2018年1月28日日曜日

(メモ・書評)トランプ氏はダボス初登壇であった

とは、BBCワールドの『デイトライン・ロンドン』(2018年1月27日23:30~00:00)の特派員ヘンリー・某氏(東洋系の男性)のお話であり、America Firstではあるが孤立主義ではないとも解説していた。トランプ氏の登壇は、ビル・クリントン氏以来、アメリカ大統領として、18年ぶりであるともいう。トランプ氏は、世界で最も富の集積する都市の不動産王の一人であり、父親の代からの不動産業を大きくした二代目実業家である。この経歴を考え合わせれば、ダボス会議のアウトサイダーから見れば、トランプ氏がダボス会議と関係を有してこなかったこと自体、希有なことであると言えるように思う。この点、オバマ大統領もまた、上手く逃げを打ってきたのかも(2017年2月3日)知れない(。今年はどうなのだろうかという疑問に分かりやすく答えてくれているマスメディアは、予想通り、ぱっと見、見当たらない)。子ブッシュ?あまりにも戦争屋のイヌっぷりが甚だしいので、ダボス会議の参加者全員の印象を悪くするという判断があったのでは、と考えることができる。平和のために開催されているというダボス会議の建前もあろうけれども、現実に日本語を喋る戦争屋がたっぷり参加している以上、この建前は、全然通用していない。

ダボス会議については、現在では一応と呼べる程度に低レベルであり、最早メッキが剥げて久しいが、良好なイメージが維持されるように、各種のイメージ操作が行われている。その証拠の一つを引用しながら解説してみよう。ダボス会議の偽善性はバレバレであるから、そのような証拠を挙げる必要自体がないのでは?と思う向きもあるかも知れない。しかし、脱構築という作業は、社会科学において発明された永久機関のようなもの(、果てしなくネタを生産可能な方法論)であり、単に文章を引いて「こいつは庶民の敵だと思うのだけれども、皆、どう思う?」とだけ記すことがわが国の著作権法によって許されない昨今、どうしても、必要な作業でもある(。事実をメモして、同時に、自分の意見をたるものとして提示するという作業が不可能な点で、著作権法は、真に具合が悪い。なお、脱構築という用語自体を陰謀論者としてネタ気味に利用していることも、否定はしないが、ロスコフ氏の記述を欺瞞溢れるものとして誤読してみせる作業は、脱構築の亜種ではあろうとも思うところである)。


クリントン政権の商務省・国際貿易担当副次官からキッシンジャー・アソシエイツの取締役へと転身し、多数のグローバル・エリートとの交流経験から『超・階級』(2008=2009、光文社)を著したデヴィッド・ロスコフ(David Rothkopf)氏は、序章において、ダボス会議の様子と役割を叙述するが、それら(の記述)は、きわめて誘導的・欺瞞的である。まず最初に、ロスコフ氏は、その出席者たちについて、元アメリカ政府高官の言葉を借りて、

「おそらく仲間としての一体感が生じているのだろう。彼らは自国民への忠誠心よりも、ダボス会議とそこに参加する同族達への忠誠心のほうが強いのだ」〔p.44、序章、ページ数は訳書〕
とは記す。しかし、私は、この記述を、ロスコフ氏が自身の客観性を高めるべく用意した、一種の藁人形(論法、自分たちが打ち倒せるレベルの仮想敵を用意して、それを打ち倒してみせる論法)であると理解する。同時に、私は、この記述から、批判者を明記した場合に批判者に対して、ダボス会議の主催者連中から加えられる報復(の大きさ)までを、読み取ることができるように考える。批判者が、物理的に口封じされたり、今後の彼(女)のビジネスへの影響が生じることをロスコフ氏が恐れたために、匿名とせざるを得なかったと考えられるのである。この点、図らずも、ロスコフ氏自身、この内輪の批判者を仲間として認知していることも暴露してしまっている。仲間ではないから損害を与えて報復されたくないという意見もあり得るが、ま、ダボス会議の部外者(である私)が判定して記述したことが、書籍の読まれ方の出力としては、全てである(という具合に話の流れを切断できるのが、構築主義の便利なところである、と私は勝手に思っている)。

