#あまりに駄文であるとは思いながら、そこはそれ、恥を書き捨てるつもりで公開した。
甲田純生氏の『1日で学び直す哲学 常識を打ち破る思考力をつける』(光文社新書657, 2018年8月20日)は、全体を通して、キリスト教と哲学的思索との緊張関係(の歴史)を十分に取り上げない。キリスト教は、誕生した後、接触した哲学に対して、宗教としてのみならず、絶対という概念の別名としても機能してきた。プラトン以後の西洋式の哲学がイデアリズム(観念至上主義)に支配されてきたことは、一応、同書でも言及されてはいるが、これを補強するのが信仰であるという点は、十分に説明されてはいない。私が勝手に理解するところでは、(自覚的で強い)信仰とは、人生における意思決定を必要とするもので、心に思い切り(跳躍)を必要とする。この機制を有している人々にとって当然の心境は、そうでない人たちにとって、いわば彼岸に行ってしまった人のものであるので、理解できないものだとしても仕方なかろう。しかし、同書では、キリスト教が省略されたために、同書は、(野内良三氏の言葉を借りると、「超現実主義者」[1]としての感性を有する日本人)読者に対して、この世に対置される真の世があるという考え方が信仰によって強化されているという理解を、伝え損ねているのである。
この関係性を説明しないのは、21世紀初頭に生きる哲学者として、あんまりな態度である。なぜなら、この無視・切捨ての姿勢は、世の中の大多数の他者を、何らかの心の働きを有する個人として認めないことにもなるのだから。また、この省略は、学問としての存立基盤である一般性を掘り崩しかねないほどに、キリスト教という(内部に、相応の多様性を含む世界的宗教の)特殊性を認めないものでもある。ともかく、同書は、キリスト教を考察の対象から捨象したことにより、哲学の全体系という壮麗な殿堂の一翼(と主殿)を、完全に瓦解させたものとなっている※1。わが国でも、浄土宗や浄土真宗などの、信じる者が救われるとする大乗的な性格は、本稿に係るキリスト教の精神に共通すると認められるから、これらの宗教の信仰者にならば、私の言わんとすることが通じるかも知れない。
同書は、題名にもかかわらず、結局、哲学を学び直す上での妨げになる。同じ一日を費やすなら、ほかの本を読む方が断然良い。キリスト教を切り捨てた割に、甲田氏の著書には、思い切りの良さという評価点から見て、判断を失敗した箇所がほかにも見られる。たとえば、ハイデガーについて不満を挙げると、甲田氏の説明よりも、筒井康隆氏の『誰にもわかるハイデガー 文学部只野教授・最終講義』(2018年05月20日, 河出書房新社. 1990年講演の再構成)の方が、間違いを犯すリスクを取りながらも、結果として成功しており、よほど分かりやすい※2。ハイデガーに係る甲田氏の歯切れの悪さに接する限り、私には、甲田氏がキリスト教を捨象した意図を汲み取り切れないのである。
甲田氏は、ハイデガーに関連して、
と表現するが、私は、この言葉使いに本当にイラッときた。生と死は、一続きのもの、一揃いのもの、一対のもの、一組のものではあるが、生があって初めて死があるという点で、不可逆であり、単なる一体のものではない。重点的に取り上げる7名の中にヘーゲルを指定しながら、生と死(の順序の大事さ)を論じない○○味噌ぶりは、頭が良く相手の愚かさを指摘しがちな哲学者という人種〔pp.53-54〕が用いた表現としては、随分と不用意なものである。先にも言及した書籍において、野内良三氏は、偶然について、人間だけが「死ぬ」
人生の終着点――。それは、「死」以外の何ものでもありません。生と死はひとつです。
私たちは186ページのヘーゲルの『小論理学』引用文から、生命の存在には最初から死が組み込まれている、ということを確認しました。〔…略…;以上、p.216〕
と説明するが、野内氏の考察において、人間の誕生と死は、分かたれた形の二種類のイベントである※3。想えば、人間は自分の意志ではいかんともしがたい、誕生と死という大きな二つの偶然に支配された存在である。どんなに神に愛された人間でもこの二つの偶然からだけは免れることはできない。〔…略…;p.15〕[1]
キリスト教への言及という点、宇野重規氏の『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ, 2013年10月20日)は、題名ゆえにそうせざるを得ないのであるが、ほぼ全編がキリスト教(権力)との競合と棲み分けの歴史を腰を据えた形で記しており、有用である。野内氏の文章とは異なり、甲田・宇野両氏の文章とも、段落読みできるものではない。それでも、全体の構成を比較の対象とすれば、宇野氏の書籍は、甲田氏の書籍に比べて、われわれが知るべき(と私が考える)内容に対して、偏りのない理解を与えるものである。宇野氏の文章では、一段落一主題も守られている。なお、面白いことに、哲学という分野においては、科学哲学・政治哲学といった学際的な分野に、なぜか(というか、これ自体が考究の対象になるはずであるが)、段落書きを徹底する著作者が多く分布しているように見える。
