2017年3月31日金曜日

自動車事故で後部座席が危険と断定する前に層別が必要である

#本稿は、読者にとって重箱の隅をつつくような話、と思われるかも知れない。しかし、この話は、社会統計を分析する者として、理解できていないと恥ずかしい種類の話であり、分析者の能力の試金石にもなる。それが、本稿を示す理由である。もちろん、私の批評が誤りであり、自身の分析能力の低さを満天下に晒すという危険もある。

『読売新聞』2017年3月29日夕刊1面に、交通事故の座席別の致死率が運転席の致死率よりも高いという警察庁の発表を紹介する記事[1]が掲載された。つまりは、運転手や同乗者が死亡するような自動車事故が起きたとき、運転者よりも後部座席の同乗者の方が「危ない」という訳である。致死率とは、この記事を引用すると、「交通事故の死者数を、負傷者も加えた死傷者数で割って100をかけた数値」である。

結論を先取りしておくと、この記事の指摘は、この材料だけで肯定する訳にはいかない。本件は、「シンプソンのパラドックス」に陥っている可能性が認められる、典型的な場合である。以下の段落で、理由を整理していこう。なお、本件を具体的な数値に基づいて追究するには、公益財団法人交通事故総合分析センターに受託統計を注文[2]しなければならない※1。本稿では、その作業は行わない。

なお、本稿の趣旨からは脱線することになるが、重要であるので本文中に示すことにすると、読売新聞の記事や警察や本稿のいう自動車事故とは、自動車が関与し、警察に認知された交通事故を指す。犯罪学では、警察の認知が重要な論点になる。本稿は、警察の認知という前提に対しては、特に疑いを差し挟むものではない。交通事故に関しては、車両の所有者が保険を受け取るためには、警察への報告が基本的に必要となることから、報告漏れが少ないものと考えられるためである。

読売新聞の分析を肯定できない理由は、致死率という指標の定義と計算方法にある。記事は明記しないが、致死率は、集計済みの統計値から求めた指標であると推認される。言い換えると、分析者は、同乗者の有無や人数や乗車位置に応じて、一件一件の事故を場合分けせずに、死者と負傷者を一括して集計し、それらの集計値を致死率の計算に利用した、と推定される。このように推測するのは、読売新聞の記事に掲載された乗車位置別の致死率が一種類しか掲載されていないからである。この定義と計算方法は、三点ほどの方法論上の問題を生じさせる。

致死率という指標が含む一点目の問題は、「負傷者」の定義中に「負傷しなかった運転者や同乗者」を含むか否かが曖昧なことである。大阪府警察がウェブ公開している交通事故の統計処理方法(交通事故統計取扱要綱[2])を参照すると、原理的には、統計システムを自由に扱える権限があれば、負傷なしの場合を含め、「座席別の全当事者数」を求めることは、簡単である。この「座席別の全当事者数」こそが致死率の分母となるべき統計値である。ただ、現実の統計システムが使いにくいために、負傷していない当事者数を簡単に求めることができないという、お粗末な状態にある可能性も認められる。この場合、「自動車の関与する交通事故における全当事者数」から「自動車に乗車していなかった当事者数」を除くという方法によって、「自動車に乗車していた全当事者数」を求めることができる。この「自動車に乗車していた全当事者」を座席別に区分して集計することが可能であれば、致死率を正確に算出するための分母を求められる、という訳である。このように、工夫すれば何とか計算できそうな目途があるところ、なぜ、「負傷者数」と「死者数」を合計した人数を分母としたのか。おそらく、交通事故の報告(本票)と、その報告に紐付けられた(1名以上の)当事者に係る報告(補充票)から、事故の態様を再現するという(手間のかかる)作業を行わなかったためであろう。以上が、「乗車しており負傷しなかった当事者」を含むか否かが曖昧である、と指摘した理由である。

二点目の問題は、致死率の分母が「全交通行動における座席別乗車人数」であるべき、とする「そもそも論」である。また、この指摘は、致死率を「座席別延べ移動距離」で計算すべきであるという尤もな意見をも惹起する。後者の意見は、航空機と自動車のいずれが安全かという議論では、常に考慮されるものである。専門的な表現を取ると、自動車事故は、日本国内における自動車による日々の交通行動というユニバース※2から生じている。自動車交通行動において、同乗者を含むものは、比較的少数の割合に留まるものと見られる。具体的な算出は、各地方で実施されているパーソントリップ調査によることになる。致死率の母集団となる(=分母に来る)「座席別乗車延べ人数」や「座席別乗車総距離」は、まず間違いなく、読売新聞の示した致死率の定義の分母とは異なる数値になる。私の指摘した統計値を用いた場合には、運転者に係る致死率は、基本的には、ますます小さな値に傾くであろうが、実際のところは、計算してみないことには分からない。他方、記事の趣旨が「事故時の死亡を防止するためには、シートベルト着用が必要である」というものである以上、事故時の全乗車人数を分母に置けば良いという考え方も、高い説得力を有する。しかし、家族が鉄道駅等まで送迎するという「キス&ライド(kiss-and-ride)」を念頭に置けば分かりやすいが、同乗者のために運転する場合であっても、同乗者なしで運転者が運転する距離は、大抵の場合、同乗者よりも多くなる。この点を考慮すれば、分母に係る検討は、面倒臭かったのかも知れないが※3、より慎重に行うべきであったろう。

三点目の問題は、同乗者がいた交通事故と同乗者がいなかった交通事故などに層別した後で、運転手の致死率を計算していないという手続から発生している。つまり、「同乗者がいる事故」の運転手の致死率は、少なくとも「同乗者がいない事故」の運転手の致死率とは区別して、分析すべきであった※4。この指摘は、「シンプソンのパラドックス」と呼ばれる現象を理解していれば、直ちに了解可能である。統計学に多少なりとも親しんだ研究者が企画段階から(←ここ重要)関与していれば、この誤りを満天下に知らしめる事態は、予防できたはずである。

本件分析は、同一の同乗者タイプ{運転者のみ, 運転者+助手席, 運転者+後部, 運転者+助手席+後部}に自動車事故を場合分けした上で、それぞれの座席における致死率を計算し、それらを、同一の同乗者タイプにおいてのみ、あるいは、同一の座席タイプについてのみ比較する、という形式で行われるべきであった。考察を進めれば、ほかにも比較可能な致死率の組合せがあり得るかもしれないが、その検討は、正確な説明を追加するときに合わせて行いたい。いずれにしても、大切な人を乗せて運転するときと、一人で家路を急ぐときに、運転の作法や注意力が異なることは、常識の範囲で理解できることである。比較の基本は、条件を揃えて比較するというものである。(繰り返しになるが、近年では、もう少し条件が緩められつつある。)

なお、本件では、後部座席における致死率(だけ)を、シートベルトありとなしの場合に区別して比較しただけ※5であれば、文句のつけようはなかったと思われる。おそらく、報道にあたり、耳目を引くような内容を前面に押し出したかったのであろう。そのスケベ心は、誰の心にも存在するものであろうし、私にも良く理解できる。(見方を変えれば、本稿も、一種のスケベ心である。)ただ、分析に対する無知が、今回の残念な結果を招いたのである。


※1 「出されたものは美味しく頂くが、そうでないものは求めない」「日本国民なら誰でも再現可能である状態を確保する」という本ブログの隠れた方針とは、相容れない行為である。それに、有料の統計を購入してわざわざ分析することまで含めると、マネタイズを検討しなくてはならない。面倒臭いし、世知辛いことである。それに、有料のコンテンツまで利用してブログ公開を検討するとなると、話題の選定段階で、飛躍的に対象が広がってしまう。私の現在の影響力の範囲からすれば、その検討は難しい判断を強いられるものになる。

※2 理想的な調査対象集団。この語については、別稿(2016年10月14日)を参照。

※3 二点目の問題は、一点目の問題と類似してはいるが、計算に必要な統計を手持ちのデータから集めることができないという点で、セクショナリズムの問題を斟酌すべきものでもある。「現場の担当者だけでは面倒臭い」という理由が誤った結果をもたらすという悪循環は、わが国では、普遍的に見られる状態である。このような、誰にとっても得にはならない状態を打破するために、セクショナリズムが排され、研究者やコンサルタント・シンクタンクが活用されるべきである、というのが、研究機関等に籍を置くことができていたときの私の主張の根幹であったが、その結果は、言うまでもないことである。

※4 その影響はきわめて限定的とは見込まれるものの、厳密には、同一事故に含まれる二台の自動車の運転手を区別せずに致死率を計算するという作業の是非に対して、何らかの論理立てが必要とされる。

※5 現に、記事に見られる以下の記述は、ほかの座席における致死率とは比較していないために、シートベルトの着用が有効であることを主張する上で、文句の付けようのない分析結果を示すものである。ただ、普段の交通行動におけるシートベルトの着用状況を観察することが可能であるなら、その状況を加味した方が良い。仮に、同乗者のシートベルト着用状態が80%程度であれば、装着の有用性が発揮されていないという見解が成立してしまうことになるが、着用状態が半々程度であれば、4倍も致死率が異なることになる。ペニシリンの発見ほどにはいかないが、シートベルトが相当に有用であることを示す証拠として提示できる。事故時の着用率が着用状態をそのまま表すものとみなしても、シートベルト着用が安全性を高めるという結果を得ることができる。

後部座席では、シートベルト非着用の致死率は0.64%と高かったが、着用の場合は約4分の1の0.17%だった。


[1] 『読売新聞』2017年3月29日夕刊4版1面「車事故 危ない後部座席/致死率 席別トップ/「安全」思いこみ ベルト着用36%/昨年 警察庁調査」

[2] 交通事故統計表データ - 交通事故総合分析センター
http://www.itarda.or.jp/materials/statistical.php?s=71&t=%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88#contents_list

