2017年12月22日金曜日

(一言)2017年12月21日日経夕刊の藪中三十二氏のコラムについて

藪中三十二氏による昨日の日経の夕刊コラム[1]は、形式も中身も、学者の記述するエッセイとなってはいない。形式上の問題点は、二点ある。一点目、最初の二つの段落は、段落読みできる内容となっているが、残り二つの段落は、トピック・センテンスが段落の内容とは一致していない。二点目、「「外国人労働者100万人時代」という大見出しの報道」は、グーグル様にこの見出しをお伺いしてみると、複数存在しているために、典拠を特定できない。エッセイの内容は、第三段落で100万人の内訳を「専門技術分野が20万人…40万人が「身分に基づく」とあり、永住者やその家族、ブラジル日系人…技能実習生が21万人、留学生など資格外活動が24万人」と述べた後、最終段落で、フィリピン人による介護には介護福祉士の資格が必要とされており、介護の実態と乖離していると指摘し、単純労働力についても一定の制度設計を行い「ホンネでの受け入れを進めるべきではないか」と主張するものであるが、介護における実態を外国人労働一般へと無条件に拡張している。このコラムは「外国からの留学生も多いクラスで真剣な議論」をしたと言うが、大学で行われたと認められる※1授業に係る報告が学者としての実態遂行能力を欠いたものであることは間違いないから、授業もおろそかであろうと推論することに問題はなかろう。


※1グーグル様に「藪中三十二 site:ac.jp」でお伺いを立ててみたところ、時期はともかく、大阪大学国際公共政策研究科(OSIPP)寄附講座・特任教授と立命館大学国際関係学部の特別招聘教授を務めた経験があることは間違いないようである。


[1]『日本経済新聞』2017年12月21日夕刊1面4版「あすへの話題 外国人労働者」(藪中三十二)




平成30年1月2日訂正

文章を訂正した。が、私自身の文章作法の稚拙さは、私自身の主張の信憑性にこそ影響を与えるものの、藪中氏に対する私の疑問の正しさそのものに対しては、依然として影響を与えないであろう。

2017年12月15日金曜日

(一言)陰謀説を語る上で、どこまで文章を正確に記述すべきか

私の考えでは、表題の答えは、「A氏は「B氏がCをDであると言う」と言う」などと記述すれば、ほぼ十分ではないかというものである。動詞は、もちろん変更可能である。A氏やB氏などの個人は、組織に置換えもできる。十分な知識もないので言語学への深入りは避けるが、ここまで記述しておけば、陰謀論・陰謀説に係るほぼ全ての社会関係を正確に記述することができようし、厄介な再帰性の問題も、必要なだけ記述することができよう。


#この種の短文の発信方法は、ツイッターとすべきかも知れないが、そうすると、著作権の問題も含めて新たな問題が生じるので、本ブログを利用することとした。

2017年12月10日日曜日

(感想文)『John Wick』劇中の金貨について

キアヌ・リーブス(Keanu Reeves)氏主演の『John Wick』(2014年)のケーブルテレビ放送を録画し鑑賞した。

劇中で暗殺者たちにより使用される金貨の価値がどれくらいか、少々興味が湧いたが、流石はインターネット、議論自体は既出のようである(。しかし、納得はできかねる)。アダム・オズィメク(Adam Ozimek)氏は、金貨が独自の地下経済圏を形成しているものと推定されると解説している[1]。『StackExchange』のスレでは、深く考え過ぎるなという回答がトップに見られる[2]。しかしながら、劇中には、非常に多数のサービス要員が登場するが、実体経済との交換可能性が存在していればこそ、これらのサービス業者も存在できよう。このため、先に見たような外野の意見は、問題の本質をはぐらかそうとするものでしかない。現に、劇中においても、ミカエル・ニクヴィスト(Michael Nyqvist)氏演じるロシア・マフィアの頭目ヴィゴ・タラソフ(Viggo Tarasov)が、自宅の金庫・教会の地下金庫の双方において、金貨とドル紙幣の両方を保管していることは、映像として示される。おそらく、劇中では、組織犯罪集団は、両替商の機能をも兼ねており、それゆえに影響力を維持しているものとも解釈できよう。この点は、現実において、ビットコインが『シルクロード』で利用されていたことと類似するものと言えよう。