なお、本ブログでは何度も繰り返したことであるが、段落書きの有無は、学術研究者としての誠実さ・サービス精神の表れでもある。段落書きしてこなかった学術研究者にとって、この指摘は、消え入りたいものとして感じられるであろう(。なぜなら、段落書きは、読者の利便を増進するものであり、何なら、特定言語において、集合的知性を高めるための社会的装置ともなるためである。これ以上の論証は、本ブログを精査されたい)。私も、研究経歴の半分程度の間、この作法に気付かずに過ごしてしまい、ゴミのような文章を産出してきた以上、人のことをさほど非難できないが、この恥ずかしさに気付けたのは、自身に課したハック志向=エンジニア志向ゆえと思っている。また、気付いてからは、少なくとも周囲の人々に対しては、この作法を積極的に伝授してきたつもりである。段落書きできていない研究者は、所属する研究コミュニティにもそれなりの原因があるのだが、結局のところ、自身の努力不足と怠慢を、世界に向けて、後戻りできない形[2]で、示してしまっているのである。単なる書き損じのみならず、文章の並べ方でさえも批判の対象となるとは、現代は、真に面倒な時代ではある。けれども、言語集団としての日本語話者たちの生き残りを思いやるのであれば、これくらいの配慮は、書き手に当然求められるエチケットである。わが国の多くの「文系」の研究者は、ともすれば、情報流通業者に堕しがちなどと揶揄されるが、文章作法までを劣化コピーするとすれば、彼らは、社会防衛主義的な見地からすれば、真に罪深い存在というほかなかろう。
ところで、多くの個人は、人生を送る中、何かを契機として、死と向き合うことになろうが、その作業は、私を含め、結構な数の人々にとって、難事というべきであろう。この困難に対して、単独で立ち向かうことは、普通の人に可能であろうか。私たちは、この災難を何らかの方法でやり過ごさねば、どうにもならずに、死(とそれまでの生)がもたらす恐怖と不安に、囚われてしまうことになろう。また、愛する人を事故や事件や災害などで失った人は、何年経過しても、救われない気持ちとともに生きていくことになりかねない(。最近の私は、一人でいることの恐怖に立ち向かいかねた挙げ句、周囲の人々をも、この種の恐怖に直面させるような言動を重ねてしまっている。私自身は、相手にもよるが、私をその人の人生に組み入れ直すことにより、この巻添え被害を埋合せできるものと信じている。また、そうして欲しいと願っているのであるが)。
死に向き合うという困難は、究極的には、死ぬまでの間、その人が単独で向き合うしかないものであるが、しかし同時に、世の中には、この至上の恐怖・不安に向き合うための知恵が用意されている。たとえば、この困難に向き合うために、本稿でも触れたような、宗教の役割がある。保守思想は、この宗教や家庭の役目を重んじることができる。たとえば、キリスト教は、この困難を超えるために、父である神がひとり子であるイエス・キリストをあなたの元に遣わしたと説明する。保守主義からいえば、人生の困難を乗り越える上で、個人は、他人に重大な脅威を与えない限りは、宗教の助力を得ても全然構わないのである(。私個人は、特定の宗教の信仰を避けてきており、この点、具体的な宗教への勧誘は、意図していない。また、ここら辺の知識への投資は、不足気味であり、正確性すら保証しかねる。死に向き合う困難と対峙した(初期)近代の哲学者には、キルケゴールやハイデガーやニーチェがいるように思うが、この中で、ニーチェの主張は、私にはあんまりなものに思えてしまう。結局のところ、彼自身が自分の主張に押し潰されてしまったかのように見えてしまうからでもある)。
このとき、かなりの強引な展開だと自覚はするが、段落書きという切り口によっても、死に向き合うことの難しさは、明らかにすることができる。それは、西部邁氏の自死である。私は、『保守の真髄』(講談社現代新書, 2017年12月20日)を読み、西部氏の行動を評価しないようになった。なんと勿体なく、社会に迷惑を掛ける決定を下したのか、と思ったのである。正確には、その幇助者を通じてであるが。西部氏は、(一応、同氏の記述を尊重して、このように表現するが、)自死の過程において、覚悟の定まらない人物2名を相棒として選択したが、この決定は、結果的には、幇助者たちをしてイエスを知らないと三度述べたペテロのように振舞わせ、貴重な警察力を無駄にして、遺族を悲しませたり疑いの対象と見做すような報道によって、二次被害を生じた。『保守の真髄』は、長女に聞き書きさせたものである〔pp.10-11, pp.264-265〕が、それゆえか、私の中では、最も段落読みできるものとして感じられたのである。保守の真髄を実現する方法が「漸進改良主義」=「フェビアン主義」=「(カール・ポパーのいう)ピースミール工学」であるとするなら、同書は、西部氏が将来にわたり、読者に対して、より良質の書籍を供給できたはずの証拠として採用できよう。この事実にリアルタイムで私が気付かなかったことは、本ブログの座敷牢的性格ゆえに、結果に対して影響を及ぼさなかったはずであると断定できよう。しかし他方で、世の中のAチーム系学者に連なる編集者の一人でも、私の指摘したような評価を西部氏に与えることができていたならば、果たして何が起こったのであろうかとも、私は考えてしまうのである。私のポリシーの一つは、「勿体ない」と「リサイクル」であり、これは、明らかに、Bチーム的な理念・志向である。それでも、周囲の人たちの助力を仰いだ結果、西部氏の最後の業績がより良いものに進化したことを思えば、逮捕された人物たちは、なんと勿体ないことへの手助けをしたのか。私は、このように結論せざるを得ないのである(。中身そのものについては、結構な異論を感じるが、それにしてもである)。私は、だからこそ、自死なり自殺なりを容認しない。人は、生きている限り、何をなし得るのか分からないからである(。当然、殺人なり傷害致死なりも容認しない)。
