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2023年8月5日土曜日

(二言目)Windows 11機への監視から来る不具合ほか1件

まずは見出しの「ほか1件」から:先日の記事(2023年8月2日)には、今も使用中のPC〔以後、本PC〕上における監視の一例を挙げ、そこから3日経過したが、同記事については、Bloggerに付属する閲覧数のカウンターがゼロから増える気配はない。この数値が(前掲記事の内容が幾らかなりとも確認されたという)事実を正確に反映しないことは確実である。とはいえ、その理由が如何なるものであり、かつ、その主因であろうGoogleが(私のほかにもおそらく居るであろう)今まで抑圧しきってきたユーザに対し何を戦後に行うのかは、私にとり全くの未知である。どうせ、口を拭ってダンマリというのがお定まりの展開であろうけれども、この逃げの姿勢自体が(、関係者がこの大戦期の末期以後に己の誠実さを主張したいのであれば当然のこと、そうでなくとも)EULA等をユーザに締結させた精神にも悖るものであることは、本段落で指摘しておいて良いことであろう。何故なら、改悛が確実に行動を伴うものとして顕れる筈であるというのが、キリスト者一般ひいては庶民一般の常識的な判定であろうから。また、改悛の情が単に命令を実行した従業員達個人の生活の周辺に留まる形のみで発露される訳がないというのもまた、私を含めた諸人格への潜在的な害に対する償いの理想的な在り方から導かれる常識的な判断ではあろう。なお、本段落における私の主張は、ここに示された事実に拠ることだけで必要十分に正しいと判定されるべきものである。前掲の記事と同様、これ以上の論拠を私に求める者は、少なくとも戦中においては、恥を知るべきであると返されるだけであるし、何より、その者自身にも(そう疑うだけでも、その者の魂への悪影響を含めた)害を与える。こう警告しておきつつも、本段落で挙げたBloggerのカウンターは、この不具合だけに限れば、明らかにサーバ側での対応であろうし、本稿で扱おうとする害に比べても、本当に可愛いものであるとすら形容できる。あたかも、Bloggerにおいて私への監視等を担当する者の恩着せがましさを、現在の対応から読み取れるかのような内容ではある。なお、今までの記事において(2016年の時点で既に)SEO上の不公正な扱いを受けていることを確認してきたことを踏まえ、私は、本段落ならびに本稿を世に問うている。


本PC(Windows 11機)に対する監視方法の内、前回記事の時点で発生していたものの、前回に示さなかったものの一つが本日の具体例であり、以下イベントビューアが示唆する内容である。対象となるDLLを制作した者は、無能であるか・悪意があるかを問わず、この結果を引き起こしたことを、まずは知るべきであろう。なお、非常に面白いのは、ある製品の内実が(下記DLLから容易に推定可能な)別の企業に変わる前までは、監視に伴う不具合を私が知覚しなかったということである(。私はそうも思わぬが、仮に、従前のセキュリティ企業が同社の役割期待にあるまじき工作を現実に行っていたとしても、彼らの優秀さは異なる、とも評し得よう)。

ログの名前: Security
ソース: Microsoft-Windows-Security-Auditing
日付: 2023/08/02 水 12:08:55
イベント ID: 5038
タスクのカテゴリ: System Integrity
レベル: 情報
キーワード: 失敗の監査
ユーザー: N/A
コンピューター: 〔秘匿済〕
説明:
コードの整合性によって、ファイルのイメージ ハッシュが有効でないと判断されました。このファイルは、無許可の変更によって破損しているか、無効なハッシュがディスク デバイス エラーの可能性を示している場合があります。

ファイル名: \Device\HarddiskVolume3\Program Files (x86)\〔秘匿済〕\fsamsi64.dll
イベント XML:
<Event xmlns="http://schemas.microsoft.com/win/2004/08/events/event">
<System>
<Provider Name="Microsoft-Windows-Security-Auditing" Guid="{〔秘匿済〕}" />
<EventID>5038</EventID>
<Version>0</Version>
<Level>0</Level>
<Task>12290</Task>
<Opcode>0</Opcode>
<Keywords>0x8010000000000000</Keywords>
<TimeCreated SystemTime="2023-08-02T03:08:55.8434374Z" />
<EventRecordID>476516</EventRecordID>
<Correlation />
<Execution ProcessID="4" ThreadID="15696" />
<Channel>Security</Channel>
<Computer>LePCdeHerori23</Computer>
<Security />
</System>
<EventData>
<Data Name="param1">\Device\HarddiskVolume3\Program Files (x86)\〔秘匿済〕\fsamsi64.dll</Data>
</EventData>
</Event>


私の言論が私だけに責任が帰されるべきものであるにもかかわらず、ここ数年間、私の言論を理由とする複数の違法性に満ちた攻撃が、敵により分業制と認定できる形で加えられ、私のみに留まらぬ複数の害を生じさせてきた。この主張も、論証を要する性質を有さない(し、余計な質問自体が害にもなる)。何より、(敵の全てだけではなく、私の錯誤等をも含め、)神は全てをご存じであるし、私は、わが国の不実さゆえ、何ものをも現世には期待していない(が、無論、敵の側に属する者達が自発的に全てを償うことは、彼ら自身の罪の赦しにも繋がることであるから、それを無下にすることもない)。この内、本PCに対する複数方法の監視により生じた複数の害は、使用開始後の今年1月来、実際に作業効率を低減してきたものであるが、実害全体からみれば軽微な結果に留まる。本PCに対する監視方法は、本記事や前回記事に留まるものではない。私が気付いていないものもあろう。

私と周辺に加えられたここ数年の複数の被害そのものは、「西側」社会における監視の在り方に対する興味深い問題を提起する。というのも、これら複数の監視方法等やらその経緯やらがテンコ盛り過ぎて、バッティング等々の不具合を私の敵の側にも起こしているものと認められるためである。これは、本PCのみに限っても生じていると思しき現象である。この状態は、戦後において、敵同士が私の周辺ならびに私に生じた実害に係る責任をなすりつけ合う事態へとハッテンしかねないものであろう(し、一部の勢力は、この事態を当初からの作戦過程に含めても居よう)。が、彼らが本PCへの監視について負うべき責任を切り分ける妙味は、犯人達へと放擲することとしよう。その作業を私が認知できる形で誠実に行いきってみせることこそが彼らの償いの理想的な内容の一つとなるべきであり、彼らの子孫が心身ともに健やかに暮らすための条件となる(としか、後世には責任を持てぬだけのリソースしかこの世に持たぬ私には、今現在の敵には助言できぬ)からである。

2023年8月2日水曜日

(一言)Windows 11機におけるサービス監視の実態

わが国を含む「西側諸国」において、多くのプロプライエタリソフトウェアが使用時に求めるEULAには、嫌なら使うなと云わんばかりの態度が透けて見えるが、この不遜は、あくまで世の諸条件(が共通の善と呼べるものに即して整えられていない未熟さ)により許されている(かに見える)ものに過ぎない。(法の執行力が相対的に強大であり、かつ、世界一位の人口ゆえに魅力あると映る市場を提供する)中華人民共和国に対するMSFTの今までの態度は、MSFT側の二枚舌を余すところなく示す。2001年9月11日の米同時多発テロ事件は、不透明であったEULAの効力を盾として、大した危険を囀っても居ない人々のPCまでをも超法規的かつ不当に監視する言い訳を当局(ならびに当時は現時点よりも強大であったディープ・ステイト共)に提供する出来事として、悪用された。わが日本においては、少なくともここ数年、これらに対する批判を述べる者には十分な監視(ならびに必要に応じた嫌がらせ)が行われる一方で、同様の異議申立に与さぬ従順かつ敬虔な宗教的市民は、当局の側の軽侮ゆえか、同様の扱いを受けずに済んできたものと見える。

しかし同時に、EULAを盾とする当局ならびにIT大手企業・これらと利益共同体を形成するマスゴミ(、つまりディープ・ステイト共の一部)は、伊藤穣一と櫻井よしこの如き言説を一方で放置して殊勝にも両名の建前を受容しているふりを見せつつも、伊藤がジェフリー・エプスティーンから研究資金を受領した事実を非難する側にのみ(一見)苛烈な監視(ならびに各種の不法行為)を適用す(るかに見え)るという不公正な現実を、監視(ならびに嫌がらせ)の対象者には十分過ぎる位に見せつけてきたが、この人に知られにくい(、非対称的なリソースに基づく・抑圧される側にのみ正義が存在しうるという両点の性質を有する)行為の応酬は、現在の第三次世界大戦の一局面として特筆するに値する。というのも、(私もこれに含まれるが)単なる志があって声を上げただけの市民が不公正にも抑圧されていく一方で、真のワル共が不都合な事実を暴かれるもマスゴミには実質的に無視され、当局もこれらの行為を断罪しようともしないという実績こそが、この(真のクリスチャンなら「霊の」という形容詞を付すであろう)大戦を出来る限り穏便に収める過程あるいは条件と認められるからである。本稿は、その一端を示すために編まれたものである(。なお、この論証を本稿以上に求める者に対しては、私が本件に先立つ論証を散々ツイッターで囀った挙句に本段落に示唆したように不遇を託ちつつ生きることとなった過程を既に無視した点、恥を知れとでも言っておく)。




いつからと明言できぬのが、私の泥縄式の生き方そのものを反映しているのであるが、とまれ、今年1月中にやむなく購入したWindows 11機(Home Edition)のサービス中、アンダーバーが付され、かつ、5桁あるいは6桁の連続する16進数と思しき[0-9a-f]が付されたものになっているのは、以下の通りである。

  1. Agent Activation Runtime(AarSvc)
  2. Bluetooth ユーザー サポート サービス(BluetoothUserService)
  3. CaptureService(CaptureService)
  4. Connected Devices Platform ユーザー サービス(CDPUserSvc)
  5. ConsentUX のユーザーサービス(ConsentUxUserSvc)
  6. Contact Data(PimIndexMaintenanceSvc)
  7. CredentialEnrollmentManagerUserSvc(CredentialEnrollmentManagerUserSvc)
  8. DeviceAssociationBroker(DeviceAssociationBrokerSvc)
  9. DevicePicker(DevicePickerUserSvc)
  10. GameDVR とブロードキャスト ユーザー サービス(BcastDVRUserService)
  11. MessagingService(MessagingService)
  12. NPSMSvc(NPSMSvc)
  13. P9RdrService(P9RdrService)
  14. PenService(PenService)
  15. PrintWorkflow(PrintWorkflowUserSvc)
  16. Udk User Service(UdkUserSvc)
  17. User Data Access(UserDataSvc)
  18. User Data Storage(UnistoreSvc)
  19. Web Threat Defense ユーザー サービス(webthreatdefusersvc)
  20. Windows Push Notifications User Service(WpnUserService)
  21. クリップボード ユーザー サービス(cbdhsvc)
  22. デバイス フロー(DevicesFlowUserSvc)
  23. ホストの同期(OneSyncSvc)

こうして列挙してみると、なかなか壮観な監視状態ではある。これらの監視は、このPC上でのあらゆる作業内容を「抜く」ことが出来る状態をも意味する。なお、カメラ機能が監視されるサービスに何故含まれていないのかというと、明るい場所では人影がぼんやり映る程度になるよう、私がカメラにガムテを貼っているがゆえであろう。連中の側も、サービスを機能させ監視しなくとも良かろう(、あるいは、いつもゴミみたいな映像しか映らないがゆえ、データを分析するほかなく、その手間を惜しんだ)と判断したのではないか。ただ、この事実自体が、私のPC上のサービスを監視する業務が継時的に遠隔で行われていることの傍証ともなるのであるが。なお、私は、WiFiも普段オフにしている(し、これをBIOSで停止させる位の手間を掛けてはいる)が、この対策が十全に機能するか否かについては、全くネガティブである。

