2015年10月30日金曜日

自由貿易の徹底もいずれはコーポレーショニズムに至る

TPPは複雑で巨大な管理貿易圏である 一部業界の利益を優先し、国民に高いコスト強いる | ビジネスジャーナル
http://biz-journal.jp/2015/10/post_12149.html

経済ジャーナリストの筈井利人氏は、TPP案文が複雑なのは、政治力のある一部の業界の利益を保護するためであると解説し、TPPは自由貿易圏ではなく管理貿易圏だと指摘している。また、自由貿易がパレート最適となると述べた後、TPPが自由主義経済ではなく縁故資本主義であると批判する。さらに、TPPの交渉過程が秘密とされたことは、TPPが政府および政府と親しい一部の事業者に利益を供与するものであることを示唆するともいう。徹底した自由主義に基づく見方に与すれば、確かに筈井氏の指摘は妥当なものである。

しかし、自由主義の徹底は、現在の人類が一定の土地から一定の資源を得て生きていく以上、国家及び企業権力の再編成にしか到達しないのではないか。このような直感に基づく素朴な疑問が湧くのだが、この点を確立した研究の形で提示する日本語の論者には、お目にかかれていない※1。他方、近年の映画や小説やゲームでは、複数のコングロマリットが覇権をかけて合従連衡するものが多く見られ、想像力のプロの面目躍如といった感を受ける。たとえば、Cid Meier's Civilizationシリーズ(以下、Civ)の最新作である『Cid Meier's Civilization: Beyond Earth』では、再編成された国家群が3種のコングロマリットから支援を受けて植民星で争う。

Civは、文明が世界に覇を唱えるべくあらゆる手段によって相争うというゲームであり、文化や外交による勝利も可能ではあるが、そのような勝利を追求する際にも、かなりのリソースを軍事に割く必要がある。なお、Civシリーズには、アイコンやらゲーム中に登場する絵画やら音楽やら、至るところにワンワールドの形跡が見られるが、この点も面黒い。たとえば、『Cid Meier's Civilization V』の拡張キット『Brave New World』のオープニングテーマを名曲だと思うと、原典は『ヨハネの黙示録』21章だったりする。Civを数百時間やり続けると、たとえワンワールドが実現されるにしても、軍事から警備までを守備範囲とするセキュリティ産業全体は、決して不要になることはないし、リソースの2~3割は持って行くぞ、という神託が得られたりする。こういうゲームに馴染んだ世代は、確実に、世論の動向を変化させるだろう。

ところで、対外的な軍事産業と国内的な警備産業、不信の眼差しを向ける相手がときに保護すべき対象者でもある、というように、セキュリティ産業は、双面のヤヌス神の貌を持つ。その適正なあり方は、国民の安全に対する相場観にも左右されるという、厄介な再帰性を有している。この困難さを扱う和書は少ないが、その一冊として、永井良和, (2011). 『スパイ・爆撃・監視カメラ―人が人を信じないということ』(河出ブックス), 河出書房新社.を挙げることができる。Amazonの和文レビューはひとつのみで、3つ星を付けられてしまっているが、セキュリティ産業を分析する必要のある研究者には、必読書である。

自由主義がホッブズ的自然を渇望し、またときに、自身の伸長のために惨事の種を撒くという指摘は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を貫くモチーフではある。ただし同書は、遠く離れた米国内の安全な本拠地があるという前提で、惨事便乗型資本主義を描き出す。イラクにおいて壁に囲まれた「植民地=租界」が作り出され、本国と同様の店舗が軒を連ねているのだという。成長を前提とした経済は、新たな開拓地を常に必要とするが、惨事便乗主義は、開拓地を常に作り出すという方法を発明したというのである。

上記の材料を混合すると、次の流れが見えてくる:現今の自由主義の徹底は、地球が現在の資本に対して十分に広大な領域でない以上、国家、企業、個人の各層におけるホッブズ的自然を必然的に産出するとともに、その自然状態に対抗するための重セキュリティ国家を出来させる。重軍備は、信用ならない相手の存在が国民に喧伝されるという手続きを経て、肯定される。ごく最近の南シナ海における米中関係の軋轢は、わが国において(のみ)過剰に報道されているが、日本国民は、その意味を十分に汲むべきである。

日本という環境において、従来以上に自由主義の徹底が進められたとき、何が起こるのか、偉いと見なされる身分にある人が説得力のある形で示して欲しいものだ※2。以上、永井氏の著書に対して寄せられた「題材があっちこっち飛びまくっている」という批判を意識して、ぶっ飛び気味に、TPP、Civ、ホッブズ的自然という題材から、セキュリティ国家の到来というオチを持つ三題噺を私も示してみた※3次第である。


※1 現在の日本の辿る歴史は、ホッブズの『リヴァイアサン』に示された論理と大筋で同じもののように思われるが、この観点から、現代のわが国における権力関係や社会関係の再編状況と、それらの将来を解き明かしてくれるような学識経験者には、なかなかお目にかかれないということである。TPPに反対することは、反対すること自体が一つの主張であり、日本人が落ち延びる先としての選択肢が増えるために望ましいことではある。しかし、たとえTPPが潰されたとしても、わが国における権力や社会の向かう方向性が変わることはない。この先は、具体的な政治の世界だとして話を終わらせることは可能ではある。しかしながら、よりマシな方向への道筋を示すことは、日本国民の利益を最優先順位に置いて考えることが可能な、またそうすべきである立場の者の仕事である。つまり、日本国民の税金により養われている者のうち、本分野に関係する者には、発信の義務があるということだ。

※2 平成27年10月現在の今でこそ、共産党に近い論調の研究者たちによる、平成14年以降の生活安全ブームに対する批判が妥当するようになりつつあるが、当時の批判は、結論から言えば、先走ったものであった。それどころか、むしろ、却って質の良くない監視社会を惹起した可能性すら認められる。第一に、日弁連も同じソースに依拠したが、彼らの採用した防犯カメラの効果に関する批判は、旧来のC2報告書によるものであり、当時英語では報告されていた報告書に基づくものではなかった。この事実の帰結は、効果測定に係る研究が蓄積され更新される性質を有するものであるにもかかわらず、その土俵に乗る努力が放棄された結果、定量的研究として信頼に足る研究がわが国では十分に蓄積されず、本当のところは何も言えない、という現状である。(#わが国には、C2でいうところのレベル3研究しか見られない。)この事実は、社会的身分のある大学教員が有効性に見込みのない批判をなすことにより、リソースを無駄にしたということにならないか。

※3 永井(2011)は、セキュリティを対象とした、落語にいう三題噺である。野暮を承知で記すと、本書の落ちは、セキュリティ強化と人間不信との相互亢進性である。書名に示されるスパイ、爆撃、監視カメラという題材は、本来の三題噺とは異なり、著者本人が用意したものであり、他レビュアの指摘のとおり、突飛な内容ではある。しかし、これら三題は、当時の論壇における浅薄な警察国家批判に覆い隠され、従来指摘されてこなかった人間不信に至る社会構造を明るみに出す上で、十分な材料とはなっている。セキュリティに係る社会設計に従事する者には、本書は必読である。




2018(平成30)年02月03日修正

レイアウトをbrタグからpタグ中心に変更した。文章を直したい気持ちが強いのであるが、そこは堪えて、当時のままとしてある。

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