2018年7月16日月曜日

(メモ)『ヘーゲル法哲学批判序説』を陰謀論者として読む(1)

まったく、ドイツの歴史が自讃しているのは、歴史の領域でどんな国民もまだやったこともなく、今後も真似することもあるまいと思われるような動きである。すなわち、われわれは近代諸国民と革命を共にしないで、ただ復古だけを共にしたのであった。われわれのところで復古がおこなわれたのは、第一に、他の諸国民があえて革命をおこなったからであり、そして第二に、他の諸国民が反革命の厄にあったからであり、はじめはわが国の支配者たちが恐怖を感じたからであり、次にはわが国の支配者たちが恐怖を感じなかったからである。われわれは、われわれの牧者を先頭に立てて、ついにたった一度だけ自由の社会に加わったのであるが、それは自由の社会のであった。

カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844, 岩波文庫1974年版, 城塚登訳, p.74)は、冒頭のような段落を含むが、このマルクスの記述は、彼自身を稀代の二枚舌と解釈できるようなテクストをほかにも残していることを考慮すれば、何らかの誘い受けであると読めてしまうものである。というのも、その後のわが国は、現に、明治維新という名の王政復古を成し遂げたからである。どこから出版のカネが出ていたのかを考慮すれば、この種のアジテーションは、常に、諸刃の剣として機能する。あらゆる知識・情報は、大破壊を企図する側にも、その抑止を願う側にも、活用可能なものとして開かれている。

明治維新の流血の度合いの少なさは、流血に対する当時の世相のスタンダードを考慮すれば、やはり特殊なケースと考えても良かろう。諸外国に完全な支配を許さなかったこともまた、当時のわが国において、マルクスの知性の水準と同等の集合的知性が発揮された結果と解釈できる。当時の知性と同等の悪知恵を発揮することができれば、わが国もまた、TPP11なり何なりを乗りこなすことができるやも知れない。が、現状では、その時代を見ることが私にも叶うのか否か、甚だ疑わしいことである(。何十年かかることやら、という意味である。念のため)。

私は、(都内に出掛けるのが大変という)現在の住環境を前提に、古典をダラダラ読みつつあるが、その作業を進める度に、陰謀論とされる諸説までを視野に含めて、真剣に過去の書籍を読み解き、その成果を世に問う日本語著者の人数の少なさを感じてしまう。もっとも、ポスト真実時代において、陰謀論を真正面から論じて否定するという方法論が通用しなくなったためか、現在の陰謀論否定論のトレンドは、相当に狭い分野の(歴史学などの)研究実績を梃子として、陰謀論の諸説全てを否定するという、誇大理論の形式を応用するものへと移行したように見える。これは、譬えて言えば、「私は林檎について研究して社会に認められた。林檎は果物であるので、私は(存在もしていない)蜜柑泥棒を許せない。」と主張するかのようなものである。このようなレベルの藁人形論法のおかしさは、真っ当に陰謀論とされる諸説を検証する人々には、とっくにお見通しであろうが、Googleアラートは、まあまあの人数のアホが、マスコミのヨイショに騙されて、この種の誤謬が流通していることを報告してくる。この点、わが国では、(大日本帝国=ナチ連合の衣鉢を引き継いだ)Aチームの方が、陰謀論を道具主義的に利用している分、陰謀論とされがちな諸説の本質に迫る理解を有していると言えよう。他方、2018年現時点のわが国において、Bチーム側マスコミの陰謀論に対する理解は、浅薄で役に立たないものである。両建てを乗りこなす上で、マスコミのヨイショと偏向報道は、明らかな障害である。

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