ラベル 両建て構造 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 両建て構造 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年7月21日土曜日

(書評)今秋の自民党総裁選に係る偶然?の一致について

今朝(2018年7月21日)の『日本経済新聞』4面(13版総合3)は、「自民党総裁選へ号砲/首相「憲法改正、大きな争点」/国会が事実上閉幕」という記事で、(言及した順に)安倍晋三・石破茂・岸田文雄の三氏の動向を解説しているが、これに先立つ『文春オンライン』[1]と『プレジデントオンライン』[2]の記事は、石破氏と小泉進次郎氏の両名が共闘することで、小泉純一郎氏が総裁の座を射止めたときのような逆転劇が起こるのでは、と示唆している。私から見れば、石破氏と進次郎氏の政策体系は、安倍氏のものとさほど変わらない。経済については、石破氏は、4月、持続可能性を考慮しながら、徐々に経済政策を変更する、と述べている[3]に留まる。憲法改正に係る内容とタイミングについて、石破氏と安倍氏には、相違点が見られるようであるが、本稿では立ち入らない。進次郎氏は、父親とは異なり、原発に対する明確な反対を表明するには至っていないし、石破氏も安倍氏も、原発賛成である。現時点のわが国の安全保障を考慮する上で、とりわけ、ロシア国防省特別管理局長のイーゴリ・トカレフ大佐が核実験を誤魔化す方法に言及している[4]現在では、プルトニウム爆弾の材料となり得る核燃料物質を国内に確保できるという点において、原発賛成・反対以外の差は、些事というべきでもあろう。

面白いのは、佐々淳行氏が『私を通りすぎた政治家たち』(2014年08月30日、文藝春秋)[5]において、将来に期待する政治家(ステイツマン)として、安倍氏・石破氏・進次郎氏の三名を挙げているところである。佐々氏は、同書において、原発ゼロを唱える純一郎氏について、晩節を汚すものと評価している〔pp.79-80〕。表向きゴリゴリのタカ派と呼べそうな元・高級官僚である佐々氏を、仮に、両建てのいずれに区分するかを考えれば、当然、Aチームとなろう。この佐々氏がステイツマン、すなわち「権力に付随する責任を自覚している人」〔p.8〕として推奨するのが、石破茂・安倍晋三・小泉進次郎・橋下徹・長島昭久の五氏である〔p.273の章扉の上から順〕。ここに見る一致は、偶然のものなのか、文藝春秋社の編集担当ラインとの共同作業によるものなのか。決して、佐々氏の見識だけに由来すると断言しないところが、私の見解における最重要点である。

両建て構造を運営する人物らの息のかかったイヌたちが社会の要所を押さえている環境において、政治家としての決定を下さざるを得ない人物は、真に優秀であるならば、この構造を乗りこなすことを前提に、言動を注意深く選び取るものである。佐々氏によれば、加藤紘一氏は、国を潰す種類の政治屋(ポリティシャン)であるそうだが、私には、佐々氏に口を極めて非難されるほどとは思えない(。人格的な非難は、どの人がどの人に対して行うに応じて、第三者からの印象を大きく変えるものである)。加藤氏が防衛庁の参事官会議に初参加したとき、

〔p.108〕

「若いころマルクス・レーニンにかぶれないのは頭が悪い人です。それから六〇を超えてもまだマ〔p.109〕ルクス・レーニンという人はもっと頭の悪い人です」という発言をした。〔…略…〕

という※1。しかし、仮にも佐々氏が、私ほどにゴリゴリの陰謀論者であり、社会に対して両建て構造を乗りこなす術を伝えようとしていたのであれば、加藤紘一氏に対する佐々氏の筆誅のあり方は、随分とマイルドになっていたであろう。というのも、この加藤氏の発言が本当であれば(、また私は、その内実を確認するのが億劫なので、このまま引用部分を信じてみるのだが)、この発言に対して、私なら、「百歩譲って、敵の論理を内在化しておくこと自体は有用であるにしても...」くらいの鷹揚さで、さりげなく加藤氏の発言を誘い受けするものであると匂わせておくからである。直情型の非難を加えることが、果たして、(元)インテリジェンス・オフィサーを自認する人物にとって、また、その経歴自体がわが国のトップ・インテリジェンス・オフィサーならびにトップ・エリート官僚を体現する人物にとって、相応しい振舞いであるのか。私は、佐々氏のこの記述に対して、随分と稚拙なものだなと感じてしまうのである。このように断定的な記述によって、読者に対して、逆に反発心と穿ち読みへの機運を覚えさせることが佐々氏なりの優しさであれば良いが、庶民と呼びうる程度に低い階級の多くの公務員たちは、佐々氏の記述を、容易に読み誤るのではないか。

佐々氏ほどに書けば売れるはずの人物であれば、もう少し、誰が読んでも立ち所に理解できるように、両建てを乗りこなすためのヒントを散りばめるべきであったろう。両建てを乗りこなすことは、日本国民にとって、今でも、相当に遠い目標なのだから。両建てのイヌと見える人々を摘示することは、まま大事ではあるが、普段のマスコミ情報だけでも(、私がまあまあ良く指摘できていると自認するように)、外形的にイヌと見える人々を嗅ぎ分けることは、そこまでは難しくないはずである(し、ほかの陰謀論者と呼べる人々も、それだけの結論に自力で到達していよう)。情報コミュニティの先達・第一人者を自認する人物であれば、そのような些末なアンチョコの類いよりも、より重要な心構え、すなわち、イヌと見える人たちの内心がいかなるものであるのかが、マスコミという情報中間業者の存在ゆえに、庶民にはなかなか読めないことをも指摘し、誰にでも分かるように、現時点のマスコミ=情報流通業者を的確に排除するための知恵を、後進に与えようと努力すべきではないか。ここに指摘するような、情報を取り扱う人物のプリンシプルを教示しようとする努力こそは、ノブレス・オブリージュというものでないか。ただ、ひょっとしてひょっとするとではあるし、私は、佐々氏が自身で訴えたように私費で本業を回す〔p.135〕ことにも賛成しないが、佐々氏は、同書の脱稿以後、私のような三下に非難されることまでを予期しながらも、汚れ仕事に徹しようとしているのかも知れない。しかし、重ねて指摘しておくが、私としては、この書籍を読み解けるだけの人物が、どこにどれだけいることなのやらと、随分と心許なく覚えてしまうのである(。しかも、本稿は、インフラこそ、Google様のおかげで無償で運用できているのであるが、現時点では、一文の得にもならないものである。)。


#なお、すっかり私事めいた記事が続き、申し訳なく思い、本稿を記してみた


[1] 安倍晋三首相の総裁選3選の唯一のリスクは小泉進次郎氏による石破茂氏支持の可能性か|ニフティニュース
(文春オンライン、2018年07月10日23時50分)
https://news.nifty.com/article/item/neta/12113-054764/

  • 安倍首相は出身派閥の細田派、麻生太郎氏の麻生派、二階俊博氏の二階派を固めたという
  • しかし、首相は焦っているらしく、旗幟を鮮明にしない岸田文雄氏に激怒したらしい
  • 首相の総裁選3選のリスクは小泉進次郎氏による石破茂氏支持で、焦りの淵源だという

[2] 安倍総裁3選を阻止するただひとつの方法 | プレジデントオンライン
(プレジデントオンライン編集部、2018年07月16日)
http://president.jp/articles/-/25637?page=3

17年前を知るベテランの自民党関係者の間では「当時の橋本氏と今の安倍氏が似ている」というささやきが漏れる。橋本氏は、永田町内の「数の力」では圧倒的優位に立っていたが、熱狂的な支持はなかった。今の安倍氏も「ほかにいい人がいない」という消極的な支持に支えられている。別に魅力的な選択肢が出れば形勢が一気に変わるかもしれないのだ。〔#記事終〕

[3] 財政・金融政策の激変策は採らない=石破元自民幹事長 | ロイター
(竹本能文、編集:田巻一彦、2018年04月06日15:02)
https://jp.reuters.com/article/ishiba-financial-policy-idJPKCN1HD0KD

自民党の石破茂・元幹事長は6日都内で講演し、「(首相が)石破になると消費税を上げ、金融緩和をやめて、世の中大不況になると言う人がいるが、そのようなことは言っていない。激変するような政策を採って良いとは思っていない」と述べた。政権運営への意欲を示すと同時に、アベノミクスの経済政策に急激なブレーキはかけない意向を示した。

同時に「大胆な金融緩和も機動的財政出動も、未来永劫続くものではない」と述べ、政策の持続可能性を重視した。

[4] 核保有国はどうやって核爆弾の実験を隠しているか 露国防省が明かす - Sputnik 日本
(スプートニク日本、2018年05月11日21:58)
https://jp.sputniknews.com/world/201805114869300/

[5] 佐々淳行, (2014.8). 『私を通りすぎた政治家たち』, 東京: 文藝春秋.
http://id.ndl.go.jp/bib/025647994




2018(平成30)年08月13日追記

※1 加藤紘一氏のマルクス・レーニンへの評価は、ウィンストン・チャーチルによるとされることもある、社会主義に対する金言[1]をもじったものかも知れない。


[1] Unquotes - MarkShirey
(2018年08月13日確認、Mark T. Shirey)
https://sites.google.com/site/markshirey/unquotes
なお、マーク・シェリー氏のブログの存在は、ケイト・カルザース氏のブログ経由[2]で知った(。両名ともカタカナ読みとして正しいか、心許ない)。

[2] Alleged quote by Churchill: on being a socialist or conservative | Aide Memoire
(Kate Carruthers、2005年02月11日)
https://katecarruthers.com/2005/02/alleged-quote-by-churchill-on-being-a-socialist-or-conservative/

2018年7月18日水曜日

(私事)庶民の両建て戦術はマイナス収支となる

はじめに

見出しの主張は、現代の日本社会における庶民の生活に係る黄金則である。少なくとも、私は、そう信じている。「庶民の私生活における両建て戦術」とは、「私生活において、庶民が何か一つの目的を達成しようとするとき、対立的な複数の手段を自らに許すこと」を指す。具体的には、目先のカネのために兼業したり、異性と交遊したいためだけに複数の異性に対して同時に粉を掛けたり、他人様に言えない活動をしながら市民として生活しようとしてみたり、といった内容を念頭に置いている。このような行動は、「選択と集中」という成功則とは真逆に、ブレーキとアクセルを同時に踏むような効果を引き起こし、結局は、個人が何事かを成し遂げる上での妨げになろう。このような無理な生き方に対しては、自らの専門性を高め、正業に邁進するという生き方を対置できるであろう。後者の生き方は、今でも、道が随分と細くなりはしたが、成功への最も分かりやすいコンパスである。要するに、庶民にとっては、「一石二鳥」よりも「二兎を追う者は一兎をも得ず」の方が真実に近いのである。

最近では、何でもお金になることを引き受けるという「百姓」がもてはやされたりもするが、はっきり言えば、この生き方は、「追い込まれたがゆえに採らざるを得ない」、いわば、「貧乏農場」組の受動的な生き方である。ここ15年ほどの私の経歴も、この「個人の両建て戦術」とも言える生き方に含まれるものである。私は、シングルタスクをようやくこなせる程度(せいぜい2ビット・2軸の両建て)の能力しか持たないために、この生き方のデメリットに十分苦しめられてきた。持たざる者・機会に恵まれぬ者ほど、そうでない者に比べて、特段の努力を求められることになるが、何にでも低い報酬で手を出すという方法が次善の策でしかないことは、さほど、理解されていないものと見える

今回は、私の思い人に対して自分の考えを訴えるという私事を目的としながらも※1、このデメリットを、とりとめなく考察してみよう。


兼業という「両建て」的働き方のデメリット

生計手段について、同じ所得の専業者と兼業者を比較すると、兼業者に同額の所得機会がそもそも用意されているかどうかはさておき、専業者の方が楽できるし、ワーク・ライフ・バランスの実現も容易であるが、このことは、投資という副業ひとつ取ってみても明らかになることである。基本的に、個人にとって、あらゆる投資は、全く甘くない※2。株式取引の収支は、朝の寄付(8:00~9:00)と午後の寄付(12:10~12:30)までの時間を十全なネット取引環境の前で過ごすことができなければ、個人のお小遣いがマイナスへと転化する程度には悪化するであろう。このとき、非正規よりも正規労働者は、時間の調整が総じて簡単であり、結果としてお小遣い稼ぎし易い(。少なくとも体験的には正しいし、就業時間内に株や先物やFXにのめりすぎて懲戒処分を受けている公務員は、大体が正規職員のようである)。日足チャートで稼ぐ方法は、複数の著者が考案・提示しているし、テクニカルな方法の中では真っ当な稼ぎ方で、誰でも真似できそうだとも評価できるが、それでも、安定した正業=専業があってこそ、この方法を採用する気になれるというものであろう。それに何より、正社員の方が重要な仕事を任される分、インサイダーになり得る機会も多かろう。

