ゾンビ映画において、やはり地域性は人間の側に現れる
内山節氏は、『苺とチョコレート』というキューバ映画について、
と述べる[1]が、この内山氏の評価は、『フアン・オブ・ザ・デッド(Juan of the Dead, 2011)』[2]にも、おおむね適用可能である。「芸術家」を「ゾンビ」に変えるだけで、それなりのフィット感があるのではないか。2013年9月24日付のオフライン用のメモがあったので、内山氏の観察を補強するため、本稿に即して一部を修正しながら掲載する(。削除した部分は、コメント化してある)。社会主義的なシステムにも、その地域の歴史や風土が反映する。だから、『苺とチョコレート』にかぎらず、多くのキューバ映画がみせているものは、明るいカリブ海の
陽 ざしと、ラテン的陽気さに包まれながら展開するキューバ的社会主義の様子である。官僚組織による芸術への統制と人間の自由という深刻なテーマを描いたこの映画のなかでも、登場するハバナの人々は、日々の暮らしを楽しみながらこの芸術家とともにある町を大事にしていた。〔p.204〕
キューバ発ゾンビ映画の『Juan of the Dead』は、この点(、生活の質なる概念を考察するに当たり)、とても示唆的である。キューバ特有の「何とかなるわな」精神で、ゾンビ病の流行さえも「安らかにあなたの最愛の人を逝かせます」という商売にしてしまう。つまり、ある人間にとって、災害は、単に災害であるのみならず、福音にすらなりうるのである。もちろん、そこには、終末論者のような積極的に危害を歓迎する考え方から、この映画の主人公たちのようにチャンスを生かすという考え方まで含まれる。〔...略...〕
この私のメモは、以前の論考(2017年7月26日)では活用されていないが、その理由の第一は、私のズボラさ(と迂闊さ)によるものである。このキューバを舞台とした作品は、あまりにもキューバ感満載である。そのてんこ盛り感は、パラオを始めとする南太平洋の島々を想起させる『Dead Island』シリーズと比較しても、過剰という印象を与える(。コンピュータゲームのプレイ時間は、映画に比べて、数十倍のオーダーになる。このため、評論に際しては、ゲームが多くのイメージをプレイヤーに与えることが可能である点に注意を払う必要がある。また、蛇足となるが、ゲームを誠実に評論するには、1つのタイトル当たりで言えば、映画よりも多くの時間を必要とするようにも思う)。『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ(Wyrmwood: Road of the Dead)』[3]は、ギミックが多いためか、オーストラリアを感じさせる力は、どちらかといえば、そこはかとないレベルであった。このため、考察の際には、すっかり抜けていたのである。「漏れなく重複なく(MECE)」は、私の中では徹底されているとは言い難い。
#内山氏の生活感から来る哲学は、プレッパーめいたものを感じさせる。というのは、オチのつもりである。
[1] 内山節,(2015.8).『戦争という仕事』(内山節著作集14), 東京: 農山漁村文化協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/026616280
[2] Juan of the Dead (2011) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt1838571/
[3] Wyrmwood: Road of the Dead (2014) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt2535470/
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