ロスコフ氏は、ダボスに批判的な外部の人々へと直接接触した話を示さずに、他方で、その参加者については、一方的に人間味溢れる人物として描き出す。ロスコフ氏は、ウゴ・チャベス、エボ・モラレス、ウラジーミル・プーチン、マフムード・アフマディネジャド、イェルク・ハイダー、ジャンマリ・ルペン、ルー・ドブス、パット・ブキャナンの各氏の名を挙げ、彼らが

富と権力を持つ者たちがグローバルな陰謀組織を形成して、祖国との関係を断ち、私利私欲のためだけに行動することによって、世界に脅威をもたらしている、というような話をしょっちゅう持ち出す。〔…略…〕これらの人々にとって、ダボス会議はたんなる経済会議ではなく、敵の本拠地であり、グローバル化を指揮する将軍たちが世界征服を企んでいる場所なのだ。〔p.47〕
と、被害妄想気味の扇動者であるかのように彼ら批判者を描く。もっとも、自らを含むダボス会議の参加者たちをうまく戯画化できているという点では、(このように、あえて自分たちを悪く描写するとともに、批判者の攻撃性を際立たせることによって、あくまで批判者の内部のみで批判に示された負のイメージが共有されているかの印象を読者に与え、読者を自分たちの側に引きつけることが期待できるという意味で、)再帰性を良く理解している。さすが、キッシンジャーの弟子、(投資分野において、再帰性の語を主唱してきた)ハゲタカ・ファンドの首領である(あった?)ジョージ・ソロス氏に連なる一味の広報官である(。タイ・バーツの通貨危機におけるソロス氏の動きを、ハゲタカと呼べない訳はあるまい)。この一方で、「霊感に満ちた作品で知られる〔p.60〕」パウロ・コエーリョ氏の口を借りて、その参加者を

「ここにみんなが集まっているのは、ケーキを等分して、その分け前をもらうためだという、ダボスについての古典的な神話がありますが、私はそうは思いません。

この十年、毎年参加しているからでしょうが、ダボス会議には二つのレベルの人々が来ているということを、これまでになく強く感じるようになりました。一つはビジネス・レベルの人々です。彼らについて私はよく理解できていませんが、〔…略…〕。しかし、もういっぽうには第二のレベルの人々、すなわち人間レベルの参加者がいて、その役割は年々大きくなっています。彼らは会議の参加者に一種の建設的な自覚を促すのです。〔p.57〕

〔…略…〕

〔…略…〕たしかにこれはエリートの集まる会議です。しかし、みんながこうして集まっているのは世界を統制するためではなく、じかに会って相互理解を深めるためなのです」

ミルズやウェーバーのような社会学者なら、まさにそのような人間的な対話こそが集団の結束を強め、まとまりのない同輩たちの集まりをそれ以上のものに変化させるのだと主張するだろう。〔…略…〕その点について問いただしたとき、コエーリョはちょっと困ったような顔をした。彼が口ごもったのはおそらく、ダボス会議ではいくつかの分科会や委員会のメンバーになっているからで、反グローバリストや陰謀論者からの批判を和らげたいという考えがあるのだろう。正規の一員として、ダボス会議は秘密組織などではなく、ただ個人のつながりがあるだけだと言いたいのだ。〔p.58〕

