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2023年8月9日水曜日

ヤング(1984=2010)『徒歩で中国へ:古代アジアの伝道記録』ならびにその周辺

本稿では、ジョン・M・L・ヤング, 後藤牧人〔訳〕, 川口一彦〔監修〕. (1984=2010)『徒歩で中国へ:古代アジアの伝道記録』, イーグレープ.[1]〔以下、本書とする。〕(AmazonへのURL)について、読書メモを示す。なお、英語版の原書については、ネット上で閲覧できる[2]。ヤング氏自身の内心を正確に理解するには、原著を確認する必要がある。

本書は、景教の伝道と普及・衰亡までを概観し、衰退の理由を考察するもので、ヤング師〔以後は敬称を氏で統一〕の修士論文が底本。中国における景教は、ネストリウス派ではなく、アンテオケ学派の内容を備えていたとする。中国に伝播した景教において始まった死者礼拝あるいは祖先祭儀の習慣を、中国文化へのコンテクスチュアライゼーション(文脈化)を反映したものである一方、衰退の原因でもある〔p.194等〕と推察する。

本書の第3章〔pp.56-57〕に、広隆寺・その通称である太秦寺の謂れ・弥勒菩薩についての記述があるが、訳書では、参考文献として挙げられるP.Y.Saeki(1951)『The Nestonian Documents and Relics in China』[3]を含め、直接に参照した文献が示されない。なお、「P.Y.サエキ」は、「景教博士」と呼ばれた佐伯好郎氏が、同書を記す際に示した名である※1。ヤング氏は

手島氏によると603年に建てられたもともとの建物は、キリスト教建築であって
と記すが、この手島氏が誰であるのか、訳書では出所を欠く。また、ヤング氏は、佐伯氏が太秦(うずまさ)をアラム語のイェシュ・メシャッハはメシヤの意)であると主張したとも指摘するが、本訳書ではこの出所が明確な形で示されない。また、広隆寺の弥勒菩薩像について、ギリシャ神話のメタトロン神から影響を受けている、とヤング氏は指摘するが、これも明確な出所がない(ゆえに、この記述はヤング氏の観察に基づく結論である、と訳書を読んだ読者は推認することになる)。

本書の第9章〔pp.191-193〕では、先祖供養の要素を中国において導入した景教に伝教大師(最澄、天台宗)と弘法大師(空海、真言宗)が接触したために、日本の仏教にも先祖供養の伝統が持ち込まれた、と、M.アネサキ(1963)『History of Japanese Religion』, Charles E. Tuttle.を参照しつつ、分析する(。前掲書の著者は姉崎正治氏。出版年が没後(1949年没)であるのは、版を重ねたためか)。

私には、以上に示した本書に係るいずれの記述にも、大きな誤りがあるとまでは思えない。とはいえ、学術においてなら問題となる程度の不備は、以上に見たように訳書には存在するし、この不備に伴う政治性を扱うには(、また以下注でも扱う話題についても同様であるが)、十分な注意が必要である。また、この先の事実確認を進めるには、まず、英語原書を手掛かりに佐伯氏の著作に当たる方が、早かろうし、何より正確である。

※1佐伯氏のクリスチャンネームは、Peter[4]。なお、佐伯氏は、秦氏が古代ユダヤ人に由来するという点で、日猶同祖論を概ね肯定した。Wikipedia英語版の"Hata Clan"[5]に1908年提唱との記述があるが、原典は不明。本書監修者の川口氏は、佐伯氏に係るここまでの指摘事項を必要十分にカバーする記事を『クリスチャン・トゥデイ』紙に寄稿している[6]が、その記事中、佐伯氏の日猶同祖論について、ユダヤ大資本の導入を企図するために根拠なく提唱したものと批判する。

読書メモは以上であるが、原著者のヤング氏は、この政治性に十分に注意した結果、本書の題名を採用し(、また、題名については訳者の後藤氏は、忠実に原典の意図を踏襲し)たとも読める。




(その名が出てきたため、脱線して記しておくと、また、本段落以降も、本稿のごとき低水準のメモを公開する目的の一つとなるが、)なぜ、ネストリウス派による主イエスの神性・人性に対する解釈が異端とされたのか、また、なぜ、量子論が研究されている現代においてすら同派に対する異端との言挙げが撤回されぬのか、私には理解し難い。単性説・両性説・単意説・合性説等々は、とっくのとうに、観察不能性という観点から考察し直せたのではあるまいか。少なくとも、「"単性説" "両性説" "観察" "二重性"」というクエリをググらせてみても、日本語ではクリスチャンのものと明確に認められる議論が返ってこない。女神転生シリーズの信者が西村博之版2ちゃんねる(sc)にどこかからコピペした記述の断片[7]が、何なら一番、私の疑問に答え得るような努力を(同シリーズを崇める目的の下で)払った結果、何となく私の疑問に係る考察をしてみせたかのような配列を提示している。クリスチャンにとっては、「主イエスが(罪なき人として)十字架に掛けられた」ことだけが、大事なのではあるまいか。議論は必要であろうが、この話題は、直前のカギカッコに含まれる考えを持ちつつも意見を異にする相手が父なる神により救われぬとの言明を公に示すに十分な深刻さを持つものとは、私には思えない。他面、ユニテリアンについては、(イエスを人であるとのみ考える派を含むがゆえ、ただでさえ高等批評が必要であると考えてまとまりのない結果に陥っている)私には扱いかねるものの、それでも、ユニテリアンもまた、クリスチャンが迫害する対象としてはならないとも言えるのではあるまいか

(私もある程度はこのカテゴリーに含まれるつもりであるが、)四福音書の内容を信じる者は、観察可能性を念頭に、主イエスの神性と人性の二重状態を信じるほかなく、信じる者ならクリスチャンであるといった程度に、緩く捉えるべきではあるまいか(。この私見が各種信条の形成過程を押さえぬものであることは、重々自覚はするが)。人間として主イエスが十字架までの生を生きたとすると、(また、単性説の説明は、時間軸において途切れることなく人性か神性かのいずれかを有するとの副バージョンを含み、この副バージョンによるならば、という条件を必要とはするものの、)数々の奇跡の説明が付かない。しかし、主イエスを取り巻くごく近傍(、たとえば、衣の房)に父なる神が奇跡を起こされていたという説明は、断然、成立する。神性のみで一貫するとする解釈は、創世記において示されたアダムによる罪を(人としての)イエスの血が贖ったという理解を成立させぬ点では、困難を抱える。が、同時に、紀元1世紀前後から現在に至るまでの人間の観察不能性を考慮すれば、無下に否定できるものでもない。ただ、正直、かくもつまんねぇ話で、権力争いどころか流血に至る種類の対立を繰り広げてきたものである、と、これまでこの課題に関わってきた「聖職者」達を評価できるのみである。しかし、この一方で、これらの無駄に(文字通りの)真剣な考察があって初めて、20世紀以降のごく微小なスケールでの物理学における観察可能性の議論がここまで進んできたものとも考えうる。ゆえ、神の采配ならびにこれを慕い求める人間の努力には、無駄など一切ないのかも知れない(。とはいえ、やはり、私には、現在のキリスト教の歴史において、相当程度、無用に血が流されてきた、としか思えない)。




なお、クリスチャン・トゥデイ紙については、(己を現代のキリストであると自称するという)ダビデ張こと張在亨のグループとの関係性が指摘されており、このうち、キリスト新聞社の記事[8] には、一定の信憑性が認められるように思う。このややこしい指摘をふまえると、研究者は、よくよく、持論の正確性や己の社会的な地位等に基づく正統性がカルトに悪用されぬよう、注意し身を処す必要があるのではあるまいか。要注意人物共が(第三者には)どこまでも野放しと見えるままに存分に活動する今の世の中は、確かに邪悪である。この世の邪悪に対抗するためには、クリスチャンこそが学術上の瑕疵を生じない程度の警戒心を絶やさぬことが必要であるとも思える。本稿に見た程度に、景教を巡る研究そのものに相当の政治性を看取できるが、その政治性に対し、ここに見た研究者の複数名が、期せずしてか学術上の水準を満たさぬ成果を世に問うているためである。




公平のため述べておくと、私は、あくまで事実を事実として受け止めた上で、罪が主イエスにより赦されると信じる者についてはそうあって欲しいと祈る。この点、事実を歪めることは、人間が他者に対し施す赦しに伴う行為を、誤った内容のものとしてしまいかねない。父なる神は、間違いなく、全人類の全行為を把握されているであろうけれども、である。


[1] 徒歩で中国へ : 古代アジアの伝道記録|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
(2023年8月9日確認)
https://id.ndl.go.jp/bib/000010882243

[2] By Foot To China: Mission of The Church of the East, to 1400
(2023年8月9日確認)
http://www.aina.org/books/bftc/bftc.htm

[3] The Nestorian documents and relics in China - 国立国会図書館デジタルコレクション
(P.Y.サエキ、2023年8月6日確認)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1675728

[4] P. Y. Saeki - Wikipedia
(2023年8月6日確認)
https://en.wikipedia.org/wiki/P._Y._Saeki

[5] Hata clan - Wikipedia
(2023年8月6日確認)
https://en.wikipedia.org/wiki/Hata_clan

[6] 新・景教のたどった道(57)景教を日本に紹介した人々(1)佐伯好郎 川口一彦 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ
(2021年8月17日11:51、川口一彦)
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29861/20210817/shin-keikyo-57.htm

[7] 愛の道阿修羅 真・女神転生ウィッチオブフォローワーズ2
(2021年12月4日~)
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/gamerpg/1638628217/

[8] ダビデ張グループ脱会者が緊急声明 消えぬ苦痛 報復に怯える日々 2018年10月11日 - キリスト新聞社ホームページ
(2018年10月11日)
http://www.kirishin.com/2018/10/06/19090/




2023(令和5)年8月15日訂正・補足

私自身の当初からの執筆意図を曲げぬよう、本文を一部訂正した。

私の意図を明確に改めて述べておく;原著者のヤング氏については、間違いなく、景教研究を巡る日本での事情を踏まえ、題名含めた内容を注意深く執筆したことが原著の内容から読み取れる。事実を事実として記すことは、研究の基本である。これを曲げると、後世の研究者に余計な負担を掛けるだけでなく、彼らからの誤解も呼びかねないこととなる。私からすれば、ヤング氏の著書を正確に和訳することに、何らかの問題があったとは思えない(が、己に対する嫌がらせ等を見極める作業を通じて、日本人全般に対し一律となる・アッサンブラージュと呼べる種類の言論統制が存在することを理解するにも至っており、こう意見表明すること自体がトリガーとなっていることを重々自覚もする。しかし、この再帰性を込みにしたとしても、正しく原著を訳した方が、結果的には、各人にとっての公平な判定を(死後に)受けることができるのではあるまいか。なお、ここで誰からの判定と明記しなかったのは、当然ながら、クリスチャンであろうと非キリスト者であろうと、好き好きに解釈できる余地を残したためである)。

なお、恥ずかしながら、ごく最近まで、アラム語が存続の危機にあるという話がディープ・ステイト共の策略の一つである可能性に気付いていなかった。(トランプ政権より前の米国を主たる暴力装置としつつ、そこに関与する米国人達の心身をも傷付けてきた)イラクからシリアに至る地域を対象としたグローバルな戦争屋共の策謀は、聖書に係る歴史修正主義の実践をも兼ねていた可能性が高かろう。正統なクリスチャンを自認する者達がどのように本件に係る己の責任に気付き行動を改めることになるかについては、皆目見当が付かない。が、この点についての事実の解明・被害者達への補償もまた、当然、戦後に必要な営みであるのではあるまいか。この点に係る動きの(今の権力を保持していると大多数から見える者共からの)ゼロ回答ぶりを考えると、まだまだ、我々は、第三次世界大戦の渦中に置かれ続けることになるのであろうか。

2018年7月26日木曜日

(書評)絶対と信仰という概念抜きには、西洋哲学を理解できないだろうに

#あまりに駄文であるとは思いながら、そこはそれ、恥を書き捨てるつもりで公開した。

甲田純生氏の『1日で学び直す哲学 常識を打ち破る思考力をつける』(光文社新書657, 2018年8月20日)は、全体を通して、キリスト教と哲学的思索との緊張関係(の歴史)を十分に取り上げない。キリスト教は、誕生した後、接触した哲学に対して、宗教としてのみならず、絶対という概念の別名としても機能してきた。プラトン以後の西洋式の哲学がイデアリズム(観念至上主義)に支配されてきたことは、一応、同書でも言及されてはいるが、これを補強するのが信仰であるという点は、十分に説明されてはいない。私が勝手に理解するところでは、(自覚的で強い)信仰とは、人生における意思決定を必要とするもので、心に思い切り(跳躍)を必要とする。この機制を有している人々にとって当然の心境は、そうでない人たちにとって、いわば彼岸に行ってしまった人のものであるので、理解できないものだとしても仕方なかろう。しかし、同書では、キリスト教が省略されたために、同書は、(野内良三氏の言葉を借りると、「超現実主義者」[1]としての感性を有する日本人)読者に対して、この世に対置される真の世があるという考え方が信仰によって強化されているという理解を、伝え損ねているのである。

この関係性を説明しないのは、21世紀初頭に生きる哲学者として、あんまりな態度である。なぜなら、この無視・切捨ての姿勢は、世の中の大多数の他者を、何らかの心の働きを有する個人として認めないことにもなるのだから。また、この省略は、学問としての存立基盤である一般性を掘り崩しかねないほどに、キリスト教という(内部に、相応の多様性を含む世界的宗教の)特殊性を認めないものでもある。ともかく、同書は、キリスト教を考察の対象から捨象したことにより、哲学の全体系という壮麗な殿堂の一翼(と主殿)を、完全に瓦解させたものとなっている※1。わが国でも、浄土宗や浄土真宗などの、信じる者が救われるとする大乗的な性格は、本稿に係るキリスト教の精神に共通すると認められるから、これらの宗教の信仰者にならば、私の言わんとすることが通じるかも知れない。

同書は、題名にもかかわらず、結局、哲学を学び直す上での妨げになる。同じ一日を費やすなら、ほかの本を読む方が断然良い。キリスト教を切り捨てた割に、甲田氏の著書には、思い切りの良さという評価点から見て、判断を失敗した箇所がほかにも見られる。たとえば、ハイデガーについて不満を挙げると、甲田氏の説明よりも、筒井康隆氏の『誰にもわかるハイデガー 文学部只野教授・最終講義』(2018年05月20日, 河出書房新社. 1990年講演の再構成)の方が、間違いを犯すリスクを取りながらも、結果として成功しており、よほど分かりやすい※2。ハイデガーに係る甲田氏の歯切れの悪さに接する限り、私には、甲田氏がキリスト教を捨象した意図を汲み取り切れないのである。

甲田氏は、ハイデガーに関連して、

人間だけが「死ぬ」

人生の終着点――。それは、「死」以外の何ものでもありません。生と死はひとつです。

私たちは186ページのヘーゲルの『小論理学』引用文から、生命の存在には最初から死が組み込まれている、ということを確認しました。〔…略…;以上、p.216〕

と表現するが、私は、この言葉使いに本当にイラッときた。生と死は、一続きのもの、一揃いのもの、一対のもの、一組のものではあるが、生があって初めて死があるという点で、不可逆であり、単なる一体のものではない。重点的に取り上げる7名の中にヘーゲルを指定しながら、生と死(の順序の大事さ)を論じない○○味噌ぶりは、頭が良く相手の愚かさを指摘しがちな哲学者という人種〔pp.53-54〕が用いた表現としては、随分と不用意なものである。先にも言及した書籍において、野内良三氏は、偶然について、

想えば、人間は自分の意志ではいかんともしがたい、誕生と死という大きな二つの偶然に支配された存在である。どんなに神に愛された人間でもこの二つの偶然からだけは免れることはできない。〔…略…;p.15〕[1]

と説明するが、野内氏の考察において、人間の誕生と死は、分かたれた形の二種類のイベントである※3

キリスト教への言及という点、宇野重規氏の『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ, 2013年10月20日)は、題名ゆえにそうせざるを得ないのであるが、ほぼ全編がキリスト教(権力)との競合と棲み分けの歴史を腰を据えた形で記しており、有用である。野内氏の文章とは異なり、甲田・宇野両氏の文章とも、段落読みできるものではない。それでも、全体の構成を比較の対象とすれば、宇野氏の書籍は、甲田氏の書籍に比べて、われわれが知るべき(と私が考える)内容に対して、偏りのない理解を与えるものである。宇野氏の文章では、一段落一主題も守られている。なお、面白いことに、哲学という分野においては、科学哲学・政治哲学といった学際的な分野に、なぜか(というか、これ自体が考究の対象になるはずであるが)、段落書きを徹底する著作者が多く分布しているように見える。


なお、本ブログでは何度も繰り返したことであるが、段落書きの有無は、学術研究者としての誠実さ・サービス精神の表れでもある。段落書きしてこなかった学術研究者にとって、この指摘は、消え入りたいものとして感じられるであろう(。なぜなら、段落書きは、読者の利便を増進するものであり、何なら、特定言語において、集合的知性を高めるための社会的装置ともなるためである。これ以上の論証は、本ブログを精査されたい)。私も、研究経歴の半分程度の間、この作法に気付かずに過ごしてしまい、ゴミのような文章を産出してきた以上、人のことをさほど非難できないが、この恥ずかしさに気付けたのは、自身に課したハック志向=エンジニア志向ゆえと思っている。また、気付いてからは、少なくとも周囲の人々に対しては、この作法を積極的に伝授してきたつもりである。段落書きできていない研究者は、所属する研究コミュニティにもそれなりの原因があるのだが、結局のところ、自身の努力不足と怠慢を、世界に向けて、後戻りできない形[2]で、示してしまっているのである。単なる書き損じのみならず、文章の並べ方でさえも批判の対象となるとは、現代は、真に面倒な時代ではある。けれども、言語集団としての日本語話者たちの生き残りを思いやるのであれば、これくらいの配慮は、書き手に当然求められるエチケットである。わが国の多くの「文系」の研究者は、ともすれば、情報流通業者に堕しがちなどと揶揄されるが、文章作法までを劣化コピーするとすれば、彼らは、社会防衛主義的な見地からすれば、真に罪深い存在というほかなかろう。

ところで、多くの個人は、人生を送る中、何かを契機として、死と向き合うことになろうが、その作業は、私を含め、結構な数の人々にとって、難事というべきであろう。この困難に対して、単独で立ち向かうことは、普通の人に可能であろうか。私たちは、この災難を何らかの方法でやり過ごさねば、どうにもならずに、死(とそれまでの生)がもたらす恐怖と不安に、囚われてしまうことになろう。また、愛する人を事故や事件や災害などで失った人は、何年経過しても、救われない気持ちとともに生きていくことになりかねない(。最近の私は、一人でいることの恐怖に立ち向かいかねた挙げ句、周囲の人々をも、この種の恐怖に直面させるような言動を重ねてしまっている。私自身は、相手にもよるが、私をその人の人生に組み入れ直すことにより、この巻添え被害を埋合せできるものと信じている。また、そうして欲しいと願っているのであるが)。

死に向き合うという困難は、究極的には、死ぬまでの間、その人が単独で向き合うしかないものであるが、しかし同時に、世の中には、この至上の恐怖・不安に向き合うための知恵が用意されている。たとえば、この困難に向き合うために、本稿でも触れたような、宗教の役割がある。保守思想は、この宗教や家庭の役目を重んじることができる。たとえば、キリスト教は、この困難を超えるために、父である神がひとり子であるイエス・キリストをあなたの元に遣わしたと説明する。保守主義からいえば、人生の困難を乗り越える上で、個人は、他人に重大な脅威を与えない限りは、宗教の助力を得ても全然構わないのである(。私個人は、特定の宗教の信仰を避けてきており、この点、具体的な宗教への勧誘は、意図していない。また、ここら辺の知識への投資は、不足気味であり、正確性すら保証しかねる。死に向き合う困難と対峙した(初期)近代の哲学者には、キルケゴールやハイデガーやニーチェがいるように思うが、この中で、ニーチェの主張は、私にはあんまりなものに思えてしまう。結局のところ、彼自身が自分の主張に押し潰されてしまったかのように見えてしまうからでもある)。