私のPCに起きている扱いが正当なものであり、嫌なら使うなと述べたのは、山市良[1]である。彼や同種の暴論を無批判に世に広めてきた者達は、戦後に如何に振舞うことになろうか。なお、拙論を注意深く読んでいる者であれば、私が条件付きで積極的にこの仕打ちを許容していることについて、直ちに理解できる筈である。ゆえに、山市や彼の同類に対する私の評価が如何なるものであるのかを同定しにくいことも、同時に理解できよう。ただ一点、指摘しておく:MSFTの如きイチ営利企業は、この種の権利を許す仕組みを整えると、どのインサイダーがこの仕組みを何時・如何様に悪用するのかを把握できぬがゆえ、拙記事(2018年3月11日)で勅許会社について述べた如く、使い捨てとなる扱いに甘んじざるを得ない(。そこから導出される結論は、私が「西側各国」の株式指数について想定している通りである。なお、本記事の直接のスコープは、IT企業大手の一つに係る悪事に対して向けられてはいるものの、ほぼ3年に亘る猶予があったのであるから、当然、実質的な企業活動の人員リソースがこれらの国に由来し上場・非上場を問わぬ企業の内でディープ・ステイトに協力した全てのものには、相応の責任が伴う。相対的に負の影響を被った人民は世界に・後世に広く及ぶ以上、少なくとも配当の過半が充当されることは、適切な償いの必須条件となろう。大抵の富裕層が税を嫌い赤字企業を設立・運営・維持することで富を保全している現実を考慮すれば、企業のみを当初のターゲットとする方法論は、きわめて平等な結果を期待できもしよう)。


[1] Windows 10で増殖する“謎サービス”の正体を追え!:その知識、ホントに正しい? Windowsにまつわる都市伝説(82)(1/2 ページ) - @IT
(山市良, 2017年5月1日 05:00)
https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/1705/01/news009.html




2023(令和5)年8月2日19:49追記

例によって、誤記の類を赤で訂正した。

本ブログの公開は本日17:18付であり、その後、18:13前に、なけなしのカネで(ありそうな図書館に行く交通費の方が高くつくとの判断から)ジョン・M・L・ヤング『徒歩で中国へ』を買ったのだが、その決済に係る速報メールが19:46まで届かなかった。本件のように、どうでも良いと人間なら判断すべき内容の決済すら無能な監視者の下に置かれるというのは、やはり気持ちの良い体験とは言えない(。当然、宮台真司と宮崎哲也が『M2』のどこかの回辺りで論じた「米民主のフィールグッド政策」を揶揄する目論見が、本段落には込められている)。監視が必要であること自体は否定せぬが、いやしくも担当者共がその必要を訴えるのであれば、即時にアウト・セーフを切り分けられる脳味噌を備えて欲しいものである(、そして、全知全能の神は、私の内心とその危険性を正確に把握されている筈である)、と思う次第である。

2017年9月13日水曜日

命の危険を感じる人物が嘘を吐くのは仕方がない(のか)(1)

「エクストリーム自殺」における「遺書」の信憑性は、生前の意向に左右される

殺すぞと脅されながら書かれた文章に、果たして真意が込められているかどうか。甚だ難しい問題である。エクストリーム自殺した人物の懐に「自殺するのはやむを得ない」と書かれた遺書があったとしても、読者は、その「遺書」を信用するであろうか。その文書の「作成者」に直接問いかけることは、もはや適わないのである(。蛇足であるが、死者から応答の不在というテーマは、自殺そのものについての研究にも付随することは、2015年10月28日の拙稿で指摘した)。

わが国では、政治家なり有名人が疑問を感じさせるような形で「自殺」して、自殺として片付けられてしまうことは、結構な割合で存在する。「自殺」した政治家に殺される可能性が少しでも認められるにもかかわらず、自殺と断定してしまうことは、真の犯人に対して、刑事司法機関が敗北を最初から認めたようなものである。そうでなければ、完全な現場保全の後、世界の環境が変化した直後、その仇を速やかに討てるように、怠りなく準備を進めておくべきであろう。そのような話は、2017年9月現在、世人には、全く分かるように聞こえてきてはいないのであるが。

「自殺」における「遺書」の信憑性は、死者の普段の言動のブレ・揺れが少なければ、著しく高まるか低められるかの両極端な方向性を取る。平素から自殺念慮を強く訴える人々を、周りの人々は、放置してはいけない。本当に自殺してしまうからである。逆に、そのような素振りを見せない人が実は悩んでいたというケースは、良く言われることがあるが、偽情報だと思った方が良い(。「自殺の前に、本人からの訴えがない」というのは、自殺にまつわる誤解の一つである)。「自殺」者が「実は悩んでいた」という言明が周囲からなされるとき、何らかの不都合な真実が潜んでいるものと考えた方が、色々と据わりが良い。

わが国では、殺人事件に対する捜査のハードルが相対的に高い。ほかの事件に比べて、極端に多くの人的リソースを用いる。捜査が失敗したときの責任問題など、組織上の影響も大きい。犯人が見つからないという結果に対して、国民の側が極端に不安に駆られるという構造も認められる。これらの事情は、犯人を発見できる見込みが立たないエクストリーム自殺について、警察が捜査に踏み切れない障害となる。マスメディアの視聴者も、「へぇ~自殺だって」と大本営発表を鵜呑みにするのではなく、「また殺人か?何やってんだ警察は?」と思うべきである。警察も、このようなプレッシャーが厳然として存在してこそ、犯人を発見できる見込みの薄い捜査にも取り組めるようになる。社会防衛主義がファシズムに対抗するような活動を作り出しうることも、論理的には認められるのである。また、「陰謀論」を信じる庶民の心性は、健全に発揮されれば、政治犯罪に対して、謂われのない自殺を予防するという信じられないような効能を発揮しうるのである。

最終的に死のリスクを覚悟すべき人たちが突然「自殺」したとき、その死によって「利益を得る」者がいる場合、この「自殺」が殺人であったという可能性は、当然高まることになる。この「利益を得る者」が普段から死(に直結する物質で、犯行がバレにくいもの)を扱う者である場合、なおさら、自殺ではなく、殺人が疑われるべきである。人は習慣の生物でもあり、大抵の物事には慣れるようにできている。「エクストリーム自殺」がドアノブにタオルを掛けての首吊りというパターンは、このような手口に習熟した殺人集団が跋扈してきたことを窺わせる証拠である。米国において、この種の首吊りが非常に少ないことは、銃社会であることの長短が表れていると解釈もできる。足の付かない銃で殺すのが楽であるという事情もあれば、首吊りに見せかけて殺そうとする前に、警戒しているターゲットから反撃を受ける可能性も高いという訳である。


政党政治が機能してこそ「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もありや」も成立する

「政治家なり有名人なりが、自分の信念なり仕事なりを後続に託すことが期待できているとき、未練を持たずに身を捨てる」という行為は、わが国においては、比較的良く見られるものである。ここでの最大の要因は、武士道と家制度の組合せであると言えよう。このようなことを記しながら、私が己を犠牲にできるかと問われると、様々な理由から甚だ怪しいが(、それに、本ブログでは、己を犠牲にするような方法論をまったく採用していないが)、それは置いておこう。とにかく、出処進退に対する相場観は、勝俣恒久氏などの原発ムラに係る現在進行形の事例を除けば、わが国では、統一されているものと思われる。それにしても、インラック氏とタクシン氏の兄妹と言い、ドバイは、国外逃亡者に優しい都市である。バビロン?ねえバビロンなの?とか思ってしまうのである。

わが国には沢山のタブーがあるから、政治家は、結構な割合で、身の危険に晒されていよう。このとき、大抵の政党政治家は、自らが身を退きながら、その危険を訴えるということがない。この理由は、与野党の別、政党の警察との距離、脅す者、の三種の組合せによる場合分けを行えば、まあまあ論理的に説明できる。ただ、本稿で興味があるのは、国際秘密力集団による政治上の脅迫のみであるから、それ以外は省略しよう。

わが国の与党政治家に対する国際秘密力集団の脅迫は、従来であれば、アメリカ合衆国に権力の源泉を有していた旧・ジャパン・ハンドラーズによるものが典型的であった。というより、基本的には、わが国の政治家全般に対する脅迫において、旧・ハンドラーズが関与しなかったものは、なかったものと考えて良い。この事実を踏まえれば、皮肉とも言えようが、旧・ハンドラーズによる一連の攻撃を除けば、公安事件について、わが国の警察が優秀であり続けてきたという実績を認めることができよう。1960年10月12日の日本社会党委員長の浅沼稲次郎氏の刺殺事件も、国際秘密力集団の指示に基づき、各種右翼団体に資金提供がなされた結果、生じたものと解釈できる。実に、活動的なアホほど、カネで釣られるものである。わが国の職業右翼の大多数は、カネを基本原理として動き、言論には言論で対抗するなどの基本的な社会のルールを知らない。

わが国の政治家にとって、旧・ハンドラーズによる自身への脅迫は、結局、しぶしぶ受け入れるか、文字通り「身命を賭す」事態に至るまで撥ね除けるかしか、対処の方法がなかった。というのも、旧・ハンドラーズの飼主が強欲であるがゆえに、交渉(ディール)・妥協の余地は、大抵存在しなかったからである。与党政治家(ほとんど自民党)の場合には、自分が身を退いても、派閥の力関係のために、席を他派閥に譲らなければならなかったであろうから、派閥内からの突き上げを食らうことにもなる。警察もいざというときには動けない(ように、治外法権が使われたと指摘されている。「横田からアラスカ行、パンツ一丁」というやつである)。野党政治家の場合には、端から警察を当てにできないし、警察を頼ったこと自体、公安警察に対して弱味を見せたことになる(と解釈されていよう)。何より、大抵の政治家は、わが国の法律に抵触せずには生きていけないから、いずれは、東京地検特捜部が待ち受けている。公職選挙に係る連座制は、政治家本人への危険を著しく高めてもいる。裁判の公正さに期待しても、裁判官の中にも出世などに目が眩む人物が必ずいようから、彼ら「イヌ」が使われて、ベルトコンベアで一丁上がりである。命令を受け入れることができない(勇敢な)政治家たちは、疑獄で失脚するか、突然死するか、エクストリーム自殺するか、あからさまな場合には暗殺されるという結果となっているのである。もっとも、国際秘密力集団の本拠である米国においても、政府紙幣の発行を企画した大統領は、実現の前に暗殺されている。事情は、どの国でも同様であるのかも知れない。

「陰謀論」を信じない民主主義体制において、大抵の政治家は、「背負うもの」が大きく、かつ、選挙民の「身命を賭した」忠誠を当てにできないために、国際秘密力集団の「命令」を聞かざるを得ない。政治は、家族総掛かりの商売であり、世襲の商売でもあるから、ハンドラーズの要求を断るには、家族(の最年少者まで)が(いずれは)経緯を了承でき(るものと見込め)なければならないであろう。要求を撥ねつければ、一家は、揃って路頭に迷うことになりかねない。選挙民の一部は、事情を知れば、国際秘密力集団の要求を拒否した政治家に投票し続けるであろうが、四六時中、彼らがボランティアで護衛するという訳にはいかないであろう。それに、「活動的な」連中にこそ、二心持つ者が混じりがちであるのは、職業右翼の大多数によって、良く証明されていることである。

