2017年7月26日水曜日

(メモ)わが国の大メディアも「必ず嘘をつく」

本稿も、タイトルだけで、意を尽くしている。言い換えれば、近い将来の動向を占う上で、「ここ四半世紀ほどの間、わが国では、マスコミが一番のワルである」と解釈しておけば、それほど道を誤ることはない。「マスコミが全力を以て叩く相手は、まず間違いなく、マスコミよりは支持すべき存在である」というルールも生成される。「マスコミの金主が最悪である」という最終ルールも派生る。これら現今の日本語マスコミの特徴は、構造的ではあるが、改善可能な問題であって、堤未果氏が権力構造に係る必然的な帰結として『政府は必ず嘘をつく』と主張するような、回避不能なものではない。

クロスオーナーシップ・押し紙・記者クラブ(とそれに伴うメディアスクラム)は、いずれも「真の金主」から生じる構造的問題であると考えられる。本日朝刊の読売[1]・朝日[2]は、ともに今日から「フェイクメディア特集」を開始しているが、これら競合する(プロレスにいう)アングルを形成する二紙の相似的な行動は、これらの構造的問題から生起したものであると認められる。法律を適用可能かどうかはともかく、このような協調的行動の背景に通常人が共謀の影を読み取ったとしても仕方ない。「陰謀論者」と指弾される言論者が、「国際秘密力集団」という「共通の背景要因」を「大メディアの統一的行動」の影に認めてしまうのには、相応の理由がある。これがトランプ氏に対する一回こっきりの一大キャンペーンであるなら、偶然と片付けることもできようが、わが国の政治家だけについて見ても、田中角栄氏、竹下登氏、金丸信氏、福田康夫氏、(首相時の)麻生太郎氏、小沢一郎氏、鳩山由紀夫氏、(改心?後?の)安倍晋三氏というように、メディアの協調的な行動は、常に横並びという機制だけでは説明できないほどに、斉一的である。


[1] 『読売新聞』2017年7月26日朝刊13版6面国際「メディア 米国のいま 上/都合のいい情報が「真実」/偽ニュース SNSで拡散」

[2] 『朝日新聞』2017年7月26日朝刊13版6面国際「広がる「うそ」 世界は 上/世界発 2017/偽ニュース 悩める欧州/世論刺激 選挙に影響も/ロシア対策 摘発次々に/メディア協同で真偽判定」




2017年8月18日訂正・追記

本文を意図を変えない程度に訂正した。ただし、鳩山一郎氏というのは、(首相在任時の当時の表記では)由起夫氏の間違いである。ここに記して、お詫びする。表記した順番あたりから読み取っていただけていれば、というのは、当方の甘い期待である。

なお、宇野宗佑氏や橋本龍太郎氏を上掲の列に加えるか否かを検討したが、特に橋本氏のハニートラップについての記述が膨らみかねないものであったので、その煩雑さを避けるべく、上記の表記に留めた。実例を列挙するという問題は、意思決定理論にいうところの「アローの(不可能性)定理」が当てはまる種類の問題である。ほかの人には、ほかの人の芸風があろう。私の表現の未熟さは、その難しさに免じて、大目に見ていただけるとありがたい。




2017年8月22日追記

日本の首相経験者を遡ると、石橋湛山氏も実例の中に含めうる。ただ、不勉強のため、実際のところ、石橋氏の引退が何らかの工作によるものかは、現時点では分かりかねる。っていうか、機密解除されるなどしているはずである(し、それを調査したジャーナリストやノンフィクション作家などもおられよう)から、私の不勉強振りが良く分かるというものである。




2017年8月27日追記

22日の追記分で「日本の首相経験者」などと書いてしまったが、そうなると、金丸信氏を含めたことの整合性が取れなくなるし、小渕恵三氏についても言及すべきであったということになってくる。ここに挙げた実例に関する数々の不具合は、私の不注意の産物に過ぎない。ただ、わが国の首相のスキャンダルに係るマスコミ報道が信用ならないことだけは、間違いないものと主張できよう。

(メモ)ゾンビものにおけるゾンビはグローバリズムの暗喩であるが人間社会の側は地域社会を反映している

制作者たちが意識的であるか否かにかかわらず、近年の、予算の小規模な(、つまり、国際秘密力集団の影を感じ取ることの難しい)ゾンビものにおいては、ゾンビに対応する人間社会の側に、制作者の土地の文化が息づいている。この一方で、ゾンビは、グローバリズムの侵略によって奴隷と化した人間の平等性を示唆する存在である※1。ゾンビというモチーフは、制作者の意図にかかわらず、そのように解釈されることを避けられない存在である。この「ゾンビ=グローバリズム」と「人間=地域性」という対比関係※2は、ゾンビ・パンデミック(大規模感染)時であればもちろん、ゾンビ・ポスト・アカポリプス(社会崩壊後)※3後においても、変わらない。ある国を母体に制作されたB級風味漂う作品には、制作された文化の遺産が色濃く繁栄されているようである。日本の場合、たとえば花沢健吾氏の『アイ・アム・ア・ヒーロー』のように、大規模怪獣ものになったり、脈絡なく外国の状況が(国際秘密力集団の関与が強いと認められる他の作品に比べて、正確な描写とともに)提示されたりということ(この文について、ここまで私の解釈)が、ゾンビもののルールにとらわれず、作者の思うように描かれている(この文における根拠は、映画公開?にあたっての『スピリッツ』の特集記事であるが、正確な出典は、国会図書館にでも行かなければ、突き止めることが難しそうである)。商業出版における各出版社の規則・スタイルを考慮すれば、この特徴は、大変に興味深いことである。かつての特撮ものに、国際秘密力集団を超克するための手段が示されてきたことは、やはり、深掘りする価値がありそうである※4これら非国際秘密力ゾンビものは、ゾンビという、国際秘密力集団が流行させようとするミームを利用していても、人間社会の側に地域性を(不用意に)埋め込んでしまうことにより、グローバリストの目論見である「人類みな(ゾンビ)兄弟」という理念を、真逆のものとしかねないかも知れないのである。


#先月(2017年6月17日)、ケーブルテレビの『ムービープラス』で放送された、『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ(Wyrmwood: Road of the Dead)』を鑑賞し始めて、本ブログに明記しておく必要性に気が付いた。これらは仮説ではあるが、真実を衝いていると勝手に思っている。なお、この映画のタイトルの「of the Dead」は、もちろん、ジョージ・ロメロ氏(2017年7月16日に亡くなられた)への表敬の意を示すものと解される。


※1 作品間を比較すると、たとえば、走る・歩くといった大きな差異が議論の対象となるが、こういった表象そのものに係るオタク的な議論は、国際秘密力集団という金主をスモークし、この金融家集団への興味を逸らすという点で、少なくとも、本稿においては、本質的な要素ではない。

※2 私は、国際秘密力集団の走狗でもないしエージェントでもないつもりであるから、この二項対立の先に「止揚」などと称して、「第三の道」を用意することはない。

※3 この区分は、岡本健, (2017.4). 『ゾンビ学』, 京都: 人文書院.の業績として、顕彰されるべきことであろう。

※4 注記2のように言明したとはいえ、このモチーフそのものは、すでに皆が広く知るところになっている。




2017年7月28日訂正・追記

本文中に追記した。




2017年9月15日訂正・追記

邦題を誤って『マッドマックス/怒りのデス・ロード』(2015年)とごっちゃにしていたことに、ようやく気が付いたので訂正した。邦題は、オーストラリアを代表する『マッドマックス』の最新作にあやかったのであろう。オーストラリアの自然は(、私は、動物番組でしか見たことがないが)、『ゾンビマックス!…』(2014年、日本公開は『映画.com』[1]によれば、2016年2月)の至るところに漂っているようであるし、レイダー風に武装した主人公たちが冒頭から暴れるところは、『マッドマックス』シリーズへのオマージュであろう。『マッドマックス』初作との対比の中で、人間に比べてゾンビが相手なら暴力コンテンツの縛りが緩くなるという不可解な「お約束」も、当然意識されているであろう(。それぞれの主人公の家族の運命に注目せよ)。邦題も、程良くオーストラリア風味を伝える良い和訳ではないかと思う。ただ、『マッドマックス』(の少なくとも)最新作のロケは、オーストラリアではないようではあるし、その自然を伝える雰囲気もないが、ウォータンクに対する攻撃は、捕鯨を彷彿とさせるものであるから、やはりオーストラリアの「遺伝子」は存在するものと考えて良かろう。

[1] ゾンビマックス! 怒りのデス・ゾンビ : 作品情報 - 映画.com
(2016)
http://eiga.com/movie/83682/




2017年9月18日訂正

9月15日追記分に訂正を加えた。

2017年7月24日月曜日

(メモ)仙台市長選挙の選挙管理委員会こそがGJである

小野寺光一氏によると、本日(2017年7月23日)の仙台市長選挙では、開票に自動開票読取機が利用されなかったという[1]。小野寺氏の指摘が正しければ、小野寺氏の評価の通り、仙台市選挙管理委員会は、間違いなく胸を張れる良い仕事をしたことになる。選挙において、不正に票が計上されるようなことがあってはならない(。民主主義の理念からいえば、買収の方が罪が軽いことは、以前に述べた)。ただし、このように不正の余地が入りにくい手続が、与野党や情勢に左右されることなく、いつでも執られなければならないことは、言うまでもない。今回は、不正選挙に加担可能な勢力が動かなくとも、選挙が正当に管理されていれば、このような情勢になることを示す好例である。風向きは、間違いなく与党に猛烈な逆風となっているが、しかしながら、都市部においてさえも、開票結果はこの程度の差にしかならないのである。