このとき、かなりの強引な展開だと自覚はするが、段落書きという切り口によっても、死に向き合うことの難しさは、明らかにすることができる。それは、西部邁氏の自死である。私は、『保守の真髄』(講談社現代新書, 2017年12月20日)を読み、西部氏の行動を評価しないようになった。なんと勿体なく、社会に迷惑を掛ける決定を下したのか、と思ったのである。正確には、その幇助者を通じてであるが。西部氏は、(一応、同氏の記述を尊重して、このように表現するが、)自死の過程において、覚悟の定まらない人物2名を相棒として選択したが、この決定は、結果的には、幇助者たちをしてイエスを知らないと三度述べたペテロのように振舞わせ、貴重な警察力を無駄にして、遺族を悲しませたり疑いの対象と見做すような報道によって、二次被害を生じた。『保守の真髄』は、長女に聞き書きさせたものである〔pp.10-11, pp.264-265〕が、それゆえか、私の中では、最も段落読みできるものとして感じられたのである。保守の真髄を実現する方法が「漸進改良主義」=「フェビアン主義」=「(カール・ポパーのいう)ピースミール工学」であるとするなら、同書は、西部氏が将来にわたり、読者に対して、より良質の書籍を供給できたはずの証拠として採用できよう。この事実にリアルタイムで私が気付かなかったことは、本ブログの座敷牢的性格ゆえに、結果に対して影響を及ぼさなかったはずであると断定できよう。しかし他方で、世の中のAチーム系学者に連なる編集者の一人でも、私の指摘したような評価を西部氏に与えることができていたならば、果たして何が起こったのであろうかとも、私は考えてしまうのである。私のポリシーの一つは、「勿体ない」と「リサイクル」であり、これは、明らかに、Bチーム的な理念・志向である。それでも、周囲の人たちの助力を仰いだ結果、西部氏の最後の業績がより良いものに進化したことを思えば、逮捕された人物たちは、なんと勿体ないことへの手助けをしたのか。私は、このように結論せざるを得ないのである(。中身そのものについては、結構な異論を感じるが、それにしてもである)。私は、だからこそ、自死なり自殺なりを容認しない。人は、生きている限り、何をなし得るのか分からないからである(。当然、殺人なり傷害致死なりも容認しない)。


※1 ただし、筒井氏の書籍の大澤真幸氏による解説は、「わかる人にだけわかる」と題されているだけあって、おそろしく人を躓かせるものに仕上がっている。良心と名声の双方を備えるキリスト者は、自らの宗教を大事に思うのであれば、大澤氏の記述の欠落を指摘して、それを悪意によるものか、無知によるものか、いずれかであるのか、と迫るべきであろう。私は、陰謀論者としての良心にかけて、この欠落の存在および攻め方を指南したことにより、自らの任を終えたものと思う。これ以上具体的に指南するには、私にも準備が必要である。また、ここら辺の考察は、私の実存と陰謀論者としての思索の双方に利益をもたらすが、この分野は、私の専門とは言えない。このために、誰にでも大澤氏に対する反論の機会が開かれているとしておいた方が、健全な競争と批判が生まれ、結果として、私のここでの指摘も、利益を得ると思うところである。

※2 ここでの表現は、キルケゴール『死にいたる病』[2]における、ヘーゲルに対する批判を利用した。

〔p.84〕

ほんとうに、誤謬のなかにいるということは、まったく非ソクラテス的なことにも、人々がいちばん恐れない事柄なのである。ここの事実を驚くべき程度において明らかにしている驚嘆すべき実例がある。或る思想家が巨大な殿堂を、体系を、全人世と世界史やその他のものを包括する体系を築き上げている――ところが、その思想家の個人的な生活を見てみると、驚くべきことに、彼は自分自身ではこの巨大な、高い丸天井のついた御殿に住まないで、かたわらの物置き小屋か犬小屋か、あるいは、せいぜい門番小屋に住んでいるという、実に恐るべくもまた笑うべきことが発見されるのである。たった一言でもこの矛盾に気づかせるようなことを言おうものなら、彼は感情を害することであろう。なぜかというに、体系さえちゃんと出来上がりさえすれば――それは誤謬のなかにいるおかげでできるわけなのだ――、彼は誤謬のなかにいることなど恐れはしないからである。

※3 もっとも、私からすれば、野内氏の論考は、咲く勢いがあってこそ散り際の儚さを感じられるという桜(ソメイヨシノ)についての考察が、人間一般に対する生と死の対比や無常観に係る記述に、十分に生かされていないように思えてしまう。その原因として、日本列島において生きることが相対的に容易であったという事実、その容易さが死に対する儚さを愛でるという姿勢を可能にしたという、和辻哲郎氏が指摘したような観点が、野内氏の論考では、見逃されていないであろうか。相対的に恵まれた生があってこそ、死の儚さに思いを致す余裕が生じるのではないか私は思う。また、、私生活において、他者がこの余裕を有しているのかどうかを考慮しなかったのではないかと、今更ながら後悔しているのである。


[1] 野内良三, (2008.8).『偶然を生きる思想:「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス 1118), 東京: 日本放送出版協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/000009491566
#同書は、冒頭のエッセイ風に見える部分まで、しっかり段落読みができるように作り込まれた文章である。

[2] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480082581/
#アマゾンへのリンクであるが、アフィリエイトはない。

〔p.138〕

〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。〔…略…〕それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。弱さの絶望者は、永遠が自分にとってどのような慰めをもっているかについて、まるで耳をかそうとしないが、このような絶望者も、それに耳をかたむけようとしない。しかしその理由は違っている。後者は、全人世に対する抗議なのであるから、そのような慰めは、まさに彼の破滅となるだろうからなのである。比喩的に言えば、それは或る著作家がうっかり書きそこないをし、その書きそこないが自分を書きそこないとして意識するにいたった場合のようなものである――けれども、実をいえば、それはおそらく誤りなのではなくて、はるかに高い意味では、全体の叙述の本質的な一部をなすものであったかもしれないのである――そこで、この書きそこないは、著者に反逆を企て、著者に対する憎しみから訂正をこばみ、狂気のような反抗をしながら著者に向かってこう言うようなものである。いや、おれは消してもらいたくない、おれはおまえを反証する証人として、おまえが平凡な作家であるということの証人として、ここに立っていたいのだ、と。




2018年7月27日14時32分訂正

一部の文言を訂正した。

2018年7月21日土曜日

(書評)今秋の自民党総裁選に係る偶然?の一致について

今朝(2018年7月21日)の『日本経済新聞』4面(13版総合3)は、「自民党総裁選へ号砲/首相「憲法改正、大きな争点」/国会が事実上閉幕」という記事で、(言及した順に)安倍晋三・石破茂・岸田文雄の三氏の動向を解説しているが、これに先立つ『文春オンライン』[1]と『プレジデントオンライン』[2]の記事は、石破氏と小泉進次郎氏の両名が共闘することで、小泉純一郎氏が総裁の座を射止めたときのような逆転劇が起こるのでは、と示唆している。私から見れば、石破氏と進次郎氏の政策体系は、安倍氏のものとさほど変わらない。経済については、石破氏は、4月、持続可能性を考慮しながら、徐々に経済政策を変更する、と述べている[3]に留まる。憲法改正に係る内容とタイミングについて、石破氏と安倍氏には、相違点が見られるようであるが、本稿では立ち入らない。進次郎氏は、父親とは異なり、原発に対する明確な反対を表明するには至っていないし、石破氏も安倍氏も、原発賛成である。現時点のわが国の安全保障を考慮する上で、とりわけ、ロシア国防省特別管理局長のイーゴリ・トカレフ大佐が核実験を誤魔化す方法に言及している[4]現在では、プルトニウム爆弾の材料となり得る核燃料物質を国内に確保できるという点において、原発賛成・反対以外の差は、些事というべきでもあろう。

面白いのは、佐々淳行氏が『私を通りすぎた政治家たち』(2014年08月30日、文藝春秋)[5]において、将来に期待する政治家(ステイツマン)として、安倍氏・石破氏・進次郎氏の三名を挙げているところである。佐々氏は、同書において、原発ゼロを唱える純一郎氏について、晩節を汚すものと評価している〔pp.79-80〕。表向きゴリゴリのタカ派と呼べそうな元・高級官僚である佐々氏を、仮に、両建てのいずれに区分するかを考えれば、当然、Aチームとなろう。この佐々氏がステイツマン、すなわち「権力に付随する責任を自覚している人」〔p.8〕として推奨するのが、石破茂・安倍晋三・小泉進次郎・橋下徹・長島昭久の五氏である〔p.273の章扉の上から順〕。ここに見る一致は、偶然のものなのか、文藝春秋社の編集担当ラインとの共同作業によるものなのか。決して、佐々氏の見識だけに由来すると断言しないところが、私の見解における最重要点である。

両建て構造を運営する人物らの息のかかったイヌたちが社会の要所を押さえている環境において、政治家としての決定を下さざるを得ない人物は、真に優秀であるならば、この構造を乗りこなすことを前提に、言動を注意深く選び取るものである。佐々氏によれば、加藤紘一氏は、国を潰す種類の政治屋(ポリティシャン)であるそうだが、私には、佐々氏に口を極めて非難されるほどとは思えない(。人格的な非難は、どの人がどの人に対して行うに応じて、第三者からの印象を大きく変えるものである)。加藤氏が防衛庁の参事官会議に初参加したとき、

〔p.108〕

「若いころマルクス・レーニンにかぶれないのは頭が悪い人です。それから六〇を超えてもまだマ〔p.109〕ルクス・レーニンという人はもっと頭の悪い人です」という発言をした。〔…略…〕

という※1。しかし、仮にも佐々氏が、私ほどにゴリゴリの陰謀論者であり、社会に対して両建て構造を乗りこなす術を伝えようとしていたのであれば、加藤紘一氏に対する佐々氏の筆誅のあり方は、随分とマイルドになっていたであろう。というのも、この加藤氏の発言が本当であれば(、また私は、その内実を確認するのが億劫なので、このまま引用部分を信じてみるのだが)、この発言に対して、私なら、「百歩譲って、敵の論理を内在化しておくこと自体は有用であるにしても...」くらいの鷹揚さで、さりげなく加藤氏の発言を誘い受けするものであると匂わせておくからである。直情型の非難を加えることが、果たして、(元)インテリジェンス・オフィサーを自認する人物にとって、また、その経歴自体がわが国のトップ・インテリジェンス・オフィサーならびにトップ・エリート官僚を体現する人物にとって、相応しい振舞いであるのか。私は、佐々氏のこの記述に対して、随分と稚拙なものだなと感じてしまうのである。このように断定的な記述によって、読者に対して、逆に反発心と穿ち読みへの機運を覚えさせることが佐々氏なりの優しさであれば良いが、庶民と呼びうる程度に低い階級の多くの公務員たちは、佐々氏の記述を、容易に読み誤るのではないか。

佐々氏ほどに書けば売れるはずの人物であれば、もう少し、誰が読んでも立ち所に理解できるように、両建てを乗りこなすためのヒントを散りばめるべきであったろう。両建てを乗りこなすことは、日本国民にとって、今でも、相当に遠い目標なのだから。両建てのイヌと見える人々を摘示することは、まま大事ではあるが、普段のマスコミ情報だけでも(、私がまあまあ良く指摘できていると自認するように)、外形的にイヌと見える人々を嗅ぎ分けることは、そこまでは難しくないはずである(し、ほかの陰謀論者と呼べる人々も、それだけの結論に自力で到達していよう)。情報コミュニティの先達・第一人者を自認する人物であれば、そのような些末なアンチョコの類いよりも、より重要な心構え、すなわち、イヌと見える人たちの内心がいかなるものであるのかが、マスコミという情報中間業者の存在ゆえに、庶民にはなかなか読めないことをも指摘し、誰にでも分かるように、現時点のマスコミ=情報流通業者を的確に排除するための知恵を、後進に与えようと努力すべきではないか。ここに指摘するような、情報を取り扱う人物のプリンシプルを教示しようとする努力こそは、ノブレス・オブリージュというものでないか。ただ、ひょっとしてひょっとするとではあるし、私は、佐々氏が自身で訴えたように私費で本業を回す〔p.135〕ことにも賛成しないが、佐々氏は、同書の脱稿以後、私のような三下に非難されることまでを予期しながらも、汚れ仕事に徹しようとしているのかも知れない。しかし、重ねて指摘しておくが、私としては、この書籍を読み解けるだけの人物が、どこにどれだけいることなのやらと、随分と心許なく覚えてしまうのである(。しかも、本稿は、インフラこそ、Google様のおかげで無償で運用できているのであるが、現時点では、一文の得にもならないものである。)。


#なお、すっかり私事めいた記事が続き、申し訳なく思い、本稿を記してみた


[1] 安倍晋三首相の総裁選3選の唯一のリスクは小泉進次郎氏による石破茂氏支持の可能性か|ニフティニュース
(文春オンライン、2018年07月10日23時50分)
https://news.nifty.com/article/item/neta/12113-054764/

  • 安倍首相は出身派閥の細田派、麻生太郎氏の麻生派、二階俊博氏の二階派を固めたという
  • しかし、首相は焦っているらしく、旗幟を鮮明にしない岸田文雄氏に激怒したらしい
  • 首相の総裁選3選のリスクは小泉進次郎氏による石破茂氏支持で、焦りの淵源だという

[2] 安倍総裁3選を阻止するただひとつの方法 | プレジデントオンライン
(プレジデントオンライン編集部、2018年07月16日)
http://president.jp/articles/-/25637?page=3

17年前を知るベテランの自民党関係者の間では「当時の橋本氏と今の安倍氏が似ている」というささやきが漏れる。橋本氏は、永田町内の「数の力」では圧倒的優位に立っていたが、熱狂的な支持はなかった。今の安倍氏も「ほかにいい人がいない」という消極的な支持に支えられている。別に魅力的な選択肢が出れば形勢が一気に変わるかもしれないのだ。〔#記事終〕

[3] 財政・金融政策の激変策は採らない=石破元自民幹事長 | ロイター
(竹本能文、編集:田巻一彦、2018年04月06日15:02)
https://jp.reuters.com/article/ishiba-financial-policy-idJPKCN1HD0KD

自民党の石破茂・元幹事長は6日都内で講演し、「(首相が)石破になると消費税を上げ、金融緩和をやめて、世の中大不況になると言う人がいるが、そのようなことは言っていない。激変するような政策を採って良いとは思っていない」と述べた。政権運営への意欲を示すと同時に、アベノミクスの経済政策に急激なブレーキはかけない意向を示した。

同時に「大胆な金融緩和も機動的財政出動も、未来永劫続くものではない」と述べ、政策の持続可能性を重視した。

[4] 核保有国はどうやって核爆弾の実験を隠しているか 露国防省が明かす - Sputnik 日本
(スプートニク日本、2018年05月11日21:58)
https://jp.sputniknews.com/world/201805114869300/

[5] 佐々淳行, (2014.8). 『私を通りすぎた政治家たち』, 東京: 文藝春秋.
http://id.ndl.go.jp/bib/025647994




2018(平成30)年08月13日追記

※1 加藤紘一氏のマルクス・レーニンへの評価は、ウィンストン・チャーチルによるとされることもある、社会主義に対する金言[1]をもじったものかも知れない。


[1] Unquotes - MarkShirey
(2018年08月13日確認、Mark T. Shirey)
https://sites.google.com/site/markshirey/unquotes
なお、マーク・シェリー氏のブログの存在は、ケイト・カルザース氏のブログ経由[2]で知った(。両名ともカタカナ読みとして正しいか、心許ない)。

[2] Alleged quote by Churchill: on being a socialist or conservative | Aide Memoire
(Kate Carruthers、2005年02月11日)
https://katecarruthers.com/2005/02/alleged-quote-by-churchill-on-being-a-socialist-or-conservative/

2018年7月16日月曜日

(メモ)『ヘーゲル法哲学批判序説』を陰謀論者として読む(1)

まったく、ドイツの歴史が自讃しているのは、歴史の領域でどんな国民もまだやったこともなく、今後も真似することもあるまいと思われるような動きである。すなわち、われわれは近代諸国民と革命を共にしないで、ただ復古だけを共にしたのであった。われわれのところで復古がおこなわれたのは、第一に、他の諸国民があえて革命をおこなったからであり、そして第二に、他の諸国民が反革命の厄にあったからであり、はじめはわが国の支配者たちが恐怖を感じたからであり、次にはわが国の支配者たちが恐怖を感じなかったからである。われわれは、われわれの牧者を先頭に立てて、ついにたった一度だけ自由の社会に加わったのであるが、それは自由の社会のであった。

カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844, 岩波文庫1974年版, 城塚登訳, p.74)は、冒頭のような段落を含むが、このマルクスの記述は、彼自身を稀代の二枚舌と解釈できるようなテクストをほかにも残していることを考慮すれば、何らかの誘い受けであると読めてしまうものである。というのも、その後のわが国は、現に、明治維新という名の王政復古を成し遂げたからである。どこから出版のカネが出ていたのかを考慮すれば、この種のアジテーションは、常に、諸刃の剣として機能する。あらゆる知識・情報は、大破壊を企図する側にも、その抑止を願う側にも、活用可能なものとして開かれている。

明治維新の流血の度合いの少なさは、流血に対する当時の世相のスタンダードを考慮すれば、やはり特殊なケースと考えても良かろう。諸外国に完全な支配を許さなかったこともまた、当時のわが国において、マルクスの知性の水準と同等の集合的知性が発揮された結果と解釈できる。当時の知性と同等の悪知恵を発揮することができれば、わが国もまた、TPP11なり何なりを乗りこなすことができるやも知れない。が、現状では、その時代を見ることが私にも叶うのか否か、甚だ疑わしいことである(。何十年かかることやら、という意味である。念のため)。

私は、(都内に出掛けるのが大変という)現在の住環境を前提に、古典をダラダラ読みつつあるが、その作業を進める度に、陰謀論とされる諸説までを視野に含めて、真剣に過去の書籍を読み解き、その成果を世に問う日本語著者の人数の少なさを感じてしまう。もっとも、ポスト真実時代において、陰謀論を真正面から論じて否定するという方法論が通用しなくなったためか、現在の陰謀論否定論のトレンドは、相当に狭い分野の(歴史学などの)研究実績を梃子として、陰謀論の諸説全てを否定するという、誇大理論の形式を応用するものへと移行したように見える。これは、譬えて言えば、「私は林檎について研究して社会に認められた。林檎は果物であるので、私は(存在もしていない)蜜柑泥棒を許せない。」と主張するかのようなものである。このようなレベルの藁人形論法のおかしさは、真っ当に陰謀論とされる諸説を検証する人々には、とっくにお見通しであろうが、Googleアラートは、まあまあの人数のアホが、マスコミのヨイショに騙されて、この種の誤謬が流通していることを報告してくる。この点、わが国では、(大日本帝国=ナチ連合の衣鉢を引き継いだ)Aチームの方が、陰謀論を道具主義的に利用している分、陰謀論とされがちな諸説の本質に迫る理解を有していると言えよう。他方、2018年現時点のわが国において、Bチーム側マスコミの陰謀論に対する理解は、浅薄で役に立たないものである。両建てを乗りこなす上で、マスコミのヨイショと偏向報道は、明らかな障害である。

2018年6月23日土曜日

(一言)かなりの文章は段落書きできたりする

#本ブログでは私事を公開すべきではないのかも知れないが、座敷牢のような環境ゆえ、構わなかろう。

ここ一ヵ月あまり、私は、断続的に、普通の人なら段落書きしないであろう種類の文章を、段落書き※1しつつ推敲していた。この作業は、自分にとっての謎を解くためのものでもあり、自身の生き方を定めるために必要なものでもあった。抽象的なことしか書けないが、この作業引き起こ結果は、私の現時点の道の行先を、間違いなく決めることになる。ただおそらく、私の望まない方向へと話は進み、本ブログは、めでたくも?低空飛行を再び続けることになるのであろう。私は、周囲の方々と呼んで良いものかは分かりかねるが、ともかく、自分以外の他者に余分な迷惑を掛けることを申し訳なく思いつつ、自ら望んで、この作業を進めてきた。また、私は、望まない展開を迎えることになることを恐れながらも、そのような展開を強く予期してもいて、その結果を引き受けなければならないことを、悲しみながらも理性を保ちながら覚悟しようと努めている。

