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2017年6月5日月曜日

(メモ・感想)ヤフコメの「共感順」は「そう思う」確率の点推定値ではない

『Yahoo!ニュース』のコメント欄(通称ヤフコメ)の表示のトップから、ネトウヨの表示が消えたようであるとの記事が『のんきに介護』というブログにある[1]が、その理由を「ネトウヨがいなくなった」と喜ぶことは、早計であると思う。その理由が、機密費の予算が底を付いたからネトウヨを雇えなくなったためなのか、それとも順位の表示方法のデフォルトである「共感順」の設定に何らかの変更があったためなのかは、私には分からない。「共感順」とはいうが、私は、一度たりとも、数千の得票済みのコメントを抑えて、「そう思う」に10票、「そう思わない」に0票といった、「完封ペース」の弱小コメントが並んでいるところを見たことがない。私は、概算で、数千の『Yahoo!ニュース』を一年間に閲覧していることになる。ゆえに、「共感順」は必ずしも「そう思う」確率の点推定値ではないと結論付けられる。私はユーザ登録しておらず、不定期的にクッキーの削除も実行しているために、リベラルな固定ユーザよりも、通常の読者に近い閲覧結果を得られているはずである。何らかの理由があって、ネトウヨ風のコメントが一部の読者のコメント欄に並ばなくなったことは事実なのであろうが、それが単にインターネット上の分割統治の結果であるとすると、検閲の度合いは昂進していることになる。リベラルな固定ユーザや、本当のところを知りたい読者にとっては、むしろ、望ましくない展開を迎えているものと考えられる。

今更であるが、この種のインターネット上の情報環境とその設計のあり方は、「アーキテクチャ」と呼び習わされており、われわれ(特に日本人)の情報摂取に多大な影響を与えている。このアーキテクチャの問題は、わが国の犯罪予防対策についても、警察国家化を引き起こすとして概念が輸入された経緯がある。この移入において大きな役割を果たしたのは、東浩紀氏の著作と、宮崎哲弥・宮台真司の両氏(雑誌『サイゾー』に連載されていた『M2』)であるように思うが、結局のところ、それらの論考に示唆されたソフトなアプローチは、現今の警察行政に対して強い影響力を及ぼすことはなかった。でなければ、前川喜平氏のパパラッチ写真もなしに、下半身ネタで攻勢をかけるという判断が下されたはずもないからである。


[1] ネトウヨに報酬が支払われなくなったようだ。安倍のラジオ出演のニュースから、一斉にネトウヨたちが姿を消す。逆に、いよいよ本物の民意がネット上、観察できるようになった。これは、凄いことだよ - のんきに介護
(2017年06月04日20時08分16秒)
http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/4e6ecd0bca44d6e48b06b0faec665a61

2017年4月24日月曜日

日本の言論状況に最も必要とされるのは自己検証サイクルである(3)

本稿は、第1回(2017年4月18日)、第2回(2017年4月20日)からの続きである。今回の話題は、従来から大きく脱線するが、次回以降の前振りのつもりではある。


『週刊少年マガジン』の新連載にみる数理センスの欠如

ところで、講談社は、(学術文庫のように、)文理の別を問わず、学術的に優れた出版物を刊行する企業であるというイメージもあるものと思うが、こと最近に限れば、そのブランドイメージを失墜させるだけの杜撰なコンテンツを見かける。同社の稼ぎ頭でもあろう『週刊少年マガジン』で2017年10号から連載されている『ランカーズ・ハイ』(中島諒氏)という漫画は、国会議事堂が夜な夜な地下闘技場になるという設定のバトルものである。主人公はランク10位から、1位の因縁ある相手を目指して闘い抜くことを決意する。しかし、この漫画は、指摘されれば小学生でも理解出来るだけの欠陥を抱えたランキングシステムを土台にしている。敗者は、生きていたとしても、ランクを剥奪され、実質上死ぬまで殴られ続けるという設定になっているが、この設定が矛盾を来す原因となっている。これでは、主人公が必ず一方の相手となる「死合」しか組まれない、という前提を追加的に必要としてしまうのである。どういうことか。10人のランカーが2人1組となり、5試合が行われたと仮定すると、10位のランカーは、1回の死合を生き抜けば、上位5名が死ぬ(うち1名を殺すことになる)ために、直ちに5位に昇格するのである。ランカーを補充しない限り、計9回の死闘によって、10人のランカーは、1人だけが生き残ることになるのである。ほかのランカーたちの試合が組まれ、かつ、低位ランカーが補充されないという条件の下では、10位からキャリアを始めた主人公であっても、1位との試合を含め、都合4回だけ戦えば良いことになる。先週号までの間に、2回目の試合を生き抜いた主人公であるから、同ペースで他のランカーも試合するものだと仮定すれば、3位に付けていなければおかしいのである。1回目に9位と対戦して勝利すれば10位から5位へ、2回目に4位と対戦して勝利すれば5位から3位へ、という具合である。

先週号(2017年20号)から始まったサバイバル漫画『おはようサバイブ』(前原タケル氏)も、一見、読者にとって、不合理には思えない状況が描かれるが、そこには、説明がもう一手間求められるものと考えられる。この漫画は、致死率99%のウィルスが2020年にパンデミック(大規模感染)を起こし、社会機能が崩壊した、というプロローグから始まる。主人公の少年と、少年が好意を寄せる少女は、2022年、平和だが大麻にハマった埼玉県内のコロニーが嫌いになり、出奔する。自動車で山手線まで移動し、一組の男女に出会う。ここまでが初回である。説明を要する点は、致死率99%という設定と、埼玉・東京間を移動してカップルに会うまでの間、誰にも出会わないという設定との整合性である。人類全体での致死率が99%という設定であれば、極寒の地域に生存者が集中しているであろうから、誰にも出会わなくとも問題ないであろう。他方、全人類が大体満遍なく罹患し、99%が死亡したという前提であれば、社会機能が緩やかに停止したという大前提を必要とするが、東京都内には、社会崩壊直後、13万人が生存していたことになる。このとき、生存者が東京都全体におおよそ均一分布しているものと仮定すると、まず間違いなく、新荒川大橋・戸田橋・笹目橋などの重要交通結節点において、主人公らは、モヒカンレイダーたちか、正義のサバイバーたちに発見され、遭遇していたであろう。これらの交通結節点は、明らかに、ゲーム理論などにいう「フォーカル・ポイント(参照点、見せ場)」である。ある集団が他人との接触を欲しており、相手ならいかに考えるかを想像する力があるとき、人が通りやすい場所を見張るという考え方は、自然なものであろう※2。この非整合性について、『おはようサバイブ』がいかに説明を与えるのか、今後に期待したいところである。