朝日新聞の出口調査では、当確の出た郡和子氏と次点の自公「支持」候補の菅原裕典氏との差は、大差が付いたとされる。しかし、NHKの出口調査では、僅かとなっている。NHKによる23:23更新の開票結果は、大きな差が付いてはいない(下表;更新されるので、リンクは張らない)。出口調査の結果に大きな差が生じている状態は、自公系候補支持者が朝日新聞の出口調査に対して回答を拒否する度合いが、かなり強いことを窺わせる。

手作業ということであるから、理想的な開票モデルにより表現できることになる。「良くかき混ぜられた箱の中から順番に票を取っていく」形で(つまり、各票が等確率で順に)抽出されるというモデルである。まず間違いなく、得票率は安定的に推移するであろう。元・民進党の林宙紀氏の票が郡氏に全て加算されたとしても、ダブルスコアにはならない結果となろう。


表:NHKによる選挙速報(2017年7月23日 23:23現在)
(http://www.nhk.or.jp/sendai2/senkyo/)

候補者開票済みの得票数
郡 和子125,500
菅原 裕典119,000
林 宙紀49,500
大久保 三代7,500

[1] 国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」 [まぐまぐ!]
(2017年07月23日)
http://archives.mag2.com/0000154606/20170723170000000.html

今回、仙台では、バーコード票とバーコードリーダーは一切使われない。集計は手作業である。しかも投票用紙は投票が終わったら、開票所まで、現金輸送車を使って厳重な警戒態勢のもと運ぶ。期日前の投票所も24時間の警備をつけていた。以前白票によって不正が行われたため、残りの票も毎日手作業で数えてきちんと枚数があっているかどうかをチェックしている。これは選管としては格段の進歩である。
#改行は削除した。




2017年7月24日13時追記

今朝の『読売新聞』朝刊1面記事[2]は、国政へのダメージコントロールを図るかのようである。「郡和子氏(60)(社民党支持)」「菅原裕典氏(57)(日本のこころ支持)」「民進、共産、社民各党の県組織が共闘する郡氏と、自民、公明両党の県組織が支持する菅原氏」という表現を用いている。言うまでもないことであろうが、これらは、先の都議選を含めて、地方の話が国政には及ばないようにする意図を有するものと認められる。意図そのものは理解できるものの、この表現は、ほとんど嘘吐きとも呼べるものであり、CNNと同様、「発行部数が世界第一位」の大新聞としての価値を大きく下げるものである。

とは言っても、この記事の表現が面白過ぎるので、この記事の表現に倣い、本文中の表記を変更することとした。この表現を本ブログで採用することを決定したのは私であるが、このような面白表現を後世に残すこととしたのは、読売新聞のデスクである。

なお、開票率93%時点の得票数を、この記事は伝えている。NHKの開票速報などと組み合わせると、私がかねがね行おうと思っていた作業の、ミレニアム版の作業(、つまり、2000年以降における真っ当な選挙についての推定)が可能となる。とは言っても、野田佳彦氏の得票数の不自然な伸びを指摘した人に、わが国における不正選挙の確固たる統計上の証拠という先取権が帰属しており、私自身も、すでに2016年の宜野湾市長選挙について、重点的に作業・確認したことではある。「現今の不正選挙の手法は、開票時に(何らかの形で)得票ブーストをかけるというものである」という主張の正当性は、すでに確定的である。このため、本件選挙のデータの利用を通じた、不正選挙に係る指摘は、サボりがちになることをあらかじめ言明しておく。

表:読売新聞20170724朝刊1面より開票率93%の得票数

候補者開票済みの得票数
郡 和子155,263
菅原 裕典140,736
林 宙紀55,263
大久保 三代8,010

[2] 『読売新聞』2017年7月24日朝刊1面14版「仙台市長に野党系・郡氏」

2017年7月22日土曜日

(メモ)CNNの根性は変わらない(ので不正選挙の追究者は注意せよ)

カーネギー・メロン大学の社会学?ポスドクのDov H. Levin氏(以下、インタビュアーの発音からレヴァン氏と表記)が、CNNの番組[1]に登場して自身の研究内容を述べたことに対して、陰謀論界隈がざわついている。番組中[1]では、1946~2000年に、47ヵ国で実施された81回の選挙に対して、米国が介入したと述べるとともに、公然工作(overt intel/campaigns)が約3分の1、非公然工作(covert intel/campaigns)が約3分の2で、まあまあ成功しており、公然工作の方が効果ありなどと解説している。同じ話題に係る報告は、英文であるが、オックスフォード大学出版のサイトで読むことができる[2]。根拠は、昨秋に『Conflict Management and Peace Science』に登載された論文[3]などのようである。イラン・イスラム共和国放送系列の『ParsToday』(日本語版)が報じた[4]ために、日本語の陰謀論界隈にも話が広まったものと思われる。

CNNの番組中で特筆しておくべきは、2000年以後、「ハッキングは実行したのか(Have we ever hacked?)」というインタビュアーの問いに対して、レヴァン氏が「不正アクセスはしていない(We did not use computer hacking, no.)」と回答したことである〔回答は2:55から〕。この質疑こそが、このニュースの核心的な利益と思われる。ただ、『ParsToday』は、自国に対する責任があるためであろうが、日本語では言及していない。一般の日本人は、日本人に利益があるようにこのニュースを消化・解釈するためには、これを自前で分析する必要がある。なお、自前でニュースに当たる者が現れることは、イランの日本担当には、織り込み済みのことであろう。

レヴァン氏の発言は、『弁財天』のMakoto Shibata氏が従来指摘してきたような、わが国の自動投票用紙読取分類機の脆弱性が米国によって悪用されてこなかったことを明言するという効果を有している。もっとも、レヴァン氏の言明の正誤を追究することは、私には、実力やリソース上の制限のために、無理なことである。レヴァン氏は、正確な部署や人物について言及していないが、同時に、「日本国内の選挙に対するアメリカの介入」自体については明言している。

CNNは、ここに登場するアクターの中で、自身が最も下劣であることを忘れているかのようである。CNNは、アメリカ大統領選挙に対して、ロシアがハッキングしてきたとの指摘を、明快な根拠を提示せずに大々的に報道してきた。この事実を考え合わせると、CNNは、「ロシアは、アメリカよりも汚い手を使う」と宣伝することを目的に、また、その宣伝を通じて自己を正当化するために、アメリカによる他国への介入という、あまり褒められたことではない行為を大々的に報道した。ここでの登場人物や組織は、CNNを除けば、いずれも、課せられた目的のために正当に与えられたと推認される手段を駆使している。CNNだけが、社会から容認された手段から逸脱しているために、トランプ大統領から強い調子で非難されているのである。


[1] How often has US meddled in others' elections?
(2017年07月15日)
http://www.cnn.com/videos/tv/2017/07/15/how-often-has-us-meddled-in-others-elections.cnn

[2] Does foreign meddling in elections matter? | OUPblog
(Dov H. Levin、2017年05月18日)
https://blog.oup.com/2017/05/foreign-intervention-election-results/

[3] Partisan electoral interventions by the great powers: Introducing the PEIG DatasetConflict Management and Peace Science - Dov H. Levin, 2016
(2016年09月19日)
http://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0738894216661190

[4] アメリカが47カ国の選挙に干渉 - Pars Today
(2017年07月16日18時25分)
http://parstoday.com/ja/news/world-i32790

2017年7月20日木曜日

日野原重明氏の「生涯現役」主義は取扱を誤るとナチズムへと転化する

本記事も、題名で意を尽くしている。が、それでは私自身の弁明にもならないので、縷々説明しよう。


マスメディアは、使用言語のコミュニティに対する社会的責任を果たそうとするのであれば、キュレーション機能を高いレベルで発揮し続けるべきである。キュレーション機能は、情報を取捨選択した上で構成して提供する能力であり、惰性に流されずに最善の情報源を確保し、それらの取材先から最善と思われる情報を受け手に提供することである。この機能が正しく発揮されていれば、事後にインターネット上の別の情報源によって重大な過ちを指摘されて信用を損なうといった事態に陥ることはない。このキュレーション機能と速報機能は、情報伝達の中間業者としてのマスメディアが生き残るため、従来以上に向上させなければならない能力である。(図書館・博物館)情報学では、キュレーション機能が強調されて久しいが、これらの専門職の役割を乗っ取るかのように、日本のマスメディア関係者は、日本語環境において、「皆が知るべきこと」の「門番(gatekeeper)」として機能している。この役割期待は、マスメディア関係者の能力に対して過大であるが、新聞さえ読んでいれば知的活動は十分であると考えるという、日本語話者コミュニティにまま見られる怠惰に起因するものであり、マスメディアと消費者の相互依存関係を解消しないことには、何ともならないものである。