また、家族意識により、きわめて強く結ばれた支持母体がなければ、政治家は、国際秘密力集団からの脅迫を、何とかやり過ごすのが安牌ということになる。国際秘密力集団から脅迫を受けるとき、政治家は、彼らが暴力を必要に応じて段階的に振るうことを知ることになる。ターゲットとなった政治家は、いずれは家族も被害を受けるのでは、と心配せずにはいられないであろう。家族を手にかけると脅すことは、将来において、お互い様となるがゆえに、わが国の戦国時代においてさえも、最後の手段であった。社会の「記憶」と「手」が長ければ、国際秘密力集団は、脅迫相手の子孫を手にかける前に、犯人たちの子孫に対する追及を正当化することになるものと覚悟しなければならない。ただ、これには、例外がない訳ではない。太平洋を横断したチャールズ・リンドバーグの息子の誘拐殺人事件は、彼に対する脅迫の一環であったと一部に指摘されてはいる(が、私には、十分に肯定するだけの材料がない)。わが国における類似の話は、田中角栄氏と眞紀子氏の親子関係に見出すことができる。田中角栄氏は、娘の田中眞紀子氏にまで至るほどの地元の熱烈な支持を得ていたが、国際秘密力集団に対抗した結果、立花隆氏からの「筆誅」を始めとする、手厳しい制裁を受けることになった。また、田中眞紀子氏への小泉純一郎氏のアプローチと裏切りを見れば、国際秘密力集団の振付方法は、少なくとも、当人が政治家として活動する場合には、子孫の代までも「祟る」ように作られるものである。

本来ならば、政党とは、志を同じくする人々が結成する組織である。一人が倒れても、仲間に意志を継いでもらえるという期待があってこそ、政党は、十分に機能し、内部の結束は高まるものである。ただし、現代社会は十分複雑であるから、大義を一つとしていても、個々の議題に対して複数の方略を採りうることがある。このとき、「セット思考」(2016年7月26日)の弊害に陥ることを避けるため、政党内部では、個々の議題について意思統一を図るための擦合せ作業が行われるべきであり、明確な党議拘束がなくとも、決められたことには党員が従うことは、当然でもある。わが国では、個々の議題について意思統一を図るための擦合せ作業は、野党や小政党でしか機能していない。政党政治の本来の機能は、公明党を除けば、わが国では、与党サイドにおいては、全く混沌の内にある。与党の成員は、権力の維持を目的とするために、元々、変節しやすい性質を有する。それに加えて、国際秘密力集団の関与があるために、公約違反や造反が度々生じるのである。

昨秋までのドナルド・J・トランプ氏の選挙戦は、結束の固いファミリー意識を有する有権者層と、「陰謀論」とのレッテルに対する健全な懐疑精神という、二つの要件を満たすものでもあった。この双方の条件が揃って初めて、国際秘密力集団(=1%)に対する異議申立てが可能となったのである。もっとも、陰謀論そのものを信じる心性は、健全な民主主義には不要である。必要なのは、国民の健全な懐疑心であり、候補者・政治家周辺の強力な警護体制である。これらの条件は、犯罪組織の付け入る隙を与えないという形で、民主主義が健全に機能する上で、必須の(、ただし消極的な)条件である。


次回予定(#本ブログの例に漏れず、予定は未定)

「分かりやすい嘘」については、本ブログで何度か述べてきたが、「死の危険」まで取り上げることにより、ようやく、わが国特有の「左側」からの「皇室批判」という「陰謀論」の存在に対して、批判する準備ができたように思う。その事例として、鬼塚英昭氏が挙げられる(拙稿2015年10月25日2016年10月31日)。この「皇室批判」を論駁するためには、ここまでに見たように、政治家を例に取り、「役職に代わりがいること」の価値を述べた上で、次いで、「生き残るために必要なこと」を考察するという段取りが必要であった。この段取りは、「エア御用」的でもあるが、この種の「忖度」が「国体の守り方」のデフォルト状態であるのは、戦前の天皇機関説と天皇主権説を巡る議論や、現今の皇室制度に対する議論の外形を思えば、同形であるから、何ら恥に思うこともなかろう。

2017年6月10日土曜日

2017年前半期に本格化したわが国の権力闘争の行方を愚考する

最近、日本の権力構造において、警察と自衛隊の指導者層が従来以上に重要な役割を果たしていることが明らかとなってきた。2017年2月以降に噴出した、安倍政権に係る複数の疑獄と、それに対する理不尽な対応は、実力組織の活動を図らずも庶民に見せつけることになった。彼ら武官エリートは、旧ジャパン・ハンドラーズとは、もはや、トランプ政権誕生以前のような支配=従属関係にはない。彼ら武官組織の指導者たちが旧ハンドラーズと真のパートナーシップを構築する可能性は、残されたままではある。しかし、最早、戦後からオバマ政権までの間のように、旧ハンドラーズが支配し、日米合同委員会における指示を通じて、嫌でもその支配に服すという状況にはない※1

現今の勢力争いに実際に寄与している勢力をすべて洗い出すと、現政権側のステークホルダー(考慮すべき利害関係者)には、政治勢力としては自民党の現主流派、行政組織としては警察・検察・自衛隊等、実力行使の可能な組織が含まれる一方、その対抗勢力は、旧ジャパン・ハンドラーズを黒幕とする戦争屋連合である。現時点の旧ハンドラーズのステークホルダーには、マスコミの大部分、松下政経塾系の民進党・小池新党・維新の会などが含まれ、少なくとも都議会については、公明党が含まれる。民進党の都議会議員の多くが小池新党へと合流し、公明党がこの新興勢力と協力関係を構築したという事実をふまえれば、民進党の松下政経塾系統の人物や、公明党の立ち位置は、本人が自覚的であるか否かはともかく、戦争屋に与するものであることが明らかである。米コロンビア大学辺りに留学して、多くの日本人に「知米派」であるかのように認識されている政治家には、注意した方が良い。彼(女)と直接の対抗関係にある人物は、今のところ、日本人の99%にとって、応援すべき人物である。


#本稿で示す話は、決して、ヒュミントによるものではない。私の経験と偏見に基づき、公開情報を味付けしたものに過ぎない。ただし、私自身は、本稿を大真面目で示している。本ブログで散々主張してきたが、研究者・学者の役割は、正しい知識を産出して提示することである。本稿の見立ての正しさも、私自身の言論の正しさを賭金にしたものである。なお、本記事も無意味に長いので、段落読み(頭の文だけを読む方法)されると良いかも知れない。


7日に橋下徹氏がツイッターアカウントのエイリアスを変更したという報道[1]は、前稿(2017年6月6日)に示唆した政界再編の意図が存在することを示す明確な兆候である。なお、橋下氏が「t_ishin」から「hashimoto_lo」にエイリアスを変更した後、以前のエイリアスを直ちに正体不明の人物が埋めている(9日7時確認)。しかも、その人物は、エイリアス取得後、全くツイートしていない。この結果、このエイリアス名義での過去ログの全てが、第三者の運営するサーバによって追跡できなくなっている。この背景に、何らかの意図があるものと第三者に疑われることは、仕方ないものであろう。現実に一部のツイートが欠落したなど、後世における検証に不都合な事態が生じているとすれば、その事態は、ツイッター社を巻き込んだ、なかなかの大仕掛けということになる※2

今後、3月末のCSIS講演[2]をテコにした形で、橋下氏についての何らかの宣伝が進められるものとみることは、この講演の聞き手からすれば、当然に予測される展開である。そこで、この橋下氏の講演を多少詳しく検討し、それがどのように今後の政治勢力の再編を促すのかを指摘しておくことは、ムダにはならないであろう。ただ、録画映像は、不快な雑音のために、重要論点に聞き取りにくい個所が2カ所あり、『YouTube』の自動翻訳機能も付与されていない。かなり作為的な印象を受ける映像の造りとなっていることを前もって指摘しておく。

橋下氏のCSIS講演映像における雑音は、現場か事後かにわざと混入され、橋下氏が米国で日本国民にとって都合の悪い発言をなしたことを、日本国民に聞き取れなくしたものではないかとの疑問も湧くものである。かろうじて聞き取れるだけの音声からは、おおむね、次のような内容を聞き取ることができる。意訳・要約であることに留意されたい。角括弧は、その発言のおよその開始時刻である。

〔24:45#以後雑音酷い〕しかし、普通の日本人第三世代は、本当に米国がそうするのか〔尖閣諸島のために日米安保条約第5条に基づき血を流すのか〕については疑問を有している。〔...まるで聞こえない...〕THAADが中国・ロシア・北朝鮮への抑止に役立つというのは分かるが、〔第三世代は、〕協力体制〔#ここまで〕を静かに見ている。

〔26:00〕米国が本当に日本のために核戦争を実行するのかと訝しんでいる。〔26:10#以後雑音酷し〕小さな尖閣諸島のためにアメリカ人が本当に血を流すのかと日本人は考えている〔#ここまで〕。

聞き取りにくい話には、講演後の質疑応答における尖閣諸島に係るやり取りが重複する。そこでは、マイケル・グリーン氏の言葉を借りて、西太平洋の日本国領土の周辺地域を日本国に防衛させる〔50:10~50:32〕というアジェンダが明言される。この難しい部分を明らかに日本国民ではないであろうグリーン氏が代弁することには、橋下氏を慎重に育て上げようとするグリーン氏らの魂胆が透けて見える。もちろん、講演会場における音声状況の悪さを私は把握していない。ネットにアップされた内容だけから判断すれば、そのように疑ることも可能である、というだけのことではあるが、われわれは、この低レベルの手妻を経験し過ぎており、偶然を偶然とは思わない方が良いことを学んでいる。

前掲の音声が大変聞き取りにくい箇所に、橋下氏とその周辺のアジェンダは集約されているが、橋下氏のCSIS講演の全体を一通り検討し、その内容が政治勢力の再編を企図するものであることを指摘しておこう。ただ、橋下氏が必ずしもCSIS関係者のアジェンダに丸乗りしている訳でもなさそうに見えるところは、特記しておいた方が良いであろう。国際秘密力集団のアジェンダを乗りこなすのは、後述するように、世界のリーダー層における、一種の流行と化している。蛇足ながら、フランスだけがその波に逆らう選択をしたのは、原子力・金融・保険・EU内農業・化学・医薬・観光といった同国の主要産業構造を考えれば、面白い現象であるように思う。

冒頭、橋下氏は、最近の政治上の変化をメディアがポピュリズムと表現することを、普通の人々の感情から隔絶していると批判する〔5:15〕。メディア自身の見解に反する動きを取る者を批判するときにポピュリズムという言葉が使用される〔6:40〕、と橋下氏は批判するのである。氏自身の来歴を述べたあと、政策の勉強不足であることを認めながらも〔15:10〕、日本の草の根の感情の根底にあるものについてはよく分かっている〔15:30〕、と橋下氏は主張する。橋下氏は、メディア批判のスタンスを取り、同時に、普通の人々の感情を語る〔9:25〕というスタイルを取ることにより、ポピュリストであることをむしろセールスポイントにしようとしているかのようである。メディア批判は、従来の与党支持層を取り込む準備のためと認められる。この下拵えは、先述したような尖閣諸島に対する日米安保条約に係る庶民の理解〔24:45、26:00〕を通じて、「橋下さんは、尖閣問題を良く理解しているじゃないか、彼の言うとおり、日本人が自身で尖閣を防衛しなければならないのだ」という右側からの世論を喚起する土壌となる。