これら新連載に見る数理センスの欠如の背景には、わが国における出版業関係者(ここでは編集者)の学問的背景に偏りがあるという可能性が認められる。『ランカーズ・ハイ』に見られる設定の基本的なミスは、具体的には、放送大学の課程でいえば、『数理システム科学』分野の知識が欠落しているために生じたものである。社会全体における、この状態の克服に必要な改善策は、今後、大学の学部学生が教養課程の勉強に身を入れる、というもので十分かと思われる。ただ、社会には、それではいかんともし難いほどに、(私を含め、)学習の機会を無駄にした(不良)大卒者が掃いて捨てるほどいる。社会システムの方に何らかの補助的な経路を組み込まなければ、ここに見るような、おバカな情報が圧倒的な流通機会を得るという状態を改善することは、なかなか見込みにくいであろう。(講談社に限定すれば、『ブルーバックス』編集部から、校閲者を借り受けるなどはしていないのであろうか。)

漫画など、面白ければそれで良いという話もあるが、暴力と性暴力をミックスさせるシーンが初回?にあったので、『ランカーズ・ハイ』自体を相対化する機会を見逃す訳にはいかない。その設定がアホ過ぎることを指摘し、その内容が非現実的であると相対化しておく作業は、少年漫画の読者層が中年化しているにせよ、社会防衛主義的観点に立てば、必要である※1


※1 実際、同誌で長期連載されていた『カメレオン』を真似した犯罪が生じたことは、知られている。過激表現が性犯罪に与える影響は、従来から、表現の自由との関係で、議論の対象となってきた。表現の自由は保護されるべきであるが、過激表現については、読者への影響を配慮しなければならない。本稿では、意図こそ社会的な影響を見込むものの、私があくまで漫画批評に留まる範囲の手法を用いて『ランカーズ・ハイ』を批判していることに注意して欲しい。

※2 ここら辺の話は、私が『ウォーキング・デッド』シーズン6で登場した集団「救世主」の生態があり得ないと考える理由にもつながるので、別途、考察する予定である。


情報機関にはデータマイニングを囓った人材ではなく数理システム的思考に通じた人材が必要である

漫画のことと笑うことなかれというのが、当然、次に予想できる展開であろう。本稿の趣旨は、小題のとおりであって、ここまでの文脈について心当たりのある人物が自省し、本稿や本ブログなどを適宜引用・参照して、自説を修正し、自らの血肉とすれば良いだけのことである。ただし、日本の政府機能がハードクラッシュしない限り、そうはならないであろうというのが、私の予想である。その背景には、伝統的な日本の学問分野における文理の区別と、役所における「法学部にあらずんば人にあらず」くらいの法学部重用主義に起因する、社会における文理の差別と、日本語論壇における情報爆発が存在する。

この差別は、わが国の情報機関にも該当する。よほどの変革がわが国の政体に生じない限り、「中の人」は、決して、自己改善作用を高めないであろう。というのも、わが国の情報機関の文化は、耳に逆らう忠言を発した外部の(真に)有識者(と呼べる人物)を、メンツゆえに受容できず、社会から見て無視してしまう形式を取るという悪弊を有するからである。(ひそかにコンタクトしているかも知れないが、それが彼らの外形的な行動に表れているとは見えない。)もちろん、私は、有識者などとは呼べる「資格」を有しはしない。しかし、小室直樹氏ほどの碩学をして無視する形の文章をアップし続けて数年経つのであるから、況んや遙かに卑小な私をや、というのが本連載記事の趣旨の一つなのである。

(次回(2017年4月26日)に続く)




2017(平成29)年4月26日追記

『おはようサバイブ』は、今週(2017年22号)で「都民の生き残りと地方からの流入で/今…おそらく50万人は東京にいる/そして…その50万人が…皆…飢えてる/つまり!/現在の東京は食料と物資の奪い合い/弱肉強食の野生の世界ってわけ」〔pp.158-159〕という設定を登場人物に喋らせるが、大規模感染後2年の日本という設定は、逆に、地方への定住化を促進していたであろう。NHKの朝ドラ『ごちそうさん』や『火垂るの墓』などに描かれたように、第二次世界大戦中・後のような、地方の農家が頼られるという形での社会移動が生じたものと考えられる。人間は、経験や従前の知識に意思決定を左右される存在であるから、広く知られた歴史上の経験が参照されるであろう。誰を頼るかという点であるが、WW2同様、血縁が頼られたり集団疎開が行われたものと考えられる。しかし、パンデミック後の世界が混沌としたものとなっていた場合においては、この種類の移動が生じるとともに、無縁者である犯罪集団によって、かなりの抗争が生じたであろう。武装農作物強盗との戦闘が最大のリスクであろう。私なら、東京の湾岸地域をスカベンジすることをまず考えるが、同じ事を考える人間は、食料の流通・管理に関与した人物に限定されがちであろうから、初期であるなら、倉庫においてそれほど大きな抗争が起きることは考えにくいであろう。問題は、搬送中であろう。『おはようサバイブ』の言うとおり、東京都内に50万人がいると仮定し、彼らが弱肉強食状態であったとすれば、主人公たちは、荒川に架かる橋の上か、その袂で悲惨な最期を迎えていたことであろう。(警察車両が展開されたまま放置されているであろうし、それらの車両や装備が悪用されていたであろう。)




2017(平成29)年5月16日追記

『おはようサバイブ』の設定のおかしさは、4月26日追記分で十分に示せたとは思うが、23号でも違和感のある連中が登場する。主人公カップルと高田馬場で遭遇した集団は、東京駅を本拠としており、自警団・強盗団の双方の性格を持つ日和見的な集団として描かれる。山手線の反対側に位置する高田馬場(Google様によれば、首都高速経由で8.5km)まで遠征可能なだけの武力を有する集団が、制服を着た集団と何らかの相互作用を経ていない訳がない。100人に1人が生き残るのであれば、警察にしても自衛隊にしても、数万人が生存していたことになる。彼ら制服組がいかなる経緯を辿るのかは、そのリーダー格の行動に依存するが、彼らが移動・採集するときには、制服を活用していたであろう。皇居と目と鼻の先にある東京駅に闇市を開くだけの規模の無法者集団が形成されているという設定や、彼ら無法者集団が主人公らの出奔元のコロニーとリアルタイムに連絡が取れるだけの体制を有しているという設定が通用するのであれば、彼らは、これだけの怪しげな秩序を構築する前に、制服組に何らかの形で取り込まれていたであろう。また、主人公たちの出奔元のコロニーにも、彼ら制服組の影響は及んでいたであろう。