この経済的な本業は、従来の日本株式会社の従業員たち、特に男性たちに対して、個人のアイデンティティを付与する主要な柱ともなってきた。この一方で、結婚することで専業主婦となった女性たちは、パートナーの影とはされた。しかしながら、彼女たちが主婦という安定的なアイデンティティを獲得し、その属性を受け入れて、(料理や芸事に係る)多彩な文化・社会的活動を展開してきたことも、否定できない事実である。他面、これらのレールから外れてしまった人たちに対して、わが国の社会は、消えた年金問題に代表されるように、昔から冷たい扱いをなしてきたし、この差別的な扱いを放置してきた。家族制度に対する通念は、家族の問題は家族で処理するようにとの社会的同調圧力を通じて、この差別を肯定し、強化してきた。

複数の職場に勤務した経験のある社会人なら、事務手続にハウスルールがあり、それらを覚えて間違いなくこなすことが、職場の人間関係をやり過ごす上で非常に重要な儀式となることを、必ずや学んでいるであろう。派遣社員の方々に対しては、この点、本当に尊敬の念を覚えるばかりである。正社員と同等以上の感情労働に従事させられる上、給与は少なく、しかも派遣先が変わる度に覚えたハウスルールが無駄になってしまうのであるから。私は、なぜハウスルールがこうなのかと考えてしまい、前の職場とも比較してしまったりもして、結局、宮仕えが難しいものと自分で自分を査定してしまっている(。大学なら大学で、完全に手続を標準化できるはずだし、そうすべきであると考えているのは、私だけなのであろうか。旅費システム・経理システムも、全国的に整備できて当然である)。

基本的に、今現在の日本社会においても、個人は、働き方が専業的であれば、本業により良く集中でき、より多くの成果を生み出し、それに見合う高い報酬を得ることができる。このレールが本格的に脱線経路だらけになってしまったのが、90年代後半からの、就職氷河期である。中高年の首切りが慣行化したために、若年者であっても、一旦レールを外れると、個人は、以前よりも相当に高い代価を払うように求められるようになった。この割を大きく食っているのが、私を含む世代であり、近い将来、社会不安を呼び起こすことになるものと予想できる。


独身者という弱者を襲うジレンマ

皮肉なことであるが、個人の力ではどうにもならない環境に置かれた時、他人よりもやる気に優れ、頑張ることに価値を見出し、他人の努力と自身の努力との間に優劣を見てしまう人ほど、無駄に、かつ、悪い方向に努力してしまうという落とし穴に陥りがちである。特に、何らかの理由に駆動されて働かざるを得ないと思い詰めたとき、その個人は、自身の能力の許す限り、何にでも手を染めてしまうものである。犯罪であれ、合法的だが個人の尊厳を損なう行為であれ、である。いったんこの悪循環に陥ると、当初こそ合法的であれども、やがては犯罪者・元犯罪者が一丁出来上がることになる。

しかし、その個人が周囲の人たちを頼るという選択肢を顧みないことは、1足す1が2を超えるというケミストリーの力を信じないもので、いかにも勿体ないことである。人は、思いやる相手がいてこそ、自身を律することができるし、高いパフォーマンスを叩き出せるようになり、その状態を維持できる。性犯罪者にこそ該当しない話のようであ(り、わが国では、私のような境遇では利用できないデータには、検証可能そうなものが含まれるようであ)るが、妻帯者は、基本的に、社会的プロファイリングにおいて、犯罪傾向が小さなものと扱われがちのようである。この定性的な偏見は、たとえば職務質問を行うか否かに当たっての警察官の判断を通じて、社会的な相互作用として形成・強化されるものである。

しかし、社会には、このような二人の関係を作りにくい状況に陥った人たちも、厳然として存在する。彼らへの手当は、ほかの個人全人的な関わりを通じて助けにくいものである以上、社会全体の課題である。例えば、シングルマザーは、私のような、寂しい中年独身男性から見ても選びにくいという点で、周囲に助けを求めることの難しい存在の典型例である。彼女らと子どもたちを喜んで助けるような男性は、なかなか求めても得られにくい存在であろう。しかしながら、ここでの私の記述は、私事ゆえに、彼女らを直接のターゲットにはしていない(はずである)ので、これで言及を止めることにする。それに、老親と同居する独身中年たちも、この範疇に含められようが、経済的には回っていると見做されちなゆえに、社会的には、低い優先順位でしか対応されていない。

付言しておくと、わが国に広範に存在する独身者の問題は、実のところ、社会関係の全般的な交流の機会が少ないために生じているのではないか。昨今流行の形式であれば、私には、婚活は無理である。婚活は、何より、双方の両親と当事者たちとの問題を直接には解決しない。パラサイト・シングルの結婚問題は、本来、分かりやすく、しかも、経済的には解決が可能そうなものである。体験的な見聞を元にすれば、彼らの問題点は、寄宿先である親と経済的に共依存的で、かつ、他の家庭との親密なコミュニケーションを取らない関係にあるがゆえに、同じ地区内に多数の類似した境遇の独身者がいるにもかかわらず、カップリングに成功しにくいという点にあるものと認められる。双方の両親とも介助者を必要としており、立派な住宅が二軒あるのに、それらの社会的資源は、もったいない使われ方をしているのである。この問題がなければ、パラサイト・シングルの問題は、伝統的な嫁姑問題に帰結する(。ただし、現時点では、舅婿問題の方が相対的に問題化しているかも知れない。嫁姑問題は、姑が開明的になり、嫁が働きに出なければならないので、多少は、軽減されているのではないか。他方で、親世代が正社員幻想に囚われている限り、婿の不安定な社会的身分は、かなりのトラブルの元になる)。

私は、今の身分となってから、独身中年男性・女性たちが両親たちと同居しながら独立を望めない収入で暮らしていることを、時折、耳にするようになった。同じような傷がなければ、日本の家庭は、その弱みを他者と分かち合うことができないものと思い込んでいるようである。繰り返すが、これは、いかにも勿体ないことである。リサイクルの仕方次第では、私のようなポンコツも、もう少し、他人様の役に立つような努力へと、リソースを振り向けることができそうに思えるからである。もっとも、私が次を考えるのは、今を何とか生き延びてからのことである。


脱線;キルケゴールにみる絶望の三形態

ところで、現時点の私の絶望は、私の思い人を今の状況から連れ出すことのできない無力な自分に向き合いたくない、という心情から生じたものであるが、この心境は、ゾンビものを貫くテーマに良く合致する。私が自身をゾンビに模すのは、私の思い人を私同様の心の弱った状態に引き摺り下ろした上で、私の理解に感染させてしまいたいと願っているからである。この心情は、自分の状態にまで相手を貶めたいと願う点で、ニーチェのいうルサンチマンであり、この見方は、ゾンビ研究の共通理解となっているようである。しかし、一旦、一人きりでは限界があるという弱さを受け入れれば、われわれ人間は、逆に、一人でいたときよりも強く生きることが可能となる。ゾンビは、常に、大群(hoards)を作る傾向を有するが、この特性は、数は力なりという主張を含む点で、人権という理念に基づき平等・公正を求める人間というモチーフを潜ませたものでもある。ゾンビという表象を扱う表現者は、ニーチェの言うことを受け入れた上で、しばしば、ゾンビであることにも一定の救いがあることを示唆するものである。これに対して、ゾンビものにおけるサバイバーたちは、しばしば絶望し、仲間割れし、結局はつまらない死を迎えていたりする。ゾンビものにおけるサバイバーたちは、いかに死ぬかを張り合ってみせるという点で、本来の仲間内で、競争的存在・修羅(道に墜ちた亡者)としていがみ合うのである。

私の絶望は、自分自身ではどうしようもない現実を認識しつつも、自分にできる努力を放棄したという点において、低レベルのものである。キルケゴール『死に至る病』は、絶望の中身を3段階に分けている。1「自分が自己を持っていることを自覚していないままに、絶望している状態」、2「自分が自己を持つことを自覚しつつ、絶望のあまり、自分自身であろうと欲さない状態」、3「絶望しながら、自分自身を保とうとする状態」として、3番目を(神への)反抗であると述べる。当時の男尊女卑の風潮を反映して、キルケゴールは、1番目を婦女子の絶望、2番目を男性の絶望と定義しているが、私に言わせれば、私が好きになってしまう人たちは、女性であろうが、3番目の「反抗」反逆を生きているように見えるのである(参考文献[1]に、該当部分を引用した)。

私は、私の思い人の自助努力が、その人自身にとって悪しき結末をもたらすとともに、私の言葉が呪いとなってかの人を苦しめるものと予測する。かの人の長所は、常人では耐えられないような両面的な生活を、取り続けてきたことにもある。この一方で、その人並み外れた努力の結果、かの人に報いる人がいなくなるという逆説的な状態が存在し得ること、その努力の成果が遠い将来に不当な形で奪い去られる可能性があることを、私は危惧する。もっと言えば、私は、かの人の心に呪いを刻むことになることを、重々承知の上で、この不吉な予言を発している。私が側にいようがいるまいが、かの人は、私の悪しき祝福とともに、そのときが来るまで、将来を歩まねばならないのである。ただ同時に、私は、思い人に対して、社会的には死んだかのような小さき私も使い方次第で活かしようがあることを、何度も訴えてきたつもりである。この私の指摘は、かの人に対してダブルバインドとして機能するが、両建ての方法を悪用した以上、私自身への刻印ともなるものである。


クリエイティブな仕事における集中の必要性

一人の作家・クリエーターが、複数のアイデアを同時並行的に実現・創作できているとすれば、彼ないし彼女は、同業他者に比べても、突出した才能の持ち主であろう。現に、あれだけ競争が激しい少年漫画週刊誌において、このような偉業を達成している人は、ほとんど見られないではないか。やはり、何か軸となるもの(コアコンテンツ)があって初めて、創作物の世界も、消費者の賞賛を受けられる程度に深まるものであろう。

他面、卑近な事例となるが、私は、同時並行的に研究を進めるという無茶振りを受けて、努力はしたことがある。結果は、誰かに聞かれれば述べるに留めたいレベルの黒歴史感で一杯であるし、何より、それらは、公開資料を調べれば分かる話である。凡人は、自身がアイデアを産出すべき研究・創作物を、複数抱え込むべきではなかろうし、マネージャーたる者は、そのような無理を他人に負わせるべきではなかろう。創作や研究という、個人ないし少人数の才能が要求される作業においては、やはり、選択と集中が必須である。その選択を手助けする方法として、異業種・異分野交流が必要なだけではないか。


二重生活という「両建て戦術」の帰結

経済の話よりも突飛になるが、私生活において、庶民がパートナーを両建てするようなことは、大抵の場合、とんでもない結果を引き起こすことになろう。上級国民なら、複数の家庭を持ちながらも、それぞれを同時に幸福にする程度の資産と権力に恵まれているのかも知れないが、私がすぐに思い出せる限り、そのような成功を収めた人々は、工藤美代子氏によって描かれたような笹川良一氏くらい(『悪名の棺』幻冬舎, 2010年10月)であり、少なくとも、そのレベルの名士でなければ、この種の欲望を満たすことが難しいということなのであろう。鈴木智彦氏かの本のいずれかに、7号さんまでいる暴力団(、あるいはヤクザの)組長がいるみたいな話があった覚えもなくもないが、まあ、例外的ケースであろう。元東京地検特捜部長の石川達紘弁護士(当時78歳)の引き起こした今年2月18日の死亡交通事故は、図らずも、私の主張を強烈に肯定してしまうケースである(が、このことは、例によって、『朝日新聞』では報じられず[2]、週刊誌メディア[3][4]が明らかにしているところである)。

二重(多重)生活のために嘘を吐き続けることは、基本的には、無理である。いずれは、他者にバレることになる小嘘を吐き続けることになり、自身への嫌悪感を高めるという副作用まで引き起こす。小嘘を吐く理由が不倫であろうが、ほかの理由であろうが、案外、周りの人々は、小嘘を吐く人の話のどこが嘘であるのか、場合によっては、隠したい秘密が何であるのかまでを、まあまあ正しく、勘付いているものである。結局、自身の生活の平穏を他者にも尊重してもらうためには、正直が一番ということになる。両建て生活というものは、基本的に、庶民には、無理なことなのである。

(ここに記すことが適当かどうか、一応悩んだが、)私の思い人が自炊していると述べたことは、事実の半分を述べたものであろう。本当のところは、休みのときに、という程度ではないか。外食続きは、体調を崩す要因となり得るし、一時間半の余裕では、外食しか選択肢がなかろう。このことを問い質し、私の推測の正確性を確認してもみたいが、これもまた、叶わぬことなのであろう。