この講演において、橋下氏は、日本国民を三世代にキャラ付けし、第二次世界大戦後の孫世代である第三世代を糾合しようとする。橋下氏は、日本の大衆の認識を理解するのに、日本の世代を三つに区別すると良い〔16:50〕と述べ、第二次世界大戦の恐怖の記憶がある第一世代、冷戦下の印象の強い第二世代、その孫の第三世代を措定する。橋下氏は、これからの日米同盟は、第三世代の認識の上に構築しなければならない〔22:50〕と述べるが、その主役である第三世代は、合理的な判断を冷静に下す存在として描かれる。合理的であれば、戦前・戦後の伝統に区別は付けず〔20:50〕、第三世代は、第二次世界大戦を歴史として受け止め〔19:50〕、戦争責任を認める一方〔20:05〕、大戦中に恐ろしいことをしたという事実を感情的には受け止めない〔20:15〕とする。成熟した民主主義と自由を享受してきた〔20:30〕というのである。この区別が一定の有用性を持ち、受容者層を形成することは確かである。ただ、ローマクラブ関係者にせよ、啓蒙的な知識人グループにせよ、支配する側の論理を体得した人物らは、三世代による表現が大好きである。このため、このアイデアにいかなる背景があるにせよ、この表出には一応の注意が必要であると言える。この概念を通じて、橋下氏陣営は、第三世代そのものに狙いを定め、勢力を結集しようとしているものと認められる。同時に、この若年世代に力を与え、その無党派性を自らの下に統合しようとしている。この世代論は、既成政党のうち、現時点では、共産党だけが成功した方法論であり、共産党に対立的感情を覚える層に対してアピールする。しかも、現時点において、共産党に対置される若年者(主体)の強硬派グループは、在特会と、統一協会によるUNITEしか見られない。共産党の活動も、大学生なら民青に接して納得することであろうが、部外者には宗教的情熱に基づくものとして認識される。宗教色のない緩やかな認識の層を形成しようとする点において、橋下氏周辺の囲い込み戦術は、巧妙である。

橋下氏は、日米安保条約について、日米双方の国民と、米国のエスタブリッシュメントに誤解があると指摘し、両者の感情を仲介する役割を申し出るかのようである。橋下氏は、第5条に基づき、米国が尖閣諸島の紛争で血を流すのかという日本の第三世代の疑問〔24:45〕を「代弁」する。第三世代の疑問は、自身の受けた憲法9条の教育に原因があり〔30:20〕、自衛戦力さえも否定する向きもある〔31:15〕と橋下氏は指摘する。自衛隊は軍隊とは呼ばれず〔32:00〕、第三世代にとって、ほかの国を守ると言う考え方は思いも寄らないものである〔32:20〕と、橋下氏は述べる。他方で、安倍首相の憲法解釈変更を評価しつつ、一連の安保法制の改正が日米の相互防衛を達成するものではないが、米国のエスタブリッシュメントがこれを誤解している〔27:50〕と、橋下氏は指摘する。同様の誤解は米国民にも見られ、日米安保条約が片務的な性格であることを知らない〔33:00〕と橋下氏は体験を語る。これら日米双方の、庶民の日米安保条約に係る誤解は、尖閣諸島で一朝事あるとき、心情のすれ違いを生むであろうと橋下氏は指摘しているのである。この感情面での軋轢の虞自体は、大変に示唆的ではある。生命に対してカネで十分なのか、という疑問提起は、保守層にとって、もっともなものに響くものである。しかし、このポイントは、橋下氏の講演と類似した環境下で実施された、保守を気取る石原慎太郎氏のヘリテージ財団における尖閣諸島購入発言が、尖閣諸島をめぐる状況を進展させ、そこでの紛争の可能性の度合いを一段と高めたことにある。この組合せは、戦争屋によるマッチポンプ行為における、石原氏の放火行為に対応する一種のポンプのようにも見える。このポンプが撒くものが、消化剤であるのか、さらなる燃料であるのかは、確定的とはいえない。つまり、橋下発言に乗ったために生じた事態の推移が、さらなる混乱を日中関係にもたらすのか、それとも一種の「ディール」を経て事態の沈静化をもたらすのかという辺り、両極端な結果となることが予測されるのである。しかしながら、そのような推移そのものの不安定性を考慮しなければ、橋下氏は、尖閣諸島を巡る日米安保条約の優位性を確定させ、日米国民双方の認識を架橋するための止揚役としてCSISに登壇したと見ることができよう。

橋下氏は、現在の日本が米国の友人である〔39:45〕ことを講演において強調している。第二次世界大戦の日本の位置付けと現在の北朝鮮の位置付けが、日本国民の認識、特に戦後の第二世代の中では、同様のものである〔35:50〕と指摘する。ニクソン氏の訪中時、キッシンジャー氏は、周恩来氏に米軍基地の存在が日本の再武装を防ぐと語った逸話を紹介する〔37:00〕も、われわれは現代の日本を大戦期のように、現在の北朝鮮のようなものではないと思っている〔37:45〕とも述べる。北朝鮮のミサイルの脅威があると感じてはいるが〔38:40〕、森友学園疑惑が議会を賑わせているのは日本が健全な証拠である〔38:55〕と指摘する。自由を楽しむ〔39:30〕日本人が米国の友人であるという主張は、現在の中国について橋下氏自身が基本的に何も語らないことにより、彼の考えが一貫して親米であることを主張するだけに留まるという効果を有している。現在の中国の意図を忖度するのは、質疑応答におけるグリーン氏の役割である。ここで、橋下氏は、米中の二項対立から生じる軋轢を当面のところ回避し、親米のみを強調することにより、来るべき政界再編における親米派の「大政翼賛」の中心となろうとしているかのようである。橋下氏は、極右と認知されてしまっている日本維新の会という小政党のトップではなく、親米派、中道右派(民進党・松下政経塾系ならびに旧民社党、自民党の一部)を糾合した一大勢力を構成すべく、自身の主張を軌道修正しているのではないかと認められるのである。

橋下氏の自衛隊に対する理解は、「普通の国の防衛型の軍隊」であり、この点においても、自民党の支持層を惹き付ける余地のあるものである。日本は(名のとおりの)自衛隊を有しているが、〔橋下氏〕自身は進化させる必要がある〔40:15〕と橋下氏は持論を述べる。日本人は米国を守ることに貢献できる、つまり血を流すことができるようにする必要があると考える〔40:35〕と述べ、互いに血を流せる相補的な関係でなければ、同盟とは言えない〔40:50〕ともいう。日本の人々の現状認識を考えれば〔41:10〕、憲法9条の解釈を変更して、条文の許す限り、自衛・相互防衛を強化する必要がある〔41:25〕とするのである。

いくつかの報道に見られた「外圧」発言は、自衛隊を進化させるべきという持論の上になされたものである。トランプ氏の米軍駐留負担発言を引きながら、新しいアプローチが必要、外圧でなければ日本は変わらない〔43:30〕と橋下氏は指摘する。「血には血を」という互恵的な同盟関係は、庶民に理解し易いものであり、多くの消極的賛同を得るであろう。説得力のある代替案が誰でも知るほどのものではないことは、確かである。国連憲章の敵国条項なかりせば、問題視することも難しい論点であろう。

橋下氏は、黒船と同様、TPPも外圧の一種である〔44:20〕としてTPPを肯定的に捉えているが、ここにも、権力の多数派を抱き込もうとする意図が透けて見える。多人数の、この論点では真の保守と呼べる論客に指摘されてきたように、TPPが無国籍大企業の利益を専ら図るものであることは、良く知られたことである。しかし、橋下氏は、この点を含め、経済的な論点には、この講演中でまったく触れていない。このスタイルは、橋下氏が(安全保障に係るものであっても)経済的な論争を回避し、経済面での主力敵を作らないものである。また、同時に、この逃げは、橋下氏が真の保守とは言えないことを明らかにする証拠である。私の指摘を否定するのであれば、TPPに言及しなければ良かったのである。外圧を武力として表現するだけに留める方が、ナンボか正直であり、主題に忠実である。他面、このようにTPPに対するリップサービスを提供しておけば、日本を拠点とする(準)国際秘密力集団も、橋下氏に対する警戒を解き、その権力掌握に協力するようになる。このくらいの話は、当然、部外者にも見越されるものである。

橋下氏は、日本の大衆の心の準備が必要であり、そのために外圧が有用であるとして話を締めている。日米同盟における日本の寄与を深め、日米両国への攻撃への抑止にも役立たせるためには、心の変化が必要という〔47:35〕。片務的であるために米国(民)が日米同盟から手を引くという可能性を、日本の公衆に理解させる必要がある〔48:00〕とするのである。橋下氏により解説された日米両国の国民感情は、橋下氏の体験から発されるものであり、この点、リチャード・アーミテージ氏と同じく、三分の一を三分の二と誤解してしまうくらいのユルいもの(2016年7月25日)である。つまり、このように考える国民がいないこともないが、それが大多数であるとは限らない、という程度のものである。影響力を考慮すれば、私のように論理と公開情報だけで積み上げた話と論拠の確かさが変わらない話を、確定的に語る橋下氏の姿勢は、私人とは言えども批判されてもやむを得ない内容である。しかも、未だに戦争屋のお先棒をマスゴミが担いでいる以上は、このような「国民感情」が醸成されない可能性がないとは言えない。


以上のCSIS講演は、橋下氏が連中の傀儡として選出されたという事実を明快に示すものである一方、橋下氏の内心そのものを推量する材料とはなっていない。プーチン氏の登場は、ロシアを劇的に立て直したが、エリツィン氏に後継指名された後に、国際秘密力集団の期待を裏切り、真に国益を守る方向に舵を切ったものであったことを想起すべきである。習近平氏、トランプ氏も同様である。現に、シリア・北朝鮮について、あれだけ騒いで戦争を煽った日米マスコミは、事態が沈静化した後、しょぼくれた報道リソースしか消費せず、専ら、国内の権力闘争を一方的に描くことにリソースを集中させている。また、何となれば、この突然の集中攻撃は、安倍晋三氏の周辺にさえ、この種の変節があり得ることを示唆する材料なのである。昨年の今頃には予想だにしなかったこととも言えようし、私自身は安倍氏周辺が善政を敷くものとは期待していないが、この変化は、(良い意味でも)利に敏い橋下氏に気が付かれていないはずはないのである。CSISの招待に乗りながら、そのビッグウェーブを乗りこなそうという野心が橋下氏にあったとしても、おかしくはない。大阪都構想も、国際秘密力集団のアジェンダの一環であることは、言うまでもないのである。

今回の政界再編において、無党派層の支持を取り付けるには、日本維新の会というカラーは、不都合極まりない。日本維新の会は、「良識派」には「極右」として認識されており、その主張は、常に一定の支持層を得ることができるであろうが、決して万人受けするものではない。橋下氏は、尖閣諸島に係る対応は世論に基づくべきであるとCSIS講演で明言したことになるが、この意見は、ポピュリズムであるものの、穏当なものとして選挙民に受け入れられる可能性が高いものであろう。

時が来れば、アジテーターとしての橋下氏の才能が発揮されることは間違いなく、その成行きは、十分に注意を払われるべきである。具体的な方法論は、若い世代にまず語りかけ、それをテコに高齢者への浸透を図るものと考えることができる。これからの世代の意見に耳を傾けよ、という論調が取られるものと考えられるのである。もっとも、これらのロジックは、あくまで表向きの話である。「体裁さえ整っていれば、後は何とでもなる」と不正を実行する黒幕が考えているとしても、おかしくはない。


以上のように、橋下氏が国際社会へ名乗りを上げ、来る時期への準備を怠らないように見える一方、現時点の野党で、現政権に対峙してきた陣営は、本来ならば情報公開されるべき機密情報に基づいて、政権を正当な論理で批判しているが、にもかかわらず、権力争いの土俵に上ることができていない。これらの野党勢力は、旧ハンドラーズからの一方的な情報提供を通じて、戦争屋と「タマを握り合う」関係に至っている可能性が認められる。共産党の一部は、ロッキード事件で漏洩情報を活用したし、旧民主党のいわゆる「永田メール事件」も、その可能性が同様のものとして指摘されている。実務の最前線にいる人々に言わせれば、世の中、綺麗事だけでは上手くいかないのは当然であろうが、この協力関係の複雑さは、それぞれのプレイヤーが他者を明快に批判することを困難な状態に置いている※3

官僚組織は、この権力争いの場において、法の支配という理念そのものも含めて、混沌とした状態にある。自民党の中にも、旧ハンドラーズと微妙に近しい人物がおり、それらの人物には得意な行政分野がある。このため、所属官庁、中央・地方の別、地方の場合には国会議員の立ち位置やその地方の伝統などにより、官僚の意見も大きく異なろう。マスコミに取り上げられている官僚の発言は、現政権の方向性との整合性を注意深く検証すれば、その真意が見えるやも知れない。たとえば、加計学園疑惑では、特区制度そのものに係る批判は、後景に退いている。特区制度そのものに係る批判を加えない野党陣営も見られるところが、彼らのスタンスを図らずも暴露している。