私が知りたいのは、南東北・関東圏がいかなる衰退を辿るのかという道筋である。そのために、作家の紡ぐ想像の世界を参考にしている。国民の圧倒的多数が白旗を揚げる時期を考察する上で、彼らの作品が読者の心性に与える影響を推量しておくことも必要である。漫画雑誌の読者数は、書籍の読者数よりも二桁程度は上になるし、物語という形で読者を理解させるから、その影響力は、質・量ともに国勢を左右するものである。この点、当初は、『おはようサバイブ』が読者に良い影響を与えることを期待したが、数的感覚に乏しい設定が続々登場する状態をふまえれば、今後、良い影響を与えると見込むことは難しいであろう。

今後は、『おはようサバイブ』におかしいと思う設定があっても見逃すことにするが、面白い展開になれば、言及しない訳でもない。なお、そもそも、致死率99%のウィルスのパンデミック後、原子力発電所や核ミサイル施設が地球環境の決定的破壊をもたらさないという保証は、まったくない。この点、エボラなどの悪用を通じて人口削減を図る連中がいたとすれば、彼らは、数的感覚を決定的に欠いている。70億人を5億人まで削減しようとして、数千人も生き残らないというオチは、十分に考えられそうである。

2017年3月28日火曜日

神はサイコロを振らない(ので重大事件も本当なら決定論で説明可能である)

佐藤優氏の論考には、しばしば、「民族や国家にも運・不運がある」という表現が見られるが、私は、この表現を「制限時間内には分析しきれないほどの複雑な関係を内に含むブラックボックス」であるとして解釈することにしている。孫崎享氏と佐藤氏は、各々の著書を通じて密かに批判の応酬を繰り広げているようである。孫崎氏が佐藤氏に向けて著書に暗に秘めたかの批判は、私が佐藤氏の表現を先のように解釈することについて、一定の論拠を与えてくれるものである。このように、私は孫崎氏の話を自身に都合良く解釈している。

佐藤氏の『日米開戦の真実』(2006年7月, 小学館)は、大川周明氏の二本の論説に解説を加えるという構成を取る書籍であるが、現に、わが国の地政学上の位置を指して冒頭の表現を指摘する(p.6)。この指摘そのものは、その通りである。少なくとも、地政学という一種のモデルにおいて、地理は、所与の条件である。しかし、孫崎氏の『日米開戦の正体』(2015年5月, 祥伝社)は、多数の自叙伝や日記等を通じて、日本が対米宣戦布告するまでの過程において、わが国においても、政策決定に影響を及ぼしうる者の中に開戦を避けようとする議論が多く見られたことを指摘する。日露戦争以後、満州における権益を不当に拡大しようとした軍部が、戦術的には大成功ではあるが長期的には大きな問題を引き起こすような謀略・工作を実施してしまい、対米戦争を避けようとする外交活動に制約が生まれる。この積み重ね・繰り返しが、日本を満州へ、次いで全中国へ、最後には南方へと出兵させる動因となる。このような解釈を可能とする材料を、孫崎氏は提示している(。そう私は読んだ)。

他方、孫崎氏の『日米開戦の正体』の構成は、氏の解釈に基づき、その折々のターニングポイントを提示し、何が欠落していたのかを考察するものであり、その体裁は、フローチャートを頭の中に彷彿とさせるものである。(怠け者なので、実際に作成するのは、長生きできたらにしたい。)誤解なきように明記するが、佐藤氏によって解説される大川周明氏の論説は、両方とも、当否は措くとして、十分に因果関係を追える内容である。佐藤氏の解説においても、すべてを運・不運として片付けている訳ではないことは、当然過ぎるほどである。しかし、孫崎氏の主張には、アメリカが満州における権益を主張したのは、偶然というよりも計算の上であるという主張が込められている。私の穿ち読みによれば、あたかも、孫崎氏の記述は、佐藤氏の指摘するように、大平洋を挟み日米両国が位置するという地理的側面が偶然であるにしても、その地理への対処の仕方には、その時々における選択肢が少ないながらも存在し、その時々の選択を経た上での複数の展開があり得た、と主張するかのようである。この読後感が「実際には細小で多数のコミュニケーションの積み上げが決定論的に作用しているが、歴史を後から巨視的にみれば、その過程は、全体的には運としか表現しようのないブラックボックスとしてしか把握することができない」といった、冒頭の印象につながってしまうのである。

システム思考は、分からなければ、かつ、問題が起きなければ、「処理」の部分はブラックボックスでかまわないとする思想でもある。実際のところ、歴史を、すべての人々の全思考・行動の過程ならびにそれらの行動の相互作用の帰結であると定義すると、歴史の全体を細部まで把握することなど、人間には無理なことである。観察が不可能であるためである。だから、観察者である人間は、どこかで観察を省略し、足らざる部分を何らかの方法で補完し、全体像を把握しようとする。その補われる程度が、解釈の当否にも深浅にも影響する。その程度問題こそが人間の批評精神の発揮されうる場でもある。実際のキャリアにおける確執は置いておいて、その違いが、佐藤氏と孫崎氏のスタンスにも現れているように思われてしまうのである。両名ともが論壇で活躍できることは、日本語環境において、インテリジェンスという分野の考察を行う上での好条件である、というのが本稿のオチである。

題名は、アルバート・アインシュタイン氏による、論争を引き起こした言であるが、本稿に紹介した密かな応酬にこそ相応しいと考えたために採用した次第である。

2016年10月23日日曜日

(メモ・補足)孫崎享氏の読売新聞7月24日情勢調査に対する理解と「次はユリコね」ツイートについて


#以下は、平成28年7月31日執行東京都知事選挙に関する落ち穂拾いである。東京10区補選は、本記事に関連しないとも言えないから、大事を取って、20時に公表するよう設定した。

 読売新聞7月24日情勢調査に何らかの意味を見出そうとする見解は、まったくない訳ではない。たとえば、孫崎享氏は、2016年7月24日に次のツイートを発信している。ただし、同氏のツイートは、この時点では、「鉛筆を舐める」すなわち「何らかの意図を以て調整した」数字であることを指摘するものに留まる。孫崎氏が次に都知事選について発信したツイートは、一部で有名になった投票日前日の「次はユリコね」ツイートである。



 孫崎氏の「次はユリコね」ツイートに対して、私は、複数の読み方が可能であることを指摘した(リンク)が、『謎の真相ブログ』(リンク;記事表示はJavaScriptオンが必要)と題するブログによって、このたび、他の読みが許されることに気付かされた。このブログ主は、不正選挙を企図する勢力が増田寛也氏の当選を目論んでおり、小池百合子氏を牽制するために孫崎氏を用いて「次はユリコね」と言わしめたというのである。「次はユリコね」という発言は、確かにこのブログ主の見方を包含しうる。同ブログの関係する部分を末尾に引用する。

