『ウォーキング・デッド』(The Walking Dead)シーズン6がFox HDで始まった。18禁の内容で、わが国のテレビシリーズではあり得ないグロテスクさなので、良い子(の未成年)は観てはいけないのだが、ゾンビ学なんていうものもある昨今、流し見であっても、いろいろと示唆があることに気付かされる。陰謀論の世界では、『Back to the Future』第一作の9.11に対する警告が有名だが、多数の映画やゲームなどで、来たるべき災厄が繰り返し計画・警告されてきたという考え方が広く浸透している。ゾンビというシンボル界隈では、当初の歩くゾンビから、ゾンビ映画の第一人者であるジョージ・ロメロ監督の古典的名作をザック・スナイダー監督がリメイクした『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)により「走るゾンビ」が一般化された後、程なくして※1、ゾンビは、暴徒つまり人間であるという理解が一部に共有されるようになっている。
ゾンビ映画、いつしか全力疾走するヤツらが出てくるようになったのですが、... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1226776947
※1 正確なところでは、上記リンクが正しいのだけれども、時代の空気や出来事と合致したという点では、やはり『ドーン・オブ・ザ・デッド』を「走るゾンビ」を定着させた映画として扱うべきだと思う。2005年8月のハリケーン・カトリーナによる災害では、(全方位に不謹慎な表現であるが、)被災者をゾンビのごとく扱うという批判がなされる一方で、掠奪に走る被災者をゾンビと見る動きも生じた。そのような人災を生じさせないという観点から、『Zombie Squad』のような非営利組織が生まれてもいる。2009年には、一人称視点シューティングゲーム(FPS)の『レフト4デッド2』がリリースされているが、その舞台は、ハリケーン・カトリーナによる災害を想起させる。なお、このゲームは、前作からのリリース期間が短く、前作に対する十分なサポートを行っていないという批判が寄せられた結果、近年まで前作・本作ともに手厚いサポートがなされたことでも知られる。陰謀論者としては、ニューオリンズを彷彿とさせる舞台を見せたいがゆえに、サポートを急いだのでは、という見方も(与しないが)可能であるとも考える。
Zombie Squad | We Make Dead Things Deader
https://www.zombiehunters.org/
ゾンビと人との関係性に着目するという流れは、ゲーム業界では、多数のプレイヤーがサーバ上でプレイする『Dayz』にも引き継がれた(#私は、その中毒性を恐れるあまり、このゲームをプレイしておらず、動画を見るだけである)が、このゲーム上では、接近戦しかしないゾンビよりも、他プレイヤーが圧倒的な脅威となっているようである。オンラインRPGの黎明期より、モンスターの群れを他プレイヤーにぶつけて漁夫の利を得る(Monster Kill)という方法は知られていたが、ゾンビ物においても、この流れは確立されているのである。ともあれ、多くのゾンビを題材としたゲームでは、ゾンビよりも、むしろ人間が圧倒的に警戒すべき存在として描かれている。(もちろん、多くのゾンビ物映画においては、人間同士の諍いこそ、物語の流れを規定する要素である。)
オンラインゲーム上では、ゾンビという災害は、全プレイヤー間に協力を生じさせるものではない。むしろ、他人を食い物とする契機に多用される。しかし、現実の災害時には、被災者間に密な協力関係が生じることは、『災害ユートピア』が指摘したことである。本点に係る研究は、耳学問でしかないので、別途文献調査を必要とするのだが、私個人は、東日本大震災時、帰宅困難者として帰宅途中に、「集団下校」のような一種独特な社会関係が構成されたことを観察している。また、政府の自殺対策基本法が平成18年6月21日に公布、同年10月28日に施行されて以来、各年齢層の自殺率は減少傾向にはありつつも、東日本大震災以降に若年層の自殺率が大きく減少したことは、災害が生命の大切さを示すというパラドクスが成立しうる可能性を示唆するものであり、災害ユートピアの成立と方向性を同じくする現象であると思われる。
亜紀書房 - 亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ Ⅰ-7 災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか
http://www.akishobo.com/book/detail.html?id=467
『ウォーキング・デッド』シーズン6に戻ろう。15フィート×12フィートの鋼鉄板の壁で囲まれた高級郊外住宅地のアレクサンドリア(Alexandria)に招き入れられたリック・グリムス元副保安官ら生存者一行であるが、それまでの道のりの険しさから、容易に人を信用せず、壁の外の脅威に対する元からの居住者たちの生き方を甘いものと感じている。パンデミック時点からの居住者たちのリーダーであるディアナ・モンロー元上院議員は、リックらの腕と経験を信用し、様々な活動において一行のメンバーを重用してきた。今シリーズでも、ある重大な作戦についての決断をリックに委任するところから、話が始まる。
今作は、私には、空間の設定が隠喩のように思えてしまう。壁の内側が西洋文明社会であり、比較的安全だった周辺は、ある理由で安全だったことが分かる。そして...ということで、画面に映し出される地形などに多少は注意していて見ていたのだが、直接、特定の地域を想起させるようなところは見出せなかった。まあ、私はそこら辺のセンスが悪いので、ほかの人が何か見つけたかどうかを注意するようにしておきたい。
それにしても、何かを見つけるセンスといえば、良くもまあ、&TOKYOも調べるものだ、と感心する。
あと、蛇足なようで、かなり真面目な本筋の話なのだけれども、日本語メディアだと、『アイアムアヒーロー』のように、どうしても、突然変異種がギミックとして出てくるように思う。それはそれで日本の伝統芸能なので、創作活動としては理解はするのだけれども、現実の問題を想像する上での助けになりにくくなってしまうようにも思う。日本の文化では、ヤバイ事態をまじめに考えるということになると、外形的には、工作資金注入済みの「と学会」と同一視されてしまう事態が生じる。なので、どうしても、その種の活動を本気で試みること自体にブレーキがかかる仕組みとなっている。これは、案外、わが国における原発安全神話の構築とも連動しており、無視できない種類の脅威ではある。
そして、ゾンビのような目に見える事態の方が、放射能の脅威よりも、やはり、人は動きやすいのだろうか、という一言を付け加えることもしておきたい。私は、その点、すでに半ばゾンビである。
2017年9月9日訂正
事実関係に関する誤記などを訂正するとともに、brタグをpタグへと変更、リンクタグの位置を変更した。
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