2015年10月28日水曜日

須原一秀, (2008). 『自死という生き方』, 双葉社.

須原一秀, (2008). 『自死という生き方』, 双葉社.

 人の不幸に係る事象を研究する者は、須原氏の著書にどのような誤りが含まれるのかを考察するために、一度は読んでみて損はない。ただし、その内容自体は★☆☆☆☆、星1つであり、私自身は、本書が一般に広く読まれるようにはしたくない。先行文献に対する重大な誤解を含んでおり、著者が本書を脱稿後に自殺したという文脈(コンテクスト)をふまえると、悪影響を後世に与える可能性が高いと認められるためである。

 本記事の時点で29名がアマゾンにレビューを寄せており、幾名かの評者が低評価を付けている中、私が最初に抱いた感想の大部を、estei氏の2008年3月1日のレビューが先取りしているので、それを引用したい。著者の須原氏や遺族に対する思いやりのあふれた好レビューである。このレビューには、星5つを差し上げたい。
 人生のポジティヴな側面のみを価値ありと認める人生観、先人による死の理由についての自らの思い込みによる断定、そして自死を実行することにより他者からの問いかけや反問を絶対的に封じたことなど、失礼ながら私には著者が「哲学者」の名に値するとは思えなかった。
 「命」というものは果たして「私」の「所有物」なのだろうか(略)。また、自らの理性をもって自死を選択する、そして出版によってそれを称揚するということは、著者と同様に「命」や「老い」、それに伴う「障害」をもつ他者のそれをも否定したことはならないのだろうか。(略)そんなことは知ったことではない、というのであれば、それはそれで一つの意見として、理解は出来る。しかし「哲学」としてはどうだろうか。
 哲学を標榜するのであれば、いささか軽率な知的態度ではないのか、という感想を持つ。(略)
 著者は、現代における自然たりえない死への状況を告発しながらも、現実の行為としては他者を震撼させるに足る不自然な死の形を提示したことになると、私は思う。このことについて、著者には答える義務があると思う。しかしその人は、すでにこの世にはいないのである。
以下に、私の感想のうち、estei氏のレビューに明記されなかった部分を示すが、その感想を要約すれば、(1)たとえ「新葉隠」主義に立とうとも、それを含めた人倫全般は、須原氏のような死に様は肯定しない、(2)西欧における死生観を見下しており「パリサイ的偽善」という批判は(哲学者の)須原氏にこそ該当する、というものである。この二点は、以下で論証の手続きに乗せるものではないが、私の駄文にこれ以上付き合えないと思う読者のために用意したものである。(無料のブログだし、そこら辺は勘弁して欲しい。)

 (少なくとも私が高校生時代に学んだプロテスタント系の)キリスト教は、辛く苦しい時にこそ、その人の行いの中に、その人の信仰の強さが発揮されると考える。この考え方は、遠藤周作氏の『沈黙』(1966)を通じて、日本という環境下のキリスト教信者に広く共有されたものであるように思う。モーリス・パンゲ氏も、自殺を論じる著書の中で「その人間の内なる信念が現われるのは、(...略...)彼が為す行為においてなのである。(p.13)」と述べている。ネタバレになるのであまり書きたくないが、『沈黙』という題名は、肉体と精神が十全でないとき、神の応答の不在に対して、キリスト者は十分に信仰を保ち得るのか、という命題を想起させるものである。

 須原氏がパンゲ氏の文章(パンゲ, 旧版, p.12)を引用して主張したいこと(須原, p.153)は、私の理解では、西欧人がキリスト教によって自死を禁止された状態に安んじるあまり、自死を許容する日本社会を卑下しているという「パリサイ的偽善」に対する反発であるが、少なくともパンゲ氏自身は、1986年当時の西欧の哲学界や宗教界に「パリサイ的偽善」が蔓延しているとは認識していない(パンゲ, p.18)。自死を禁止するキリスト教の要請を奇貨として、自死を許容するキリスト教以外の論理を真摯に検討しない姿勢を、パンゲ氏は「パリサイ的偽善」と呼んでいる(パンゲ, pp.8-9)。しかし、先に遠藤氏の『沈黙』に触れて説明したような、キリスト教徒として善く生きようとする一般人の姿勢は、「パリサイ的偽善」に毒された宣教師や哲学者たちの考察に対するパンゲ氏の批判(パンゲ, pp.11-12)とは、別個のものとして捉える必要がある。踏み込んで言えば、須原氏は、パンゲ氏の要約した過去の西洋人の主張を、現在にも通用するものであるかのように早とちりしたのである。

モーリス・パンゲ[著], 竹内信夫[訳], (1986=2011). 『自死の日本史』(講談社学術文庫), 講談社.