[3] 大阪府警察 | 交通事故統計取扱要綱の制定について
https://www.police.pref.osaka.jp/01sogo/law/kotsu/html/62kotsu_1230_1.html




2017(平成29)年4月1日追記

本文中の注5(※5)を追記し、本文を部分的に整えた。

なお、[同乗者の存在]のモデル中での扱い方は、本稿の主張の正当性に大きく影響する。プレーンテキストによるために、記法が適当であるが、[同乗者の存在]->[生死]、[シートベルト着用]->[生死]、[同乗者の存在]<->[シートベルト着用]とでもモデル化した場合には、[同乗者の存在]は、典型的な交絡因子のひとつとなる。ただ、モデルの立て方は、もちろん、これだけによらない。交通事故という現象を分析できるだけの道具立て(知識)を有する分析者が、慎重に影響しそうな要因を列挙し、論理的に考えられる因果関係を提示した後で、その因果関係が成立するのかを判定するという手続きが必要である。

福島県の県民健康調査は脱落に留意すべきである

Abstract

In the Frequently Asked Questions released in 2017 March 30th in Japanese (link), Radiation Medical Science Center for the Fukushima Health Management Survey, Fukushima Medical University (link), admitted to the public that the Fukushima Health Management Survey treated thyroid cancer patients as dropouts if they had been once categorized to the observation group. This can be interpreted as a typical example in statistical wars after Fukushima Dai-ichi Nuclear Power Plant accident.




本文

OutPlanetTVの昨日付記事によると、福島県立医大が、(2017年3月)30日に、これまで公表しているデータ以外にも、甲状腺がんと診断されていれた子どもが存在することを認め、ホームページに公表したという[1]。OurPlanetTVの記事には直接のリンクは存在しないが、おそらく、放射線医学県民健康管理センターのウェブサイトにおける2017年3月30日付の「Q&A[2]が問題の内容である。私の手にかかると、余計にややこしくなりそうだが、言い換えてみよう。「当センターの実施した甲状腺検査の結果、経過観察に区分された県民の皆様が、今後、甲状腺癌等を発症されたとしても、当センターでは感知いたしません。癌を発症されたとの情報を当センターに寄せられたとしても、当センターとしてはその情報を取り扱いかねます」ということである。

この宣言は、統計を取扱う者から見れば、社会現象を取り扱う(社会)統計学や疫学において、脱落と呼び習わされている現象を、当局が公式に認めたことを示す。この種の脱落があり得ることは、従来から懸念されてきたことであるが、社会的に認知される程の大きな声となってはこなかった[3]。検査において患者の見逃し(偽陰性)が生じることは、原理的にやむを得ないことである。また、今回のケースは、数値の捏造のために、患者をわざと見逃すという最悪の裏切りが生じたことを示すものでもない。この点、統計処理の最前線は正常に機能している。問題は、集計の段階で生じている。私の批判は、ほとんど常に、バックエンドにおける企画・分析・解釈の段階に向けられてきたが、本件でも、同様の構図が再確認されたことになる。

県民からの報告を計上しないことは、統計を取扱う目的に反する行為である。同センターの言い分は、関係機関とのやり取りを含めた個人情報保護体制を構築できないというものであり、この理屈には、一定の正当性を認めることができる。しかし、これだけを理由に目的を逸脱することは、本末転倒というものである。業務体制を拡充し、報告を受け付ける体制を整備することが本来の使命である。

このような反発必至の文言で、すでにバレていることが、なぜ今頃になって公開されたのかは、私に追及しかねることであるが、その理由については、いくつかの予想を立てることができる。いずれも、日本社会において、機能不全と不幸が広がりつつあることを予感させる内容である。まず、退任者・異動者が本点を認めるよう主導したものであるという可能性が認められる。医科大学の事務方も研究者も、年度末に色々異動があることから、何らかの内部告発に準じた動きを感じ取ることができる。もっとも、実際のホームページの表記は、むしろ、お役所にありがちな怠慢・縦割りを読者に印象付ける内容となっているから、文書の公開は、担当者の責任逃れという側面をも併せ持つものでもある。(#2017年4月2日、この場合が原因であったと知った。後段を参照。)他方で、患者の側からの働きかけは、最大の理由であると考えられるとともに、深刻なものである。救済のベースに乗らない可能性が認められるためである。事故前、甲状腺癌の確率は、100万分の1程度とされてきた。経過観察に区分された(つまり、一回以上の検査を受け、偽陰性と判定された)被検査者の中から、異常や癌が数名生じることは、事故の影響なしに生じ得ないことであると判定できる。

おまけ

「知る人ぞ知る」ことを公式に認めざるを得なくなるときは、「リアリティの管理」と一般の理解との間に大きな隔絶が生じているときでもある。日本語社会において統計が「リアリティの管理」=「建前」のツールとして機能しているという事実は、当然のものではある。(もっとも、私自身が明示的に指摘した形跡を残しておくことは、私個人の利益のためには大事なことであるので、繰り返しておく。)福島第一原発事故は、統計戦争※1における総力戦とも呼ぶべき状況を作り出してもいる。「戦争」の喩えは、様々な(不正な)手法が用いられる可能性が排除できないこと、しかし他方で、敗戦時に裁かれることになる行為とそうではない行為の区別が付けられることをも想起させる点、優秀である。本件の設計の不備は、統計の利用者が正確な状態を県への問合せに応じて知ることができるのであれば、許容される行為であろう。しかし、患者の救済を怠ること、数値の改竄自体を行うことは、「戦犯」となる行為である。「戦争」は、人類の常態であり続けてきたが、現代の先進国社会からすれば、異常事態である。

福島第一原発事故は、権力構造の末端から頂点に至るまで、明らかな嘘が許され続けるという、異常事態を出来させており、統計業務に対しても正常な感覚を失わせている。ほかの統計についても、材料に事欠かないが、従来の指摘の繰り返しになるために、本稿は、ここで終えることとしよう。

※1 statistical wars; ジョエル・ベスト氏の語。ただ、われわれ日本人は、この概念を非言語化された状態では理解してきたと主張できる。統計書が第二次世界大戦中に刊行されなくなった歴史を有しており、山本七平氏の「員数主義」という用語で理解しているためである。




Reference

[1] 184人以外にも未公表の甲状腺がん〜事故当時4歳も | OurPlanet-TV:特定非営利活動法人 アワープラネット・ティービー
(記名なし、2017年03月30日18:13)
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/2108

[2] 放射線医学県民健康管理センター | 二次検査で経過観察となり、保険診療を受けていた方が、経過観察中に甲状腺がんと診断されて手術を受けた場合、さかのぼって県民健康調査の「悪性ないし悪性疑い」の数に反映されたり、手術症例数に加えられたりするのですか。
(記名なし、2017年03月30日)
http://fukushima-mimamori.jp/qanda/thyroid-examination/thyroid-exam-other/000396.html

[3] 2015.12.11 復興特委「明らかに多発、異常事態」 参議院議員 山本太郎 赤かぶ
http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/815.html
#コメント8番の「知る大切さ」氏の指摘。一部、「偽陰性(false positive)」についての言及もあり、内容が混乱しているが、この度の県民健康管理センターが明らかにした「Q&A」を下敷きとすれば、次の指摘は、正しいものであったことになる。

この件〔#引用者注:検査前に異変が生じて診察・治療を受け、手術済みである場合〕福島県の担当課に確認済みです。
手術数にカウントされていません。又この場合、県の甲状腺検査で見つかったガンでもないので、甲状腺調査の件数にもカウントされません。 県の甲状腺検査で見つかったガンでもないので、甲状腺調査の件数にもカウントされません〔...略...〕(自由診療扱いを元から追えない制度設計になっている)




2017年3月31日7時追記

『2ちゃんねる』の「甲状腺癌、白血病などの被ばく疾患情報スレ75 [無断転載禁止]©2ch.net」の389番の書込み[4]が、NHKに報道される運びとなったこと[5]を受けてではないかと推測していることに、遅ればせながら気が付いた。(#後段を参照。)この推理は有力であるが、NHKの報道が原因ではなく結果であったという可能性も残る。「関係者の体を張った内部告発」の候補に、福島支局から異動するNHK関係者も含まれることも、確かである。

[4] 甲状腺癌、白血病などの被ばく疾患情報スレ75 [無断転載禁止]©2ch.net
(匿名、2017年03月30日20時33分)
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/lifeline/1489845727/

[5] 4歳児の甲状腺がんが報告されず|NHK 福島県のニュース
(記名なし、2017年03月30日19時50分)
http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6055124091.html

2年前に委員会のメンバーが、こうした仕組みの問題点を指摘した際、県立医科大学は検査後にがんと診断された患者については「別途、報告になる」と説明していましたが、報告されていなかったことになります。
委員会の委員で福島大学の元副学長の清水修二特任教授は、「正確な情報を明らかにして分析するのが使命で、隠しているという疑念を生じさせないためにもどういう経緯であっても患者が確認されれば、きちんと事実として公開すべきだ」と指摘しています。




2017年3月31日22時台追記

NHKのニュースのいう「仕組みの問題点」とは、2015年2月2日開催の「県民健康調査」検討委員会 第5回「甲状腺検査評価部会」における質疑を指すものと考えられる。議事録9ページの、部会員の春日文子氏と事務局等関係者の鈴木眞一氏(福島県立医科大学教授)との質疑を指してのことではないか。

[6] 「県民健康調査」検討委員会 第5回「甲状腺検査評価部会」議事録(109093.pdf)
(2015年2月2日開催)
https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/109093.pdf