この半面、マスメディアに知識人枠として重宝される人物は、自身の発言の機会の陰には他者の発言の機会があり得たことに、思いを致すべきである。この地位まで登りつめた言論人は、その影響力に対して倫理的であろうとするならば、自身の言説が他者のものに比べて常に報道される価値があるように、努力を続けることが要求される。その任に耐えられなくなったときには、その職責を適任者と分かち合うか、これと見込んだ後進に道を譲るべきである現在の年長者を尊重することが外形的に求められる日本語文化圏において、自身の説に正面から異を唱える顕名の人物が現れることを期待していてはならない。表舞台に立つ人物の「能力の限界」は、たとえば、発出された言論の正しさや、主張の内容と社会の期待との乖離具合を検証することによって、明らかにできよう。マスメディアに露出する「識者」の発言は、その逐一が批判的な検討の対象となって然るべきであるし、聞き手の側から提起された批判は、重く受け止められるべきである。ただ、当人がいかに自発的に出処進退を決定するのか(別人から見れば、いかに介錯に立ち会うのか)は、なかなか難しい話である。

日野原重明氏の影響は、危機管理・被害者学という、氏から見れば派生的な学術分野の実相にも及ぶほどである。よど号ハイジャック事件の人質となり、その経験から、大規模テロ事件を予期し、被害者の受入態勢をかねてから準備していた(ということを、確か、村上春樹氏の『アンダーグラウンド』で読んだ記憶がある)。地下鉄サリン事件において、日野原氏の采配は、目を見張るものであったとされる。本点は、故人の功績として特筆されるべきことであろう。筋金入りの陰謀論者であれば、ここにも陰謀の影を読み取ることができようが、今のところ、私には、ここに陰謀の余地を見出すことはできていない※1

しかしながら、日野原氏の影響力は、(長寿を含めた)氏の卓抜した才能のみによるものではなく、マスコミをはじめとする社会環境との相互依存関係から形成されたものである。追悼記事をこぞって組んだ19日の新聞報道の横並びを見れば、この指摘は、十分に裏付けられる。19日の『朝日新聞』の寺下真理加氏の署名記事[1]は、この中で、私の指摘を際立たせてくれる材料となる。この記事は、週イチで日野原氏の「生涯現役」論に賛同し、論説を掲載し続けてきたことを、「生涯現役」を体現するものとして肯定している。この記事は、朝日新聞のキュレーション機能と日野原氏のネームバリューが相互に補強し合う関係にあることを示すだけでなく、日野原氏が『朝日新聞』からの仕事を自分自身の生きがいとしていた節をも窺わせるものである。この見解が正しいものであれば、日野原氏の「生涯現役」論を補強したのは、当の『朝日新聞』自身ということにもなる。日野原氏の「生涯現役」論は、『朝日新聞』からの仕事を引き受けたことによって説得性を帯びるに至ったものであり、不穏当な表現を用いれば、「共犯関係」の果実と見ることも不可能ではないのである。

この相互作用ゆえ、マスメディアは、自らの社会性を考慮するならば、日野原氏の追悼記事によって大々的に紙面を埋める前に、日野原氏を含めた一握りの人物のみを識者として重用し続け、その名声を高めることに弊害がなかったかどうかを熟慮すべきであった。具体的には、使いやすく人気のある日野原氏を使い続けるだけではなく、若年世代に対して、適宜、格差是正的な措置を講じるべきであった。わが国のマスメディアは、現今のトランプ大統領についての報道も同様であるが、「地位が人を造る」という考え方を欠きがちであり、常に焼き畑農業的であり続けてきた。マスメディアは、「生涯現役」を言い訳として、若年世代の言論を豊かなものにするという(派生的な)責務を放棄しており、自らのキュレーション機能の乏しさを露呈している。SEALDSがいるではないかという話が聞こえてきそうなので、予め指摘しておけば、彼らは、戦争屋によるカラー革命の仕込みによるものであって、マスメディアが継続的に使用すべく育成した次世代の言論人ではない。

私に言われたくはなかろうが、日野原氏の「生涯現役」論は、語られ方やほかの思想との組合せによって、故人の意図※2とは異なり、「自己実現できなければ生きている価値がない」などの怪しい議論へと転化しうる。この点、「生涯現役」論は、危うい主張である。「生涯現役」論は、揺るぎない自己肯定感を最初から宿しており、生命に対する敬意を常に備えた魂に対してはともかく、自分がそうしたいからそうするという刹那主義(ミーイズム)に囚われた不健全な精神に注ぎ込まれた場合、惨事を引き起こしかねない。悪しき功利主義と合流した場合、「生涯現役」論からは、「役に立たない者には生きる価値がない」という優生主義が導出されるのである。経済学まがいに表現すれば、「個人の生産能力や他人に与える便益が、その個人の消費能力や他人から与えられる便益を上回るようになったら、用済みである」ということにもなろう。この考え方は、経済活動の範疇に留まる限り、正しいようにも聞こえるものであるが、経済活動においてさえも、金持やリーダー格の人物こそが、大衆を潤すように消費しなければならないという「ポトラッチの倫理」(ケインズ主義)を思えば、正しくはない。いずれにせよ、「生涯現役」論は、無定見に発揮されれば、「定年迎えたら、即、栄養ドリンク製造工場の原材料になります」(『クラウド・アトラス』)などといった、年金問題の「最終的解決」へと直結しかねないのである。西本英雄氏の『ポチのへなちょこ大作戦』にも(おそらく『Z』)同様の悪い冗談が見られたが、この思想の極限形態は、言うまでもなく、ナチズムである。もっとも、ここに示した疑念や諧謔の数々は、横田弘氏の『障害者殺しの思想』(1979=2015, 現代書館)によって、四半世紀前に、より切実な形で指摘されている。現時点の私自身の発言は、怠惰に過ごしているニートに過ぎないと片付けられるかも知れないので、ここでは、横田氏の表現を借りて〔pp.37-38〕、ここでの私の疑問に故なしとしないだけの論拠としておきたい。

現体制を支えている日本的資本主義の下にあっては、物を作り出すことができる者、物を作り出して資本家を喜ばせる力をもっている者だけが正しい存在であり、その力の無い者は「悪」だとされる。現国家権力はそうした日本資〔p.38〕本主義の論理を守っていかない限り、その体制を保つことができないのだ。それだから彼らは障害者を殺した親兄弟を実質的な無罪にしたり、障害児を胎内からチェックしていく「優生保護法改定案」を考えついたりする。それでなくてもこの二、三年来、心中を含めた障害者殺しは急速に増えつつあることは確かな事実なのだ。

「生涯現役」という個人の善意は、よほど上手く取り扱わないと、優生主義という全体悪へと、容易に変貌するのである。

ところで、「生涯現役」という思想は、その思想が示される情報という市場において、その市場の持続可能性を阻害しうることにもなり得る。このロジックは、情報という財を消費者側の視点から眺めてみると良く分かる。ここでの議論は、既存の議論を十分に調べた上で述べたものではなく、私の乏しい知識からあり合わせで繕ったものであるので、おそらく、先行する優れた見解が存在するはずである。先人の業績を都合良く忘れているという可能性もある。その虞が正しい場合に備え、先回りしてゴメンと言っておく。

情報(特にデジタルデータ)は、ときに、非競合性・非排他性・不可逆性という、財としての特性を指摘されることがあるものの、これは、供給者側(サプライサイド)からみた場合の特徴を述べたものに過ぎない。念のため、非競合性とは、複数の需要者が同時に利用できることを指す。非排他性とは、一人の利用者だけに利用を制限できないことを指す。不可逆性とは、いったん入手してしまった情報は、知らなかったことにはできないという性質を指す。返品不可とも言い換えても良かろう。この点、書籍というメディアとそのメディアから得られる情報は、財として、異なる性質を有する。

財としての情報は、一人の需要者(デマンドサイド)の内面に着目した場合には、競合的である。情報の受け手は、自分たちの有限の時間、すなわちリソースを使用しなければ、一つ一つの情報の真偽や良否を吟味することができない。このため、消費者は、多数の供給者から提供される情報を選択して消費していることになる。にもかかわらず、たとえば放送業者のような供給者から見れば、財としての情報に係る従来の指摘は正しいものである。つまり、一人の供給者から見れば、一つの情報は、複数の需要者に対して、非競合的に配信できるし、フリーライダーを排除することが難しいし、いったん消費されてしまうと、その結果は、元には戻らない。書籍・新聞・ネット等を通じた、テクストベースの情報送信は、映像情報に比べ※3、読者の側で柔軟に時間配分を変更できるため、消費者側のリソースに左右される側面が小さい。それでも、あるひとまとまりの情報は、読者の予算が一定であり、かつ、彼ら消費者の時間が有限であるという制約から逃れることはできない。これと同じ理由により、情報は、需要者の情報探索法次第では、供給者側にとって、排他的にも機能しうる。私のように陰謀論にも食いつくダボハゼのような供給者は、ほかの供給者の情報を事前に摂取している需要者にとって、選好されにくいという性質を有する。着目する主体を消費者に置く限り、情報という財に関する従来の議論は、何だか一方的なものであるように思える。この疑問を探究する作業は、例によって進んでいないが、私は、わが国における自主検閲の後遺症によるものではないかとも疑っている。

