2017年6月30日金曜日

ズビグネフ・ブレジンスキー氏の評価は「棺を蓋いて事定まる」となるのか(分からない)

ズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezinski)氏は、『ブッシュが壊したアメリカ』(2007, 峯村利哉訳, 徳間書店)[1]に見られるような総合的な世界観を提示した人物として、今後も人々に記憶されるであろうが、その評価は、慎重に下される必要がある。ブレジンスキー氏は、長島昭久氏のような弟子を育てた人物ということに(長島氏自身の弁によると)なっているために、享年89歳で2017年5月26日に亡くなった後、日本語の陰謀論界隈では、これを大々的に言祝ぐ動きが見られた。しかし、話はそう簡単ではない。というのも、たとえば、原著『Second Chance』[2]の取扱う内容の厳密さに対して、『ブッシュが壊したアメリカ』が相対的に緩い訳となっているために、ブレジンスキー氏の言説の問題点を正確に把握することは、なかなか面倒なことになっているからである。私が陰謀論者たちの「祭り」に乗り損ねた最大の理由は、不勉強のために同氏の業績を十分に把握できていなかったという私自身の怠惰にある。しかしなお、泥縄で勉強してみるだけでも、ブレジンスキー氏に対する誤解とその波及効果は、なかなか見逃せないレベルに達していることが窺えるのである。

以下、和書・原著から分かりやすそうな一例を挙げ、世界的に影響力のある個人の主張を日本人の一消費者が正確に理解することの難しさ、を検討することとしよう。和書第5章の「イランの排斥から対話へ」という節を一部引用し、次いで、原著から対応部分を引用する※1

〔p.192〕

イラン排斥の政策から生じた純然たる効果は、テヘラン政権内におけるイスラム原理主義勢力の伸張と、なかば公然の核開発の着実な進展だった。イラン側は核兵器保有が目的ではないと強く主張するものの、ここ数十年間の技術進歩により、核兵器の開発能力を手に入れていることは歴とした事実である。〔...略...〕

二〇〇六年四月末、アメリカはようやくイラクにたいする姿勢を転換した。この転換をうながしたのは、まったく異質なふたつの要因。ひとつは、イラク戦争の代償を痛感した結果、対イラン武力行使というオプションの魅力がうすれたこと。もうひとつは、クリントン政権と現ブッシュ政権における北朝鮮核問題の対応をふりかえった結果、ほぼアメリカ一国によるとりくみでは効果を期待できないという認識が広まってきたことだ。

後者にかんしては、二〇〇四年初頭、アメリカは極東の関係諸国の圧力により、大幅な姿勢の転換を余儀なくされていた。アメリカが厳しい北朝鮮の孤立化政策を主張しても、中国とロシアは頑として首をたてに振らなかったのだ。地域的な多国間交渉を通じて、北朝鮮が自制せざるを得ない環境をつくりだす――許容範囲内の結果が欲しいなら、これが唯一の方法なのはあきらか〔p.194〕であった。二〇〇四年、六ヵ国協議(メンバーはアメリカ、中国、日本、ロシア、韓国、北朝鮮)が正式に開始されたことは、極東の安全保障における国際的枠組みの重要性が広く認識されたあかしといえた。

〔p.165〕

The net effect of a policy (or rather a stance) based on ostracism was to strengthen the fundamentalist elements in the Iranian regime while Iran proceeded steadily and stealthily to pursue a nuclear program that was at best ambiguous. While the Iranians have fervently declared that their goal is not the acquisition of nuclear weapons, it is a fact that the program's substantial progress over the past decade or so is gaining for Iran the capability to acquire such weapons. 〔...略...〕

In late spring of 2006, the United States was finally made to alter its position by two extraneous factors: the realization that the costly war in Iraq made the use of force against Iran a less attractive option, and a rising awareness of the futile, largely solitary U.S. attempts under Clinton and Bush to cope with the similar nuclear dilemma posed by North Korea. In the latter case, by early 2004 the United States found itself compelled by regional pressures to change its stance significantly. 〔p.166〕Neither China or Russia was prepared to follow America in a severe international ostracism of North Korea. It thus became clear that only a regional multilateral effort to induce North Korea self-restraint stood any chance of achieving an acceptable outcome. The Six-Party Talks, which formally commenced in 2004 -- involving the United States, the People's Republic of China, Japan, the Russian Federation, South Korea, and North Korea -- were a far-reaching acknowledgment that the security of the Far East required some form of international architecture.

