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2019年4月6日土曜日

(メモ)大学入試共通テストは段落書きを広める機会になり得る

「大学入試共通テスト」の平成30年度試行調査(2018年11月10日・11日実施)の採点結果が4月4日に公表されたが、国語第1問目の問題文に採用されている文章2点は、いずれもパラグラフ・ライティングされている。鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか――狩猟採集生活が生んだもの』(ちくま新書1018, 2013.6)正高信男『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』(中公新書1583, 2001.4)である。もっとも、同年度調査の第2問目(著作権法の解説文)、平成29年度の第1問目(壁新聞)、第2問目の出典である宇杉和夫ほか『まち路地再生のデザイン――路地に学ぶ生活空間の再生術』(彰国社, 2010.1)の文章群は、段落書きの何たるかを理解しているとは認められないから、集団としての問題作成チームには、段落書きの作法ならびに効用が理解されていないのかも知れない。実際、出題内容は、段落書きされた文章を段落読みするだけで、直ちに答えられるものでもない。大学入試は、多数の日本語話者に対して、効率的かつ正確な情報伝達のための文章作法を訓練する好機であるから、ぜひとも、その問題文は、段落書きされた文章のみを使用して欲しいものである。


[1] 大学入学共通テストの導入に向けた平成30年度(2018年度)試行調査(プレテスト)の結果報告及び地理歴史A科目の参考問題例について
(2019年04月04日)
https://www.dnc.ac.jp/sp/news/20190404-03.html

2018年7月26日木曜日

(書評)絶対と信仰という概念抜きには、西洋哲学を理解できないだろうに

#あまりに駄文であるとは思いながら、そこはそれ、恥を書き捨てるつもりで公開した。

甲田純生氏の『1日で学び直す哲学 常識を打ち破る思考力をつける』(光文社新書657, 2018年8月20日)は、全体を通して、キリスト教と哲学的思索との緊張関係(の歴史)を十分に取り上げない。キリスト教は、誕生した後、接触した哲学に対して、宗教としてのみならず、絶対という概念の別名としても機能してきた。プラトン以後の西洋式の哲学がイデアリズム(観念至上主義)に支配されてきたことは、一応、同書でも言及されてはいるが、これを補強するのが信仰であるという点は、十分に説明されてはいない。私が勝手に理解するところでは、(自覚的で強い)信仰とは、人生における意思決定を必要とするもので、心に思い切り(跳躍)を必要とする。この機制を有している人々にとって当然の心境は、そうでない人たちにとって、いわば彼岸に行ってしまった人のものであるので、理解できないものだとしても仕方なかろう。しかし、同書では、キリスト教が省略されたために、同書は、(野内良三氏の言葉を借りると、「超現実主義者」[1]としての感性を有する日本人)読者に対して、この世に対置される真の世があるという考え方が信仰によって強化されているという理解を、伝え損ねているのである。

この関係性を説明しないのは、21世紀初頭に生きる哲学者として、あんまりな態度である。なぜなら、この無視・切捨ての姿勢は、世の中の大多数の他者を、何らかの心の働きを有する個人として認めないことにもなるのだから。また、この省略は、学問としての存立基盤である一般性を掘り崩しかねないほどに、キリスト教という(内部に、相応の多様性を含む世界的宗教の)特殊性を認めないものでもある。ともかく、同書は、キリスト教を考察の対象から捨象したことにより、哲学の全体系という壮麗な殿堂の一翼(と主殿)を、完全に瓦解させたものとなっている※1。わが国でも、浄土宗や浄土真宗などの、信じる者が救われるとする大乗的な性格は、本稿に係るキリスト教の精神に共通すると認められるから、これらの宗教の信仰者にならば、私の言わんとすることが通じるかも知れない。

