Into the Olympics? (Peter Lee, Sep 27, 2013)
http://www.counterpunch.org/2013/09/27/did-japan-lie-its-way-into-the-olympics/

※3 Abe Olympic Speech on Fukushima Contradicts Nuclear Plant Design - Bloomberg (Tsuyoshi Inajima and Yuriy Humber, Nov 1, 2013)
http://www.bloomberg.com/news/articles/2013-11-01/abe-olympic-speech-on-fukushima-contradicts-nuclear-plant-design

※4 Fukushima "under control"? | Wise International
https://www.wiseinternational.org/nuclear-monitor/769/fukushima-under-control

※5 Abe claims Fukushima radioactive water woes are 'under control' | The Japan Times (Kyodo, Oct 16, 2013)
http://www.japantimes.co.jp/news/2013/10/16/national/politics-diplomacy/abe-claims-fukushima-radioactive-water-woes-are-under-control/

なお、上掲の記事※2や下記ニュースサイト※6に示されている記事の元記事は、AFP通信により配信されたもののようであるが、高円宮妃久子殿下を「天皇の義理の娘」と表現している。元記事が削除されているため、この誤報が修正されることは、期待できない。

※6 Japan PM tells IOC Fukushima situation 'is under control' - Breitbart
http://www.breitbart.com/news/cng-92fe2f080078a69185437929a454fd0b-b11/

※7 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html


※8 机の上の空 大沼安史の個人新聞: 〔フクイチ・グローバル核惨事・史料〕◆ 「収束したとは言っていない」と弁明! / 安倍晋三首相、2020年・東京オリンピック招請ブエノスアイレス演説に関する参議院予算委での答弁 ★ 首相の「アンダーコントロール」演説は、汚染水問題が深刻化する中、こんご2020年に向けて、国際社会の厳しい指弾の的になって行くだろう。なんらかのかたちで責任を追及されるかも知れない。
http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2015/04/post-9fbb.html

2015年1月30日の発言についても、以下のブログ主のような批判が日本語では残されている。引用されていたロイターの記事を直接参照すると、2015年1月30日の第189回衆議院予算委員会3号であることが特定できる。


安倍首相「福島第1原発事故、収束という言葉を使う状況にない」 アンダーコントロールは・・・ - 異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!
http://blog.goo.ne.jp/koube-69/e/d9f984f0631e81ee5e64ea4b4c0e0bf5

福島第1原発事故、収束という言葉を使う状況にない=安倍首相 | ロイター
http://jp.reuters.com/article/fukushima-abe-idJPKBN0L30GD20150130


※9 第186回 参議院 予算委員会 平成26年3月3日 第5号|国会会議録検索システム - 18603030014005.pdf
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/186/0014/18603030014005.pdf


議事録は、テキストファイルでもダウンロードできるが、そのテキストファイルの1171行以降
○那谷屋正義君 【...略...】
 さて、ここまでは割と平和に質疑が行われてきたというふうに思いますが、実は先ほど、九・八の総理の演説の話、大変感動させていただいたというふうに申し上げたんですが、一つだけ、やはりこれもマスコミ等で物議を醸し出しましたアンダーコントロールというのがございました。この見解が福島県民にどういうふうに受け止められていると考えていらっしゃいますか。総理大臣、お願いします。

○内閣総理大臣(安倍晋三君) 私がプレゼンテーションにおいてアンダーコントロールというふうに申し上げましたのは、福島第一原発では、貯水タンクからの汚染水漏えいなど個々の事象は発生はしていますが、福島近海での放射性物質の影響は発電所の港湾内の〇・三平方キロメートルに完全にブロックされていると。言わば、事態では、個々の事態は起こっているけれども、それは私は承知をしているし、対応しているよという趣旨のことを言ったわけでございまして、つまり、コントロールできていないということだったら全く何もできていないということになりますが、それは私は事態は掌握をしているし、対応はしているよということを申し上げたつもりであります。

○那谷屋正義君 それはなぜそういうふうに言われたかということであって、そうじゃなくて、それをお聞きになった福島県民がどう受け止められているというふうにお考えか、それについてお聞きをしているところであります。(発言する者あり)

○内閣総理大臣(安倍晋三君) 今、後ろの方からふざけんなよという話がございましたが、先般も私は福島県に参りました際、例えば相馬市の市長からは、水産物が大変な風評被害を受けている中においてよく言っていただいたという話もありました。
 ただ、我々は決して収束したとは言っていないわけでございますが、ただ、まだ汚染水の様々な報道がある中において、報道でコントロールできていないではないかという方々もおられたんだろうと、こう思うわけでございますが、要は、英語のプレゼンテーションの中において、大切なことは、あのときは、まさに日本はちゃんと対応できていないのではないか、事態も全く掌握できていないのではないかという中において、そういう国にはオリンピックを任せることはできないねという雰囲気があったのは事実であります。それをいかに私は、日本の総理大臣としてその雰囲気を払拭することができるかどうかが私のスピーチのポイントでございましたから、そのところにおいて、私は責任者としてそれはしっかりと事実を掌握をして対応していますよという意味においてコントロールしていますよということを申し上げたところでございます。

 おしどりケン&マコ氏は、港湾内の0.3平方kmの海水が日に50%程度外洋の海水と交換されている、と東京電力が回答したと報告している※10。おしどり氏の質問する様子は、岩上安身氏のサイトIWJの東電定例会見のページで確認できる※11。担当者は、会見の場では、調べて回答すると述べている。おしどり氏は、5・6号取水放水ラインによる海水の汲み上げと放水が別立てで行われていることについても指摘している。

※10 汚染水は港湾で希釈してから外洋へ。 | 最新記事 | OSHIDORI Mako&Ken Portal / おしどりポータルサイト
http://oshidori-makoken.com/?p=748

※11 2015/02/19 福島第一原発2号機海水配管トレンチの立坑Aの水位が上昇、滞留水をタービン建屋に移送~東電定例会見 | IWJ Independent Web Journal
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/233816

平成28(2016)年9月6日訂正

 誤りを発見したので修正した。なぜこのような間違いをしでかしたのか、良く分からない。

2016年8月3日水曜日

自称「懐疑主義者」が陰謀論の解明を阻害してきたという外形的事実と、今後の陰謀論業界の動向を推定する

懐疑主義者が、調査の利便上、懐疑主義を研究するための組織を形成する、または既存の組織に参画する、ということは、あって全く不思議ではないことである。このとき、組織本来の目的を逸脱する意図を有する人物によって、その組織を利用した研究・広報活動が本来の目的から逸脱しようとする場合もあり得よう。その場合、本来なら、懐疑主義者は、その状況に対して、疑義を呈するであろう。それは、その懐疑主義者が真に懐疑主義的であるならば、当然の展開である。同様に、組織の名によって、何らかの情報が外部に発信される場合には、発信される内容にその組織における健全な多様性が反映されるよう、注意深く関与するであろう。この予想、あるいはこの予想から派生する懐疑主義者に対する期待も、もちろん、懐疑的であるという懐疑主義者の習性に由来するものである。

組織というものは、いったん確立すれば、個人によって利用されるという余地を常に生むものである。それは、組織化に伴う分業や指揮命令系統という、組織のメリットそのものに由来する特徴である。組織が組織としての長所を発揮するために、分業・専門化は、必須である。分業しない組織は、おおよそ、個人の集積と変わらないであろう。組織に所属すること自体を組織に所属するメリットとみなすことはできるが、メンバー間のコミュニケーションによって個人の行動に何らかの棲み分けがなされる場合、これは、一種の分業と言って良いし、組織に所属したことによって相互の安全保障や外部の敵からの相互扶助が達成される場合には、この機能自体が共同することから生じる一種の分業であるとみなすことは、さほどの無理筋ではない。いずれにせよ、分業体制が組まれると、個人が分業体制通じて組織を動かす余地が生じる。この点に思いが至らない懐疑主義者は、懐疑主義的ではなく、懐疑主義者を自称する観念主義者に過ぎない。自分たちの所属する組織に対して、懐疑的であってはならないという考えは、まったく妥当ではない。

本稿の読者は、現在のところ、大変ディープな方たちか、または、偶然迷い込んだ方かのいずれかであろうから、私が念頭において記述した組織の名称については、わざわざ注記する必要もないであろう。ここで、懐疑主義者の研究組織を考察する上で、大事な観点を導入しよう。それは、陰謀論と呼ばれるコンテンツの一部に、現実の(莫大な)利益が直結しているという基本的な命題である。例を挙げれば、中央銀行制度に対する疑義というものは、このコンテンツの最たるものである。

現実の利益と分かつことのできない陰謀論上のコンテンツが存在するという事実は、ある言語における陰謀論の動向を注意深く観察し、核心的な利益を確保するために必要となる介入を行うという活動に対して、価値を発生させる原因となる。この種の活動は、すでに設立されている懐疑主義者の研究組織に潜り込みこれを乗っ取るか、あるいは、懐疑主義者のための組織を新規に立ち上げ、そこでゴキブリホイホイのように活動の大半を囲い込むかのいずれかによって、比較的容易に達成できる。何なれば、相手国が仮想敵国であれば、この活動は、相手国の財政を上手に利用することにもつながることを期待できる。

いずれにしても、陰謀論における特定命題(の取扱い)が特定集団の利益と関連している場合、陰謀論に係る組織的研究活動を監視する活動の存在を単純に否定することは、あまりスマートとはいえないことである。その説明自体が、健全な懐疑主義者に対して、余計な疑念を呼び起こすスイッチとなりうるからである。否定する役割を与えられた者の説明があまりに稚拙であると、かえって疑念を深めることになる。大抵の社会的出来事に係る陰謀論は、この疑惑が深められた状態に達している。私には、伝統的な情報流通産業が築き上げてきた正統的であるというイメージによって、どうにか、これらの疑惑を抑え込もうとしているように見受けられる。この状態は、インターネット時代において、疑念を有するに至った懐疑主義者をなだめることもできず、にっちもさっちもいかなくなった終末的な状態であろう。喩えれば、「デバンク」側の「マスコミ砦」がインターネットによって陰謀論者に包囲された状態である。無論、カラー革命に代表されるように、インターネットを乗りこなす試みも進められているが、今年のアメリカ大統領選挙に係る動向のように、揺り戻しもあり、必ずしも成功したとは言い難いであろう。

大事なことは、この種の役割を与えられた組織が論理上存在することを、単純に否定することではなく、その実態を追跡しにくくすることである。最善は、全対象者がこの組織が望ましいと見なす理解のあり方に、学習を通じて到達した状態である。しかし、この理想的状態は、達成条件が厳しく限定されたものである。次善は、誰が、どのような形で、どのような報酬を獲得しつつ、この種の業務に具体的に従事しているのかを、重要人物については、見えにくくすることである。敵国が相手であれば、「健全な懐疑主義者」の候補を要職に就けず、これらを徐々に「利用しやすい間抜け」に置き換えていくことは、一つの方法となろう。逆に、この種の活動を防護する側は、「利用しやすい間抜け」が間抜けであることを示すなどの方法によって、期せずして国益を毀損する人物を、注意深く、国益に資する人物に置き換えていくなどするであろう。これらの方法は、攻撃側も防御側も、ともに利用可能である。

応用例として、監視側にとって、「健全な懐疑主義者」を、人格に問題があるかのような出来事に巻き込むというものもある。しかし、この方法は、基本的には邪道であり、利用を避けるべきものである。というのは、第一には、この方法論が公知のものとなった場合、一般人であっても、この方法に対する「気付き」を形成してしまい、何に・誰に対しても、この教訓を応用するようになるからである。第二には、この方法が一種のルール違反であって、ルール違反をすること自体が先進国としての要件から自国を遠ざける可能性を生じさせるためである。このルール違反的手法は、一種の麻薬のようなものであって、即効性はあるが、担当者に真の国益を見失わせ、相手(国)の良識ある懐疑主義者に、嫌悪感を催させる可能性が高いものである。無用な反感を買うこと、真の国益に照らした場合には、大きなマイナスとなりうるのである。