 『謎の真相』ブログに接して、私は、「次はユリコね」ツイートの解釈の幅が自分の思う以上に広いものとなり得ていたことを思い知らされた。孫崎氏のツイートに対して私が試みた限りの多義的な解釈は、今でも、私の挙げた内容すべてが該当するとは思うものの、少なくとも、より多義的な解釈が可能であったという訳である。分析能力の涵養という観点からは、大変に反省すべきことである。これは、今のところ、自らの分析能力の未熟が原因としか言いようがない。先の記事は、事の真偽を問うたものではない。それゆえに、考え方を見落としがあったことは、私の想像力不足ということになる。

 確かに、小池氏を応援していた者で、かつ、不正選挙なる事象があり得ると考える者にとって、不正がほかの候補によって行われることは、具体的な危険であった。「それまでの都知事選の勝者に親しい者が不正の権利を手にしている」という仮定を置けば、自民党の公認を得た増田氏に不正選挙を実行するだけの勢力が関与していたとみることも可能ではあった。また、選挙結果にかかわらず、不正が行われていたと考えることも可能ではあった。投票用紙読取分類機を悪用した勢力は落選候補に与していたが、不正の力及ばず落選したという見方である。

 ただ、こうして考え方を広げてみると、鳥越氏の支援者が投票機器に係る不正に関与し得たとする議論は、『謎の真相』ブログ氏によっても、見られないということに気付く。何を以て選挙を不正と指弾するのかという話には、国にもよるが、選挙区の区割りと一票の格差、選挙人・被選挙人となる資格と識字能力、投票所の設営場所や開場期間や本人確認の方法、選挙に要する資金と会計といった、選挙の仕組みならびにその派生事項(行政面)、伝統的な得票者の買収や抱き込み、公職選挙法による規制、司法機関の関与と態度といった司法面に係る事項(司法面)、マスコミの関与と偏向報道(報道面)、といった要素を列挙することができる。ここ数年内、わが国において、不正選挙の語は、投票用紙読取分類機と集計システムという機器システムに向けられてきた。私も、不正選挙の語をこの機器に係るものとして利用している。この機器の悪用の余地が(当時の最先端の学識に照らして、つまり、特許等の知的財産権を認める際の審査のような)真剣さを以て検討された形跡がないから、また、開票結果に最も大きな影響を与えうるからである。とはいえ、開票所に自力で到達困難な高齢者を介助して期日前投票させるといった活動や、グループで順番に投票して投票結果をグループについて確実なものとするという工作や、地方選の前に投票権を持てるように大挙して移住するという荒技もまた、不正と呼びうる内実を有し得る。いずれも、詳細次第では、アウトにもセーフにもなる内容を含む組織的行動である。これらの個人を基礎とする組織的投票行動は、鳥越氏の支持政党にも見られた実績のある行動である(7月の都知事選についても実施されたか否かは、分かりかねる)。いずれにしても、ここに挙げたセーフ・アウトの難しい行動が不正選挙ではないかという申立ては、ウェブ上で大きく取り上げられることはなかったようである。まして、鳥越氏を指示する政党によって開票機器システムにおける不正選挙が行われたとする指摘は、見当たらないのである。


 技術は中立であるから、どの陣営によっても悪用される余地がある。しかしながら、投票機器の企業は、決して無主物ではないのであるから、今のところは、一人か複数かの人間に意思決定の大部分を負うはずである。このため、機器にバックドアを設けるか否か、その仕組みをどこまで共有するか、どの選挙を所掌する組織に販売するよう営業をかけるか、入札にあたりどこまでダンピングするか、などの多くの企業経営上の決定は、通常、経営陣に多くを負っているはずである。これらの人物がどの候補と何次のコネクションを有するのか、そのコネクションの深さは、と問うていくと、なかなか興味深い結果を引き起こす。


 2016年アメリカ大統領選挙では、二大候補の支持者の両方ともから、不正選挙の危険性が指摘されている。アメリカ大統領選挙における選挙機器の不正に対する批判は、常に、利益を伴う人間関係が指摘され批判されるという構図で共通する。選挙機器を取扱う企業そのものが片方の陣営に資金援助するという構図は、明白な不正である。しかし、このような形でなくとも、選挙機器企業の経営者が、ある陣営の金主の企業に経営者として迎えられていたという事実のように、間接的であっても十分に問題視できる構図は存在する。昔のことであっても、経営者として獲得した報酬額が莫大なものである限り、不正が行われなかったと見ることは、到底不可能である。

 孫崎氏のツイートにどれほどの多様な読みが許されようとも、外形的な事実を詰めていけば、不正が行われたか否か、行われたとすればいかなる構図によるものかは、おおよそ明らかになろう。このとき、『謎の真相』ブログが正しいか否か、私が正しいか否かのそれぞれも、ある程度の確信に基づいて述べることが可能になろう。孫崎氏のツイートの真意は、期日前投票期間中でもあったという事情もあるために、相当の反応を引き起こしたが、このことも含め、明らかになる日が来るかも知れない。





#なお、以下に紹介する『謎の真相ブログ』は、fc2.comのJavaScriptをオンにしないと記事が表示されないようになっている。また、引用部分では、二行分の改行を一行分に直している。

謎の真相ブログはピンポイントで通信妨害を受けています-Docomoオペレーターが認める - 謎の真相
2016年08月05日02:59
http://asvaghosa.blog.fc2.com/blog-entry-355.html
今回の都知事選にした所で、今話題の小池と親しい丸川が党の命令であそこまで小池を叩き増田をヨイショしていたことからもわかる様、「増田不正選挙当選」はガチガチの確定事項だったわけである。
もし、「次はユリコね」ということならば、増田ヨイショはさておき、あれ程の都連の側に立った小池叩きは明らかに余計なはずである。
それを見破って釘を刺す《作業》抜きには小池の当選は断じてなかっただろう。



党本部マター発言の闇の深さ-《次はユリコね》-←すぐに引っ掛かる思慮浅薄な低脳どもよ、少しは行動を起こしてみろ。行動を起こせば色んなことが見えてくる - 謎の真相
(2016年08月08日03:52)
http://asvaghosa.blog.fc2.com/blog-entry-356.html

党本部マター発言の闇の深さ-《次はユリコね》-←すぐに引っ掛かる思慮浅薄な低脳どもよ、少しは行動を起こしてみろ。行動を起こせば色んなことが見えてくる



2016都知事選不正選挙、現在進行中。増田当選がおかしくないことを今から《埋め合わす》読売新聞の創作記事 - 謎の真相
2016年07月25日05:20
http://asvaghosa.blog.fc2.com/blog-entry-349.html