複数の異性を同時に愛してしまうというシチュエーションは、古今東西の名作に限らず、時代が変わろうとも、人類にとって、定番の題材であり続けるであろう。今は、メンタル面で申し分のないイケメンが、モテを堪能する作品が人気を有するようである。これに対して、『源氏物語』は、モテ男が悲しい性を持て余す様子までを描き切る点で、読み継がれるに値する完成度を誇ると言えよう(。オッサンであっても、高校生までの勉強は、まだまだ必要なものである)。この一方で、心にハンデを負っている非モテは、基本、一人の異性を求めるのが常道であって、それ以上を求めるべきではなかろう。


人間としてのコア・コンピタンスへの投資こそが将来を拓く

独自性や創造性が必要となる分野において、選択と集中が必須であるとすれば、将来、個人に何より必要となる作業は、競争相手となる他者に負けることなく、当の他者と協力可能な人間的魅力と、人間性から分離できない種類の才能を向上させること、の二本立てになろう。今後、第一次産業・第二次産業のほぼ全ては、人間とロボットの共同作業となり、かなりの部分で自動化が達成されよう。このとき、人間としてのコア・コンピタンスに対して、集中的に投資することこそが重要である。「ロボットを使いこなすこと」は大事であろうが、「ロボットでもできること」「誰でもできること」に何らかの専門的なリソースを割くことは、逆ザヤにもなろう。今後の技能実習制度は、農作業ロボットの使いこなし方を指導し、応用に係るノウハウを伝授するというものになろう。漫然と安価で使い捨て可能な労働力を求めてきた現今の制度のあり方は、使用者の側に、根本的な変革を強いるものになろう。第二次産業における技能実習制度の実態は、すでにそうなっているものと予想するが、日本人と同じ働きを海外工場でこなせる人材を育成するという性格を、ますます強めることになるであろう。つまり、全産業の自動化は、本来の理想へと近いあり方へと、技能実習制度の実際を変容させることになろう。

人間を相手にする感情労働の場も、自動化によって、あり方が変容することもあろう。例えば、現在、私たちは、企業のカスタマーサービスに電話するとき、冒頭の自動音声応答そのものに対して腹を立てることはしない。一部の不心得者を除けば、電話口で録音しているとの通知も、問題視しないであろう。これは、私たちの大半がこの制度を、セキュリティの名の下に、感情的にも受容しているからである。他方で、現在の販売現場では、過剰な感情労働が要求されている。デパートで気分を害されるようなつっけんどんな対応をされれば、私たちは、違和感を覚えるであろう。しかし他方で、過当競争のためにフランチャイジーのオーナーという中間的存在がこのようにせざるを得ない状況を強化しているにしても、コンビニですべての店員さんたちに私たちが笑顔を要求することは、適切な振舞いなのであろうか。レジ・決済代行機能や、万引き防止・警備システムが使いやすい形で全自動化され、コンビニ店員さんたちに配慮する必要がなくなったとき、私たちは、案外、全自動化されたコンビニの方を気楽なものだと思ってしまわないだろうか。とりわけ、それが正月・お盆や深夜など、私たちが少しばかり申し訳ないと思いながらも利用するような時間帯であれば、尚更である。これもまた、性的な搾取やセクハラにもなりかねない話であるが、例えば、成人向け書籍や避妊具を購入する際、オッサンたちなら、店員の人となりに応じて、購入を決断しているのではなかろうか。

これらの現実を考慮するとき、究極の感情労働である性風俗産業の一部がセクソロイドによって代替されることもまた必然であるし、社会防衛主義者なら、希少な社会的資源である女性や若者たちを徹底活用する方策を、間違いなく模索するであろう。このとき、必要悪として容認されてきた性風俗産業のあり方もまた、「最小限度の業界規模」という理念に限りなく接近するように要求されよう。前稿(2018年6月30日)でも前振りしたが、理念的には、性風俗産業は、商売相手の固定制という究極のディストピア的な理念を導入すれば、限りなく最適化することもできる。戦闘的=破壊的=国際秘密力集団的な自称フェミニスト(、内実は利己主義者・新自由主義者)が指弾するように、結婚という制度が限りなく固定化された売春制度であるとするならば、なぜ、売春制度が限りなく固定化されてはいけないのか。性感染症の問題も限定的となり、常に両者の要求が満たされることを期待できるのに?私の指摘で見過ごされていると反論されるであろうことは、売春側の経済的要求であるが、これは、経済的要求である以上、個人破産の要件を限りなく緩和化すれば十分であり、この問題こそが問題の根にある。この点、宇都宮健児氏の業績を、私は、非常に尊敬しているとも付け加えておく。なぜ、私がわざわざこのように言及するのかと言えば、政治的立場と経済的立場は、本来、自由な組合せがあり得ることを、指摘したいがためである。つまり、健全な性風俗環境の形成(=性風俗営業の撲滅)は、党派を超えて協調可能なアジェンダともなり得る一方で、常に、リベラルの側にも、獅子身中の虫がいることを指摘したいがためである

なお、私が生業としてきた犯罪予防という研究分野は、今後を生き抜く上で必要とされる才能の裏返しと呼べるもので(しかなく)、慎重な運用が必要とされるもの(の割に、わが国では、追究することが報われないもの)である。犯罪予防の要諦は、人の嫌がることを、その人の身になって考えることに尽きる※4。人の嫌がることを突き詰めていくと、ニーチェが警告したように「深淵を覗き込む」ことになる。深淵を真直ぐに覗き込んだ挙げ句に戻って来られなくなることは、サイコパスの精神鑑定に立ち会うことなどせずとも、十分に可能なことである。そうでなければ、精神鑑定の必要な人物が重大犯罪を敢行した後に初めて精神科医のお世話になるというサイクルは、どうして成立し得るのであろうか。人が死ななければ理解しようともしないわが国の社会は、かくして、私の本業であったような、成果が目に見えにくい働きを、不釣り合いなまでに軽視するのである。同業者である研究者までもが、このような態度を日常化しており、挙げ句に、研究者を管轄する省の局長が裏口入学を堂々と要求できるのであるから、まあ、おめでたいことである(。なお、本件は、現在進行中の権力闘争の一環であるから、文科省を入口としながら、政体の中枢へと触手を伸ばす種類の動きを見せることになろう)。


私の思い人は、私には、個人的な「両建て戦術」を良しとして過剰な努力を費やしてきたと見えるが、この助言を受け入れ、私をも受け入れることのメリットを理解し、行動してくれるのであろうか。理解してくれることまでは、私も信じているのであるが。ただ、かの人は、誰にも相手をされない卑小な私がお願いしているにせよ、話をして欲しいという私の願いを無視し続けてきた。私の思い人は、薄々であるかも知れないが、無視するという決定自体、かの人にとってのリスクとなることを理解してもいよう。ただ、私を無視する実績を重ね続けたとき、かの人は、将来、自分を誇りにできるのであろうか。かの人は、私の期待だけではなく、かの人を大切に思う周囲の人の期待を裏切り続けていることにもなるが、その事実に耐えながら生きることは、案外と辛いものであろう。私自身、20代を相当に無駄と言える形で過ごしてきたことを、常に後悔しながら生きてきている


おわりに

本稿では、良く言えばオムニバス式に、庶民に相応しい振舞いが、両建てによらないものであることを確認した。言い換えれば、一つの得意分野に集中し、一人の愛する人を求めよ、というものである。てんでバラバラな内容であるし、実力不足のままに記したものであるが、仕方ない。これをまとめれば、およそ包括的な生活上の哲学が出来上がるであろうし、私の人生経験は、そのような作業に挑戦する上で、年齢の割には、全く不足気味である。私には、到底、このような作業を一人ではこなせそうにない。だから、かの人にどうか振り向いて欲しいというのが、本稿のオチである。


※1 もちろん、「私事」と銘打ちながらも、公開のブログで本点を考察するのは、それなりの意図がある。私には、公開の場でしか、話を伝えられない人がいるからである。本稿も、オリジナルな内容であり、一応、陰謀論とされる分野の考え方に基づき、何らかの教訓・事実を一般化するという作業をこなしてはいる。しかしそれでも、本記事の目的は、私事の範疇を出ないものである。

私自身の煩悶は、たかが無職に毛が生えた位のオッサンの贅沢な悩みの一つに過ぎない。それでも、記録され続ける世界において、私自身による感情の記録は、わが国のロスジェネの一例として、何らかの爪痕になるものと期待している。この時代の人間には、何事かを成し遂げたい、幸せになりたいという要求が、絶えずメディアを通して注入され続けている。私も、この現代人の例に漏れないが、同時に、二人でいることにより幸せを感じ、一人だけでは望み得ない実力を発揮できることをも主張したいのである。つまり、成功と幸せを同時に獲得する方法として、まずパートナーを得ることのメリットを強く訴えたいと願うあまり、本稿を記そうと思い立ったのである。

※2 その傍証として、ホットな話題であるが、投資信託のパフォーマンスが個人資産の5割でマイナスだとする金融庁の調査を挙げる[5]ことができる。この調査は、金融庁の発表の次週、日経平均がおかしな値動きをしていた最中に、日経[6]が取り上げたことで、業界を震撼させ、ニッセイ基礎研による「そんなことないよ」との波及的な記事も産むに至っている[7]。それに、重み付き平均値ではどうなのかとか、大口個人投資家に対する優遇はどうなのかとか、色々と疑問を指摘することはできよう。これとは別に、この記事をさらに流通させているのが、株式市場でかなりのボラティリティを誇り、デイトレ銘柄として言及されるZUUであったりする[8]ところは、何というやけっぱちな個人投資家への誘いであろうとも思ってしまうところでもある。

私も、その例に漏れないが、金融市場に参加する個人が火傷しない保証はなく、ファンダメンタルズでは日足を説明することは相当に難しいから、本来、このような鉄火場に参入する人物は、名のある金融企業に勤務し、その業界の鉄則を身に付けた上で、コネを活かして立ち回るべきなのであろう。しかし、このようなしっかりした準備の機会のないまま、退職後にこの道に直行する人も多かったのであろう。それが、現今の個人投資家の取引額の低迷につながっているのであろう。日興アセットマネジメントの2016年11月のブログ記事[9]は、日銀ETFが市場を歪めてないことを示すものであるが、中ほどのグラフ「日銀ETF買付開始以降の累積主体別株式売買動向(2010年12月から2016年8月)」では、個人の売買高だけが、マイナス19兆円となっている。この結果は、個人投資家たちが負けて退場したためと見ることも可能である)。

※3 キルケゴールの『死に至る病』[1]の「死んだように生きる」という表現のニュアンスは、訳注に示されている〔pp.255-257〕が、ここでのゾンビの比喩とは、全く異なるものである。キルケゴールの意図は、「死ぬ間際の者のように生きる」「神に迎え入れられんとする者のように生きる」の意味であり、類似概念を探せば、メメント・モリ、『葉隠』の「死ぬ事と見つけたり」になろう。

※4 私は、犯罪予防を一応の専門としてきた。そこではまず、犯罪企図者が考えるであろうことを考える。犯罪企図者は、一般人の嫌うことを考えており、私は、その考えをトレースする。私はまた、犯罪企図者の考え方に基づき、彼らがやられたら嫌なことを考える。その作業を繰り返してきたのである。つまり、私は、人の嫌がることだけを真剣に、かつ、実践しないように、実践できないように、と考え続けてきたのである。


[1] 死にいたる病 (ちくま学芸文庫) | セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎 |本 | 通販 | Amazon
(セーレン・キルケゴール桝田啓三郎〔訳〕, (1849=1996).『死にいたる病』(ちくま学芸文庫), 東京: 筑摩書房.)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480082581/
#何故か、国会図書館に所蔵されていないかの検索結果が帰ってきたので、アフィリエイトがないことが分かる形で、アマゾンへのリンクを張っておいた。

〔p.138〕

〔…略…〕悪魔的な絶望は、絶望して自己自身であろうと欲する、という絶望のうちでもっともその度を強めた形態のものである。この絶望は、ストア哲学者流に自分自身に惚れ込んだり、自己を神格化したりして、自己自身であろうと欲するのでもない。〔…略…〕そうではなくて、この絶望は、人世を憎悪しつつ自己自身であろうと欲するのであり、自分の惨めさのままに自己自身であろうと欲するのである。この絶望は、〔…略…〕反抗のために自己自身であろうと欲するのである。それは自分の自己を、それを措定した力から反抗して引き離そうと欲するのでもない、それは反抗のためにその力に迫り、そ力に挑戦し、悪意をもってその力にしがみついていようと欲するのである――いうまでもないことだが、悪意ある抗議というものは、なによりもまず、その抗議の向けられる相手をしっかりつかまえておくことに留意しなければならぬのである。この絶望は、全人世に対して反逆しながら、全人世に対する反証を、全人世の善意に反対する反証を、握っているつもりでいる。絶望者は自分自身がその反証であると思っており、かつ、彼はそうありたいと欲しているのである。それだから、彼は自己自身であろうと欲し、自分の苦悩をひっさげて全人世に抗議〔p.139〕するために、苦悩に苦しむ自己自身であろうと欲するのである。〔…略…〕