情報という財の消費と生産(・再生産)は、ソクラテス・メソッドを想起すれば分かりやすいが、消費者(である生徒)にとって、なじみの薄い思想や情報が消費者(である生徒)自身によって入出力されることを通じて、初めて可能となる。この思想の「出し入れ」に伴い、知識が定着するという過程は、一種の弁証法に他ならない。優生学がナチズムを用意した過程も、この弁証法に基づく「運動」が悪しき形で発現された結果である。「生涯現役」論は、一介の市井の人物にとっては、成果発表の場まで周到に用意されていなければ、実現不可能な理想ということができそうである。

マスコミによる日野原氏への賞讃の声は、日野原氏の「生きがい」が「一言言いたい高齢者」の全国デビューの機会を間接的に侵害することによって成立してきた、という事実を覆い隠してしまう。(私自身は、決して投書したことはないが、)投書欄という狭き門によって、無数のハガキ職人の「生きがい」が構造的に制限されていることは、ここでは無視されている。投書欄は、読者の声を取り上げるふりをしながら、その実、マスコミの主張を提示する場としても機能しうる。日野原氏の「生涯現役」論は、果たして、投書欄という競争率の高い環境を経なければならなかったとしても、これほど流通したのであろうか。(あり得なくはなさそうではある。)しかし、仮に、私に与えられた(そしてそれを良しとしている)座敷牢のようなネット環境下において、誰にも伝達されることがないかも知れないという恐怖の下に、彼の思想が編まれなければならなかったとすれば、「生涯現役」論は、果たして「普遍的」と見做されるような「健全な」理論たり得たであろうか。(これは、意地悪な想定ではあるが、私には否定的に思える。内田樹氏の『最終講義 生き延びるための七講』(2011, 技術評論社)には、内田氏が生徒を待ち続けながら、一種の悟りに至る境地を語るくだりがあるが、この部分は、私の悲観的観測を裏付ける証拠として使えそうである。

齋藤和紀氏の『シンギュラリティ・ビジネス』(2017, 幻冬舎新書)は、人工知能による知識の産出が不可逆の様相を呈する(=シンギュラリティが迫る)中、働くことそのものに対し、現在、根本的な問いが投げ掛けられていると指摘する。齋藤氏は、近未来に現出するであろう「仕事をしなくとも良い状況」についても、「技術の発展により、人類の課題は必ず解決できる」という「シンギュラリティ大学」の信条が当てはまると宣教している。この技術楽観論に対し、ルチアーノ・フロリディ氏の『第四の革命』(2014=2017, 新曜社)は、この技術万能主義が、両極端の態度のうちの一つであると指摘している〔和書p.51〕。本記事では、それぞれの命題の当否を検討しないが、いずれにしても、日野原氏の「生涯現役」論は、2017年の時点では、生涯を通じて自己実現可能であるような、既成のエリートについてのみ当てはまるものであろう※4

成人病を生活習慣病と命名した精神は、疫学上、必要な考え方ではあるが、健康美のみを称揚したナチズムと通底する。生活習慣のコントロール自体は、誰にとっても「善い」ことのように響くものであり、同時に、社会防衛的でもある。また、不健康である人を、自らの怠慢によって自らを下劣な状態に追いやった敗残者として、暗黙裏に貶める機能を有する。このように、すべてを自己責任としながら、通常人の怠慢を責めるかの姿勢は、たとえば、アメリカにおける肥満が貧困層の食環境と抜き差しならぬ関係にあることを見落とした議論と同程度である。われわれ現代人は、「健康に満ちた良き生」を全うせよとの絶えざる圧力の下にあるが、これを誰もが同じような条件で達成できる訳ではない。健康で苦痛のない老いを迎えることは、人にとって目的たり得ることであるが、自身の肩書や長寿を誇示して他人に同一の努力を強制するとすれば、その姿勢は、全体主義と呼ぶことができる。パターナリズムは、やり方次第で「押しつけられたもの」とも「納得されたもの」ともなり得る。この言論を通じた圧力と、監視社会とは、大変に親和性が高いものとは言えまいか。


おまけを二点。その1:宮台真司氏も『14歳からの社会学』で「仕事を通じた自己実現」なんて考えはやめておけ、と述べている〔たとえば、pp.112-114〕。その2:本記事は、私なりの「失敗学」でもある。


※1 いわゆる地下鉄サリン事件については、サリンによる被害ではないという指摘がある(が、この物質同定に係る議論自体に、まず間違いなく、誤解を招くような一部の仕込みを読み取ることができる。私は、この点に係る事実関係を納得できるまで把握しきれていない)。なお、よど号事件については、共産主義自体、「両建て」構造の一陣営と見ることができる。なお、赤色過激派という存在は、「両建て」を指弾する陰謀論者から見れば、この罠に落ちるだけの知性しか有していない。

※2 ここでは、そのように解釈したが、別の読みも成立しうるであろう。

※3 YouTubeで試すと、便利で分かりやすいが、私は、2倍だと集中して聞き取る必要があるため、なかなか映像を効率的に理解することができていない。

※4 この隘路を突破する方法として、自らがフリークとなるという手段が、マスコミによって用意・提示されている。『マツコの知らない世界』は、マスメディアのコンテンツに登場する「素人」には何が求められているのかを端的に示す番組の一例である。この番組のドミノの回(2017年7月11日)は、この点について、大変示唆的である。マスメディアによって祭り上げられたことのあるアイコンは、ほかの候補を探すのが難しいという理由から、また、過去の映像を使い回せるという都合の良さから、ほかに特段の不都合がなければ、ほかの若年の候補と比べて少々質が劣るものであっても、再利用されることになるのである。


[1] 「命ある限り」続けた日野原さんエッセー 最終回も準備:朝日新聞デジタル
(寺下真理加、2017年7月19日17時00分、本紙2017年7月19日朝刊14版1面)
http://www.asahi.com/articles/ASK7M41M0K7MUBQU009.html




2017年7月21日訂正・追記

一部訂正したが、大意は損なわれていないはずである。

為末大氏のブログ記事は、世界のデフォルトが競争であること、勝負と自己肯定感情が別物であることを述べているが、素朴に過ぎる。この記事に対するいくつかのツイートが契機となり、為末氏のツイートラインは、少々「盛り上がった」ようである。ここで、為末氏は、生態系と人間社会とを同一視しており、かつ、自然界における生存競争と人間社会における社会内イベントとして用意された(オリンピック)ゲームとを同一視している。為末氏の理解は、生態系と現代社会の双方に競争が存在するという点では共通するものの、現代社会が、ギリシア古典哲学を思想の源流に持ち、ホッブズ・ロック・ルソーらの思索を経て形成された社会契約(説)という理念の確立を経て形成された、「自然のルール」よりも一段精妙な機構であることを見逃している。これは、高校生の社会の授業で学ぶことである。為末氏がオリンピックを推進する力となっているのは、彼のような元アスリートで、かつ、素朴な競争主義への信仰を有する(に至った)人物が「使いやすい」からである※1。日本人の大半にアクセス可能となっている知識を元に、「今ある競争」に係る考察を錬磨しようとするにあたり、為末氏の言説は、日本語コミュニティ全体のリソースを浪費するという機能を果たしている。

なお、本文中でソクラテスによる対話法に触れたが、この表現では、一対一の関係における人格の陶冶という点について、何ら語っていないに等しい。これは単に言い訳に過ぎないが、私が本文中で念頭においていたのは、単に認知科学における入出力を通じた記憶の定着過程である。これに対して、マルティン・ブーバーは、自身のユダヤ教徒としてのアイデンティティから、知識(知恵というべきか)の涵養は、神との対話も含め、全人格を注いだ二者による対話を通じて生まれるものであると指摘している。ユダヤ教は、唯一の存在との対話から生じる知恵の相当部分を、非ユダヤ教の世界に、弁証法的に波及させている。端的な例がキリスト教であり、イスラム教である。ソクラテス・メソッドも、もちろん、人格への(善い)影響(宮台真司氏の強調するミメーシス)を重視する。


※1 国民総背番号制を実用化しても支配を貫徹することが困難であることは、以前に指摘したことがある(2016年2月12日)。それでもなお、オリンピックが人に序列を付けるための『ヨハネの黙示録』に登場する「獣の数字」の刻印システムと同様の機能を有するという議論に、私は同意する。だからこそ、「安倍マリオ」に1980年代からの陰謀の影を読み取ることは、国際秘密力集団の実力を過大評価することになりかねないために、避けるべきである(2016年8月27日)。


[1] 競争と格差 | 為末大・侍オフィシャルサイト
(為末大、2017年07月18日)
http://tamesue.jp/blog/archives/think/20170718

[2]

[3]

2017年7月16日日曜日

(メモ)森友学園疑惑に係る「辞めます」議事録は4月11日に公開されている

田中龍作氏が大マスコミに比べてジャーナリストとして良い仕事をしている事例にまた一つ行き当たったので、報告しておく。2017年2月17日、衆議院予算委員会において、安倍晋三氏は、森友学園疑惑に対して

私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。[1]
と答弁した。1カ月以上を経過した4月5日、田中龍作氏は、該当する議事録が未公開であることを報告した[2]。その後、程なくして、議事録は公開されるに至っている。