同書は、題名にもかかわらず、結局、哲学を学び直す上での妨げになる。同じ一日を費やすなら、ほかの本を読む方が断然良い。キリスト教を切り捨てた割に、甲田氏の著書には、思い切りの良さという評価点から見て、判断を失敗した箇所がほかにも見られる。たとえば、ハイデガーについて不満を挙げると、甲田氏の説明よりも、筒井康隆氏の『誰にもわかるハイデガー 文学部只野教授・最終講義』(2018年05月20日, 河出書房新社. 1990年講演の再構成)の方が、間違いを犯すリスクを取りながらも、結果として成功しており、よほど分かりやすい※2。ハイデガーに係る甲田氏の歯切れの悪さに接する限り、私には、甲田氏がキリスト教を捨象した意図を汲み取り切れないのである。

甲田氏は、ハイデガーに関連して、

人間だけが「死ぬ」

人生の終着点――。それは、「死」以外の何ものでもありません。生と死はひとつです。

私たちは186ページのヘーゲルの『小論理学』引用文から、生命の存在には最初から死が組み込まれている、ということを確認しました。〔…略…;以上、p.216〕

と表現するが、私は、この言葉使いに本当にイラッときた。生と死は、一続きのもの、一揃いのもの、一対のもの、一組のものではあるが、生があって初めて死があるという点で、不可逆であり、単なる一体のものではない。重点的に取り上げる7名の中にヘーゲルを指定しながら、生と死(の順序の大事さ)を論じない○○味噌ぶりは、頭が良く相手の愚かさを指摘しがちな哲学者という人種〔pp.53-54〕が用いた表現としては、随分と不用意なものである。先にも言及した書籍において、野内良三氏は、偶然について、

想えば、人間は自分の意志ではいかんともしがたい、誕生と死という大きな二つの偶然に支配された存在である。どんなに神に愛された人間でもこの二つの偶然からだけは免れることはできない。〔…略…;p.15〕[1]

と説明するが、野内氏の考察において、人間の誕生と死は、分かたれた形の二種類のイベントである※3

キリスト教への言及という点、宇野重規氏の『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ, 2013年10月20日)は、題名ゆえにそうせざるを得ないのであるが、ほぼ全編がキリスト教(権力)との競合と棲み分けの歴史を腰を据えた形で記しており、有用である。野内氏の文章とは異なり、甲田・宇野両氏の文章とも、段落読みできるものではない。それでも、全体の構成を比較の対象とすれば、宇野氏の書籍は、甲田氏の書籍に比べて、われわれが知るべき(と私が考える)内容に対して、偏りのない理解を与えるものである。宇野氏の文章では、一段落一主題も守られている。なお、面白いことに、哲学という分野においては、科学哲学・政治哲学といった学際的な分野に、なぜか(というか、これ自体が考究の対象になるはずであるが)、段落書きを徹底する著作者が多く分布しているように見える。


なお、本ブログでは何度も繰り返したことであるが、段落書きの有無は、学術研究者としての誠実さ・サービス精神の表れでもある。段落書きしてこなかった学術研究者にとって、この指摘は、消え入りたいものとして感じられるであろう(。なぜなら、段落書きは、読者の利便を増進するものであり、何なら、特定言語において、集合的知性を高めるための社会的装置ともなるためである。これ以上の論証は、本ブログを精査されたい)。私も、研究経歴の半分程度の間、この作法に気付かずに過ごしてしまい、ゴミのような文章を産出してきた以上、人のことをさほど非難できないが、この恥ずかしさに気付けたのは、自身に課したハック志向=エンジニア志向ゆえと思っている。また、気付いてからは、少なくとも周囲の人々に対しては、この作法を積極的に伝授してきたつもりである。段落書きできていない研究者は、所属する研究コミュニティにもそれなりの原因があるのだが、結局のところ、自身の努力不足と怠慢を、世界に向けて、後戻りできない形[2]で、示してしまっているのである。単なる書き損じのみならず、文章の並べ方でさえも批判の対象となるとは、現代は、真に面倒な時代ではある。けれども、言語集団としての日本語話者たちの生き残りを思いやるのであれば、これくらいの配慮は、書き手に当然求められるエチケットである。わが国の多くの「文系」の研究者は、ともすれば、情報流通業者に堕しがちなどと揶揄されるが、文章作法までを劣化コピーするとすれば、彼らは、社会防衛主義的な見地からすれば、真に罪深い存在というほかなかろう。

