2018年3月7日水曜日

(書評)大抵の大卒者は沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』を読むべきである

沼崎一郎氏の『はじめての研究レポート作成術』[1]は、岩波ジュニア新書であるが、大半の日本人が一読すべきであろう。論文の要件(インテグリティ)、事実と意見の区別、事実の収集方法、自説の整理方法、文章作法(パラグラフ・ライティング、段落書き)、ゼミへの参加と指導、といった基礎的で網羅すべき項目が、コンパクトにまとめられている。ある日本人が大学を卒業した実力があると主張するためには、同書に示された内容を修得している必要があろう。とりわけ、商業雑誌に良く見かけるような、体裁の乱れた文章を書いている多くの「研究者」にこそ、熟読してもらいたい。

もっとも、新聞を重要な情報源とすべしとの第2章第2節は、巧妙なウソとして誤読される可能性を持つ内容となっている。端的には、

しかし、新聞は、ジャーナリズムのルールに従って、事実と認めてよいと記者と編集者が判断した事柄のなかから、人びとに伝える価値があると認められるものを選んで記事にしています。〔…略…〕

という記述〔p.46〕は、現時点の典型的「ジャーナリズム」に対する誤解を避けるためには、「ジャーナリズムのルールなるものが金主の意向を反映するあまり、伝える価値のある事実を欠落させていることもある」旨の記述にまで、非難の調子を強める必要がある(。もっとも、この書籍に対して、ここまで啓蒙的な役割を求めるのは、期待し過ぎというものかも知れない)。

以上に見たように、新聞に係る記述の恣意性は認められるものの、沼崎氏の書籍は、たとえば、木下是蔵氏の『理科系の作文技術』[2]と比べても、段違いに有用である。私がかつて大学の学部生であった頃(平成6年度)、木下氏の著書は、大学生協に平積みにされており、私は、推されるままに同書を購入した。その後、同書のおかしさに対して、最近まで気が付かずに過ごしてしまったが、仮に当時、沼崎氏の書籍に先に触れることができていたならば、文章作法については、無駄な努力をせずに済んだかも知れない。というのも、木下氏は、段落の重要性について触れてはいる〔4章〕ものの、同書自体は、段落書きが徹底されていないからである。木下氏は、実のところ、段落書きの効用を十全に考察してはいない。というのも、パラグラフ・ライティングされた書籍は、速読に不慣れな読者の読書スピードを増加させ、結果として彼らの利便を増進するからである。段落書きされた文章は、この点、消費者本、消費者主権主義である。木下氏は、前掲書の第1章で主張していたほどには、読者の都合を執筆時に考慮していなかったと批判できよう。

木下氏の著書は、案外無視できないほどに広範な負の影響を、日本語論壇に与えているやも知れない。稚拙な文章の書き手が偉くなり、しかも多数派を形成しているとき、ろくでもない文章を読み落とした責任は、読者の側に押し付けられてしまう。読者が作品に不満を持っても、作品が低質であるとの認識が共有され、これらの作品を超えようとする良質な書き手が現れなければ、言論市場は変化する機運を持たないであろう(。この点、文芸作品の質には、恐れ入るばかりである。面白い作品が市場に溢れている)。木下氏は、段落書きの効用を将来の書き手に分かりにくく伝えたことにより、思わぬ負の影響力を日本語環境に対して発揮してしまったが、もはやこの世にいない。遺族にとっても出版社にとっても、売り続けることしか、この書籍から利益を引き出す方法がない。ここに、学術書についてのボトルネックがある(。この話は、ノンフィクションやエッセイについても、該当しうる)。

賞味期限が存在するにもかかわらず、著者によって引導が渡されなかった書籍は、ゾンビのようなものである。50年前なら50年前の事情を読み込んで(、一部に見られる表現によれば、「情報を抜いて」)、その書籍に当たれば良い。当時の事情を調査する必要のある学者やジャーナリストであれば、それらの書籍にも、遺物としての一定の価値を認めよう。しかし、商業原理ゆえに賞味期限切れの書籍が売り続けられるとすれば、ここで文章作法について見たように、日本語環境全体を汚染するという思わぬ副作用を生む。汚染された環境は、汚染された書き手を再生産する。汚染された多数の書き手は、特定言語の人間社会を停滞へと陥れる。この自家中毒は、ゾンビ・パンデミック(大流行)と呼んで差し支えないであろう。例外として、ビジネス書やソフトウェアの解説書、自然科学に関する書籍が挙げられよう。これらの書籍に賞味期限が存在することは、ほぼすべての読者に理解されているであろうからである。言論環境までを考慮したとき、出版社は、自身のビジネスに後ろ指を指されたくないのであれば、後継者の発掘と指導までを含まなければならないのかも知れない。この点、残念ながら、日本語という情報環境は、ゾンビ・アポカリプス(黙示録)後の世界にある