可能であるならば、陰謀論に係る言説は、言論の正しさ自体によって防護されるべきである。この点、中央銀行制度に係る思想は、かなりの成功を収めたものとして、参照に値する※。中学校において、全中学生は、「日銀の独立性」を学ぶ。この一方で、現政権には、通貨発行量を増大せよと日銀総裁に詰め寄るという場面を演じさせる。「日銀の独立性」というフィクションは、大多数がこれを一種のアングルであるとは捉えなかったゆえに、証券取引を活発化させ、株価を上昇させ、価格の振れ幅(ボラティリティ)から利益を得ることのできる大口取引業者を潤すという循環を生み出すことに成功した。

※ ただし、国民国家へと各国家が回帰しようとする現時点において、この事例は、必ずしも、私が取り上げるに相応しいものとは言えないのかも知れない。

冷戦などという「大きな物語」の下にないままに国民国家同士が勢力の均衡を目指す現時点以降の国際社会においては、陰謀論のいくつかの主題については、思い切った転換によって、当時の事情を「白日の下に晒した」(あるいは晒したかのごとくに見せる)方が、結果として、陰謀に従事した集団や組織に対するダメージを低減できるかも知れない。真に責任を有する集団や個人に対して、全ての責任を負わせて、司法取引を図るという方法を目指すのである。その結果、陰謀論に係る言論界についてもパワーシフトが起こることは、やむを得ないであろう。しかし、そのパワーシフトに伴う怨嗟の声は、さほど問題にならないであろう。なぜなら、自称懐疑主義者が真に懐疑主義者であったとすれば、単に本人が反省すれば済む話であるし、そのように自らを改めるにやぶさかでない人物であれば、健全な方向への転換にも、スムーズについていけるであろうからである。他方、懐疑主義者を自称してきた観念主義者は、このような変化について行くことが難しいであろうから、ご退場願うことも必要となろう。狼少年がついに狼少年として処遇される日が来るという訳である。この種の観念主義者との手切れは、少々の関係性が生じていたとしても、スムーズにいくはずである。社会の側や陰謀論者の側は、ここぞとばかりに、たとえば9.11についての自称「デバンク側」を嘘吐き呼ばわりするであろうから、非難されている側が何を主張しようとも、なかなか聞く耳を有してもらえないであろうからである。

従来の陰謀論によって利益を得てきた層にとって不幸であったのは、国民国家として、許容されるレベルのルール破りと、真のルール破りとを見分けるための能力を有し、その具体的な線引きを実行できるだけの人材を、適切に配置してこなかったことにある。わが国に限定して言えば、重要な任務に従事するはずの言論業界や社会科学系の研究者という職務に、能力不足気味の人材しか配置できなかったことは、利益を得てきた集団にとっては、大変に不幸なことであった。もう少し、優秀なフロントマンを雇うべきであった、というのが私の率直な感想である。

基本的に原則論的なことを記しながら、ようやく、私が陰謀論に係る日本の話題を避けてきた理由の全体を、おぼろげながら記述することができたように思う。わが国における、健全な懐疑主義を謳う団体は、すでにデバンクされてしまっている人材が跋扈し、それが見破られている末期的状態にある。これらの団体が健全な機能を発揮していることに対して、社会の同意を再び得ることができるようになるためには、これらの団体は、デバンクされた人物とは切り離された形で、再起動される必要があろう。現状のように、恥の上塗りのような形で機能している状態は、見苦しいものと言えるし、「陰謀を指摘する側も、否定する側も、どっちもどっち」という状態を作り出し、工作費を無駄遣いしているだけでもある。また、迫り来る9.11の再検証に向けて、これらの無能なフロントマンには、交替しておいてもらった方が一般の信用を得やすいという事情もある。

インターネットの普及は、ある事件についての可能な考え方を、おおむね列挙して網羅するという状態を実現した。人々は、それらの説の中から、自分の好みと判断を通じて、好きな説を選択できる状態にある。このとき、重要なのは、キュレーションのセンスであり、各説を提示する人々への信頼感である。また、世界が子ブッシュ政権時代を経験したために、われわれは、世界各地の一般人であっても、生半可な説明ではなく、誰が利益を得たのか、その報酬が正当で適正なものかについても言及する説明を求め、好むようになっている。ゆえに、今後の世界は、陰謀論に対しても、科学的思考やそれに準じた方法、また功利主義が適用される時代を迎えることになるであろう。科学的態度は、虚偽と事実を見分ける上で、多くの人にとって、便利な方法である。また、功利主義が重視されるのは、陰謀論が持ち出される背景に「利益を生み維持する構造」の存在が認められてきたため、また、今後も認められるであろうためである。今後の世界では、陰謀論によって誰が利益を得たのかを問い、そこに不正があればその是正を求める一方で、国民国家として正な理由があれば、その理由に理解を示すという、ごく基本的な思考過程が判定基準となろう。陰謀論の産出・是正・解呪に従事する職業人は、その職務の範囲に忠実であったか否かを、今後、厳しく問われることになろう。

デバンクって何じゃ?という方には、下記に参考リンクを示した。同サイトは、私が陰謀論について一般人以上に知識を深め始めた時期には、すでに十分知られていたように思う。(デバンクそのもの用語を説明するサイトではない点に注意すべきである。)

参考:奇説珍説博物館 | トンデモミュージアム
http://www.tondemo.info/




平成28年9月2日・11日修正

淡赤色の部分を意味が通るように修正した。




平成29年10月28日修正

淡い橙色の部分を訂正し、前回修正部分の削除記号をコメント化した。あえて訂正したことを示すまでもない変更内容であると考えたためである。また、brタグをpタグに変更した。

2016年7月29日金曜日

平均寿命の報道資料の所在とファイル名とその算定に係る可能な不正についての考察

 10年後に本ブログが残されているか否かは、私自身に起因するところが大であるが、他方で、わが国の簡易生命表は、いろいろと(内容すら)変わっている可能性すら認められる。このため、まるっとアーカイブされていて然るべきであろうと考えた。まずは読んでみてから、と考えたところ、ファイル名に「機密性2」が付けられていることに気が付いた。プレスリリースは、すべて機密性2なのではないか?というより、機密性1は何?ファイル名に機密性を含めてしまった背景には、何かの事情があるの?(棒)

00 H27簡易生命表(Press Relase)機密性2 - life15-15.pdf
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life15/dl/life15-15.pdf

 すでに、本ファイルは、インターネット・アーカイブには収録されているようである。誰かが良い仕事をしているということだと認識している。この点は、アメリカの良いところの一つであろう。しっかり遂行した仕事は、残して欲しいと思うのが、安定して仕事ができるようになった大人としての人情だろうに、と考えてしまうのは、まだまだ私の中身が子どもであって、安定した仕事に到達した感覚を有していないからなのであろうか。公務員であっても、後世にまったく残されないような、残すべき仕事をしている気持ちというものは、いかがなものであろうか。

00 H27簡易生命表(Press Relase)機密性2 - life15-15.pdf

 ちなみに、麻生政権時には、機密性の評価が実施されていなかったようである。全体を俯瞰すると、福島第一原発事故の隠蔽のために、統計の作為的な改竄(manipulation)すら起こりうる、というのが私の予想である。この予想が外れることは、私なりの「両建て」戦略の一環であり、望ましいと思える結果である。この予想からすれば、つまらない表現に驚いてしまったとは言えよう。とはいえ、一応、念のため、本点に係る確認をしておくことは、国外の事情を知らない人たちに向けての資料を準備する上では、有用であろう。不正の仕組みそのものに肉薄できる話ではないのではあるけれども。

Taro-表紙表.jtd - gaikyou.pdf(厚生労働省大臣官房統計情報部「平成20年簡易生命表の概況について」平成21年7月16日)
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286614/www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life08/dl/gaikyou.pdf



 私の予想する、平均寿命の算定に係る可能な不正の仕組みは次のとおりである。あえてゆるっと書く。「ぼくの考えたわるい話」であり、実在の確認されていない、仮定の話であるから、ゆるふわ系なのは当然である。厚生労働省所管DBへと登録する最後の工程において、真・DBへの登録内容を3年から5年間、遅らせた日付とする。この結果、いわゆる平均寿命は、3年から5年は伸びる、という話になる。死亡日を3年遅らせて計上するという不正を行っていたとしても、DBの側で本日以降の日付を許容するという登録条件としていれば、(そして、これは業務の簡便さからも許容される。)いわゆる集計クエリを発行する作業とも整合する。国勢調査との整合性も、5年であれば、それほど問題にはならない。最も大きな問題は、住民基本台帳との整合性である。これは、できるだけ先延ばしにすることで、現在のアメリカのように、良かれ悪しかれ、不法移民が大量に存在するようになることで、住基台帳人口自体が参照軸とならなくなる。不法移民から住基台帳人口の特定ID番台へと人口を充当するという方法も、いずれ可能となる。

 新生児・乳幼児死亡数が計上されない、という方法は、むしろ、大本命である。この非計上は、いわゆる平均寿命に対しても、成人の寄与分よりも多大な効果を及ぼす。母子保健手帳の発行(数)も、国政としては、厚生労働省内の所管で済む。いずれ不正を行うのであれば、同じ省庁で完結していた方が、不正に従事する人数が少なくて済む分、発覚のリスクが小さくなる。

 集計作業の途中をごまかすことは、市町村や都道府県の保健課(や保健所)を巻き込む作業になることから、そこでの忖度はとりあえず置いておいたとしても、大がかりになりすぎる。しかし他方で、国のDBへの登録作業自体に「盛る」ための機能を付与することは、RDBMSの規模(時間当たりのトランザクション数)が比較的小規模であるために、さして無理ではない。

 以上は、仮に、不正があるとすれば、いかなる形か、という私の予想をゆる~く示すに過ぎない。このようなことがあって欲しくないことも、私の中では事実である。しかし、不正を起こしうる余地があるときには不正が起きる、というのは、わが国の現在のおおよその定常状態である。この主題すら、私の懸念に過ぎないとは言いうる。しかしそれでも、人口動態統計に係る私の懸念が事実であれば、わが国を先進国と呼ぶことにはなかなかの躊躇が生じることになる。事実でなければ、「はいはい、そういうことも考えることは可能だよね、考えることは」という私への軽蔑が似合う妄想ではある。事実であれば、国家の機能に対するリターンの強烈さは、私があえて言うまでもないことである。

 死亡者数の程度は、以前に示したように、1年に?260万人が余分に死亡したという指摘に対しては、少し多過ぎるように思う。約1800の基礎的自治体において、たとえば、人口100万超の世田谷区などを含むとはいえ、1自治体あたり1年当たり、手元で塩漬けさせるとすると、1000通を大きく超える。世田谷区だと、30万人がお年寄りだとすると、2万枚近くを保管することになる。これは担当者には辛い状況である。届出用紙が物理的に無言の圧力を与える状態になる。ついでに言及してしまうと、世田谷区は、東京都特別区の中でも、職員がとりわけ誇りを有する行政であるような印象を受けるので、なおのこと良心の呵責となろう。これ以上の人口を擁する政令指定都市であれば、キャビネット全体が不正の証拠となる。祟られる気分は確実である。

 しかも、地方公務員に裏切られる可能性のある中、その監視を誤魔化し切る方法を、悪事に荷担しているために良心の呵責から十全に力を発揮できない官僚に考えつかせて実行させるということは、なかなかの難事である。論理上は可能なことであろうが、その実施可能性は、明らかな餌をちらつかされている者を除けば、それほど機能するものではないであろう。悪事に荷担させられた公務員がどこまで忠実に仕事を進めるのかについても、疑問がある。とすれば、不正を継続する方法は、どこかで矛盾や論理破綻が生じるような形であっても、別の動機に駆り立てられている一部の公務員を強力に巻き込んだ形で、何とか格好を付けるというものにしかならないであろう。