[2] 元東京地検特捜部長が運転する車にはねられ、男性死亡:朝日新聞デジタル
(記名なし、2018年2月18日14時56分)
https://www.asahi.com/articles/ASL2L4Q47L2LUTIL012.html

[3] 20代女性と早朝ゴルフで「暴走ひき殺し」超有名弁護士・78歳の転落(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
(2018年03月15日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54650

[4] 速報・新型レクサスで通行人を轢き殺す――かつてロッキード事件で名を馳せた元鬼検事といた「謎の女性」
(中山桃子、2018年02月21日)
http://tablo.jp/case/news002906.html

銀座に足繁く店に通い、高級クラブをハシゴする悠々自適な生活を送っていたというのだ。前出の社会部記者によると、交通事故を引き起こしたのは早朝7時だが、その日は〝深い仲〟のホステスとゴルフ場に向かう予定だったという。

「現在、石川弁護士は奥さんとは熟年離婚に向けて話し合いをしている最中と聞きましたが...」(前出・社会部記者)

〝老いらくの恋〟に落ちた鬼検事は今後、どのような身の振り方をするのか。

[5] 投資信託の販売会社における比較可能な共通KPIについて
(金融庁総務企画局市場課、2018年06月29日)
https://www.fsa.go.jp/news/30/sonota/20180629-3/20180629-3.html

[6] 投信で損失、個人の半数 金融庁調査  :日本経済新聞
(記名なし、2018年07月04日22:00、日本経済新聞 電子版 )
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32607510U8A700C1EE9000/

[7] 投信購入者の半数が損失!!~銀行での投信販売について:基礎研レター
(ニッセイ基礎研究所、2018年07月13日11時02分JST)
https://www.huffingtonpost.jp/nissei-kisokenkyujyo/investigation-bank_a_23479206/

[8] 投信購入者の半数が損失!!~銀行での投信販売について~- 記事詳細|Infoseekニュース
(ZUU online、2018年7月9日19時50分)
https://news.infoseek.co.jp/article/zuuonline_186946/

[9] No.41 日銀のETF買付から学ぶ株式市場とETF投資(1) ~市場の歪みの検証からわかったこと | コラム もっと知りたいETF | ETF(上場投資信託)|日興アセットマネジメント
(今井幸英、2016年11月17日)
https://www.nikkoam.com/products/etf/column/column41




2018(平成30)年7月19日訂正・追記

適当であるが、内容を追記した。私事に係らない部分の話は、まだまだ、追究しがいがあることなので、別稿を立てるなどしたい気持ちがある。




2018(平成30)年7月21日7時40分訂正・追記

なるべく文の意味を変えないように、文言を訂正・追記した。

2018年7月16日月曜日

(メモ)『ヘーゲル法哲学批判序説』を陰謀論者として読む(1)

まったく、ドイツの歴史が自讃しているのは、歴史の領域でどんな国民もまだやったこともなく、今後も真似することもあるまいと思われるような動きである。すなわち、われわれは近代諸国民と革命を共にしないで、ただ復古だけを共にしたのであった。われわれのところで復古がおこなわれたのは、第一に、他の諸国民があえて革命をおこなったからであり、そして第二に、他の諸国民が反革命の厄にあったからであり、はじめはわが国の支配者たちが恐怖を感じたからであり、次にはわが国の支配者たちが恐怖を感じなかったからである。われわれは、われわれの牧者を先頭に立てて、ついにたった一度だけ自由の社会に加わったのであるが、それは自由の社会のであった。

カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844, 岩波文庫1974年版, 城塚登訳, p.74)は、冒頭のような段落を含むが、このマルクスの記述は、彼自身を稀代の二枚舌と解釈できるようなテクストをほかにも残していることを考慮すれば、何らかの誘い受けであると読めてしまうものである。というのも、その後のわが国は、現に、明治維新という名の王政復古を成し遂げたからである。どこから出版のカネが出ていたのかを考慮すれば、この種のアジテーションは、常に、諸刃の剣として機能する。あらゆる知識・情報は、大破壊を企図する側にも、その抑止を願う側にも、活用可能なものとして開かれている。

明治維新の流血の度合いの少なさは、流血に対する当時の世相のスタンダードを考慮すれば、やはり特殊なケースと考えても良かろう。諸外国に完全な支配を許さなかったこともまた、当時のわが国において、マルクスの知性の水準と同等の集合的知性が発揮された結果と解釈できる。当時の知性と同等の悪知恵を発揮することができれば、わが国もまた、TPP11なり何なりを乗りこなすことができるやも知れない。が、現状では、その時代を見ることが私にも叶うのか否か、甚だ疑わしいことである(。何十年かかることやら、という意味である。念のため)。

私は、(都内に出掛けるのが大変という)現在の住環境を前提に、古典をダラダラ読みつつあるが、その作業を進める度に、陰謀論とされる諸説までを視野に含めて、真剣に過去の書籍を読み解き、その成果を世に問う日本語著者の人数の少なさを感じてしまう。もっとも、ポスト真実時代において、陰謀論を真正面から論じて否定するという方法論が通用しなくなったためか、現在の陰謀論否定論のトレンドは、相当に狭い分野の(歴史学などの)研究実績を梃子として、陰謀論の諸説全てを否定するという、誇大理論の形式を応用するものへと移行したように見える。これは、譬えて言えば、「私は林檎について研究して社会に認められた。林檎は果物であるので、私は(存在もしていない)蜜柑泥棒を許せない。」と主張するかのようなものである。このようなレベルの藁人形論法のおかしさは、真っ当に陰謀論とされる諸説を検証する人々には、とっくにお見通しであろうが、Googleアラートは、まあまあの人数のアホが、マスコミのヨイショに騙されて、この種の誤謬が流通していることを報告してくる。この点、わが国では、(大日本帝国=ナチ連合の衣鉢を引き継いだ)Aチームの方が、陰謀論を道具主義的に利用している分、陰謀論とされがちな諸説の本質に迫る理解を有していると言えよう。他方、2018年現時点のわが国において、Bチーム側マスコミの陰謀論に対する理解は、浅薄で役に立たないものである。両建てを乗りこなす上で、マスコミのヨイショと偏向報道は、明らかな障害である。

2018年7月4日水曜日

(私事)私の内のコントロール欲求

先週、私自身が関知できる程度の周囲では、「ロマンティックな変化」が起こらないように見えた。『週刊ビッグコミック・スピリッツ』の「来れば?ねこ占い屋 週間占いランキング」が明言していたようには、である。しかし、そこはそれ、私は、自身に都合の良い話ならば、ホイホイ信じてしまう性質である。なので、先週、何かが起きたのだろうと肯定的に捉え、その気配を捉えるように心掛けたのである。何しろ、今週号(第39巻第34号、2018年31号))のベンガル族は、「ジレンマが解消される」とのことだし、何より第一位だし。

私は、外部へのコントロール欲求を強く持つが、同時に、自身が及ぼしたいと願う範囲にだけ、自身の影響力が限定されるように、自身を律してきたつもりであった。私は、ここ数年、「社会はこうあるべきだ」(=当為論)とか、事実や理想や予測こそ、述べてはきた。しかし、他者に対して、具体的な行動を求めたつもりはなかった。そう読めるような文言も、本ブログの随所に含まれてはいるが、それらは、基本的に、反語的な表現である。絶対に、こうはならないであろうという予想の元に、自説を補強するための論拠として、ばらまいた餌である。

ところがどっこい、私事に心を囚われてからの私の願いは、際立った頻度で発せられたし、その中身は、いずれも似たり寄ったりの、最大級に欲張りなものであった。しかも、そう願ったゆえに、私が引き起こした結果は、私の思い人のみならず、周囲の人々に対しても、かなりの強烈な記憶を残してしまうような(精神衛生上の)大惨事となってしまった。私に償いようがあるとすれば、その方法は、せいぜい二通りくらいしか思いつかないのであるが、その内の一つである隠棲は、ここまでの話の円環が閉じてからでも可能であるので、もう少しだけ、無視することにした。私には、社会防衛主義的(=社会集団に落ちこぼれを作らず、犯罪やテロなどの不幸を起こさせないため)にも、リベラリズム的(=個々の人物の内面の自由を最大限に実現するという目的を達するため)にも、醜くも足掻き続けることが、社会的にも、個人的にも、最適解に至る道であるように思えて仕方ないのである。この結論は、私にとっては、これでも、物事を突き放して見るという訓練を数十年にわたり重ねてきた成果の集大成のつもりである

私の発話がコントロール欲求の高いものと読めてしまう余地があるとすれば、その理由は、私の予測に不吉なものが多く、しかも、悪い予測ほど当たりがちであるという点に求められよう。カント風の表現による「仮言命令(もし~なら…せよ)」は、ごくごく普通に、人工知能研究やそのベースをなす情報科学全般・統計的手法(因果推論研究)などで利用されているが、しばしば、非人間的な響きを持つし、そのような結果を引き起こす※1ために利用される。他方、人間は、未来を変えられるけれども、場合によっては、このまま事態が進めばこうなる、と予測することしかできなかったりもする。このような不穏な言明は、単なる予測・予想の域を出ないにしても、人によっては、この種の表現を脅すような響き※2を持つものとして受け止めることができよう。例えば、「交通事故を起こす虞が高いのに、何故、飲酒運転をするのか」という言明は、どこまでも正しい指摘であるが、それでも、一部の人間に対しては、家父長主義的な警告(=余計なお世話)として響くかも知れない。

私は、今後、現在の魂の削り合いのような状況から、三通り程度のパターンへと事態(というよりも、私の思い人の心)が変化するものと予測する。大抵の場合、「両建て構造」に落とし込まれた個人その人に対しては、二通り(伸るか反るか)しか選択肢を与えられないことを思えば、「正」「反」だけでなく「合」の三通りまで選べるとは、随分と自由度の高いことである。そして、私の思い人が自身の思想を変えるまいと抵抗しても、私ではない周囲の人々は、私の指摘を知らずして、私が内心に出した結論の正しさを駄目押しするかのように振舞うであろう。それに世の中は、私の悪しき予測を裏付けるような悲惨な結末に事欠かない。

しかし同時に、私ではない人(の存在)がこの方向へと至らないように(私の思い人の)行動(を抑制)し、結果として、私たちを助けてくれるであろうとも、私は考えている。私は、そのような展開を予測する程には、他者の善性を信じており、私の思い人も、この他者に含まれるものと認めている


※1 もし、顔認証技術によって計算された複数の特徴量が、ある閾値を超えており、かつ、パイロットが攻撃命令を出したならば、ドローンは、その高度に疑わしい人物を暗殺する、といった具合である。この種の人種的・地理的・社会プロファイリングは、この制度内で実務を担当する人員の心理的負担を軽減するであろうが、けれども、制度設計に従事した人物たちとその制度の実現にお墨付きを与えた人物たちを免責する訳ではない。この点、この種の技術開発に従事する技術者は、すでに、政治的な存在であり、学術研究者であろうと、その政治性を免責されることはない。ここでの私の主張のニュアンスとは異なるが、重田園江氏の『フーコーの穴』(2003年9月15日, 木鐸社)は、ここでの(現時点まで通用する程度には正しかろう)理解を、当時の現象に照らして把握する上で、一読に値しよう。

※2 田中聡氏は、陰謀論者に預言者というモチーフを当てはめているが、彼の指摘は、悲壮感という意味付けを陰謀論者のすべてに対して付与しようとする試みであるとも解釈できる。もっと自身を突き放した気持ちで、陰謀論者と呼ばれる人物が発言しているのかも知れないにもかかわらず、である。これは、過度の一般化であり、ラベリングそのものである。面倒臭いので、本稿でも、『陰謀論の正体!』が出典だとだけ述べておく。通常、ブログだと、これで十分である。




2018(平成30)年7月11日

「私事(2018年7月4日)」からタイトルを変えた。

2018年2月17日土曜日

(一言・感想文)相似象の語は比喩として適切だと思う

「相似象」とは

「相似象」とは、落合莞爾氏の用語であり、その定義は『天皇と黄金ファンド』(成甲書房, 2016年4月)のpp.22-23のとおりである。本稿では、著作権法違反を恐れるために紹介しない。将来、主従の逆転を主張できない位に材料が蓄積されたら、紹介しない意向がない訳ではない(。本稿も、まあまあの分量であろう)。「相似象」は、テキスト化して共有するだけの価値がある、国際秘密力集団に使い慣わされた概念である。本記事は感想文であるゆえ、印象論を押し進めるが、「変奏曲」「転調」という音楽用語は、「相似象」に代替可能な比喩となろう。このうち前者は、私も以前に使用したことがあるし、使用に耐えるだけの合理的な理由があるとも思う。コード進行が同一であり、メロディ(=構造)を最初に示されると、そのアレンジ(=実例)にも大抵の人が不都合なくついてゆける、などの類似性が存在するからである。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『きらきら星変奏曲』を想起せよ。オブジェクト指向の用語で言えば、クラスの一種ということになろうか。これもまた、比喩の一つである。