しかし、今回の都知事選で裏社会の不正工作によって、勝たせる予定の候補者は、ムサシ&パソナの自民党の公認候補で内田茂が仕切る自民党東京都連推薦の増田ひろやなのである。
さあ、これは困った……
街頭演説の様子でこんな差が露呈してしまっては…
つまり、こうなると作戦は、投票日一週間前において、こんな世論調査の結果が出てたのだという、時計を遡った不正選挙のアリバイ作りである。だから、増田が当選しても何ら不思議はなかったんだと……
それが、この読売CIA新聞の創作記事だ↓

小池・増田氏競り合い、鳥越氏が追う…都知事選
2016年07月24日06時00分

2016年8月4日木曜日

相模原事件の教訓は情報の共有ではなく情報の評価こそ重要というものである

予兆、危機共有に溝 相模原殺傷事件から1週間:朝日新聞デジタル(2016年8月3日朝刊39面)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12493090.html

前記事において(リンク)、私は、朝日新聞7月31日の記事を高く評価した。今朝(8月3日)の記事に対しては、新聞社の取りがちな誘導策、すなわち「わざと論点を記さない」点が見られるため、指摘して批判しておきたい。以下で私が指摘する内容を、田村正博氏が新聞記者に対して指摘していなかった場合、田村氏は、自ら元の職場に忖度したか、または、不見識を晒したということになろう。なお、本点は、以前の記事の繰り返しでもある。

 まず、田村氏の解説に係る部分を引用しておく。ほぼ全ての文に異論があるためである。

■情報の共有、限界ある
 京都産業大法学部の田村正博・客員教授(社会安全政策)の話 まだ犯罪を起こしていない個人の情報を共有することには限界がある【1】。措置入院の解除から事件までに約5カ月あり【2】、植松容疑者を警察が常に監視することや【3】、市や園が危険人物とみなして広く情報共有することには【4】、人権上も法律上も別の問題が生じる可能性がある【5】。報じられている事実以上の予兆がなかったとすれば【6】、より踏み込んだ対応をするためには、社会的な議論が必要だろう【7】。
【1】に対しては、インターネット上にすでに表明された批判的意見の中に、犯罪として対応できたはずなのに、見過ごしたというものを見ることができる。国民の側からこのような意見が提起されているにもかかわらず、警察を代表すると見なされうる田村氏がこのような解説を掲載することを承諾したことは、予防線を張るものと見なされても、仕方のないことである。犯罪であるか否かの解釈と対応については、相当の裁量が警察官個人に委ねられている状態にある。国民の多くも、積極的・消極的かはともかくとして、この状態に同意している。防犯カメラの導入を認容するに際して、批判が提起されたとき、多くの国民が賛意を示したのは、本事件のような重大犯罪を防ぐことまで期待したためではなかったか。

 確かに、田村氏の指摘のとおり、容疑者の数々の前兆行動を犯罪と捉えなければ、個人に係る情報を共有することには限界も生じよう。しかし他方で、われわれは、テロ対策と称して、宗教プロファイリングとも呼べる、イスラム教徒全員に対する監視が行われていたことを知っている。この大規模かつ組織的な活動自体は、明らかに憲法の理念に違背する行為であり、イスラム教徒の反発を通じて、かえってテロを深めるという危険性を有していた。しかし他方で、暴露された、イスラム教徒に対する監視行動は、この種の監視が容疑者に対しても実行可能であったことの紛れもない証明となっている。

 【2】については、5ヶ月間を継続して監視することの必要性を、結果として判断できなかった、という点に問題が認められよう。ヒュミント(人間同士)、シギント(通信監視)の手段を通じた人物評定がなされなかった(後述)のは、おそらく、担当部署に必要な手段を調達できなかったためであろう。確認できるだけの手段もないし、ローン・ウルフに分類される容疑者を積極的に監視するだけの組織上の要請もなかったであろうから、5ヶ月間、放置したということになるのかも知れない。結論は、詳細な内部調査を経ないことには得られないであろうが、「5ヶ月間の監視は、資源上、さすがに無理であった」という解釈と、「5ヶ月間も猶予があったのに、監視しなかった」という解釈との2通りの結論のいずれかを得る余地が残る。結果が重大であるのに、調査をしないとすれば、十全に仕事をしているのかについて、疑問視されても、やむを得ないであろう。

 【3】についてであるが、現状のヒュミントの態勢では、本事件の容疑者の危険性を判断することは不可能であったであろう。容疑者は比較的若く、また、その活動範囲もかなりの広域かつ特殊なものであったようであるから、容疑者と直接コミュニケーションを取れるだけの人材を調達することは、困難であったであろう。腹を割って聞き出せるだけの人物を用意して、2月以降、容疑者の信念がぶれていないことを確認することは、現実的には、無理であったであろう。暴力団との個人的な付き合いが職務上許容されていた時期であれば、少しは勝手が変わっていたかも知れないと想像するが、この可能性は、私が分析するには手に余る分野である。

 仮に、容疑者の信念を探るとすれば、警察は、現在の社会環境下では、自力に頼るほかなかったであろう。本事件は、この手の容疑者に対して、現在の警備警察が効果的に接触できるだけのヒュミントを育成できていないことを示唆するものであるようにも思われる。人選にあたっては、高橋のぼる氏の『土竜の唄』の主人公、日浦匡也のような人物が候補者としてワンダース以上必要であったであろうが、彼らは、本来、暴力団対策に奔走しなければならなかったであろうから、これらの人物が警察にいたとしても、リソース不足の感は否めないところであったろう。20代後半に見え、刺青を入れた容疑者にも自然に接触でき、かつ、不信感を抱かれずに容疑者の信念の固さを確認できる警察官は、超・エース級である。なお、このような人物が内部で調達できない場合に、警察は、協力者を外部から調達することができるが、容疑者の属するコミュニティから調達する態勢は整えていなかったであろう。仮に、整備済みであり、運用中であるとすれば、その状態は、私の先入観を訂正するものであり、高く評価されるべきことである。ただし、私の先入観は、故なきことではない。わが国は、一億総活躍と言いながら、まったく、そのスローガンとは相異なる状態となっている。

 他方、【3】に係る方法には、シギントも考えられるが、現状で可能となっているシギントの態勢を機能させたとすれば、容疑者は、十分に監視可能であった。容疑者のインターネット上の活動について、私は調査していないが、十分に危険性を示す兆候が公知のものとなっていても、何らおかしくない。本人名義で危険な思想が表明され、その意見が削除されていなければ、普通の人ならば、その人物を危険視する材料と見るであろう。この辺の機微は、インターネット上でも検証可能であろうから、警察も、真剣に調査を進めなければ、後に仕事をサボっていたことを咎められることにもなろう。(つまり、しっかり調べておくべきである。)