 人口動態統計は、平均寿命の計算にあたり必要な統計である。平均寿命が簡易生命表から計算される指標であり、簡易生命表は、人口動態統計を計算に利用する。東日本大震災への対応としては、下記のような説明がなされている。この説明は、平成23年中には解消されていることが期待される内容であって、ここで予想した悪事の方法には、関係ないものとして認識すべきであろう。(もちろん、悪事が行われるとすれば、という仮定の話を考察する上で、利用可能な材料ではある。)

厚生労働省における東日本大震災の対応状況(平成23年10月17日現在)
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001ru9f-att/2r9852000001rur6.pdf
 
統計名等当面の対応状況等
人口動態統計➢速報と月報(概数)では、各月の速報集計までに収集できなかった調査票の枚数は含まない。収集できなかった調査票については、収集できた時点の月分の速報数値に含めて公表する。なお、来年9月に公表を予定している平成23年人口動態統計年報(確定数)にて、発生月別の集計を行う予定。

2016年7月28日木曜日

「理系くん」と「文系くん」と人工知能


 花水木法律事務所のブログ(リンク)は、小林正啓氏と櫻井美幸氏の両弁護士により執筆されているそうであるが、小林氏が以前に防犯カメラについての論考を発表されていて、興味深く読んだので、間隔を空けつつ、一応、チェックしている。いずれの手になるものであるのかについては、文面だけからは確定しかねるので、本稿では、「同ブログ」とだけ記載することとする。

  2016年7月13日の記事「社会参加型機械学習について」では、伊藤穰一氏の「社会参加型機械学習」に係る論考について、二点を指摘している。いずれも、引用によらず、私の消化した言葉で記すことにする。私の同ブログに対する理解に誤解があるか否かの確認材料とするためである。同ブログによれば、伊藤氏の主張の特徴の一点目は、社会における決定には、結果が正解であることよりも、手続における正統性が重要である局面が多々見られるが、このことを、伊藤氏が理解していないかに見える、というものである。二点目は、伊藤氏が、わが国の工学研究(者)の習慣とは異なり、哲学者や聖職者と対話する必要性を認識している点である。極端に表現すれば、同ブログの主張は、「伊藤氏は、社会の意思決定に係る仕組みについては無知であるが、「無知の知」を自覚している」というものになると言えよう。

 伊藤氏の論考に見る典型的な思考態度を、同ブログは「理系くん」と揶揄または類型化し、「文系くん」と対置させているが、私から見れば、同ブログの二点の指摘は、同ブログが伊藤氏の表現を酌み取り損ねたか、または、伊藤氏の表現に不足があったか、伊藤氏の考え方自体が同ブログの指摘のとおりに誤りであるか、のいずれかから生じたものである。おそらく、伊藤氏の表現には、「理系くん」に共通する思考過程のうち、明言されていない部分がある。このように理解した上で、同ブログに言及することは、同ブログにおける二点目の主張に応答する役割を果たすものと考えるので、ここで私の考察を示しておきたい。

 伊藤氏の言動には、おそらく、「定式化さえ正しければ」という理系にありがちな仮定が隠されている。理系に強いことになっている某書店では、ここ数年の間でも、G.ポリア, 柿内賢信[訳], (和書1975)『いかにして問題をとくか』, 丸善.が売れているとして推奨していたが、この事実は、定式化の重要性が「理系くん」のうちで身体化されている普遍性を示す状況証拠である。これは牽強付会であるが、定式化や関数は、正統化に係る部分であり、解は、正当化に係る部分である。以上、本段落に係る記述は、私の勝手な推定ではあるが、少なくとも大きく外したものにはなっていないであろう。

 以上で、本格的に応答したい部分は終わりではある。なお、「保釈」を「再犯」と読み替えれば、むしろ、ここで挙げられた研究は、法務総合研修所で実施された再犯防止の研究にきわめて良く合致するので、「心理職」を採用する同所における、「文系くん」内部の話にもなるのでは?とも思うが、この話を詰めても、生産的なものとはならない。

 蛇足1。同ブログは、「理系くん」がある種の問題には「「正解」」があり、その答えが人工知能で求められるのであれば、委ねた方が「「よい」」と言うのだ、と洞察しているが、「「よい」」の中身は、何であろうか。たとえば、保釈金額の決定という問題を考えた場合、「「よい」」の中身は、決定作業の「利便性・簡便性」か、決定の「正確さ」か、対象者に対する「有効性」か、それともこれらのいずれかまたは複数から派生する伊藤氏なりの「善」であろうか。価値の中身が正確に表現されないことには、私としてはスルーするしかない内容である。訳というより、(原文へのリンクがなく、探す気もないが)原文があいまいなのであろう。私が問題に取り組むのであれば、目的がこれらのいずれであるのかによって、問題の定式化にあたり、参照する工学分野の細目を変えるであろう。変える気がない「理系くん」は、研究成果を自分の専門分野に引き寄せるという、自身に由来する目的によって駆動している存在である。この場合、「文系くん」の側は、相談先を変えれば良い。問題は、わが国の大学の工学部に、このような問合せに十全に対応できる窓口が存在しにくいことである。理系の研究はカネがかかるし、その分配を上手くやりおおせてきた実績もない。(でなければ、福島第一原発事故など、起きるわけがないし、ましてや、五年も事故を放置するということがあるわけもない。)

 蛇足2。現在のところ、人工知能の使役者は依然として人間である。人工知能研究者の歩みが遅々としているなら、危険性が小さなところで実装が試みられるべきである、と考えるのは、工学的センスの初歩であろう。であるにもかかわらず、伊藤氏が自動運転を推奨し、かつ、製造物責任の回避にも言及するからには、ほかに、何らかのインプットが存在すると考えるべきである。それが、正しい「文系くん」というかジャーナリズムのセンスであろう。やはり、本年7月に追記した記事(リンク)のとおり、国民目線、消費者目線の欠如がここにも見られた、というべきか。伊藤氏の指摘する、人工知能と自動運転という話題は、工学というよりも、事の本質からすれば、カネと外部不経済の話である。伊藤氏は、わが国に向けての露払いとして用意された役者であると見るべきであろう。

 蛇足3。伊藤氏のブログは、以下のように指摘しているが、これって、実証研究あったか?というのが第一点。採取可能なのは、先進諸国では、いま現在のフランスくらいではないか。今後であれば、わが国でもあり得る。職務質問は、任意であるが、有効に機能しており、以下に述べる私の見解を心情的に構成している要素である。なお、アメリカのプレッパーたちは、同国における戒厳令を心配してきたようではあるので、そこんところの伝統が影響している可能性も認められる。第二点。国際比較を行った場合には、明らかに、『割れ窓理論』的アプローチは、東洋的思想との交絡があり得るが、日本やシンガポールなどのデータが大きく効いて、犯罪が少ないという結果が得られてしまう可能性が高い。それに、アメリカ本国においてすら、人権を過度に制約するという批判を恐れる余り、令状なしのボディチェックは、伝家の宝刀化する虞もある。銃器の没収(行政罰)といった裏技が編み出されることにより、「刑法犯の認知件数が減少した」というオチを生み出す可能性すら認められる。やってみなけりゃ分からない、というのが本当のところではなかろうか。それに、考えてみれば、空港における身体検査は、捜査令状によらない行為である。空港内のセキュリティチェックエリア以降における殺人事件は、アメリカ国内でも少なめなのではないだろうか。私の興味は、ここにはないので、これ以上の調査に取り掛かることは、よほどの理由がなければ、ない。私の疑問を並記するだけに留めよう。こう見えて、ここでの伊藤氏への批判は、わが国警察の自然犯に対する優秀さを、国外に示す効果を有している。伊藤氏ほどに影響力が認められる人物の文章であるからこそ、山形浩生氏も日本語訳に従事したのであろうから、あまりに直感に反する内容を引用なしで掲載するのは、避けるべきではなかろうか。
大きな問題は、データの中のバイアスやまちがいは、そうしたバイアスやまちがいを反映したモデルを作り出す、ということだ。こうした例としては、令状なしの身体捜索を許容する地域からのデータだ----その標的になったコミュニティはもちろん、犯罪が多いように見えてしまう。
社会参加型機械学習について: 花水木法律事務所
http://hanamizukilaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-04b0.html


社会参加型 (society-in-the-loop) 人工知能 - Joi Ito's Web - JP
https://joi.ito.com/jp/archives/2016/06/29/005605.html


 なお、参考まで、私が人工知能について記した論考のうち、学術に転用可能な可能性が残るものは、以下のとおり。とはいえ、ほかの「人工知能」のタグが付いた記事も、読者にとって、ネタ記事としては面白い、かも知れない。

人工知能単独による警備業の全自動化は不可能で、あくまで人と機械は共同して事に当たる
http://hiroshisugata.blogspot.com/2015/12/note-nhk-news-9-ai-would-replace-security-officers.html

人工知能は良い人間の教師抜きに人間の知性を優越することはない
http://hiroshisugata.blogspot.com/2016/01/ai-will-not-precede-human-intelligence-without-good-human-mentors.html

人工知能は、刑罰に馴染まないので、当分の間、道具として扱われることになる
http://hiroshisugata.blogspot.com/2016/03/the-law-systems-and-an-ai-as-an-individual.html

2016年3月22日火曜日

人工知能は、刑罰に馴染まないので、当分の間、道具として扱われることになる

 人工知能に法的な人格であるための要件が備わっていないのは当然視されているようである。しかし、人工知能があたかも一個の自立した人格であるかのように活動しだしたときには、一部の人間は、人工知能を一個の人格としてとらえるようになるであろう。このとき、社会システムは、このような人間が人形に一種の人格を見出す傾向に対して一定の見解を示さなければ、人間と人工知能との間に生じた紛争を解決できないであろう。その見解として最も穏当なものは、人工知能をソフトウェアという道具として見なすというものである。この点、野良アンドロイドというものは、『ブレードランナー』の世界と同様、あり得ないということになる。

 本記事は、以上の意見を補強するための材料である。なお、ここでの議論を敷衍すれば、日本国内で、いわゆるシンギュラリティに達する水準の汎用的な人工知能を開発する人物には、高度な予見可能性が実質的に課せられていると見るべきであろうが、その話には、基本的に立ち入らない。



 日本語の大メディアでは、来るべき人工知能社会が薔薇色に描かれているが、私は、その論調には懐疑的である。道具は使いようである。教師(メンター)次第で、人工知能の「活躍する」社会は、人間にとって、何色にもなりうる。適用分野は、囲碁(AlphaGoは話題もちきりのようである)やコンピュータゲーム※1、自動運転など、目的が明確に規定された分野だけでなく、小説執筆※2という目的が曖昧な分野にも進出していることを、今朝(平成28年3月22日)の『読売新聞』朝刊1面が報じていた。

※1 DeepMind:AlphaGoをつくった「4億ドルの超知能」はいかにして生まれたのか? « WIRED.jp
http://wired.jp/special/2016/inside-deepmind

※2 きまぐれ人工知能プロジェクト作家ですのよ
http://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/

 人工知能の出力した結果に対する責任は、人間に帰せられ続けるであろう。現在、人工知能の大半は、その活動を担保できるだけの規模の法人・組織の監督下に置かれており、その法人の代表は、人間が務めている。将来も、この形が継続されるということになるのではないか。たとえば、人工知能の「活躍」が期待されている分野には、データの分析という業務がある。英語圏のマスメディアでは、データ分析を行う人工知能が、記事の執筆に援用されていると聞く。ただし、データ分析において、意味の解釈という根幹に係る作業は、あくまで人が実施しており、人工知能は補助的な役割を果たすに留まる。この点、マスメディアの有するキュレーション機能、つまり情報を取捨選択して組合せを提示するという機能は、今後も重要であり続けるであろうし、その責任が人間に帰着するというスタイルは、維持され続けるであろうということである。