『John Wick』中の金貨は、1オンスのウィーン金貨[3]の実勢価格[4]よりも高価に取引される存在であるように見受けられる。劇中では、死体処理に一体一枚、暗殺者の監禁に一枚、安全が維持されたバーへの出入に一枚といった形式で使用されていた。ウィーン金貨は、1オンスが最大の重量(価格)であり、その直径(37mm)は、デイヴィッド・パトリック・ケリー(David Patrick Kelly)氏演じる死体処理業者のチャーリー(Charlie)への支払場面による限りでは、劇中の金貨と概ね同一であるから、比較対象として適切であろう。他方、真鍋昌平氏の『闇金ウシジマくん』では、死体処理が一体50万円という話があったものと記憶している。よって、『John Wick』中の金貨は、1オンスのウィーン金貨よりも、数倍の価値を有する(場合がある)と言えよう。チャーリー一座のサービス内容は、原状回復まで含めたものであり、荷物を持込む必要がある『ウシジマくん』の業者よりも上等である。円に換算すれば、チャーリー一座のサービスは、桁としては数百万円と観て良かろう。わが国の高級ホテルも、一泊百万円近くのサービスが存在することを思えば、安全な食事だけでなく、貴重な情報が提供されるバーへの出入りに対して、金貨一枚という価格は、あながち外れたものでもなかろう。百ドル単位の支出というものは、ニューヨーク市でも、東京でも、中流階級であると自認する人々にとっては、豪勢な一晩を意味するであろう。劇中の金貨は、この一桁上のサービスを提供するというイメージで良かろう。なお、賢明な読者にはお見通しであろうが、これ以上の具体的な価格の追究は、私には無理というものである。

そのほかの感想は、以下のとおり。

  • ロシア・マフィアの無軌道振りは、2014年のハリウッド映画界の戦争屋振りと呼応している。
  • 殺し屋という設定にしては、アクションが大ぶりである。良く体が動くなあとは感心するが、もっと省力的で良いのではないか。
  • 『PayDay 2』というゲームに導入されたJohn Wickは、武器にしても人体モデルにしても、良く再現されている。
  • たかが一匹のビーグルのために?という感想が見られる。しかし、わが国では、類似した言い訳の事件が存在し、少なくとも大マスコミがこの点を追及しなかったことは、忘れてはならない。
  • 交換可能性を追究しすぎると、アドルノがマルクスを援用して言うところの物象化(=何でもカネで換算し、固有の価値を理解できなくなること)を強化することになりかねない。しかしながら、「砂金を蓄積して信用供与の手段として利用するという方法は、国際秘密力集団の資産形成術の本丸である」というのが、落合莞爾氏の近年の主張である。金貨が使用されるという設定そのものについては、同意できる。

[1] Understanding The John Wick Economy
(Adam Ozimek(Contributor, Modeled Behavior)、2017年04月09日12:55)
https://www.forbes.com/sites/modeledbehavior/2017/04/09/understanding-the-john-wick-economy

[2] What's the value of the John Wick gold coins? - Movies & TV Stack Exchange
(2017年10月03日)
https://movies.stackexchange.com/questions/81029/whats-the-value-of-the-john-wick-gold-coins

[3] 田中貴金属工業株式会社|ウィーン金貨ハーモニー
(2017年12月09日確認)
http://gold.tanaka.co.jp/commodity/shohin/wien.html

[4] 田中貴金属工業株式会社|貴金属価格情報
(2017年12月09日確認)
http://gold.tanaka.co.jp/commodity/souba/index.php