 【4】において指摘されている情報共有の難しさは、要素としては存在するが、副次的なものである。少なくとも、本事件の抑止に必要とされる程度には、情報が関係者に共有されていた。措置入院に至る情報伝達が的確であったか否かは、検証の対象となって良い。しかし、問題は、各組織が得た犯人の危険性を的確に評価できたかという点にこそ、求めることができる。

 情報の共有ではなく、情報の評価こそ、本事件を予防できたか否かの分かれ目であった。防犯設備だけについて見ると、施設は、警察と警備員という、施設から見れば専門家へのアクセスを有していた。これら2つのルートは、施設からすれば、防犯上の助言を的確に与えられることが期待できるものではあった。ただし、以前から言及しているように、これらの職務に従事する人物に、的確な防犯設備に対する評価が行えたかと考えると、そうではない。これらの職務に従事する人物の中でも傑出した人物(スーパー生活安全警察官レベル、スーパー警備員レベル)でなければ、的確な評価を行うだけの心構えには至っていなかったであろう。このため、防犯設備を拡充して本事件を予防できたかと問うてみても、困難であったことが推測される。

 ただ、警備員の雇用形態は、場合によっては、本事件を予防する材料となりえた。警備員が大手企業に所属する者であり、大手企業が本格的に対応に取り組んだとすれば、施設側が予算を捻出できたか否かにもよるが(そして、経営判断上、合理的ではなかったと予測されるが)、見込みは小さいものであるが、本事件を予防することができたかも知れない。施設が大手企業と契約していた場合、積極的に相談を求めなかったとすれば、この点は、悔やまれることである。

 警察内部で情報共有が適切になされていたか否かについては、疑問がある。当初に連絡を受けた津久井署の部門は、名称が明示されていないようにも思う。ここに、警備部(公安部門)が関係していたのであれば、公安部門の責任が慎重に回避されようとしている可能性を見て取ることができる。本事件は、ストレートに公共安全を対象とするものであって、ヨーロッパで実行されたとすれば、わが国でも直ちにテロ事件として報道される種類の事件である。

 テロ対策は、警察の警備部門のど真ん中の仕事である。ドイツ・ミュンヘンにおける7月22日の銃撃事件は、当初、テロの可能性があるものとして捜査されたという報道がある※1。なお、イスラム過激派との関連を疑ったのは、マスコミであろう。でなければ、イスラム過激派との関連について、報道記事においても、わざわざ言及しない。また、この見込みは、後に捜査を通じて否定されている※2。自称イスラム国の影響は、これらの職業的テロ集団に留まらず、マスコミ報道を通じて、世界中に影響を与える。自称イスラム国は、国際関係を攪乱するために情報機関によって育成された側面があるために、関係各国の優先的な統制の対象となっている。つまり、かつての教え子が管理不能な状態にあるという側面もあるために、これらの集団が起こした事件は、そうでない事件から区別され、その責任についても、協議される必要が生じていると見ても、さほど間違いではないであろう。新約聖書風に言えば、「カエサルのものはカエサルに」という訳である。このように、現在の国際テロ集団の一部と情報機関の一部とには、すでに関係性が生じていたがゆえに、国際テロ集団が直接関与する事件は、テロの被害国によっては、新たな国際緊張を生み出すものと考えて良い。このとき、ローン・ウルフという背後関係のない個人により引き起こされる事件は、国際関係への影響が小さなために、抑止対象として、脇に置かれがちになる。しかも、そもそも、ある程度の理性的な個人により、個人の可能な範囲内で実施されるために、予防が難しいという側面も認められる。ホームセンターで買物したら即連行された、というのは、自由な社会に生きる個人にとって、まったく望ましい展開とは言えないが、それでも、ローン・ウルフの犯行を抑止するためには、必要となる可能性が高いのである。

 情報の共有ではなく、情報の評価こそ、今回の事件を抑止する上でのポイントであったということに気が付きながら、その指摘を欠落させたのであれば、朝日新聞社の今回の記事執筆担当者たちは、忖度が過ぎたと言いうるかも知れない。私が顕名で指摘することを必要とした分、私は、ちょいおこである。(これ以上、余分に目を付けられたくないっての。)他方で、この点に気が付かなかったとすれば、その内実は、新聞社としての要件を欠くことを示すものになりかねないため、慎重に検討されるべきであろう。この種の情報を通じた誘導は、上手か下手かを問わず、警察官僚なら、半ば無意識の習慣になっていると言いうる。朝日の記者がコンタクトを試みた経緯については、知る由もないが、田村氏の経歴や実績等、色々と承知の上でコンタクトを取ったのであれば、情報の評価こそ重要であるという点にまで、記者も薄々気が付いていた可能性が高い。その上で、バーターということに相成った、と考えても良いかも知れない。この場合であれば、本事件に係る微妙なバランスを取る上で、報道機関として必要な取引を行ったということで、朝日新聞社の記事を許容する向きも出てこよう。他方、気が付いていなかったとすれば、記者の総合的な力量が取材対象に比較して不足していたということである。不用意であったと結論付けられよう。

 【5】についてであるが、本事件に係る以上に詳細な情報が共有されたとすれば、人権上、法律上の問題は生じたであろうが、【4】に対する説明に示したように、これ以上のディテールに係る情報共有は、必要ではなかったであろう。それよりも、警察内で容疑者の動向を評価できていれば、警察の側での警備を増員したり、常駐するなどの対策も取り得たであろう。また、警備の際には、施設に対して、たとえば、「容疑者の件で、警備が必要と認められましたので、今から○日間、○名で警備します。施設の側でも3名警備員を増員してください」のように必要なだけの情報提供を行えば良かっただけである。

 【6】については、報道されている事実以上の予兆がなかったとしても、危険性の判定は十分であったであろう。容疑者の手紙は、掲示板に殺害予告を行う人物以上に、はるかに具体的な犯行予告である。警備部門において、1名を専従で評価に当たらせれば良かっただけである。容疑者の危険性を判定できた部署は、手紙を託されたこと部署と、手紙の内容を把握していた部署である。