ところで、多くの個人は、人生を送る中、何かを契機として、死と向き合うことになろうが、その作業は、私を含め、結構な数の人々にとって、難事というべきであろう。この困難に対して、単独で立ち向かうことは、普通の人に可能であろうか。私たちは、この災難を何らかの方法でやり過ごさねば、どうにもならずに、死(とそれまでの生)がもたらす恐怖と不安に、囚われてしまうことになろう。また、愛する人を事故や事件や災害などで失った人は、何年経過しても、救われない気持ちとともに生きていくことになりかねない(。最近の私は、一人でいることの恐怖に立ち向かいかねた挙げ句、周囲の人々をも、この種の恐怖に直面させるような言動を重ねてしまっている。私自身は、相手にもよるが、私をその人の人生に組み入れ直すことにより、この巻添え被害を埋合せできるものと信じている。また、そうして欲しいと願っているのであるが)。

死に向き合うという困難は、究極的には、死ぬまでの間、その人が単独で向き合うしかないものであるが、しかし同時に、世の中には、この至上の恐怖・不安に向き合うための知恵が用意されている。たとえば、この困難に向き合うために、本稿でも触れたような、宗教の役割がある。保守思想は、この宗教や家庭の役目を重んじることができる。たとえば、キリスト教は、この困難を超えるために、父である神がひとり子であるイエス・キリストをあなたの元に遣わしたと説明する。保守主義からいえば、人生の困難を乗り越える上で、個人は、他人に重大な脅威を与えない限りは、宗教の助力を得ても全然構わないのである(。私個人は、特定の宗教の信仰を避けてきており、この点、具体的な宗教への勧誘は、意図していない。また、ここら辺の知識への投資は、不足気味であり、正確性すら保証しかねる。死に向き合う困難と対峙した(初期)近代の哲学者には、キルケゴールやハイデガーやニーチェがいるように思うが、この中で、ニーチェの主張は、私にはあんまりなものに思えてしまう。結局のところ、彼自身が自分の主張に押し潰されてしまったかのように見えてしまうからでもある)。


このとき、かなりの強引な展開だと自覚はするが、段落書きという切り口によっても、死に向き合うことの難しさは、明らかにすることができる。それは、西部邁氏の自死である。私は、『保守の真髄』(講談社現代新書, 2017年12月20日)を読み、西部氏の行動を評価しないようになった。なんと勿体なく、社会に迷惑を掛ける決定を下したのか、と思ったのである。正確には、その幇助者を通じてであるが。西部氏は、(一応、同氏の記述を尊重して、このように表現するが、)自死の過程において、覚悟の定まらない人物2名を相棒として選択したが、この決定は、結果的には、幇助者たちをしてイエスを知らないと三度述べたペテロのように振舞わせ、貴重な警察力を無駄にして、遺族を悲しませたり疑いの対象と見做すような報道によって、二次被害を生じた。『保守の真髄』は、長女に聞き書きさせたものである〔pp.10-11, pp.264-265〕が、それゆえか、私の中では、最も段落読みできるものとして感じられたのである。保守の真髄を実現する方法が「漸進改良主義」=「フェビアン主義」=「(カール・ポパーのいう)ピースミール工学」であるとするなら、同書は、西部氏が将来にわたり、読者に対して、より良質の書籍を供給できたはずの証拠として採用できよう。この事実にリアルタイムで私が気付かなかったことは、本ブログの座敷牢的性格ゆえに、結果に対して影響を及ぼさなかったはずであると断定できよう。しかし他方で、世の中のAチーム系学者に連なる編集者の一人でも、私の指摘したような評価を西部氏に与えることができていたならば、果たして何が起こったのであろうかとも、私は考えてしまうのである。私のポリシーの一つは、「勿体ない」と「リサイクル」であり、これは、明らかに、Bチーム的な理念・志向である。それでも、周囲の人たちの助力を仰いだ結果、西部氏の最後の業績がより良いものに進化したことを思えば、逮捕された人物たちは、なんと勿体ないことへの手助けをしたのか。私は、このように結論せざるを得ないのである(。中身そのものについては、結構な異論を感じるが、それにしてもである)。私は、だからこそ、自死なり自殺なりを容認しない。人は、生きている限り、何をなし得るのか分からないからである(。当然、殺人なり傷害致死なりも容認しない)。