 パリサイ人が体裁を整えることのみに熱心で戒律の理念を守らない、とイエス・キリストが批判したことは、(キリスト教に基づく)西洋哲学の基礎的な道具的概念である。ルカ書の「パリサイ人の祈り」と「徴税人の祈り」との対比は、カソリックとプロテスタントの別を問わず、祈りの本質を示すための説教の題材としてしばしば取り上げられる。他方、キリスト教における自死のタブー化は、聖書を根本に置くプロテスタントにとっては、キリストを売り渡したイスカリオテのユダの故事をふまえれば当然のことであり、また、カソリックでも、聖アウグスティヌスの『神の国』の指摘に基づき確立されたものとなっている。もっとも、聖アウグスティヌスによる見解が示される以前は、迫害期においては殉教者と自死との整合性が、国教化後においてはローマ帝国軍の10分の1刑と自死との整合性が、それぞれ問題となったという※1

※1 この文に係る事実は、ネット情報の中でも執筆時点で正確な出典を確定できていないものなので、その程度の扱いをお願いしたい。

 ところで、わが国における自死の伝統がパンゲ氏の指摘のほどには常に崇高なものではないという点も、須原氏の読み間違いを増幅している。パンゲ氏の主張は、わが国における自死に対する思考を美化し過ぎたものである。バブル崩壊後の現代日本社会における自死は、部分的には、金と命を交換可能とみる社会通念に根差しており、自殺に対しても死亡保険金が条件付きで支払われるというシステムを悪用した部分が認められる。当事者以外の自殺に対する無関心は、バブル崩壊時も、自殺対策基本法制定以後の現在も、依然として根強いものがある。

閑話休題。

 ちなみに、須原氏が河合幹男(2005)『安全神話崩壊のパラドックス』のみを引用して犯罪情勢が悪化しておらず(p.178)、自殺を決意した者が殺意を周囲に向けないと論じたりする辺りも、筆者の疳に触るところである。河合氏の作業を否定する気はないが、同書の記述統計だけを参照して犯罪情勢を論じた気分になるのは、読者が学者であるのであれば、怠慢な行為であるというのが、私の意見である。この批判は、私自身の研究の原動力の一部を構成している。応答可能性のない応酬が続く犯罪学界隈に、止揚の余地はあるのか、という疑問が、わが国の計量犯罪学に係る私の問題意識をなしている。しかし、「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」。また、わが国における自殺論を読み込んでいれば、殺意が自身に向けられるという(通俗的かもしれないが)指摘を多くの書籍に見出すことができ、その点を説明するという、哲学者ならではの仕事がわが国では放置されたままとなっていることを容易に発見できたであろう。

 こうした不備を多々露呈しながら、巻末に「二、三ヶ月推敲のための時間が欲しかった(p.264)」と記す辺りも不用意な行為である。失敗できない一度限りの実験にあたっては、理系の研究者は、十分すぎるくらい事前準備を進めるのが常態である。論理を基本的な道具とする哲学者であるならば、自死の後には、estei氏が上掲引用で指摘するように、答えたくとも答えられないという状態に陥ることは、百も承知のはずである。しかし現実には、自身が勝手に設定した期限が来たときに、明らかに準備不足のまま、須原氏は自殺している。想定問答の準備が不十分であるがゆえに実験としては不十分であるとの評価を受けたときの答えを本書内に用意せずに、須原氏は応答できない世界に旅立ってしまっている。その不備が致命的であるがゆえに、須原氏の(社会的)実験は、実験としては失敗したと評さざるを得ない。少なくとも、あと5年、3千冊ほど、関連研究を読み込めば、私にも読み応えがあると感じられる内容に仕上がったかもしれない。準備不足が低品質に帰結したという点だけでも、本書は批判を甘受すべきである(し、甘受するほかない)。ほかの評者が指摘するように、須原氏は、自分が健康を実感できるうちに遁走した(とまでは、ほかの評者は表現していないが)と考えるのが適切であろう。