このような情勢において、現政権を支える武官組織に所属する人物や、それらの組織のOBらの活動は、トランプ政権の誕生によりもたらされた極東アジア地域における権力の空白の一部を埋めたものと見ることができる。これは、性悪説を基調とする地政学※4などにいう「勢力均衡論(balance of power)」の帰結である。トランプ政権により生じた空白は、わが国では、政党政治家と士業公務員との勢力拡大にお墨付きを与えるだけに終わってはいる。しかも、これら権力掌握の度合いを高めた勢力は、3.11以前にも、原発の過酷事故対策をケチりサボったという前歴を有している。現今の混乱を乗り越えたとき、彼らがいかに身を処すのかは、わが国が開発独裁国家であったのか、それとも緊急事態国家体制にあったのか、のいずれであったのかを後世に明らかにする材料である。(私の見立てでは、残念ながら前者ということになる。)

強化された権力の状態そのものは、マスコミにより、「警察国家」と的確に表現されてはいる。しかし、大半のマスコミは、その実態がいかなるものになるのかを説明しようとはしない。権力争いの当事者でもあるマスコミは、旧ハンドラーズの望む方向に政権を転覆したいという悪意を潜ませたままでは、この帰結を報道できないであろう。なぜなら、その「警察国家」とは、比喩的に言えば「99%の中の1%にしか影響しない」、つまり大半の「一般市民」にとっては「今までとさほど変わらない」という結果しか生み出さないからである。

「ごく一部の人々を除き、自分たちの境遇は、今までとさほど変わらない」という結果を知った日本国民の多くは、マスコミへの弾圧を、他人事としてとらえたり、自業自得であると合理化するだけであろう。この心性は、日本国民の数百年にわたる伝統であるから、今後、世代交代しても継承されるであろう。第二次世界大戦を経ても維持された心性であり、根が深いものである。この心性の当否はともかくとして、市民の共感や良心を当てにできないというマスコミ側の悲観的な予想は、彼らマスコミ人が世論喚起のために嘘を多用せざるを得ない状況へと彼ら自身を追い込んでいる。


現在の権力闘争において、少なくとも、権力を実質的に所有する人物たち(内閣の中心人物・武官組織・マスコミ・与党・野党のうち戦争屋と親密な関係にある者)は、わが国の国民益を第一に考慮しておらず、真の国益を目的に置いてもいない。権力闘争の渦中にあるこれらの人物の自己イメージの中では、彼ら全員は、それぞれが、彼らの考えるところの「国益にも資する活動」に従事しているのであろう。問題は、その「国益」が、国民全員の同意に基づき形成されたものではない、つまり、日本人が学校教育を通じて学習してきたような民主主義の理念の上に構築されたものではない、という点にある。「国益」を実現するために彼らが採用している現在の方法は、よりマシな統治機構(アーキテクチュア)のあり方を真剣に模索し、その上で、自らの責任を全うする(法治主義に殉じる)という覚悟の上に選び取られたものではない。これらの人物の活動履歴のうち、「国士」のものを、生き残りのための方便として許容するのか、民主主義に対する冒涜とみなすのかは、読者次第である。私は、この構造を私自身の知識に基づき暴露したという時点で、後者に属することを決定したとみなされても仕方がないものと心得ている。「戦争屋」に連なる連中の活動は、私には許容できないものである。

現状に至るまでに、わが国の(不正選挙を含む)構造的不正が果たした役割は大きなものがあるが、その副産物として創出された「警察国家」という「空気」は、わが国が紛れもなく独裁開発国家であることを国内外に如実に示している。デ・メスキータとスミスは、『独裁者のためのハンドブック』において、独裁国家における、盟友集団・影響力のある者・名目的有権者からなる三層構造モデルを提示した。本ブログが別途指摘してきたように、わが国では「不正選挙」というツールが定着していることを受け入れれば、スミスとデ・メスキータのモデルは、現在のわが国にピッタリ当てはまる。ただし、自衛隊と警察は、わが国においては、むしろ「盟友集団」に含まれるアクターである。本ブログの以前の記事(2015年11月11日)で、私は、デ・メスキータとスミスのモデルによるだけでは、現在の国際環境下における独裁国家を説明することが難しいとは指摘したが、わが国は、デ・メスキータとスミスのモデルに、自ら接近しつつある。

それでもなお、警察や自衛隊によるわが国の統制のあり方は、「本当の一般市民」を実力行使により統制するという、一段上となる迫害段階には到達しないであろう。なぜなら、一般市民をも迫害するという虞ではなく、その実績こそが、わが国が法治国家であることの根拠を決定的に棄損し、「戦前と同一である」という一部マスコミの告発を信憑性のあるものにしかねないからである。最近の一連の法改正に対して、一部メディアが「一般人もこのような被害に遭うことになる」という虞を主張し続けているのは、この虞が具現化して、その「絵」を撮ることができる状態にまで持ち込まなければ、わが国の人権迫害に対する実際の対応行動を喚起できないことを、メディアと戦争屋自身が理解しているからである。もちろん、現今の政治スキャンダルに検察が介入していないことは、この組織に本来課せられるはずのプリンシプルの根幹をなす政治的中立性に明らかに反するものである。その上、国民主権の理念を蔑ろにするものでもあるが、棄損されているものが理念である限り、これらの実力組織は、知らんぷりを決め込むであろう。

一般人に対する現実の迫害は、わが国における国民の人権に対する「Thin Red Line」である。人権とは、誰にでも適用されるから人権なのではあるが、「一般人」が不当に弾圧・迫害されたという事実こそが、戦争屋に使嗾されたメディアが熱望する事態である。もちろん、現権力(政体)側も、この事態は避けるべきと心得ているはずではある。このために、沖縄における弾圧は、本土では、何だかんだで報道されないのである。例外的に、直接危害を加えられる虞があるのは、第一に、反骨の政治家と官僚であり、次いで著名な学者・ジャーナリスト・NGO関係者である。他方、近代のわが国においては、宗教家も迫害されたが、現今においては、よほどのことがない限り、イスラム教を除き、宗教家がターゲットとされることはない。現政体に対し、ブーメラン現象を惹起したり、思わぬ形で海外からの援軍を敵方にもたらしたりするためである。また、一般の無明なブロガーやツイート主あたりを、著作権法違反により逮捕・拘禁したり、ぶん殴るなどの形で身体に直接的な暴力を加えたり、刑務所に入れない限りは無理矢理「食べて応援」させたり、ということもないであろう。これら紋切り型の批判を行う一人のインターネットユーザを迫害することは、現政体の側に利益以上の不利益をもたらす。マスコミの「正論」は、顔出しOKの「ベビーフェイス」に語らせることにより、いかんなく発揮される。無名の敵には無名のまま死んでもらう方が、権力者には都合が良いのである。それに、国連憲章の「敵国条項」は現在でも有効である。大日本帝国を想起させる種類の虐待は、現政体にとって、避けなければならない現実的な理由が存在するのである。

ただ、今後、誰が・どのように迫害されたのかについては、迫害に対する救済を図る上でも、精密に検証されなければならない。迫害されるであろう有名人の中には、戦争屋と裏で手を握る者も多く含まれているであろうから、この点を含まなければならない。その上で、国民一人一人が良識に基づいて、彼らが受けている迫害に対して、各々の評価を下す必要があろう。たとえば、現今の国連関係者によるわが国の法制度に対する懸念は、これらの関係者に情報提供した組織の金脈が精査された上で、正当に評価される必要がある、と私は考える。たとえ、ある批判者の指摘が正しいものであるとしても、「人権侵害の虞」を指摘することが、却って、わが国を戦争屋による人権蹂躙へと陥れるということになりかねないとすれば、私自身は、彼らNGOも批判しようと思う。日中戦争に至る道筋においては、日本国民の大陸における権益への執着がマスメディアによって喚起され、その結果、反米感情が昂進され、引き際を誤り、最後には重大な国益の破壊をもたらした。戦争屋は「両建て戦術」の継承者であるから、彼らが企画・主導した歴史には、この種のジレンマが必ず仕込まれている。彼らの仕掛けた罠にかからないためには、切り立った山々の尾根を行くがごときの、細心の注意が必要となる。

他方、誰でも過ちを犯しうるにもかかわらず、その過ちをネトウヨらが殊更騒ぎ立てることは、却って世論を戦争屋に靡かせる虞がある。これは、前川喜平氏の「出会い系バーへの出入り」が殊更に取り上げられたことを念頭に置いている。前川氏に係る「下半身報道」は、結局デマであって、政権にとってブーメランと化したかの展開を迎えている(とされている)。しかしながら、性交渉があろうがなかろうが、警察に対して密かに反感を抱いているようなスケベオヤジたちの多くは、「警察が見逃しているソープランドとは、いったい何だ?」と思ったに違いあるまい。しかし、このような内心の反感を吐露すれば、ネトウヨとのトラブルに伴う社会的不利益が待ち受けていることは明らかである。このため、オトナならば、このような不満は、内心に留め置くであろう。大抵の日本人の成人は、実社会ではオトナである。しかし、投票用紙読取分類機の不正手段が戦争屋の手元にあるものとすれば、この反感は、後付けで選挙における大差を説明する上で、利用可能な材料と化すのである。卑劣な人格攻撃を躊躇しない集団から距離を置こうとするのは、人間の自然な心性である。勇気のない純情な人々は、いじめを止められない無力感を味わい、自身の無力を悔しく思うであろう。しかし、これらの人々は、勇気あるベビーフェイスが来たるべき選挙に立候補したとき、一転、その「ベビーフェイス」に投票して自身の心情を合理化し、往時の臆病さを償おうとするかも知れない。「正義が勝つ」がごときの舞台を、戦争屋のために、わざわざ準備してはならない。

決して、前川氏が戦争屋の手先だという訳ではないことに注意せよ。しかし、戦争屋は、前川氏を抱き込もうとするであろうし、前川氏が戦争屋の手先から応援を要請されたとき、断れない状況というものもあろう。環境を整えることにより、このような不幸な状態は、回避することができるはずである。それに、ここまでこの分裂気味の文章を確認された諸賢なら、誰と誰が野合して大勢力になるのか、もう十分に読めてきたはずであるから、ここらで、締めに入るとしよう。


現政権を支える実力組織は、今後の選挙においても自民党を勝たせるべく、あらゆる手段を尽くすであろう。彼らは決して、まともな弱小政党を政権に担ぎ上げて、現今の困難を乗り越えるという方針を採用しないであろう。これが、彼らの器の大きさの限界であり、彼らの一部が特定の宗教的信条や原発利権から無縁ではない状況をも示す証拠となる。これと同根の理由から、公明党が選挙違反で潰されることもない。ましてや、共産党をパートナーに選択することもない。

今夏の都議選において、大勝する陣営が自民党か小池新党かのいずれであるかにより、わが国の大勢が旧来の戦争屋の敵となるのか(=自民大勝)、味方となるのか(=小池大勝)、その区別が明らかとなろうし、不正選挙というツールが戦争屋の手にあったものか否かも明らかとなろう。先の知事選を引き継ぐ形で、無節操にも民進党から鞍替えした「小池チルドレン」たちが、なぜか大勝して議会を占めたとすれば、わが国の裏社会が戦争屋の味方であり続けることを選択したといえるし、(私に先取権はないが、)不正選挙について私の採用した見解が正しいものであったことが証明される。このとき、現政体の主要エンジンである警察と自衛隊は、その大勝に対して、何らかのアクションを大規模に起こすであろう。逆に、自民党が大勝すれば、私自身の不正選挙に係る見立てのうち、主導権がいずれにあったのかの見解は正反対であったことが示唆され、私の愚かしさが満天下に晒されたことになるが、警察と自衛隊は、この不自然な大勝に対して、当然ながら、見の姿勢を決め込むであろう※5。どちらが外道であるかを競い合うような闘争の中から、庶民は、判断材料もないまま、もっともマシな人材に投票するという難しい選択を迫られている。戦争屋か安倍政権か。日本国民にとっては、「究極の選択」である。か細い第三の選択肢に乗れるように、われわれは、最善を尽くすしかなかろう。それに、究極の二択から選択せざるを得ない場合であっても、世界的に見れば、旧ハンドラーズを追い落とす方が各国国民の効用を増進することになることは、明白である。