この部分を取り上げた理由は、図書館から借用した和書に「イラにたいする姿勢」という他者の書き込みが見られたためである。この箇所を取り上げたのは、図書館の本に書き込む人物のオツムの程度を晒し上げるためでもある。訳としては、「米国の姿勢」というのが安牌である。「its position」の中身は、米国のイランに対する姿勢だけでもないし、米国の北朝鮮に対する姿勢だけでもない。後の「大西洋共同体に日本を組み込む」という節の和訳にも、同様の恣意性が見られる※1が、ブレジンスキー氏の頭の中では、米国から見た複数種類の二国間関係が同時に考慮されているようであるところ、和訳からは、このニュアンスが抜け落ちてしまっている。和訳は、「イラクにたいする姿勢」という部分に不用意に示されるように、米国の対イラン政策と対北朝鮮政策に一貫性を持たせることが必要であったという著者の主旨を十分に反映したものとはなっていない。これと同様、図書館所蔵の書籍に書き込んでしまうレベルの読者は、まんまとその二項対立の罠に陥り、「イラン」とだけ訂正して良しとしてしまっているのである。ダブスタがよろしくないという指摘は、ブレジンスキー氏により繰り返される主題の一つである。この主題を利用して、オマエこそダブスタだろうとブレジンスキー氏を批判する陰謀論者は、今のところ、インターネット上には見出せていない。

和訳は、(私を含む)大半の日本人にとって便利であるし、洋書のキュレーション機能も有するし、訳者のアカデミックキャリアに資するものでもあるから、一見、良いこと尽くめことにも見えるが、訳に正確性が求められる場面になったとき、二度手間以上の問題を引き起こす。訳書を取り上げる読者の内心を推し量るためには、原著も訳書も読まなければならなくなる。真っ当な理解力を有する読者が原書の意図を誤解したとき、その原因が誤訳であるというのは、二重に不幸である。というのも、(誤訳が、訳者の不注意や無能力によるものか、意図的なものであるかはさておき、)質の悪い訳書は、単に誤解を広めるだけでなく、訳語のコミュニティにおいて、誤訳する人物をその筋の権威者として押し上げる機能をも果たすことになりかねないからである。一般に、現時点では、専門書が英語でなければ読めない社会は、総じて不幸であると評価されているようである。しかしながら、誤訳だらけの専門書は、訳語コミュニティにおいてリソースの浪費となり、一般の図書館に原著まで所蔵されているケースは例外的であろうから(目黒区は、複数の外国公館もあるためか、その例外に相当した)、悪貨が良貨を駆逐するという構図をさらに加速することになる※2。この構図は、以前にも指摘した覚えがある(マタイ効果に係る2015年11月24日記事)が、重要なことでもあるし、「知の分断統治」とも呼べる現象であるために、警告し過ぎることはないであろう。

ブレジンスキー氏の批判をネット上の伝聞に基づいて行うことは、正確性という観点からは、相当に怖いことである。ブレジンスキー氏の表現は、学術的であり、この事実は、訳書であっても十分にうかがうことができる。つまり、訳書も、原書の雰囲気を決定的に損壊するほどには、ユルユルではない。ここで、陰謀論界隈に流通する話題を念頭に、ブレジンスキー氏の実際の指摘がいかなるものであるのか、具体的に検討しておきたい。

「100万人を殺す方が誘導するよりも容易い」旨が『Second Chance』にも見られる〔p.215、和書p.249〕ことは、事実である※3。チャタム・ハウスにおける講演内容とされる音声も、ネット上に残されており、同種の内容が語られる[3]。しかし、これらのブレジンスキー氏の言辞は、仮に事実関係として正しいとしても、「殺す方が楽だから殺せば良い」という主張には直結しない。このように不穏当な内容であっても、それが事実である限り、事実を口に出さないという選択肢は、国際政治学者には存在しないであろう。この事実を一旦認めた上で、世の中をいかに変えるかを探究するのが、彼らの仕事である。ブレジンスキー氏を言論上で批判しようとする者は、「思想誘導よりも殺害の方が簡単である」という見解が正しくないことを示すか、彼が大量殺戮へと政策を恣意的に誘導した事実を以て、彼を批判する必要がある。(他方、彼を「政治家」として批判することは、簡単である。結果責任は、いかようにでも問えるからである。)