他方、世の中には、自然科学の概念を拝借して失敗した比喩が良く見られる。他者の失敗した比喩を、殊更に批判するつもりはないので、ここで実例を挙げることはしない。それに、いわゆる「ソーカル事件」に対するポストモダン思想の批判の中には、実験的な思考を無下にしたというものが含まれていたはずである。それらの再反論は、中河伸俊氏の『社会問題の社会学 構築主義アプローチの新展開』(世界思想社, 1999年4月)の第1章に整理されていたような記憶がある。何より、比喩について、私自身が大概な失敗を重ね続けているとの主張に対しては、本ブログの読者なら、大いにヘッドバンキングされることであろう。加えて、何の違いが比喩の成否を分けるのかは、残念ながら、自分には言語化できていない。対策を強いて挙げるなら、商業出版における自然科学用語による比喩の誤りに対しては、編集者が介入可能である、とだけは言えようか。大事なのは、素直に呑み込めない種類の比喩を利用し続けるという間違いを早期に改めることである(。これこそは、工学的・バーク流の保守的な精神の発露であろう)。ただ、私には、その誤りを正す機会がない(。というのは、前振りの一つである。カルト宗教の信者は、このような文脈依存型の話に追随できているのであろうか。出来ていないのは、馬鹿の証拠である)。


「相似象」は「両建て構造」を雛型とする

『国際秘密力研究』の「菊池」氏の主唱する「両建て構造」は、「相似象」の雛型として、大変に良く機能している。ただ、この一般理論(general theory)は、現状への適用方法いかんによっては、誇大理論(grand theory)の表出と見做されかねない虞を有する。適用の妙こそがポイントであろう。たとえば、安倍晋三氏の第四次自公政権は、内部に公明党=創価学会という「サブ両建て構造」を抱える一方で、内外にわたる「希望~石破・小泉(・岸田・中曽根)」ラインとも(、表面的には穏やかであるが、)対峙している、と読むこともできよう。

「両建て構造」と言えば、最近、ハインリヒ・マイアーの『シュミットとシュトラウス』(栗原隆・滝口清栄〔訳〕, 1988=1993, 法政大学出版会)で、レオ・シュトラウスが「二軸の両建て」に言及していた※1ことを偶然に知り、洋の東西を問わず、仮面ライダー的な人物は散在しているものだ、との思いを強くしたものである。なお、私の興味のど真ん中を行く資料が地元の図書館に配架されていることは、どうしても偶然とは思えない。ここで、どなたか?に、勝手に感謝?を申し上げたい。なお、前掲マイアー氏の書籍の題名を直訳すると、

『カール・シュミット、レオ・シュトラウス、そして「政治的なものの概念」――〈その場に居合わせない者たち〉の対話のために』
となるそうであるが、これもまた、意味深である。


おまけ1;近年(2016年・2017年)のヒカルランドのアンソロジーは、講演者の顔触れによって、「あからさまな嘘」を散りばめながら、読者が真実と思うところを選び取ることができるようにするという高等戦術に出ているものと解される。ある話者の内容を否定する人物に対しては、「だって、(空飛ぶ何とかみたいなことを言う)あの人も一緒に講演しているんですよ?当局のお墨付きというやつでは?」と言わんばかりである。「企画者は...、できるな!!」という印象しか出てこない。もちろん、これは、あくまで私の解釈であり、私自身としては、高度な知性の発露だと感心しているつもりである。

おまけ2;最近、元警察官を称する匿名者が『5ちゃんねる』で色々話をした後に、「これはすべて嘘松」として落ちたスレ(ググれば、出てこよう)を見たが、これもまた、ヒカルランド同様に「自己言及のパラドクス」のイチ事例である。使い方は、とてもシンプルではあるが。もっとも、中野学校の伝統は、ニセ情報を濫用しすぎて、自家中毒にしばしば陥るようであるから、これくらいの方が良い。辻田真佐憲氏の『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書, 2016.7)は、組織に生じた軋轢が大本営発表をあらぬ方向へと導いたことを指摘しているが、今般の大本営発表も、同様の弊に陥らないのであろうか。

おまけ3;嘘を散りばめると、相似象を発見することは、とたんに困難になる。三角関係である場合、基本的には、6通りの関係性を評価しなくてはならない。1通り以上の関係に嘘が混ぜ込まれているとすれば、分析作業は、$2^6=64$倍が必要になる。基本、嘘は吐かない方が良い所以である。


#以上、記憶に頼り、一種の棚卸しを実施した次第である。出典など、間違っていたら、ごめんなさい。


※1 1932年9月4日付シュミット宛てのシュトラウスの第II書簡である。タイプ原稿で、シュトラウスが手元に置いた複製は、現在、シカゴ大学に収蔵されているという〔マイアー, p.172〕。

〔p.168〕

先生の著作をより詳細に分析しようとするならば、そうした人は、〔…略…〕二つの相入れない、少なくとも異質な思想系列に分かれる、という印象を持つでしょう。左翼と右翼の対立は、(1)国際主義的平和主義と好戦主義的ナショナリズムの対立として、そして、(2)無政府主義的社会と権威主義的社会との対立として現われます。これら二つの対立は互いに一致しない、これにはいかなる証明も要りません。

2017年10月24日火曜日

国際秘密力集団の「三つ巴」は二種の両建てにより構成される(3)

本稿は、前稿の続きである。


「ダブルバインド」に係る落ち穂拾い

「両建て」のように聞こえる言明は、日本の政界・日本語の論壇においても、結構な頻度で見かけられる。これらの言明が「野生の思考」であるのか、意識的な訓練や馴致の結果であるのかは、話者と発話の組合せ次第であるとしか言いようがないように見える。話者が高度な欺罔の才能を有していれば、「両建て思考」を時と場合に応じて使い分けているという可能性は、十分にあるものと考えて良い。「両建て」を知れば、「破・両建て」も可能となる。私にとっては、知識も技術の一種であり、使い方次第である。ようやく知った遊びにハマった子供と変わるところがないが、私が手当たり次第に事例を挙げているのは、そういう理由によるところが大きい。

2017年10月23日未明(、つまり、衆院選の大勢が決した夜の24時とか25時台に)、テレビ朝日系『選挙ステーション2017 2部』において、田原総一朗氏が「○○なの、○○なの、どっちなの?」と吠えていた[1]のは、ダブルバインドの一つである。福山哲郎氏に対する質問は、確実にこの形式を取っていたと指摘することができるが、具体的な内容がうろ覚えであるし、それにそもそも、田原氏の質問の中身自体は、どうでも良いことである。というのも、田原氏は、「止揚」となるような回答を期待して、相手にジレンマを生じさせる二者択一式の質問を投げ掛けるという方法を常用するからである。この問いに対して、「どちらでもありません」と答えるのは、面白さを追求するテレビの流儀にも反し、視聴者自身もそのような答えを求めてもいないであろう(と制作者サイドが考えていよう)から、回答者としては避けるべき選択肢であるが、嘘を述べたことにはならない。学者が「どちらでもない」と答えることは、逃げの一手ではあるが、「正しい知識を産出・伝達する」という学問のプリンシプル(原則・本義)に即せば、許される態度である。とはいえ、田原氏の期待を大きく外す「面白い」回答を用意してみせるのが、回答者の能力の見せ所である。田原氏の弁舌は、一般的には、巧みであると思われているのかも知れないが、「破・両建て」の追究者から見れば、国際秘密力集団の方法の劣化コピーである、と見えてしまいかねないものである。

高坂哲郎氏は、政府の安全保障政策に対して従順であるか否か、安全保障政策に対して積極的であるか否かの二軸を設定し、自らを、政府の安保政策によらずに積極的な安保政策を追求する「第四の立場」であるとする[2]。第四の立場を設定可能であるとする高坂氏の主張は、国際秘密力集団の「二軸の両建て・平面配置」によって、四種の立ち位置を設定可能であるという構造を明らかにしてしまっている。以前の拙稿でヒントを述べたつもり(2017年9月30日の「はじめに」)であるが、両建てとなる対立関係を$n$種類用意することにより、$2^n$通りの、見解の異なる組合せとなる立場を用意できる。この点を踏まえれば、「三つ巴」を「二軸の両建て」であると見る方が、高坂氏の事例までを一般化でき、覚えておくべき知識を節約できる。

武貞秀士氏は、1997年の北朝鮮に対する、日米中韓露の論者らの見解を二次元配置にまとめている[3]。『1997年の北朝鮮の座標軸』と題した図は、北朝鮮について、[開放政策に転じた](上)と[閉鎖政策をとっている](下)、[崩壊しつつある](左)と[崩壊の兆候はない](右)という二軸を配置する。この図そのものに示された見解※1は、一介の日本人読者としての私には、受け入れられるものである。また、武貞氏がこの説明方法をランド研究所訪問時に思いついたと記している〔p.54〕点は、偶然の一致であろうが、国際秘密力集団の方法論の実例を示したものとも見えてしまう。

陰謀が陰謀として機能するための条件は、「ネタを割ってみると、シンプルである」というものが予想される。そうでないと、容易に同士討ちが起こりかねないことになる。このため、わが国の組織・権力構造について、カレル・ヴァン=ウォルフレン氏が指摘したような「暗黙の共謀関係」を成立させるためには、せいぜいが二軸の両建て、四通りまでの立ち位置程度しか、用意すべきではないのであろう。また、安富歩氏の「東大話法」の中に、「論点をずらす」というパターンが含められた背景には、二軸の対立軸という方法論が利用された事例が含まれているのではないか、とも考えることができる。


やや脱線するが、昨日(23日)日本で放送が開始されたが、『ウォーキング・デッド シーズン8』の話の展開が、現実社会の推移を見据えて「両賭け」できるように構成されていることも、公然の秘密というヤツであろう。以下、ややネタバレになるが、ほとんどがシーズン7までの話であるし、公式サイト[4]程度のネタバレであるから、構わないであろう。主人公サイドは、多様な人種・性別・年齢・背景からなる人々の連合体である。これに対して、強大な全体主義的独裁グループ『救世主(Savior)』は、マッチョな男性たちが頭目「ニーガン(Negan)」一人の強力なリーダーシップの下に統率されている。今シーズン冒頭、対立を解消するために主人公たちが狙うのは、ニーガンただ一人と宣言される。この展開は、昨年のアメリカ大統領選挙の時期と同時並行的にシーズン7が放送されていたことを踏まえれば、「両賭」であると、視聴者の多くに理解されることであろう。ジェフリー・ディーン・モーガン(Jeffrey Dean Morgan)氏の演じるニーガンは、屈強で狡猾な中年の白人男性であり、絵柄としては、ドナルド・トランプ氏の率いる現政権を想起させるように見えながら、その実、クリントン夫妻を使嗾する国際秘密力集団の表徴であると読み替えることもできる存在である。


以上の事例を並べてみれば、シンプルな考察を順序よく積み重ねる形で思索を進める人たちの思考や、現実の政治から影響を免れ得ない創作物が、時に、「二軸の両建て」のような形で、国際秘密力集団の方法論とダブる方法を採ること自体は、致し方ないことであろう。


「二軸の両建てに基づくマッピング」は普遍的な方法である

そもそも、情報系の分野を多少なりとも学習した者にとって、二軸の「両建て」を平面配置するという方法は、随分と馴染み深いものである。柳井晴夫・岩坪秀一の両氏による『複雑さに挑む科学:多変量解析入門』[5]は、林知己夫氏により体系化された数量化理論を説明する書籍として、色々な意味でコンパクトな古典である。同書では、「人間は、直接、4次元を認知できないので、情報を3次元以下に落として(=縮約して)配置してやる必要がある」旨が挿絵とともに述べられている。大抵の物事は、単に二極対立させ(、一次元上に配置す)るだけでは、豊富な含みが随分と失われることになるが、二軸では、かなりの面白い動態を示すことができるようにもなる。紙・コンピュータ画面が二次元である、という媒体の特性も挙げられる。これらの要因が相俟って、二次元上にマッピングするという方法は、学術上の基本的な表現手段となっているのである。

なお、小池百合子氏の「三都物語」に対する批判(2017年10月11日)の中で、AHPについて触れたが、AHPそのもの自体は完結した方法であることを明記し忘れていた。漏れなくダブりなく価値観(たとえば、旅行において重視する価値観として、食事・宿泊・安全・言語・交通など)を一揃い挙げ、それらの価値観を一対比較した上で、選択肢(東京・札幌・北京・ニューヨーク・ロンドン・モスクワ...)に係る価値観を算定するのであれば、ジャンケンのような循環的な関係が価値観の組に含まれていても、意思決定に役立つ解を得ることができる。