2017年4月2日追記

『Togetter』のまとめ[1]から、『3・11甲状腺がん子ども基金』の確認作業から、本件が大きく報道されるに至ったことを知った。このまとめ中では、木野龍逸氏による同基金の記者会見[2]の様子が紹介されているが、木野氏は、この脱落を「通称『別枠』」と呼んでいる。まとめのコメント欄で、虹屋弦巻(@nijiya_hige)氏は、16~55名の偽陰性の患者がいるのではないかと予測している。先に挙げた予想の中では、最悪のケースから、事務局(医大および県)側が言い逃れできない状況に追い詰められるという状況が生じたことになる。福島第一原発事故については、目に見える被害が多発するまでは、関係者が隠蔽しようとし続けることになろう。実際、「パラメディカルなど、内部から声が上がらないというのはおかしい」(記者会見の38分25秒以降)[2]と、同基金のサキヤマ氏は、質疑応答において指摘している。

[1] 《「3・11甲状腺がん子ども基金」の確認作業で、福島県民健康調査のまやかしが分かった》 - Togetterまとめ
(2017年4月1日、@karitoshi2011)
https://togetter.com/li/1096219

[2] 3・11甲状腺がん子ども基金会見(ノーカット) - YouTube
(2017年03月31日、木野龍逸)
https://www.youtube.com/watch?v=kUk42w0zIYc

2017年3月30日木曜日

森友疑惑とソロス氏訪日とのタイムライン(メモ)

豊中市議の木村真氏が近畿財務局に売買契約書の開示を請求したのは、昨年9月2日※1。今年2月8日の(一部)非開示決定※2を受けて、木村氏は、同日提訴※3。朝日新聞は、昨年12月に別途請求を行い、1月に棄却されたが、登記簿などを調べた結果として、契約違反時の買戻し特約が1億3400万円で設定されていることを2月9日の朝刊に合わせて報じる※4。これらの報道等を受ける形で財務省が金額を開示したのが、今年2月10日※2

以上のタイムラインを合わせてみると、朝日新聞は、あらかじめ木村氏から森友疑惑についての話を聞いていたが、木村氏の請求が棄却されるタイミングまで、事実関係の公表を待ったものと認められる。財務省が、なぜ、木村氏の請求に対する決定をここまで遅らせたのか。朝日新聞への非開示決定に至る経緯と対比され、検証される価値がある。というのも、麻生太郎氏がジョージ・ソロス氏に面会したと記者会見で述べたのは、今年1月10日(祝日明けの火曜)である※5。安倍氏とソロス氏の面会は、4日前の今年1月6日であり、16:40~17:22に「米投資家のジョージ・ソロス氏、アデア・ターナー元英金融サービス庁(FSA)会長、船橋洋一日本再建イニシアティブ理事長」となっている※6。今年1月7日のジャパン・タイムズは、共同通信の記事として、麻生氏や日銀総裁の黒田東彦氏との面会が別に行われた※7ことを伝えている。日刊ゲンダイは、現政権に何かと辛辣であるが、本件を今年1月14日に取り上げている※8。日本に固有の祝日明けの10日に記者会見があったとはいえ、産経新聞※5以上にタイミングがずれている。この3~4日間ほどのタイムラグは、何らかの動きを説明するものであろう。ゲンダイの記者は、知ってか知らずしてか、ソロス氏=戦争屋の露払いをさせられたのであろう。ゲンダイが社会正義を標榜するのであれば、この点、自浄作用が求められよう。

確認した限りでは、ソロス氏の推奨するシムズ理論ならびにヘリコプターマネーに対して、麻生氏は否定的である。言うまでもないことではあろうが、現内閣における本件への答弁は、副首相と財務相を兼任する麻生氏が担当する。2月15日(衆議院・財政金融委員会)※9と3月9日(参議院・財政金融委員会)※10の2回の答弁は、麻生氏の見解を端的に示す。2月15日の麻生氏の答弁は、日本維新の会の丸山穂高氏に対するものであり、節度なき通貨発行がハイパーインフレを惹起する、と答弁している。3月9日の答弁は、公明党の平木大作氏に対するものである。1時間半にわたりカネの話をした、ヘリマネは実証されておらず、ハイパーインフレになり得る、1億2000万の国民を預かる立場の者として実験台になる訳にはいかない、という内容である。なお、平木氏は、シムズ理論が魅力的であると前置きした後に、その是非を問うている。

麻生氏、または、そのブレーンである財務省は、トランプ政権誕生以前から、一貫してヘリコプター・マネーに対して懐疑的である。麻生氏の答弁によれば、その原因を市中へのマネーサプライが増加しない点にあるとみている。また、頭を下げてまで銀行に資金を借りたくないという事業者のプライドが背景にあるものとみている(2016年2月23日)※11。黒田氏は、国会の会期ごとに、なぜヘリコプターマネーに手を付けないのかという国会質問の矢面に立たされている。本稿では例を挙げることはしないが、黒田氏の一連の答弁も、この麻生氏や財務省の観点に準じたものであると読むこともできそうではある。

本件で戦争屋がヘリコプターマネーを断られたことを理由に、安倍政権がソロス一味に森友疑惑を仕掛けられたとすると、麻生氏の二度の答弁は、森友疑惑の公表に対する安部政権側の意思表示と観ることができる。朝日新聞による報道を受けた後、麻生氏の答弁は、国会という公の場を通じて、ソロス氏の要請には応じないという意思を決定的に示したものと認められる。3月9日の答弁は、自民党国対委員長の竹下亘氏による、16日における籠池泰典(泰博)氏の招致決定※12へと至る道筋を確定的なものにしたとも読むことができる。

本件のタイムラインに関連する人物のうち、わが国では誰が一番のクズかという問題は、ソロス氏の策謀の片棒担ぎをした、船橋洋一氏(元・朝日新聞主筆)であり、その周辺のマスメディアであるように見受けられる。人には皆至らぬところがある(し、私もクズであることは自覚している)ので、民主主義国家に生きる国民は、置かれた状況下において「よりマシ」と思える選択を下すしかない。この「できることからできるだけ」行うという理想を無視して血に塗れたカネに平伏する姿勢では、(社会集団としての)マスメディアがダントツで抜きん出ている。ソロス氏は、超・金持ちのはずなのにドケチであるか、マスメディア(の集合知)に比べて余程狡猾であるかのいずれかである。森永グループに比べて、ソロス陣営は、全くと言って良いほどテレビCMを打っていない。ここぞとばかりに「人類みな兄弟」のような博愛主義を説くCMを放送させまくったり、「ウクライナは今」みたいな大型ドキュメンタリーでゴールデンタイムを占拠させるという手はずを実行していたとすれば、メディアは、多少とも良心があるとの見かけを演出することに成功していたであろうし、ソロス氏から収益を上げることができていたであろう。ソロス氏やマスコミ上層部が賢明ではないという実情は、われわれ人類が戦争屋を放逐するために利用可能な資源であろう。おまけ。ピザゲートは、やはり、ニセニュースであるとは思えない。



※1 情報開示巡る訴訟、国側争う姿勢 森友への国有地売却額:日本経済新聞
(2017年03月14日12:31、記名なし)http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H1R_U7A310C1CC0000/

※2 森友問題を最初に追及 木村真市議が語った「疑惑の端緒」 | 日刊ゲンダイDIGITAL
(2017年03月16日、聞き手=遠山嘉之)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/201557/1

※3 提訴:豊中市議、国有地売却額開示求め - 毎日新聞
(2017年02月09日、原田啓之)
http://mainichi.jp/articles/20170209/ddn/041/040/006000c

※4 学校法人に大阪の国有地売却 価格非公表、近隣の1割か:朝日新聞デジタル
(2017年02月09日5時3分、吉村治彦・飯島健太)
http://www.asahi.com/articles/ASK264H4YK26PPTB00J.html

※5 麻生太郎財務相「ソロス氏、稼いで何したいか理解できない」とチクリ トヨタの米投資は「目の付け所悪くない」 - 産経ニュース
(2017年01月10日13:28、記名なし)
http://www.sankei.com/politics/news/170110/plt1701100019-n1.html

※6 1月6日(金):時事ドットコム
(2017年02月09日19:59:04+09:00、記名なし、2017年3月29日確認)
http://www.jiji.com/jc/v2?id=ssds201701_26

※7 Abe meets visiting U.S. investor Soros as he seeks new ideas for Abenomics | The Japan Times
(2017年01月07日、共同通信)
http://www.japantimes.co.jp/news/2017/01/07/national/politics-diplomacy/abe-meets-visiting-u-s-investor-soros-seeks-new-ideas-abenomics
#以下の兵頭正俊氏の論考からリンクを辿り確認して欲しい。
人工知能(AI)と雇用 | 兵頭に訊こう
(2017年01月12日)
http://m-hyodo.com/ai/

※8 大富豪ソロスに悪態 麻生財務相“身の程知らず”の頭の中 | 日刊ゲンダイDIGITAL
(2017年01月14日、記名なし)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/197456

※9 衆議院会議録情報 第193回国会 財務金融委員会 第2号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/193/0095/19302150095002a.html
#194番目の発言者、末尾に近い部分を参照。

※10 参議院インターネット審議中継
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
#執筆時点では、会議録がインターネット公開されていない。雰囲気を上手く描写したツイッターまとめがある。書き起こしとして、100%正確ではないが、雰囲気と要旨は十分に伝わる。
麻生財務大臣のジョージ・ソロス評およびシムズ理論こき下ろし大会 (3月9日参院財政金融委員会) - Togetterまとめ
https://togetter.com/li/1089823

※11 衆議院会議録情報 第190回国会 財務金融委員会 第5号
(平成28年02月23日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/190/0095/19002230095005a.html
#発言の61番を参照。