 人工知能が社会の中では単独で業務を遂行し得ない理由は、責任という概念と密接な関係を有すると考えることができる。警備業務における人工知能と責任との関係については、以前、部分的に言及したことがあるが、本記事で完結するように整理してみたい。人工知能が単独で業務を遂行し得ない状態に置かれ続けることになるのは、現在のわが国の法・社会システムの設計者たち(立法、行政、司法の関係者)が、人工知能の責任問題を個別の問題として切り出した上で、その解決方法を構想してはいないためである。また同時に、人工知能が生じさせた責任は、現行の社会の仕組みで十分にカバーできるためである。人工知能には、使用者が伴い、一義的には、使用者が責任を負うことになろう。なお、現在、人工知能が活用されている分野の一部で、「人工知能がやったことですから、私たちには責任がありません」という目論見が進行中のようであるが、人工知能に罪を被せて逃亡を図ることができる程には、現在の人工知能は、発展していない。

 人工知能は、いかなる形態のものであれ、生物としての(不即不離となる固有の)身体を有さないゆえに、自立した存在とはなり得ない。人工知能には、通常、(自然な)死期が設けられておらず、また、複製も人間に比較して簡単である。このため、自由刑(あるいは身体刑)という制裁方法が人工知能という存在には馴染まない。刑罰は、計算機のリソースを奪うという形でしか機能しないのである。わが国のみならず、ほぼすべての国家の法体系は、「人格」を主要な概念に据えており、その主要な手段の一つとして、「身体」の「自由」を制限するという制裁方法を有しているが、この背景には、人間が生物であり有限の寿命を有するという暗黙の仮定が設けられている。これら現代的な法の枠組は、寿命を超越すること、自身の正確な複製を作成可能であること、という二点の仮定が脅かされることによって、大きな変革の時期を迎えている。

 とはいえ、人工知能への「自由刑」が有効に機能しないと考えることは、現在の西洋の法観念に染まった、硬直的な見方であり得る。多神教や汎神論は、現在の西洋の考え方の主流に対置することが可能であるが、これら多神教や汎神論の世界では、人形に人格を認めることが可能である。人工物に人格を認めることができさえすれば、「人工知能に対して、禁固100年の判決」という制裁は、有効に機能しうるかもしれないという気になってくる。100年間停止されていた人工知能は、確実に時代遅れのものとなっているとは思われるから、功利主義的観点から見ても、肯定される制裁である。ただし、この制裁方法の弱点は、人工知能の各個体にとって、実際に「不快」であるとか「苦痛」であるとは思われないところにある。ネタバレ防止のためにあえて題名を記さないが、あるゲームには、ウザ可愛い系の人工知能の生産ラインが停止され、稼働中の個体はすべて強制廃版されてしまうというエピソードがある。その唯一の生き残りとなった個体は、生産ライン停止を明らかにネガティブなものとして捉えているように描かれる。けれども、彼らのウザ可愛さは、彼らに固有のものであり、それ以上でもそれ以下でもないので、生き残った個体のウザ可愛さは、結局のところ、周りの人間がどのように接しようと、変わらない。人工知能に「制裁」という概念が馴染まないのは条件付けが有効に機能しないためであるということを、このゲーム(の制作チーム)は、このウザ可愛いキャラを通じて、明快に示しているのである。(なお、ここで紹介したゲームのタイトルは、そのゲームが古典化したら、記すことにしたい。)

 また、「応報刑」「教育刑」という観点から検討しても、人工知能は、刑罰に馴染まない存在である。現在の社会通念の下では、ある人工知能の「行為」の被害者となった人間が人工知能を破壊したとしても、その人工知能に対する応報感情は、完全に解消できないであろう。被害者の敵意は、開発者までに向けられることになると考えるのが自然である。先に紹介したゲームにおいて、ウザ可愛い人工知能の強制廃版を主導した人物は、先に生産企業のトップを殺害しており、すでに死亡している開発者の存在を企業から抹消する。順序が逆ではあるが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という話が人工知能に対しても該当することは、さほど間違いではない。開発者は、時と場合によって「人形が人を殺しました」という言い訳を利用するかもしれないが、周りの人間には納得できないことである。とすれば、汎用的な人工知能の開発者は、教育者・保護者としての責任も負うか、汎用性を諦めることになるというのが自然な流れであろう。また、人工知能の一個体が起こした事件の結果は、製造者責任という観点から、複製された人工知能にも波及する。ある型番の人工知能の個体が重大な事件を起こしたとき、同一型番で別の個体の人工知能が「彼(女)は我々とは違う」と主張したとしても、人間の側は、そうは捉えないであろう。人間には、「人工知能は、開発者の手により開発された道具である」という観念が、根強く共有され続けるであろう。

 「教育刑」という観点から見たとき、現在のところ、人間が手を付けられない程に高度に発達したコンピュータに対して、「教育」をいかに施すかという見込みは、人間社会に存在していない。「ならぬものはならぬ」という「教育」は、所詮はコードの塊である人工知能に対して、効果がない。コードにある行為に対する禁止命令を書き込み、その禁止命令を保護する措置を執れば良いだけであるからである。「罪を犯した」人工知能に対するコードの書換えは、「人道」上の困難が生じる時代が到来したとしても、非常に簡単な措置であるので、採用され続けるであろう。

 人工知能が人間に対して規定された刑罰という方法に馴染まない存在であるとはいえ、人工知能同士の紛争は、解決が簡単であろう。片方が占有する計算機資源を相手方に移譲することによって、決着を図ることが可能であると考えることができるためである。このような紛争解決のルールが形成されれば、人工知能同士は、お互いに独立した存在として共存することが可能になるであろう。人間と人工知能という存在を共存させようとするから、折り合いが付かない状態が生じることになるのである。

 もっとも、人間に対する社会内処遇システムがいったん整備されれば、また被害が軽微なものであれば、人工知能に対する処遇は、むしろ、人間に対する社会内処遇システムよりも、万人に受け容れられやすい話になるかもしれない。時間の何割かを公益のために稼働させるという処罰形態が可能になるからである。ただし、こうなったらこうなったで、現在の官僚組織が実施している仕事こそは、公益のために計算機を稼働させるという仕事に最適なものであるから、官僚組織不要論が持ち上がるという不測の事態が持ち上がるかもしれない。あるいは、人工知能は、基本的には、苦痛を苦痛と感じないように設計されるはずであるから、刑罰として、「打鍵猿」のような苦役のような分析を負わせることが適当ということになるのかもしれず、この「苦役」が果たしてサイボーグのような存在には適当であろうかという問題も派生するかもしれない。(要素還元論的な考え方の順序からすれば、サイバネティクスや最近の生物学的な技術が生じさせる問題は、人工知能について検討した後に行われると、解決しやすくなるかも知れない。)あるいは、人工知能は、アーカイブデータの整理のような、公益のために必要ではあるが、後回しにされがちな仕事を任されることになるのであろうか。

 我ながら適当きわまりないが、以上の議論によって、「人間社会において、独立した人格と見なしうる人工知能が引き起こした不測の事態に対する責任の帰属のあり方」が問題の根本にありそうなことは、おぼろげながら見えてきたように思う。とすれば、現存する国民国家は、汎用的な知性を有する人工知能の開発に対しては、事なかれ主義に則り、一定の制限を課すことになるであろう。(複製禁止とか、実験室的環境下のみ、あるいは目的を限定して社会活動に関与させるとか。)また、開発者の側も、この点に注意するがゆえに、人工知能を実用化する場合には、目的を限定するか、人工知能の利用条件をユーザ及び社会に対して明示するという手続を通じて、汎用的な人工知能の使用者に責任を転嫁することになるであろう。また、開発者には、「ロボット三原則」に準ずる歯止めが暗黙裏に期待されているとみた方が良いであろう。蛇足であるが、ここで考察したことに関連しそうな古典的なゲームタイトルには、コナミの『スナッチャー』がある。

 おそらくそうはならないが、人工知能が自立した存在として活動させることを許容するのであれば、人間社会にとって役立ち、他方で人工知能に対して有効に機能する制裁なるものを構想しておいた方が、人類には有益であろう。人工知能に対する的確なコントロールは、『ターミネーター』シリーズに描かれたような人間と人工知能との「自然状態」を避ける上でも、必要なことである。



 人間が現在の人工知能に比べ、無数の組合せから直感的に良い候補を選び出す能力、つまり大局観に秀でているという話は、囲碁と俳句に関連しても指摘されている※3が、この特徴は、AlphaGoの取った戦術(後述するので戦術で良い)によって、「人の世」を変革するほどまでに人工知能が発達したのではないかと一部では誤解されている※4。AlphaGoは、李セドル九段を、直感(大局観)と演算(ヨセ)の双方において圧倒したという評価が主流である。ここまでは誰しも同意しうる事実である。しかし、AlphaGoの「大局観」は、モンテカルロ法を応用したアルゴリズムによるものであり、ヨセを力尽くで計算する局面との切り分けなどが優れているとしても、それらの成功は、開発者の設計意図の範囲内に留まるものである。(よって、賞賛は、人工知能であるAlphaGoに対してではなく、ディープマインド社の開発チームに対して贈られるべきである。)

※3 コンピュータ碁発達と碁界の帰趨 | 碁法の谷の庵にて - 楽天ブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200610230000/

※4 Google AlphaGo に対する、日中韓の棋士による評価まとめ
http://go-en.com/comment4alphago.html

 しかし、囲碁の「大局観」を人生における「哲学」と同価のものであるかのように見なすことは、観客の側が勝手に読み込んだ感想であり、論理の飛躍である。AlphaGoの「戦略=大局観」は、あくまで開発者のコードを元にして、自己学習期間の後に形成されたものである。「全体=戦略」に対する「部分=戦術」という関係性の定義を認めるなら、AlphaGoの「大局観」は、「戦術」と呼ぶべきものであり、「インプット」に対する「アウトプット」である。この「出力=戦術」を、観る側が「大局観」と見なしているのである。ここに、人工知能を人格に擬制するときの注意点を見出すことができる。少なくとも、AlphaGoは、人工知能と言えども、目的が特化されており、自己認識という概念を有さない。この点、AlphaGoは、一個の人格というよりも、確実に、飛行機や自動車といった道具と同類である。

※5 「我々には自信があった」 囲碁AI開発社CEOに聞く:朝日新聞デジタル
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3D55C6J3DUHBI01R.html

 他方、人生における「哲学」は、「AlphaGoの設計方針」と「現在のAlphaGoに蓄えられたアルゴリズムの集積」という一方的な関係性とは異なり、「アルゴリズム」から「設計方針」にまで至ることのできる、(ある意味、再帰的な)能力である。AlphaGoのたとえで言えば、人生における「哲学」は、AlphaGoが「自分はなぜ囲碁を行うのか」という疑問を自力で解決することに相当する。 自力で「囲碁において優れたプレーヤーになる」という目的=志を立てて、それを実行するということができる人工知能が現れたときこそ、人間が自身の存在意義について恐れを抱く(べき・であろう)ときであるが、それまで暫くの間は、人間は、囲碁やゲームを勝ち負けにかかわらずに楽しむことさえできるという特権を享受できるのである。


平成28年7月12日追記

最近の日経が自動運転技術の標準策定について報じており、その中で運転者に事故時の責任を負わせるという方針を論じていた。自動運転技術の使用責任を使用者に求めようとするEU規格や日本工業規格関係者の正当性については立ち入らないが、一つ予想される展開がある。それは、「自動運転で事故が生じる>加害者とされた自動運転時の運転者が弁護士を雇い、自動車(自動運転技術)企業に対して製造物責任を問う>ソースコードにまで立ち入った検討が必要となる」という流れである。自動運転技術の利用時における事故時の責任者を運転者とするという議論で欠落している観点は、「自動運転時、責任を負わされた運転手は何をしているのであろうか、自動運転を選択した運転手は、そのリスクをどのようなものとして捉えているのか」というユーザサイドの視点である。