ブレジンスキー氏は、『ブッシュが壊したアメリカ』で、ソ連崩壊直後のロシアにおける「自称経済コンサルタント」の暗躍振りを批判し、「戦争屋」の手口の一端を暴いてはいる〔pp.77-81、「ロシアの富を奪ったアメリカの経済コンサルタントたち」〕。ブレジンスキー氏のこの批判を、同氏が米民主党側の両建て陣営に属することによるものと理解し、パパ・ブッシュ政権を批判するための方便に過ぎないと断じることは、可能である。しかし、「両建て戦略」に乗せられまいとする人物であっても、ブレジンスキー氏のこの指摘自体は、利用しても構わないであろう。戦争屋がロシア民族の不幸を加速させたという構図を、ブレジンスキー氏が解説したこと自体は、同氏が知識というものに対して一応は誠実であったことを示す傍証の一つではある※4。もっとも、2007年という時点は、プーチン氏の実力が決定的に確立され、その傾向が明確になった後のことではある。故人(に限らず、ある話者)の心中を推測することは、どこまでいっても解釈にしかならないため、私がここでブレジンスキー氏の心中を推量しても、何の役にも立たないが、ロシアにおける苦難を増加させた当人であるブレジンスキー氏が白旗を揚げるつもりでロシアの苦境を説明した、と邪推することも可能ではある。私には、本当のところは、調べてみないと分からないことである。

セキュリティは、ウチとソトとに対して二面性を持つ(2015年10月30日)ために、セキュリティに関して伝達される知識も、常に両義的である。セキュリティに係る知識は、使い方によって、毒にも薬にもなるのである。それゆえ、通常、知識の伝達方法には一定の縛りがかけられることになり、その多くは、自主規制の形式を取る。ブレジンスキー氏の「100万人」発言は、知識の内容としては、言うなれば、爆弾のレシピと同様の機能を有している。知識としては、出発点に過ぎない。が、これを公に向けて不用意に語ることは、各国の当局の注意を引くことにもなり、誤解に基づく批判も受けることになる。この知識の特殊性と、その特殊性ゆえに秘匿されることから生じる知識の偏在性は、安全保障(security)を正当に探究する上での障害となる。万人が恩恵や被害の対象となるにもかかわらず、セキュリティに係る知識は、秘匿されがちになり、それゆえにまともに議論されなくなり、さらに誤解が蓄積されるという、情報の非対称性を生むのである。責任を負う実務者は、その結果、局所最適(、より不穏当な用語に頼れば、独善)に陥りがちとなる。この危険性を外部有識者が公衆に聞こえるように議論・批判する作業は、当の発信者にとって、実務者から寄せられるべき自らの信用を棄損することにもなるが、それでも、知識を表明して批判に晒す作業は、正しい知識の集積には必要な営為である。チャタム・ハウス・ルールの語を生んだ場で(密かにか)録音された内容が公開(漏洩)されたことは、ブレジンスキー氏の計算外であったかも知れない。が、語られたこと自体(100万人発言)は、価値中立的と解釈できる。ただ、100万人発言の引き起こす現実の結果が、価値中立的ではないのである。この価値中立性に対して、私自身は、「100万人を殺したり洗脳できるだけの権力を有する者であれば、戦争屋の失脚しつつある今、彼らに従来の悲惨に係る責任の大半を負わせれば、100万人を満足させて食わせることがもっと簡単になる。」と、とりあえず宣言し、脱構築を試みておきたい。これは、信念に基づいた仮説に過ぎないが、ブレジンスキー氏の(政治家としての実績に依らない、理論系研究者としての)発言と同程度の強さの論拠に基づく。また、私以外の誰もが、同様の確かさの根拠に基づき、意見を表明することができる。この見解の最大の難点は、この見解がトクヴィルのいう「多数者の専制」か、はたまた世界政府論のみに行き着きがちであり、「両建て構造」の中に回収されてしまうという危険を有することである。

#とっちらかっているが、これでおしまい。


※1 和書は、原著の節見出しを改題し、また、節見出しを追記している。本文については、一部括弧書きなどを割愛した形跡が確実に見られる一方、地の文を割愛した形跡は、おおむね見られないようである。逐語的には確認はしていない。『マスコミに載らない海外記事』のブログ主が和書について述べていた疑問[4]は、そもそも対応する見出しが存在しない、というものになる。この措置は、訳者の峯村氏のサービス精神によるものと解釈できる。この節の和訳は、原文の対応部分に誤解を生じるものではないように思われる。原文を読んでも和書を読んでも、原著者の意図を読み損ねることはないであろう。ただし、「大西洋共同体に日本を組み込む」という節見出しそのものは、和書向けに特化したものである。この節の本旨は、明らかに、大西洋共同体にまつわる、二種類の「たられば」の話である。