議事録は、HTMLファイルおよびPDFファイルとして公開されているが、それらのファイルの更新日によって、公開日時をある程度正確に推定可能である。特に、PDFファイルは、ファイルのタイムスタンプとは別に、作成日時に係るデータを保持している。このため、PDFファイルに記録された日時をファイルの作成日時と見做すことは、特に問題ない行為であるものと認められる。

ファイルの更新日時等は、下表のとおりであり、田中龍作氏の指摘を受けて作業が進められたと観るのが順当である。作業の実態として想定される状況には、複数のものが考えられるため、ここであれこれ推測することは、意味の薄い作業であろう。ただ、PDFファイルのタイムスタンプから、これらの議事録がすべて一括して作成されたものとは考えにくいことは、指摘できよう。HTMLファイルのアップ作業は、PDFファイルによる決裁後の深夜1時である。自動化されているとは思われるが、多少のブラック風味を感じるのは、私のうがち過ぎであろうか。(作業が自動化されていれば、翌日の午前1時という時刻指定は、アップせよとの指示が、20時であろうが、21時であろうが、問題なく反映できるだけのタイムラグである。)

本記事は、明らかに、昨日(2017年7月16日)の記事の続きであり、一応、私なりに色々とわきまえた上で作成・公開するものである。従来の戦争屋にとって、わが国の総理の首は、簡単に挿替えられるという認識があったものと思われる。閣僚や総理が「ものもらい」になって眼帯を付けるという「事象」に係るニュースの頻度は、通常人に比べればかなりの高さであるし、「アラスカまで連行されてマッパ」という不穏な噂も、良く知られたものである。これらの条件下では、森友学園疑惑のような、戦争屋の利益に直結しない話に係る出席者の発言は、戦争屋にとっては、大したことのない重要性しか持たないし、総理の森友関連発言が総理の首に直結しないことは、現政権に反対する人々であっても、多くの人々がわきまえていることであろう。他方、水道事業の運営がいつ全国的にすべて民営化されるのか、これがいつ明言されるのかは、戦争屋にとって、非常に大事なビジネスチャンスに係る話である。水にまつわる話を急かすために、水を用いた気象異変を装った攻撃がわが国に加えられているとすれば、これは到底許せない話である。(原理上は可能であるし、また、これが実用されているとすれば、鹿児島の震度5の地震も、同様の脅迫として理解することも可能である。)仮に、気象兵器を用いた戦争屋による政権への脅迫が政治家たちに現実の脅威として共有されてきたとすれば、山本太郎氏が麻生太郎氏に協力するために不規則発言をなしたという可能性すら拓ける。

山本太郎氏と麻生太郎氏が真の国益のために本件では協力しているとすれば、わが国における現在の勢力図は、相当に錯綜している。この協力関係が事実であるとすれば、2017年6月10日に予想した方向へと政界が再編されつつあるが、その様相は、より希望の持てる内容となっている、ということになる。同時に、2016年07月31日の拙稿における『国際情勢の分析と予測』のブログ主「princeofwales1941」氏による「新自由主義的な政策を掲げる清和会が日本の首相を務めることで、敵である国際金融資本の目を欺く目的と想像する。」という記述に対する批判は、誤りであったことになる(。ただ、従来の「悪事」が「弱味と利益を共有する仲となる」という形式を取り、現に特区という脱法的な手段を用いて進められてきたことを踏まえれば、現政権がクリーンであるとはとても言えない。決してクリーンではないが戦争屋よりはマシという点では、「princeofwales1941」氏の見解と、現政権に対する私の評価は、共通するものと思われる)。


会議日号数PDFファイル名PDF作成日時PDF変更日時HTMLファイル名HTML更新日時
2017年2月17日 第12号 19302170018012.pdf 2017/04/11 17:03:00 2017/04/11 17:03:01 19302170018012c.html 2017/04/12 01:00:02
2017年2月20日 第13号 19302200018013.pdf 2017/04/18 11:57:50 2017/04/18 11:57:50 19302200018013c.html 2017/04/19 01:00:04
2017年2月23日 第14号 19302230018014.pdf 2017/04/18 14:35:29 2017/04/18 14:35:29 19302230018014c.html 2017/04/19 01:00:03
2017年2月24日 第15号 19302240018015.pdf 2017/04/18 14:25:25 2017/04/18 14:25:26 19302240018015c.html 2017/04/19 01:00:02
2017年2月25日 第16号 19302270018016.pdf 2017/04/24 13:37:05 2017/04/24 13:37:05 19302270018016c.html 2017/04/25 01:00:03

[1] 衆議院会議録情報 第193回国会 予算委員会 第12号
(2017年02月17日、2017年04月12日公開か)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/193/0018/19302170018012c.html

[2] 田中龍作ジャーナル | 【アベ友疑獄】首相答弁「関わっていたら辞めます」 ― 議事録がない!
(田中龍作、2017年04月05日11:54)
http://tanakaryusaku.jp/2017/04/00015624

〔...略...〕衆院予算委員会の議事録が、一ヵ月以上経ってもHPに掲載されていないことが、分かった。

掲載されていないのは2月17日、20日、23日、24日、25日の予算委員会。いずれも森友疑惑が取り上げられた。




2017年7月17日訂正

文章の冗長な部分を削除した。

2017年7月15日土曜日

(メモ)平成29年3月15日参議院予算委員会の議事録は7月15日時点でも未公開である

話題は、題名でほとんど尽くされている。同委員会において、山本太郎氏は、籠池泰博(泰典とも)氏が不当に勾留される虞を指摘したが、この発言は、不規則発言ととらえられた。同委員会では、山本氏同意の下、この発言を含め、後日、議事録が訂正される運びとなった。このことは、山本太郎氏の公式サイトを含め、参議院のインターネット中継の結果が複数の人物らによってアップされているので、簡単に確認できる。山本太郎氏のサイト[1]が最も有用であり、高く評価される。しかし、4カ月後の現時点においても、国会図書館の所管するサイト[2]では、議事録は公開されていない。

平時であれば、また、規範的な観点からは、議事録が現時点で未公開であること自体は、後世への検証を避けようとする権力の姿勢を表すものと解されるため、批判の対象となることである。しかし、現在、わが国が戦争屋ならびにその走狗であるマスコミの強い影響力を排除できていないことも事実である。加計学園疑惑が政治ネタ全般の筆頭であり続けている現状※1は、国内世論の主導権争いが決着していないことを示す。本来、陰謀論界隈では副島隆彦氏が「G3」と表現するような、米中露関係※2こそが、報道されるべきことであるが、これらは、国内ネタとは異なり、ほとんど報道されなかった。国内世論の方向性が見極められない状態において、山本太郎氏の「色」が付かない形での調査報道が可能になることは、現政権としては、避けなければならないことであった。テロ等準備罪施行後の現時点であれば、訂正済みの議事録を公開し、政権としての見解を確定させることは、従来よりも容易にはなったはずである。これからの対応こそが注目される。

3月15日の議事録が確定されたときに注目すべき内容は、CSISにおける水道民営化発言と特区制度全般に対する、麻生太郎氏の発言である。日本の自治体による水道経営が高度であるために、実質的に「外資」が参入する余地や旨味がないようにするつもりで、CSISにおける発言がなされたとすれば、麻生氏は、一種の遅滞戦術を採ったことになる。もっとも、これが戦争屋への面従腹背であったと麻生氏(に与する側)が主張し続けるためには、松山市について呈されたような疑義に対して、丁寧に説明する作業が恒常的に求められることになろう。『2ちゃんねる』には、松山市の水道料金がヴォエリアの運営開始後に2.5倍になった[3]という匿名の指摘が見られるが、松山市は、これが事実ではなく、簡易水道から上水道へ統合したことに伴う引上げであることを明記している[4]。この一方で、2013年8月時点では、第二次安倍政権は、IWJがすでに批判している[5]が、誠実さに欠ける答弁書[6]を山本太郎氏に示している。特区制度を廃止する方向に動くことは、分かりやすい改心の現れとなろう。それが適わないとしても、少なくとも、テロ等準備罪施行後の今後において、このような恥ずかしい答弁書を示し続けることは、避けられなければならない。そうでなければ、このような恥に欠ける答弁は、戦争屋に代わり、安倍政権が自発的に悪政を敷くことを喧伝するという作用を果たすからである。

どのような制度にも長短があるが、断定してしまうと、特区制度は、基本的に信用ならないものである。(沖縄・北海道・部落など、)何らかの、より大きな差別的構造の是正という、より正当な理由がない限り、基本的には、特区制度は、存在してはならない「逆差別」である。特区制度を擁護する者は、大抵が私腹を肥やすことを目的としており、利益相反関係から免れていない。加計学園疑惑の核心に特区制度が関係していることは、偶然ではない。


※1 テロ等準備罪の施行は、マスコミと戦争屋によるネタの擦合せを同罪の対象とみなす見解を可能とした。このため、同一のネタに基づくメディア・スクラムは、やがてなくなるものと推測される。どのマスコミが加計学園疑惑・森友学園疑惑を最後まで報道しようとするのかは、特別なネタを入手したから報道するにしても、一種のチキンレースとなる。戦争屋とともに「沈む」ことを良しとするマスコミでなければ、政権の怒りを買う形での「最後っ屁」を報道することは、避けるべきリスクである。