※12 籠池氏:23日証人喚問へ 自民・竹下国対委員長が提案 - 毎日新聞
(2017年03月16日20:52(最終更新03月17日17:51)、朝日弘行・高橋恵子)
http://mainichi.jp/articles/20170317/k00/00m/010/063000c




(自身のための)メモ

  • 情報公開請求に対しては、通常、30日以内に回答することとなっている。
  • 6日の安倍氏とソロス氏の直前の会談は、国家安全保障会議の四大臣会合の実務トップレベル。財務大臣は四大臣に準ずる九大臣。
  • 一般財団法人『日本再建イニシアティブ』は、福島第一原発事故のいわゆる「民間事故調」。日本再建イニシアティブ『日本最悪のシナリオ9つの死角』(2013年3月、新潮社)は、福島第一原発事故の健康影響を今後の最悪シナリオとして含めていない点で、危機管理関係の書籍としては、噴飯物である。フクシマ事故の影響の検討を民間事故調報告書に譲ったという記述もない。わが国の防災研究、出版業、論壇の底が割れる話である。


総務省|情報公開制度|情報公開法制の概要
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/gyoukan/kanri/jyohokokai/gaiyo.html

Microsoft PowerPoint - 資料1:説明資料.pptx - siryou1.pdf
内閣官房国家安全保障会議設置準備室, (2013年5月29日)「(資料1)『国家安全保障会議』について(説明資料)」
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ka_yusiki/dai6/siryou1.pdf

2017年3月28日火曜日

神はサイコロを振らない(ので重大事件も本当なら決定論で説明可能である)

佐藤優氏の論考には、しばしば、「民族や国家にも運・不運がある」という表現が見られるが、私は、この表現を「制限時間内には分析しきれないほどの複雑な関係を内に含むブラックボックス」であるとして解釈することにしている。孫崎享氏と佐藤氏は、各々の著書を通じて密かに批判の応酬を繰り広げているようである。孫崎氏が佐藤氏に向けて著書に暗に秘めたかの批判は、私が佐藤氏の表現を先のように解釈することについて、一定の論拠を与えてくれるものである。このように、私は孫崎氏の話を自身に都合良く解釈している。

佐藤氏の『日米開戦の真実』(2006年7月, 小学館)は、大川周明氏の二本の論説に解説を加えるという構成を取る書籍であるが、現に、わが国の地政学上の位置を指して冒頭の表現を指摘する(p.6)。この指摘そのものは、その通りである。少なくとも、地政学という一種のモデルにおいて、地理は、所与の条件である。しかし、孫崎氏の『日米開戦の正体』(2015年5月, 祥伝社)は、多数の自叙伝や日記等を通じて、日本が対米宣戦布告するまでの過程において、わが国においても、政策決定に影響を及ぼしうる者の中に開戦を避けようとする議論が多く見られたことを指摘する。日露戦争以後、満州における権益を不当に拡大しようとした軍部が、戦術的には大成功ではあるが長期的には大きな問題を引き起こすような謀略・工作を実施してしまい、対米戦争を避けようとする外交活動に制約が生まれる。この積み重ね・繰り返しが、日本を満州へ、次いで全中国へ、最後には南方へと出兵させる動因となる。このような解釈を可能とする材料を、孫崎氏は提示している(。そう私は読んだ)。

他方、孫崎氏の『日米開戦の正体』の構成は、氏の解釈に基づき、その折々のターニングポイントを提示し、何が欠落していたのかを考察するものであり、その体裁は、フローチャートを頭の中に彷彿とさせるものである。(怠け者なので、実際に作成するのは、長生きできたらにしたい。)誤解なきように明記するが、佐藤氏によって解説される大川周明氏の論説は、両方とも、当否は措くとして、十分に因果関係を追える内容である。佐藤氏の解説においても、すべてを運・不運として片付けている訳ではないことは、当然過ぎるほどである。しかし、孫崎氏の主張には、アメリカが満州における権益を主張したのは、偶然というよりも計算の上であるという主張が込められている。私の穿ち読みによれば、あたかも、孫崎氏の記述は、佐藤氏の指摘するように、大平洋を挟み日米両国が位置するという地理的側面が偶然であるにしても、その地理への対処の仕方には、その時々における選択肢が少ないながらも存在し、その時々の選択を経た上での複数の展開があり得た、と主張するかのようである。この読後感が「実際には細小で多数のコミュニケーションの積み上げが決定論的に作用しているが、歴史を後から巨視的にみれば、その過程は、全体的には運としか表現しようのないブラックボックスとしてしか把握することができない」といった、冒頭の印象につながってしまうのである。

システム思考は、分からなければ、かつ、問題が起きなければ、「処理」の部分はブラックボックスでかまわないとする思想でもある。実際のところ、歴史を、すべての人々の全思考・行動の過程ならびにそれらの行動の相互作用の帰結であると定義すると、歴史の全体を細部まで把握することなど、人間には無理なことである。観察が不可能であるためである。だから、観察者である人間は、どこかで観察を省略し、足らざる部分を何らかの方法で補完し、全体像を把握しようとする。その補われる程度が、解釈の当否にも深浅にも影響する。その程度問題こそが人間の批評精神の発揮されうる場でもある。実際のキャリアにおける確執は置いておいて、その違いが、佐藤氏と孫崎氏のスタンスにも現れているように思われてしまうのである。両名ともが論壇で活躍できることは、日本語環境において、インテリジェンスという分野の考察を行う上での好条件である、というのが本稿のオチである。

題名は、アルバート・アインシュタイン氏による、論争を引き起こした言であるが、本稿に紹介した密かな応酬にこそ相応しいと考えたために採用した次第である。

2017年3月27日月曜日

生存曲線の裏側には被害者の状態に対する暗黙の仮定が潜む

#痛ましい事件・事故の報道が多くなされている。本稿ではそれらの事件を想起させる内容を取扱うが、個々の事件・事故を取扱うことはしない。あくまで、報道関係者が正確に事物を理解できるよう、記述した内容である。正しい報道は、本来、多数の人々の見識を鍛え、今後において、同様の事件・事故の予防に資するはずである。本稿がそのための手段として機能することを願う。なお、この考えは、本稿に限らず、取扱う話題や一見した印象にかかわらず、本ブログにおける目的のひとつを構成している。

被害者発見までの事前所要時間が伸びると被害者の生存率が下がるという主張は、災害の被害者については、根拠がある。人間は、30秒間脳への酸素供給が制限されたり、(周囲の温度にもよるが、分の単位で)体温を維持できなかったり、72時間水を摂取できなかったりすると生命への危険が生じることから、それぞれのタイムリミットまでの間に、できるだけ早期に被害者を救出するなどして、それぞれの条件を満たすことは、被害者の生存に不可欠である。災害に係る生存曲線(survival curve)は、災害の被害者が生命の危険に直結する状態に置かれているとき、被害者の生存中に救出するための時限の目安を示す関数である。救出に要する時間を横軸(x軸)に、生存確率を縦軸に置く形で表現される。

災害発生後、72時間に救出のための資源を集中することが肝要となる。災害時、身動きのできない被害者の生存は、主に水の摂取が可能ではないという状態に掛かるためである。この間に救出隊員と装備を揃えることは、救出の要件であることから、救出までのリードタイムの短縮、資源の集中に努力が傾注されている。

#ふつうの日本人なら、自衛隊員までを含めた士業が災害対応に最大限に関与することは、当然視・賛成することであろうが、資源の適正配置という観点からは、災害の規模によっては、かなり大きなジレンマを生じることにもなる話である。人は、24時間起床していると、大幅に集中力を減じる。国際社会は、必ずしも災害につけ込まない国だけで構成されている訳ではないのである。つけ込まれないためにも、政府には的確な情報公開が必要となる。

大事なのは、生存曲線が業務改善のためのツールである、ということである。科学的な方法論で組み立てられてはいるものの、適用して良い場面には自ずから限界がある。この点に視聴者は注意しなければ、ありもしない因果関係を生存曲線の説明に読み込んでしまうことになる。その誤りが端的に表れるのが、誘拐犯罪についての生存曲線である。

誘拐犯罪の被害者についての生存曲線を作成することは、災害よりも困難であるし、進行中の事件の方向性をつかむ努力を怠ったままに既存の生存曲線を漫然と利用することは、戒められるべきである。念のため申し添えておくと、災害に係る生存曲線についても、被害者の捜索の打ち切りを考慮したり、行方不明者や他人に知られぬままに遭難する人物が生じることを考慮すれば、いずれかの方向に偏りを有するとしてもおかしくはない。それに、被害者の生存状態は、災害の進行に応じて大きく左右される。ただ、誘拐犯罪の被害者は、その態様や犯人の目的によって、生存しやすい状態に置かれて監禁されているのか、すでに殺されているのか、といった状態の異なり方が大きく、しかも、その状態は、事件の些細な推移によっても、災害以上に大きな影響を受ける。このため、誘拐犯罪の生存曲線は、事件の特徴を把握できないときに誘拐事件全体の傾向から得られたものを用いることがやむを得ないとしても、事件の性格を明らかにするよう努め、事件の性格に合致した生存曲線に置き換える必要がある。

この指摘を納得できない者は、生存曲線に潜む仮定である因果関係を密かに逆転させているという誤解を犯しているかも知れない。この誤解は、極端な状態では、誰でも「そりゃそうだ」と思えるものになる。それは、誘拐事件の被害者の発見時間をゼロに近付けることで、被害者の生存を最大化することができるという誤解である。因果関係の把握に努めぬままに生存曲線の示す数字を盲信する者は、結果から原因を推定するという条件付き確率※1の考え方に拠って生存曲線が制作されている、という基本的な仕組みを理解していないのである。もっとも、ここで生じている誤解は、犯罪を取扱う専門家にも散見される性質のものである。