この作業経験を通じて、私は、色々な文章が段落書きできるのではないかという確信を、ますます深めることとなった。本ブログの他記事のように、今までも、私が表現しようとする内容は、複数の意味合いを同時に含むものが多かった。しかし、今回の作業は、とりわけ、両義的な内容を正確に表現することが求められるものであった。この点、平木典子氏の『アサーションの心 自分も相手も大切にするコミュニケーション』(朝日新聞出版、2015年4月25日)は、段落書きされてはいないが、非常に参考になる書籍ではあった。アサーションとは、自分も相手も独立した人格であることを心の底から認め、自身の権利も相手の権利も尊重する姿勢を根本に据えた、相手との関係を調整・調停する※2ためのコミュニケーション技法である。自身と相手の両方を大切にする姿勢は、アサーティヴという形容詞で表現される。私がこの状態を志向し、葛藤に陥った自分自身の感情を順々に説明しようとした際、段落書きは、とても有用な手段となった。実例は、私事ゆえに挙げることができないが、冒頭の段落で、その一端を示せるように努力してみた次第である。ただ、この考え方をたとえ的確に理解できたにせよ(、そして私は、まだまだなのだが)、上手に相手と心を通わせられるかどうかは、当然、自分だけでなし得ることではない※3

他方、かなりの文章が段落書きできるもので、しかも、段落書きによって文章の意図が損なわれないとすれば、段落書きされていない論文・説明文は、ますます、読み手の利便性を考えていないものであることにもなろう。読者の利便がいかなる要素から構成されるのかを徹底的に考察していないと指摘できる事例として、大澤聡氏らの『教養主義のリハビリテーション』(2018年5月15日、筑摩選書0160)の前文を挙げることができる。この文は、論文の国際的標準にそぐわないレベルである。これを世に問うて恥ともしない彼(ら)が、リーダー・フレンドリーというコンセプトを批判する〔p.15〕ことは、天に唾する振舞いである。段落読みできない文章は、明らかに顧客=読者へのサービス精神に欠ける。自らの能力不足から生じた欠陥を棚に上げ、教養主義の大家(たいか)の口を借りる形で顧客重視の姿勢までを批判することは、ますます、教養主義を笠に着る連中への憎悪を煽ることになろう。


おまけ;もはや研究者と呼べない今の私にとって、ある知識の重要性は、その知識の新規性には左右されない。陰謀論者の指摘する事柄は、大抵、ある人々から※4見れば、枯れた知識と呼べるものである。それでもなお、現代社会の実相を理解しようと志す研究者は、陰謀論と呼ばれる種類の主張の含みを、一度は真剣に検証し、自身の進む道を選び取る必要がある。この作業を経た上でも、イヌの道に進むという選択肢は、十分にあり得よう。現在のわが国は、働かざる者食うべからずの意味を狭く捉えがちであって、イヌの道は、私だけでなく多くの他人が羨むような、カネと栄達を同時にもたらすのだから。この主張の反面、本稿を含めた本ブログでの作業は、知識産業の亜種としても評価されるものではない。ただ、そのことを最初から予測していたからこそ、このブログそのものは、マネタイズしないのである。


※1 念のため、段落書きとは、パラグラフ・ライティング(paragraph writing)の訳語で、一段落一主題、主文(トピック・センテンス、ヘッド・センテンス)に段落を要約した文を置き、残りの段落内の文で話題を無駄なく漏れなく構成する書き方である。このように文章を組むと、読者は、段落頭の文だけを拾い読みしても、文章全体の大枠をつかむことができる。この技法について触れた日本語書籍は、次第に増えつつある。ただ、ある言語における読者の利便という集合的利益の観点から、この段落書きを書き手に求めるよう強く主張する人々は、相対的に多くはなさそうである。

※2 前掲の平木氏の著書の内容そのものは、自身の最近の複数の体験を通じた限りでは、ツボを押さえたものである。社会生活において、自身に沸き起こる複数の葛藤する感情を余すところなく表現することは、なかなか難しい。しかし、素直に感情を表現することを自身に許し、その上で自身の発言に対して責任を持つという考え方は、この難しさをかなりの程度まで軽減してくれる。段落書きは、このような両義的な葛藤を通り良く表現していく上で、大変便利な執筆技法である。

※3 この考え方は、80年代以降の構築主義やその前段階に当たるラベリング理論で示されてきたものであるし、現代のセキュリティ研究を貫く主題でもあるので、このように主張しても構わないであろう。両者の願いに葛藤があるような場面での対面的コミュニケーションについては、相手もそうしてくれるという相互尊重への期待があればこそ、繊細な表現も可能となる。ただ現実に、今日(2018年6月23日)の私は、その域まで達することができずに、周りにご迷惑を重ねてお掛けしてしまった。本稿は、このお詫びをお届けしたい方々が辿り着かないであろうこの辺境の地において、お詫びを永久保存するためにも編まれたものである。

※4 少なくとも近世から現在まで、人類の大多数を抑圧してきた社会構造と、これを運用するための勘所は、ある地位の人物たちにとっては、自明とも呼べる知識であろう。しかし同時に、この知識があまねく人々に解説され、得心されなければ、いわゆる99%の人々は、団結することなく同類相食むだけに終わるであろう。人間の本性には、同胞意識と利己性が同時に備わる。この両義性は、圧政的な社会構造に進んで奉仕し、学者としての倫理に悖る行動によってでも立身出世を求めるイヌたちを産むという危険を現にもたらしている。ここ半年ほど、とみに陰謀論の語を脈絡なく・必然性なく用いるニューフェイスが増加しているのは、現在がエージェントの世代交代の時期に当たるためであろう。




平成30年6月24日訂正

大意は変えていない。訂正部分を淡赤色で示した。

2018年3月7日水曜日

(書評)大抵の大卒者は沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』を読むべきである

沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』[1]は、岩波ジュニア新書であるが、大半の日本人が一読すべきであろう。論文の要件(インテグリティ)、事実と意見の区別、事実の収集方法、自説の整理方法、文章作法(パラグラフ・ライティング、段落書き)、ゼミへの参加と指導、といった基礎的で網羅すべき項目が、コンパクトにまとめられている。ある日本人が大学を卒業した実力があると主張するためには、同書に示された内容を修得している必要があろう。とりわけ、商業雑誌に良く見かけるような、体裁の乱れた文章を書いている多くの「研究者」にこそ、熟読してもらいたい。

もっとも、新聞を重要な情報源とすべしとの第2章第2節は、巧妙なウソとして誤読される可能性を持つ内容となっている。端的には、

しかし、新聞は、ジャーナリズムのルールに従って、事実と認めてよいと記者と編集者が判断した事柄のなかから、人びとに伝える価値があると認められるものを選んで記事にしています。〔…略…〕

という記述〔p.46〕は、現時点の典型的「ジャーナリズム」に対する誤解を避けるためには、「ジャーナリズムのルールなるものが金主の意向を反映するあまり、伝える価値のある事実を欠落させていることもある」旨の記述にまで、非難の調子を強める必要がある(。もっとも、この書籍に対して、ここまで啓蒙的な役割を求めるのは、期待し過ぎというものかも知れない)。

以上に見たように、新聞に係る記述の恣意性は認められるものの、沼崎氏の書籍は、たとえば、木下是蔵氏の『理科系の作文技術』[2]と比べても、段違いに有用である。私がかつて大学の学部生であった頃(平成6年度)、木下氏の著書は、大学生協に平積みにされており、私は、推されるままに同書を購入した。その後、同書のおかしさに対して、最近まで気が付かずに過ごしてしまったが、仮に当時、沼崎氏の書籍に先に触れることができていたならば、文章作法については、無駄な努力をせずに済んだかも知れない。というのも、木下氏は、段落の重要性について触れてはいる〔4章〕ものの、同書自体は、段落書きが徹底されていないからである。木下氏は、実のところ、段落書きの効用を十全に考察してはいない。というのも、パラグラフ・ライティングされた書籍は、速読に不慣れな読者の読書スピードを増加させ、結果として彼らの利便を増進するからである。段落書きされた文章は、この点、消費者本、消費者主権主義である。木下氏は、前掲書の第1章で主張していたほどには、読者の都合を執筆時に考慮していなかったと批判できよう。

木下氏の著書は、案外無視できないほどに広範な負の影響を、日本語論壇に与えているやも知れない。稚拙な文章の書き手が偉くなり、しかも多数派を形成しているとき、ろくでもない文章を読み落とした責任は、読者の側に押し付けられてしまう。読者が作品に不満を持っても、作品が低質であるとの認識が共有され、これらの作品を超えようとする良質な書き手が現れなければ、言論市場は変化する機運を持たないであろう(。この点、文芸作品の質には、恐れ入るばかりである。面白い作品が市場に溢れている)。木下氏は、段落書きの効用を将来の書き手に分かりにくく伝えたことにより、思わぬ負の影響力を日本語環境に対して発揮してしまったが、もはやこの世にいない。遺族にとっても出版社にとっても、売り続けることしか、この書籍から利益を引き出す方法がない。ここに、学術書についてのボトルネックがある(。この話は、ノンフィクションやエッセイについても、該当しうる)。

賞味期限が存在するにもかかわらず、著者によって引導が渡されなかった書籍は、ゾンビのようなものである。50年前なら50年前の事情を読み込んで(、一部に見られる表現によれば、「情報を抜いて」)、その書籍に当たれば良い。当時の事情を調査する必要のある学者やジャーナリストであれば、それらの書籍にも、遺物としての一定の価値を認めよう。しかし、商業原理ゆえに賞味期限切れの書籍が売り続けられるとすれば、ここで文章作法について見たように、日本語環境全体を汚染するという思わぬ副作用を生む。汚染された環境は、汚染された書き手を再生産する。汚染された多数の書き手は、特定言語の人間社会を停滞へと陥れる。この自家中毒は、ゾンビ・パンデミック(大流行)と呼んで差し支えないであろう。例外として、ビジネス書やソフトウェアの解説書、自然科学に関する書籍が挙げられよう。これらの書籍に賞味期限が存在することは、ほぼすべての読者に理解されているであろうからである。言論環境までを考慮したとき、出版社は、自身のビジネスに後ろ指を指されたくないのであれば、後継者の発掘と指導までを含まなければならないのかも知れない。この点、残念ながら、日本語という情報環境は、ゾンビ・アポカリプス(黙示録)後の世界にある

木下氏のダメ紙上講義の瘴気に当てられた実例としての私にも、読者としての責任のいくらかはあるが、木下氏の書籍を長く流通させた社会的構造に対しても、多少の恨み言をぶつけても構わないであろう。というのも、最近、エーリッヒ・フロム氏の著作を改めて能動的に読み進めてみるにつれ、『自由からの逃走』やその続編にあたる『正気の社会』については、段落書きが徹底化されてはいないものの、(木下氏の著書に先立つ)中後期の著作においては、エッセイであっても、完全な段落書きが実現されていることに気が付いたからである。教えてもらっていたならば、明らかに気が付けたであろう、という程度の明瞭さである。通常、私は、新書をベタ読みするのに2時間程度を要していたが、同程度の分量である『反抗と自由』などは、15分くらいで段落読みできるようになっている(。もちろん、飛ばし読みであるが、的確に飛ばし読みできるようになったと自覚できている)。

パラグラフ・ライティングという文章作法を信用することは、二点の理由から、リベラル的であると言える。まず、この言論システムを信頼することは、個人の野放図な論説の制作という自由を制限するが、システムに対する信頼そのものは、社会契約説を参照するまでもなく、リベラルであると言える。次に、論説における段落書きは、「この作法を知る読者」すなわち他者を思いやることにつながるから、ロールズ風のリベラルでもある。パラグラフ・ライティングが言論界で貫徹されていれば、言論人同士の誤読・誤配は少なくなろう。また、つまらない外野の声を雑音化することにも役立とう。「つまらない外野」の中には、文章作法のなっていない論者も含まれるということになる(が、そこは、論者自身が修正すべきことである。誰でも発信可能な時代において、「知識人」という旧来の権威が相対的に無力化されることは、避けられない)。

他方、日本のように、公用語の影響力が自国内に限定された国家においては、段落書きされた文章表現は、社会集団が効率よく情報を吸収できるという観点から、社会防衛主義的であると言うこともできる。わが国の事情は、ドイツやイタリアといった、遅れてきた帝国主義国家においては、共通するものであろう。旧植民地においては、高等教育が英語で行われる状態が標準的となっている。皆が統一された読書術・文章術を修得していれば、文章を効率よく、かつ的確に理解することが可能となり、結果、議論の正確性も向上しよう。そうであるべきところ、しかも日本語論壇に舶来ものをありがたがる風潮があるにもかかわらず、なぜか、文章作法だけは、未熟な状態に留まっている。自称「保守」や「国家主義者」の著者の大半が段落書きできておらず、その理由についても言及していないことは、社会防衛主義者から見たとしても、お粗末な事態である。この事態は、「保守」や「国家主義者」の大半がマウントを取りたいだけの権威主義者に過ぎないのではないか、という疑いをも抱かせる材料でもある(。もちろん、本稿は、「正しい知識」という観点からのマウント・ポジション狙いのものである)。

私は、効率的かつ効果的な読書体験を、日本語話者・日本人の生き残りに役立つものと考える。民族のサバイバルには、非常に広範な分野に散在する知識を集成し、知恵(知性)へと変化させることが必要となる。段落読み・段落書きは、各人が実践すれば、社会において、その作業効率が指数関数的に高まるという集合的効果を生じよう。また、段落書きされた文章は、国際秘密力集団の手口に通暁した上で、日本人に対して的確な助言を提供している人々の所在を示す手掛かりとなるやも知れない(。敵方もパラグラフ・ライティングされた書籍で効率的に学習している以上、民族独立の意志と知識との両方を兼ね備えた人々が、その知恵を伝達しない訳がない)。

ただし、読書体験の向上した社会に何が生じるのかは、私には分かりかねることである一方で、羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』[3]は、この帰結に対するヒントを与えているような気がする。同書は、ゾンビ物の例に漏れず、群像劇となっている。そのうちの一人、ビジネスマンの「浩人」は、映画を早送りで見るといった「時短」を習慣とする。彼は、ゾンビ映画を時短で見た後、ネットで他者の感想を検索・確認した上で、自身の感想を大勢のものへと修正する。挙げ句、関連事項を次々と検索し続け、時短で節約した45分間を浪費してしまう〔p.73〕。この先は、ネタバレとなるから、オチは、同書に譲ることとしよう。


[1] 沼崎一郎, (2018.1).『はじめての研究レポート作成術(岩波ジュニア新書865)』, 東京:岩波書店.
http://id.ndl.go.jp/bib/028725437

[2] 木下是雄, (1981.9). 『理科系の作文技術』, 東京:中央公論社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000001522014

[3] 羽田圭介, (2016.11). 『コンテクスト・オブ・ザ・デッド = CONTEXT OF THE DEAD』, 東京:講談社.
http://id.ndl.go.jp/bib/027697574




2018年7月27日20時27分訂正

一部の表現や誤記を訂正した。

2018年1月28日日曜日

(メモ・書評)トランプ氏はダボス初登壇であった

とは、BBCワールドの『デイトライン・ロンドン』(2018年1月27日23:30~00:00)の特派員ヘンリー・某氏(東洋系の男性)のお話であり、America Firstではあるが孤立主義ではないとも解説していた。トランプ氏の登壇は、ビル・クリントン氏以来、アメリカ大統領として、18年ぶりであるともいう。トランプ氏は、世界で最も富の集積する都市の不動産王の一人であり、父親の代からの不動産業を大きくした二代目実業家である。この経歴を考え合わせれば、ダボス会議のアウトサイダーから見れば、トランプ氏がダボス会議と関係を有してこなかったこと自体、希有なことであると言えるように思う。この点、オバマ大統領もまた、上手く逃げを打ってきたのかも(2017年2月3日)知れない(。今年はどうなのだろうかという疑問に分かりやすく答えてくれているマスメディアは、予想通り、ぱっと見、見当たらない)。子ブッシュ?あまりにも戦争屋のイヌっぷりが甚だしいので、ダボス会議の参加者全員の印象を悪くするという判断があったのでは、と考えることができる。平和のために開催されているというダボス会議の建前もあろうけれども、現実に日本語を喋る戦争屋がたっぷり参加している以上、この建前は、全然通用していない。

ダボス会議については、現在では一応と呼べる程度に低レベルであり、最早メッキが剥げて久しいが、良好なイメージが維持されるように、各種のイメージ操作が行われている。その証拠の一つを引用しながら解説してみよう。ダボス会議の偽善性はバレバレであるから、そのような証拠を挙げる必要自体がないのでは?と思う向きもあるかも知れない。しかし、脱構築という作業は、社会科学において発明された永久機関のようなもの(、果てしなくネタを生産可能な方法論)であり、単に文章を引いて「こいつは庶民の敵だと思うのだけれども、皆、どう思う?」とだけ記すことがわが国の著作権法によって許されない昨今、どうしても、必要な作業でもある(。事実をメモして、同時に、自分の意見をたるものとして提示するという作業が不可能な点で、著作権法は、真に具合が悪い。なお、脱構築という用語自体を陰謀論者としてネタ気味に利用していることも、否定はしないが、ロスコフ氏の記述を欺瞞溢れるものとして誤読してみせる作業は、脱構築の亜種ではあろうとも思うところである)。


クリントン政権の商務省・国際貿易担当副次官からキッシンジャー・アソシエイツの取締役へと転身し、多数のグローバル・エリートとの交流経験から『超・階級』(2008=2009、光文社)を著したデヴィッド・ロスコフ(David Rothkopf)氏は、序章において、ダボス会議の様子と役割を叙述するが、それら(の記述)は、きわめて誘導的・欺瞞的である。まず最初に、ロスコフ氏は、その出席者たちについて、元アメリカ政府高官の言葉を借りて、

「おそらく仲間としての一体感が生じているのだろう。彼らは自国民への忠誠心よりも、ダボス会議とそこに参加する同族達への忠誠心のほうが強いのだ」〔p.44、序章、ページ数は訳書〕
とは記す。しかし、私は、この記述を、ロスコフ氏が自身の客観性を高めるべく用意した、一種の藁人形(論法、自分たちが打ち倒せるレベルの仮想敵を用意して、それを打ち倒してみせる論法)であると理解する。同時に、私は、この記述から、批判者を明記した場合に批判者に対して、ダボス会議の主催者連中から加えられる報復(の大きさ)までを、読み取ることができるように考える。批判者が、物理的に口封じされたり、今後の彼(女)のビジネスへの影響が生じることをロスコフ氏が恐れたために、匿名とせざるを得なかったと考えられるのである。この点、図らずも、ロスコフ氏自身、この内輪の批判者を仲間として認知していることも暴露してしまっている。仲間ではないから損害を与えて報復されたくないという意見もあり得るが、ま、ダボス会議の部外者(である私)が判定して記述したことが、書籍の読まれ方の出力としては、全てである(という具合に話の流れを切断できるのが、構築主義の便利なところである、と私は勝手に思っている)。

ロスコフ氏は、ダボスに批判的な外部の人々へと直接接触した話を示さずに、他方で、その参加者については、一方的に人間味溢れる人物として描き出す。ロスコフ氏は、ウゴ・チャベス、エボ・モラレス、ウラジーミル・プーチン、マフムード・アフマディネジャド、イェルク・ハイダー、ジャンマリ・ルペン、ルー・ドブス、パット・ブキャナンの各氏の名を挙げ、彼らが