※2 この表現は、従来の慣行によった。


[1] 「参議院議員 山本太郎」オフィシャルサイト | 2017.3.15 予算委員会「美しいポエムの裏にある、米国で勝手に水道民営化宣言」
(2017年03月22日)
http://www.taro-yamamoto.jp/national-diet/6868

[2] 国会会議録検索システム
(2017年07月14日22時確認)
http://kokkai.ndl.go.jp/

[3] 愛媛大学工学部
(2012/03/11(日) 22:30:52、2017年07月15日18時21分)
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/student/1286550689/481

[4] 水道料金について誤った情報が流れていますのでご注意ください 松山市ホームページ
(2016年06月29日)
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kurashi/kurashi/josuido/info/ryoukin_oshirase.html

ただし、久谷地区(中野町を除く)の水道料金については、平成23年度に簡易水道から上水道に統合したことに伴い、経過措置を講じた上で、平成28年度に上水道料金と同一となるよう段階的に引き上げを行いました。

[5] (続報)外資が狙う日本の水道事業 ~マスコミが一切報じない我が愛すべき「麻生さん」の「水道民営化」発言(<IWJの視点>佐々木隼也の斥候の眼 IWJウィークリー14号より) | IWJ Independent Web Journal
(佐々木隼也、2013年08月22日)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/97834

[6] 環太平洋パートナーシップ(TPP)協定及び日米並行協議に関する質問に対する答弁書:答弁本文:参議院
(内閣参質184第17号答弁書、2013年08月13日)
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/184/touh/t184017.htm

2017年7月12日水曜日

(メモ)田中俊一氏の北朝鮮のミサイル攻撃に対する発言は要職にあるまじき不見識である

やや賞味期限を経過した話であるが、原子力規制委員長の田中俊一氏の北朝鮮のミサイル攻撃に対する発言(下記引用)は、要職にあるはずの田中氏に対しても、ミサイル攻撃のイメージがいかなるものであるのか、正しい情報が適時かつ適切に提供されていないことを示す兆候である、などと理解することができる。もっとも、田中氏の「失言」は、「田中氏がミサイル攻撃のイメージを正しく理解した上で、国民向けにわざと誤ったイメージを流布したものである」という可能性も否定はできない。あるいは、可能性としては一段落ちるものになるが、その肩書から期待されるよりも田中氏の知性が低かったために、レクを受けたにも関わらず内容を理解できなかったか、レクを理解できないであろうことが関係者に予想できていたためにレクを受ける機会すら与えてもらえていなかったかなどの、より情けない場合も考えることはできる。単に省庁縦割りの弊害ということも考えることは可能である。いずれにしても、わが国の安全保障の一翼を担う原子力行政において、エリート主義は、健全には機能していない。

ミサイルの命中精度が悪いときには、多数のミサイルを使用すれば良い。この考え方は、ごくごく自然であるが、田中氏には想定外であったかのようである。巨大な一品モノと揶揄できよう原子力発電所を相手にしているからか、一発しかミサイルが飛んでこないかのような理解である。大平洋戦争の教訓は、田中氏には、一つも理解されていないかのようである。質問者がいかに質問・反論したのかは述べられていないが、ここに示した話は、常識の範囲内である。次回以降、本稿に示した考え方に基づく質問・反論が出てこないとは限らないであろうし、何より、攻撃者の側は、私よりも遙かに戦争を理解しているであろうから、私がここで指摘する話は、彼らプロからすれば、すべからく想定内の話であろう。

もっとも、北朝鮮が日本本土に対して、突然、先制攻撃を仕掛けてくるという事態は、確率で論じるに相応しい話ではないが、当面の間、低いものと考えられる。国際社会に軍事行動への正当性を与え、北朝鮮の現体制を自ら崩壊させることになるためである。他方、わが国の現体制は、低下した国民の支持を回復させるためにも、北朝鮮がわが国に対して「適度な悪役」として振る舞うことを望んでいるであろう。ただ、原発に対するミサイル攻撃も、東京に対するミサイル攻撃も、後戻りできない種類の悪事である。許容される種類の悪事としては、日本国の領土の上空を超える形でミサイルを発射して大平洋に落下させるというのが、せいぜいのものであろうし、そのとき、北朝鮮は万全を期して所定の目的を達成しようとするであろう。ひるがえって、わが国の選良たちは、万全を期して所定の目的を達成しようとしているのであろうか。田中氏の回答からすれば、到底そうであるとは肯定できない。

田中氏の回答として適切であったものを考えてみると、それは、「北朝鮮は、おいそれとわが国を攻撃する訳にはいかない、地震や津波よりも、他国による攻撃は低い確率のものであり、地震や津波への対策は万全である」というものとなったであろう。非確率的な人災と定義されうるミサイル攻撃そのものについて議論を戦わせるよりも、自らの専門であると他者からみなされうる分野に留まり、ミサイル攻撃というリスクが相対的に小さなものとなると見込まれることを説明し、そのリスクの見積の担当が政府の別部門となることを示せば良かったのである。正確には、「ハザード生起確率は、自然災害のように見積もることが困難であるほどに僅少である」旨を説明するとともに、対策の詳細については安全保障上お答えする訳には参りませんとすれば、そこでの議論は収束できたはずであったと考えられるのである。もっとも、私は、このような回答を信用しないし、これに対する反論を用意することも可能であるとは考えるのであるが、それは、このような(公開の)場には相応しくない話であろう※1


※1 論拠として考えられるもののうち、私にとって正解と思われるものは、ここに記して公開する訳にはいかない。答えとして考えられるもののうち、「外れ」として安全なものを挙げておけば、人工地震はどうした、という指摘を挙げることができよう。人工地震は、現状、公に言及した者がトンデモ扱いされるため、田中氏をディスるには不向きである。


[1] 原子力規制委員長:田中氏、北朝鮮ミサイルで失言 - 毎日新聞
(近藤諭・高橋一隆、2017年07月06日20時08分、最終更新07月07日00時10分)
https://mainichi.jp/articles/20170707/k00/00m/040/090000c

田中委員長は「小さな原子炉に落とす精度が(北朝鮮のミサイルに)あるのかよく分からない」と述べた後、「私だったら東京のど真ん中に落とした方がよっぽど良いと思う」と発言した。

2017年7月11日火曜日

(メモ)浜井浩一氏の談話について

本日(2017年7月11日)の『朝日新聞』朝刊12版15面(オピニオン)「耕論/実は監視されたい?/相互不信 見張って安心感」は、龍谷大学教授の浜井浩一氏がインタビューを受けており、防犯カメラを批判している。その一部を、次に引用する。

〔...略...〕日本人には、監視されたい、監視したい、という気持ちがある〔...略...〕。

監視カメラの防犯効果について、国際的にデータを集めた研究では、駐車場での車上狙いなどはある程度減るが、それ以外の場所での窃盗や暴力犯罪には効果が認められていません。

この談話は、明らかに、本日施行のテロ等準備罪(共謀罪)への反対を表明した特集の一環である。

しかし、浜井氏の発言の元となった横断的レビュー『キャンベル共同計画刑事司法部会』の報告は、2008年版が出されており[1]、その論旨における強調点は、浜井氏の解釈とは異なる。日本語でも、静岡県立大学の津富宏氏が運営する翻訳サイトにおいて、北陸学院大学の竹中祐二氏が訳した報告書を読むことができる。なお、本家サイトでは、外国語訳を統合して掲載する動きになっているようであることを申し添えておく。

浜井氏は、この種の報告(系統的レビューに基づくメタ分析)が、常に更新される性格を有することを端から知らないか、忘れているか、無視しているかのいずれかである。2003年版の内容で確認が止まっているのであれば、朝日新聞に見るような発言になる。以前の浜井氏の発言も、同様に推移しているし、日弁連の報告書でも同様の誤りが2008年12月以降に再生産されているので、この種の怠惰は、彼のデフォルトとみることもできよう。付言しておけば、この誤りは、良心的(に情報を更新する努力を怠らないよう)な研究者には生じていない(し、さらに付言しておけば、この文は、もちろん、私自身のことを指しているものではない)。

話は、変わるようで変わらないのであるが、犯罪学を真面目に探究すると、私のような怪物(的な論調に身を委ねる言論者)が生じてしまうのが、日本国および日本語という環境※1の不都合な点である。福島第一原発事故を誠実に探究する日本語話者は、日本における不正選挙と核開発、両方の可能性を指摘する言説を認知しているはずである。気が付かなかったという釈明は、研究者としてはあり得ないレベルの軽率さである。これらの命題を是として受け入れれば、テロ等準備罪が創設された理由を含め、様々な出来事に係る因果関係の説明は、簡明なものへと変わり、テロ等準備罪の是非については、通り一遍の表現から論調が変わることになる。不正選挙と核開発という二大「陰謀論」は、大洗町における原子力機構のプルトニウム容器の破裂事故さえも説明しうる(が、依然として、このような杜撰な取扱が故意になされ、報道の契機が生まれたのか、あるいは、漫然と業務がなされた結果、思わぬ形で兵器級以上の純度のPu-239であることまでがバレたのかは、公開情報では、私には推量することができない)。日本における不正選挙と核開発、これらの命題の是非を意識せずに、テロ等準備罪を否定する犯罪学の研究者は、己の生業を深く考察したことがなかったのであろう。研究者という職業において、無知は罪である。