この誤解は、本日(2017年3月27日19:00~)、テレビ朝日系で放映されていた世界のテレビ番組を紹介するという番組『トリハダスクープ映像100科ジテン 衝撃の実録映像3時間スペシャル』のうち、トルコ共和国で女性司会者が誘拐の被害者を追うというリアリティ番組において、端的に示されていた。事件発生後72時間が経過したとして司会者が焦っていた、なぜならば72時間後の生存率は4割を切るからだといった具合でナレーションが当てられていたが、この焦り自体は、何ら意味のないものである。事件の状況を把握するために必要な資源が投入されていたならば、生存曲線を前提とした焦りは不要である。司会者の焦りは、司会者の生存曲線に対する誤解に基づくものなのである。なお、このナレーションは、翻訳したものであろうと推認できたことも、申し添えておく。


なお、本日のテレビ朝日のCMには、森永製菓のCMがこれでもかとヘビーローテーションで放映されていた。森友疑惑が追及されている現在、理解できることとはいえ、これらのCMと引換えに、報道すべき内容が削られるとすれば、そこに脅迫罪の成立する余地があるように見えるのは、私だけであろうか。


※1 上掲の「条件付き確率」という表現では、正確さに欠くかも知れない。より厳密に記すよう努めれば、次の一文のようになろうか。「司法機関等の収集した、収集の適格要件を満た結果」である記録から「誘拐に伴う被害者の生存期間という原因」を推定するため、「近年の因果関係研究の進展に伴う形で拡充された、仮想反実的な条件付き確率」を計算したものである。その際、従来の生存曲線の制作者は、事例収集の完全性を前提とするか、被害者の生存と死亡が実験研究の結果として得られたものという仮定を置いて、生存曲線を算出している。

「善・悪」と「秩序・混沌」の二元配置は人間観の理解に便利である

私が身代を滅ぼす程度のゲーム中毒でもあることは、読者にはバレているところであろうが、今回は、その話である。とはいえ、本ブログの意図する内容と無関係の話ではない。安倍晋三氏が利己的な存在であることを、私がいかにキャラ付けしているかの説明である。飯山一郎氏が主張するように、利己的な存在が政治家であると仮定するならば、彼らの行動原理をとことん利己的なものとして解釈した方が、現在の森友疑惑の背景にある闘争を理解できるし、その行く末を期待を持たずに見守ることができようというものである。今回の話は、あくまで、より良い理解のための補助線である。

『ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)』というテーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム(略称TRPG)は、会話とルールブックとサイコロを道具立てとする、幻想世界を主な舞台とするゲームであり、RPGの嚆矢である。1960年代以降の心理学の発展を受けて、ロール・プレイがセラピーの一手法として確立したことをも受け、1974年に登場した。現在の(選択肢を有する)サウンドノベルの源流にあたるゲーム・ブックとともに、現在までに至るコンピュータRPGの原型を創造した。軍事学や防災訓練における図上演習は、実のところ、この辺の話とも関係を有する(が、この点に触れる防災研究者は、ほぼいない)。

#脱線。陰謀論マニアには、Steve Jackson Gamesの『Illuminati』のカードデッキは良く知られた存在であるが、Steve Jackson氏は、ゲーム・ブックの創生期に活躍した一人でもある。なお、『D&D』等のTRPGに対しては、登場以後、アメリカ国内では「悪魔のゲーム」という宗教的な批判も存在しており、これらの批判への対応のために理論化が図られたという、わが国とは異なる事情を作家・翻訳者の安田均氏が解説していた(はずである)。

本題。優れたゲームは、現実の理解にも役立てられるような方略を提供することがある。囲碁や将棋の例を見れば、優れたゲームが世界を現実に変えており、日中韓という問題含みの国際関係における友好関係にも役立っていることは、十分に理解できる。また、囲碁や将棋は、諺や慣用句といった形で文化上の大きな要素となっていることも言うまでもなかろう。私自身は、囲碁や将棋を嗜んではいないが、本段落のここまでの指摘は、そう外れたものではないだろう。今回の指摘は、『D&D』のルールに示されるキャラクターの性格設定も、現実の理解に役立つというものである。

『D&D』のキャラクターの性格設定である「アラインメント」(alignment)は、「秩序・中立・混沌」(lawful, neutral, chaotic)と「善・中立・悪」(good, neutral, evil)との2軸からなる9種類である。基本的には、この設定は変更されておらず、ゲームにおいて、プレイヤーがキャラクターを演じる際の指針(プリンシプル)をなしている。解釈には多少の差が見られるが、おおよそ「秩序~混沌」の軸は、法や既存の秩序に沿うか否かを意味しており、「善~悪」の軸は、キャラクターが利他的であるか自己本位であるかを指す。『Star Wars』エピソード4~6の帝国皇帝は、Lawful-Evilであるという説明をどこかで読んだ遠い記憶がある。ハン・ソロは、登場時はともかく、行動の全体を通じてみれば、Chaotic-Goodと説明されることになる。

実のところ、この二元配置モデルは、わが国の官僚の多数がLawful-Evilであることを説明する上で重宝する。外国の映画に見るような汚職警官も同じ枠に収めることができるし、映画的テンプレ上のナチス・ドイツや大日本帝国も同様である。場合によっては、彼らの一部は、自身に課せられたルールをも都合良く逸脱するので、Neutral-Evilであると説明できるかも知れない。いずれにしても、Lawful-Neutral-Chaoticの軸上の配置によって、看による捕虜の虐待の頻度(つまり組織内における逸脱行為の確率)などを表現することができるのである。Chaoticなら好き放題に虐待するであろうし、Lawfulなら自制が効くであろう。Neutralなら、状況次第であり、都合良く通達や要綱の解釈を曲げることもするであろう。近年の右派犯罪学等においては、日和見または機会主義(oppotunistic)という語が重要な地位を占めているが、日和見的なキャラクターは、Neutralに相当すると解釈しても良いであろう。

この二軸の組は、法匪という語を的確に位置付ける上でも役立つが、それだけではなく、日本人の組織人の大半が善を積極的に志向せず、他人にも強要しない一方で、秩序を志向する傾向がある(つまり、Lawfulではある)ということを表現する上で、非常に役立つ。また、「チームのため」を強要する人物が必ずしも善ではないことも示唆する。日本人の組織人には、かなりの割合でLawful-Neutralが含まれるのであり、Lawful-GoodやLawful-Evilは比較的少数派ではないか、という可能性が見込まれる。杓子定規とは、Lawful-Neutralか、Lawful-Evilを指す形容であり、ここに日本ならではの失敗に至る陥穽が潜んでいるようにも思うのである。組織内で語られる「個人としては良い人」という表現は、この二軸から生じるジレンマを部分的に表現するものである。郷原信郎氏の指摘であるが、「合法でありさえすれば何でもあり」症候群である。吉本隆明氏の思想も、この点を曲解されて、ビートたけし氏の「赤信号みんなで渡れば怖くない」の表現のように悪用される余地があったという点で、脆弱であり得ると評しうる。

わが国では、この二元配置のうち、Chaotic-Goodは個人の生き方として評価されない一方で、Lawful-Evilは「抜け目ない」などと評価される。この対立関係は、上掲したように『Star Wars』シリーズ(Ep.4~6)の世界観でもあるし、大資本が投じられた近年の多くのPCゲームの世界観でもある。この対立を煽る思想は、もちろん、「国際秘密力集団」の両建て構造に由来しよう。しかし、わが国では、『アノニマス』が渋谷でゴミ拾いするという行動に変質したことを鑑みれば、この対立関係は、幼少期以降に社会規範が内面化される過程において、すでに決着が付けられるよう、何らかの諸力が作用していると見て良いのであろう。3月22日のロンドンにおける自動車暴走事件は、テロ集団ネットワークの関与したテロ事件であると報じられており、その点自体については報道が嘘を吐いているということはないが、わが国においてより高い頻度で生じている故意の暴走事件は、いずれも犯人個人に由来する、自己本位のものである。

少々脱線する。赤木智彦氏は「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」で、生活に由来する個人の閉塞感を、戦争への期待感へと転嫁する心性を説明していたが、この心性も、故意の暴走事件と同様、利己的な欲求に根差して全体の便益を減少させる点で、Evilである。赤木氏は、「けっきょく、『自己責任』 ですか」と題した批判への応答の中で、わが国では革命が成功しないという趣旨を述べているが、利己に駆動された革命が、利己思想の蔓延した社会で成功しないことは、当然である。功利主義的側面から赤木氏の提起した課題に対して誰かが回答しているのかは分かりかねるが、功利主義からみれば、赤木氏の提起した問題は非常に簡素なモデルで提示可能ということになる。いずれも後知恵であるが。

#さらに脱線。現状と比べると興味深いことであるが、Neutral-Neutralは、生き方の理想の一つとして確立されている。老荘思想と仏教における中庸思想、無常観に影響を受けているものと思われるが、『徒然草』から『雨ニモ負ケズ』まで、「なるようになるさ」「自然のままに生きる」志向は、日本人の人生観の中枢を占めるようにも思われる。リチャード・ターガート・マーフィー氏の『日本 呪縛の構図』は、窓際族・引きこもりなどの現象に触れてはいるが、この状態を成立させる上での重大要因である無常観・諦観への言及が欠落しており、日本人の問題発生時において行動を駆動させる原理の主要部分を見落としたものともなっている。逆を言えば、この伝統的で強固な社会観に着目した優れた研究が存在していないか、マーフィー氏が見落としたことになる。もちろん、この種の諦観は、研究を「机の抽斗効果」(desk-drawer effect)に向かわせる諸力と親和的である。「登載されるか放逐されるか」(publish or perish)なんて考え方は、肉食系過ぎて、草食系の考え方である無常観とは、対極にある。

