2016年1月16日土曜日

書評:伊東寛(2015)『サイバーインテリジェンス』、菅沼光弘・北柴健・池田整治(2015)『サバイバル・インテリジェンス』

 伊東寛, (2015). 『サイバーインテリジェンス』, 祥伝社(祥伝社新書).と菅沼光弘・北柴健・池田整治, (2015). 『サバイバル・インテリジェンス』, ヒカルランド.を図書館で借りることができたので、読了した。これら二冊についての初見の感想を一文で述べれば、四名の諜報官僚が揃っておきながら、池田氏の巻末での発言を除けば、わが国においてもっとも優先順位を高く付けるべきである福島第一原発事故(への対策)についてまったくと言って良いほど言及がないために、総じて低い評価を与えざるを得ない、というものである。なぜなら、危機管理では、制限された手元のリソースを元に、優先順位を設定することが基本であるはずだが、福島第一原発事故への対応が現時点でもわが国の最重要課題であるという認識がなかったとすれば、インテリジェンス担当者失格であるということになるし、認識があったとすれば、日本語(おおむね日本人)読者に対してなぜ分かりやすく状況を説明できなかったのか、ということになるからである。

 福島第一原発事故がなかりせば、これらの内容でも一定の評価を与えることができたであろう。しかし、『サイバー・インテリジェンス』はともかく、『サバイバル・インテリジェンス』は、福島第一原発事故を主要な対象に据えない限り、題名を裏切る内容となる。いずれの書籍も、国家の存亡については言及している。しかし、国家の存亡に言及したこと自体をもって、福島第一原発事故を念頭に置いたとする反論は、通常の論理性を備えた人間には、理解できるものではない。

 著者らは、国家の危機を論じるのであれば、後世の日本語話者がいかなる境遇にいるものかを想像した上で、それらの話者がこれらの著書をどのように読み取るかを想像すべきであった。両書に示された、今後に共通する(ほぼ唯一の具体的な)対策は、より実効性の高いインテリジェンス機関の創設である。そうしたとき、国家を持たない立場に置かれた日本語話者が、どのようにこの提言を解釈するであろうか。後世の読者のうち、批判的な読書を習得した者は、「何を悠長に諜報官僚の焼け太りを推奨しているのだろうか」と誤読するであろう。著者らに対して刺激を与えることができそうな表現を用いると、現時点における国民益への心からの配慮が不足しているから、このような提言が出てきたのである。今さらのインテリジェンス機関の拡充は、戦力の分散、ひいては逐次投入になり得る。
北芝氏に至っては、国民に対するよりも他国に対する配慮がありありとうかがえる無言の状況が多く見られる。この点、『サバイバル・インテリジェンス』を企画したという白峰氏は、人選に失敗したというべきであろう。

 なお、彼らに対して同情的に考えてみると、四名がいずれも諜報官僚であるがゆえに、何らかの規範に抵触することになるから、福島第一原発事故を解決すべきという主張に至らなかったという見方は、一応可能である。しかし、私の直感で申し訳ないが、この状態は、彼らが今後も所属する「ムラ」からの指弾を受けないようにするための忖度に由来するものである。現に、吹っ切れた感のある池田氏だけは、福島第一原発事故の晩発性の健康影響が五、六年目以降に生じることを巻末において述べている。

 本段落では、福島第一原発事故について池田氏を除く三名が明確に言及しなかった理由について、大胆な憶測を加えよう。その理由の大部分は、官僚の習性である。以下、説明しよう。諜報機関が最も影響を受けている国であるアメリカからの指示が(日本側の理解できるような形まで十全では)ないために、日本国が機能停止状態に陥っていることは(、部外者である私より)、彼らこそが最も良く知るところであろう。それゆえに、アメリカ合衆国が日本国と利益上の競合関係にあることを明確に指摘した池田氏を除けば、著者らは、今後の言論業の継続のためにも、(アメリカ合衆国内の一部に過ぎない国際金融勢力からの指示を受けた)日本国政府の指示を待ち続けることが最も無難な策であると判断したと見て良い。加えて、現時点で福島第一原発事故の収束について言及することは、伝統的な仮想敵である中露との比較において、相対的な国力の低下を引き起こすことでもある(と彼らは信じているようである)。このような政治上の目的が不在となる場合、官僚は、不作為を唯一のデフォルトの方法とする。これは、官僚組織内の相互作用の結果として生じる現象でもあり、個人に体得された習性でもある。ただし、このような「見の姿勢」を取ったことは、彼らの過半が民間人になった現在も官僚組織を第一の利益共同体と見なしている内心を浮き彫りにするものであり、彼らの行動原理に官僚制が深く定着していることを示すものである※1。ただ、この結果は、好意的に解釈を加えれば、官僚としての素養(ディシプリン、規律=訓練)を体得したことをもって、彼らを責めるのは酷というものである。官僚は、目的の遂行を第一の存在意義としており、目的の設定や次世代社会の構想は越権行為である。職員が何らかの知恵を有していたとしても、その知恵を披露することは、建前上は、むしろ問題である。官僚が職務上の責任を職務を通じて十全に取ることは、悪しき処罰の前例を作るということからしても、不可能である※2。しかしながら、両書に見られた福島第一原発事故に対する不言及という官僚的態度は、新井信介氏のブログに寄せられたメールに見られるような「今の日本の権力層で「投了のやり方」をわかっている人が居るのか?疑問です。」(リンク)という疑問を持たれても仕方のないものである。また、結果から見れば、この「沈黙」は、官僚制が機能不全を起こしていることと、まったく変わるところがないものである。