※1 英語話者であっても、同様の問題を抱えてしまうことになるが、日本においては、国体と特殊な自己検閲環境のために、検討には、もう一段の工夫が必要となる。しかしながら、EU諸国の一部に比べれば、検討は容易であろう。


[1] Effects of closed circuit television surveillance on crime - The Campbell Collaboration
(2017年07月11日閲覧)
https://www.campbellcollaboration.org/library/effects-of-closed-circuit-television-surveillance-on-crime.html

本レビューの結果は、CCTVが控えめながらも〔統計学的検定上〕有意な望ましい効果を犯罪に対して有することを示唆するものであり、駐車場において最も有効であり、(主として成功した駐車場での〔設置〕計画の機能によるが、)車両犯罪を対象とするとき最も有効であり、ほかの国よりも英連邦王国においてより効果的である。〔訳は筆者〕

[2] CCTV
(2017年07月11日閲覧)
http://ir.u-shizuoka-ken.ac.jp/campbell/docj/RIPE/cover/cj/CCTV.html




2017年7月11日22時追記・訂正

本文を部分的に訂正した(が、本旨には影響していないはずである)。

大洗町の原子力機構の事故にわざわざ言及したのは、(防犯あるいは監視)カメラが価値中立的に使用可能な技術であることを示唆するためである。本日の読売新聞朝刊に、この事故の続報が掲載されていたこともある[3]が、この事故については、事件の全容解明のために監視カメラが適正に利用されていないのではという疑義がすでに呈されている。事故後、茨城県による立入禁止区域の検査は、監視カメラを用いて実施されている[4]。手続上、法学にいうインカメラ審理(専門家のみが映像等を含めた事実を閉鎖的な環境で検証し、結論のみが公開で利用される)を採用するにせよ、「権力の不正を監視する」ためにもカメラが利用可能であることは、市民が広く認識すべき事実である。朝日新聞がカットしたのかも知れないが、専門家の談話とは、この事実も併せて伝達すべきものである。仮に、浜井氏が原子力機構の事故と核兵器の独自開発疑惑との関連に留意できていたならば、ここでの監視カメラ批判は、権力ばかりを利する道具と堕しているとして、より強い調子で示されていたであろう。原子力業界におけるカメラ利用は、比較的、長い歴史を有する。

原子力機構内のカメラ映像が国際的な原子力専門家の十分な検証に供されておらず、また、何を収めた容器がなぜ破裂するに至ったのかが関心ある者に理解できる形で説明されていないことは、カメラの適正利用という課題を研究する者にとって、健全な疑義を抱くに十分な材料である。このご時世、研究者は、正しい理解を聞き手に与えようとするのであれば、権力による(一部)市民の監視の実在を批判するだけでは十分でない。わが国の原子力産業を国際社会が適性に監督しようとするにあたり、監視カメラが適正に使用されていないこと、つまり、権力の恣意性に対してこそ、犯罪学者は、注意を向けさせるべきであった。「行使可能な実力に係る非対称性(を覆そうとする動きがある)」という考え方は、昨今の核武装に係る国家間関係に対しても、適用可能である。この国家間関係の下に、防犯カメラの適正利用(に係る非対称性・恣意性)という課題は、入れ子状に存在している。犯罪学(における監視という話題)にとって、わが国の核開発疑惑は、もはや、無視できない外部要件と化しているのである。

テロ等準備罪施行のため、本記事は、慎重に記述しなければならないが、それでも、監視という話題を取り扱うからには、日本国政府の核兵器開発疑惑がすでに指摘されていることを明示しておくことは、必要な作業であった。民主主義国家における理想は、構成員である国民が適切な情報の下に能動的かつ意識的に決定する、というものである。仮に、わが国が核兵器の開発・製造を秘密裏に実施・継続してきたことが事実であるとすれば、その話は、圧倒的大多数の国民にとっては初耳であろう。また、その話を初めて聞いた国民の多くにとって、日本国政府の核武装の意図は、許容されない欺瞞として受け止められたであろう。

何かと伝達されにくい状況に置かれながらも、本ブログで私の理解したところを日本語で示しておくのは、「知らなかった」という国民の言い分を可能にするような、程度の低い研究者の言説をあらかじめ否定しておくためでもある。私の言説は、本件の朝日新聞の記事に対しては、市民や学者による権力への適切な監視こそが不足していることを指摘する一つの材料として機能するものであり、現今の社会科学系の研究者の「業績」に対するハードルを上げる役割を果たすものである。ただ、わが国の核武装疑惑は、3.11以後、多くの論者が指摘するところであるから、私が本点を指摘しようがしまいが、わが国の言論を誠実に網羅しようとしている者ならば、知らないはずがない。

マスコミに名の売れた「学者」の全員が、「陰謀論」とされる話題の内容を知らないわけではない。読者に許容されるか否かは別として、「陰謀論」の内容に気が付いている学者は、その内容を注意深く避けるか、あるいはそれらの「陰謀論」と並存可能なように持論を展開している。しかし、このような腹芸は、私の文章能力では、とても無理なものである。仮に、読者が本記事の本文部分だけを読み、本追記部分で補足した内容までを了解できていたとするならば、それは、読者の情報処理能力が高いだけであろう。私がここで本点を明記しておくのは、「陰謀論」の指摘に気付いている状態とはいかなるものであるのかをパラフレーズして示すためでもあるが、それよりも、私の文章作成能力が低いためであると考えておいた方が無難であろう。


[3] 読売新聞2017年7月11日朝刊36面14版(社会)「大洗事故/被曝量200~100ミリ・シーベルト/高線量の作業員/大幅に下方修正」

[4] 原子力機構 大洗研究開発センターの燃料研究棟における作業員の身体汚染に係る立入調査結果について
(茨城県生活環境部防災・危機管理局原子力安全対策課、2017年06月08日)
http://www.pref.ibaraki.jp/seikatsukankyo/gentai/documents/170607kikouooarai_tachiiri.pdf

2017年7月9日日曜日

(書評)『統計学が最強の学問である』の記述はユル過ぎて誤解を招く

たまたま、「finalvent」氏による西内啓, (2013). 『統計学が最強の学問である』, ダイヤモンド社.の書評[1]を読む機会があったのだが、一般化線形モデル〔21章〕の説明に誤解を招く表現があるのではないかと思い、確認してみたところ、果たしてその通りであった。同書がベストセラーになってしまうという日本語商業出版の限界を指摘するためにも、ここにメモしておく※1

一般化線形モデル(generalized linear model, GLM)は、誤差に正規分布以外の分布も使えるように拡張した線形回帰モデルを指し、「図表25 一般化線形モデルをまとめた1枚の表」〔p.170〕に示された手法に限定されない。末尾に、西内氏による一般化線形モデルの説明を引用し、併せて図表25を示す。ここに掲示された手法は、いずれも一般化線形モデルに含まれることに間違いないが、一般化線形モデルは、これだけに限定されない。それに、西内氏自身が後に説明する〔pp.177-178〕ように、同表の「連続値」の行に示される手法は、一般線形モデル(general linear model)として統合できることを、1968年にコーエンが指摘しており[2]、その説明は、(翻訳を含む)いくつかの和書にも反映されている(記憶がある)。一般化線形モデルのイメージについては、たとえば、同じユルい感じの書籍であっても、久保拓弥, (2012).『データ解析のための統計モデリング入門』, 岩波書店.の方が、誤解を得にくく、有用であるように思う。私から見て、西内氏による一般化線形モデルの説明は、読者一般にとって、有用さに比べて有害さが勝るように思われる。

西内氏の著書は、ベストセラーとなったがゆえに、(読者の間口が広くなるという経路を通じて、)誤解を多く発生させることとなったようにも見受けられる。読者がユルい記述であると理解できるほどに統計学を修めているのであれば、元から手を出すこともしないであろうし、記述の曖昧な部分をスルーするであろうが、そうでない読者は、分かった気持ちを誰かと共有したいがために、感想をネットに書き込むであろう。この結果、誤りばかりが増幅されているようにも認められる。とはいえ、アマゾンレビュアーの「ありょさん」氏のいうとおり[3]、「大胆な表現」と「粗雑に書く」ことは、別ものである。あと、どう好意的に段落読みしようとしても、段落書きされた形跡すら認められない※2「理系の本」ってどうよ、とも付け加えておこう。


〔p.169、21章「統計学の理解が劇的に進む一枚の表」の冒頭から〕

回帰分析はそれ自体有用なツールでもあるが、そこから多くの統計学的手法を「広義の回帰分析」として統一的に理解すれば、さらにその応用範囲は広がるだろう。

このような「広義の回帰分析」という考え方は、統計学者たちから一般化線形モデルという名で呼ばれている。線形とは回帰分析のように直線的な関係性のことを指し、「いろいろ手法はあるけど結局回帰分析みたいなことしてるっていう点で、一般化して整理できるよね?」というのが一般化線形モデルの意図するところだ。