官僚の多数がEvilであることは、彼らの提起する政策が、基本的には狭いコミュニティを利するものでしかないという点から証明することができる。福島第一原発事故は、この構造・傾向をより顕著にしている。たとえば、「食べて応援」という施策は、受益者が汚染地域の生産者・買い叩く流通業者・汚染地域での生産を制限することにより批判を受けることがない政策立案者・政治家である一方で、負担者は国民一般である。東京電力という企業の救済も同様である。いずれも、最終的には、立案に関与した官僚らの個人責任を回避し、天下りを可能にするという点で自己の利益を維持・増進するものであると言える。なお、利己的であるという特徴=プリンシプルは、容易に囚人のジレンマに陥るものである。つまり、便益全体の最大化を図ることが苦手あるいは不可能という結果に至るものである。

善悪の定義を功利主義ふうに解釈する(=利他・利己に区別する)という『D&D』のアラインメントというルールは、何だか世界をも説明できた気になるため、特に学術上の根拠がないものとはいえ、ついつい濫用してしまう。濫用の例を挙げれば、安倍晋三氏は、私の中では、Neutral-Evilである。何だったらカオティックである。悪(Evil)が自己本位というところがミソであろう。自分勝手という語は、Lawful-Evilという性格を的確に連想させる表現ではない。また、「他者の便益の増進を図る」という功利主義的な表現は、人情味のないものに聞こえるが、これが善(Good)ということになる。

人間の行動に係る人間の理解(この分野を扱う学問は、行動科学に限られない。たとえば、宗教学や文学や美術や哲学も。)は、何だかんだ言って発展しているので、その影響をゲームが受けないわけでもない。逆に、ゲームの多くは、現実を抽象化=モデル化したものであるから、そのモデル化が成功したものであるとき、現実へのフィードバックが生じるのも当然である。現実を説明する、つまりモデル化する上でもゲームは有用という訳である。もうそろそろ半世紀を迎えようとしている(その根はパルプ・フィクションにあるので、根源自体は一世紀を迎えるということになるのかも知れないが)古典的ゲームが、これだけ類似のゲームが氾濫する中でも残り続けているのには、理由がないわけではない。もっと明け透けに言えば、ユングやフロイトよりも、よほど人間の行動原理を縮約して説明できている点、優秀であると主張することもできよう。イドとかエゴって何よ?モデルとしては全然エレガントじゃねえよ、という訳である。

最後であるが、森友疑惑の構図について。『D&D』のゲームをベースとする小説『ドラゴンランス戦記』シリーズ(英語だと3部作)の末尾には、「悪は、お互いに食い合う」のような表現が出てきたはずである(。正確に覚えていられないのが、私のクオリティであるし、ネタバレは申し訳ない)。現状の森友疑惑が噴出した後の関係者の行動には、自己保存行動という語が最も当てはまる。とすれば、ジャパン・ハンドラーズと仲違いした今後、国民益の増進という崇高な理念に根差した行動を安倍氏が取ると期待するよりも、感情に基づく闘争が単に継続すると見た方が妥当であろう。ただ、この感情のもつれから生じた混乱に乗じて、福島第一原発事故を終息させる対策に安倍氏自身が本腰を入れるとすれば、マッチポンプとも批判されるかもしれないが、安倍氏は、本当に歴史に残ることとなろう。飯山氏のごく最近の安倍氏ヨイショはこの大転換を狙ったものであると、飯山氏の主張を私は好意的に解釈している。きわめて分の悪い賭けだとは考えるが。

2017年3月25日土曜日

森友学園疑惑の追及とジャパン・ハンドラーズ抜きの日米関係とを比較すると後者の重要性が高い

前回(2017年3月25日)の記事の続きである。前回は、現政権に見られる多数の問題の中から、森友学園疑惑だけが大々的に報道されている理由を考察した。要約すれば、森友疑惑の報道重点化は、ジャパン・ハンドラーズを中心とする戦争屋勢力の一部による、海外向けの宣伝である。首謀者は、自身らが日本政策の代理人として最適であると示威することをも目的としているであろう。この構図は、みかじめを支払わない店舗に対するヤクザの見せしめと同一である。

なお、お断りしておくと、今回の考察も、前回と同様、飯山一郎氏による、安倍晋三氏が戦争屋の軛を脱したとする主張を、私なりに考察した結果である。ただし、今回の考察も、飯山氏の主張の丸呑みでは決してない。現に、飯山氏の意見を批判的に検討した結果、安倍氏と戦争屋の関係の今後については、やはり異論がある。戦争屋と安倍氏の対立関係は、もはや後戻りできないまでに昂進したとまでは言えず、元の鞘に戻るという芽も残されていると見た方が安全である。ただ、その関係性の当否はともかく、どちらがマシかと問われれば、戦争屋陣営よりは、トランプ陣営下である限り、安倍氏の方が断然マシであるという点では、変わりない。

森友疑惑だけを殊更に報道することは、トランプ米大統領をも批判の射程に含むことになる。トランプ氏と安倍氏との仲が良いとされるためである。このため、「日本」のメディアが海外に本件疑惑を御注進するのは、国益を損ないうる行為である。ただ、どのメディアであるとは明記しないが、常に反政府的な姿勢を貫いてきたメディアの報道は、政治活動の一環とはいえ、筋が通ったものであるから、放置せざるを得ない。他方、五大紙の変節ぶりは凄まじく、全く評価できるものではない。内部で高給を食んでいると、本件報道に加担する自身らが、見せしめに店舗を叩き壊せと命じられて唯々諾々と従うチンピラと同様の存在であることを自覚できないのであろう。わが国の新聞業界は、「インテリが書いてヤクザが売る」と揶揄されてきたが、現時点では、売る側が真っ当な一方で、書く側がチンピラ未満である。大手新聞業のプリンシプルとは、その新聞が対象とする国を問わず、「剣を振りかざす金主」すなわち戦争屋に尻尾を振るということなのであろうか。

戦争屋を排除するために必要な措置を取らないまま、トランプ氏の駒となり得る安倍氏を蹴落とすことは、日米両国の国益にならない行為である。現状は、安倍氏がジャパン・ハンドラーズに立腹しているだけかも知れない。しかし、今後の安倍氏が戦争屋の犬であり続けるかもまた、未知数である。現状から出発するなら、今後の安倍氏とテロ等準備罪は、両方とも道具でしかない。道具は、使われ方こそが批判の対象となるべきである。トランプ氏は、戦争屋と対立してきているために、当然ながら、戦争屋の影響下にあった安倍氏を自らの影響下に置こうと働きかけてきたであろう。リチャード・ターガート・マーフィー氏の『日本 呪縛の構図』は、日本の統治システムが米国の強い影響下にあり、半植民地保護国と呼べる状態にあると指摘し、同時に、その状態を直視して改善することが日本の指導者層には困難であろうと述べていた(pp.222-223)。しかし、私は、彼の著書に接する以前から、個人的な体験に基づき、日本が米国の強い影響の下にあることを認めているし、むしろ、福島第一原発事故の終息につながるのであれば、指導者層が米国の忠実な番犬として振る舞うことを喜んで是認する。昨日に引き続いての『PayDay 2』ネタにもなり恐縮だが、福島第一原発事故にせよ、米国の影響下にあることにせよ、現時点のわが国において、これらの話題は「部屋の中のゾウ=公然の秘密(The Elephant in the room)」なのである。(蛇足:ゾウは米共和党のトレードマークでもある。)

#正確を期せば、わが国の刑法の解釈の幅は非常に広いため、ほぼすべての国民は、日常生活の中で犯罪となる行為に手を染めている(はずである。そうではない聖人君子には、お目にかかったことがない)。このため、テロ等準備罪が屋上屋を架すものであるという批判は、正当な指摘といえよう。ただ、この話とテロ等準備罪の両方は、ジャパン・ハンドラーズにも適用可能である。議論の焦点は、「テロ集団」を構成する具体的な人物名とその関係性にこそある。

今後のシナリオを3種に分類して検討すると、トランプ氏と安倍氏との人間関係が構築された現時点において、安倍氏を首相の座から排除しなければならない理由が存在しないことが分かる。日本国民にとって望みうる最善のシナリオは、今後の首相が誰であれ、能動的に国民本位の政治体制を築くことである。しかし、これには、不正選挙の防止のみならず、国民意識の大転換=メディア・リテラシーの成熟までが必要である。この条件は、百年河清を待つようなものである。次善は、アメリカ発・トップダウン型・ウィン=ウィンの現状改善であり、誰が首相であるにせよ、彼(女)が、戦争屋というブラック中間業者を経ずに、つまり中抜きで、トランプ政権から指示・助言を受けるというものである。この展開は、現状を前提としたときには日本国民が望みうる最善のものであるし、3.11の際にも(誰だか分からないが、そして誰だか良く分からないことこそが問題なのだが)米国人が官邸に出入りしていたという以上、当時の状態よりも遙かに健全である。第二次世界大戦後以後の歴史を直視すれば、米国の半植民地にあるという状態は、一人の日本国民が何ら恥じ入るべきことではない(が、政治家と国家公務員は、在職期間と地位と活動とに応じて、大いに恥じ入って良い)。なお、わが国において新自由主義者と呼ばれてきた者は、多くが戦争屋と重複するが、中抜きを良いことであると宣伝してきた。同じことは、彼らにも当てはまるが、自己責任というやつである。最後に悪いシナリオを述べれば、誰が首相であるにせよ、戦争屋の言いなりになる権力構造が再開されるというものである。安倍氏がトランプ氏の支援にかかわらず、戦争屋勢力を含めたマスコミの批判に屈したときは、この状態に陥ることになる。また、今後近い時期に選挙が行われ、たとえば、民進党が政権の座に返り咲いたときにも、不可解なことに原発推進勢力(=当面原発維持)がトップに就くということになろう。以上のシナリオを考慮すれば、トランプ氏の忠実な手下を務める限りという条件付きではあるが、戦争屋の言いなりになる連中をトップに据えるよりは、安倍氏の方がマシである。