 【7】については、もちろん、その通りではあるが、前提となる【6】に係る事実認識が異なり、これだけの情報を得ているにもかかわらず放置したと見なされる可能性が高い以上、警察内部における情報流通過程を(内部で)真摯に検証した後でなければ、国民一般の理解を得ることが適わないであろう。私の考えるところでは、警備警察は、わが国では最も予算も人員も潤沢な情報機関である。他国の情報機関が実施可能なほどの権限を付与されてはいないものの、今回の容疑者を監視して、必要に応じて拘束するという作業は、特に問題なく行えていたはずである。他方、このような作戦が成功したとしても、その成功を社会的に賞賛する仕組みは、整っていない。この偏りのある状態は、警備警察がこの種の行動にリソースを割くことを疎かにするという要因となっているものと考えられる。政治的な情報収集に邁進した方が、組織として有用な結果を得ることができるという現状も、反社会的な微罪での前科を持つ犯罪者を放置するという傾向に拍車をかけているものと推測できる。つまりは、天下りにならないこと、カネにならないことに対して、仕事をしていないのではないか、という疑いがある。これについては、話が逆である。社会が上手く回っている限り、世間は、天下りのことをとやかく言わないであろう。上手く回らない時勢においてこそ、公務員は、奮起すべきである。いざというときのために働くのが公務員の本質であろう。(歴史は、いつも「いざというとき」であることを教えてくれるものであるが)

 自称イスラム国にとっても、ほかの危険団体にとっても、私がここで指摘したことは、公知の事実に近いものである。敵の上を行くための適切な理解は、私の指摘の上をゆくだけの正確な知識の上に構築されるべきである。このとき、社会の支持は、誤解の上に成立させるべきではない。揺り戻しが酷いからである。私の吹き上がった表現も、ある意味、揺り戻しの一つの表出であると見ても良いであろう。対策を練る上で、国の総力を結集しなかった事実は、次の失敗において、要因として見なされる。今回の事件を機に、全範囲にわたる検討を行わなければ、その結果は、後の事件に報いることになろう。そのときもまた、慎重に責任を回避しようとしても、同じ種類の過ちを繰り返した組織を、国民は、軽蔑するであろう。(日本国民は、健忘症気味ではあるが。)

 私が自身の知識と少ない経験に照らして言えることは、おおむね本稿でも素直に表現した。このように私は考えている。犯罪予防に係る考え方のすべてを、社会の全員が理解することは、なかなか難しいところであるが、それでも、どの考え方が直球であって、どの考え方が変化球であるのかを知っておくことは、社会が基本から逸脱しないために必要なことである。今回、私は、情報の評価過程こそが検証されるべきであって、最低限の情報共有が行われていたことを主張した。この主張こそが基本線である。そこから外れる意見については、何かの利益が存在すると見て、何らおかしくない。


※1 独ミュンヘンで銃乱射事件発生、8人が死亡 | ロイター | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
http://toyokeizai.net/articles/-/128605
警察の報道官はイスラム過激派による攻撃であることを示す証拠はないとしているが、テロ事件として捜査していることを明らかにした。

※2 ミュンヘン銃乱射事件 メルケル首相も参列して追悼式 | NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160801/k10010616461000.html
警察などのこれまでの調べによりますと、死亡した18歳の男は、イスラム過激派との関連は見られないものの、市民を無差別に狙った事件に強い関心を抱いていたことなどが分かっています。



 なお、同じ(8月3日の)記事の中に、容疑者のガラスを割る音がインターホンを通じて聞こえたために、事件に職員が気付いたという記述が見られた。施設において、ガラスが割れるという事態がどれほどの頻度で生じていたのかにもよるが、この事実は、事件の分岐点になり得たであろう。



大分県警別府署:隠しカメラ、「民進党」関連建物敷地内に - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160803/k00/00e/040/195000c

 上記事件で、違法に隠しカメラを設置した可能性が認められるのは、刑事課員であるという。この種のカメラ設置は、タレコミに相当の信憑性があったという前提の下で、設置場所はともかくとして、認容されている。相模原事件においても、自宅を監視するために、同様にカメラを設置すること自体は、容疑者の行為を犯罪と見ることができた以上、刑事警察としてはともかく、警備警察としては、何ら問題なかったはずである。



(ニュースQ3)警察がイスラム教徒監視 「やむを得ない」?:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/DA3S12491207.html

Japan's top court has approved blanket surveillance of the country's Muslims | Asia | News | The Independent
http://www.independent.co.uk/news/world/asia/muslims-japan-government-surveillance-top-court-green-lit-islamaphobia-a7109761.html

 The Independentの記事は、6月29日付、アル・ジャジーラの報道を受けたものである。イスラム教徒のリーダーと協力関係を構築し、合理的な疑いをかけることのできる、真に悪意のある人物をマークするという手順が王道である。邪道である方法を、最高裁判所が最初から許容するようでは、何が規範として正しいのかを、国民が理解できなくなろう。

 あらかじめ指摘しておくと、今後にイスラム教徒とされる人物が重大事件を日本国内で敢行して、2名以上の死者を生じてしまった場合、相当にセンシティブなデータを多量に公開しなければ、定量的方法による場合、「イスラム信仰を理由とする監視は、わが国では、犯罪予防上、有害である」という結論を得ることになってしまう。『悪魔の詩』の翻訳者殺害事件のほかには、国内犯で明確にイスラム過激派による犯行であることが認められる事件が見られないためである。今回の決定は、結果として、使える手法を少なくしてしまうことになろう。

平成28(2016)年9月24日修正

レイアウトを一部修正し、<hr />タグを挿入した。文章に一部不明な箇所が見られたために、訂正し、淡赤色で示した。

2016年8月1日月曜日

平成28年7月東京都知事選挙に係る孫崎享氏のツイートは難しい

 昨日、つまり、7月31日の選挙投票終了後、孫崎享氏の下記のツイートを知った。後知恵として見れば、このツイートが幾通りにも解釈できるものであることが分かる。他方で、リツイートするユーザの言及を見れば、一通りにしか読んでいない人が多いことが見て取れる。孫崎氏のツイートは、日本人のリテラシーに対するテストとしても機能しているのではないか、とも思ってみたりする。

 日本語に限らず、文章表現とは難しいものであると思いつつ、頭の体操として、解釈を試みることにしよう。結果(の正しさ)については、期待しないで欲しいし、私の分析は、あくまで素人判断に過ぎない。日本語としては、以下のように解釈可能であるというだけに過ぎない。
  1. 「米国情報関係者周辺」が小池百合子氏自身から発せられた出馬意向を17日の時点で確認していたという場合。取得の方法は、複数存在するとは思うけれども、最も簡単なのは、彼女自身から誰かが聞き出していたというもの。
  2. 誰が次期都知事になるものかを予測したというもの。この予測は、必ずしも、彼女自身の出馬意向とは関連しない。
  3. 誰が次期都知事となると、米国の国益となるものかについて、分析したというもの。彼女自身の出馬意向とは関連ないが、主要な分析者が人間である場合には、分析対象者の候補として、小池氏を分析リストの筆頭に近い位置に据えて検討したという可能性はありそうである。
  4. 米国として、都知事選挙に出馬することを焚きつけることが可能な人物を洗い出したもの。 
  5. (一部のユーザが反応したように)米国として推す人物を小池氏に決定したというもの。
これらは、ケース1が最もあり得そうなパターンであって、5の可能性が一番低い。また、1は、2~5と並立しうるが、2~5と、特に、2~3組織の目的上、互いに密接な関係にある。4と5は、対外工作ということになるので、「情報関係者」の種類が限定されることになろう。5は、4に比べて際立ったレベルの工作となるが、しかし、この解釈は、1~4のケースが成立することを思えば、短絡的に過ぎる。孫崎氏の従来までの言説が、この解釈を想起させたに過ぎないのである。もちろん、このように孫崎氏を理解する日本人は、少なくとも同氏の著書を読んだことのある者に、多く含まれることではあろう。