ただ、選挙結果に対する警察や検察の介入には、自ずから限度というものがある。周囲の批判を物ともせず、これらの司法組織が実力に訴えることは、十分にあり得ることであるし、多数の実例も現実に存在はする。それでもなお、その無茶振りは、たとえば、当選者を公職選挙法違反により当選無効へと追い込むとするというような、あくまで法の体裁を整えた上での無理筋に限定される。また、全くの無名の新人を仕込みなしで勝たせる手段などは存在しないし、明らかに当選見込みのある人物の票をすべてライバルへと移し替えるということも、無理筋である。不正の余地は、あくまで「彼らが考える限りにおいて、不自然ではない」という程度に限定されるのである。


自称・民主主義国家である日本国では、私を含めた東京都民の圧倒的大多数が、たとえ正当に選挙権を行使したとしても、スミスとデ・メスキータのモデルにいう「名目的有権者」の地位に留まる可能性がきわめて高い。というのも、仮に、完全に不正を排除した選挙が行われたとしても、その場合には、マスゴミ情報を鵜呑みにした都民の投票行動によって、小池大勝という結末を迎えるであろうし、この蒙昧さ自体、非民主的な構造の産物であるとすることが可能なためである。戦争屋のビジネススタイルによらないという意味での第三極が第一党を占めるということは、全くあり得ないことであるが、万が一、第三極に都政を運営させようとするような都民の「覚醒」現象が見られた場合であっても、現政体を支える武官たちは、この動きに介入し、その実現を抑止するであろう。平成21年の民主党政権誕生直後における経験を踏まえれば、この見立ては全く揺るがないものである※6

現在、日本の政界が経験している戦争屋との「代理・情報戦争」は、日本の戦後政治上、大きな変化と見ることもできようが、政治的中立性や民主主義という理想的観点からいえば、いずれも大差なく、場外乱闘の類いである。マスコミの偏向報道も、公的機関の恣意性も、私の批判の対象である。戦争屋に対する牽制は必要悪であるが、日本における真の民主的な活動に対しても、現政体に阿り積極介入するという点で、彼ら「警察国家の守護者」たちは、悪(=利己的)と呼ぶに相応しい。まず間違いなく、この「悪」は、当事者によって自覚されているとともに、合理化されているであろうという点において、始末が悪いものである。

マスコミが相対的に無効化されていることは、橋下氏旗下の勢力の台頭を抑止することになり、これは、第三の道を目指す勢力にとっても、好都合ではある。これは、旧来の自民党清和会系の権力の成果にタダ乗りするものである。ただ、これらの権力が勝手にお互いをつぶし合ってくれたとしても、後に残るのは焼け野原ばかりということになる。必要なことは、「第三のガンマン」の戦術を思い起こすことであろう。私にできることは、その仕掛けを解読してみせることである。本稿は、一応のところ、戦争屋の所在を知り、近い将来の動向を明らかにしたから、戦争屋に対峙する勢力に対しては、十分な責務を果たしたものと言えよう。

旧来の権力は、全力を以てマスコミに対峙してきたが、その究極的な目的は、私益である。この批判は、マスコミが暴露した各種の疑獄の好き放題振りを見れば、当事者が否定できるものではない。ただ、日銀をテコにした株価の不正な吊り上げこそが、彼らの金脈の最たるものであるから、これらの疑獄は、彼らの権力の源泉ではない。本来、この動きは、権力犯罪・経済犯罪・組織犯罪にもなりかねないものであるが、国策として片付けられ、経済学からの批判を除けば、研究上、ほとんど興味を持たれていないように見える。この点によっても、マスコミの影に隠れる戦争屋の錬金術は、日本の現政体の錬金術と同一の方法論に基づくものであると気付くことが可能ではある。同キャラ対決であるから、お互いの手をバラしあって金欠になることだけは避けなければならないのである。この事情を公に暴くのは、それだけでは権力に正当性が(正統性も)なく、旧来の権力に欠けているものが庶民を養うというノブレス・オブリージュであることを思い起こさせるためである。



※1 ただし、これらの士業公務員の中にも、旧ハンドラーズと同様の主張を提起してきた複数の人物がいる。それらの論者が自分自身の考えに基づいて偶然に共同歩調を取ったのか、それとも旧ハンドラーズの積極的な「犬」であることを目的としていたのかは、注意深く批評されるべきである。

※2 重要人物のツイートを定期的に保存するというところまでは、私も手が回っていないことを申し添えておく。自分を擁護する気もないが、個人の働きには限界があるものである。

※3 多くの日本語話者は、野党やマスコミにより「公開・暴露された」情報の恩恵を受けて思考を進めているが、これらの「特ダネ」は、ジレンマの産物である。戦争屋を排除した後、わが国で完全なる言論の自由が速やかに実現され、それを担保するための情報公開が厳格に実施されるのであれば、戦争屋の提供する「極秘情報」に乗ることは、「日本人の生命と財産を重視する」という観点からすれば、ルール違反にもなろう。しかし、その見込みは、今のところ、全くないように見える。現時点で表現の萎縮効果を内心感じている日本人の圧倒的大多数は、まず間違いなく、言論弾圧が将来解除されるという期待など、抱いていないであろう。これらの日本人であれ、デスパレートな日本語話者であれ、日本国政府による弾圧を肌に感じる者たちが、悪魔との契約のようなものであろうが、戦争屋のタレコミに乗ることには、十分な理由がある。他方、戦争屋の振付けに直乗りしておらずに、戦争屋と同調的に動いている日本人を政府が見分けられずに弾圧することは、ある意味、友軍誤射の一種であり、政府の「敵」を増やすだけに終わる。情報の自前主義は、このようなところにも影響があると言えよう。

※4 国際政治学の亜流、もっと口汚く表現すれば、官僚流の「野生の思考」によるところである、ということも可能であろう。でなければ、これほど現今の言論状態が、下世話なものになることはない。性悪説が形而上学的な偏見であろうが、地政学がキマイラのような思考体系であろうが、それらの信念で頭の中身が構成されている人物の思考を相手にするときには、そのように頭の中身ができているものと措定するのが、(私のような)観察者(もどき)の仮定としては自然であり、利便性が高い。

※5 愛知県警の情報漏洩事件や、神戸山口組組長の逮捕劇は、ここでの見立てに影響するものであることは承知している。

※6 このときの政権交代自体が不正選挙によるものであるという考え方は、十分に成立しうる余地がある。ただし、私自身がこの論証に優先的に手を付けるつもりはない(し、何よりも、その準備作業が一向に進んでいない)。


[1] 橋下氏、ツイッター名から「ishin」削除 (読売新聞) - Yahoo!ニュース
(2017年06月08日07時44分)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170608-00050008-yom-pol

橋下徹・前大阪市長は7日、ツイッターのアカウント(登録名)から「ishin(維新)」の文字を削除した。日本維新の会の政策顧問を5月末で退任したのに続き、政治的中立を徹底する狙いという。

[2] Japan Chair Forum: Toru Hashimoto - YouTube
(2017年03月27日ライブ配信、Center for Strategic & International Studies)
https://www.youtube.com/watch?v=AB52uyrL3Lc




おまけ(備忘録)

とりあえず別の機会に言及するかもしれない話をメモしておく。

  • 福島第一原発事故を機に、警察は、警察国家を目指す度合いを従来以上に明らかにした。
  • わが国のジャーナリストには、どうやら一軍と二軍の両建て戦術が適用されているのではと思えて仕方がない。
  • 以上は、すべてフィクションであり、現実の組織や個人等に関係しない、と明記したら、私も大小説家ということになるのであろうか。

2016年9月1日木曜日

トンデモ説でさえ、具体的な生命への危険と掛け合わされると、多大な混沌を生じうる

 『シオン長老の議定書』(日本語訳は一定しないので、現時点では適当に記しておく)は、陰謀論において有名な文書であるが、一般には偽書とみなされている。同書は、同書の主張するところでは、ユダヤ人が世界を征服するための方法論を示したものである。日露戦争時、捕虜となったロシア兵が所持していたために、日本にその存在が知られたと言われる。平成28年7月時点のわが国で、偽書であると明記する例として、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(2006, 文春新書)がある。私が興味を持つのは、書籍の内容そのものよりも、書籍の影響についてである※1。『議定書』は、共産主義がシオニスト(ユダヤ人至上主義者)による陰謀の一部であることを示す証拠として、ロシア帝国下のロシアにおいて、積極的に配布されていたのである。

 ロシア皇室と同様、戦前日本の帝国主義者が共産主義を皇室に対する脅威とみなしていたゆえに、『議定書』は、日本国内においても、流通を認められた。『議定書』の記述は、大日本帝国においては、シオニズムと共産主義の双方が危険であるというレッテル貼りに利用された。第二次世界大戦前のわが国は、この事情のために、戦後よりも陰謀論が受容され、生きた思想となった時代であった。陰謀論に親和的な風潮は、一面においてナチスドイツとの同盟をもたらす素地となり、他面において日ユ同祖論から河豚計画に至るまでのユダヤ人に対する道具主義を生み出した。帝国主義の時代には、力と謀略が物を言う。陰謀論は、「河豚計画」という名の「河豚」という毒魚の名に象徴に示されるように、帝国主義者に一種の道具としてみなされたのである。(関与した個人の信条を個別に検討することは回避したいが、組織を全体として見た場合には、道具的に利用したと解釈しても誤解を生じない。)

 難しい前振りを(うまく)こなした(つもりになった)ので、本題に移ろう。



 現時点のわが国において、ある組合せの意見を採用する陰謀論者は、「わが国における多くの重要な出来事には、皇室の決定的な関与が影響している。皇室は、国際金融資本家と密に共謀し、日本の安全を脅かしている」という陰謀論を信じている。「陰謀論」の文字通りに、共謀の存在を信じているのである。この一例は、RAPTと自称する男性(声からすれば男性)である(リンク)。ファンという男性(これも声から男性と判断できる)もいる(上、同一人物によるやらせではないように聞こえる)ので、少なくとも、二名以上は、このおかしな形の陰謀論を信じていることになる。彼らは、「ユダヤ陰謀論、ここに極まれり」と題する電話対談(リンク※)の中で、那須御用邸周辺が広範に汚染されたとされることは、実はフェイクであって、それらの汚染されたといわれる土地を用いて次なる企みを進めているという突飛な仮説を提示している。

 実際には、那須町による計測結果(リンク)でも、個人による計測結果(リンク1リンク2)でも、東京都区部に比べ、那須御用邸周辺の汚染の度合いは相当に高く、この一点だけでも、RAPTらの主張は根拠薄弱である。ほかにも、RAPTらの無理解は、次の点に認められる。外部被曝に比べて内部被曝が危険視される理由を理解できていないこと。遺伝的影響の発現が遅れうること。世代を超えるかのような外形的な影響が認められうること。ソ連崩壊後に多くの研究が散逸しながらも西側諸国に状況が知られるに至った経緯があることに考えが至っていない(上掲リンクの再掲)こと。要するに、彼らの対談は、この話題を扱うだけの十分な知識を土台に据え(ようと努力し)たものではない。