富と権力を持つ者たちがグローバルな陰謀組織を形成して、祖国との関係を断ち、私利私欲のためだけに行動することによって、世界に脅威をもたらしている、というような話をしょっちゅう持ち出す。〔…略…〕これらの人々にとって、ダボス会議はたんなる経済会議ではなく、敵の本拠地であり、グローバル化を指揮する将軍たちが世界征服を企んでいる場所なのだ。〔p.47〕
と、被害妄想気味の扇動者であるかのように彼ら批判者を描く。もっとも、自らを含むダボス会議の参加者たちをうまく戯画化できているという点では、(このように、あえて自分たちを悪く描写するとともに、批判者の攻撃性を際立たせることによって、あくまで批判者の内部のみで批判に示された負のイメージが共有されているかの印象を読者に与え、読者を自分たちの側に引きつけることが期待できるという意味で、)再帰性を良く理解している。さすが、キッシンジャーの弟子、(投資分野において、再帰性の語を主唱してきた)ハゲタカ・ファンドの首領である(あった?)ジョージ・ソロス氏に連なる一味の広報官である(。タイ・バーツの通貨危機におけるソロス氏の動きを、ハゲタカと呼べない訳はあるまい)。この一方で、「霊感に満ちた作品で知られる〔p.60〕」パウロ・コエーリョ氏の口を借りて、その参加者を

「ここにみんなが集まっているのは、ケーキを等分して、その分け前をもらうためだという、ダボスについての古典的な神話がありますが、私はそうは思いません。

この十年、毎年参加しているからでしょうが、ダボス会議には二つのレベルの人々が来ているということを、これまでになく強く感じるようになりました。一つはビジネス・レベルの人々です。彼らについて私はよく理解できていませんが、〔…略…〕。しかし、もういっぽうには第二のレベルの人々、すなわち人間レベルの参加者がいて、その役割は年々大きくなっています。彼らは会議の参加者に一種の建設的な自覚を促すのです。〔p.57〕

〔…略…〕

〔…略…〕たしかにこれはエリートの集まる会議です。しかし、みんながこうして集まっているのは世界を統制するためではなく、じかに会って相互理解を深めるためなのです」

ミルズやウェーバーのような社会学者なら、まさにそのような人間的な対話こそが集団の結束を強め、まとまりのない同輩たちの集まりをそれ以上のものに変化させるのだと主張するだろう。〔…略…〕その点について問いただしたとき、コエーリョはちょっと困ったような顔をした。彼が口ごもったのはおそらく、ダボス会議ではいくつかの分科会や委員会のメンバーになっているからで、反グローバリストや陰謀論者からの批判を和らげたいという考えがあるのだろう。正規の一員として、ダボス会議は秘密組織などではなく、ただ個人のつながりがあるだけだと言いたいのだ。〔p.58〕

と擁護する。私からすれば、コエーリョ氏は、自身を金持ちたちの「弾よけ」であることを自身が認識していないかのように説明できるという点で、立派に国際秘密力集団の走狗の役割を果たしている(。人ごとのように話すという、「東大話法」の規則8が該当する。私もこの方法を意識的に利用しているが、この方法に意識的であることを示すことこそ、社会的事実に係る観察可能性を維持する上での極意であるとも思っている。私のように考えれば、私のように考えることができる、と言うのは、トートロジーであるが、これが構築主義というものの極意である。「オマエの中ではそうなんだろう」というアレを打ち立ててみせるのが、構築主義の悪用の究極形態であろう)。アンジェリーナ・ジョリー氏もコエーリョ氏と同様の役割を果たしてきたが、芸能人は、ダボス会議において、寄付金の流れを自分たちの善意および正義感の適う方向に振り向けさせることで自己満足感を高めると同時に、ダボス会議が社会に貢献しているということを金持ちたちの代わりに主張する、という役割を与えられている。このことは、個々の事情や意見を捨象して、外形的にとらえれば、否定しようのない事実である。これこそが、コエーリョ氏が信じたいとする従来の「システム〔p.61〕」を、アウトサイダーから見たときの評価である。また、対外的にダボス会議の立場・建前を説明すること自体によって、彼ら芸能人は、自分たち自身の後ろめたさをも解消する機会と、自分たちの名高める機会の双方を得ることができる。諺で言えば、虎の威を借る狐であり、スネ夫症候群ということになろうが、これ自体が売名・つまりはビジネスチャンスにもなるという点で、真にいかがわしいサイクルが形成されている。このようなシステムにおける意志決定においては、インターネット社会、いや、SNS社会を迎えた現在においても、彼ら芸能人が多くを搾取する顧客でもある「民主主義」各国における選挙民の意志は、何ら反映されていない。コエーリョ氏やジョリー氏を選挙民が大変に嫌っているとしても、彼ら選挙民は、経済システム内部において広告業者が自分たちの取り分を差っ引いていくことを通じて、彼ら芸能人の上がりを負担させられている。この「搾取される側」の意志決定過程からの排除こそが、ナショナリストによって汲み上げられる不満の中心にある。にもかかわらず、ロスコフ氏は、また、コエーリョ氏のインタビューは、この論点について触れようとはしない。「オマエらが勝手に世界の形を決めるな」という各国の「忘れられた階層」の平等意識と不満は、厳然として存在する。まさか、2018年現在、マスゴミのいうこの事実を、当のダボス会議の参加者たちが認めない訳にもいくまい。ロスコフ氏は、自身の記述から、この庶民の不満を完全に欠落させながら、ニュージャージ出の自分自身を、パンピーの側にいるかのごとく描こうとする。わが国の国民で、竹中平蔵氏を庶民の代表と考える人々が、どれだけいるのか。竹中氏が国会議員として獲得した票は、庶民の代表としての期待に基づくものでは決してなかろう(し、もちろん、私は、それ以上の不正があるものと疑っている)。一般人の意思決定過程への参画の欠如に係る記述「世界を支配する」連中の側にいるロスコフ氏の記述から抜けていることは、そのまま、「世界を支配しようとする目論見からわれわれが排除されている」とナショナリズム支持者が感じることの、確固とした根拠である(。それに、学者の役割は、事態を過不足なく理解できるように説明することであるから、ロスコフ氏は、ダボス会議の役割を説明することに、学者・専門家としては失敗したことになる。2018年1月27日記事・補論)。

また、ロマン・アブラモヴィッチ氏について、次のように記すあたりは、先のプーチン氏への言及と対比させれば、よくよく、ロスコフ氏の立ち位置が「ヤツら」と「我ら」のいずれに近いものかを明らかにしている。

〔p.80〕

公平性と拡大する不均衡の問題はさておいて――のちほど述べる――どの分野においても、ごく一部のやり手たちが、群を抜く巨額の報酬を受けとっているという、同様の結果が生じていることは明らかだ。

しかしながら、私は本書の目的に則して、特定の事業分野における富や業績よりも、国際的な影響力の面でこうした状況が典型的に見られる人々に焦点を当てたい。ロマン・アブラモヴィッチ――ロシアの新興財閥オリガルヒの一人で、シベリア地方の知事も務め、イギリスのサッカー・チーム〈チェルシー〉のオーナーでもある――は、そうしたエリートの一人である。

〔…略…〕

〔p.81〕

どの人物も百万人に一人の逸材である。〔…略…〕

地球の全人口六十億人のうち、六千人ほどがそうした人々で、人間の行う事業のあらゆる分野に見ることができる。〔…略…〕〔p.82〕

これらの個人の決定的な特徴は力だ。〔…略…〕

彼らはその才能、業績、財産、または、これら三要素のなんらかの相乗効果によって、ひじょうに大きな影響力を手にした数少ない人々である。〔…略…〕影響力は人格ではなく、人格の欠陥から生じることもある。たとえば冷酷さ、一つの考えへの偏執狂的なまでの個室、強欲といったものだ。

現時点までにおいて、アブラモヴィッチ氏は、複数の疑獄への関与が指摘され、(先に見たように、ダボス会議を批判する当の)プーチン政権との裏取引が匂わされてきた(。これが、「先進諸国」の「マスメディア」の「中立的」な記述に基づいて「客観性」を担保されたとされる『Wikipedia』の英語版の記事(リンク)から受ける印象である)。このとき、アブラモヴィッチ氏を「逸材」という語を用いてロスコフ氏が形容したことは、訳書の記述であるとはいえども、事実である(。訳者の責任であるというつもりは、微塵もない。職業的作家が商業出版システムと上手に付き合い、訳書の品質をコントロールすることの重要性は、村上春樹氏が『職業としての小説家』(2015、スイッチ・パブリッシング)で述べている。人物について「逸材」の語が利用されるとき、これが好ましからざる性質を有する意味で用いられることは、皮肉以外の場合を除けば、まずない)。ロスコフ氏は、好ましくない人格(、これを、「人格の欠落」といった形で表現することは、よくよく覇道一神教的な精神によって、ロスコフ氏が駆動されていることを示す証拠である。)が突出した力の源泉となった可能性について、言及してはいる。しかし、全体を通じてみれば、ロスコフ氏の記述は、人格者であるために成功した高潔な人物たちがダボス会議に集合し、毎年の交友関係を暖めているという印象へと、読者を誘導しているのである。以上、ロスコフ氏は、世界の99%から見れば、エリートの観察者・研究者というよりも、立派にエリートの代弁者である。


なお、同書は、段落書きされている。国際秘密力集団の代理人に対抗する側も、効率性を上げるために、ぜひ、学ぶべきところは学ぶべきと思う。西部邁氏の論説が段落書きされていなかった、言い換えると、同時代的な学問水準に到達していなかったことは、その影響力と相俟って、「保守論壇」の健全かつ迅速な発展を阻害したものと言える(2017年6月11日)。

「スーパークラス」の定義が「流動性の高い〔p.163〕」走狗を含む(例:トニー・ブレア氏、ミハイル・ゴルバチョフ氏)時点で、同書は、これまた誘導的である。ブレア氏とゴルバチョフ氏は、政界を引退した結果、スーパークラスからも引退したという形で、閨閥ネットワークの存在を糊塗する材料として、利用されている。「権力から身を引いた結果、慎ましやか、かつ、穏やかに暮らすことのできる元・スーパークラスがいる」といった案配で、説明材料として提示するための枠である。細川護煕氏は、この枠に入れることができるやも知れない。細川氏の場合には、メトロポリタン美術館(The Met;ロンドン警視庁も同様の愛称に作品を展示してもらえるというおまけ付きである。もちろん、このネットワークは、複層的に権力集団の関係を強化することに寄与している。これらの「引退した人々」は、その生き方自体が、一面的には安全、かつ、名声を博せるものとなっているという点で、国際秘密力集団によって「リサイクル」された事例となっている。ロスコフ氏が自身を走狗という地位にあると認識しているとすれば、ロスコフ氏の「スーパークラス」の定義自体が、自身の走狗ぶりを際立たせる理解の枠組であると評価できよう。

隣接分野に対比してみると、ロスコフ氏のエリート論に対する役割は、疑似科学(のうち、国益に影響を与えると見做された意見)に対する「と学会」の役割と同等である。

#今後、引用と記述をやす可能性はあるが、これで十分な評価材料が貯まったように思うので、本稿はおしまい。


2018年1月28日・31日訂正

明らかな事実関係の誤りと文面の一部を訂正した。メトロポリタン美術館と著作権法の主従に係る二点の誤りについては、お詫びする。

2017年10月11日水曜日

(メモ)内山節氏の『苺とチョコレート』評は『フアン・オブ・ザ・デッド』にも適用可能である

ゾンビ映画において、やはり地域性は人間の側に現れる

内山節氏は、『苺とチョコレート』というキューバ映画について、

社会主義的なシステムにも、その地域の歴史や風土が反映する。だから、『苺とチョコレート』にかぎらず、多くのキューバ映画がみせているものは、明るいカリブ海のざしと、ラテン的陽気さに包まれながら展開するキューバ的社会主義の様子である。官僚組織による芸術への統制と人間の自由という深刻なテーマを描いたこの映画のなかでも、登場するハバナの人々は、日々の暮らしを楽しみながらこの芸術家とともにある町を大事にしていた。〔p.204〕

と述べる[1]が、この内山氏の評価は、『フアン・オブ・ザ・デッド(Juan of the Dead, 2011)』[2]にも、おおむね適用可能である。「芸術家」を「ゾンビ」に変えるだけで、それなりのフィット感があるのではないか。2013年9月24日付のオフライン用のメモがあったので、内山氏の観察を補強するため、本稿に即して一部を修正しながら掲載する(。削除した部分は、コメント化してある)。

キューバ発ゾンビ映画のJuan of the Deadは、この点(、生活の質なる概念を考察するに当たり)、とても示唆的である。キューバ特有の「何とかなるわな」精神で、ゾンビ病の流行さえも「安らかにあなたの最愛の人を逝かせます」という商売にしてしまう。つまり、ある人間にとって、災害は、単に災害であるのみならず、福音にすらなりうるのである。もちろん、そこには、終末論者のような積極的に危害を歓迎する考え方から、この映画の主人公たちのようにチャンスを生かすという考え方まで含まれる。〔...略...〕

この私のメモは、以前の論考(2017年7月26日)では活用されていないが、その理由の第一は、私のズボラさ(と迂闊さ)によるものである。このキューバを舞台とした作品は、あまりにもキューバ感満載である。そのてんこ盛り感は、パラオを始めとする南太平洋の島々を想起させる『Dead Island』シリーズと比較しても、過剰という印象を与える(。コンピュータゲームのプレイ時間は、映画に比べて、数十倍のオーダーになる。このため、評論に際しては、ゲームが多くのイメージをプレイヤーに与えることが可能である点に注意を払う必要がある。また、蛇足となるが、ゲームを誠実に評論するには、1つのタイトル当たりで言えば、映画よりも多くの時間を必要とするようにも思う)。『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ(Wyrmwood: Road of the Dead)』[3]は、ギミックが多いためか、オーストラリアを感じさせる力は、どちらかといえば、そこはかとないレベルであった。このため、考察の際には、すっかり抜けていたのである。「漏れなく重複なく(MECE)」は、私の中では徹底されているとは言い難い。


#内山氏の生活感から来る哲学は、プレッパーめいたものを感じさせる。というのは、オチのつもりである。


[1] 内山節,(2015.8).『戦争という仕事』(内山節著作集14), 東京: 農山漁村文化協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/026616280

[2] Juan of the Dead (2011) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt1838571/

[3] Wyrmwood: Road of the Dead (2014) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt2535470/

2017年10月10日火曜日

(メモ)樽本英樹氏の放射性物質への恐がりぶりは異常である

『現代人の国際社会学・入門――トランスナショナリズムという視点』(2016年5月, 有斐閣)「第一章 国際社会学とは何か」において、樽本英樹氏は、下記のように記す。

〔p.3〕私たちはグローバル化の真っただ中で生きている。〔…略…〕

お金も国境を越える。〔…略…〕

文化や情報も国境を越える。〔…略…〕

他にも意外なものが国境を越えてくる。〔デング熱やエボラ出血熱は、〕病気も国境を越えることを物語っている。PM2.5など環境汚染も国境を越える。温暖化防止条約などの国際条約を結ぶ必要があるのは、〔p.4〕各国で排出されたフロンなど温室効果ガスが、全地球に容易に広がってしまうからである。

以上、「1 グローバル化の日常」という節の中の「身近に迫るグローバル化」という項を引用した。引用から直ちに了解できることであるが、記述は、段落読みできる。この点については、評価できる。

最低限の体裁は整えられているものの、樽本氏の記述は、2016年5月という時点を考慮すれば、二点について、欺罔とも呼べる内容である。一点目、タックスヘイブンや地下経済への言及はどうした。同書は、オムニバス形式であるが、違法な物品・サービスの国際的な流通に対して、ほとんど言及しない。たとえば、戦国期日本における硝石と奴隷との交易を念頭に置けば、グローバル化の歴史における暗黒面に係る記述を欠落させることは、国際化という現象への理解を大きく誤る原因となる。少なくとも、本点については、(この方面に明るい著者がいないので、割愛したなどの)断り書きくらいは必要である。二点目、放射性物質はどうした。この点は、悪意と呼べるレベルに達する記述の欠落である。なぜ、このように私が批判するのかと言えば、単に、汚染(予期せぬ物質等の移動)を列挙すれば、放射性物質に係る批判を免れたであろうからである。先進諸国から輸出される廃棄物(PCBがとりわけ問題視されたことがある)、海流に乗るプラスチックごみ、外来生物にも言及すれば良かったのである。外来生物については、最近ではヒアリの事例が大きく報道されたが、ブラックバスが適当であろう。放射性物質についても、大気核実験・地上核実験・海洋核実験や、チェルノブイリ事故についても言及すれば、フクイチだけを殊更に取り上げたようには見えなかったはずである。感染症についても、アメリカ大陸における天然痘、ヨーロッパにおけるペスト、全世界におけるスペイン風邪といった歴史的事例は、国際化に伴う強烈な影響を読者に印象付けることができる。なぜ、これらの予期せぬ事例が多数挙げられるところで、PM2.5だけが取り上げられるのか。樽本氏の見識の狭さや偏見を、強く印象付けられる記述である。

ここでの指摘により、十分に根拠を提示できたように自負するが、横断的研究分野に係る記述は、工夫次第で、著者の見識の深浅をいかようにでも示すことができるのである。


[1] 西原和久・樽本英樹〔編〕, (2016.5).『現代人の国際社会学・入門――トランスナショナリズムという視点』(有斐閣コンパクト), 東京: 有斐閣.
(英: Introduction to Global Sociology for Contemporaries)
http://id.ndl.go.jp/bib/027260881

2017年7月9日日曜日

(書評)『統計学が最強の学問である』の記述はユル過ぎて誤解を招く

たまたま、「finalvent」氏による西内啓, (2013). 『統計学が最強の学問である』, ダイヤモンド社.の書評[1]を読む機会があったのだが、一般化線形モデル〔21章〕の説明に誤解を招く表現があるのではないかと思い、確認してみたところ、果たしてその通りであった。同書がベストセラーになってしまうという日本語商業出版の限界を指摘するためにも、ここにメモしておく※1

一般化線形モデル(generalized linear model, GLM)は、誤差に正規分布以外の分布も使えるように拡張した線形回帰モデルを指し、「図表25 一般化線形モデルをまとめた1枚の表」〔p.170〕に示された手法に限定されない。末尾に、西内氏による一般化線形モデルの説明を引用し、併せて図表25を示す。ここに掲示された手法は、いずれも一般化線形モデルに含まれることに間違いないが、一般化線形モデルは、これだけに限定されない。それに、西内氏自身が後に説明する〔pp.177-178〕ように、同表の「連続値」の行に示される手法は、一般線形モデル(general linear model)として統合できることを、1968年にコーエンが指摘しており[2]、その説明は、(翻訳を含む)いくつかの和書にも反映されている(記憶がある)。一般化線形モデルのイメージについては、たとえば、同じユルい感じの書籍であっても、久保拓弥, (2012).『データ解析のための統計モデリング入門』, 岩波書店.の方が、誤解を得にくく、有用であるように思う。私から見て、西内氏による一般化線形モデルの説明は、読者一般にとって、有用さに比べて有害さが勝るように思われる。

西内氏の著書は、ベストセラーとなったがゆえに、(読者の間口が広くなるという経路を通じて、)誤解を多く発生させることとなったようにも見受けられる。読者がユルい記述であると理解できるほどに統計学を修めているのであれば、元から手を出すこともしないであろうし、記述の曖昧な部分をスルーするであろうが、そうでない読者は、分かった気持ちを誰かと共有したいがために、感想をネットに書き込むであろう。この結果、誤りばかりが増幅されているようにも認められる。とはいえ、アマゾンレビュアーの「ありょさん」氏のいうとおり[3]、「大胆な表現」と「粗雑に書く」ことは、別ものである。あと、どう好意的に段落読みしようとしても、段落書きされた形跡すら認められない※2「理系の本」ってどうよ、とも付け加えておこう。