トランプ氏は、大統領就任演説?において、中国・日本を含む他国民がアメリカを尊敬することになると述べたが、この語を信用するなら、日本の衰退まっしぐらという現状に対して、少なくとも日本国民の損にはならない政策を講じるであろう。現に、トランプ氏の構想は、田中角栄氏を想起させる「アメリカ大陸改造論」であるが、その恩恵は、従来のファンダメンタルズからすればあり得ない東証の株高にも及んでいる。この株高は、単なるバブルではなく、戦争による焼き畑型経済である「ショック・ドクトリン」からの脱却が図られつつあることを反映したものとも解釈できる。安倍氏にも、東証の株高がトランプ氏の政策のおかげであることは理解されていよう。東証の株高を自身の求心力として利用してきた安倍氏がトランプ氏に対して親近感を表明するのは、自然な成り行きである。株高は、年金運用にも思わぬ追い風をもたらしているとはされるから、国民全体の利益になっていない訳ではなかろう(。本点については、GPIFの報告書の文言は、このようには読めるとはいえ、運用の実際を詳しく知らないために、断言はできかねる)。反面、トランプ氏サイドは、安倍氏をカタにはめつつあるとも言える。

#サボり気味なので、今回、ついでに書き飛ばしてしまうと、マイケル・フリン氏の解任は、トランプ氏にとって確かに失点である。しかし、無用な血を流さないという信念は、戦争屋以外の軍人には共通するものであるから、取り返しのつかない失点ではない。それに、フリン氏自身が「Pizzagateに突破口を開くことは、自身の政治生命と引換えとなったとしても、後世に評価されるべきこと」と考えた可能性も残る。フリン氏が仮に出処進退を賭けて本件に取り組んだのだとすると、その行為は、日本国民からも尊敬を受けるべきものである。というのは、わが国においても『プチ・エンジェル』事件があったためである。同事件は、わが国にも同様の構図が存在すると考えて良い証拠である児童買春(売ではなく)という犯罪の追求を通じた世界の変革がわが国に及んでいないという状態は、この商売がどの筋によって仕切られてきたのかを示す傍証である。このとき、日本国民は、フリン氏のPizzagateに係る行動がいかに困難なものであろうかということを、自国の事例から容易に看取することができるのである

森友疑惑の報道を経て安倍氏が戦争屋の言いなりに戻ったり、衆議院の解散に踏み切ったりするのであれば、トランプ氏は、せっかくの日本政策の手駒を失うことになる。しかも、この駒は現役の首相である。日本国民が良好な対米政策を期すならば、安倍氏を挿げ替えたとしても良好な関係を構築可能な人材をトップに据えなければならないことになる。その人材には、もうひとつ条件がある。意地が悪い表現であるが、安倍氏とトランプ氏とを比較した場合、トランプ氏の方が格上であることは、自明過ぎることである(。私も情けない気持ちではある。しかし、安倍氏がトランプ氏を凌ぐほどの大人物であったとすれば、福島第一原発事故は生じていない。森友疑惑よりも、福島第一原発事故の電源喪失に係る安倍氏の責任問題の方が、明らかに重大である)。安倍氏の後任は、この明快な上下関係を変更しない人物でなければならない。日本の政治家の多くであれば、この上下関係を維持できるであろうが、万が一、(真の意味で)正当に選挙が実施され、国民が賢明な選択を行い、第一党となった政党が日本に山積する難題を解決可能な人物を首班に選出したとしよう。優秀な人物は、少なくとも、日米首脳の上下関係(ここでは米国が上)の格差を縮めてしまう虞がある。人間としての実力が近いと、国益が賭けられた交渉事は、面倒なものになる。双方が利益の極大化を目指す可能性が認められるためである。トランプ氏がメルケル氏を嫌う態度を見せる一つの理由は、彼女がタフな交渉人でもあるからであろう。今回の疑惑を引くまでもなく、日本の政治家の背景には多くの利害関係者がいるために、なまじ優れた人物が首相の座に就くと、バックの人脈も変わり、難題山積の米国の政治にも手戻りが生じることにもなる。アメリカから見たときにさえ、日本の神輿は、今の軽い状態が都合良いのである。米国で凋落著しいハンドラーズの言いなりになる政治家がわが国で政権を握るくらいであれば、トランプ政権の言いなりになるという条件付きではあるが、両国の国民にとって、安倍氏の方が余程マシということになる。

#私がブログをサボって碌なことをしていないのかバレバレなのだが、ナショジオで米国(アリゾナ州)の麻薬問題が繰り返し報道され、腐敗したメキシコのカソリック神父や軍隊、堕落したCIAと軍高官が、両国のギャングとつるんで麻薬流通に手を染めるという映画が、A級・B級問わずに、多数放映されることは、ハンドラーズの凋落を示す傍証として挙げることができよう。日本国内でこれらの番組が報道されていることは、理解できる人には理解可能なメッセージという訳である。




2017年3月25日22時追記

上掲記事の執筆後、飯山一郎氏のウェブサイトの2017年3月24日の記事及び25日の記事を初めて閲覧した。上掲の私の記事は、学術論文として見た場合には、完全に後追いであるために価値を有さないことになるし、私の文章の方が遙かにポンコツである。とはいえ、コミュニケーションを取らないままに別のアタマで考察した結果が類似したものとなったことは、この種の見方が理論に成立することを示す証拠と言えよう。ただし、安倍晋三氏の福島第一原発事故に対する理解については、飯山氏の見解よりも、私は遙かに悲観した見解を有している。最近の飯山氏による安倍晋三氏の評価は、きわめて能力に優れた人物というものであり、戦争屋の指示に拠らない独自の政策を構想するかのごとくに安倍氏を記述するものである。が、安倍氏の最近の行動を検証するに当たっては、安倍氏自身を「上にへつらい、下には過剰に厳しく、人の手柄を横取りする小人物の上司」として措定する方が、従来の行動と整合的であり、無難な解釈である。飯山氏の賞賛は、むしろ、「おだてりゃ何とやらも木に登る」効果を狙ったものと見ておいた方が良かろう。褒め殺し、という表現でもそこまで外してはいないであろう。

いずれにしても、日本国においては、福島第一原発事故に対する理解と対応・行動こそが、責任ある立場の人間にとっての試金石となることは、間違いないことである。事故当時の自民党政治家のうち、まともだったと後世に評価されるであろう人物は、河野太郎氏くらいであろう。(河野氏は、すでに、Wikileaksへの漏洩により、色々と取り沙汰されてしまっているため、評価が難しい状態にはなっているものの、それでも正当な評価を受けて然るべきである。)ほかに現在の自民党関係者と見做される人物のうち、福島第一原発事故について、好評価を受けうる人物は、事故後かなり遅れてのことになる上、利権の臭いも感じるし、公職を引退もしているが、小泉純一郎氏を加えることが可能なだけであろう(。小沢一郎氏とその弟子筋は、自民党で実力を発揮した政治家たちではあるが、事故前後からの政治的スタンス考慮すれば、現・野党側の人物としてとらえるべきであろう。それだけに、事故直後の小沢氏本人の行動に対して、誹謗系週刊誌があることないことを吹聴していたことには、事実関係は措くとしても(、また、私は週刊誌側の示した事実関係に疑いを有したままであるが)、何らかの理由があるものと推測される)。ここで指摘するまでもないことであるが、現時点までの福島第一原発事故に係る安倍氏の発言と行動は、基本、すべてが、国民の生命と健康ならびに財産を保護する方向とは真逆のものであり、たとえば、非常電源喪失に係る答弁の責任を引き受けないものである。




2017年3月26日追記

以前(2016年11月18日)、安倍氏が大統領就任前のトランプ氏を訪問したことを受け、以下のように懸念を示したことがあるが、「日本国民の大多数にとって過剰に不公正なディール」が今のところは不要であったかのように見える点、私は、日本国民にとって予測を良い方に外したことになる。その理由の大方は、トランプ氏側の厚遇するという方針にあったであろう。また、やはり、国同士の外交において筋目を通すという点では、このときの訪問は異例であったものの、佐藤優氏の指摘どおり、オバマ氏の後にトランプ氏と会談ていたとすれば、トランプ氏の就任前に安倍氏が訪問したことは、正解であった可能性がある。この点を認めて、評価を変える必要があるであろう。あまりにも話す内容が多かったであろうし、情報漏洩の危険も認められたためである。もっとも、この会談の折に、安倍氏が何を話し、どのような話を聞いたのか、その内容を十分に理解したのか、といったディテールが分からなければ、依然として、一般人がこの会談の成果を正当に評価することはできないであろう。

クリントン氏とだけ安倍氏が会談していたという事実は、私自身が決して歓迎することではないが、安倍氏自身にも利用可能な事実である。日本国民の大多数にとって過剰に不公正なディールにより、権力の維持を安倍氏が願い出るというケースを、日本国民は覚悟しておかなくてはならない。