と擁護する。私からすれば、コエーリョ氏は、自身を金持ちたちの「弾よけ」であることを自身が認識していないかのように説明できるという点で、立派に国際秘密力集団の走狗の役割を果たしている(。人ごとのように話すという、「東大話法」の規則8が該当する。私もこの方法を意識的に利用しているが、この方法に意識的であることを示すことこそ、社会的事実に係る観察可能性を維持する上での極意であるとも思っている。私のように考えれば、私のように考えることができる、と言うのは、トートロジーであるが、これが構築主義というものの極意である。「オマエの中ではそうなんだろう」というアレを打ち立ててみせるのが、構築主義の悪用の究極形態であろう)。アンジェリーナ・ジョリー氏もコエーリョ氏と同様の役割を果たしてきたが、芸能人は、ダボス会議において、寄付金の流れを自分たちの善意および正義感の適う方向に振り向けさせることで自己満足感を高めると同時に、ダボス会議が社会に貢献しているということを金持ちたちの代わりに主張する、という役割を与えられている。このことは、個々の事情や意見を捨象して、外形的にとらえれば、否定しようのない事実である。これこそが、コエーリョ氏が信じたいとする従来の「システム〔p.61〕」を、アウトサイダーから見たときの評価である。また、対外的にダボス会議の立場・建前を説明すること自体によって、彼ら芸能人は、自分たち自身の後ろめたさをも解消する機会と、自分たちの名高める機会の双方を得ることができる。諺で言えば、虎の威を借る狐であり、スネ夫症候群ということになろうが、これ自体が売名・つまりはビジネスチャンスにもなるという点で、真にいかがわしいサイクルが形成されている。このようなシステムにおける意志決定においては、インターネット社会、いや、SNS社会を迎えた現在においても、彼ら芸能人が多くを搾取する顧客でもある「民主主義」各国における選挙民の意志は、何ら反映されていない。コエーリョ氏やジョリー氏を選挙民が大変に嫌っているとしても、彼ら選挙民は、経済システム内部において広告業者が自分たちの取り分を差っ引いていくことを通じて、彼ら芸能人の上がりを負担させられている。この「搾取される側」の意志決定過程からの排除こそが、ナショナリストによって汲み上げられる不満の中心にある。にもかかわらず、ロスコフ氏は、また、コエーリョ氏のインタビューは、この論点について触れようとはしない。「オマエらが勝手に世界の形を決めるな」という各国の「忘れられた階層」の平等意識と不満は、厳然として存在する。まさか、2018年現在、マスゴミのいうこの事実を、当のダボス会議の参加者たちが認めない訳にもいくまい。ロスコフ氏は、自身の記述から、この庶民の不満を完全に欠落させながら、ニュージャージ出の自分自身を、パンピーの側にいるかのごとく描こうとする。わが国の国民で、竹中平蔵氏を庶民の代表と考える人々が、どれだけいるのか。竹中氏が国会議員として獲得した票は、庶民の代表としての期待に基づくものでは決してなかろう(し、もちろん、私は、それ以上の不正があるものと疑っている)。一般人の意思決定過程への参画の欠如に係る記述「世界を支配する」連中の側にいるロスコフ氏の記述から抜けていることは、そのまま、「世界を支配しようとする目論見からわれわれが排除されている」とナショナリズム支持者が感じることの、確固とした根拠である(。それに、学者の役割は、事態を過不足なく理解できるように説明することであるから、ロスコフ氏は、ダボス会議の役割を説明することに、学者・専門家としては失敗したことになる。2018年1月27日記事・補論)。

また、ロマン・アブラモヴィッチ氏について、次のように記すあたりは、先のプーチン氏への言及と対比させれば、よくよく、ロスコフ氏の立ち位置が「ヤツら」と「我ら」のいずれに近いものかを明らかにしている。

〔p.80〕

公平性と拡大する不均衡の問題はさておいて――のちほど述べる――どの分野においても、ごく一部のやり手たちが、群を抜く巨額の報酬を受けとっているという、同様の結果が生じていることは明らかだ。

しかしながら、私は本書の目的に則して、特定の事業分野における富や業績よりも、国際的な影響力の面でこうした状況が典型的に見られる人々に焦点を当てたい。ロマン・アブラモヴィッチ――ロシアの新興財閥オリガルヒの一人で、シベリア地方の知事も務め、イギリスのサッカー・チーム〈チェルシー〉のオーナーでもある――は、そうしたエリートの一人である。