取捨選択された情報の取合せこそが分析を左右する

統計的手法は、用意したデータそのものの取合せや、分析条件を変更することによって、結果を恣意的に変更できる。察しの良い読者は、私がAHPについて言及した際、「比較すべき価値観、たとえば、物価をわざと抜いたとき、AHPの結果はどうなるのか」などと、心の中でツッコまれたであろうが、そのツッコミは、正当である。一揃いの候補者について、一揃いの価値観(と候補者ごとに価値観に伴う評価)が付けられて初めて、AHPの評価は、正当なものになる。回帰分析であろうが、SEMであろうが、利用されるデータセットこそが重要という指摘は、往々にして忘れられがちである。この指摘に係る責任は、統計的手法のユーザに第一義的に帰せられるが、副次的には、結果を査定する読者にも求められている。

不完全な情報に基づき下された判断は、別の情報が加わったとき、容易に別の結論へと変わるものであるが、それは、最近の政治談義についても、変わるところがない。最善と思われたであろう選択肢をわざと提示しない、という意地悪を想定してみれば良い。池上彰氏がホストを務めた22日の『TXN衆院選SP 池上彰の総選挙ライブ』[6]では、一般人1000人の期待する総理大臣に、小沢一郎氏が22票で9位にランクインしていたが、他方、政治記者100人の回答に基づく上位10名に、小沢氏は含まれていなかった。含まれていないことを示すために、下表を挙げた。政治記者の所有する情報の中には、小沢氏に係る「アンタッチャブル」な情報が政治記者の間でのみ共有されているということかも知れないし、これから述べる見解の方が、私にとっては真実に近いと認められるが、市井の集合知の方が、政治記者ムラの常識よりも上等という結果が表れているだけなのかも知れない。松田賢弥氏という小沢氏向けのディス要員を抱え、寿司友が幅を利かせていると認められる政治記者ムラの方が、世間よりもよほど偏見に満ちているという結論は、まず間違いなく当たっているように思えるのである。


表:「政治記者100人アンケート:次に総理になって欲しい人」
出典:テレビ東京系『TXN衆院選SP 池上彰の総選挙ライブ』[6]
(2017年10月22日放送23時18分頃)

順位氏名票数
1岸田文雄33
2石破茂18
3河野太郎13
4枝野幸男6
4誰もいない6
6野田聖子5
7菅義偉4
7小泉進次郎4
9谷垣禎一3
9野田佳彦3

#以上、手当たり次第に事例を並べてみたのは、そちらの方が一般向けには賛同を得られそうであるためである。条件付き確率で話を進め、現実は、三つ巴じゃねえんだよ、とブイブイ言わせるよりは、よほど間口が広いかもと考えたのは確かではあるが、手抜きしたのも事実ではある。


※1 詳しくは、同書に当たられたいが、興味深いところをとりあえず述べておくと、『月刊正論』『月刊諸君』『産経新聞』『月刊文藝春秋』『現代コリア』が第III象限の極端な部分に位置付けられていたことである。なお、武貞氏の表現では、「南西ブロック」である※2。武貞氏自身の見解は、第IV象限(南東ブロック)であり、韓国国防部などと同一である。金正日氏自身の見解は、第I象限(北東)に位置付けられている。

※2 ただし、この二軸により生成された象限を、北東・南東・北西・南西と表現すると、わが国における地図表現を前提としていることになる。確かに、「地図に向かい合ったとき、上が北」と設定すれば、問題なく成立する。しかしながら、本稿を精読されている諸賢であれば、この設定に反する話が地政学的な観点から見られることを、すでに述べたことを記憶されているかも知れない。参考まで、平凡社地図出版の記事[7]も引用しておく。なお、元々、地図の向きが人々に固定観念を与えるという点を私が理解したのは、網野善彦氏の著作のいずれかを通じてであり、90年代の話になる。武貞氏が「万能人」であれば、別の表現を利用した可能性があったのでは、などと期待してしまうのである。もちろん、ここでの私の指摘は、組織人に必要な教養の幅広さと深さを効率良く備えていくことの難しさを指摘するとともに、わが国の政府(より有り体には、官僚組織)が組織人に必要とされる基本的な知識を涵養するための条件を自ら食い潰してきたことを暗に批判するために、明示されるものである。


[1] 選挙ステーション2017│テレビ朝日~選挙が分かりやすくなる動画を続々配信中!
(2017年10月24日リンク確認)
http://www.tv-asahi.co.jp/senkyo/

[2] 高坂哲郎, (2015.10). 『世界の軍事情勢と日本の危機』(日経プレミアシリーズ 291), 東京: 日本経済新聞出版社.
http://id.ndl.go.jp/bib/026763020

[3] 武貞秀士, (1998.4). 『防衛庁教官の北朝鮮深層分析』, 東京: KKベストセラーズ.
http://id.ndl.go.jp/bib/000002737313

[4] ウォーキング・デッド シーズン8|FOX|FOX ネットワークス
(2017年10月24日リンク確認)
http://tv.foxjapan.com/fox/program/index/prgm_id/21056

[5] 柳井晴夫・岩坪秀一, (1976). 『複雑さに挑む科学:多変量解析入門』, 東京: 講談社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000001129316

[6] TXN衆院選SP 池上彰の総選挙ライブ:テレビ東京
(2017年10月24日リンク確認)
http://www.tv-tokyo.co.jp/ikegamisenkyo/

[7] 平凡社地図出版-地図雑学,Q&A その2
(まえ、2011年7月12日)
http://www.hcpc.co.jp/faq/faq002.html

日本と大陸の関係を示す地図であれば、中国を下に、日本を上にすると分かりやすくなります。

2017年10月11日水曜日

国際秘密力集団の「三つ巴」は二種の両建てにより構成される(2)

本稿は、前稿の続きである。


「三極化」と「二軸の両建て」は異なるメカニズムを有する

別稿(2017年9月30日)の追記(2017年10月2日訂正)において、「三極化」と「二軸の両建て」とは異なることを主張したが、この主張には、一応、根拠らしきものがある。これは、アンケート調査で「3つの選択肢から1つを選ぶ」という方法と、「それぞれ2つの選択肢を持つ設問を、2つ回答する」という方法の違いに当たる。後者については、設問の順番を入れ替えると分析結果が変わり得る(response order effect)ことが指摘されている。もっとも、この効果が確認できないとする研究も見られるようではある。ただ、政治の世界では、「朝三暮四」という故事成語が普通に用いられているし、この効果が実際に影響しているとの研究が実在する以上、これを信じた人物が政治に参画するという事態は、あるものと考えても構わないであろう。

「三極化ではなく、二次元配置」という手管が分析上厄介なものとなり得ることは、今年のノーベル経済学賞の受賞者がリチャード・セイラー氏であることにも現れている。設問の順序が効く可能性があるだけでなく、オプトイン(加入に意思の明示が必要となる制度)・オプトアウト(脱退に意思の明示が必要となる制度)の違いは、政策上、効果を有する(と選考委員会が認定したから、受賞が実現している)。投票者に対して「一番目(二番目)に重視する政策は何ですか」という質問の仕方は、現に世論調査に認められる。この考え方を進めると、AHP(Analytic Hierarchy Process、階層分析法)という方法になる。AHPは、複数の価値(安全保障、社会保障、経済、教育...)を提示して、それらを二種類ずつ、どちらがどれくらい望ましいのか比較した(一対比較という)上で、それぞれの価値について、政党や候補者を採点すれば、望ましい候補者の解が得られるという方法論である。「上位2位分の重視する価値」を尋ねることは、実のところ、さほど有用な方法ではない。ほかの価値を実現する上で有力そうな候補が脱落することになりかねないからである。それに、回答者ごとのデータを扱うことができなければ、外部者が後から分析する上で(二次分析)も問題が残る(。集計問題が生じる。それにAHPにも転用可能ではない)。

以上の考え方を一歩進めて、「取上げ方に、順位・順番あるところ、恣意性あり」と考えても、極論という訳ではない。恣意性が極力排除されているか否かは、別の話である。これは、仮想反実的な思考を重ねれば、私の言わんとするところが良く理解できるようになろう。読売新聞の与党党首インタビューは、10月5日から開始されたが、自民党、希望の党、公明党の順番であった。企画時期が立憲民主党の設立以後か否かは、微妙なところであるが、改選前議席の順番から言うと、一面、妥当であるとは主張できよう。しかしながら、これを逆順でも構わないのではと考える私は、果たして、捻くれすぎなのであろうか。希望の党も、立憲民主党も、前回の選挙において、政党としては国民から負託を受けた訳ではない。この点を考慮すれば、前回の衆議院選挙に参画した政党で、所属議員が落選した政党は、順序からすれば、先に取り上げられるべきではないか、と考えることも可能である。われわれの思考の枠組みは、ここに挙げた順番に対する検討を読売新聞社が公的には省略していることからも認められるように、案外、ユルユルなものである。結局、順番を問題とする場合、各自(ここでは、読売新聞社)が妥当と考えられる順番を明示的に言語化した上で、その是非を問うていくほかない。調べもしないままに疑問を書き連ねておくが、公職選挙法は、この辺の事情をより突っ込んで考慮したことがあるのであろうか。政見放送については、事前の抽選によるという点、間違いなくこの点を考慮しており、公正であると評価できるが、あらゆる報道が恣意性から逃れることができないという点については、考えが甘いように思われてしまうのである。


「三極化」は、経済的・個人的自由への態度によっても「二次元配置」できる

ところで、今回の選挙(2017年10月10日告示・22日執行、衆議院)の「三極化」は、ノーラン・チャート上にも配置可能である。自民党は、近年に限定すれば、個人的自由を制限するが、経済的自由を尊重するという位置付けにある。立憲・共産・社民は、個人的自由を尊重するが、明らかに経済的自由を制限する方向にある。希望は、個人的自由と経済的自由を尊重するかに見える。公明は、動機が特殊であると考えられるので、ここでは論じない。ほかの政党や無所属の立候補者については、ここまでのヒントに基づけば、相応の区分に位置付けることが容易であろうから、省略する。もっとも、希望の党の公約の曖昧さは、個人的自由に対する同党の見解について、十分な手がかりを選挙民に与えないものである。


#とりあえず、尻切れトンボの感で一杯だが、本記事は、シリーズとしては、これでおしまいであるので、次回の記事を執筆した(2017年10月24日追記)。選挙後、(遅すぎることになるとは思われるが、)書き残した点を再度追究する

2017年10月5日木曜日

国際秘密力集団の「三つ巴」は二種の両建てにより構成される(1)

本稿は、「今回の総選挙の争点は、核武装を認めるか否か、原発を認めるか否かの二軸で分類できる」(パート1, パート2, パート3)の続きに当たる。時間短縮を図る読者は、段落の頭の文だけを読むよう、お願いしたい。


ダブルバインドは国際秘密力集団の得意技である

国際秘密力集団による「両建て構造」の最大の妙味は、「人生には、一つしか選び取ることができないものがある」というダブルバインドを相手に強いる点にある。ダブルバインドとは、広く知られた言葉であるが、二種類の両立しない物事の中から、相手に一つの選択肢を強要するという、心理学上・営業上のテクニックである。二つのダブルバインドの例を挙げるが、それは、ここに挙げる娯楽の両方に親しむ人が少ないものと見込まれるからである。村上春樹氏の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年4月)[1]には、ダブルバインドの事例〔pp.206-207〕が見られる。『Wolfenstein: The New Order』(2014年、CERO-Z指定、つまり成人向け)という、古典的な一人称視点シューティングゲームのアレンジ版にも、この主題が仕込まれている。卑近な事例となるが、私が「ない訳ではない」という、二重否定となるフレーズを多用する理由は、この種の論理構成を有する現象を取り扱っていることに意識的なためである。

何かを選び取らなければ、どういう結末を迎えることになるのか?という疑問に対して、このようなジレンマを仕掛けてくる側の回答は、大変にサディスティックなものである。前掲のゲーム内のエピソードも、村上氏の『色彩を...』の事例も、十分に加虐的である。加えて、文藝春秋社が戦争屋の道具であるという私の見解(2017年9月7日)から見れば、同書が同社から出版されたという事実には理由がない訳ではなかろう(。これは、穿ち過ぎであろうか)。いずれにしても、われわれは、「世の中には、虐待的な二律相反の選択を他者に強いる人々がいる」との疑いを持ち続けるべきである。また、共通理解であるとは思うが、様々な媒体で描かれる「悪魔との取引」は、ほとんど常に、「手持ちの大事なもの」と「欲しいもの(金銭・成功・異性など)」とを引換えにするという形で持ちかけられる。それに、「欲しいもの」は、解釈をできるだけ歪曲された形でしか、提供されないものである。

とはいえ、人々の興味が多様化した現代において、マスコミが多大な労力を投入している話題を除けば、「アレかコレか」という二項対立を強制できるほどに事態を制御下に置けるということは、そうそうない。ほとんど全ての話題について、「第三の道」を考えることができるほど、人類の歴史的・政治的経験に係るアイデアの「引出し」は、増大している。たとえば、「アレもコレも」というキャッチコピーは、マーケティング分野で開発され定着したテクニックであるが、これ自体が、論点ずらしの一手法である。また、この手妻は、成功するか否かはさておき、誰にでも応用可能である。「原発も核兵器もゴメンだ」や「世の中には敵・味方の区別があるけれど、誰しも生きる権利がある」などは、その一例である。