〔p.169、21章「統計学の理解が劇的に進む一枚の表」の冒頭から〕

回帰分析はそれ自体有用なツールでもあるが、そこから多くの統計学的手法を「広義の回帰分析」として統一的に理解すれば、さらにその応用範囲は広がるだろう。

このような「広義の回帰分析」という考え方は、統計学者たちから一般化線形モデルという名で呼ばれている。線形とは回帰分析のように直線的な関係性のことを指し、「いろいろ手法はあるけど結局回帰分析みたいなことしてるっていう点で、一般化して整理できるよね?」というのが一般化線形モデルの意図するところだ。

極端な表現をすれば、基礎統計学の教科書は大きく2つに分けられると私は考えている。一方は一般化線形モデルという視点を活かさないためにフィッシャーたちの時代に作られた〔以下、p.170〕手法を「別々のもの」として紹介している本、そしてもう一方は「基本的に同じ手法」として俯瞰した形で説明している本である。


図表25 一般化線形モデルをまとめた1枚の表〔p.170〕

分析軸(説明変数)
2グループ間の比較 多グループ間の比較 連続値の多寡で比較 複数の要因で同時に比較
比較したいもの(結果変数) 連続値 平均値の違いをt検定 平均値の違いを分散分析 回帰分析 重回帰分析
あり/なしなどの二値 集計表の記述とカイ二乗検定 ロジスティック回帰

※1 日本語における(批判的な)サイエンスライター(、または、編集者)の不在は、福島第一原発事故に関するデマの流通を(陣営を問わずに)促進したようにも見える。本記事は、遠回りとなるが、この仮説に対する一つの例証である。西内書の誤りを丹念に指摘したり、取り除いたり、あるいは別の良著によって淘汰したりするような市場の機能は、わが国のサイエンス系の商業出版には弱いように思われる。しかも、単に社内の連携によって克服できそうなところに、もったいなさを感じるのである。未だに『週刊少年マガジン』にこだわるが、新連載『ワールドエンドクルセイダーズ』(不二涼介(漫画)、biki(原作))の「音圧レベル10倍!」は、新たな「これはひどい」の典型である。10デシベルしか上がらないのでは、自分の声で五月蠅すぎて行動不能という状態にはならないように思う。

※2 池谷裕二, (2012).『脳には妙なクセがある』, 扶桑社.には、たま~に、段落読みすると初学者が理解に苦しむ部分が見られるが、それでもやはり段落読みできる(と、私は判断した)。例外は、たとえば、p.24、「読書の内容を理解するときには、脳の前頭前野や「帯状野」が活性化します。…」という段落である。この段落だけは、ヘッド・センテンスだけでは、主旨を読み損ねる。また、同書冒頭の「本書によく登場する脳部位」に「帯状野」も示されていない。ただ、あくまでこの例示は、例外であることを示すために挙げたものである。なお、本点は、以前(2017年6月30日)の記事のアップデートでもある。この点に関連して、山口真由氏のほかの著書『成功したければ日本型エリート思考』(2015年9月, 扶桑社)も段落読みできないことを申し添えておく。


[1] [書評]統計学が最強の学問である(西内啓): 極東ブログ
(finalvent、2013年02月07日)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2013/02/post-e766.html

[2] Cohen, J. (1968). Multiple regression as a general data-analytic system. Psychological Bulletin, 70(6, Pt.1), pp.426-443.
http://dx.doi.org/10.1037/h0026714

[3] Amazon.co.jp: 統計学が最強の学問であるの ありょさんさんのレビュー
(ありょさん、2016年10月01日)
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R18PUNMU9MWQ1R/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4478022216

大胆な表現で書くことと粗雑に書くことを混同しているように感じます。

2017年6月30日金曜日

ズビグネフ・ブレジンスキー氏の評価は「棺を蓋いて事定まる」となるのか(分からない)

ズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezinski)氏は、『ブッシュが壊したアメリカ』(2007, 峯村利哉訳, 徳間書店)[1]に見られるような総合的な世界観を提示した人物として、今後も人々に記憶されるであろうが、その評価は、慎重に下される必要がある。ブレジンスキー氏は、長島昭久氏のような弟子を育てた人物ということに(長島氏自身の弁によると)なっているために、享年89歳で2017年5月26日に亡くなった後、日本語の陰謀論界隈では、これを大々的に言祝ぐ動きが見られた。しかし、話はそう簡単ではない。というのも、たとえば、原著『Second Chance』[2]の取扱う内容の厳密さに対して、『ブッシュが壊したアメリカ』が相対的に緩い訳となっているために、ブレジンスキー氏の言説の問題点を正確に把握することは、なかなか面倒なことになっているからである。私が陰謀論者たちの「祭り」に乗り損ねた最大の理由は、不勉強のために同氏の業績を十分に把握できていなかったという私自身の怠惰にある。しかしなお、泥縄で勉強してみるだけでも、ブレジンスキー氏に対する誤解とその波及効果は、なかなか見逃せないレベルに達していることが窺えるのである。

以下、和書・原著から分かりやすそうな一例を挙げ、世界的に影響力のある個人の主張を日本人の一消費者が正確に理解することの難しさ、を検討することとしよう。和書第5章の「イランの排斥から対話へ」という節を一部引用し、次いで、原著から対応部分を引用する※1

〔p.192〕

イラン排斥の政策から生じた純然たる効果は、テヘラン政権内におけるイスラム原理主義勢力の伸張と、なかば公然の核開発の着実な進展だった。イラン側は核兵器保有が目的ではないと強く主張するものの、ここ数十年間の技術進歩により、核兵器の開発能力を手に入れていることは歴とした事実である。〔...略...〕

二〇〇六年四月末、アメリカはようやくイラクにたいする姿勢を転換した。この転換をうながしたのは、まったく異質なふたつの要因。ひとつは、イラク戦争の代償を痛感した結果、対イラン武力行使というオプションの魅力がうすれたこと。もうひとつは、クリントン政権と現ブッシュ政権における北朝鮮核問題の対応をふりかえった結果、ほぼアメリカ一国によるとりくみでは効果を期待できないという認識が広まってきたことだ。

後者にかんしては、二〇〇四年初頭、アメリカは極東の関係諸国の圧力により、大幅な姿勢の転換を余儀なくされていた。アメリカが厳しい北朝鮮の孤立化政策を主張しても、中国とロシアは頑として首をたてに振らなかったのだ。地域的な多国間交渉を通じて、北朝鮮が自制せざるを得ない環境をつくりだす――許容範囲内の結果が欲しいなら、これが唯一の方法なのはあきらか〔p.194〕であった。二〇〇四年、六ヵ国協議(メンバーはアメリカ、中国、日本、ロシア、韓国、北朝鮮)が正式に開始されたことは、極東の安全保障における国際的枠組みの重要性が広く認識されたあかしといえた。

〔p.165〕

The net effect of a policy (or rather a stance) based on ostracism was to strengthen the fundamentalist elements in the Iranian regime while Iran proceeded steadily and stealthily to pursue a nuclear program that was at best ambiguous. While the Iranians have fervently declared that their goal is not the acquisition of nuclear weapons, it is a fact that the program's substantial progress over the past decade or so is gaining for Iran the capability to acquire such weapons. 〔...略...〕

In late spring of 2006, the United States was finally made to alter its position by two extraneous factors: the realization that the costly war in Iraq made the use of force against Iran a less attractive option, and a rising awareness of the futile, largely solitary U.S. attempts under Clinton and Bush to cope with the similar nuclear dilemma posed by North Korea. In the latter case, by early 2004 the United States found itself compelled by regional pressures to change its stance significantly. 〔p.166〕Neither China or Russia was prepared to follow America in a severe international ostracism of North Korea. It thus became clear that only a regional multilateral effort to induce North Korea self-restraint stood any chance of achieving an acceptable outcome. The Six-Party Talks, which formally commenced in 2004 -- involving the United States, the People's Republic of China, Japan, the Russian Federation, South Korea, and North Korea -- were a far-reaching acknowledgment that the security of the Far East required some form of international architecture.

この部分を取り上げた理由は、図書館から借用した和書に「イラにたいする姿勢」という他者の書き込みが見られたためである。この箇所を取り上げたのは、図書館の本に書き込む人物のオツムの程度を晒し上げるためでもある。訳としては、「米国の姿勢」というのが安牌である。「its position」の中身は、米国のイランに対する姿勢だけでもないし、米国の北朝鮮に対する姿勢だけでもない。後の「大西洋共同体に日本を組み込む」という節の和訳にも、同様の恣意性が見られる※1が、ブレジンスキー氏の頭の中では、米国から見た複数種類の二国間関係が同時に考慮されているようであるところ、和訳からは、このニュアンスが抜け落ちてしまっている。和訳は、「イラクにたいする姿勢」という部分に不用意に示されるように、米国の対イラン政策と対北朝鮮政策に一貫性を持たせることが必要であったという著者の主旨を十分に反映したものとはなっていない。これと同様、図書館所蔵の書籍に書き込んでしまうレベルの読者は、まんまとその二項対立の罠に陥り、「イラン」とだけ訂正して良しとしてしまっているのである。ダブスタがよろしくないという指摘は、ブレジンスキー氏により繰り返される主題の一つである。この主題を利用して、オマエこそダブスタだろうとブレジンスキー氏を批判する陰謀論者は、今のところ、インターネット上には見出せていない。

和訳は、(私を含む)大半の日本人にとって便利であるし、洋書のキュレーション機能も有するし、訳者のアカデミックキャリアに資するものでもあるから、一見、良いこと尽くめことにも見えるが、訳に正確性が求められる場面になったとき、二度手間以上の問題を引き起こす。訳書を取り上げる読者の内心を推し量るためには、原著も訳書も読まなければならなくなる。真っ当な理解力を有する読者が原書の意図を誤解したとき、その原因が誤訳であるというのは、二重に不幸である。というのも、(誤訳が、訳者の不注意や無能力によるものか、意図的なものであるかはさておき、)質の悪い訳書は、単に誤解を広めるだけでなく、訳語のコミュニティにおいて、誤訳する人物をその筋の権威者として押し上げる機能をも果たすことになりかねないからである。一般に、現時点では、専門書が英語でなければ読めない社会は、総じて不幸であると評価されているようである。しかしながら、誤訳だらけの専門書は、訳語コミュニティにおいてリソースの浪費となり、一般の図書館に原著まで所蔵されているケースは例外的であろうから(目黒区は、複数の外国公館もあるためか、その例外に相当した)、悪貨が良貨を駆逐するという構図をさらに加速することになる※2。この構図は、以前にも指摘した覚えがある(マタイ効果に係る2015年11月24日記事)が、重要なことでもあるし、「知の分断統治」とも呼べる現象であるために、警告し過ぎることはないであろう。

ブレジンスキー氏の批判をネット上の伝聞に基づいて行うことは、正確性という観点からは、相当に怖いことである。ブレジンスキー氏の表現は、学術的であり、この事実は、訳書であっても十分にうかがうことができる。つまり、訳書も、原書の雰囲気を決定的に損壊するほどには、ユルユルではない。ここで、陰謀論界隈に流通する話題を念頭に、ブレジンスキー氏の実際の指摘がいかなるものであるのか、具体的に検討しておきたい。

「100万人を殺す方が誘導するよりも容易い」旨が『Second Chance』にも見られる〔p.215、和書p.249〕ことは、事実である※3。チャタム・ハウスにおける講演内容とされる音声も、ネット上に残されており、同種の内容が語られる[3]。しかし、これらのブレジンスキー氏の言辞は、仮に事実関係として正しいとしても、「殺す方が楽だから殺せば良い」という主張には直結しない。このように不穏当な内容であっても、それが事実である限り、事実を口に出さないという選択肢は、国際政治学者には存在しないであろう。この事実を一旦認めた上で、世の中をいかに変えるかを探究するのが、彼らの仕事である。ブレジンスキー氏を言論上で批判しようとする者は、「思想誘導よりも殺害の方が簡単である」という見解が正しくないことを示すか、彼が大量殺戮へと政策を恣意的に誘導した事実を以て、彼を批判する必要がある。(他方、彼を「政治家」として批判することは、簡単である。結果責任は、いかようにでも問えるからである。)

ブレジンスキー氏は、『ブッシュが壊したアメリカ』で、ソ連崩壊直後のロシアにおける「自称経済コンサルタント」の暗躍振りを批判し、「戦争屋」の手口の一端を暴いてはいる〔pp.77-81、「ロシアの富を奪ったアメリカの経済コンサルタントたち」〕。ブレジンスキー氏のこの批判を、同氏が米民主党側の両建て陣営に属することによるものと理解し、パパ・ブッシュ政権を批判するための方便に過ぎないと断じることは、可能である。しかし、「両建て戦略」に乗せられまいとする人物であっても、ブレジンスキー氏のこの指摘自体は、利用しても構わないであろう。戦争屋がロシア民族の不幸を加速させたという構図を、ブレジンスキー氏が解説したこと自体は、同氏が知識というものに対して一応は誠実であったことを示す傍証の一つではある※4。もっとも、2007年という時点は、プーチン氏の実力が決定的に確立され、その傾向が明確になった後のことではある。故人(に限らず、ある話者)の心中を推測することは、どこまでいっても解釈にしかならないため、私がここでブレジンスキー氏の心中を推量しても、何の役にも立たないが、ロシアにおける苦難を増加させた当人であるブレジンスキー氏が白旗を揚げるつもりでロシアの苦境を説明した、と邪推することも可能ではある。私には、本当のところは、調べてみないと分からないことである。

セキュリティは、ウチとソトとに対して二面性を持つ(2015年10月30日)ために、セキュリティに関して伝達される知識も、常に両義的である。セキュリティに係る知識は、使い方によって、毒にも薬にもなるのである。それゆえ、通常、知識の伝達方法には一定の縛りがかけられることになり、その多くは、自主規制の形式を取る。ブレジンスキー氏の「100万人」発言は、知識の内容としては、言うなれば、爆弾のレシピと同様の機能を有している。知識としては、出発点に過ぎない。が、これを公に向けて不用意に語ることは、各国の当局の注意を引くことにもなり、誤解に基づく批判も受けることになる。この知識の特殊性と、その特殊性ゆえに秘匿されることから生じる知識の偏在性は、安全保障(security)を正当に探究する上での障害となる。万人が恩恵や被害の対象となるにもかかわらず、セキュリティに係る知識は、秘匿されがちになり、それゆえにまともに議論されなくなり、さらに誤解が蓄積されるという、情報の非対称性を生むのである。責任を負う実務者は、その結果、局所最適(、より不穏当な用語に頼れば、独善)に陥りがちとなる。この危険性を外部有識者が公衆に聞こえるように議論・批判する作業は、当の発信者にとって、実務者から寄せられるべき自らの信用を棄損することにもなるが、それでも、知識を表明して批判に晒す作業は、正しい知識の集積には必要な営為である。チャタム・ハウス・ルールの語を生んだ場で(密かにか)録音された内容が公開(漏洩)されたことは、ブレジンスキー氏の計算外であったかも知れない。が、語られたこと自体(100万人発言)は、価値中立的と解釈できる。ただ、100万人発言の引き起こす現実の結果が、価値中立的ではないのである。この価値中立性に対して、私自身は、「100万人を殺したり洗脳できるだけの権力を有する者であれば、戦争屋の失脚しつつある今、彼らに従来の悲惨に係る責任の大半を負わせれば、100万人を満足させて食わせることがもっと簡単になる。」と、とりあえず宣言し、脱構築を試みておきたい。これは、信念に基づいた仮説に過ぎないが、ブレジンスキー氏の(政治家としての実績に依らない、理論系研究者としての)発言と同程度の強さの論拠に基づく。また、私以外の誰もが、同様の確かさの根拠に基づき、意見を表明することができる。この見解の最大の難点は、この見解がトクヴィルのいう「多数者の専制」か、はたまた世界政府論のみに行き着きがちであり、「両建て構造」の中に回収されてしまうという危険を有することである。

#とっちらかっているが、これでおしまい。


※1 和書は、原著の節見出しを改題し、また、節見出しを追記している。本文については、一部括弧書きなどを割愛した形跡が確実に見られる一方、地の文を割愛した形跡は、おおむね見られないようである。逐語的には確認はしていない。『マスコミに載らない海外記事』のブログ主が和書について述べていた疑問[4]は、そもそも対応する見出しが存在しない、というものになる。この措置は、訳者の峯村氏のサービス精神によるものと解釈できる。この節の和訳は、原文の対応部分に誤解を生じるものではないように思われる。原文を読んでも和書を読んでも、原著者の意図を読み損ねることはないであろう。ただし、「大西洋共同体に日本を組み込む」という節見出しそのものは、和書向けに特化したものである。この節の本旨は、明らかに、大西洋共同体にまつわる、二種類の「たられば」の話である。

※2 この構図は、山口真由氏の『東大首席が教える超速「7回読み」勉強法』[5]『天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論がある。』[6]にも該当する。(たまたま併読していたので、取り上げたまでである。)「七回読み」自体は、パラグラフ・ライティングが根付いていないコミュニティで産出された(自称・他称の)専門書を読む上では、間違いなく有用な方法である。しかし他方で、山口氏は、この書籍の執筆時点では、パラグラフ・ライティング(リーディング)を知らないのであろう※5。その結果、(引用部分については、)ヘッド・センテンスが初学者向けに易しい文章で綴られている池谷裕二氏の『脳には妙なクセがある』(扶桑社新書, 2013年11月)を「七回読み」の題材に取り上げるという暴挙に出ている〔pp.16-17〕。この事例は、日本語の学術コミュニティの不幸を体現している。山口氏は、ハーバードに留学経験があるようであるが、パラグラフ・ライティング技法について、教わる機会がなかったというのであろうか。存外と、あり得る話ではある。

※3 いろいろと誤解を避けるべく、二段落分を丸々引用する。

The basic requirements of global leadership are now vastly different from what they were during the British empire. No longer is military power, reinforced by economic prowess and exercised by a superior elite pursuing a sophisticated strategy, sufficient to sustain imperial domination. In the past, power to control exceeded power to destroy. It took less effort and cost to govern a million people than to kill a million people.

Today the opposite is true: power to destroy exceeds the power to control. And the means of destruction are becoming more accessible to more actors, both states and political movements. Consequently, with absolute security for a few (notably America itself) becoming only relative security for all, collective vulnerability puts a premium on intelligent, cooperative governance, reinforced by power that is viewed as legitimate. Global leadership now must be accompanied by a social consciousness, a readiness to compromise regarding some aspects of one's own sovereignty, a cultural appeal with more than just hedonistic content, and a genuine respect for the diversity of human traditions and values.

※4 ただ、原著初版は、Google様のガジェットによれば、2007年5月5日のようであり、和本は原著表記を単に2007年としているが、ナオミ・クライン氏の『ショック・ドクトリン』は、やはりGoogle様のガジェットによると、初版2007年9月とのことであるから、ブレジンスキー氏の和書における戦争屋の記述がクライン氏の指摘を得た上で追記されている可能性は、依然として残る。

※5 これは、取り立てて問題視すべきことではないが、それでも、『ブッシュが壊したアメリカ』がパラグラフ・ライティングされている内容を複数の段落へと小分けしていることには、少々の違和感を覚える。複数の二国間関係が同時に論じてられているニュアンスが失われてしまうからである。


書籍のリンクは、いずれも国立国会図書館のNDL-OPAC。

[1] ズビグニュー・ブレジンスキー著, 峯村利哉訳, (2007). 『ブッシュが壊したアメリカ: 2008年民主党大統領誕生でアメリカは巻き返す』, 東京: 徳間書店.

[2] Zbigniew Brzezinski, (2008 Apr. 8). Second Chance: Three Presidents and the Crisis of American Superpower, New York: Basic Books.

[3] Zbigniew Brzinski's Chatham House Speech
(November 17, 2008、2017年06月30日00時51分)
https://www.bibliotecapleyades.net/sociopolitica/sociopol_brzezinski03.htm

[4] 北大西洋共同体(NATO)に日本を組み込む ブレジンスキー: マスコミに載らない海外記事
(2009年2月15日)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/nato-2563.html

「大西洋共同体に日本を組み込む」という見出しが、217ページにある。(原文に該当する見出しがあるかどうかは、原文を読んでいないので、別として。)

[5] 山口真由, (2014.7). 『東大首席が教える超速「7回読み」勉強法』, PHP研究所.