 ただ、結果として両書が期待される水準に及ばない責任は、彼らのみに帰せられるものではない。彼らは、スパイという前職ゆえに、多くの情報を蓄えていようとも、現実を正確に描写する努力が許されない場合に度々直面するであろう。とすれば、この種の議論を気兼ねなしに行うことができる資格がある者は、守るべき国家秘密を有さない人物だけである。今こそ、自らの言説の十全さに対する責任を取ることのできる個人が将来の日本社会の構想を真剣に論じるべきである。また、憲法により出版の自由を担保されている出版界も、限定されたリソースをそのような国民益を優先する議論を行う人物に振り分けるべきである。

 まとめると、両書は、出版の時機を逸したものである。6年前なら役に立ったかもしれない。今となっては、両書に含まれる官僚的な「組織ハコモノ」発想は、むしろ有害である。

 なお、それでは、オマエの構想はどうなのか、と問われることが必至であろう。今までの記事において、私は、基本、ギブアップする=衰退をソフトランディングさせる、という方向性だけについては、断片的に述べてきた。別記事(リンク)にその構想の(現時点で思いつける限りの)全体を記す。



※1 北芝氏は、東大卒を始めとする官僚らしい官僚に対して、頭でっかち系であるとして、他書においても敵意を示してきたものの、『サバイバル・インテリジェンス』に見られた彼の無言は、彼の憎む官僚的態度そのものである。日本国民の側に立つ池田氏の言説に接して、北芝氏は日本国民のためになる態度を明確に示さなかったのである。仮に、北芝氏の態度が日本国民のためになるものであると主張するなら、それこそ、その理由を明確に世に問うべきである。それが官僚としてではなく、日本語で言論をなす言論人としての倫理というものであろう。それとも、無言自体は肯定の意を示すという標準的なディベートの考え方が、突然、ここでは適用されるとでも言うのだろうか。そうではないとするなら、その証拠を挙げて補足すべきであろう。

※2 天木直人氏や古賀茂明氏のように、辞任という方法が可能であることは承知しており、この点だけでも両氏を尊敬できると思う。


どうでも良い補足

この分野の書籍は、私の住む目黒区では一定の需要があるようで、3ヶ月(6名)程度、待たされた。このような盛況は、東大の駒場キャンパスや東工大の大岡山キャンパスもあり、また、自衛隊の目黒駐屯地があるという地域柄によるのだろう。

 ところで私は、従来、書籍は購入することを旨としていた。しかし、小遣いが減ったのも関係していないとは言わないものの、今後、荷物が多くなりすぎることから、現在は、自炊するまでもなく、また、自分のコアコンピタンスに影響しないものについては、購入しないということに決めている。代わりと言っては何だが、図書館を使えるだけ使おうと思うに至ったのである。

 なお、これだけ厳しい内容の指摘を行うからには、私自身も、ウェブを通じて一般公衆に意見を表明することについて、遅きに失しているという点に対する批判は、甘受したい。ただし、ブログが無料で閲覧可能である以上、一定の手抜きはやむを得ないものとみなしている点については、ご海容いただきたいと考えている。なお、著書を執筆するのであれば、私は、伊東氏のように、飛行機の中で読んで出典を思い出せない記事の出典を著書で省略するということはしない。それは手抜きに過ぎる。

 また、伊東氏の主張にあるように、仮に、インテリジェンスの結果として公衆の知るところとなる情報の多くが真実を語っていないというのであれば、伊東氏は、自身の著書についての信憑性を高める作業により多くの労力を割くべきであった、と私は考える。その根拠は簡単で、彼の著書には、新書とはいえ、出典がほとんどないのである。職務上であれ、人を惑わす偽情報を積極的に発信してきたことを主張する著者であるならば、なおさら、その主張の正確性の程度を他人にも分かる形で示すべきであった。このようなレベルの書籍が未だに標準的なものであるとみなされている=流通していることは、日本文化の劣化を如実に表す証拠である。後世の読者は、そのように考えても間違いというわけではない。


蓮池透氏の発言に関連して(平成28年1月16日)

蓮池氏が問題視している交渉直前の場において、警察関係者はいなかったのであろうか。『サバイバル・インテリジェンス』において、菅沼氏は、拉致問題を解決したい警察庁、対、日朝外交正常化交渉を始めたい外務省、という構図があることを指摘している(p.167)。正当な認識を正当に語ることは、被害者の側に立った政策を進めるための礎となる。また、当時の正確な認識を関係者が語ることは、誰のために仕事をしているのかの試金石となる。当時の関係者の覚悟のほどが問われる事態になっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントありがとうございます。お返事にはお時間いただくかもしれません。気長にお待ちいただけると幸いです。