元民進党議員にとって、立憲民主党と希望の党は、実質的なダブルバインドとなる

2017年10月2日17時、枝野幸男氏が立憲民主党を設立すると記者発表した後、『朝日新聞』と『毎日新聞』は、ようやく「三極化」を報じるようになった。『毎日新聞』[2]は、政策研究大学院大学教授の竹中治堅氏の言葉を借りて、民主党の分裂によって三つ巴が生じたと述べている。この理解は、「政権交代可能な」などといった限定化が抜けている。この点で、毎日新聞のインタビュアーまたは竹中氏は、能力不足か悪意を抱いていることになる。『朝日新聞』の記事[3]も、立憲民主党の設立を見出しに明記しており、同様の理解であると整理できる。また、この三極化に先駆けて、『朝日新聞』が枝野氏に近い参議院議員の言を借りて、野党共倒れの危険を指摘した[4]ことに対しては、大いに疑問がある。というのも、すでに、第三極となるリベラルな小政党は、当初から存在していたからである。この点を汲んで報じていたのは、『東京新聞』[5]だけである。『読売新聞』は、1日までの枝野氏の動きを受けて、2日朝刊で「3極対決」を謳う[6]ほか、「リベラル」という言葉を解説する記事[7]の中で、この語を適用可能な政党名から、社民・共産・自由の三党を除外している。この『読売新聞』の記述は、悪意にしても、度外れたものがあり、フェイクニュースと呼ぶに相応しい。事実関係を説明するところで、意図的な誤読を招き寄せる必要はない。

民進党に所属してきた議員にとって、立憲民主党は、希望の党とのダブルバインドとして機能する。合流に意外性があればあるほど、テレビで大々的に報道してもらえるチャンスがあろうから、古株ではなく、埋没してしまうレベルの実績と印象しか選挙民に与えていない民進党議員こそ、しっかり宣言した上で、立憲民主党に合流する価値があろう。もっとも、小池百合子氏に拒否されるような理念の持主でなければ、希望の党から出た方が、マスコミへの継続的な露出が期待できる(。マスコミの飼主が、小池氏の金主でもあるからである)。旧来の民進党議員が、希望・立憲以外の政党から出馬するというケースは、本来、「情報としての価値が高いことがニュースになる」という原則※1からすれば、マスコミが取り上げるべき話題である。旧・民主党は、政権与党の座にあった2012年7月、総理大臣の野田佳彦氏が主導した(消費税増税を含む)税・社会保障一体改革を巡り、党を割るほどの分裂を経験しているように、相当に、理念の異なる議員を含む政党であった。民進党も、安全保障のあり方を始めとして、理念の幅の広さを残してきた。このため、民進党に所属してきた議員であっても、自民党を含め、移転先が多様化して良いはずである※2

議員生活の継続を望む民進党議員は、少しでも当選する可能性の高い政党から出馬しようと試みるであろうから、彼らは、まず間違いなく、第一希望を希望の党としながら、受け入れられなければ立憲民主党、という選択肢を辿るであろう。前原誠司氏のようなサンカク※3議員と小池氏から三行半を突き付けられた民進党議員は、本来、その事実を誇りにしても良いくらいである。しかし、政策そのものや実績で議員を選択する有権者は、比較的少数であろう。このため、民進党議員にとって、希望の党を蹴って、マスコミに露出できる機会が減ることになるのは、二律相反するものと受け取られよう。自身と家族と秘書たちの生活が懸かっていれば、悠長にはしていられないであろう。とにかく、原則としては、民進党の議員は、そうした方が一時的にはニュースになるものの、無所属となりつつも他政党から推薦を取り付けたり、あるいは、希望・立憲以外の別政党に帰属するという方法を取りにくい環境下にある。

後知恵であるが、山尾志桜里氏が不倫疑惑で自ら離党するに至った時期は、本人にとっても、民進党の衆議院議員にとっても、随分と都合の良いタイミングであった。民進党の解党に伴い、無所属となった元・民進党の立候補者は、山尾氏の離党のタイミングが先行したために、同じ不倫枠に入れられずに済んでいる。細野豪志氏と山本モナ氏との不倫は、今なお広く記憶されている。しかし、細野氏は、先行して民進党を離党して希望の党の結党に携わり、希望の党の主要メンバーに上手に納まった。彼を積極的に嫌う有権者でもなければ、不倫という過去を問題視するだけの禊は済んだと考えられている節も見受けられる※4。普通に考えれば、『週刊文春』が売上だけを目的としているのであれば、民進党の議員たちに、とりわけ、細野氏に、ここまで遠慮する必要があるとは思えない。『週刊文春』は、前原誠司氏や野田佳彦氏の無所属という身分に影響を与えることなく、細野氏にも不倫というイメージを極力与えることなく、山尾氏を離党に追い込んだと評せよう。当の山尾氏自身、離党のタイミングが良かったと述べている程である[8]


「リベラルの退潮」は、今回の解散総選挙の結果を見なければ、確定できる現象ではない

今回の解散総選挙の流れにおいて語られる「リベラルの退潮」は、マスコミのフレーミング※5に過ぎない。まず間違いなく、わが国では、確固たるリベラルは少数派であろうが、しかし、その人数は大きく変化していないであろう。「退潮」は、無党派層の離反を意味するだけであろう。共産党の得票数の増加は、民主党政権時代において、鳩山由紀夫氏の退陣と菅直人氏・野田佳彦氏の失政を通じて、これらの勢力を見放した有権者層が、リベラル的な政策を揺るがせていない共産党を高く評価した結果であるとも考えることができる。この状態は、穏健な「保守系リベラル」層の受け皿がないだけという事情を示す可能性が高い。

外形的にとらえると、穏健なリベラル層の受け皿を破壊し尽くした責任は、わが国については、東京地検特捜部※6とマスコミの戦後の一連の活動に求めることができ、小沢一郎氏への攻撃は、その最新事例である。よほど疑い深い有権者でなければ、小沢氏への東京地検特捜部の執拗な捜査と、大々的な報道を「疑惑があるから捜査しており、報道している」と理解したであろう。現に、小沢氏の師匠や先輩筋や秘書は、有罪となったではないか、といった具合である。『国民の生活が第一』と名付けられた政党は、そのネーミングと小沢氏への捜査の記憶が矛盾したために、有権者には、受け入れられにくいものと化した。脱原発活動は、断定的に戯画化すれば、東京地検特捜部と、これを使嗾する権力ネットワークにより、止めを刺されたものと言えよう。小沢氏自身の無罪や、秘書たちの判決に対する無理矢理さに係る報道は、報じられた疑惑の量に比べて、圧倒的に少量であり、彼らの名誉回復は、彼らへの攻撃に比較すれば、ゼロに等しい分量である。この非対称性は、間違いなく、『国民の生活が第一』に対する忌避感に影響している。

小沢一郎氏に対するマスコミの一連の人物破壊工作は、2017年10月現在、嘉田由紀子氏の処遇を巡り、希望の党の「原発ゼロ」が嘘臭いことを示す状況証拠として、迂遠な形で機能している。嘉田氏は、希望の党に対して入党を申入れたが、『日本未来の党』の代表を務めたことを理由に、断られたとされる[9]。『国民の生活が第一』は、『日本未来の党』の母体ともなった。以上の経緯は、希望の党が『日本未来の党』の脱原発という党是を拒否したというちぐはぐな印象を、事情を知る有権者に与えるものである。嘉田氏の滋賀県知事時代の脱原発に係る政策は、原発のない都道府県の知事として、かなりのガチものであった。この実績を合わせ見れば、嘉田氏は、希望の党の「原発ゼロ」が本物であるか否かを、自らの入党希望を以て、有権者に示したものと考えることもできる。

ただ、希望の党は、小沢氏や嘉田氏と連携する含みを残してはいる。希望の党の一次公認リスト[10]は、嘉田氏の出馬する滋賀一区と、小沢氏の出馬する岩手三区[11]について、空欄となっている。この事実や、小沢氏が前原氏や希望の党と協議していたという話は、小沢氏に対する過剰な警戒と相俟って、あらぬ噂を呼んでいる。しかしながら、希望の党が「刺客」候補を公認していないという事実は、希望の党に「勝てない戦はしない」という方針があるものと考えれば、単なる妥協の産物であると考えることもできる。票読みについては、各陣営とも、十分に合理的に行動していると考えて良い。

小沢氏や嘉田氏に、希望の党が「刺客」候補を送り込んでいないという事実は、リベラルが退潮していない逆説的な証拠として機能する。小沢氏の手法は、小沢王国とも揶揄され、田中角栄氏譲りの、公共事業を中心とした利益誘導型政治であるとされる。ただ、地元への利益誘導型政治※7は、地方を食べさせてゆき、安全な食品を自国で供給するというシステムになくてはならないものである。お互いの立場を尊重するという定義からすれば、利益誘導型政治は、リベラルとも呼ぶことができる。この捻った見方を考慮すれば、リベラルは、退潮などしていないのである。

加えて、昨年以来、多くの選挙は、安倍晋三氏率いる自民党に対して、逆風となりつつある。私自身は、その原因の一つとして、不正選挙のツールが非自民党系の政治家に連なる社会集団に握られてきた、という予測を立ててはいる。ただ同時に、安倍氏の流儀に基づく安保法制が戦争に直結するのでは、というリベラルの懸念も影響していると考えて良かろう。月次の内閣支持率は、それほど信用に値しないし、数%程度は系統誤差を含むものと考えられるが、それでも、安保法制の準備に係る国会運営の無茶振りと、モリ・カケ「疑惑」を経た2017年10月現在、ひと頃の高さはない。

結局、「リベラルの退潮」は、今回の選挙の結果を見てみなければ、確定できないというべきである。そもそも、「退潮」という語を今になって持ち出すのは、5年ほど、タイミングがずれている。リベラルが退潮したとすれば、民主党政権の時期においてであり、その後、長らく低迷したというべきであろう。とりわけ、菅政権におけるTPP加盟交渉の宣言や、野田政権における多くの政策転換が、リベラル層の決定的な離反を産んだと言えよう。2017年10月現在、ようやく、希望の党に民進党の「右派(私に言わせれば売国派)」が合流し、類似したスタンスの勢力が互いに協調できる素地が整ったのである。


次回に続く)


※1 「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだら...」というヤツである。

※2 野田佳彦氏は、1992(平成4)年の日本新党の結党への参加を通じて政治生活を開始し、非・自民政党で一貫してキャリアを積んではいるが、その政策理念は、ほとんど自民党議員のものと言っても差し支えない。

※3 佐藤優氏の広めた官僚用語で「人情を欠き、義理を欠き、恥をかく」人物を指す。今回の民進党の「解党」の経緯は、所属していた議員の当落の決定打とはならないが、定性的には、マイナス要因として機能するものと考えて良いであろう。前原氏の決断は、不作為という形に近いものであるが、不義理・不人情の現れとして受け止める有権者(民進党支持者であったか否かを問わない)がいても、まったくおかしくないものである。

※4 本点は、客観的に見解を述べているだけであることに注意されたい。ここでは、私自身の好悪を語ることはせず、他者の細野氏に対する好悪を評価しているだけである。もちろん、『週刊文春』のやり口は、汚いものであると思う。でなければ、ここまで記事を書き進めることはしない。ゴミはゴミ箱に入れておくことが望ましいが、それが無理であっても、ラベルを貼ることだけは果たしておかなくてはなるまい

※5 議題に枠をはめて、枠から外れるものを見せないようにする効果。フレーム効果。

※6 検事出身であるが出世する前に議員へと転身した山尾志桜里氏の現在の位置と、東京地検特捜部・副部長という経歴を持つ若狭勝氏との対比は、この司法組織の政治的中立性を疑わせるのに十分な連関となっている。『週刊文春』が若狭氏のスキャンダルを今後1ヶ月の間に取り上げることがあれば、その中立性は維持されているものと見て良いであろう。

※7 なお、東京地検特捜部が小沢氏を挙げようとした事件に、西松建設事件が挙げられるが、この事件に係る報道(、正確には、扇動工作)も、また、利益誘導型政治を小沢氏に印象付けるという効果を果たしている。この点についても、東京地検特捜部と一部マスコミがリベラル退潮の犯人であるという私の指摘は、何ら間違ってはいない。


[1] 村上春樹, (2013.4). 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』, 東京:文藝春秋.
http://id.ndl.go.jp/bib/024358341

[2] 視座・衆院選2017:/1 野党と首相、問う機会 政策研究大学院大学教授・竹中治堅氏 - 毎日新聞
(2017年10月4日 東京朝刊)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/ddm/001/010/181000c

今回の衆院選は野党第1党が突然分裂し、自民・公明、希望、立憲民主・共産の三つどもえの戦いとなる。民進党は中道右派・リベラル路線の間で揺れ続けてきた。希望の党に多くの保守系民進議員が合流し、希望が保守、立憲民主がリベラルと構図がはっきりし、有権者の判断が容易になった。