[6] 山口真由, (2014.9). 『天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論がある。 図解版』, 東京: 扶桑社.




2024(令和6)年1月6日訂正

本文について重大な誤りを発見したため、これを削除する形で訂正した。これをお詫びする。ほぼ誰も読まないブログではあるが、取返しようもない種類の誤りではある。(が、結果責任からすれば、お互いに、それでも物足りないと言いたい気持ちはある。)

2017年6月11日日曜日

(書評・感想文)西部・佐伯〔編著〕『危機の思想』(2011, NTT出版)

西部邁・佐伯啓思〔編著〕, (2011.8.4). 『危機の思想』(The Critical Thought in the Critical Situation), 東京: NTT出版.について、(万が一ではあるが、再度)読んだときの陸軍風のメモを晒す。後輩に勧められて読んだが、冒頭から西部ワールド全開に嫌気が指して「こんなオレオレエッセイが罷り通るのが危機の始まりなんじゃコラァ」と思い、目次までの間にさようならとなったような覚えがあるようなないような。デジタルメモが「危機管理」なる分野の話を調査し始めた途端に完全に飛んだという時期に係る可能性もある(飛んだこと自体は事実である)。

氏名最終階級学歴摘要
×西部邁教授東大卒?造語多し・視野偏狭
○佐伯啓思教授東大卒?カント@リスボン
◎柴山桂太准教授京大修?段落書き・シュペングラー
△中島岳志准教授京大博トポス論・散文
×東谷暁(編集長)早大卒「想定外」で論理破綻
○藤井聡教授京大博葉隠の覚悟・ミサイル攻撃
△富岡幸一郎(評論家)中大卒文章冗漫
○中野剛志准教授エディンバラ大博ショック・ドクトリン
×原洋之介教授東大卒?「想定外」を大誤解

こうして評価を眺めると、見た目、知識とおもしろさと文体とは、階級と無相関とは言えなさそうである。西部氏の外れ値ぶりが際立つことになる。最近読んだ本の中で、最も段落読みできるのが金哲, 渡辺直紀〔訳〕, (2008=2017). 『植民地の腹話術師たち 朝鮮の近代小説を読む』, 東京: 平凡社.であったことを思うと、大学教育という構造により生じた落差の感があり過ぎる。(この本は、訳者のあとがきまで段落読みできていたら、最高だったのに。)原子力産業の内輪ネタ化は悪であるが、その批評すらガラパゴスになるのだという、わが国の論壇の恐ろしさを改めて覚えた次第である。

なお、表の列名(表頭)は、ある書籍のある史料を参考に作成したものである。「摘要」の語が現在の意味と異なるのは、まあ仕方ないということで。

2017年3月28日火曜日

神はサイコロを振らない(ので重大事件も本当なら決定論で説明可能である)

佐藤優氏の論考には、しばしば、「民族や国家にも運・不運がある」という表現が見られるが、私は、この表現を「制限時間内には分析しきれないほどの複雑な関係を内に含むブラックボックス」であるとして解釈することにしている。孫崎享氏と佐藤氏は、各々の著書を通じて密かに批判の応酬を繰り広げているようである。孫崎氏が佐藤氏に向けて著書に暗に秘めたかの批判は、私が佐藤氏の表現を先のように解釈することについて、一定の論拠を与えてくれるものである。このように、私は孫崎氏の話を自身に都合良く解釈している。

佐藤氏の『日米開戦の真実』(2006年7月, 小学館)は、大川周明氏の二本の論説に解説を加えるという構成を取る書籍であるが、現に、わが国の地政学上の位置を指して冒頭の表現を指摘する(p.6)。この指摘そのものは、その通りである。少なくとも、地政学という一種のモデルにおいて、地理は、所与の条件である。しかし、孫崎氏の『日米開戦の正体』(2015年5月, 祥伝社)は、多数の自叙伝や日記等を通じて、日本が対米宣戦布告するまでの過程において、わが国においても、政策決定に影響を及ぼしうる者の中に開戦を避けようとする議論が多く見られたことを指摘する。日露戦争以後、満州における権益を不当に拡大しようとした軍部が、戦術的には大成功ではあるが長期的には大きな問題を引き起こすような謀略・工作を実施してしまい、対米戦争を避けようとする外交活動に制約が生まれる。この積み重ね・繰り返しが、日本を満州へ、次いで全中国へ、最後には南方へと出兵させる動因となる。このような解釈を可能とする材料を、孫崎氏は提示している(。そう私は読んだ)。

他方、孫崎氏の『日米開戦の正体』の構成は、氏の解釈に基づき、その折々のターニングポイントを提示し、何が欠落していたのかを考察するものであり、その体裁は、フローチャートを頭の中に彷彿とさせるものである。(怠け者なので、実際に作成するのは、長生きできたらにしたい。)誤解なきように明記するが、佐藤氏によって解説される大川周明氏の論説は、両方とも、当否は措くとして、十分に因果関係を追える内容である。佐藤氏の解説においても、すべてを運・不運として片付けている訳ではないことは、当然過ぎるほどである。しかし、孫崎氏の主張には、アメリカが満州における権益を主張したのは、偶然というよりも計算の上であるという主張が込められている。私の穿ち読みによれば、あたかも、孫崎氏の記述は、佐藤氏の指摘するように、大平洋を挟み日米両国が位置するという地理的側面が偶然であるにしても、その地理への対処の仕方には、その時々における選択肢が少ないながらも存在し、その時々の選択を経た上での複数の展開があり得た、と主張するかのようである。この読後感が「実際には細小で多数のコミュニケーションの積み上げが決定論的に作用しているが、歴史を後から巨視的にみれば、その過程は、全体的には運としか表現しようのないブラックボックスとしてしか把握することができない」といった、冒頭の印象につながってしまうのである。

システム思考は、分からなければ、かつ、問題が起きなければ、「処理」の部分はブラックボックスでかまわないとする思想でもある。実際のところ、歴史を、すべての人々の全思考・行動の過程ならびにそれらの行動の相互作用の帰結であると定義すると、歴史の全体を細部まで把握することなど、人間には無理なことである。観察が不可能であるためである。だから、観察者である人間は、どこかで観察を省略し、足らざる部分を何らかの方法で補完し、全体像を把握しようとする。その補われる程度が、解釈の当否にも深浅にも影響する。その程度問題こそが人間の批評精神の発揮されうる場でもある。実際のキャリアにおける確執は置いておいて、その違いが、佐藤氏と孫崎氏のスタンスにも現れているように思われてしまうのである。両名ともが論壇で活躍できることは、日本語環境において、インテリジェンスという分野の考察を行う上での好条件である、というのが本稿のオチである。

題名は、アルバート・アインシュタイン氏による、論争を引き起こした言であるが、本稿に紹介した密かな応酬にこそ相応しいと考えたために採用した次第である。

2016年10月31日月曜日

(書評)鬼塚英昭, (200708). 『日本のいちばん醜い日 8・15宮城事件は偽装クーデターだった』, 成甲書房.

 せっかく論文調に仕上げたので、この種の表現は避けたいところであるが、読者のために、私の感想を冒頭に述べておこう:私の中では、鬼塚の以下の主張のうち、3と4はガセである。他方、主張1と2は、落合莞爾の『明治維新の極秘計画』(2012年、成甲書房)と同様の高度な政略を見立てれば、それなりの蓋然性を認めることが可能である。本書は、「セット思考」(2016年7月26日)の怖さを認めることができるという事例として有用であり、「ノンフィクションなら、嘘を書くにも作法がある」ということを知る上での練習帳にはなる。この点と主張1と2の蓋然性の高さを買って、評価は★★☆☆☆、星2つとしたい。
 以下、本書の評価に併せて材料を提示していこう。

 本書は、終戦間際、14~15日の陸軍クーデター未遂事件が三笠宮崇仁親王の主導された「偽装クーデター」であり〔主張1〕、昭和天皇の御裁可により遂行され〔主張2〕、三笠宮が流血に直接関与し〔主張3〕、昭和天皇の身の安全を専らの目的としたもの〔主張4〕である、という非難を提起するものである。この見解は、クーデターが戦争継続派によるものという一般の解釈とは、まるで異なるものである。この非難は、半藤一利の『昭和のいちばん長い日(改訂版)』における「某中佐」の記述から説き起こされ、デイヴィッド・バーガミニの『天皇の陰謀』を導き手として追求される。「某中佐」が三笠宮であるという根拠は、もっぱらバーガミニの推測に乗るものである。

〔以下は、バーガミニの又引きとなる〕
 ゴシップの多い日本では、天皇の血族の成員の私的な行為に無名性を与える天皇タブーだけが、日本歴史上のかかる危機的瞬間にかかる氏名の不詳の人物が内宮の構内にいたことを、説明しうる。推測では、某中佐とは天皇の末弟である三笠宮中佐であったというのが強い。三笠宮は、その夜クーデターに参加した若手将校たちの級友であった〔p.157〕。


 しかし、クーデター未遂に伴う流血劇の犯人とされる人物たちの行為が、もっぱら鬼塚の推測のみに依拠して説明されることは、注意深い読み手には直ちに了解できることである。「殺害」の現場に居合わせた人々の名前から、「某中佐」の存在を認めるところまでは、推理として許容されよう。しかし、複数の資料を対置してみせた後、鬼塚は、「某中佐」が現場を主導したに違いないと断定する。登場人物の心中は、鬼塚の「暗殺史観」(後述)により、無前提に確定されてしまうのである。この作法は、同書に繰り返し用いられており、上に又引きしたように、鬼塚が道標とするバーガミニの著書にも共通するものである。共通の話題を扱う複数の資料を並置するところまでは、通常の論証の形式であると言える。しかし、本書の問題点は、その後の考察の過程にある。提示された資料から構成できるはずの別の見解を対置することなく、鬼塚は、自身に都合の良い見解を採用するという飛躍を度々行うのである。

 鬼塚の論理の飛躍は、第三章において、「殺人」の「被害者」である森赳近衛師団長の14日朝の行動を説明するとき、端的に表れる。鬼塚は、クーデター未遂における森の死が自殺であるという可能性をあっさり捨象し、また、森が同意殺人の犠牲者である可能性に迫りながらも、その可能性をほとんど無視する。鬼塚は、有末誠三の『終戦秘史 有末機関長の手記』を引用〔pp.233-235〕し、14日の朝に、森が同期である有末と宮崎周一作戦部長を訪ねて「死ね」と言い帰ったことを記す。鬼塚は、有末の記述に基づき、次のように自らの見解をまとめる。
 十四日の朝までは確かに森赳は生きていた。そして監禁もされていない。しかし、それから十五日午前二時に殺害されるまでの森の姿は、近衛兵が疑問に思うほどにはっきりしない。
 十四日の朝、森は阿南〔惟幾・陸軍大臣〕と大城戸〔三治・憲兵司令官〕に会う。ここで、大城戸はあることを伝える。それは、彼の上司である内大臣もしくは某中佐経由のものであろう。その前日の十三日の午後、三笠宮は有末に「実は今朝、陛下から直々に『おたのみ』のお言葉があった」と語っている。
 森の反対にかかわらず、近衛兵は、古賀〔秀正・近衛師団〕参謀(中佐)の指揮のもと続々と皇居内に入っている。森は大城戸にこの中止を申し入れたにちがいない。そして逆に大城戸を介して、上位のある者からの通告を受けた。大城戸は内大臣または某中佐に報告するために宮中に消えた。森は自分の運命を即座に知ったにちがいない。それで最後の別れの言葉を言おうと、参謀本部に行き、有末中将と宮崎中将に会いに行く。彼ら三人は同期の桜だ。そして、二人に、「貴様は死〔以上、p.235〕ね」と言う。この森の最後の言葉は激しい。しかし、深い愛情にあふれる言葉ではないのか。有末も宮崎も口には出さないが森の立場を理解している。二人は三笠宮の下で終戦工作をする立場にある。
 「憚りながら禁闕守衛については指一本指させぬから、その点は心配するな」
 この捨てセリフほど悲しいものはない。もう禁闕守衛の命令一本、森は出せない立場にいたのである〔以上、p.236〕。

 鬼塚は無視しているが、この記述からは、クーデターを防ぎ得ずに惨殺されるという無能者の汚名を、森が自ら進んで引き受けたという可能性を認めることができる。自らの死によって、陸軍関係者の意思を昭和天皇の御心に沿うように変革・統一しようとした、という可能性は、モーリス・パンゲによる『自死の日本史』(1986年, 和書2011年, 講談社学術文庫)を参照し、わが国の伝統である現世主義を認めれば、「自死」を決意表明の機会とするわが国の伝統にも沿うものとなる。現世を重視するがために、現世利益の最大の要件である生命を捨てるという転倒は、日常生活においては恐ろしいものととらえられるが、戦争犯罪者として近未来に断罪され処刑されるという展開を予見できたはずの人物が、仮に、祖国に殉ずる機会を与えられたとすれば、この機会を活用することが救いに至る道であると考えたとしても、不思議ではない。鬼塚の著書では、「偽装クーデター」の可能性は論じられたが、「偽装クーデター」のために必要とされた「殺人偽装」の可能性は、登場人物全員の心中を推量する作業を省略することにより、完全に無視されるのである。

 鬼塚が森の心中を軽視した結果は、第二章の記述との非整合性という形で表れる。まずは引用しよう。
 では、森はどうして畑中からピストルで撃たれたのか。某中佐が偽装クーデターにリアリティを求めたからである、と私〔鬼塚〕は思っている。森の義弟の白石通教中佐(第二総軍参謀)は偶然にそこにいたのではない、と思うのである。確証はない。しかし、偶然はおかしい。彼は森の切腹を助ける介添人として登場した人物と思う。しかし、リアリティの前に、彼も惨殺されたのである。私は五・一五事件と二・二六事件の延長線上にこの第三次が起きたことのみ記しておく。〔p.196〕

 鬼塚は、いったんは森の義弟である白石の登場を、介錯人として想定する。しかし、もっぱら二次資料(文学作品等)に依拠して、これをすべて流血の惨事として描くことに同意してしまうのである。

 ここでの鬼塚の安易な解釈に対しては、ほかの読みを並存させることが可能である。私が小説家なら、森が「私の首を手土産にしないとクーデターの体裁が付かないであろう?」と諭し、若手将校の前で自決して果てたという場面を描くこともできる。想像を逞しくすると、この森と白石の自決は、若手将校には当初に想定されなかったものである。想像を続けよう;二人の遺体を目の前に、何らかの協議が行われ、若手将校たちは「われわれが殺害したことにする」という森と白石の「遺言」を受け入れる。このように、鬼塚の著書に挙げられた材料を元に、異なる想像力を働かせるだけで、クーデター未遂における森と白石の死亡に係る異説を提示することは、十分に可能なのであるが、この想像(妄想かもしれないが)は、鬼塚には最後まで検討されないままに終わるのである。

 異なる見方が成立するにもかかわらず、現場に居合わせた者の証言すら十分に一致しない状態で、犯人を特定し名指しすることは、各証言を等価とする限り、無理がある。推定無罪の原則が周知されている現代において、鬼塚の記述は、「故意に、いかがわしい視点に立って歴史の真実を曲解する〔p.165〕」ものであると、読者に誤解されることにもなろう。もっとも、クーデター中に森の「殺人」が行われたとする理解は、繰り返しになるが、半藤の『日本のいちばん長い日』など、ほぼすべての著書に共通する記述である。その上で、もっぱら、犯人が単独であるか複数であるかが争われている。

 同書では、事実と判定できる出来事と著者の意見とは、一応のところ、分別されている。このため、著者があらかじめ皇室を貶める目的で本書を作出した意図を疑いながら読めば、同書は、嘘が嘘であると見分けられるように記されているとは認めることができる。鬼塚は、このノンフィクション作品を、事実の摘示までは注意して事実に即するように記述しながら、本事件に係る意見と推測を、全て皇室の仕組んだ『真夏の夜の悪夢』〔p.66〕として振り向けることに全力投球している。この芸風は、著者に骨がらみのものであり、却って彼の背景が何であるのかへの目を向けさせるものであるが、出版物としての最低限のルールには依拠するものとも評価することができる。

 本記事の冒頭に示した鬼塚の主張のうち、〔主張1〕と〔主張2〕は正しいように思われるが、〔主張3〕と〔主張4〕は、彼の先入観によるものか、故意によるものであろう。つまり、同書は、3と4への誤誘導を図るべく、1と2について記述した可能性も認められるのである。本日のところ、これら4点の主張を、以下の段落より詳しく論証することはしないが、今後、追記・改稿する予定はある(期日未定)。

 私がなぜ、鬼塚の主張の1・2と3・4とを切り分け、後者を嘘と考えるのかという理由は、このように切り分けることが、鬼塚自身を含めた、それぞれの人物の生き方に最も整合するからである。鬼塚の著書の徹底した特徴は、(その評価は措くとして、)反皇室である。鬼塚はすでに故人であり、応答する声は期待できないから、私の一存と責任において、このように評価を確定しても良いであろう。他方、三笠宮の戦後は、徹底して平和志向であられた。クーデターにおける流血を率先することは、その意思の強さこそ共通するが、方向が真逆である。また、戦後の人生に汚名を被ることを潔しとした軍人たちが、敬慕すべき対象でもある友人が殺人犯となろうとする瞬間を、拱手して見逃すことがあろうか。さらには、殺害されたとされる高官たちは、自分たちの近未来を十分に理解していたであろうし、数ヶ月先の自らの死を今捧げることにより、お国のためとなることが容易に確信できるとき、同意殺人に進んで身を投じた可能性すら考えられるのである。(この考え方が、現代に通用するものであるか、倫理的に見ていかがか、などという考察は控えることとしたい。あくまで、私が彼らの心中を想像してみたところを述べたまでである。)

 クーデターの成り行きが当初の予定とは異なるものになった可能性は、先に触れた森と白石の「殺害」のように、十分に認められる。しかしなお、クーデター未遂は、皇室が能動的に個人の身の安全を企図したのではなく、各個人の「立場主義」が貫徹された事例の一つであると解釈した方が、合理的に説明できるように思うのである。遅きに失したことは疑いようもないが、また、そもそも満州事変を始めるべきではなかったが、それでも、『日本のいちばん長い日』にかかるクーデター未遂劇は、登場人物の個人の「忖度」が歯車として噛み合ったレアケースではなかったか、と読むことも可能なのである。

 鬼塚は、森の遺体の所在が不問に付されてきたことにも言及する〔p.3など〕。#後日、追記予定。

 最後に、物覚えの良い本ブログの読者に向けて、田中光顕についての鬼塚の著作 『日本の本当の黒幕(上・下)』(2013年、成甲書房)に係る私の書評が、なぜ四つ星であったのかを説明しておこう(2015年10月25日)。それは、田中が暗殺者としては稀代の成功者であることを論証するところまでは、十分に成功しているように考えたためである。『…黒幕』の皇室批判は、比較的後景に退いているが、それでも牽強付会である点が否めないものである。ただし、本点は、同書の本筋に懸かるものではない。このため、過度の皇室批判を理由に星を減じることも、また主観的な判定となるものと思われたのである。

 ところが本作『…醜い日』は、皇室批判を主目的としており、鬼塚独特の「暗殺史観」は『日本の本当の黒幕』のように暗殺者の論理を明快に説明するものとして機能しない。彼の「暗殺史観」(前稿では「鬼塚史観」)とは、大要、わが国における近現代史において、暗殺が重要な転機をなしてきた、というものである。鬼塚の「暗殺史観」は、近現代における「黒幕」を皇室とその周辺に見出すものである。この徹底ぶりは、陰謀論者としての一つの芸風と言い切れば、それまでである。しかし、本作『…醜い日』に限れば、彼固有の動機付けは、この大目的の客観的な論証を妨げるものとなっている。本書に見られるすべてのアブダクションには、「皇室は徹底してマキャベリスティックであり、アジア・太平洋戦争の流血の責任はすべて皇室にある」という前件(前提)が潜む。この命題を何としても論証しようという鬼塚の姿勢は、バーガミニおよびレスター・ブルークスの著書に対する、批判的検証の矛先を鈍らせるものと認められる。バーガミニとブルークスの間に見られる齟齬は、鬼塚によって詳しく検討されない。その理由は、鬼塚の目的がバーガミニの目的と同一のものであったためではないか、と予想できるのである。鬼塚は、バーガミニの少年期の強制収容所体験を、森山尚美とピーター・ウエッツラーの『ゆがめられた昭和天皇像』(2006、原書房)から引用する〔pp.160-161〕。鬼塚自身の体験がいかなるものであったのかは、ルポタージュ的な調査が必要となるであろうから、これ以上は追究しない。