 RAPT(集団由来のものか個人か、いまいち良く分からない存在であるので、人称を省略する。)による皇室批判は、『国際秘密力研究』の菊池氏が提唱する「両建て戦術」の一つである。このように捉えると、RAPTの皇室批判が「第三の何か=止揚」を導入しようと企図するための前振りであると予想することが可能となる。ただし、「両建て」戦術は、菊池氏のいうように、「止揚=第三の何か」を導入するために役立つだけではない。RAPTのような、陰謀論の中でも突飛な意見は、話者の望まぬ形で波及する場合がある。

 「両建て戦術」の対象となった2種の対立軸は、話者という第3の要素を対象にとり、認知的不協和をもたらす可能性がある。2種の対立軸を対立軸として取り合わせたときに生じる認知的不協和があまりにも甚だしいと、論者そのものが否定される、という関係を生じるのである。先の記事(リンク)で私が言及したように、「両建て戦術」は、論者によって関連を指摘されたほかの命題に係る見解を、一定の方向に誘導するという機能をも果たす。しかし、これにも限度があり、話の齟齬があまりにも甚だしいと読者に感じられる場合、かえって筆者が読者から信頼を失うのである。

 RAPTは、批判の対象となることが多くあるロスチャイルド家と、皇室とのただならぬ関係について言及するが、かえって、RAPT自身に対する疑いの目を向けさせることになっている。この状態は、皇室を敬愛してきた人物にとって、RAPTの言説が、RAPT、ロスチャイルド家、皇室の三者についての認知的不協和をもたらすものとなるために生じているものである。皇室を敬愛してきた読者は、「ロスチャイルド家に対する好意を抱くに至る」、「皇室に対する嫌悪を抱くに至る」、「RAPTに対する嫌悪を抱くに至る」のおおむね3通りの反応を抱くであろう。この3通りの中では、RAPTが自滅するかのように信頼されなくなる、というものが圧倒的な一番手である。事実、私の抱いた感想も、「何言ってんだ、RAPTは?両家が関係を持っているにしても、皇室外交という社会的装置の一環であって、当然じゃないの?」というものにしか、変化しなかったのである。このような態度の変化は、字義通りにRAPTの言説を捉えるのであれば、およそ、RAPTの期待したものとは言えないであろう。

 実は、このRAPTの大失敗には、かなりの明快な理由がある。その理由もまた、認知的不協和の枠組みだけで説明できるものである。それは、従来からの皇室に対する国民のイメージというものが強固に存在しているために、A「従来からの皇室への良好なイメージ」と、B「皇室とロスチャイルド家が共謀して悪事を行っているという指摘」と、C「悪事を非難するRAPT」という三者が認知的不協和を構成する、というものである。{A, B} はマイナス、{B, C}はプラス、{C, A}はマイナスとなることが大半であろう。すると、これらの組合せを掛け合わせてもプラスとなり、結果、RAPTが嫌われる、という構図が成立する。

 ある理解の枠組みは、その全体像がいかに極端で偏りのあるものであったとしても、多数派集団がそれを方便として活用することがあれば、基本的なところで当の多数派集団の理解の枠組みとの齟齬を抱えたまま、スローガンとして使われることがあり得る。大同団結は、このようにして成立する。RAPTのような見方をするごく一部の陰謀論者を除いては、現在の皇室が日本国民の安全を脅かしているという主張は、非常に不穏当に響くものである。この点、スキャンダラスでない皇室を戴いてきた日本国民は、かえって知的警戒心を喪失しているとも言えるが、本件に限っては、その無批判性が良い方向に機能していると見ることもできよう。




 問題は、RAPTのような見方の陰謀論が、簡単に論拠を覆されるという点で程度の低いものであるにもかかわらず、社会のマジョリティにおける分断を生み出す端緒になること、また、その分断を生み出しうる可能性が悪用されないとも限らないことにある。冒頭に見たように、反ユダヤ主義は、偽書とされる書籍によって現実に興隆した。少なくとも、この警戒心は、現在のところ、内田氏の著書などに見る限り、社会の中で機能しているようである。しかしなお、RAPTの説がいかに悪用されうる余地があるかを、現時点のわが国の状態に即して考察しておくことは、決して無駄にはならないであろうから、以下に検討することとしよう。

 日本共産党は、現時点のわが国において共産主義を掲げる社会集団の中で最大のものであるが、ここでのRAPTに等しい論を提示したことはない。同党は、皇室の廃止を完全に撤回してはいないものの、うかつな主張が自らを更なる少数派へと追いやることくらいは十分に承知しているであろう。RAPTのような極論を知る共産党関係者は、日本社会における多数者が「現時点の皇室が汚染を偽装するという、国民の生命・健康・財産を損ないうる方針を取る」などとは夢にも思っていないであろうことを十分に理解していよう。これは、以前にネット右翼を批判したとき(リンク)と同様に、相手が大人(おとな)であると考えれば、当然に導かれる結論である。

 他方、皇室を敬慕する穏当な者ならば、共産主義者に対する態度に関わりなく、共産主義者への不当な批難が皇室に対する他者のイメージを却って損なう可能性があることを承知しているであろう。これは、天皇制を否定する共産主義者といえども、自分たちに対する嫌悪を無用に高める可能性があるために、皇室に対する批判を慎重に行うことと鏡合わせの関係にある。しかしながら、無知であったり教条主義的である人物がいわゆる「右翼」を自称する場合には、皇室を廃止しようとする意見に対しては、その帰結を顧みずに苛烈な非難を加えるであろう。このことは、無知であったり教条主義的である人物がいわゆる「左翼」である場合に、いかに批判の根拠が失当であろうとも、皇室を批判する言説を利用しようとすることと同形である。

 共産主義に対して陰謀論というラベリングが貼られた歴史と、共産主義が平等を謳うゆえに最終的には皇室の廃止を掲げることとの二点を知る者は、皇室を非難しようとする者であっても、それを指弾する者であっても、日本国民全体の利益を図るためには皇室が陰謀論の主体であるなどということをうかつに口にできないという共通理解に至ることができるはずである。しかし、ここで述べた構図にもかかわらず、RAPTが那須御用地を皇室が恣にすると非難するとき、私有財産制を認めない(厳格な)共産主義者は、私有地の廃止という一点においては、RAPTのような主張と共闘する余地が生まれ、私有地に権利を有する地主(階級)と対立することがあり得る。この対立は、国土の一部が著しく汚染されたという認識を持つ者にとって、東日本に故郷を持つ人々をいかに遇するか、という繊細な問題をも容易に射程に収めるものである。ゆえに、その事実認識に係るRAPTの誤解(または詐術)は、人々の間に無用な対立をもたらしうるのである。もちろん、この構図の一隅には、私益を追求して広範な被害を放置する原発ムラが存在する余地があることを忘れてはなるまい。

 一部の陰謀論者が明白な誤りを主張することは、議論が議論に留まるうちは、話者自身に対する信頼を損なうに留まる。先に説明したとおり、認知的不協和によって、話者自身が排除されるためである。「両陣営への両建て」という考え方が多用されるが、明白な誤りを主張する陰謀論者は、かえって自分の信頼を炎上させることになる。人は、自身の心情にそぐわない主張に対しては、熱心にその欠点を見つけ出すことができる。保守主義者と共産主義者という、対立する二大陣営の両方を敵に回す陰謀論者の主張は、容易に袋叩きに遭うものである。ゆえに、大抵の場合、言論だけにことが収まるのであれば、両陣営の対立を煽るかに見える、マッチポンプであるかのような言説は、その場限りのものであり、大した力を持ち得ない。



 しかし、これが生命や財産に直結する話であれば、容易に事態は行き着くところに行き着くことになる。1909年10月26日の伊藤博文の暗殺は、彼の生前の意志とは逆に、日本の世論を韓国併合へと向かわせたとされる。その結果は、2015年の現在にも隣国との軋轢を生じさせている。現在、ウクライナの混乱は、ウクライナの指導層に多大な影響力を発揮してきたヴィクトリア・ヌーランド女史のキレっぷりとは対照的なロシアの政策によって、解消されつつあると言える。そもそも、この内戦は、正体不明の狙撃手が警官とデモ隊の両陣営を銃撃したことから始まったものである。双方に流血の事態を生じさせることは、しばしば、両方の対立から利益を得る第三者の存在を臭わせるものである。

 われわれが第三者の介在に警戒し続けなければならない理由は、パラグアイの事例にも見て取ることができる。伊高浩昭氏は、パラグアイにおける農場主の射殺事件において、警官と農場主の双方が同一の銃で殺害されたことを伝えている(伊高浩昭, (2015).『われらのアメリカ万華鏡』, 立教大学ラテンアメリカ研究所.)。この事件は、少数派のルゴ大統領政権時に生じたものである。経過は、外務省によって、次のようにまとめられている。
農地改革や治安問題の解決に向けた取組の遅れに対する不満が与野党各方面から噴出。同月22日にパラグアイ上院においてルゴ大統領は弾劾され、憲法の規定に基づき、フランコ副大統領が新大統領に昇格した。2013年4月に次期大統領・副大統領選挙が実施され、カルテス・コロラド党候補が勝利し、同年8月に正式に大統領に就任した。カルテス大統領就任以降、政権の優先課題として貧困の撲滅を掲げるとともに、積極的な外国企業誘致を推進している。(リンク

 共産主義のバイブルであるマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』の「万国の労働者よ、団結せよ!」という結語は、分断統治という支配の技術が存在することを示唆する。分断統治は、被支配者同士のお互いに対する不信を前提として、相互監視により強化される。五人組の伝統を持つわが国においても、分断統治は、十分に理解され活用されてきた手段である。ところで、わが国の保守主義も、万国共通の哲学である共産主義も、階層的分業を当然のものと見ているが、この体制は、人間が集団的な生物であるという性質にも由来するものであるため、現在のところ、好悪にかかわらず、前提として考慮しても良いものであろう。

 分断統治という手段は、2つ以上の階層・集団という条件だけでなく、これに加えて、被支配者集団間における不和や、他集団への憎悪を前提としなければ機能しない。この憎悪という条件のために、分断統治は、しばしば目に見える暴力までに発展することを見越したものとなる。2つの被支配者集団がともに暴力を肯定するようになれば、社会の大半は、大きな混乱に陥ることになる。統治者は、この対立と混乱から利益を上げるのである。ショック・ドクトリンを用いる「黒幕」は、この対立をあえて顕在化させることにより、先行投資を上回る利益を回収するのである。他方、この前提を知る先人たちは、たとえば企業社会であれば労使協調という一種の「止揚」法を生み出してきた。

 右翼を自認する人々は、わが国における学生紛争の経緯から、「内ゲバ」の語のように、分断統治が左翼に対してのみ適用される現象であるなどと考えてはならない。先に挙げた伊藤博文の暗殺は、むしろわが国における「右翼」の影響を受けて引き起こされた国際的な分断統治の一形態であった。韓国人と右翼との間に100年にわたる対立を引き起こした安重根は、皇室の「すり替え」を檄文に含めている。皇室の経緯に係る話題は、本ブログでも「陰謀論」についての書評という形で取り上げているが、現在でも「陰謀論」の一大分野である※2。実際、韓国併合は、関東大震災における在日外国人に対するヘイトクライムの原因の大元でもあり、現時点の日韓(韓国からすれば韓日)関係の軋轢の主要な原因の一つでもある。