[3] 自公×希望維新×立憲民主共産社民 衆院選3極争う構図:朝日新聞デジタル
(2017年10月3日21時49分、4日東京朝刊14版1面「希望、1次公認192人/立憲民主党設立/3極構図固まる」(記名なし))
http://www.asahi.com/articles/ASKB35KNZKB3UTFK00F.html

[4] 「枝野が立て」激励受け新党結党 野党系共倒れの恐れも:朝日新聞デジタル
(2017年10月2日21時27分)
http://www.asahi.com/articles/ASKB24STYKB2UTFK00G.html

〔...略...〕野党候補が乱立すれば、共倒れの可能性が高まる。枝野氏と近い民進の参院議員は言う。「ここで失敗すれば、リベラル勢力が壊滅してしまうかも知れない」

[5] 東京新聞:衆院選 三極化 自・公 vs 希望・維新 vs 共・社・無所属:政治(TOKYO Web)
(篠ケ瀬祐司、2017年10月1日07時06分)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017100190070649.html

[6] 『読売新聞』2017年10月2日朝刊14版1面「枝野氏ら 新党へ調整/リベラル系/衆院選 3極対決に」(記名なし)

〔...略...〕衆院選は、「自民・公明」「希望・日本維新の会」「民進リベラル系・共産・社民」の3極で争われる方向となった。

[7] 『読売新聞』2017年10月5日朝刊14版2面総合「ニュースQ+/リベラルとは何?/日本では革新・左派と同義語」(記名なし)

Q 民進党以外のリベラル勢力は。

A 自民党の派閥「宏池会」(現・岸田派)は、リベラルを自認している。宏池会は自由主義や社会の多様性の重視などを掲げ、憲法改正には党内では比較的慎重な立場だ。ただ、岸田派幹部は「民進党のリベラルとは考え方が違う」と述べ、明確に一線を画している。〔記事終わり〕

[8] 『朝日新聞』2017年10月5日朝刊14版4面総合4「山尾氏「無所属でよかった」」(黄澈)

〔...略...〕愛知7区から無所属で立候補予定〔...略...〕

〔...略...〕

「いま、無所属で本当によかった。リベラルの価値を葛藤なしに語れることが幸せだ」

〔...略...〕自身は不幸中の幸いで、「踏み絵」を踏まずに済んだ面がある。

〔...略...〕

〔...略...〕自民前職鈴木淳司氏(59)が立候補を予定し、希望も擁立を検討している。わずかの差であっても選挙区で落選すれば、比例復活はない。

[9] 嘉田前滋賀知事、希望に公認断られる 無所属出馬へ:朝日新聞デジタル
(記名なし、2017年10月2日12時09分)
http://www.asahi.com/articles/ASKB200YWKB1PTIL011.html

[10] 衆院選:希望の党 第1次公認名簿 - 毎日新聞
(2017年10月4日01時22分、最終更新10月4日07時39分)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/k00/00m/010/174000c

[11] 衆院選:小沢氏、無所属出馬へ 共産擁立見送り 岩手3区 - 毎日新聞
(小鍜冶孝志・佐藤慶、2017年10月4日09時27分、最終更新10月4日09時36分)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/k00/00e/010/195000c




2017年10月6日・7日修正

文意の通らない点を修正し、淡赤色で示した。




2017年10月23日リンク追加

次回へのリンクを追加した。

2017年9月9日土曜日

(メモ)角本ゆり氏による三宅洋平氏周辺の大麻使用に対する公衆への告発は真実と認められる

角本ゆり氏による告発[1]は、私が「大袈裟太郎氏のゆうちょ銀行口座凍結は国際的な大ブーメランになり得る」と題する記事(2017年6月12日11時)をアップした後に、『Facebook』に投稿されたものである。非会員に向けて公開された時期は、私には確認できていない。告発が騒がれ出したのは、今月(2017年9月)の5日頃である。角本氏による「告白(以下、法律用語には当たらない意図で使用する。)」は、

大袈裟太郎氏のように、昨年の夏からジャーナリズム活動を始めた(本名と思しき氏名等でもググってみても逮捕歴を報じるニュースの見られない)人物を犠牲者として、しかも、それが外国メディアからはレイシストと見做されかねない人物のグレーゾーンな活動によって惹起されたものであるとすれば、弾圧の方法としては、相当の下策である。
と私が記したことの前段部分(特にカッコ書きの部分)に対して、決定的な反証として機能する。角本氏の指摘が事実であるとすれば、単に有罪に持ち込めるだけの条件が整わなかったが、三宅洋平氏やほかの人物は、少なくとも一度は、テロ等準備罪の適用対象となる犯罪に手を染めたことになる。しかしながら、私の指摘も、執筆当時であれば、妥当であったことには変わりがない。事情を知った現在は、三宅氏と仲間たちも、渡邉哲也氏と仲間たちも、いずれも、それぞれの行為に対して、批判すべきであると考える。

大袈裟氏は、角本氏の指摘が当たらないと否定しているようではある。しかしながら、両者のコミュニケーションは、ツイッターにおけるブロック合戦のような様相を呈しているようであり、その詳細を私が詳らかに検討することは適わない。素朴に考えれば、大袈裟氏と角本氏のいずれかが、公に対して嘘を吐いていると考えることになる。この話題の真偽について、最終的な判断を下すには、私にも、世間一般の人々も、なお時間を必要とするであろう。また、大袈裟氏に対する私自身の前記事は、凍結して、本記事と併せて、読者からの評価を待つほかなかろう。

角本氏の告白は、私には、真実であると思われる。角本氏の告白が一種の讒訴であるとすれば、顕名で提起される必要性はない。虚偽であるとすれば、よほどの理由があるに違いない。(その告白が虚偽である場合の)よほどの理由としては、たとえば、顕名で脱原発活動に従事しているために家族を抱えるという脆弱性を狙われたというもの、三宅氏を最適なタイミングで裏切るために近付いたというもの、の二通りを考えることができる。ただし、後者の場合は、相当に強固な後ろ盾を必要とする。いくら「左」側が相手であり、生活に余裕があろうと、幼い子供たちを抱えながら、社会に多大な影響を与える種類の嘘を吐くことは、まったくもって、非整合的である。

角本氏のツイッターにおける言論のスタイルは、総じて、是々非々である。(リツイートではない)角本氏自身の言葉によるツイートを遡及して、今年6月27日分まで遡及した結果、そのように判定した。是々非々というスタイルは、「両建て」を見抜き真実を追うという目的に対して、三宅氏周辺に見られるニューエイジ思想(信仰)という「セット思考(2016年7月26日)」に比べ、遙かに有効である。「集団内の力学」に左右される大袈裟氏や三宅氏の主張より、角本氏の言論は、信用できるという印象を与えるものである。仮に、角本氏が嘘を吐いているとすれば、その計略は、近年のわが国のツイッター界隈では見たことがない程、高度に作り込まれたものである。

角本氏の指摘は、一見、三宅洋平氏による不正選挙に係る主張を無効化するもののように見えるが、実際には、「両建て」構造の暴露を通じて、わが国の宿痾を相対的に可視化する方向に作用する。不正選挙の虞が三宅氏によって指摘されてきたことは、本ブログでも言及したことである。ゆえに、私にとって、角本氏の指摘を採用することは、私の言説の全体までが無効化されかねない危険性を有することになる。にもかかわらず、私には、角本氏の指摘は、それだけを見れば整合的に思える。というのは、私も触発された大袈裟氏の口座凍結騒ぎによって、角本氏が告に踏み切ったものと解釈できるからである。角本氏は、私とは異なる観点から、つまり、三宅氏や大袈裟氏を信用するなという意図だけに基づいて、記事を執筆したのであろう。しかし、角本氏の指摘は、たとえ、片務的な意図に発したものであったとしても、角本氏とごく一部の人物たちしか知らなかった事実を公にした結果、お互いに「臑に傷を持つ」人物たちの「両建て」を暴露するという、予期せぬ結果をもたらしたのである。私にとって都合良く角本氏の告を解釈すると、そういうことになる。

不正選挙や大麻解禁(2016年1月19日)は、いずれも、(国際秘密力集団の)ビジネス(チャンス)である。「誰が利益を得るのか」という原則は、ここでも適用可能である。角本氏の指摘は、真実であった場合、「左」側にとっては思わぬ打撃となるが、日本社会を正常化する過程においては、必要なものであったということになろう。ニューエイジ思想は、「大麻やLSDなどの違法薬物に対する信仰」と「抱き合わせ販売」されることで、いざとなれば、「薬物の違法使用」を成員の「臑の傷」として利用できるよう、社会工学風に言えば、「設計」されている。かくして、ニューエイジ思想は、「両建て」の一翼としての「人工芝運動」として駆動し始めるのである。

角本氏よりも、私の方が「運動」全般に対して、過度に臆病であるが、組織的運動というものに対する私の不信は、大学新入生時代、田舎出のぼっちのためにオウム真理教の学生信者から勧誘を受けたという、私の経験に骨絡みのものである。私が大学生の頃には、カルト宗教の勧誘競争が喧しかったものである。ロスジェネの世代体験は、オウム真理教事件という相当に悪い形で顕在化した結果、角本氏の世代における一部カルト宗教に対する経験の欠如につながるべく、大学行政に反映された。角本氏と思しきブログには、自身が役に立つか否かを悩む文章が見られるが、役に立たないものなどないのである。それが超越的存在というものの摂理である(棒)。

角本氏の顕名での告発は、三宅氏周辺の大麻の違法?な使用に対する事実の摘示を「裏切り者」に対する不信感抜きに成功させたものとして、テロ対策上、高く評価できる。「組織の中に警察のスパイがいる」という不信感(と、実際にスパイがいたとされる事実と)は、内ゲバ(集団リンチ)を通じて、連合赤軍をわが国史上最大の極左テロリスト集団へと変貌せしめた。角本氏は、自身のSNS上の言論(とそこから窺うことのできる現実の活動)を通じて、(明らかに生活レベルは「上」のものであるように思われるが、)一人の母親としての議論を誠実に編んできたように見える。その言論は、少なくとも、言論だけで判定する限り、自身の安穏とした生活をリスクに晒してでも、社会的に訴えるべきことを訴えたように、私には思われる。「この人が言うなら、三宅氏周辺には、そのような疑いがあるのであろう」という印象を与えたのである。この指摘は、三宅氏周辺グループを孤立させ、極端な方向へと走らせる懸念こそ残るものの、三宅氏の仲間たちが極度の不信感を相互に抱きながら、「裏切り者」を探すという作業を不要なものとした。それゆえ、三宅氏らがきっぱりと大麻の使用を中止し、合法化を訴えるに留まるように変わるのであれば、関係者全員が結局は利益を得るという「結末」を迎える可能性を残すものとなっているのである。実に、理に適った告発の方法である。仮に、角本氏の告発が、一種の(警察の不作為をテコとした)工作活動であり、ここに示した「結末」へと至った場合、私が行政警察活動(生活安全警察活動とも呼ばれている)として考える理想型の一つを実現したものと言えよう。現実に刑事司法機関を動かすことなく、あるべき安定的状態へと、関係者全員を軟着陸させたことになるからである。

もっとも、角本氏の告は、彼女なりの熟慮に基づき、なされたものと主張されているとはいえ、その帰結に対する考察は、主観の域を出なかった可能性が認められる。たとえば、山尾志桜里氏に対する角本氏の評価は、角本氏自身の環境と主観に根差したものである。この角本氏の評価は、前稿において、たとえば、私が

現時点の日本文化が不倫に対して不寛容なこと自体が問題の核心ではない。日本国民が己を知らないがために、『週刊文春』ごときに良いように振り回されていることが問題なのである。
と評価した(2017年9月7日)ほどには、周辺の環境を考慮したものではないものとも認められる。もっとも、自身への好印象がそれぞれの言説から形成されることを見越した上で、今回の告発・山尾氏への評価を、現在見られる形に調整した可能性も十分に残る。[山尾氏の不倫(への非難)]を[三宅氏への告発(への信憑性)]につなげ、同時に、[三宅氏への告発(への信頼性)]を[山尾氏の不倫(に対する批判への同意)]につなげる、という「双方向」の印象強化である。(私は、考え過ぎだと思うものの、)この可能性が妥当するとすれば、角本氏は、読者を完全に手玉に取るレベルの政治巧者ということになる。『たびレジ』に登録するくらいの御仁であるからには、この可能性は、ない訳ではなかろう。ぱっと見、夫君の職業も分からないし。


[1] Kakumoto Yuri - よくよく考えたんですが、やっぱり書きます。... | Facebook
(Kakumoto Yuri、2017年06月13日12時40分 JST)
https://www.facebook.com/yuri.sakuma.39/posts/1403045166453493




2017年9月11日・14日修正

当初の意図を変えないよう、文面を変更した。