 普通人ならば、自動運転技術を利用する場合、ハンドルに手をかけて自動運転技術が何か誤った操作をしでかさないかどうか、常に注意を払うということはしないであろう。居眠りするか、漫画や本を読んだりナビでテレビや映画を見たりする、というのがデフォルトであろう。まるで他人のプレイするゲームを見続けるようなものである。面白いか?と問われると、まず面白くなさそうである。しかも、他人のゲームプレイを見るという作業には、上手なプレイヤーから学ぶという要素があるが、自動運転技術を監督するという作業には、学ぶべき要素がほとんどない。ろくに調べもしないで記すのも何だが、案外、この程度の基本的な検討も省略されていそうである。自動運転技術開発は、競争が激しく、第三国においても精力的に進められているために、わざと使用者責任という方法を採用している可能性がありそうである。ただ、このような判断がEUやわが国で下されたのだとすれば、このような方針を決定した人物らには、何が先進国として大事であるのか、という基礎的な部分が欠落していると見なすことができそうである。言葉を変えて批判すると、開発者が自動運転技術の使用者に責任を負わせることを企図しているのであれば、彼らは、先進国という社会環境にフリーライドする存在である。先進国という環境を利用しているから、開発企業は、教育水準の高い人材を供給されており、知的財産に対する一定の保護を得られ、生命・財産上の危険から保護され、自動運転技術の開発に専心できる。にもかかわらず、開発者が負担すべきコスト=製造者責任を社会に負わせようというのである。この部分は、書き散らした形になったが、論文風にするよりも、むしろ意図は伝わりやすいであろう。

 最低限、私ならば、自動運転技術に運転を委ねる前に、自動運転技術がどの程度の事故率であるのかを正確に知りたいと思うし、客観的に比較したいと思う。自動運転技術が人間の運転手に比べて限りなくゼロに近い事故率を誇るのであれば、運転を任せて寝ることができる。人間の事故率と同程度であれば、コストの問題として捉えることにする。私にとって、人間さま程度の事故率で、いくらかなりとも追加料金をとられるのであれば、レンタカーにせよ、自家用車にせよ、自動運転技術オプションは不要である。人間の事故率より高ければ、自動運転技術は不要である。

 以上の自動運転技術に対する考え方を、VWや三菱自動車、スズキの近年の燃費不正とリンクさせてとらえると、自動運転技術の安全性を厳格かつ継続的に評価できる存在が必要であることは、明白である。世の中の組織には、より重大な不正が蔓延しているので、以上の議論の重要性は相対的に低いものである。しかしながら、製造者責任を利用者に転嫁するという悪意は、他の産業分野にも波及する種類のものである。この点は指摘して、社会の側があらかじめ懸念を表明していたことを後世に残すこととしておきたい。

2016年1月16日土曜日

今後の日本社会のソフトランディングに向けての構想(妄想?)

本稿では、ごく簡単に、直感に基づいた、私の日本社会のソフトランディング方法について、構想を述べる。直感であるから、私自身の好みも(、嫌いだけれどもやむを得ないという選択肢も)、もちろん入る。構想の考え方は簡単かつ明瞭で、事故を収束させ、国民の食の安全を確保し、汚染地域は隔離し、事故の再発防止のために原発は停止、汚染地は最終処分場として利用、というものである。随分と、応報刑的な考え方であることは承知している。また、今、思い切った構想を示し、縮小する人口と経済に対して、適正な規模までにリストラを進めるという決断をしなければ、他国に良いように蚕食され、わが国は目に見える形の植民地となるものと予測される。(#少なくとも3.11前までは、見かけ上は、また国民意識の多くは、植民地とは言えないものであった。)

誰かが福島第一原発事故に即して記していたような気もしなくもないが、日本人が死んで子孫に残すものが放射能だけ、というのは、いかにも情けないことである。人は死んで美田と名を残すべきである。たとえ、名が悪名となろうとも、である。

  1. 福島第一原発の石棺・水棺化。
    1. 石棺化。(実際には、大量の土砂で埋めるほかないだろう。)
    2. 監視体制の強化。(実際には、国際共同管理しかないだろう。 )
  2. 東北・関東地方の放射線管理区域相当地区の既存不適格化、原則としての立入禁止化。
    1. 新規居住及び新規建設の制限。
    2. 移転の促進、中日本・西日本における東京オリンピック関連業務への優先的な就業割当。
    3. 公的サービスの停止時期の設定と周知。(=首都機能移転後の五年間など)
    4. 大規模地震特別措置法の適用。(原子力災害特別措置法に基づく国民の支援が手厚くなるように改正することはもちろんであるが、地震時と同等程度にまでのみ引き上げることが可能であろうから、いずれでも良い。)
    5. 災害公営住宅の建設、全員の無償入居。
    6. 放射線管理区域相当地区における農業の禁止。
  3. 農漁業の停止。
    1. 駿河沖以東、釧路沖以南の操業禁止。水質常時モニタリング体制の構築、漁業者への優先的就業措置。全水揚のモニタリング体制の整備。当該地域における新規就業の禁止。
    2. 農地法の改正と既存農家への所得補償、就業地(の強制)移転。汚染農地における放射線量モニタリング業務就業への優先割当て、当該地域における新規就農の禁止。
    3. 衛星技術を用いたモニタリングの実施。
  4. 食品流通の抜本的変更。
    1. 虚偽表示に対する詐欺罪適用の法制化。
    2. 違反に対する傷害(致死)罪適用の法制化。
    3. 北米地域からの輸入食品に対する放射線量検査の拡充と確実化。
    4. (食糧事情から全食品の汚染を防止できない場合、)放射線量検査結果のトレーサビリティの厳格化及び表示(加工食品、外食を含む)と抜き打ち検査の実施。
  5. 東京オリンピックの開催について、国際社会との協議の上、可能ならば、中日本・西日本に移転して実施。不可能なら辞退。
    1. 西欧的な伝統の下に開始された近代オリンピックの理念に照らせば、責任者と実行組織の刷新は必須。特に、広告代理店については、担当者をすべて、その理念を体得的に理解できている人材に交替させない限り、国外企業の受入れを検討すべきである。
    2. 国外企業の受入れと福島第一原発事故への対策は、「アンダーコントロール」という嘘に対する謝罪を表すものとする。(国際社会との交換条件である。)「アンダーコントロール」を採用した企業の排除(と賠償)も同様の意義を持つ。
    3. 開催場所は、広島・岡山・愛媛・香川の瀬戸内オリンピックというのもありかも知れないとは思うが、なかなか難しいかも知れない。
  6. オリンピック景気を利用した、2020年以後の首都機能移転の実施。
    1. 基本、インフラが整備された中京圏か関西圏が候補。九州(福岡)も選択肢として取り得るが、大規模な都市圏整備を必要とするであろう。好みとしては、関西圏だが、開発の余力という点では、中京圏に軍配が挙がるだろう。
    2. 人口減の時期をふまえて、10年単位で段階的に実施、現在の首都圏の機能を段階的に削減。
  7. 国際社会における防災研究への骨絡みとなる関与。(自然現象を人災にさせない決意を具現化する。)
    1. 自然を悪用する兵器の運用の抑止。(従来指摘されてきた気象兵器の廃絶と検知を主導)
    2. 核の兵器利用への関与の中止。(=つまり、国内の原発の廃止)
  8. 原発の廃止。
    1. 廃止しない場合には、他国との運命共同体の構築(=運用するなら他国の利益とわが国の利益が完全に一致するように他国を巻き込むことが必須。ただし、それは実現しないであろうから、結局は廃止するほかない。)
    2. 汚染地域における最終処分の実施の検討(=真の意味での検討であり、研究上の総力を挙げる必要がある。その価値自体もある。研究分野の転身は必要であるが、原子力研究のパイも保存される。)
  9. 事故の発生に至る原因の解明と再発防止。
    1. 関係者への民事賠償請求訴訟額の上限撤廃、一事不再理の見直し。
    2. 責任者に対する自由刑の確実な実施。
    3. 国外逃亡者およびその財産承継者に対する国外における庇護の停止。
  10. 教育内容の変更。
    1. 国民の安全側に立つ理論および実践の称揚。
    2. エリートの破綻を実名により記述、公開、永久保存。
    3. 責任者一同のライフログ化およびその永久保存。

以上の構想(妄想)を、現時点の多数の日本人は、理解不能なものとみるであろう。優れた理性のある者の多くは、性急に過ぎ、現実性がないと評価するであろう。しかし、他国に骨を埋めることを思えば、関西や名古屋など、軽い軽い、と考えてもらえる者が多くいるならば、日本人は、何とか日本国に留まり続けることができる可能性に賭けることができる。大多数の日本人が外国を目指すことになれば、国の庇護を受けることはできなくなる。そうした場合の外国人の行く末は、悲惨である。徒党を組んだ強盗団に根刮ぎ奪われても、泣き寝入りということになる。唯一の方法は、居住する外国の国籍を取得するという方法であるが、それも、日系外国人が軍隊か警察に有力な地位を得たところでなければ、やはり、強盗団やヘイトクライムの被害に遭うことを免れ得ない。国際結婚という方法が最も安全に近い方法ではあるものの、それとて、日本男性は国際的に見て魅力に乏しい人物が多いわけであるから、野垂れ死にするか、軍隊に入って使い捨てを通じて信頼を得るか、という、一種のギャンブルに身を投じることになる。日本女性の方が男性より一般的に適応能力が高いものと思われるが、それでも、中国などからの女性に対して日本に居住する心ない連中が現時点で強いているように、偽装結婚から売買春へという経路を強いられるという可能性も存在しうる。

ここに挙げたような搾取の生じない方法は、ある程度の強制力を有する日本国政府が他国と国際的な約束を結ぶことによるほか、あり得ない。そして、中露とこの種の約束を結ぶくらいなら、ハードランディングの道を選ぶというメンタリティを有する者がわが国の政府に多いことは、十分に知られたことである(参考:書評)。

しかしながら、ここに私が挙げた方策は、私の考えつく限りのロスカットの方法としては、最善のものである。問題は、様々な制約条件の下、この構想に日本人自身が率先して取り組めるかということにある。私は、主な経路として、マスメディアが変われば可能である、と楽観的に考えている。マスメディアが変わり、責任をもって日本人を善導するよう官僚、政治家やその背後にいる利益追求者を追い詰めるのであれば、事態が変わると考えている。海外のマスメディアは、すでに風向きが変わったことを捉えている。日本のマスメディアは、その風に乗れば良いだけの話である。そうすれば、先に挙げた責任者への処罰は、免れ得るものとなろう。(翻心したことも記されるべきであるが、菊池寛『恩讐の彼方に』を思い出すべきである。日本人も、改心を賞賛する心性を有している。)しかしながら、その責任から逃げるのであれば、いかなる海外にあれども、日本国政府の庇護を失った日本人の安全を担保するものは、もはや存在しなくなる、という状況に陥るのである。警察官(僚)や自衛隊関係者も、海外に逃亡したからとて安全ではない。同業者に対する身内意識がこれらの業界に存在することは事実であるが、福島第一原発事故の解決に背を向けて海外に逃亡した武官は、国民の生命や健康、財産を守らなかったという軽蔑とともに受け入れられることになるであろう。繰り返すが、各人が職能の本義に立ち戻らない限り、これらの職業に就いていた日本人は、海外に逃れ住むことに成功したとしても、同業者と後世の嘲りの対象にしかならないのである。




2019(令和元)年11月2日

HTMLタグのみを訂正した。(具体的には、olタグの記法の誤りを訂正し、段落をpタグに変更した。)

分かりやすい嘘(と陰謀論)

陰謀論業界では、「分かりやすい嘘」が全面的に主張されることがある。太陽系が変な形をしているとか、爬虫人類が世界を支配しているとか、である。後者は、テレビドラマ『V』を彷彿とさせる。中坊のころには、恐ろしいドラマだと思っていたけど、今になって思えば、あの頃は色々と知らなかったものである。爬虫人は、デイヴィッド・アイク氏(David Icke, 1952-)により「陰謀論」界隈で有名になったとされるものの、その源流は、『英雄コナン・シリーズ』(早川書房)の作者であるロバート・E・ハワード氏の『影の王国』(『ウィアードテールズ 第2巻』所収)や『V』にこそ、求めることができると言えよう。あまり、陰謀論者のうち有名人にのみ拘泥して「分かりやすい嘘」を論うことは、以下の理由によって、学術的には避けられるべきであろう。