 第一次世界大戦は、暗殺がそれまでの歴史に類例のない死者を生んだ事例であるが、その展開の重大さに比べて、その端緒が(少なくともわが国においては)十分に理解され共有されていない出来事でもある。1914年6月28日のオーストリアのフランツ・フェルディナント皇太子夫妻の暗殺(セルビア事件)は、第一次世界大戦の引き金となった。1000万人の単位に達する死者を生じさせた人類規模の悲劇における、最初の流血事件である。にもかかわらず、セルビア事件を実行した『黒手組』の思想は、正式名称である『統一か死か』が紹介されているにせよ、中等教育課程で皆が学習する程には、十分に共有されていない。教科書では単に「民族主義者」と紹介される程度であるが、そもそも、この危険思想がいかなるものであり、成員にどの程度の理解があり、ゆえにこのような活動に至ったのかといった話は、およそ日本人の大半が知らないことであろう※3。過激な民族主義者がなぜ帰結も顧みずにこれだけの大仕掛けに踏み切れたのか、これほどの襲撃を可能とするリソースを有していた組織がなぜこれほどに近視眼的に振る舞えたのか、など、組織として暗殺に踏み切った明確な理由が日本人のわれわれには十分に理解できる形で学習する機会がないのである。これは、単に、私の不勉強でもあるが、歴史の研究者が十分に他人に説明できるだけの理由を探究し、私のようなひねた市民(非専門家)にもそれなりに納得できる形で解答を提示していない、ということにも求めることができよう。「一定の見解が得られていない」というのも一つの見識であるが、このような見識が分かりやすく示されていないと、「陰謀論」の叢生する余地が生まれうるのである。

 ともあれ、第一次世界大戦は、本来ならばリソースに乏しいはずの、一国の権力機構の一部を占めるに過ぎない少数の過激主義者が人類全体に深刻な被害を生じさせた事例であると見ることもできる。現代的な視点から見直すと、自称イスラム国の影に他国の資金援助や不作為を看取することができる以上、『黒手組』についても、同様の構図が成立すると類推することは、アブダクションとしては無理のないものである※4。また、この種のアブダクションは、個々の国の状況に独立に適用しうる。ウクライナに対するヌーランド氏の関与は、完全に有罪と見なすことのできるものである。パラグアイについての外務省による抑制的な記述は、「同一の銃で殺害された」という地元紙の報道を追加するだけで、あからさまな陰謀の気配を感じさせるものとなる。

 以上の歴史的な、あるいは同時代的な事実を、わが国においても現に生じうる危険と見なすのか、一笑に伏すのかは、読者次第ではある。しかし、大杉栄らが殺害された甘粕事件については、ネット上でもそれなりに十分な資料にアクセス可能である。問題は、人々の安全を具体的に保護する立場の人物らに、個々の立場にふさわしい見識が備えられているか否かである。それぞれの地位にある者の実力がそれぞれの役目に対して不足していれば、大国の行く末でさえ、思わぬ状態へと容易に陥ることになるのである。



#以上、本稿の基本的な論旨は、2015年11月に用意したものであるが、下書きのままで放置していたものである。あまりにもハイコンテクストな内容であるために、公的な身分のあるうちに公表することは、さすがに躊躇したのである。ひるがえって、今夏、私自身の身分のみならず、社会的な状況が大きく変わりつつある。その上、本記事に係る主要な考え方は、別記事において、すでに提示している(リンク)。現時点では、公表しても、私自身に対する評価のほかには、影響が極小化されたものと見て良かろう。これが「防災の日」の今日になって、一部を修正しつつ、公開に踏み切る主な理由である。で、つまり、どうすれば良いかについての私の意見は、国民を指導する層がその地位にふさわしいだけの総合的な実力を付けるほかないのでは、というものである。

※1 私は、本記事でも以降の記事でも、『議定書』の内容そのものについて、扱うつもりが当面ない。十分に扱えるだけの系統的な知識に乏しいこともあるが、同書を公然と扱うと、読解力のない読者たちの誤読を招き、余分な反発を受ける可能性があるためである。日本語ではほとんど言及がないので付記しておくと、現在、この書は、ロシア語版なら相当簡単に閲覧可能であるし、日本語でも、インターネット上で国会図書館所蔵の画像データを閲覧できる。掲示板『阿修羅』に掲載されているものは、テキストの写し間違いはさほど見られないようである(が、一言一句確認したわけではない)。

※2 これらの書籍に係る事実関係については、過去の書評において、私は、前提となる知識を欠くがゆえに、それらの書籍に示された事実を正しいと認定するのではなく、「これらの説が本当であるとするならば、好きか嫌いか」という、好悪の話にすり替えたのであるが、読者諸賢は気が付かれたであろうか。そうは読めないとするならば、私の筆力が不足しているということであり、反省しきりである。

※3 オウム真理教事件についても、当然、この理解の枠組みは該当する。が、少なくとも、日本語では、事件全体の構図を理解しようとする試みが存在しており、その資料に比較的容易にアクセスできる。

※4 これを覆す事実があるなどといった具体的な話については、不勉強ゆえ、私は知らない。ウクライナとパラグアイと大正時代のわが国の事例だけでも、話は十分であろう。ただ、最大の被害見込みを見ておく必要があったがゆえに、ここでは第一次世界大戦に言及したまでである。

パラグアイ基礎データ | 外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/paraguay/data.html

2015年11月16日月曜日

除染事業に内在する権力性:烏賀陽弘道氏のツイートラインより

 ジャーナリストの烏賀陽弘道氏のツイッターに、次のくだりがある。
https://twitter.com/hirougaya/status/664473824969146369

私は、報道記者だって人様の不幸をネタに仕事をする賤業だという謙虚さぐらいは持ち合わせている。

 ジャーナリズムや福島第一原発事故の除染事業と同様、人の不幸で飯を食うというのは、犯罪予防研究も同じことである。このように私は師匠に教わったが、事実そのような感覚を抱いてもいる。学問についての歴史学(あるいは科学史)では、近世以降における研究者(科学者)という専門的職能を、かつては金持ちに限定されていた余技であったところ、社会の発展に伴い、制度化が進んだものであると理解する※1。人の不幸に関する研究に限らず、研究一般は、他人の労苦の上に成立する業務である。そうである以上、研究者には、自らの専門分野への貢献のみならず、自らの所属する社会に対しても何らかの還元が求められることになる。

 烏賀陽氏は、続いて除染業務に従事するゼネコン担当者の横柄さを批判し、多くの反論を受ける(リンク)が、反論(の多さや正しさ)とは関係なく、この批判自体は本質を突いたものである。工学全般は、固有の目的があって初めて成立する「実学」であるが、その中でも、土木・建築学は、常に権力と不可分に存在して発展したという特殊な地位を有している。土木・建築の職能者たちは、洋の東西を問わず、専門家集団を形成し、独自の権力を形成し、現在に至っている。土木・建築学は、その歴史も長く、権力と特殊な(緊張)関係を有する存在であるという点で、ほかの工学分野と異なるという特徴を有しているのである※2

 土木・建築学に内在する権力性ゆえに、土木・建築学を修めた者の発言が大所高所からのものになることは、半ば必然である。問題は、自身の技術の権力性に自覚的であるかどうか、その発言が横柄にならないよう調整できるかどうかである。除染事業は、その由来からして、権力の(正統性の)維持という、伝統的な目的に奉仕する業務である。そうである以上、烏賀陽氏に批判された除染事業者は、少なくともジャーナリストに(余分な)批判を受けないように、表面上だけでも、対応を物腰柔らかなものとするべきであった。喧嘩上手は、喧嘩すべきでないところでは喧嘩しない。そういう抑えが利く者である。(そういう点では、私は随分と喧嘩下手であることを弁えている。あまり目をつけないで欲しい。)


※1 (平成27年11月17日)いったん書いてしまったので、「近世以降」という限定を付して言わんとするところを明確にしてみた。地中海沿岸から中東にかけての大きな地域における、古代から中世にかけての科学のあり方は、たとえば古代ギリシアのように上掲の文章を擁護する事例も含みうるも、たとえば中世の中東地域など、反例を多く含みすぎることになる。これでも大ざっぱ過ぎるかもしれないが、現代における研究という行為の特殊性・歴史性をふまえるべきだ、という趣旨で記したものである。だったらそう書けと言われれば、その通りであるが、一度に文章を書き上げてこの位の品質にしかならない私の能力の限界を示す上でも、残しておくことにした。

※2 土木・建築学は、歴史が長いために職能集団が国際的に移動できたという特徴を有しており、この点で、航空・宇宙工学、原子力工学、機械・化学工学とは異なる。地域移動という特徴を有するという点で、土木・建築学に最も性格が近いのは、船舶(工)学であろう。私の直感によれば、土木・建築学と船舶学では、権力に対する態度が異なるようにも思われるが、これは、主に私の不勉強に由来する誤解である可能性も高い。

2015年11月11日水曜日

デ・メスキータ、スミス, (2011=2013). 『独裁者のためのハンドブック』, 亜紀書房.

 モデルに基づく研究について多少なりとも造詣のある者は、本書を面白く読めると思う。読者層を限定すれば、星は、★★★★★(5つ)で、一読の価値がある。しかし、読者は、本書のモデルについて、限定的なものととらえて読むべきであろう。

 デ・メスキータとスミスは、独裁者の権力維持を説明するセレクトレート・セオリー(Selectorate Theory, 権力支持基盤理論)を提唱した。権力者ないし独裁者を支えるモデルは、盟友集団、影響力のある者、名目的有権者の三層からなるとする。前者の二層が「権力支持基盤」であるとする。権力者は、権力支持基盤の規模が比較的小さな場合には独裁者として、権力支持基盤の規模が大きな場合には、民主主義に基づく正統な権力者と認められる。このようにデ・メスキータとスミスは指摘し、いかなる権力者も独力では権力を維持し得ないという仮定から、独裁と正統な権力とが権力支持基盤の規模という連続性のある量により曖昧に区別されるものでしかないことを導出した。なお、(訳者である四本健二氏と浅野宜之氏の要約によれば、)三層の例は、次のとおりである。

盟友集団
独裁者を失脚させるだけの力を有する側近。
例:与党や軍の幹部、閣僚、部族集団や地域社会の長、企業の取締役。
影響力のある者
独裁者の権力掌握と支配に貢献し、影響力を有する集団。独裁者は、彼らに配慮し、彼らの好む政策を選択せざるを得ない。
例:当選者への投票者、与党党員・有力支持団体、大口投資機関家、軍、独裁者の出身部族、会社の幹部社員など。
名目的有権者
独裁者の選択に影響力を与えない集団。
例:一般の国民、選挙で落選した有権者に投票した有権者、小口の株主など。

 デ・メスキータとスミスのモデルは、静的な国際関係の下での独裁的な一国の定常状態を説明するものとして、適切なものであるように思う。他方で、このモデルは、動的な国際関係や国際的企業群の営利活動下において、それらの独裁的な、あるいは民主的な国々がいかに機能しているのかという点を捨象している。国際的な営利活動の影響を切り捨てているために、このモデルは、今現在の(わが国を含めての)混迷を説明するには役立つものではない。最も賛同を得やすい事例だけに留めておくと、一時期までの南米諸国における「保守的」軍事政権を理解するには、デ・メスキータとスミスのモデルよりもナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』の方がよほど通りが良い。過去のクーデターから現在の穏健的な体制への移行の結果、現時点で、南米諸国の苦境から多大な利益を上げて勝ち抜けているのは、主に米国に本拠地を置く国際的企業群であり、当の国民ではないのである。

※ デ・メスキータとスミスも、第8章において、災害等のショックが反乱または支配の契機になりうると述べているが、クラインは、企業群がそのような機会を常に窺うものだと見ている。この点、デ・メスキータとスミスは、ショックを例外状態と見ているのに対し、クラインのスコープは、ショックそのものにあり、両者には大きな違いがある。

※ 第9章における孫子への言及には、明らかに誤解が含まれる。ワインバーガー元米国防長官?に先立ち、戦わずして勝つことが上策であることを述べているのは、日本人にとって常識の範囲内だと思ったのだが(#この文は、ここまでまったく何も参照しないで書いている)、デ・メスキータとスミスは、孫子のテクストを戦争を前提にしているものと批判している。この明らかな誤りは、修正されるべきであろう。