極端な表現をすれば、基礎統計学の教科書は大きく2つに分けられると私は考えている。一方は一般化線形モデルという視点を活かさないためにフィッシャーたちの時代に作られた〔以下、p.170〕手法を「別々のもの」として紹介している本、そしてもう一方は「基本的に同じ手法」として俯瞰した形で説明している本である。


図表25 一般化線形モデルをまとめた1枚の表〔p.170〕

分析軸(説明変数)
2グループ間の比較 多グループ間の比較 連続値の多寡で比較 複数の要因で同時に比較
比較したいもの(結果変数) 連続値 平均値の違いをt検定 平均値の違いを分散分析 回帰分析 重回帰分析
あり/なしなどの二値 集計表の記述とカイ二乗検定 ロジスティック回帰

※1 日本語における(批判的な)サイエンスライター(、または、編集者)の不在は、福島第一原発事故に関するデマの流通を(陣営を問わずに)促進したようにも見える。本記事は、遠回りとなるが、この仮説に対する一つの例証である。西内書の誤りを丹念に指摘したり、取り除いたり、あるいは別の良著によって淘汰したりするような市場の機能は、わが国のサイエンス系の商業出版には弱いように思われる。しかも、単に社内の連携によって克服できそうなところに、もったいなさを感じるのである。未だに『週刊少年マガジン』にこだわるが、新連載『ワールドエンドクルセイダーズ』(不二涼介(漫画)、biki(原作))の「音圧レベル10倍!」は、新たな「これはひどい」の典型である。10デシベルしか上がらないのでは、自分の声で五月蠅すぎて行動不能という状態にはならないように思う。

※2 池谷裕二, (2012).『脳には妙なクセがある』, 扶桑社.には、たま~に、段落読みすると初学者が理解に苦しむ部分が見られるが、それでもやはり段落読みできる(と、私は判断した)。例外は、たとえば、p.24、「読書の内容を理解するときには、脳の前頭前野や「帯状野」が活性化します。…」という段落である。この段落だけは、ヘッド・センテンスだけでは、主旨を読み損ねる。また、同書冒頭の「本書によく登場する脳部位」に「帯状野」も示されていない。ただ、あくまでこの例示は、例外であることを示すために挙げたものである。なお、本点は、以前(2017年6月30日)の記事のアップデートでもある。この点に関連して、山口真由氏のほかの著書『成功したければ日本型エリート思考』(2015年9月, 扶桑社)も段落読みできないことを申し添えておく。


[1] [書評]統計学が最強の学問である(西内啓): 極東ブログ
(finalvent、2013年02月07日)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2013/02/post-e766.html

[2] Cohen, J. (1968). Multiple regression as a general data-analytic system. Psychological Bulletin, 70(6, Pt.1), pp.426-443.
http://dx.doi.org/10.1037/h0026714

[3] Amazon.co.jp: 統計学が最強の学問であるの ありょさんさんのレビュー
(ありょさん、2016年10月01日)
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R18PUNMU9MWQ1R/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4478022216

大胆な表現で書くことと粗雑に書くことを混同しているように感じます。

2017年7月3日月曜日

(妄想)東京都島部だけが民意を正当に反映しているのではないか

2017年7月2日22時37分頃、NHKの「東京都議会議員選挙 開票速報」(2017年7月2日午後10:30~午後11:30、武田真一・鈴木奈穂子・桑子真帆)において、女性アナウンサー(のいずれか)は、7つの一人区のうち、島部のみ自民候補が当選確実を獲得したと伝えていた。選挙の不正に詳しい読者なら、島部では、投票用紙読取分類機が導入されていないために、投票者の意思が比較的ストレートに反映されていることをご存じであろう。

コトリだかチュウトリだかの会のために、日本国の国政は随分とおかしなことになっており、今回の都議選においても、その影響が都心一区で発揮されたものと推認される。この状態は、都民・国民のためにも、早急に是正される必要がある。順天堂病院辺りでコールドスリープしているとされる御仁を召還すべきときが来ているように思う。ま、本記事は、(少なくとも本段落に限っては、)妄想の一種である。ただ、毎度のことではあるが、今回も、NHKの開票速報の中で関係者に問題発言が認められたから、自民党なり他の政党なりは、この発言を最大限活用して、その支持母体の「天の声」に直にふれたいと持ちかけるべきではないか。

公明党が自党と共産党にマイナスになるようなツイートを発したにもかかわらず(2017年6月22日)、今回の結果がある。公明党は、全候補が当選、いわば「満額回答」である。国政において、自民党と与党を組み、今回の国政における「暴走」をお膳立てしたと、国民に思われても仕方がないにもかかわらずである。都民ファーストの会と協力しながらとはいうが、自民党とは対極的な、この結果がいかにして可能になったのか、大いに興味が湧くものである。

今回の都民ファーストの会の大勝も、前回の都知事選と同様、情勢調査を受けて、不正選挙による票の水増し分が多めに発注された結果であるものと推測される。具体的な数字の検証は、別の機会にとっておく。ただ、その必要もないほど、各紙の情勢調査から乖離した形の大差であり、この大差は、昨年の都知事選と同様である。選挙区の多くが中選挙区であるにもかかわらず、自民党候補が軒並み敗北する形の差が付いている。あえて断定しておくと、今回も、不正の依頼側の予想よりも浮動票が積み上がったため、大勝が実現したのであろう。「情勢調査の結果」+「勝てると思えるだけの水増し票」+「浮動票」=「公表された得票数」という計算だけで、今回の大勝が説明できる。今回も、票の水増し分の見積作業は、高度な方法によらないものであろう。情勢調査を元にした、リチャード・コシミズ氏のいう「エクセル不正選挙」であろう。つまり、エクセルだけを用いて見積できるような選挙の不正である。(念のため、このソフトウェアの名誉のために付け加えておくと、不正を実行するユーザがその程度の技術しかない、という意味である。)

ただ、今回、票が移し替えられているとすれば、それは、主に自民党候補から抜かれたものであると考えられる。この見立ても、数字を精査しないままに述べたものではある。ただ、この推測は、一種の仮説であって、仮に間違えていたとしても、単に仮説を棄却するだけで済むレベルの話である。今回、不正な方法がまったく使用されていなかったとすれば、私の見立ては、全くの誤りであり、私も耄碌したということになる。そして、今回についても、不正が行われていなかったという見解を表明するには、不正が行われていたという見解を表明するよりも、相当に難易度の高い作業が求められよう。論理上、複数の中選挙区制であるから、一区でも不正の匂いがする選挙区が認められれば、それで私の見解の正しさが認められる、という訳で、私自身は、今回の自分の見立ての正しさに、一種の気楽さを覚えている。

ほかの選挙における不正も同様であるが、今回の不正も、その詳細は、刑事事件化した上での捜査によらなければ、決して判明することがないであろうし、捜査が入ったとしても、全容の解明は、相当に難航するであろう。都民ファーストの会の候補者が直接不正に関与したとは、私には、決して主張できることではない。あくまで私は、不正という可能性を導入すれば、各種のデータの整合性が簡潔に説明できる、と主張しているだけである。

「WannaCry」なり「Petya」なりの『Vault 7』由来かも知れないマルウェアを使用できる立場にあった戦争屋連中にとって、都民ファーストの会を今回の都議選において応援することは(、たとえ、都民ファーストの会がその活動に気が付いていて、しかも、拒否していたにしても)、戦争屋自身の利益になることであった。このため、投票用紙開票読取器のネットワークに対して、戦争屋連中が独力で不正アクセスを試みるなどして、票の改竄を行い、安倍政権を脅迫する材料に利用したという危険は、十分に現実味のあるものである。それが証拠に、大勢が判明しつつある中、ロイター通信[1]は、海外に向けて大々的に自民党の敗北を報じ、海外からの圧力という外形を早々と成立させている。いずれにしても、不正が何ら行われなかったとするよりも、何らかの不正が行われたために、今回の結果が生じたと考えた方が、通りが良い。知らぬは大多数の日本国民ばかりなりという危険を警告するのは、一応、本ブログの初志である。東京都民の意思が正当に反映されないことは、明らかに、わが国の民主主義の根幹を掘り崩すことであり、実務的にも是正すべきことであり、また、この可能性を考慮しないで議論される政治学や犯罪学ほど、有害なものはない。


[1] Japan PM's party suffers historic defeat in Tokyo poll, popular governor wins big | Reuters
(Linda Sieg、2017年07月02日15時00分BST)
http://uk.reuters.com/article/uk-japan-politics-idUKKBN19N00P


2017年7月5日追記

念のため申し添えておくと、不正の方法は、上記で明記した『Vault 7』由来のクラックツールだけではない。期日前投票の高さは、同一人物が別人名義で二回以上投票するなどの方法が多用された結果かも知れない。不正選挙に係る指摘には、しばしば選管がグルであるというものも含まれるが、私が本記事で指摘した方法は、いずれも、選管(の一部の人物)が不正に荷担することを必要としない。ただし、本記事に示した方法は、選管が選挙に関連する犯罪への対策を講じていた場合には、防げたはずのものばかりである。

あと、コールドスリープについては、順天堂だけでなく、慶應大学病院という話もあるが、とにかく、非信者が信用できるだけの形で公の場に姿を現していないということが重要である。