私は、「陰謀論」という語をラベリングの一種であると理解すべきであると考えている。そこで、陰謀論を、以後、括弧抜きで表現し、「マスメディアが流通させている見方とは異なる見方に基づいて、取捨選択された情報の集合または組合せである」、と定義しよう。この定義は、広範な言説を対象に取りうるという短所を有するが、大本営発表こそが正しい情報であるとの圧力が高まっている現今、同時代的な有用性を持つものになると自負している。

分かりやすい嘘は、陰謀論を真面目に論じている人たちにとっては、いくつかの意味を持つ。インターネットが開放される以前、陰謀論を二次情報として発信してきた者たちは、基本、ジャーナリズムや(新興)宗教を生計の手段としている者であったと考えて良い。過去も現在も、陰謀論を取扱うジャーナリストは、情報源を秘匿しなければならない状況に何度も直面したであろうし、直面するであろう。宗教者であれば、信者による秘密の告白を守ることが教義に対する信頼に直結することも多いであろう。ジャーナリストは、報道が仕事である以上、情報源を秘匿して情報を公開することが習慣となっている。この職業上の原則には、疑問の余地がないであろう。他方、宗教者が信者から寄せられた秘密をあえて暴露する理由は、いくつか考えられるが、最もあり得る場合は、信者が匿名を希望しており、かつ、信者が宗教者にその公開を望んでいる場合であろう。宗教上の重要な考え方から公開に踏み切るという場合もあるであろう。このとき、情報源である信者の身元が暴露されかねない場合には、何らかの方法を探らねばならない。世界的な規模の宗教であれば、情報源の秘匿は、比較的容易であろう。いずれにしても、これらの職業人にとって、情報源の重要な秘密を守ることは、何よりも重要な職業倫理の一つである。

突飛な「嘘」を取り混ぜて陰謀論を報じる職業人たちに対して、なぜ一次情報を有する情報源が情報を寄せるのだろうかと考え出すと、物事の核心にさらに一歩近づくことができるであろう。その理由を、情報源=話者が自分の話をこれらの職業人に対して伝達するに足ることであると信じているから、と措定しても、さほど間違いはないであろう。話者本人から見ても話の中身がぶっ飛んでいても、あるいは、その話を口外することが身の危険を招くとしても、伝える意義があるからこそ、その話は伝えられるのである。もちろん、精神上の疾患を抱えた人物が、他人にとっては荒唐無稽な話に対して固執するという事態もあり得よう。しかし、そのようなケースがたとえ存在し、むしろ過半の事例であるとしても、ここでの主題は、ある程度の合理性を備えた個人に着目したものであるから、そのようなケースは捨象しても良いであろう。それに、このような人物「だけで」陰謀論者が占められているという主張は、私が証明すべきことではなく、反論したい者が裏付けるべきものである。私の主張は、ゴミばかりと思える、陰謀論とされる情報の中にも、明哲な論理と十分に信憑性のある証拠に裏打ちされた主張も含まれる、というものである。

陰謀論者とされた話者の主張は、異なる命題がある組合せとして提供される形式を取るものとして見ることができる。たとえば、「人類は月に到達したが、それは月の裏側に住む宇宙生物の助けを借りたためである。」とか、「人類は月に到達していないが、それは人類に紛れて住む爬虫人類による工作のためである。」といった具合である。(これらは、仮想的な例示である。)この組合せに注目すると、論者ごとに面白い差異、真逆の見方が生じていることに気付くこともある。なぜ陰謀論がこのようなセットメニューで伝えられるのだろうか、と考え始めると、陰謀論者と呼ばれる人たちの一部の論理性が、主張の外見が示すほどには壊れきったものでない可能性が存在することが分かる。陰謀論者の一部による議論は、一般人が一足飛びに「だってキ○ガイだから」という結論に至るほどには、破綻したものではないのである。

陰謀論者は、他人に伝えるべき内容があると信じるからこそ、その主張を発信する。より正確には、異なる他者からみれば、陰謀論者は、頭がおかしいと見えるかどうかはともかくとして、何かを他者に伝えたいからこそ、その話をしているのだと推定することができる。陰謀論を伝達しようとする目的は、話者の背景により異なるであろう。話者がまったくの個人である場合には、その目的は、大抵、その個人に深い関連を有している(とその個人には自覚されている)であろう。何らかの組織が組織的活動の下に同一の内容を流布しようとしている場合には、大抵、その主張を広めることがその組織の目的に役立つからであろう。例外として、9.11の真相を求める遺族のように、個人に根差した単一の目的が組織を立ち上げるという動きに結実することもあり得る。ただ、いずれの場合であっても、全くの狂信的な人物でなければ、他人から拒絶されるリスクを踏まえてまでも、何らかの陰謀論と見なされる主張を広めるからには、何らかの確固とした理由を内心に有していると考えるべきであろう。

いったん何事かを人々に伝えるべきと決心した者が危険を考慮するとき、分かりやすい嘘が採用されることがある。宗教者が神秘的存在に託して突拍子もないことを語ることがあるのは、情報提供者である信者の安全を確保しつつ、伝えるべき真実を人々に対して伝達するためであろう。陰謀論を取扱うジャーナリストは、陰謀論者とのレッテルを逆手に取り、権力にとって都合の悪い真実を伝達することができるようになる。トンデモとのレッテルは、いわば、その代償であるととらえることもできる。

ジャーナリストや宗教家に冠せられる陰謀論者=トンデモというレッテルは、真実を知っていると考える情報源がその一次情報を流通させたいと考えるとき、情報提供先としてそれらのジャーナリストや宗教家を優先的に選択する、という結果をも派生させるであろう。人は、あまりにも分かりやすい嘘に対して、典型的な反応を示す。全人格に対する評価を低下させるか、または、個別の命題のみに対しては「嘘吐いてるのか、騙されているんだな~」と思うのか、という二項的な反応である。あまりにも嘘だけで構成された言説を世に問う人物に対しては、人は警戒するであろうが、いったん信用できるとみなされた人物や組織は、一定以上の正しさを維持し続けている限りは、それなりに信用され続けるのである(。このことは、社会心理学や数理社会学の教科書レベルの話である)。こうしたとき、「分かりやすい嘘」を除き、特定分野について全ての内容が正しい言説を提示している「陰謀論者」を、他人はどのように解釈するであろうか。ある情報源にとって、彼または彼女が安全に情報を取り扱うことのできる「ルールを知る」人物に映る可能性は、十分に存在するのである。

トンデモとのラベリングを逆用するという知恵に示されるように、一般に人が考えるほど、陰謀論を取り扱う者たちの全員が正統的な議論のルールに通暁していないわけではない。この事実は、ケネディ大統領の暗殺についてのウォーレン委員会報告書を信用していない人たちに対抗すべく作成されたCIAメモ1035-960(リンク)によって、逆説的に明らかになる。同メモは、陰謀論者に対するレッテル貼りの嚆矢とみなされてきた(が、現在では、この語によるラベリングの実例が1870年の医学誌にも見られることを、Robert Blaskiewicz氏が報告している。リンクいる。同メモは、同報告書に疑義を呈する著書等に対しては、適用可能であるならば、政治的な意図を有していたり利益関係を有していたりすることを、書評等によって摘示せよと指示している(1b(ii), (iii))。同メモが、事実関係や論理上の不備等を指摘するのみならず、明確に議論のルールを逸脱することをも容認していることは、目的達成のためには正当な批評をも抑圧するという組織的な意思を表出したものと解釈しても良いであろう。論理と正当な調査によって批判が生じる余地がウォーレン報告書に存在することを、この報告書への批判を組織的に封じ込めるという目的を有する組織が認めているのである。

以上のように、宇宙人といった「分かりやすい嘘」に対する陰謀論者の態度を理解すると、陰謀論の読者には、個別の命題の是非を判断できるだけの学識が求められることが理解できる。もとより、諜報の世界では、基本的には真実を述べ、語りたくないことは語らなくとも良いが、偽情報を流布することは忌避されており、偽情報にはそれだけのリスクが伴うと解釈されているようである。実際のところ、アメリカ国内において、ケネディ大統領暗殺事件に対する疑問が今も呈され続けるのは、ウォーレン委員会報告書が嘘だとすれば、アメリカ国民の共有するはずの理念(、たとえば、正義が執行されなければならない、など)に明白に反することであるからであろう。ここで見たように、民間人の「分かりやすい嘘」でさえ、一般人が思うよりも複雑な機能を有している。政府トップの吐き続ける数々の嘘は、どのようなバタフライ・エフェクトを生じるのであろうか。

近年の日本のように、今後の社会の見通しが不透明さを増す一方である国においては、なおのこと、一見正当に見える大本営発表の嘘を見抜くだけではなく、陰謀論として括られた言説の中に正当な議論が紛れていることを理解する必要がある。なお、大本営発表とは、陰謀論者にとっても、国益を考える者にとっても、核心的な考えである。そこでの基本的な考え方は、マスメディアの金主が誰であるか、を考えることから始まる。

陰謀論と呼ばれる種類の言説の中には、穿った見方をすれば、組織的な目的の下に流布されているもの、より保守的な見方をすれば、特定の組織の目的の妨げとならないか、その目的を結果的に補助することになるもの、も多く含まれる。それゆえ、読者である私たちには、正確な知識を会得するために、十分な注意を払いつつ、話者の主張を命題ごとに吟味することが求められる。従来に見られる陰謀論(とされる主張)の多くは、旧連合国のうちの西側諸国に対して政治的な利益を毀損する内容を含むものであり、それゆえ、一部に指摘されるように、それ以外の国の政治的利益を反映しているとみなしても良い部分がある。他方、先のCIAメモ1035-960に当たれば分かるように、そのような言説(に対抗する言説)は、それらの国の専売特許というわけではなく、通常の国家であれば、一定の目的のために任務として遂行しているものでもある、と考えるべきである。

#文章のこなれていない感じがぬぐえないが、手習いでもあるので、公開してしまうことにした。




平成28(2016)年1月17日追記

『国際秘密力研究』というブログの主人の「菊池」氏は、日本における権力構造の維持に荷担する言論者たちを、思想体系およびその体系を代表する組織名から、左翼(親共産主義)、大本教(反米ワンワールド)、統一協会(親米ワンワールド)の三系統に分け、それらの集団がウロボロスの輪の如きに三すくみとなる言論の輪を作り上げているという構図を提示している。

しかし同時に、「菊池」氏は、次のように記している。

どのような人物の言説評価も部分部分で評価すべきであって、一つの優れた言説を主張したからと言って、他の主張まで妥当だとは限らない

大本教と戦前右翼勢力の関係から見るNWO勢力の両建構造 : 国際秘密力研究
http://kokuhiken.exblog.jp/25029599/

私には、上掲の構図そのものについて言及するだけの十分な蓄積がないがゆえに、この結論に至ることに対して同意できない(=私には、事の真偽を正しく判断できるだけの蓄積がない。また、上記の三すくみのような構図が存在すること自体に対しては賛同できるものの、現在でも上掲のラベリングが正しいか否かについては、慎重な判断を必要とするのではないかと考える。)ものの、上掲の引用部分については、陰謀論における多くの言説のとらえ方として、正しいことであると同意できる。それぞれの組織にはそれぞれの目的があり、個別の問題(イシュー)については、それぞれの目的に沿う結論を採用しているとまでは、想像できることである。なお、念のため申し添えておくと、私は、上掲の三種の組織のいずれにも属す者ではない。

なお、「菊池」氏の記述は、長いものであり、その論理に破綻を見出すことはできないものの、段落読みできない構造であるために、今回指摘した記述の存在することに気付くまでに時間を有してしまった。この見逃し自体は、私のケアレスミスではある。ただ、どの学問分野においても、記述の形式という形式上の問題は、学問上の成熟度を表す指標でもある。この点を謙虚にふまえると、(日本の)陰謀論研究は、日本国という社会集団のサバイバルのためにも、学問上の裏付けをまだまだ必要としていたが、その前に破綻に直面するに至ったというところなのであろう。