※1 ただし、筒井氏の書籍の大澤真幸氏による解説は、「わかる人にだけわかる」と題されているだけあって、おそろしく人を躓かせるものに仕上がっている。良心と名声の双方を備えるキリスト者は、自らの宗教を大事に思うのであれば、大澤氏の記述の欠落を指摘して、それを悪意によるものか、無知によるものか、いずれかであるのか、と迫るべきであろう。私は、陰謀論者としての良心にかけて、この欠落の存在および攻め方を指南したことにより、自らの任を終えたものと思う。これ以上具体的に指南するには、私にも準備が必要である。また、ここら辺の考察は、私の実存と陰謀論者としての思索の双方に利益をもたらすが、この分野は、私の専門とは言えない。このために、誰にでも大澤氏に対する反論の機会が開かれているとしておいた方が、健全な競争と批判が生まれ、結果として、私のここでの指摘も、利益を得ると思うところである。

※2 ここでの表現は、キルケゴール『死にいたる病』[2]における、ヘーゲルに対する批判を利用した。

〔p.84〕

ほんとうに、誤謬のなかにいるということは、まったく非ソクラテス的なことにも、人々がいちばん恐れない事柄なのである。ここの事実を驚くべき程度において明らかにしている驚嘆すべき実例がある。或る思想家が巨大な殿堂を、体系を、全人世と世界史やその他のものを包括する体系を築き上げている――ところが、その思想家の個人的な生活を見てみると、驚くべきことに、彼は自分自身ではこの巨大な、高い丸天井のついた御殿に住まないで、かたわらの物置き小屋か犬小屋か、あるいは、せいぜい門番小屋に住んでいるという、実に恐るべくもまた笑うべきことが発見されるのである。たった一言でもこの矛盾に気づかせるようなことを言おうものなら、彼は感情を害することであろう。なぜかというに、体系さえちゃんと出来上がりさえすれば――それは誤謬のなかにいるおかげでできるわけなのだ――、彼は誤謬のなかにいることなど恐れはしないからである。

※3 もっとも、私からすれば、野内氏の論考は、咲く勢いがあってこそ散り際の儚さを感じられるという桜(ソメイヨシノ)についての考察が、人間一般に対する生と死の対比や無常観に係る記述に、十分に生かされていないように思えてしまう。その原因として、日本列島において生きることが相対的に容易であったという事実、その容易さが死に対する儚さを愛でるという姿勢を可能にしたという、和辻哲郎氏が指摘したような観点が、野内氏の論考では、見逃されていないであろうか。相対的に恵まれた生があってこそ、死の儚さに思いを致す余裕が生じるのではないか私は思う。また、、私生活において、他者がこの余裕を有しているのかどうかを考慮しなかったのではないかと、今更ながら後悔しているのである。


[1] 野内良三, (2008.8).『偶然を生きる思想:「日本の情」と「西洋の理」』(NHKブックス 1118), 東京: 日本放送出版協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/000009491566
#同書は、冒頭のエッセイ風に見える部分まで、しっかり段落読みができるように作り込まれた文章である。

[2] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480082581/
#アマゾンへのリンクであるが、アフィリエイトはない。