 以上のケースを列挙してみれば、孫崎氏がパンピーの日本語話者に向けて語った内容は、私にとっては、単に、アメリカすげえな、というものにしかならない。日本人の情報機関が、アメリカの主要都市の市長選に興味を有するだけでなく、実質的な分析や評価を加えるということは、可能なのであろうか、と考えてみれば、ここでの凄さが際立つことになる。

 たとえば、を妄想してみるが、孫崎氏がこの情報を直前の時期にツイートしたのは、単に、典型的な引っかけられ方をする日本人ユーザの事例を収集するというものであったりするやも知れない。反応したユーザを匿名で引用すれば、「...と引っかかる人も多いのですが、本来は、このように解釈するのが正しいのです」という事例集に使える訳である。日本人の文章読解力がここまで落ちていることを示して、わが国にも、まともなインテリジェンス機関(とまともな中等教育)が必要なのです、という教訓として利用するためなのかも知れない、という訳である。

 実際に、都知事選の内容を考察していて、これ以上、脳を動かすと、寝るとダウンしそうなので、本記事のメインの話題はこれでお休みとしたいが、孫崎氏のツイートがパンピー向け以上の何かを含んでいるとしても、まったくおかしくないなあとは思う。その場合には、孫崎氏のツイートを確認している関係者を複数種類にわたり想定する、という作業から始め、より複雑な場合分けを経る必要があるのであろう。

 以上、孫崎氏のツイートについて私が考えてみたことは、私が行っている訓練の一環である。このような訓練を最近になって行うようになった理由は、私が自分なりに陰謀論やら社会的な事件やらを構造化して考えることの必要性を痛感したためである。日本人なら誰もが、とまでは言わないが、社会科学研究者の大半は、誰もが、暗黙裏にであれ、これらの思考様式に近い処理を行っているはずである。ただし、していない者の存在を否定する気はない。



 福島第一原発事故は、あまりにも大きい。「地域で暮らす」という単純に見える概念ですら、一部の陰謀論と切り離すことができない。自然科学上の機序は議論の対象となっているものの、統計上の結果は、あからさまである。しかし、その単純さは、「戦争屋」に連なる「(国際)原発ムラ」によって、随分と歪められてきた。被害を大きく受けた旧ソビエト連邦中の三カ国は、いずれも、チェルノブイリ原発事故から多大な影響を被りつつ、国際的な(因果)関係を経て、現在に至っている。バルト三国も、事故処理にあたり、労働力を供出させられており、その影響を免れてはいない。ドイツ、北欧諸国もかなりの影響を被っている。(そのほかのEU加盟国も影響はあるが、その程度は、上記に名指しした諸国に比べれば、小さいようにも見える。)

以下は、完全に悪ノリ気味となるので、ご容赦いただきたい。

 福島第一原発事故を正確に理解しようとする者は、陰謀論を避けて通ることができない。事故は、必然的に、複数の国の間の二国間関係から構成される多国間関係を、範囲とするためである。陰謀論は、他国との関係において自国を有利とするためにも利用される。科学的事実でさえ、かなりの程度、理解が歪められた形で、相手よりも優位に立つために利用される。これほどまで、陰謀論と科学が接近する分野も珍しいのである。そうそう、「メルトダウンではないだす。」という表現は、ほとんど、ニセ科学である。

 それで、私の興味と新東京オリンピックと孫崎氏のツイートの、何が関係しているんだって?とか思わない方が良い。孫崎氏のツイートを「米国の指示した候補者が当選した」と誤解するのであれば、検討しなければならない範囲は、格段に広がってしまうのである。『火吹山の魔法使い』は、結構シビアなゲームブックだったなあ、とか。『バットマン』シリーズまで復習しておかなくてはいけないのかな?とか。いやはや何とも、世の中には、嘘のような本当の話が蔓延しているものである。

平成28年8月1日14時追記・修正

誤りを訂正し、当初の意図を変えない程度に表現を修正・追記した。分かりやすさを優先するためである。誤りであった部分については、淡赤色で修正を明記した。

 これも悪ノリの延長だが、小池氏がイメージ上、いかに捉えられているのかを調べてみた。作業は、『R』+『twitteR』による。東京都は、事故後5年後の現在においても、東京電力ホールディングス株式会社の大株主である。ゆえに、陰謀論とはかかわりなく、本件調査が福島第一原発事故と相応に深い関係にあると主張することは、可能であろう。作業については、Rファイルに詳細を示し、Googleドライブにて公開した(リンク)が、再現にあたっては、各自がAPIに登録する必要がある点に注意されたい。

 小池氏に係る話題に対して、「ジョーカー」の語が併せて用いられたのは、ここ10日間(デフォルトの検索期間)では、10ユーザ、1ツイートずつ、計10ツイートのみであった。しかも、『ジョーカー・ゲーム』に喩えるものが2名、道化としてのジョーカーに喩えたものが7名であった。1名だけ、『バットマン』シリーズのジョーカーであるかのように見るユーザがいたので、引用しておく。
 eigaq氏は、映画メインの話題なので、自らの見解をツイートする価値を認めたのであろう。よほど注意していないと、このような見方に辿り着かないという考えを補強することができようか。

株式等の状況|株主・投資家のみなさま|東京電力ホールディングス株式会社(最終更新日:2016年4月15日、2016年(平成28年)3月31日現在)
http://www.tepco.co.jp/about/ir/stockinfo/breakdown.html

 東京都の所有株式数は42676千株で、発行済株式総数に対する所有株式数の割合は1.20%、4位の大株主である。

平成28年8月9日19時追記・修正

今月1日に誤りを訂正したはずの部分が、なお意味の通じないものであったので、当初の意図を変えない程度に文字と読点を追加した。分かりやすさを優先するためであり、当初の意図から外れてはいないはずである。

 ジョーカーと言えば、『スーサイド・スクワッド』が来月(2016年9月10日)にわが国でも公開される模様である。

参考:スーサイド・スクワッド - 作品 - Yahoo!映画(リンク