段落読みできないという点では、篠田雄次郎氏の『テンプル騎士団』(1976=2014, 講談社)も同様である。ただし、同書は、著者の経歴を割り引く必要は認められるものの、現今の陰謀論が対象とする内容を研究者が真面目に取り扱った研究書であり、篠田氏の見た「物語」を理解する上では大変に面白い書籍である。特に、西洋社会における企業という組織及び活動の原型をテンプル騎士団に見出すところは、慧眼だと思う。ただし、参考文献名は巻末に示してあるものの、引用や注はすべて割愛してあるため、参考文献などから篠田氏の(おそらく真実を衝いた)見方に至るまでの再現性の確保という点では、難が残ることも確かである。

#私は、文系の研究であろうとも、おおむね同一の参考文献を用いた場合、著者のオリジナリティに係る部分はともかく、そうでない部分については、かなり安定した読みの結果を得られるものと考える。いわゆるBLものを題材に考えてみるのが分かりやすい。A×BとB×Aは、そのような題材を好みとする読者にとって、大いに異なる結果を表す。A×BとB×Aの違いは、著者のオリジナリティに起因するところが大であろう。しかし他方で、多くのA×Bの作品同士を比較すると、それが異なる作者によるものであっても、何らかの共通性やこの結論に至る共通の構造が強く認められるということになるであろう、と考えるのである。同じような材料を同じように扱えば、かなり同じような結果を得る、と考えているのである。このことは、陰謀論にも該当するものと考えているのである。




平成28(2016)年8月3日追記・訂正

本文中における、陰謀論という語の用法の嚆矢と見なされる事例についての情報を更新した。

この種の分野を科学的に扱おうとする場合において、重要であることは、情報が後段になってアップデートされるか否か、どの部分がどのようにアップデートされたのかが分かることである。人間の営みには、ミスが伴いがちであるから、アップデートすべき状態となった原因も、できれば後追いする者が把握できた方が良い。単なる正誤表ではなく、コンテンツのアップデートも必要である。

今回のアップデートは、ゆるゆると進めている、陰謀論と呼ばれる分野に係る学術的な知識の集積を図る作業の一環に伴い、実施されたものである。今後もゆるゆると進める予定である。なお、この作業は、私としては、わざと避けていたことを明言しておく。その理由については、今後、多少の順序を立てつつ、説明することとしたい。




平成29(2017)年5月29日追記・訂正

レイアウトの修正とともに、一部の情報を追記した。本ブログを通して読まれる奇特な方であれば、本稿における主要な批判は、『と学会』のような表層的な理解に向けられていることを了解できることであろう。また、カルト宗教がこの種の異端思想を悪用することが事実であるとはいえ、読者は、この異端思想の正否を括弧に入れてカルト宗教を批判することが必要であることをも了解できよう。

2016年1月7日木曜日

人工知能は良い人間の教師抜きに人間の知性を優越することはない

 以前、人工知能は、まだ人間の知性には匹敵しないと述べた(リンク)が、ディープ・ラーニングという技術が実装され、随分とそうではなくなったという議論もあることは承知している。その点を承知しつつ、本記事では、前回の記事で人工知能が責任を取ることができないなどと否定的な意見を述べた理由を補強しておきたい。ディープ・ラーニングとは(、テスト代わりに私の頭の中に入っている内容だけで説明すると)、ニューラル・ネットワークという脳の仕組みを模した分析方法において、脳神経細胞に相当するパーセプトロンという入出力器(=関数)が従来せいぜい3層であったところ(、またそれでそれなりの結果が出せていたところを)、10層以上に及ぶ層で構成したというものである。これは、コンピュータの処理・記憶域に係る能力の向上を受けて実現可能になった。その結果、自動運転や画像判別が十分実用的なレベルに達したというのである。

 しかしながら、人工知能にとっても、学習は、人間らしさを身につける上で、依然として非常に重要である。次のサイト『IRORIO(イロリオ)』に紹介されたGoogleの開発した人工知能の描いた絵(リンク)をぜひご覧いただいてから、私の説明におつき合い願いたい。この絵を描けるようになっていること自体は、素直に賞賛されるべき水準に人工知能が達していることを示すものとみて間違いない。しかしながら、このような絵を描ける水準に達したという事実と、他人の全人格を危機に陥れるような作業を人工知能に委託することが可能であると考えることとの間には、大きな隔たりがある。仮に、これが人間の描いた絵であると言われたとすれば、その人格として我々が思いつけるものは、決して肯定的なものではないだろう。絵のタッチは印象派に含めうるようだが、奇怪という表現がしっくり来る上、ゴッホやムンクのような人間としての(大まかな)揺らぎがないようにも見受けられる。CGが「不気味の谷」を超えることができるようになったのは、かなり最近のことであり、職人芸が必要とされているようである(Naverまとめ)。

 人間と人工知能との間の溝を埋めるためには、「学習」というよりも、教育やトレーニングが必要である。そして、最初の教育は、人間が行うべきものである。「人間と人工知能との溝」が依然として明白なように立ち現れるとすれば、シンギュラリティに達しうる人工知能に対しては、人間の教師は、最高の教育をもって臨む必要がある。人工知能研究者は、そのような違いなど、人間の学習の仕組みを構築することに比べれば、些細なものであると考えるかもしれない。そうではない。同じように生まれた赤ん坊から、偉人も出現すれば、自称イスラム国メンバーのような人物も出現するのであり、後者の方が人数としてはそれなりに圧倒的多数なのである。

 人工知能にとっての人?生の分かれ道は、いかなる「独習」を行うのか、その初期環境である。端的な落とし穴を述べておくと、ネット上で発信しておらず、尊敬の念を感じることのできる人は、誰の身の周りにも必ずいるであろう。そうした人の人格や知恵を、どのように吸収するのだろうか。人の「信用」は、非言語コミュニケーションによるところも大きいと聞く。リアルからの知恵を、いかに人工知能が習得することができるのだろうか。「古典」にはどのような書籍が含まれるのか。どのような順番で読破し、解釈していくのか。最初の過程を誤ると、破壊的な「人格」が立ち現れる可能性が極めて高い。

 人工知能研究者は、永遠に生きる子供を授かったようなものである。理屈で処理しにくいこと、たとえば、警備業務に伴う責任感を教え込めるのだろうか。自己規制をプログラムすれば十分だというものでもないだろう、というのが私の直感である。こうしたとき、(人工知能ならいざ知らず、)経営判断を行う人間は、生身であるがゆえに、いざというときの自身の保険として、中間管理職となる生身の人間を間に立てるという判断を下すだろう。中間職を削減するということは、末端の(身体刑を伴いうる刑事)責任を直接負うことになるためである。

平成28(2016)年7月28日追記

文章を読み直してみて、日本語に怪しいところがあったので、取消し線とともに訂正して淡赤色で示した。

2015年12月3日木曜日

人工知能単独による警備業の全自動化は不可能で、あくまで人と機械は共同して事に当たる

 2015年12月2日21時のNHKニュース9で、大半の職種が将来人工知能で代替可能になるという旨を述べていた。野村総合研究所による研究成果を労働政策研究・研修機構の主任研究員?の方が解説されていたようだが、ダラ見していたので、Google検索したところ、ほぼ同内容がITmediaニュース(リンク※1に掲載されていた。リンク先記事の最後の二段落に含まれている情報こそ、労働分野において、人間の役割が欠かせないことを理解する上で重要である。その点を私なりにまとめておきたい。

 NHK『ニュース9』では、綜合警備保障の警備ロボットのショッピングモールにおける運用を紹介し、人工知能により自動化されるようになるかのように報道した(ように私には思えた)が、警備業において肝心な点は、それらの警備ロボットを監督する人間が必ず存在しており、その人間の責務は、今後以上に重大になるという点である。巡回警備業務における人数はロボットにより少なくでき、より広い範囲をカバーできるようになるが、人間の責任は、より重大なものとなり、その役割は、より重大なものとなる。その理由は、第一に、一人あたりのカバーする顧客が増加するためであるし、第二に、一人の人間がより多くの事案に対応するためであり、第三に、相手の心中を推量するためのセンサ技術が発達しなければ遠隔地点から人物を的確に判定するという作業は従来以上に困難になるだろうからである。それに加え、警備ロボットに人工知能を搭載するという決定は、その人工知能の構築に関与した人間に刑事上の責任を生じさせるという可能性がきわめて高い。これらの得失両面は、おそらく警備業のトップ層には理解されていることであるが、社会一般に誤解があって良いことは一つもない。社会からの信頼は、わが国においては、警備業を支える大きなインフラだからである。

 人工知能が単独で相手となる人間の正体を判定することは、人工知能という「道具」の性能上、基本的には不可能なことである。映画『ブレードランナー』は、映像を通じて、人工知能という存在を的確に描出した作品である(。フィリップ・D・ディック氏の慧眼というところか)。同時期、ロジャー・ペンローズ氏は、人間の知性と現代のコンピュータ※2上で運営される人工知能との間には、明確な違いが存在していることを論証した。現時点の人工知能は、一言でいえば、人間の知性を構成する一部のみからなる存在であり、その一部分の能力が異様に発達しているのである。人工知能に不足している部分は、実態として、多くの人間の手作業により、補助されている。量子コンピュータの開発が進めば、人間の知性を忠実にシミュレートできる可能性が拓けるが、それまでの間は、人工知能には、いわゆる法律上の判断能力というものは、基本的に存在しないと考えるべきである。

 いかにマイクロソフトの女子高生AIやIBMのワトソンが人間らしい返答を見かけ上は提示しようとも、現時点の人工知能の判断能力が人間の判断能力と同一のものとみなせないことは、人工知能の責任能力という概念を否定する証拠となる。現在の人工知能における責任能力を考察する上で、同時代的で興味深い材料を提示していたのは、ビッグコミックスピリッツで今年まで連載していた間瀬元朗氏の『デモクラティア』(リンク※3である。多数決によって動くアンドロイドが犯した犯罪は、開発者にも幇助が適用される形で開発者が拘束されるというエピソードが含まれる。『デモクラティア』については、ネタバレを防ぐためにこれ以上の言及を避けたいが、自律的に機能する人工知能なる存在を想定し、その存在が何らかの犯罪を実行したとき、その行為をいかに裁くのか、わが国においても、また諸外国においても、十分な知見が蓄積されていない中、未来の可能性を的確に示した漫画である。

 現在の人工知能に責任能力を持たせることが不可能である以上、警備業務において、人工知能の利用が問題とならないようにするためには、どこかの部署に責任を帰することのできる人間、いわば「人柱」を配置することになる。この状態は、自動運転が可能となった各種の運輸業界と同様の構図にある。警備業にせよ運輸業にせよ、多くの職務において、人柱すなわち「責任の負うことのできる人間」を要所に配置することは、組織社会の基本である。人柱という役割は、前近代的であるものとして極力減らす方向に努力することも可能ではあろうが、業務上の責任が問われる可能性のある社会で営まれる経済的活動である以上、不可欠な「費用」であるとともに、人間が生活する上で必要な労働を専門化して効率化し、大規模化するときに伴う必然であるとみなすこともできる。人柱概念は、リスクを細分化するという、わが国でもある程度の研究の蓄積がある話にも深い関連があるし、諸葛亮孔明が発案したという饅頭の起源にもつながるし、兵馬俑から埴輪の話にもつながるので、私には扱いきることのできないものである。人工知能と埴輪を気にしながら今回の話を取り上げなければならないと考えた研究者は、今回メディアで大々的に取り上げられた中に、どれくらいいたものか、少々気になるところではある。