〔p.138〕

〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。〔…略…〕それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。弱さの絶望者は、永遠が自分にとってどのような慰めをもっているかについて、まるで耳をかそうとしないが、このような絶望者も、それに耳をかたむけようとしない。しかしその理由は違っている。後者は、全人世に対する抗議なのであるから、そのような慰めは、まさに彼の破滅となるだろうからなのである。比喩的に言えば、それは或る著作家がうっかり書きそこないをし、その書きそこないが自分を書きそこないとして意識するにいたった場合のようなものである――けれども、実をいえば、それはおそらく誤りなのではなくて、はるかに高い意味では、全体の叙述の本質的な一部をなすものであったかもしれないのである――そこで、この書きそこないは、著者に反逆を企て、著者に対する憎しみから訂正をこばみ、狂気のような反抗をしながら著者に向かってこう言うようなものである。いや、おれは消してもらいたくない、おれはおまえを反証する証人として、おまえが平凡な作家であるということの証人として、ここに立っていたいのだ、と。




2018年7月27日14時32分訂正

一部の文言を訂正した。

2018年6月23日土曜日

(一言)かなりの文章は段落書きできたりする

#本ブログでは私事を公開すべきではないのかも知れないが、座敷牢のような環境ゆえ、構わなかろう。

ここ一ヵ月あまり、私は、断続的に、普通の人なら段落書きしないであろう種類の文章を、段落書き※1しつつ推敲していた。この作業は、自分にとっての謎を解くためのものでもあり、自身の生き方を定めるために必要なものでもあった。抽象的なことしか書けないが、この作業引き起こ結果は、私の現時点の道の行先を、間違いなく決めることになる。ただおそらく、私の望まない方向へと話は進み、本ブログは、めでたくも?低空飛行を再び続けることになるのであろう。私は、周囲の方々と呼んで良いものかは分かりかねるが、ともかく、自分以外の他者に余分な迷惑を掛けることを申し訳なく思いつつ、自ら望んで、この作業を進めてきた。また、私は、望まない展開を迎えることになることを恐れながらも、そのような展開を強く予期してもいて、その結果を引き受けなければならないことを、悲しみながらも理性を保ちながら覚悟しようと努めている。

この作業経験を通じて、私は、色々な文章が段落書きできるのではないかという確信を、ますます深めることとなった。本ブログの他記事のように、今までも、私が表現しようとする内容は、複数の意味合いを同時に含むものが多かった。しかし、今回の作業は、とりわけ、両義的な内容を正確に表現することが求められるものであった。この点、平木典子氏の『アサーションの心 自分も相手も大切にするコミュニケーション』(朝日新聞出版、2015年4月25日)は、段落書きされてはいないが、非常に参考になる書籍ではあった。アサーションとは、自分も相手も独立した人格であることを心の底から認め、自身の権利も相手の権利も尊重する姿勢を根本に据えた、相手との関係を調整・調停する※2ためのコミュニケーション技法である。自身と相手の両方を大切にする姿勢は、アサーティヴという形容詞で表現される。私がこの状態を志向し、葛藤に陥った自分自身の感情を順々に説明しようとした際、段落書きは、とても有用な手段となった。実例は、私事ゆえに挙げることができないが、冒頭の段落で、その一端を示せるように努力してみた次第である。ただ、この考え方をたとえ的確に理解できたにせよ(、そして私は、まだまだなのだが)、上手に相手と心を通わせられるかどうかは、当然、自分だけでなし得ることではない※3

他方、かなりの文章が段落書きできるもので、しかも、段落書きによって文章の意図が損なわれないとすれば、段落書きされていない論文・説明文は、ますます、読み手の利便性を考えていないものであることにもなろう。読者の利便がいかなる要素から構成されるのかを徹底的に考察していないと指摘できる事例として、大澤聡氏らの『教養主義のリハビリテーション』(2018年5月15日、筑摩選書0160)の前文を挙げることができる。この文は、論文の国際的標準にそぐわないレベルである。これを世に問うて恥ともしない彼(ら)が、リーダー・フレンドリーというコンセプトを批判する〔p.15〕ことは、天に唾する振舞いである。段落読みできない文章は、明らかに顧客=読者へのサービス精神に欠ける。自らの能力不足から生じた欠陥を棚に上げ、教養主義の大家(たいか)の口を借りる形で顧客重視の姿勢までを批判することは、ますます、教養主義を笠に着る連中への憎悪を煽ることになろう。


