2018年6月23日土曜日

(一言)かなりの文章は段落書きできたりする

#本ブログでは私事を公開すべきではないのかも知れないが、座敷牢のような環境ゆえ、構わなかろう。

ここ一ヵ月あまり、私は、断続的に、普通の人なら段落書きしないであろう種類の文章を、段落書き※1しつつ推敲していた。この作業は、自分にとっての謎を解くためのものでもあり、自身の生き方を定めるために必要なものでもあった。抽象的なことしか書けないが、この作業引き起こ結果は、私の現時点の道の行先を、間違いなく決めることになる。ただおそらく、私の望まない方向へと話は進み、本ブログは、めでたくも?低空飛行を再び続けることになるのであろう。私は、周囲の方々と呼んで良いものかは分かりかねるが、ともかく、自分以外の他者に余分な迷惑を掛けることを申し訳なく思いつつ、自ら望んで、この作業を進めてきた。また、私は、望まない展開を迎えることになることを恐れながらも、そのような展開を強く予期してもいて、その結果を引き受けなければならないことを、悲しみながらも理性を保ちながら覚悟しようと努めている。

この作業経験を通じて、私は、色々な文章が段落書きできるのではないかという確信を、ますます深めることとなった。本ブログの他記事のように、今までも、私が表現しようとする内容は、複数の意味合いを同時に含むものが多かった。しかし、今回の作業は、とりわけ、両義的な内容を正確に表現することが求められるものであった。この点、平木典子氏の『アサーションの心 自分も相手も大切にするコミュニケーション』(朝日新聞出版、2015年4月25日)は、段落書きされてはいないが、非常に参考になる書籍ではあった。アサーションとは、自分も相手も独立した人格であることを心の底から認め、自身の権利も相手の権利も尊重する姿勢を根本に据えた、相手との関係を調整・調停する※2ためのコミュニケーション技法である。自身と相手の両方を大切にする姿勢は、アサーティヴという形容詞で表現される。私がこの状態を志向し、葛藤に陥った自分自身の感情を順々に説明しようとした際、段落書きは、とても有用な手段となった。実例は、私事ゆえに挙げることができないが、冒頭の段落で、その一端を示せるように努力してみた次第である。ただ、この考え方をたとえ的確に理解できたにせよ(、そして私は、まだまだなのだが)、上手に相手と心を通わせられるかどうかは、当然、自分だけでなし得ることではない※3

他方、かなりの文章が段落書きできるもので、しかも、段落書きによって文章の意図が損なわれないとすれば、段落書きされていない論文・説明文は、ますます、読み手の利便性を考えていないものであることにもなろう。読者の利便がいかなる要素から構成されるのかを徹底的に考察していないと指摘できる事例として、大澤聡氏らの『教養主義のリハビリテーション』(2018年5月15日、筑摩選書0160)の前文を挙げることができる。この文は、論文の国際的標準にそぐわないレベルである。これを世に問うて恥ともしない彼(ら)が、リーダー・フレンドリーというコンセプトを批判する〔p.15〕ことは、天に唾する振舞いである。段落読みできない文章は、明らかに顧客=読者へのサービス精神に欠ける。自らの能力不足から生じた欠陥を棚に上げ、教養主義の大家(たいか)の口を借りる形で顧客重視の姿勢までを批判することは、ますます、教養主義を笠に着る連中への憎悪を煽ることになろう。


おまけ;もはや研究者と呼べない今の私にとって、ある知識の重要性は、その知識の新規性には左右されない。陰謀論者の指摘する事柄は、大抵、ある人々から※4見れば、枯れた知識と呼べるものである。それでもなお、現代社会の実相を理解しようと志す研究者は、陰謀論と呼ばれる種類の主張の含みを、一度は真剣に検証し、自身の進む道を選び取る必要がある。この作業を経た上でも、イヌの道に進むという選択肢は、十分にあり得よう。現在のわが国は、働かざる者食うべからずの意味を狭く捉えがちであって、イヌの道は、私だけでなく多くの他人が羨むような、カネと栄達を同時にもたらすのだから。この主張の反面、本稿を含めた本ブログでの作業は、知識産業の亜種としても評価されるものではない。ただ、そのことを最初から予測していたからこそ、このブログそのものは、マネタイズしないのである。


※1 念のため、段落書きとは、パラグラフ・ライティング(paragraph writing)の訳語で、一段落一主題、主文(トピック・センテンス、ヘッド・センテンス)に段落を要約した文を置き、残りの段落内の文で話題を無駄なく漏れなく構成する書き方である。このように文章を組むと、読者は、段落頭の文だけを拾い読みしても、文章全体の大枠をつかむことができる。この技法について触れた日本語書籍は、次第に増えつつある。ただ、ある言語における読者の利便という集合的利益の観点から、この段落書きを書き手に求めるよう強く主張する人々は、相対的に多くはなさそうである。

※2 前掲の平木氏の著書の内容そのものは、自身の最近の複数の体験を通じた限りでは、ツボを押さえたものである。社会生活において、自身に沸き起こる複数の葛藤する感情を余すところなく表現することは、なかなか難しい。しかし、素直に感情を表現することを自身に許し、その上で自身の発言に対して責任を持つという考え方は、この難しさをかなりの程度まで軽減してくれる。段落書きは、このような両義的な葛藤を通り良く表現していく上で、大変便利な執筆技法である。

※3 この考え方は、80年代以降の構築主義やその前段階に当たるラベリング理論で示されてきたものであるし、現代のセキュリティ研究を貫く主題でもあるので、このように主張しても構わないであろう。両者の願いに葛藤があるような場面での対面的コミュニケーションについては、相手もそうしてくれるという相互尊重への期待があればこそ、繊細な表現も可能となる。ただ現実に、今日(2018年6月23日)の私は、その域まで達することができずに、周りにご迷惑を重ねてお掛けしてしまった。本稿は、このお詫びをお届けしたい方々が辿り着かないであろうこの辺境の地において、お詫びを永久保存するためにも編まれたものである。

※4 少なくとも近世から現在まで、人類の大多数を抑圧してきた社会構造と、これを運用するための勘所は、ある地位の人物たちにとっては、自明とも呼べる知識であろう。しかし同時に、この知識があまねく人々に解説され、得心されなければ、いわゆる99%の人々は、団結することなく同類相食むだけに終わるであろう。人間の本性には、同胞意識と利己性が同時に備わる。この両義性は、圧政的な社会構造に進んで奉仕し、学者としての倫理に悖る行動によってでも立身出世を求めるイヌたちを産むという危険を現にもたらしている。ここ半年ほど、とみに陰謀論の語を脈絡なく・必然性なく用いるニューフェイスが増加しているのは、現在がエージェントの世代交代の時期に当たるためであろう。




平成30年6月24日訂正

大意は変えていない。訂正部分を淡赤色で示した。

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