 いろいろと補足すべきこと・追加で調査すべきことはあるが、本書に係る批評の根拠は、以上で十分であろう。本稿における私の意見は、基本的に推測に基づくものであるが、それでも推測の整合性に自信を有している。ただ、今後、勉強を進めて、周辺事項を埋めていく予定であることも確かである。敬称等を省略したのは、表現の分裂を避けるためであり、一時的な措置である。

2016年7月25日月曜日

荒引健ほか, (2013). 『R言語上級ハンドブック』, C&R研究所.(書評)

 同書は、同書の冒頭で示唆されるとおり、R言語でビッグデータを扱うためのノウハウを示した書籍である。内容そのものは良いが、題名から予想される内容と同書の実際の中身は、やや乖離しているようにも思われる。統計学的手法についての解説は、他書を当たった方が良い。掲載されているスニペットは、基本的にヘルプファイルのものである。上級者に至る上で必要な、エレガントなRコードの具体的な書き方を指南してくれもしない、という点は、題名負けしているとも指摘しうる。とはいえ、ウェブ上で継続的に公開されるデータを分析するにあたり、一読に値する書籍である。
 単なる印象だが、ここ5年ほどの間で、ほかのプログラム技術に秀でていた人が新規参入したために、R言語は、統計方面に強みを有するスクリプト言語としての地位を確立したかのようである。



荒引健ほか, (2013). 『R言語上級ハンドブック』, C&R研究所, p.55.
関数説明
substitute言語オブジェクトの式を書き換える
quote引数を未評価の式として返す
enquote引数を評価した上でquoteして返す
bquote言語オブジェクトの式を書き換える
call呼び出しオブジェクトを作成する
do.call呼び出しオブジェクトを作成して評価する
expression表現式オブジェクトを作成する
eval未評価の式を実行する
evalq未評価の式を実行する。引数を評価する環境がevalとは異なる
parseファイルやテキストをパースして表現式オブジェクトを返す
deparse未評価の言語オブジェクトを文字列に変換する

2016年1月16日土曜日

書評:伊東寛(2015)『サイバーインテリジェンス』、菅沼光弘・北柴健・池田整治(2015)『サバイバル・インテリジェンス』

 伊東寛, (2015). 『サイバーインテリジェンス』, 祥伝社(祥伝社新書).と菅沼光弘・北柴健・池田整治, (2015). 『サバイバル・インテリジェンス』, ヒカルランド.を図書館で借りることができたので、読了した。これら二冊についての初見の感想を一文で述べれば、四名の諜報官僚が揃っておきながら、池田氏の巻末での発言を除けば、わが国においてもっとも優先順位を高く付けるべきである福島第一原発事故(への対策)についてまったくと言って良いほど言及がないために、総じて低い評価を与えざるを得ない、というものである。なぜなら、危機管理では、制限された手元のリソースを元に、優先順位を設定することが基本であるはずだが、福島第一原発事故への対応が現時点でもわが国の最重要課題であるという認識がなかったとすれば、インテリジェンス担当者失格であるということになるし、認識があったとすれば、日本語(おおむね日本人)読者に対してなぜ分かりやすく状況を説明できなかったのか、ということになるからである。

 福島第一原発事故がなかりせば、これらの内容でも一定の評価を与えることができたであろう。しかし、『サイバー・インテリジェンス』はともかく、『サバイバル・インテリジェンス』は、福島第一原発事故を主要な対象に据えない限り、題名を裏切る内容となる。いずれの書籍も、国家の存亡については言及している。しかし、国家の存亡に言及したこと自体をもって、福島第一原発事故を念頭に置いたとする反論は、通常の論理性を備えた人間には、理解できるものではない。

 著者らは、国家の危機を論じるのであれば、後世の日本語話者がいかなる境遇にいるものかを想像した上で、それらの話者がこれらの著書をどのように読み取るかを想像すべきであった。両書に示された、今後に共通する(ほぼ唯一の具体的な)対策は、より実効性の高いインテリジェンス機関の創設である。そうしたとき、国家を持たない立場に置かれた日本語話者が、どのようにこの提言を解釈するであろうか。後世の読者のうち、批判的な読書を習得した者は、「何を悠長に諜報官僚の焼け太りを推奨しているのだろうか」と誤読するであろう。著者らに対して刺激を与えることができそうな表現を用いると、現時点における国民益への心からの配慮が不足しているから、このような提言が出てきたのである。今さらのインテリジェンス機関の拡充は、戦力の分散、ひいては逐次投入になり得る。
北芝氏に至っては、国民に対するよりも他国に対する配慮がありありとうかがえる無言の状況が多く見られる。この点、『サバイバル・インテリジェンス』を企画したという白峰氏は、人選に失敗したというべきであろう。

 なお、彼らに対して同情的に考えてみると、四名がいずれも諜報官僚であるがゆえに、何らかの規範に抵触することになるから、福島第一原発事故を解決すべきという主張に至らなかったという見方は、一応可能である。しかし、私の直感で申し訳ないが、この状態は、彼らが今後も所属する「ムラ」からの指弾を受けないようにするための忖度に由来するものである。現に、吹っ切れた感のある池田氏だけは、福島第一原発事故の晩発性の健康影響が五、六年目以降に生じることを巻末において述べている。

 本段落では、福島第一原発事故について池田氏を除く三名が明確に言及しなかった理由について、大胆な憶測を加えよう。その理由の大部分は、官僚の習性である。以下、説明しよう。諜報機関が最も影響を受けている国であるアメリカからの指示が(日本側の理解できるような形まで十全では)ないために、日本国が機能停止状態に陥っていることは(、部外者である私より)、彼らこそが最も良く知るところであろう。それゆえに、アメリカ合衆国が日本国と利益上の競合関係にあることを明確に指摘した池田氏を除けば、著者らは、今後の言論業の継続のためにも、(アメリカ合衆国内の一部に過ぎない国際金融勢力からの指示を受けた)日本国政府の指示を待ち続けることが最も無難な策であると判断したと見て良い。加えて、現時点で福島第一原発事故の収束について言及することは、伝統的な仮想敵である中露との比較において、相対的な国力の低下を引き起こすことでもある(と彼らは信じているようである)。このような政治上の目的が不在となる場合、官僚は、不作為を唯一のデフォルトの方法とする。これは、官僚組織内の相互作用の結果として生じる現象でもあり、個人に体得された習性でもある。ただし、このような「見の姿勢」を取ったことは、彼らの過半が民間人になった現在も官僚組織を第一の利益共同体と見なしている内心を浮き彫りにするものであり、彼らの行動原理に官僚制が深く定着していることを示すものである※1。ただ、この結果は、好意的に解釈を加えれば、官僚としての素養(ディシプリン、規律=訓練)を体得したことをもって、彼らを責めるのは酷というものである。官僚は、目的の遂行を第一の存在意義としており、目的の設定や次世代社会の構想は越権行為である。職員が何らかの知恵を有していたとしても、その知恵を披露することは、建前上は、むしろ問題である。官僚が職務上の責任を職務を通じて十全に取ることは、悪しき処罰の前例を作るということからしても、不可能である※2。しかしながら、両書に見られた福島第一原発事故に対する不言及という官僚的態度は、新井信介氏のブログに寄せられたメールに見られるような「今の日本の権力層で「投了のやり方」をわかっている人が居るのか?疑問です。」(リンク)という疑問を持たれても仕方のないものである。また、結果から見れば、この「沈黙」は、官僚制が機能不全を起こしていることと、まったく変わるところがないものである。

 ただ、結果として両書が期待される水準に及ばない責任は、彼らのみに帰せられるものではない。彼らは、スパイという前職ゆえに、多くの情報を蓄えていようとも、現実を正確に描写する努力が許されない場合に度々直面するであろう。とすれば、この種の議論を気兼ねなしに行うことができる資格がある者は、守るべき国家秘密を有さない人物だけである。今こそ、自らの言説の十全さに対する責任を取ることのできる個人が将来の日本社会の構想を真剣に論じるべきである。また、憲法により出版の自由を担保されている出版界も、限定されたリソースをそのような国民益を優先する議論を行う人物に振り分けるべきである。

 まとめると、両書は、出版の時機を逸したものである。6年前なら役に立ったかもしれない。今となっては、両書に含まれる官僚的な「組織ハコモノ」発想は、むしろ有害である。

 なお、それでは、オマエの構想はどうなのか、と問われることが必至であろう。今までの記事において、私は、基本、ギブアップする=衰退をソフトランディングさせる、という方向性だけについては、断片的に述べてきた。別記事(リンク)にその構想の(現時点で思いつける限りの)全体を記す。



※1 北芝氏は、東大卒を始めとする官僚らしい官僚に対して、頭でっかち系であるとして、他書においても敵意を示してきたものの、『サバイバル・インテリジェンス』に見られた彼の無言は、彼の憎む官僚的態度そのものである。日本国民の側に立つ池田氏の言説に接して、北芝氏は日本国民のためになる態度を明確に示さなかったのである。仮に、北芝氏の態度が日本国民のためになるものであると主張するなら、それこそ、その理由を明確に世に問うべきである。それが官僚としてではなく、日本語で言論をなす言論人としての倫理というものであろう。それとも、無言自体は肯定の意を示すという標準的なディベートの考え方が、突然、ここでは適用されるとでも言うのだろうか。そうではないとするなら、その証拠を挙げて補足すべきであろう。

※2 天木直人氏や古賀茂明氏のように、辞任という方法が可能であることは承知しており、この点だけでも両氏を尊敬できると思う。


どうでも良い補足

この分野の書籍は、私の住む目黒区では一定の需要があるようで、3ヶ月(6名)程度、待たされた。このような盛況は、東大の駒場キャンパスや東工大の大岡山キャンパスもあり、また、自衛隊の目黒駐屯地があるという地域柄によるのだろう。

 ところで私は、従来、書籍は購入することを旨としていた。しかし、小遣いが減ったのも関係していないとは言わないものの、今後、荷物が多くなりすぎることから、現在は、自炊するまでもなく、また、自分のコアコンピタンスに影響しないものについては、購入しないということに決めている。代わりと言っては何だが、図書館を使えるだけ使おうと思うに至ったのである。

 なお、これだけ厳しい内容の指摘を行うからには、私自身も、ウェブを通じて一般公衆に意見を表明することについて、遅きに失しているという点に対する批判は、甘受したい。ただし、ブログが無料で閲覧可能である以上、一定の手抜きはやむを得ないものとみなしている点については、ご海容いただきたいと考えている。なお、著書を執筆するのであれば、私は、伊東氏のように、飛行機の中で読んで出典を思い出せない記事の出典を著書で省略するということはしない。それは手抜きに過ぎる。

 また、伊東氏の主張にあるように、仮に、インテリジェンスの結果として公衆の知るところとなる情報の多くが真実を語っていないというのであれば、伊東氏は、自身の著書についての信憑性を高める作業により多くの労力を割くべきであった、と私は考える。その根拠は簡単で、彼の著書には、新書とはいえ、出典がほとんどないのである。職務上であれ、人を惑わす偽情報を積極的に発信してきたことを主張する著者であるならば、なおさら、その主張の正確性の程度を他人にも分かる形で示すべきであった。このようなレベルの書籍が未だに標準的なものであるとみなされている=流通していることは、日本文化の劣化を如実に表す証拠である。後世の読者は、そのように考えても間違いというわけではない。


蓮池透氏の発言に関連して(平成28年1月16日)

蓮池氏が問題視している交渉直前の場において、警察関係者はいなかったのであろうか。『サバイバル・インテリジェンス』において、菅沼氏は、拉致問題を解決したい警察庁、対、日朝外交正常化交渉を始めたい外務省、という構図があることを指摘している(p.167)。正当な認識を正当に語ることは、被害者の側に立った政策を進めるための礎となる。また、当時の正確な認識を関係者が語ることは、誰のために仕事をしているのかの試金石となる。当時の関係者の覚悟のほどが問われる事態になっている。

2015年12月26日土曜日

飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子, (2015). 『「30万人都市」が日本を救う! 中国版「ブラックマンデー」と日本経済』, 藤原書店.(メモ)

 飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子, (2015). 『「30万人都市」が日本を救う! 中国版「ブラックマンデー」と日本経済』, 藤原書店.の題名は、同書が人口密度や都市空間のあり方についてまで触れていないことから、都市工学を学んだ者としては、羊頭狗肉の感を覚えざるを得ない。 同書については、別稿でも批判的に触れたが、今日、ようやく、なぜ同書の題名に不満を覚えたのかを言語化できたように思うので、(個人的に嬉しくて)メモしておく。

 同書の"30万人という人口規模は、ミュージシャンになりたい若者を抱える余裕を持つものである"という趣旨の指摘には、納得できるところがあるのだが、この30万人は、いったいどのような人口密度や都市構造の下に生活するのだろうか。ハワードの田園都市構想も、周辺部にこの規模(25万?)の人口を持つ都市を配するとは述べており、直感的には正しいと訴えるものがある。しかし、ハワードは、これらの人口は、田園郊外に居住するものとして描き出した。わが国でも、首都圏近郊の郊外住宅地(田園調布や成城、川崎市北部や横浜市の周辺部における私鉄開発の住宅地等)は、このハワードの構想に起源を持つ。これに対して、同書の30万人都市のイメージは、(同国人であろう私にも)良く伝わらないのである。都市生活における生活体験が都市者という存在を生み出したことは、ベンヤミンの『パリ――十九世紀の首都』におけるパサージュ論を読めば、良く分かることである。

 また、部分の集積は、必ずしも全体とはならないが、このことは、「都市」を「居住」や「建築」とは別個のものとして考察することの意義につながる。ちょうど、デュルケムの『社会学的方法の規準』が「社会」を「個人」に外在するものとして描き出したようなものである。なお、デュルケムは、同書で「物的密度」について言及し、距離が障害とならなくなったときに初めて、社会的な関係が生じることを述べている。一般に、わが国の都市の中心部の人口密度は、他の先進諸国に比較して低い。また、全体をゲートで囲むゲーティッド・コミュニティのような、住宅地をひとつのクラスタとして際立たせるような住宅地開発というものは、なかなか成功しにくい。それは、田園調布の周辺に、都市空間としては連続的に低質の住宅地が形成されていることを見れば、納得せざるを得ないことであろう。同様に、都市を田園から区分するという行為は、わが国では明らかに失敗している。わが国の都市計画制度は、ゾーニングを基本的な道具とするが、ロードサイド地区が全国の至るところに広がる状況となっている。30万人都市の都市空間は、いったいどのような密度でどの程度の範囲に収められるものなのか、飯田氏らの同書からは、うかがうことができない。

 あえて20世紀初頭までの古典を引き合いに出し(ハワードの田園都市構想もそうである)、飯田氏らの著書を批判してみたのは、30万人がいかなる生活イメージの下に生活すれば都市的と呼びうる文化を形成することができるのか、またどのような制度設計の下に形成されるのか、という二点の実際的な課題に対する解答を用意するにあたり、同書に確固とした思想的根拠が存在しないように思われたためである。同書は、明らかに増田寛也氏らの「消滅可能性都市」の議論を受けたものであるが、増田氏らの指摘に対して、いかに都市を存続させるのか、という解答を的確に与えるものではない。



※ この文は、平成28(2015)年1月5日に追記した。同書(宮島喬訳、岩波文庫)のp.224。

2015年11月13日金曜日

落合莞爾, (2012).『明治維新の極秘計画』, 成甲書房.

蜷川新氏は、幕末の忠臣として名高い小栗忠順氏(小栗上野介)の義理の甥である。『維新正観』は、同志社大学の国際法の教授などを務めた蜷川氏による明治維新再考論である。昭和27年、つまりわが国の独立後の間もない時期に世に問われた同書※1は、薩長史観ともいうべき教科書的記述に真っ向から対立するものであった。同書で、蜷川氏は、蜷川氏の義理の伯父※2であった小栗氏が暗殺されたと述べ、犯人の原保太郎氏から、直接そのことを聞いたと記している。このような証言は、一次資料であり、学問分野により取扱に差が見られるが、一般には、その真偽が慎重に検証されるべきであるとされる。

実は、今回の書評(というかメモ)の対象は、蜷川氏の『維新正観』ではなく、落合莞爾氏の『明治維新の極秘計画 「堀川政略」と「ウラ天皇」』(2012年, 成甲書房)である。星は★★★★☆(4つ)、学校で日本史を学んだ日本人なら、異説として楽しく読めると申し上げたい。「落合史観」の特徴として挙げておくべきことは、事の真偽はともかく、前の記事で紹介した鬼塚英昭氏の『日本の本当の黒幕(上・下)』に比べ、流血の量がかなり少ないことである。しかも、落合史観では、英王室スキャンダルにインスパイアされた英国の映画『バンク・ジョブ』※3もびっくりのどんでん返しが大盤振る舞いされる。

ネタバレを防ぐためにも『明治維新の極秘計画』の説明は、以上で十分なのだが、「陰謀論」の業界地図を作成するための作業の一環として、あえて、落合氏の説明で最も説明が苦しい点、つまり蜷川新氏が原保太郎氏から小栗忠順氏の殺害を直接聞いたことに触れず、「"官製史学"では」小栗氏が斬殺されたと記す〔p.263の写真題字〕点を指摘しておこう。鬼塚氏の描いた田中光顕伝は、多くの要人の血に塗れたダーク・ファンタジー風であるが、鬼塚説に対して、落合氏の描く明治維新は、要所要所に「義経伝説」を取り入れたことにより、よりロマン溢れるものとなっている。落合氏は、明治維新期に殺害されたとされる要人には、自身の死を偽装して、日本国の将来のために益々貢献した者も含まれるというのである。小栗氏は、まさにその一人であり※4、落合氏の予測では、榎本武揚の準備の後、塚原昌義が誘導し、フィラデルフィアに亡命したという〔p.269〕。本書には、小栗氏が旧三井物産の米国支社を立ち上げたとする「さる筋」からの解説がある〔p.262〕。

落合氏は、小栗忠順氏をこれほどに維新の立役者として顕彰するのだから、ぜひ、この点については、証拠を「さる筋」からの伝聞だけに頼ることをせず、本書でも探究の跡を示し、一次証拠である蜷川氏の主張を論駁して欲しかった。小栗氏は、Guido Fridolin Verbeck氏(フルベッキ博士)の1868(明治元#落合氏の説〔pp.289-290〕)年の「フルベッキ群像写真」に唯一写されていない維新の立役者ともいう〔p.290〕ほどであるから、なおさらである。この点の説明不足が手抜き過ぎるので評価の星を減じたが、しかし、私は、鬼塚説よりも落合説の方が好きである。ノブレス・オブリージュという語には、賢明さが含まれているべきであり、落合説に示された内容が本当であれば、鬼塚説に比べ、日本国には、まだまだ希望が残されているように思うからである

※1 今回参照したのは、昭和28年第5版を底本とした、2015年の礫川全次氏による復刻版であり、「秘められた日本史・明治篇」という副題がある。礫川氏の校注は、大変丁寧で参照する価値があると思う。

※2 叔父かも知れないが、確認は別の機会があればとしたい。

※3 ここの部分も書き飛ばしであるので、ここの確認も別の機会があればとしたい。最近、某ケーブルテレビでヘビーローテーションだったので見たのだが、これも大人の皆様にはお勧め、星は★★★★★(5つ)。