※1 ただし、筒井氏の書籍の大澤真幸氏による解説は、「わかる人にだけわかる」と題されているだけあって、おそろしく人を躓かせるものに仕上がっている。良心と名声の双方を備えるキリスト者は、自らの宗教を大事に思うのであれば、大澤氏の記述の欠落を指摘して、それを悪意によるものか、無知によるものか、いずれかであるのか、と迫るべきであろう。私は、陰謀論者としての良心にかけて、この欠落の存在および攻め方を指南したことにより、自らの任を終えたものと思う。これ以上具体的に指南するには、私にも準備が必要である。また、ここら辺の考察は、私の実存と陰謀論者としての思索の双方に利益をもたらすが、この分野は、私の専門とは言えない。このために、誰にでも大澤氏に対する反論の機会が開かれているとしておいた方が、健全な競争と批判が生まれ、結果として、私のここでの指摘も、利益を得ると思うところである。
※2 ここでの表現は、キルケゴール『死にいたる病』[2]における、ヘーゲルに対する批判を利用した。
〔p.84〕ほんとうに、誤謬のなかにいるということは、まったく非ソクラテス的なことにも、人々がいちばん恐れない事柄なのである。ここの事実を驚くべき程度において明らかにしている驚嘆すべき実例がある。或る思想家が巨大な殿堂を、体系を、全人世と世界史やその他のものを包括する体系を築き上げている――ところが、その思想家の個人的な生活を見てみると、驚くべきことに、彼は自分自身ではこの巨大な、高い丸天井のついた御殿に住まないで、かたわらの物置き小屋か犬小屋か、あるいは、せいぜい門番小屋に住んでいるという、実に恐るべくもまた笑うべきことが発見されるのである。たった一言でもこの矛盾に気づかせるようなことを言おうものなら、彼は感情を害することであろう。なぜかというに、体系さえちゃんと出来上がりさえすれば――それは誤謬のなかにいるおかげでできるわけなのだ――、彼は誤謬のなかにいることなど恐れはしないからである。
※3 もっとも、私からすれば、野内氏の論考には、咲く勢いがあってこそ散り際の儚さを感じられるという桜(ソメイヨシノ)についての考察が、人間一般に対する生と死の対比や無常観に係る記述に、十分に生かされていないように思えてしまう。その原因として、日本列島において生きることが相対的に容易であったという事実、その容易さが死に対する儚さを愛でるという姿勢を可能にしたという、和辻哲郎氏が指摘したような観点が、野内氏の論考では、見逃されていないであろうか。相対的に恵まれた生があってこそ、死の儚さに思いを致す余裕が生じるのではないかと、私は思う。また、私は、私生活において、他者がこの余裕を有しているのかどうかを考慮しなかったのではないかと、今更ながら後悔しているのである。
[1] 野内良三, (2008.8).『偶然を生きる思想:「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス 1118), 東京: 日本放送出版協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/000009491566
#同書は、冒頭のエッセイ風に見える部分まで、しっかり段落読みができるように作り込まれた文章である。
[2] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
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〔p.138〕〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。〔…略…〕それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。弱さの絶望者は、永遠が自分にとってどのような慰めをもっているかについて、まるで耳をかそうとしないが、このような絶望者も、それに耳をかたむけようとしない。しかしその理由は違っている。後者は、全人世に対する抗議なのであるから、そのような慰めは、まさに彼の破滅となるだろうからなのである。比喩的に言えば、それは或る著作家がうっかり書きそこないをし、その書きそこないが自分を書きそこないとして意識するにいたった場合のようなものである――けれども、実をいえば、それはおそらく誤りなのではなくて、はるかに高い意味では、全体の叙述の本質的な一部をなすものであったかもしれないのである――そこで、この書きそこないは、著者に反逆を企て、著者に対する憎しみから訂正をこばみ、狂気のような反抗をしながら著者に向かってこう言うようなものである。いや、おれは消してもらいたくない、おれはおまえを反証する証人として、おまえが平凡な作家であるということの証人として、ここに立っていたいのだ、と。
2018年7月27日14時32分訂正
一部の文言を訂正した。
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