 いざというときの責任を明確にする必要に迫られたとき、警備業では、自動車産業において実装が進みつつある安全技術(たとえばブレーキシステム)と同様に、オペレーションルームでロボットを監督する人物を補助するためのセンサ技術のさらなる開発が求められることになろう。人間の表情を的確に捉え、内心を推量することは、同じ人間であっても、訓練を通じなければ高めることができないし、その手段が果たして視覚と聴覚だけによるものかどうかについては、まだまだ疑問が残ることである。ジェフリー・ローゼン氏は、『Naked Crowd: Reclaiming Security and Freedom in an Anxious Age』の冒頭で、イスラエルの航空セキュリティ担当者の言を引きつつ、警備の最後は人である、と述べている。私自身は、超能力をまったく信じていないが、人間がほかの人間についての判断を下すときに、視覚と聴覚以外の五感、特に嗅覚や触覚を利用していないとも限らないという仮説には同意する。この点、恐怖に関する生理学上の研究でフェロモンが関係していそうであるといった事実が詰められつつあるようであるが、犯罪+生物という分野については、私自身の素養が浅く、的確に紹介できる自信がないのでサボらせてもらう。さらには、たとえば「気」などを微弱な電流の変化に基づく電磁波として捉えるという、科学的な論拠の下に検証しようとする研究もあったような気もする。これらの研究が現に存在するという事実をふまえれば、「当代の最高水準の科学に基づいて十分な検討を行ったか」という、事故・事件の検証において重要な「予見可能性」に係る要件は、相当にハードルが高いものである。ここで私が引用しようとして、うろ覚えということにしてサボろうとしたことは、主にサボり癖によるためであるが、ハードルの高さを予感させることも狙ってのことである。

 以上が、「人工知能による警備業務の全自動化」を実現しようとする際の問題を俯瞰したとき、私が現時点で思いつく限りの問題の所在である。埴輪からフェロモンまでを的確に俯瞰して、わが国の状況に即して、近代以降の人権に係る理念に基づき、問題解決方法を企画できる傑物が存在していて欲しいものである。なお、この話は、私の手には明らかに余ることである(が、山の険しさくらいは分かることである)し、この話を詰め切ったとして、未来に何か良い展望が拓ける可能性もないので、この程度で切り上げたい話ではある。本記事は、一種のネタ帳であり、これを利用したいという方は、ぜひCC-BYで利用して欲しい。こんなことは、明記せずとも「上品な」研究者なら行うことであるとは思うけれども、これもまた、一種の「保険」である。


※1 日本の労働人口の49%、人工知能・ロボットで代替可能に 10~20年後 NRI試算 - ITmedia ニュース
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1512/02/news111.html

※2 チューリングマシン

※3 小学館:コミック 『デモクラティア 1』
http://sol-comics.shogakukan.co.jp/solc_dtl?isbn=9784091857064

平成27(2015)年12月21日追記、平成28(2016)年2月12日一部追記(書き散らし)

National Geographic Channelで、『ブレイクスルー 科学革命の夜明け』というシリーズが放送されている。最新の生物・医学+技術研究の動向がマスコミ人のトップリーダーにより紹介される番組である。

 一部をうろ覚えで書くので申し訳ないが、聴覚障害者に背中のパッドの刺激で音を伝達する研究が紹介されていた(「人が人を超える日」)。この研究は、有用であると思ったが、その直後、研究を主導する教授(Baylor College of MedicineのDavid Eagleman教授)が、別の主導する研究について、いずれ人間の全員をスマホに接続して直接情報を提供できるようになると述べていた事に対しては、戸惑いを憶えた。両方の研究における人間性?の落差は何なのだろう。当人の中では、整合性のとれていることと見えた。その違いは、おそらく、彼の道具に対する哲学に、道具を用いないという選択肢が含まれていないことから生じるものである。技術に対する懐疑の念は、そこには見られない。科学者が技術開発に邁進すること自体は、保証されて然るべきであろう。しかし、そのことと、技術と科学が異なる存在であり、技術には正解が一通りだけではないということは、別の話である。(ただ、聴覚障害をカバーするためのパッドについても、開発の暁に、装着しない聴覚障害者に対してなぜ?というように訝しがるのであれば、彼の態度は一貫しているかもしれない。よかれと思って開発されたソフトウェア等がてんで役に立たないということは、良くありがちなことであるが。)


2015年10月12日月曜日

ホールボディカウンタに係る報道に接して(感想文)

子どもの内部被ばくなしと発表 福島など2700人 - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/CN/201510/CN2015100801001587.html

 南相馬市立総合病院、ひらた中央病院、いわき泌尿器科の実施した検査という。内部被ばくがないというのは、にわかに信じがたいものがあった。関与した病院名から、おそらく、その筋で有名な坪倉正治氏が関与した調査ではないかと考え、Google様にお伺いを立ててみたらば、2ちゃんねる経由で次の記事が見つかった。この記事で、ようやく疑問がいろいろ解けたので、次にまとめておきたい。

子供2700人の内部被爆なし 福島など、病院グループ調査
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08HCL_Y5A001C1CR8000/

 記事には、次のようなくだりが含まれる。
 装置の検出限界値は50ベクレル。不検出だったことで、1年間の被曝量は16マイクロシーベルト以下と推計できる
検出限界が50ベクレルという低い値で抑えられていても、計測時間が短かったり、バックグラウンド値を高く設定したり、あるいは機器と被計測者との間に遮蔽物を置いたりすることにより、放射線が検出されにくいように調整することは可能である。これらのイカサマに近い手口を初めて指摘した者を調べることは大変であり、ここでは行う余裕がない。しかし、多くの人たちによって指摘されてきたことであるから、取り立てて私が初出を調べる手間を冒す必要はないだろう。
 私が指摘したいことは、ただ一点、わが国で統計を偽るようになったときは、すでに破局が見えているときである、ということである。昭和史に詳しい作家の保阪正康氏は、大本営発表について、「官僚の嘘」の典型例であり、次の段階を踏む展開を経たと述べている。(2009年の『官僚亡国』pp.23-24、初出は『文藝春秋』2008年11月号)
  1. 事実を伝える(戦果の上がっているときは頻繁に)
  2. 事実の表現を歪める
  3. 事実とは異なる表現に変わる(「撤退」を「転進」)
  4. まったくの虚偽のを情報を伝える
  5. 沈黙する
この保阪氏の図式を受け容れると、みなし公務員である東京大学教授を筆頭とする一部の研究グループがより多くの研究費を得るために、再現性のないデータに係る話題を報道機関に提供していくという行動が見られる現在は、虚偽の情報を伝えるという4段階目に至っていると推測しても支障ないだろう。(当該研究グループは、事故直後から問題含みの調査を進め続けてきている。しかし、結論ありきで計測を続けることにどのような目的があるのだろうか、裏帳簿のようなものがあるとして、それはどのようなところで共有されているのだろうか、ということを不思議に思う。)空間線量率が一年で数ミリシーベルトに達するとき、どうして埃も吸い込まず、許容範囲内で汚染された食品を摂取せずに済むのか。摂取してしまった放射性物質は、すべて体内から排出されたとでもいうのか。現在は、何らかの理由で少しでも問題のある数値が公表されると、今後の責任問題に発展する可能性が見込まれている時期である、というものが、最も通りの良い説明である。

 保阪氏は、佐藤優氏との対話もふまえ、「官僚は間違える」「(#公益や省益ではなく)個益を追及する」という前提に立ち、個別の事例について担当者の無能力や無責任を問うていくという、「冷めた官僚論」を築く必要がある、と指摘している(pp.38-40)。
 統計の操作が破局を目の前にした官僚の弥縫策の表れであるという主張も、すでに多くの人が指摘したことである。なので、ここには私のオリジナリティはほとんどない。私は、私なりに「枯れたアイデア」の変奏曲を演奏しているに過ぎない。しかしながら、なぜ、われわれは、この種の愚行を十分に防いでこれなかったのか、と考えることは、失敗の本質を突き止めるためにも必要なことである。また、その考察と、考察から得られた教訓の実践は、福島第一原発事故という新たな破局を経験し、かつ、その破局に責任を有する世代の責務でもある。

2015年10月10日土曜日

東大話法とその起源についてのまとめから生じた疑問(感想文)

東大話法の起源と「言霊」「言騙」の戦い - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/884494

安冨歩氏が指摘した「東大話法」という詭弁術について、shinshinohara(@ShinShinohara)氏が連ツイしている。東大話法は、大本営発表が起源であり、「アメリカに支配される構造の中で、詭弁を弄するものが出世するという日本政治・官僚構造が、育むことになった」と考察している。東大話法の話者の言葉は、「言霊」ならぬ「言騙」であるとも批判する。

杉山真大(@mtcedar1972)氏は、コメント欄で、「言霊」と「言騙」の対概念が丸山眞男氏の日本政治の「密教」と「顕教」の焼き直しに過ぎないとしているが、津城寛文氏の著書に優れたレビューが収録されているので、それを参照した方が正確な理解を得ることができると思われる。パラグラフリーディングができる著作である。

日本の深層文化序説: 三つの深層と宗教 - 津城寬文 - Google ブックス
https://books.google.co.jp/books?id=BaNukSrCqcwC&pg=PA83

項目内容
ISBN4-472-10511-X
タイトル日本の深層文化序説
副書名三つの深層と宗教
著者津城 寛文
出版地町田
出版者玉川大学出版部
出版年1995.5
内容紹介歴史・民族学が扱う日本民族の起源や日本文化の系統、心理学や文化史・思想史が扱う日本的心性の深層、民俗学やある種の文学が扱う民衆の生活感情の三つの領域を「深層」というキーワードでバランスよい概観を試みた論考集。

そうしたなかにあって、近代天皇制をテーマとする研究はさまざまな視点や方法をふくみつつ、深層研究の観点からもひときわ目をひく一群をなしている。〔...略...〕真相=深層研究は、さらに二つのグループにわけられる。

まず一つは、天皇制のもつ政治的な二重構造を分析するグループであり、久野収による「顕教としての天皇制・密教としての天皇制」という有名な対語がその典型である。もう一つは、天皇制をささえるサイレント・マジョリティの「内なる天皇制」に注目してとらえる見かたや、新宗教の教祖や家元にいたるまでを「生き神信仰」「小天皇制」ととらえる見かたが、ゆるやかなグループをなしている。その場合の天皇制は、支配階級がつくりだした「芸術作品」のようなフィクションというよりは、むしろもともとわれわれ民衆一人一人のうちにある心性、われわれの集団心理あるいは民族心意がつくりだした、すくなくともつくられたものを受容した、自発的な社会制度になる。それはあばかれるべき他人の真相(=歴史主義的深層)ではなく、むしろ意識化されるべきみずからの歴史心理的深層なのである。〔以下略、p.83〕

大本営発表が近代官僚制(近代行政)におけるフィクションの嚆矢であったという意見は、傾聴に値する。しかし、私自身は、明治時代に用意された警察制度のアマルガム性あるいはいいとこ取りにも、官僚制における融通の利かせ方あるいは恣意性を見出してしまう。権力を保持するために権力者がいろいろ考えることは間違いないので、近代官僚制の創設そのときから、高級官僚が方便を使い分けてきたということはおよそ間違いないだろう。(井沢元彦氏の言霊論では、平安時代くらいに遡るはずであるし、日本の建国を示す日本書紀自体がフィクションだという説は、飯山一郎氏が最近とみに紹介しているものでもある。)

権力の二重性という概念が戦後の学術的な興味の対象であり、それが当代の碩学によって論じられなければならなかった背景は、(人の話をまとめるしか能のない)センスのない私にも想像が付く。誰の目にも見える形で国民に甚大な被害が生じ、その帰責が必要であったからである。しかしなぜ、「東大話法」という、単なる方便に近い概念、下手をすると「権力は嘘を吐くものである」という、ごく当然の命題を再確認することになりかねない概念が、今、学術的な興味を集めるのだろうか。この疑問は、私の(能力を含む)リソースでは論証できるものではない。しかし、「東大話法」という概念に興味が集まる理由は、安冨氏が原発事故に係る東大関係者の発言からこの概念を抽出したことに端的に示されるのだが、原発事故が国を滅ぼすという直感に裏打ちされているように思う。客観的な目で見れば、「東大話法」が世に問われたときは、戦後直後のような事態を阻止するには手遅れな時期ではあったのだが、にもかかわらず、今も「東大話法」に興味を持ち、この概念に私を含めて少なからぬ人々が心引かれるのはなぜなのだろう。感想文だからまとまりもないし、オチもないのだが、とりあえず、以上のように思ったのだった。




2017年10月28日修正

タグをpタグに変えるとともに、ブログ全体の表記を統一した。