※4 ほかの事例は、落合書の要点なので、ここでは述べない。


例によって、以下、落ち穂拾いを記す。

#これでようやく、鬼塚史観だけではない、わが国の陰謀論の奥深さを示すことができたように思う。陰謀論者がまったく説明を試みないことのうち、私が訝しんでいる点は、次のとおりである:なぜ、伝統的な史学者が陰謀論に示された学説を一顧だにしないのか、また、蜷川氏のような「知るべき立場の人」にも「事実」が開示されないのか。これらは、現在の学問の広がりから言えば、相当フレッシュな課題である。科学・技術・社会論(STS)によっても説明できる題材とも思われる。これらの疑問は、あまりにもハイブロー過ぎるものであろうか。私の頭がイカれているのか?どうか、私の頭がイカれているだけであって欲しい。なぜなら、陰謀論の幾分かが史実であるとすれば、なぜ、現在の史学コミュニティがその誤りを追究できなかったのか、という議論に必ず行き着くはずであるし、また、そうした議論が行われるとき、念頭に置かれる構造は、フクイチ事故と同型のものになるであろうからである

#興味がある話題をGoogle検索したとき、「れんだいこ」氏のサイトの記事がよく上位に来る。密かに、素晴らしい先達だと思っている。本件でも出てきたが、あえてほかのところで出典を求めるようにしている。そうすれば、逆説的に、れんだいこ氏の言うことがほかの信憑性の高い資料を基に練られており、多くの範囲をカバーしていることが分かるからである

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_furubekkico.htm




2017年11月8日修正・追記

レイアウトをbrタグからpタグ中心に変えた。

以下、ネタバレ注意であるが、本ブログの読者なら、とっくにご存じのことであろう。

落合氏は、現時点までの間に、フルベッキ写真の中央に写された人物を大室寅之祐とする自説を撤回している。ただし、落合氏は、この自説と『明治維新の極秘計画』の主題である「大室寅之祐=明治天皇説」を別個に取扱うべきである旨を、斎藤充功氏との共著[1]に述べている。落合氏は、法人類学(forensic anthropology)研究に基づく写真鑑定の結果を「これに遵うほか」[2]ないと結論する一方で、落合史観の要諦である「大室寅之祐=明治天皇説」については、2016年7月の『ワンワールドと明治日本』に至るまで、見方を変えていない(ものと判断できる)。「落合・吉薗秘史」シリーズ3巻を確認できてもいないので、これらに対する私自身の見解は、宿題としておきたい。


[1] NDL-OPAC - 書誌情報
(落合莞爾・斎藤充功, (2014.9). 『明治天皇"すり替え"説の真相 近代史最大の謎にして、最大の禁忌』, 東京: 学研パブリッシング.)
http://id.ndl.go.jp/bib/025623363

[2] 明治天皇“すり替え”説の真相: 近代史最大の謎にして、最大の禁忌 - 落合莞爾, 斎藤充功 - Google ブックス
(2017年11月8日リンク確認)
https://books.google.co.jp/books?id=DZgSBgAAQBAJ&hl=ja&pg=PT6

2015年11月11日水曜日

デ・メスキータ、スミス, (2011=2013). 『独裁者のためのハンドブック』, 亜紀書房.

 モデルに基づく研究について多少なりとも造詣のある者は、本書を面白く読めると思う。読者層を限定すれば、星は、★★★★★(5つ)で、一読の価値がある。しかし、読者は、本書のモデルについて、限定的なものととらえて読むべきであろう。

 デ・メスキータとスミスは、独裁者の権力維持を説明するセレクトレート・セオリー(Selectorate Theory, 権力支持基盤理論)を提唱した。権力者ないし独裁者を支えるモデルは、盟友集団、影響力のある者、名目的有権者の三層からなるとする。前者の二層が「権力支持基盤」であるとする。権力者は、権力支持基盤の規模が比較的小さな場合には独裁者として、権力支持基盤の規模が大きな場合には、民主主義に基づく正統な権力者と認められる。このようにデ・メスキータとスミスは指摘し、いかなる権力者も独力では権力を維持し得ないという仮定から、独裁と正統な権力とが権力支持基盤の規模という連続性のある量により曖昧に区別されるものでしかないことを導出した。なお、(訳者である四本健二氏と浅野宜之氏の要約によれば、)三層の例は、次のとおりである。

盟友集団
独裁者を失脚させるだけの力を有する側近。
例:与党や軍の幹部、閣僚、部族集団や地域社会の長、企業の取締役。
影響力のある者
独裁者の権力掌握と支配に貢献し、影響力を有する集団。独裁者は、彼らに配慮し、彼らの好む政策を選択せざるを得ない。
例:当選者への投票者、与党党員・有力支持団体、大口投資機関家、軍、独裁者の出身部族、会社の幹部社員など。
名目的有権者
独裁者の選択に影響力を与えない集団。
例:一般の国民、選挙で落選した有権者に投票した有権者、小口の株主など。

 デ・メスキータとスミスのモデルは、静的な国際関係の下での独裁的な一国の定常状態を説明するものとして、適切なものであるように思う。他方で、このモデルは、動的な国際関係や国際的企業群の営利活動下において、それらの独裁的な、あるいは民主的な国々がいかに機能しているのかという点を捨象している。国際的な営利活動の影響を切り捨てているために、このモデルは、今現在の(わが国を含めての)混迷を説明するには役立つものではない。最も賛同を得やすい事例だけに留めておくと、一時期までの南米諸国における「保守的」軍事政権を理解するには、デ・メスキータとスミスのモデルよりもナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』の方がよほど通りが良い。過去のクーデターから現在の穏健的な体制への移行の結果、現時点で、南米諸国の苦境から多大な利益を上げて勝ち抜けているのは、主に米国に本拠地を置く国際的企業群であり、当の国民ではないのである。

※ デ・メスキータとスミスも、第8章において、災害等のショックが反乱または支配の契機になりうると述べているが、クラインは、企業群がそのような機会を常に窺うものだと見ている。この点、デ・メスキータとスミスは、ショックを例外状態と見ているのに対し、クラインのスコープは、ショックそのものにあり、両者には大きな違いがある。

※ 第9章における孫子への言及には、明らかに誤解が含まれる。ワインバーガー元米国防長官?に先立ち、戦わずして勝つことが上策であることを述べているのは、日本人にとって常識の範囲内だと思ったのだが(#この文は、ここまでまったく何も参照しないで書いている)、デ・メスキータとスミスは、孫子のテクストを戦争を前提にしているものと批判している。この明らかな誤りは、修正されるべきであろう。

2015年10月29日木曜日

渡辺京二, (1985=2007). 『北一輝』(ちくま学芸文庫), 筑摩書房.

渡辺京二, (1985=2007). 『北一輝』(ちくま学芸文庫), 筑摩書房.

 本書は、北一輝の独特な文体を、正統的なマルクス主義理解に立ち、明快に読み解くものである。

 本書の白眉は、第5章「天皇制止揚の回廊」及び第6章「第二革命の論理」にある。渡辺氏は、正統的なマルクス主義の理解に立ち、北の『国体論及び純正社会主義』に対する通俗的な理解を一蹴する。北は、人間が共同的な存在であるという信念の下(第4章)、当時の天皇制を社会主義に至るまでの過渡期とみなし、当時の社会における明治天皇崇拝(=国体論)を立憲君主制に矮小化しようと試みた(第5章)。北は、当時の政治状況を、社会主義への移行が藩閥や地主階級によるブルジョアジーにより妨害されているものとして描き出した(第6章)。天皇制を社会主義革命の道具として扱うかのような北の構図は当局に見抜かれ、『国体論~』は発禁処分を受けた(第6章)。『国体論~』の視座は、辛亥革命の体験記としても読める『支那革命外史』や『国家改造原理大綱』にも共通するものである。ただ、『~大綱』は、天皇制との直接対決から転じて、天皇を社会主義革命の道具として扱うとした点で、『国体論~』とは異なる戦術を取る(第10章)。

 渡辺氏は、北がヘーゲルをどの程度知っていたのかを不明としながらも(p.122)、北がブルジョア市民社会におけるアトムとしての個人主義を否定し(p.166)、西郷隆盛の周囲に見られた日本コミューン主義を弁証的に導き出した(p.169)ことを評価する。また、渡辺氏は、北の思考の論理性(=手段)を土俗的ではあり得ないものとしつつも、その議論が西欧型市民社会を拒否して共同主義(信仰)に到達したこと(=結果)をもって、土俗的であったと看取する(p.175)。他方、渡辺氏は、北の理論の鋭さと、北の提示した社会主義革命の空想性について指摘し、その乖離が後年の企業ゴロのような生活の原因となったのではと仄めかしている(第10章以降)。

 本書は、北一輝の思考の断絶性と逆説性を浮き彫りにする。断絶性は、著作の内部においては、理論の鋭さと計画の拙さに、著作と現実との対比においては、著作の視野の広さと企業ゴロとしての生活倫理の低さに、見て取ることができる。逆説性は、社会主義に至るために天皇を利用するという主張にも読み取ることができるし、北の出自と才能とに係る記述にも窺うことができる。
 ところがいっぽう、社会主義とは彼(#北一輝)にとって、〈共同社会〉主義を意味した。そしてこの、西欧型市民社会は人間にとってのわざわいである、人間の住みうる社会は共同コミューン社会であるべきだという感覚から逃れえなかった点、いや逃れえなかったどころか、その感覚を核心として全政治思想を組み立てざるをえなかった点で、彼はまぎれもなく土俗的な思想家であった。いうなれば、彼は日本の土俗の深奥から発する主題に、もっとも近代的な手法で解決を与えようとした思想家であったろう。つまりそれは、土俗のただなかから発する欲求の未開な土俗性をそぎとって、その普遍性を最高に近代的なものとして実現させようとする作業といってよい。日本基層民の反市民社会的な心性を社会主義革命に導く戦略は、そういう彼の、土俗的要求を人類史的普遍性の回路に組みこもうとする捨て身の戦略なのであった。(pp.175-176)
しかし、中世の偏局的社会主義と近代の偏局的個人主義との統合を目指した北の方法は、いろいろな留保を置きながらも、大局的には、国家=社会を個に優先させる全体主義的政治哲学の系統に属するものとなった(p.178)と、渡辺氏はいう。換言すれば、その理論から生じる落差を埋める試みに、北は失敗しているのである。その理由の一つめは、公民国家(ネイション・ステート)について、北がギリシア・ローマの戦士共同体的国家のように国民が生命を捧げる対象であると美化し過ぎたこと(pp.180-183)である。二つめは、北が明治国家を封建的観念から解放された自律的な人格と見なし、全体イコール個であるという国家理念を示したことである(pp.184-186)。渡辺氏は、「民族国家という視点を廃棄できぬかぎり、その命題はつねに国家至上主義的マヌーヴァーに終る。(p.188)」という。北の思想は、スターリンや毛沢東が辿った歴史と同一の成行きを辿った(p.188)のである。

 本書は、先の引用のようにパラグラフライティングされており、(私の文に比べると随分)読み易い。同時に、(私のように)猫も杓子もマルクス主義という時代よりも後に生まれた読者にとって、マルクス主義がどのように革命史観から脱却しつつあったのかを窺う上でも、本書は貴重である。革命には流血が伴うが、本書は、その命題に対するマルクス主義者の知性の到達点を示唆するものでもある。現在のわれわれは、郵便性という東浩紀氏が日本で広めた概念なども手に入れており、北の言説の数々に対して、また違った読みができるのではないかと思う。(#すでに偉い人がやってるはずだが、私は三歩で忘れる動物なので、メモなしに思い出せない。)




以下は、書評というより、要約である。

 北の思想は、生まれ故郷の佐渡島を感じさせない、論理で貫徹されたものであった(第1章)。北は、23歳にして『国体論及び純正社会主義』を著した。北は、わが国旧来の土着共同体や基層民社会に息づく市民社会への反発心を活用しながら、社会主義国家に到達するための道程を思索した。北の回答は、明治維新から立憲君主制としての天皇制へ、次に社会主義へという、二段革命であった(第5・6章)。しかし北は、普通選挙のほかに、その理想を実現する具体策を見出すことができず、国民が普通選挙を利益の授受関係としか理解しなかったことを読み誤った(第6章)。

 渡辺氏によると、昭和36年の日露開戦論に際して北が唱えた主戦論は、典型的な労働者階級の祖国防衛論である。北の論理は、科学的社会主義を無政府主義と区別するものは国家の存在であり、ロシアの帝国主義に対峙し、社会主義を実現するためには、主権国家である日本を防衛する必要がある、というものであった。この論理は、第一次世界大戦における第二インターナショナルの立場に先行するものであると、渡辺氏はいう(以上、p.72)。ただし同時に、「議会を通ずる社会主義革命」、革命遂行のための「機関と羅針盤」としての国家、という科学的社会主義の道具立ては、開戦論における北の思想の中心ではなく、むしろ民族国家主義が本質である、と渡辺氏は指摘する(pp.72-73)。乏しい領土と資源しか持たない国家は国際的プロレタリアートなのだという佐野・鍋山の転向上申書の論理は、北の以上の主張に先取りされているという(p.74)。
 『国民対皇室の歴史的観察』は、後年彼が『国体論及び純正社会主義』で展開した乱臣賊子論の原型である。彼は、「克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を戴く、是れ国体の精華なり」という「国体論」が「妄想」にすぎぬことを、この論文で示そうとした。そのような妄想が「学問の独立を犯し、信仰の自由を縛し、国民教育を其の根源に於て腐敗毒しつゝある」からである。それはわが国の光栄ある歴史と、祖先の大いなる足跡を冒瀆するものであるばかりか、「黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途」をはずかしめるものなのである。いかにしてそれは打破しうるか。「わが皇室と国民との関係の全く支那欧米の其れに異ならざるを示」すことによって、打破しうる。こう前おきして彼は、蘇我氏より徳川氏に至るまで、日本国民は一貫した乱臣賊子にほかならなかったことを、赤裸々な筆致で素描するのである。(pp.61-62)

 『政界廓清策と普通選挙』でさらにわれわれの注意をひくのは、この青年が「満韓に膨脹せざるべからざる帝国の将来」という言葉を書きつけていることである。(...略...)ほぼふた月前に発表した『日本国の将来と日露開戦』において、満州・朝鮮・東南シベリアを「大陸に於ける足台」として領有することを主張していたのである。(...略...)むろんこれは内田良平の『露西亜論』あたりに示唆された着想であろう(...略...)。(pp.65-66)
 見るごとくこの青年は、すでに二十歳の時点においてかくのごとき対外膨脹論者であった。これは彼の終生変らざる本質のひとつであって、北の思想の骨格をごく表面的に要約すれば、天皇制打倒と大陸膨脹主義の特異な結合、すなわち天皇なき革命的大帝国主義と形容してさしつかえない。もちろんこの膨脹主義は、その道義的根拠を説明されねばならない。それはこの二十歳の若者の可憐な道心であった。九月十六日から二十二日にかけての佐渡紙で、彼はさらにおなじ論題で再論を行った。(p.66)
 彼が依拠したのは端的にいえば、帝国主義の相互性という論理である。これは一面では、白人種の先進帝国主義列強の包囲攻撃のなかで、平和政策で妥協をさぐろうとするのは、座して死を待つものだという論理である。眼には眼を、帝国主義には帝国主義をという次第であって、しかもこの帝国主義は、強者の帝国主義に抵抗する弱者の帝国主義であり、アジアの黄人種にとっては自衛権というべく、「上帝」もこれに対しては「寛大」たらざるを得ぬというのである。これはいわば危機の論理といってよく、「吾人は白人の奴隷として彼等を養はんが為めに生れたる者に非らず」という蘇峰の『日本之将来』の口移しに見るように、明治ナショナリストの基本的危機感の系譜に属する何の変哲もない論理である。(pp.66-67)
だがそれは一面では、「吾人は不幸にして帝国主義の罪悪の時代に生る」という居直りの論理でもある。英国がボーアにほどこし、米国がキューバにほどこしたところを、日本が満州にほどこして何がわるいか、日本ばかりが悪者と指弾されねばならぬ理由はないというのであって、これはのちに昭和前期の日本帝国の外交担当者が、内心かたく持したばかりでなく、たびたび外に対しても表明した論理であった。そしてこの領土再分割の論理は、世界史を民族の生存権の闘争と解する北の民族興亡史観的解釈のストレートな産物でもあった。(p.67)
 ただこのシニックなリアリズムに立ちつつ、この二十歳の青年は(...略...)自分の説くところを「侵略」と自認しつつ、その悪を通じて結局は善をもたらしたいという可憐なのぞみをかくすことができなかった。(p.67)
『国体論及び純正社会主義』は、受容までに20年の歳月を要したが、同書で示された天皇制との闘争路線は、「自殺と暗殺」『革命評論』明治39年11月10日号によって、天皇制を「革命の側に盗み」取るものに変更された。度重なる著書の発禁と革命評論社を中心とした「十三年の経験は、彼にろくでもないものを、より多くつけ加えた」(第7章)。

 中国への渡航後、北は、大隈重信に入説するため『支那革命外史』を執筆し、日本と中国が革命帝国として共存するためのプランを提示した(第9章)。日本は、英国をアジアから駆逐し、香港・シンガポール・豪州・ニュージーランド・英領太平洋諸島を奪取する。インドは独立させる。中国は、ロシアと戦争し、内外蒙古を確保する。日本は、ロシアからバイカル以東のシベリア沿岸諸州を奪う。満州は日本が保持する(p.289)。同書は、辛亥革命の証言としての意義を有するとともに、北の予測の鋭さと計画の空想性との乖離を示す資料としての価値を併せ持つ。大正5年には法華経を受容している(第9章)。

 中国再渡航後、帰国前に『国家改造原理大綱』を執筆した(第10章)。同書は、『国体論及び純正社会主義』の具体化に向けての法律論を含み、『支那革命外史』に示された対外膨脹主義の綱領でもあった。天皇制ファシストの理論上の手本となる「擬ファシスト」と見なされながら、大資本廃絶の指向性が極端に過ぎること、天皇を社会主義革命の道具として利用する天皇観が行間に読み取れることの二点により、北は、『大綱』の責めを負い、やがて刑死することになる(第10章)。北は、帰国後、皇太子に法華経を献上(p.328)し、大川周明と仲違いし(pp.333-335)、手下の浪人を養うために恐喝事件の糸を陰で引いたり企業から金をせびったりした(pp.335-344)。



 最近、私自身は微妙に近代史づいているが、それには理由がある。満鉄=現今の日本出身の財閥、(大陸)浪人=ネトウヨ、といった図式は、ほかの要素や成員が大きく異なるとはいえ、現今のわが国における不穏な空気の理由を、それなりに十分に説明できるように思うからである。近年、わが国の大財閥は、四割程度の株式を国際金融勢力に取得されているが、私の理解によれば、当時の財閥の行動様式は、最近のものとさほど変わりない程度に国際化されたものである。

 鬼塚英昭(2013)の書評(リンク)では、北一輝の理解を通俗的なものに基づき記したが、この点を補足しておきたい。第一点、本書ほどに北一輝の著書を読み込んでませんでした。アホですんません。第二点、それでも、安保運動当時の大衆がどう受け止めたかが重要であり、本書の底本が1985年なので、結果としては、当時の大衆は、おそらく、私のような通俗的な読みをしていたと考えた方が妥当だろう。横断歩道を皆で渡った感がある。

 陰謀論は、玉石混淆であり、整理されなければ、私の頭では追い切れない。その作業を通じて北一輝についても私自身の考え方を明示することは、日本の行く末まで含めて的確な予測を行う上で必要不可欠な作業であるが、現在の時点では、その材料に不足しているし、(アホな話まで含めて個別の命題を逐一検証していく上で必要な)才能も不足しているかもしれないと感じ始めている。ペースを上げるとしても、あと2倍速くらいまでだし、それだけ頑張っても追いつかないかもしれない。

 平成27年11月8日追記

文意を変えない程度に一部の文言を修正した。

平成28年10月17日修正

あからさまに間違いに読める部分を修正し淡赤色で示した。