木下氏のダメ紙上講義の瘴気に当てられた実例としての私にも、読者としての責任のいくらかはあるが、木下氏の書籍を長く流通させた社会的構造に対しても、多少の恨み言をぶつけても構わないであろう。というのも、最近、エーリッヒ・フロム氏の著作を改めて能動的に読み進めてみるにつれ、『自由からの逃走』やその続編にあたる『正気の社会』については、段落書きが徹底化されてはいないものの、(木下氏の著書に先立つ)中後期の著作においては、エッセイであっても、完全な段落書きが実現されていることに気が付いたからである。教えてもらっていたならば、明らかに気が付けたであろう、という程度の明瞭さである。通常、私は、新書をベタ読みするのに2時間程度を要していたが、同程度の分量である『反抗と自由』などは、15分くらいで段落読みできるようになっている(。もちろん、飛ばし読みであるが、的確に飛ばし読みできるようになったと自覚できている)。

パラグラフ・ライティングという文章作法を信用することは、二点の理由から、リベラル的であると言える。まず、この言論システムを信頼することは、個人の野放図な論説の制作という自由を制限するが、システムに対する信頼そのものは、社会契約説を参照するまでもなく、リベラルであると言える。次に、論説における段落書きは、「この作法を知る読者」すなわち他者を思いやることにつながるから、ロールズ風のリベラルでもある。パラグラフ・ライティングが言論界で貫徹されていれば、言論人同士の誤読・誤配は少なくなろう。また、つまらない外野の声を雑音化することにも役立とう。「つまらない外野」の中には、文章作法のなっていない論者も含まれるということになる(が、そこは、論者自身が修正すべきことである。誰でも発信可能な時代において、「知識人」という旧来の権威が相対的に無力化されることは、避けられない)。

他方、日本のように、公用語の影響力が自国内に限定された国家においては、段落書きされた文章表現は、社会集団が効率よく情報を吸収できるという観点から、社会防衛主義的であると言うこともできる。わが国の事情は、ドイツやイタリアといった、遅れてきた帝国主義国家においては、共通するものであろう。旧植民地においては、高等教育が英語で行われる状態が標準的となっている。皆が統一された読書術・文章術を修得していれば、文章を効率よく、かつ的確に理解することが可能となり、結果、議論の正確性も向上しよう。そうであるべきところ、しかも日本語論壇に舶来ものをありがたがる風潮があるにもかかわらず、なぜか、文章作法だけは、未熟な状態に留まっている。自称「保守」や「国家主義者」の著者の大半が段落書きできておらず、その理由についても言及していないことは、社会防衛主義者から見たとしても、お粗末な事態である。この事態は、「保守」や「国家主義者」の大半がマウントを取りたいだけの権威主義者に過ぎないのではないか、という疑いをも抱かせる材料でもある(。もちろん、本稿は、「正しい知識」という観点からのマウント・ポジション狙いのものである)。

私は、効率的かつ効果的な読書体験を、日本語話者・日本人の生き残りに役立つものと考える。民族のサバイバルには、非常に広範な分野に散在する知識を集成し、知恵(知性)へと変化させることが必要となる。段落読み・段落書きは、各人が実践すれば、社会において、その作業効率が指数関数的に高まるという集合的効果を生じよう。また、段落書きされた文章は、国際秘密力集団の手口に通暁した上で、日本人に対して的確な助言を提供している人々の所在を示す手掛かりとなるやも知れない(。敵方もパラグラフ・ライティングされた書籍で効率的に学習している以上、民族独立の意志と知識との両方を兼ね備えた人々が、その知恵を伝達しない訳がない)。

ただし、読書体験の向上した社会に何が生じるのかは、私には分かりかねることである一方で、羽田圭介氏の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』[3]は、この帰結に対するヒントを与えているような気がする。同書は、ゾンビ物の例に漏れず、群像劇となっている。そのうちの一人、ビジネスマンの「浩人」は、映画を早送りで見るといった「時短」を習慣とする。彼は、ゾンビ映画を時短で見た後、ネットで他者の感想を検索・確認した上で、自身の感想を大勢のものへと修正する。挙げ句、関連事項を次々と検索し続け、時短で節約した45分間を浪費してしまう〔p.73〕。この先は、ネタバレとなるから、オチは、同書に譲ることとしよう。


[1] 沼崎一郎, (2018.1).『はじめての研究レポート作成術(岩波ジュニア新書865)』, 東京:岩波書店.
http://id.ndl.go.jp/bib/028725437

[2] 木下是雄, (1981.9). 『理科系の作文技術』, 東京:中央公論社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000001522014

[3] 羽田圭介, (2016.11). 『コンテクスト・オブ・ザ・デッド = CONTEXT OF THE DEAD』, 東京:講談社.
http://id.ndl.go.jp/bib/027697574




2018年7月27日20時27分訂正

一部の表現や誤記を訂正した。

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