 須原氏の実験の失敗を決定付けたもう一つの要因は、大学教授という職が相当多量の社会的資源を他者から分配されて成立している職業であるという自覚を決定的に欠く点である。「命」は自分一人のものか、と問うたestei氏の疑問は、このような須原氏に対する批判によって、部分的に回答できる。(つまり、estei氏もそのような反語的表現を用いていることから、私より一歩先に同様の答えに到達しているのだが、須原氏は、自分が社会に生かされてきた存在であるという点について、真面目に考えていなかったのではないか、と憶測することができるのである。)哲学者を自称して古今東西の哲学を修めた者は、哲学の素人の私が不惑を前にして気付いている以上、この自覚に思いを致さない訳があるまい。しかも、肉体的能力の衰えに比べれば、大学教授である人物が培った知的能力は、(須原氏が自殺した)65歳以降であっても、健康に過ごす努力を重ねれば(、この努力は、諸方面に残酷であるが、自死を健康で明晰な意識を持っている内に選択した須原氏であれば、当然なすべきであるし、なし得たはずの努力であるが)、少なくとも私が先に指摘した5年間程度のうちであれば、その衰えが緩やかであったはずである。大学教授たる者の知性という存在は、すでに一個人の所有物とは言えない程度に社会的資源を投入された「資源」であるはずであり、その能力は、社会に適切な形で還元すべきであった。少なくとも、その能力を、自身の大切な研究をより多くの人物に論理的に理解してもらうために投入すべきであった。このような理解に立ったとき、「新葉隠」と勿体付けた物言いの下に、元?当時の?(いずれでにせよ私の論点からすれば、重要ではない。)大学教授が自殺するという行為は、社会的資源の浪費以外の何物でもない。自殺を後押しするような理解を見せた「友人」が大学教員であったなら、その「友人」も、社会防衛的な見地に立てば、十分な犯罪に手を染めている。この行為が現実にどのような犯罪を構成するのかはともかく、道義的には、背任罪である。

 『葉隠』は、社会防衛主義の書でもあると解釈することが可能である。社会防衛主義を是とする社会において、権力を有する個人の心構えを説く書籍であると考えても良い。この理解が正しいとすれば、独りよがりで稚拙な実験を試み、社会的資源を無駄にしたという大罪を犯した馬鹿者は、『葉隠』の執筆された江戸時代であれば、庶民なら市中引回しの上、磔獄門が相当である。武士はそのような辱めに遭わなかったとしても、武士階級にそぐわない愚行を犯しているわけであるから、お家断絶が相当である。

 以上が、本書を読み終えたとき(平成27年10月25日)までに思いつくことのできた批判である。私個人としては、本書が研究であるというのであれば、さしたる自殺の理由もないときに、自殺した当主がいた武家の動向を調べることができれば、それだけで十分に本書を超える研究になると思う。本書に五つ星を与えてしまう者が『葉隠』を同時に絶賛しているというわが国の思考水準は、わが国の哲学者の能力水準と読者の多くの水準を反映するものであり、わが国にまもなく終焉をもたらすだろう。

 しかしながら、最後に書き終えようとしたとき、これほどまで、哲学者に似つかわしくない書籍をあえて後世に問う形を取ることにより、須原氏は、もしかしたら、逆説的に、自死なんてするものではない、と言外に主張しているのかもしれない、などとも考えてしまった。肝心かなめの答えが返ってこない、というところも、遠藤氏の『沈黙』を反復しているのかも知れない、などと考え始めると、切りがなくなるのだった。

最後に

さんざんゴミのような書評を書き散らしてしまいましたが、それでも、私は、この書評の責めを負えと言われても、自殺なんかしませんぜ。詰腹を切らされるということも、札付きですからありやせんぜ。

 げへへ。

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