〔…略…〕

〔p.81〕

どの人物も百万人に一人の逸材である。〔…略…〕

地球の全人口六十億人のうち、六千人ほどがそうした人々で、人間の行う事業のあらゆる分野に見ることができる。〔…略…〕〔p.82〕

これらの個人の決定的な特徴は力だ。〔…略…〕

彼らはその才能、業績、財産、または、これら三要素のなんらかの相乗効果によって、ひじょうに大きな影響力を手にした数少ない人々である。〔…略…〕影響力は人格ではなく、人格の欠陥から生じることもある。たとえば冷酷さ、一つの考えへの偏執狂的なまでの個室、強欲といったものだ。

現時点までにおいて、アブラモヴィッチ氏は、複数の疑獄への関与が指摘され、(先に見たように、ダボス会議を批判する当の)プーチン政権との裏取引が匂わされてきた(。これが、「先進諸国」の「マスメディア」の「中立的」な記述に基づいて「客観性」を担保されたとされる『Wikipedia』の英語版の記事(リンク)から受ける印象である)。このとき、アブラモヴィッチ氏を「逸材」という語を用いてロスコフ氏が形容したことは、訳書の記述であるとはいえども、事実である(。訳者の責任であるというつもりは、微塵もない。職業的作家が商業出版システムと上手に付き合い、訳書の品質をコントロールすることの重要性は、村上春樹氏が『職業としての小説家』(2015、スイッチ・パブリッシング)で述べている。人物について「逸材」の語が利用されるとき、これが好ましからざる性質を有する意味で用いられることは、皮肉以外の場合を除けば、まずない)。ロスコフ氏は、好ましくない人格(、これを、「人格の欠落」といった形で表現することは、よくよく覇道一神教的な精神によって、ロスコフ氏が駆動されていることを示す証拠である。)が突出した力の源泉となった可能性について、言及してはいる。しかし、全体を通じてみれば、ロスコフ氏の記述は、人格者であるために成功した高潔な人物たちがダボス会議に集合し、毎年の交友関係を暖めているという印象へと、読者を誘導しているのである。以上、ロスコフ氏は、世界の99%から見れば、エリートの観察者・研究者というよりも、立派にエリートの代弁者である。


なお、同書は、段落書きされている。国際秘密力集団の代理人に対抗する側も、効率性を上げるために、ぜひ、学ぶべきところは学ぶべきと思う。西部邁氏の論説が段落書きされていなかった、言い換えると、同時代的な学問水準に到達していなかったことは、その影響力と相俟って、「保守論壇」の健全かつ迅速な発展を阻害したものと言える(2017年6月11日)。

「スーパークラス」の定義が「流動性の高い〔p.163〕」走狗を含む(例:トニー・ブレア氏、ミハイル・ゴルバチョフ氏)時点で、同書は、これまた誘導的である。ブレア氏とゴルバチョフ氏は、政界を引退した結果、スーパークラスからも引退したという形で、閨閥ネットワークの存在を糊塗する材料として、利用されている。「権力から身を引いた結果、慎ましやか、かつ、穏やかに暮らすことのできる元・スーパークラスがいる」といった案配で、説明材料として提示するための枠である。細川護煕氏は、この枠に入れることができるやも知れない。細川氏の場合には、メトロポリタン美術館(The Met;ロンドン警視庁も同様の愛称に作品を展示してもらえるというおまけ付きである。もちろん、このネットワークは、複層的に権力集団の関係を強化することに寄与している。これらの「引退した人々」は、その生き方自体が、一面的には安全、かつ、名声を博せるものとなっているという点で、国際秘密力集団によって「リサイクル」された事例となっている。ロスコフ氏が自身を走狗という地位にあると認識しているとすれば、ロスコフ氏の「スーパークラス」の定義自体が、自身の走狗ぶりを際立たせる理解の枠組であると評価できよう。

隣接分野に対比してみると、ロスコフ氏のエリート論に対する役割は、疑似科学(のうち、国益に影響を与えると見做された意見)に対する「と学会」の役割と同等である。

#今後、引用と記述をやす可能性はあるが、これで十分な評価材料が貯まったように思うので、本稿はおしまい。


2018年1月28日・31日訂正

明らかな事実関係の誤りと文面の一部を訂正した。メトロポリタン美術館と著作権法の主従に係る二点の誤りについては、お詫びする。

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