※2 この構図は、山口真由氏の『東大首席が教える超速「7回読み」勉強法』[5]『天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論がある。』[6]にも該当する。(たまたま併読していたので、取り上げたまでである。)「七回読み」自体は、パラグラフ・ライティングが根付いていないコミュニティで産出された(自称・他称の)専門書を読む上では、間違いなく有用な方法である。しかし他方で、山口氏は、この書籍の執筆時点では、パラグラフ・ライティング(リーディング)を知らないのであろう※5。その結果、(引用部分については、)ヘッド・センテンスが初学者向けに易しい文章で綴られている池谷裕二氏の『脳には妙なクセがある』(扶桑社新書, 2013年11月)を「七回読み」の題材に取り上げるという暴挙に出ている〔pp.16-17〕。この事例は、日本語の学術コミュニティの不幸を体現している。山口氏は、ハーバードに留学経験があるようであるが、パラグラフ・ライティング技法について、教わる機会がなかったというのであろうか。存外と、あり得る話ではある。

※3 いろいろと誤解を避けるべく、二段落分を丸々引用する。

The basic requirements of global leadership are now vastly different from what they were during the British empire. No longer is military power, reinforced by economic prowess and exercised by a superior elite pursuing a sophisticated strategy, sufficient to sustain imperial domination. In the past, power to control exceeded power to destroy. It took less effort and cost to govern a million people than to kill a million people.

Today the opposite is true: power to destroy exceeds the power to control. And the means of destruction are becoming more accessible to more actors, both states and political movements. Consequently, with absolute security for a few (notably America itself) becoming only relative security for all, collective vulnerability puts a premium on intelligent, cooperative governance, reinforced by power that is viewed as legitimate. Global leadership now must be accompanied by a social consciousness, a readiness to compromise regarding some aspects of one's own sovereignty, a cultural appeal with more than just hedonistic content, and a genuine respect for the diversity of human traditions and values.

※4 ただ、原著初版は、Google様のガジェットによれば、2007年5月5日のようであり、和本は原著表記を単に2007年としているが、ナオミ・クライン氏の『ショック・ドクトリン』は、やはりGoogle様のガジェットによると、初版2007年9月とのことであるから、ブレジンスキー氏の和書における戦争屋の記述がクライン氏の指摘を得た上で追記されている可能性は、依然として残る。

※5 これは、取り立てて問題視すべきことではないが、それでも、『ブッシュが壊したアメリカ』がパラグラフ・ライティングされている内容を複数の段落へと小分けしていることには、少々の違和感を覚える。複数の二国間関係が同時に論じてられているニュアンスが失われてしまうからである。


書籍のリンクは、いずれも国立国会図書館のNDL-OPAC。

[1] ズビグニュー・ブレジンスキー著, 峯村利哉訳, (2007). 『ブッシュが壊したアメリカ: 2008年民主党大統領誕生でアメリカは巻き返す』, 東京: 徳間書店.

[2] Zbigniew Brzezinski, (2008 Apr. 8). Second Chance: Three Presidents and the Crisis of American Superpower, New York: Basic Books.

[3] Zbigniew Brzinski's Chatham House Speech
(November 17, 2008、2017年06月30日00時51分)
https://www.bibliotecapleyades.net/sociopolitica/sociopol_brzezinski03.htm

[4] 北大西洋共同体(NATO)に日本を組み込む ブレジンスキー: マスコミに載らない海外記事
(2009年2月15日)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/nato-2563.html

「大西洋共同体に日本を組み込む」という見出しが、217ページにある。(原文に該当する見出しがあるかどうかは、原文を読んでいないので、別として。)

[5] 山口真由, (2014.7). 『東大首席が教える超速「7回読み」勉強法』, PHP研究所.

[6] 山口真由, (2014.9). 『天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論がある。 図解版』, 東京: 扶桑社.




2024(令和6)年1月6日訂正

本文について重大な誤りを発見したため、これを削除する形で訂正した。これをお詫びする。ほぼ誰も読まないブログではあるが、取返しようもない種類の誤りではある。(が、結果責任からすれば、お互いに、それでも物足りないと言いたい気持ちはある。)

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