2017年3月28日追記

田母神俊雄氏が南スーダンにおける自衛隊の任務の終了を受けて、次のようにツイートしている。その表現は、軍人が基本的に生命を大切にすることを示す。ただし、そのニュアンスは、パイロットの生命が費用面でも戦闘機より高くつくというように、置かれた状況によって微妙に異なるであろう。なお、田母神氏は、今後の国際情勢の変化に応じて、わが国の広義のセキュリティ産業に与えた影響について、評価が変わりうる人物である。キーワードは、自前主義である。田母神氏の自前主義に係る従来からの主張が自衛隊員の生命の保護を視野に含めたものであることは、一連のウェブ上の資料においては、一貫している。なお、自前主義の難しさは、ジオイントに係る論考(2016年2月1日)で一部触れたことがある。

また、古歩道ベンジャミン氏が、「公安筋」から、今回の森友疑惑の仕掛け人のトップに小沢一郎氏がいるとの情報を得たと報じている(27日メルマガ)。この情報が正しいのであれば、(そして、私は、この情報のルートについて、非整合性を感じるが、)辻元清美氏が野田中央公園の整備構想に関与していたとするスピン情報は、正当性を持ち得ないということが近いうちに明確になるであろう。同公園の土地の所有権が豊中市であるなら、そこに投じられた金額の割合が通常の国と地方の関係からいえば、高いものであることは確かであるが、そこには何ら、国家を私物化したとの指摘は当たらないためである。都市計画手続上の瑕疵も、以下の豊中市議会建設水道常任委員会(平成22年10月12日)のやり取りの中では認められない。(都市計画のあり方が、2000(平成12)年以降、主に小泉政権の時代に、何でもありの度合いを強めたことは、都市計画に係る案件の正統性を論じるに辺り、理解しておくべきである。)

2017年3月24日金曜日

数ある疑惑の中から森友学園疑惑をチョイスしたのは外国向けを意図したのであろう

いわゆる森友(学園)疑惑、別名アッキード疑惑に係る籠池泰典(泰博)氏の証人喚問が昨日(2017年3月23日)行われた。しかしなぜ、掃いて捨てるほどある(はずの)疑惑の数々の中から、本件が大きくクローズアップされたのであろうか。私は、海外向けの報道も見込んでいるから、という一応の答えを用意してみている。本疑惑は、安倍氏を超国家主義者として描写するという効果を持つものであり、国内向けよりも海外向けに適する。このため、本件が放逐された旧米国戦争屋の仕込みであるとする飯山一郎氏とその仲間たちの見立ては、おそらく正しい。しかし、安倍晋三氏が日本の国益のために舵を切ったとする飯山氏らの見立ては、安倍氏が単に感情的に自己のためだけに動いているという可能性を(故意にかも知れないが)除外したものである。本稿では、まとまりなく、この点をメモしておきたい。

現在では、確かに、従来のわが国に係る戦争屋連中の一部(ジャパン・ハンドラーズ、清和会系の自民党、松下政経塾系の民進党、日本維新の会、公明党、日米合同委員会に所属してきた売国官僚、マスコミ政治部)と安倍氏は、仲間割れした状態にある。ここまでは事実として認めて良いであろう。しかし、この現状は単なる偶然の産物であり、その原因は安倍氏が感情のままに動いたことにあるのではないか。

#2017年3月25日追記・訂正:従来の方針とは異なるが、今回については、戦争屋連中のうち、明らかに森友疑惑に関連して、仲違いしている勢力を具体的に記述する価値を認めたために、特記した。その過程において、本疑惑に関係した一部上場企業の活動の詳細が私には分かりかねるため、戦争屋連中と名指しした状態を訂正した。(お詫びの必要はないものと考える。)

昨年9月、安倍氏は、米大統領選候補のクリントン氏とだけ会見した。この経緯は、ハンドラーズの主張を丸呑みしたものであろう。安倍氏は、トランプ氏当選の報に接して、自身の面子を潰されたと憤るとともに、自身の地位に対して不安を感じたことであろう。外務官僚に責任を転嫁するだけでは飽き足らず、ハンドラーズに対しても、大嘘吐きやがってと恨んだであろう。安倍氏が感情的に振る舞う姿は、非常に多くの実例を認めることができる。ハンドラーズと面会しなくなったのは、単に、安倍氏がハンドラーズへの怒りを収めることができていないためであろう。ハンドラーズにとっては都合の悪いことに、安倍氏がトランプ氏に慌ててすり寄ったところ、トランプ氏のチームは、深謀遠慮ゆえであろうが、安倍氏を歓待した。思いがけない厚遇を受けた安倍氏が、その結果を自身の太鼓持ち能力によるものと誤解して、今後も中抜き(=ハンドラーズ抜き)で行くと決めたとしても、それほど不自然ではない。

森友疑惑は、この安倍氏にとっての「棚ぼた」を制裁するため、海外に向けても報道するため、用意されたものであろう。かねてから準備されてきた数あるスキャンダルのうち、トランプ氏へもダメージを与えるべく、海外向けのネタが選択されたと考えられる。ハンドラーズは、大日本帝国の復活を企図する連中と安倍氏夫妻の仲が良いことをあげつらうと同時に、その安倍氏とトランプ氏の仲が良い、とディスりたいのであろう。このような構図でハンドラーズが誹謗することは、(ハンドラーズには与しないが)米国の良心を自認する層に対して、安倍氏の首を挿げ替えることを訴えると同時に、ハンドラーズ自身の工作能力を日米双方の関係者に対して誇示する上で役に立つものと考えられる。この構図は、ヤクザが自身の実力を誇示するために、みかじめ料の支払いを拒んだ店舗を叩き壊すというものに酷似している。

#脱線するが、『PayDay 2』というFPSゲーム(First-person shooter, 3D画面内でプレイヤー視点から敵を撃つゲーム)には、ロシアンマフィアへの支払いを拒んだショッピングモールの窓ガラスを50000ドル分叩き壊すというミッションが含まれている。このゲームのミッション(Job)のあらすじは、ほかのものもセンスが良いと思う。が、ステルスゲームとしては出来が悪い。色々な理由があるとは思うが、認知心理学や人間工学の知見を手がかりにプレイすると、とても酷い目に遭う。

ハンドラーズ以下の一味が森友疑惑を取り上げるという示威行為は、以上のように、日米双方の国家指導者に向けて用意されたものである場合には、ハンドラーズが所属する国家の主権者への承認を取り付けた上での行動ではないがゆえに、国家の根本を揺るがすものである。つまりは、米日の両国民にとって、わが国の刑法にいう外患誘致となる。(主に、米国民に対して、わが国における外患罪に相当する内容を有するがゆえに、このような順番で表記した。)この点をふまえるならば、東京地検特捜部の政治家に対する今後の動きは、彼らの政治的な活動と立ち位置を明らかにするものになろう。(この指摘に対する答えは、自明なものではあるが、繰り返しておいて損はなかろう。)

G20に際して、トランプ氏とメルケル氏の会談、メルケル氏と安倍氏の会談が大きく報道されたという事実は、ほかに存在する疑惑ではなく、森友疑惑こそが海外向けに報道されねばならなかった理由を補強する。ハンドラーズの習性に通じた観察者であれば、なぜ疑惑が森友疑惑でなければならなかったのかは、この点からも説明可能である。彼らハンドラーズの中では、西のナチス・ドイツ、東の大日本帝国は、永遠の敵役である。ドイツの現指導者はナチスと決別したのに、日本の現指導者は大日本帝国と決別できていないと誹謗しつつ、その大日本帝国の継承者と現在の米大統領との仲が良いと指摘する連中は、結局のところ、トランプ大統領を誹謗したいのである。戦争屋が他人を誹謗するとき、ナチス・ドイツと同類扱いするという方法がしばしば用いられる。この特性は、そのように訓練を受けているからと考えるのが適当であろう。悪をなす方法は、悪を積極的になしても制裁を受けないコミュニティにおいてしか、維持・継承されないのである。なお、ナチス・ドイツの人種差別観念は、実のところ、戦争屋の思想にこそ継承されている。でなければ、戦争屋連中により、朝鮮戦争やベトナム戦争が惹起されたことの説明がつかない。

#なお、ドイツ国民には申し訳ないが、願わくば、ハンドラーズの文脈上で日本とドイツが永遠の敵役であり続けて欲しいものである。第三次世界大戦など不要である。また、アメリカから見れば、日本は西にあるのだが、ここでは色々と承知の上で、このように記している。もののついで。アンゲラ・メルケル氏は、安倍氏のように極右と受け止められるような言動を報じられたことがないが、トランプ氏を当選させる原動力となった米国の愛国系ニュースサイトにおいて、複数、父親に係る疑惑を報じられてきている。この構図は、随分と捻れたものである。ナチというシンボルの押し付け合いである。

安倍氏とハンドラーズ連中との仲違いが国益を考慮した結果ではないという推測は、今後、この騒動が結局は国民の利益にならないという懸念を抱かせる材料である。繰り返しになるが、安倍氏が心を入れ替えて戦争屋と袂を分かったと見るよりも、面子を潰されたと感じた安倍氏がハンドラーズの面会を拒んでいると考えた方が、よほど整合的である。大人物同士が相通じるのと同様、小人物にも小人物を嗅ぎ分ける力がある。一介の小人物である私からみて、安倍氏の心性は、典型的な小人物のものであるように思えて仕方ない。器の小さな上司がキレる場面を想起すれば、安倍晋三氏の状況は見事に説明できるのである。このような構図まで見抜いた上で、戦争屋同士の内ゲバを誘うために安倍氏を厚遇したとすれば、トランプ氏のチームは、アメリカの国政を担うに相応しいだけの力量を備えているのであろう。米国民からすれば、ヒュミントの好事例ということになる。日本国民からすれば、本件の評価を定めることはまだ難しいであろう。

#おまけ。本日朝日の朝刊の解説を見る限り、デーブ・スペクター氏は以前からの論調を転換したようにも読めてしまう。ロックフェラーの三代目の死亡といい、世界は確かに変わりつつある。