おまけ;もはや研究者と呼べない今の私にとって、ある知識の重要性は、その知識の新規性には左右されない。陰謀論者の指摘する事柄は、大抵、ある人々から※4見れば、枯れた知識と呼べるものである。それでもなお、現代社会の実相を理解しようと志す研究者は、陰謀論と呼ばれる種類の主張の含みを、一度は真剣に検証し、自身の進む道を選び取る必要がある。この作業を経た上でも、イヌの道に進むという選択肢は、十分にあり得よう。現在のわが国は、働かざる者食うべからずの意味を狭く捉えがちであって、イヌの道は、私だけでなく多くの他人が羨むような、カネと栄達を同時にもたらすのだから。この主張の反面、本稿を含めた本ブログでの作業は、知識産業の亜種としても評価されるものではない。ただ、そのことを最初から予測していたからこそ、このブログそのものは、マネタイズしないのである。


※1 念のため、段落書きとは、パラグラフ・ライティング(paragraph writing)の訳語で、一段落一主題、主文(トピック・センテンス、ヘッド・センテンス)に段落を要約した文を置き、残りの段落内の文で話題を無駄なく漏れなく構成する書き方である。このように文章を組むと、読者は、段落頭の文だけを拾い読みしても、文章全体の大枠をつかむことができる。この技法について触れた日本語書籍は、次第に増えつつある。ただ、ある言語における読者の利便という集合的利益の観点から、この段落書きを書き手に求めるよう強く主張する人々は、相対的に多くはなさそうである。

※2 前掲の平木氏の著書の内容そのものは、自身の最近の複数の体験を通じた限りでは、ツボを押さえたものである。社会生活において、自身に沸き起こる複数の葛藤する感情を余すところなく表現することは、なかなか難しい。しかし、素直に感情を表現することを自身に許し、その上で自身の発言に対して責任を持つという考え方は、この難しさをかなりの程度まで軽減してくれる。段落書きは、このような両義的な葛藤を通り良く表現していく上で、大変便利な執筆技法である。

※3 この考え方は、80年代以降の構築主義やその前段階に当たるラベリング理論で示されてきたものであるし、現代のセキュリティ研究を貫く主題でもあるので、このように主張しても構わないであろう。両者の願いに葛藤があるような場面での対面的コミュニケーションについては、相手もそうしてくれるという相互尊重への期待があればこそ、繊細な表現も可能となる。ただ現実に、今日(2018年6月23日)の私は、その域まで達することができずに、周りにご迷惑を重ねてお掛けしてしまった。本稿は、このお詫びをお届けしたい方々が辿り着かないであろうこの辺境の地において、お詫びを永久保存するためにも編まれたものである。

※4 少なくとも近世から現在まで、人類の大多数を抑圧してきた社会構造と、これを運用するための勘所は、ある地位の人物たちにとっては、自明とも呼べる知識であろう。しかし同時に、この知識があまねく人々に解説され、得心されなければ、いわゆる99%の人々は、団結することなく同類相食むだけに終わるであろう。人間の本性には、同胞意識と利己性が同時に備わる。この両義性は、圧政的な社会構造に進んで奉仕し、学者としての倫理に悖る行動によってでも立身出世を求めるイヌたちを産むという危険を現にもたらしている。ここ半年ほど、とみに陰謀論の語を脈絡なく・必然性なく用いるニューフェイスが増加しているのは、現在がエージェントの世代交代の時期に当たるためであろう。




平成30年6月24日訂正

大意は変えていない。訂正部分を淡赤色で示した。