#しばらく執筆が滞っていた上、毒にも薬にもならない内容であるが、勉強不足・作業不足のため、まだまだ滞る予定である。

2017年11月11日土曜日

(メモ)大袈裟太郎氏の逮捕は、それだけに留めるべきである

(むき出しの・生まの)暴力が現に猛威を振るうとき、庶民がいかに抵抗できるのか、実のところ、私には、最善の方法が分からない。この問いに対して、エラそうなことを本ブログで散々書き連ねてきておいて、実は、私は、自分用の(小乗仏教的で卑小な)対策しか用意できていない。その対策とは、「非暴力無抵抗を理想とする」というものであるが、実際には、「殴られたら、殴った相手に応じて、合理的に判断する」ということになるであろう。とは言っても、自分が知情意を制御できない種類の弱い意志の生物であることは、十分に理解しているつもりであるので、基本、目に見える危険には近付かないというのが、ひよわな私の対策となっている。もっとも、言論だけに限定すれば、十分な数の敵を作ったし、本ブログを通じて、己の職分を果たせてきているようにも考えている。

ソクラテスの毒杯の故事・20世紀型の非暴力的抵抗、いずれが望ましいのかという問いも、自分以外の人々については、私には答えを分かりかねる。ただし、積極的に暴力を拡散させるという姿勢だけは、これが戦争屋の手口と轡を並べることになるために、拒否したいと考えている。沖縄における基地反対運動は、抵抗する市民の側から積極的な暴力を肯定するようになったとき、完全な失敗と抑圧か、あるいは流血を伴う本格的な独立運動へと、質を転化させることになろう。いずれの将来シナリオも、第一義的には、政体と警察の失敗であるが、副次的には、沖縄からの米軍基地撤退を願う人々の失敗ということにもなる。ただし、沖縄の基地問題の解決を平和的に願う人々に、この悪い結末の責任はない。沖縄の人々が今回の選挙戦において、民意を示してきたからである。彼らは、結果として、圧政の下に置かれ続けるに過ぎないし、私を含めた本土の日本人の大多数もまた、意図はともかく、結果としては無作為であった。ただし、われわれは、沖縄の人々の負担を本土の人間が負わないことを享受するよう認めたことになっているのであるから、それに伴う帰結をも引き受けるべきであろう。

日本では、多数派を自認する人々が自ら悔い改める機会が少ないために、巡り巡って、「一億総懺悔」が強制されることになりがちである。皆が細かな改善を繰り返していれば、破局を経験せずに済んだのに、というケースは、どのような職業人でも、誰しも、自分の職掌について思い当たるのではないか。沖縄の米軍基地負担の軽減や、福島第一原発事故の避難者に対する生活保障の打切り(や自主避難者の当初からの切捨て)は、いずれも、この典型的な「共有地の悲劇」である。多数派の安逸・怠惰は、総懺悔のときにあっても、多数派として、総懺悔への圧力を招く。3.11後の自粛ムードが端的な事例である

戦争屋は、彼らが利益を得ようとする国において、少数派を独立させようとする運動に関与することがある。分割統治と抑圧、流血と混乱は、それぞれが、戦争屋にとって、利益を上げることのできる両極である。彼らは、それなりに狡猾であり、人々の欲望を嗅ぎ当ててきたからこそ、現在の地位を確保し(、その方法論によって、失おうとし)ているのである。2017年に話題となった民族独立運動には、クルド民族、スコットランド、カタロニア、沖縄などがある。(私から見れば、日本はそうではないが、)イラク・クルド以外、先進諸国と呼べる地域で独立が志向されている点は、戦争屋の動きが先進諸国を対象としたビジネスを変化させつつあることを、良く示している。なお、報道が重点的になされているということは、そこでの画策がなかなか上手く行っていないという証拠でもある。便りがないのは、戦争屋にとって、良い便りであるという点を警戒すべきである。

地方分権制度の推進は、戦争屋が付け入る隙を与えることにもなりかねない、諸刃の剣でもある(。本ブログでは、何度か繰り返した)。戦争屋のイヌが権力に潜り込む余地を拡げるからである。ただ、本段落に示した「理論」を知っていれば、戦争屋の介入に対する警戒が必要なこと自体は、直ちに理解できよう。それに、幸か不幸か、わが国の地方公務員は、ここに示した戦争屋の方法論をいなすだけの潜在的能力と、その能力を存分に発揮すべき程度に高額な給与、の双方に恵まれている(。本題に入る前になるが、大袈裟太郎氏がツイッターで沖縄県警察の警察官の対応を評価していることは、その現れである。(擬似的なものではあろうが、)この信頼関係が生まれたことを、前もって、評価しておきたい)。


これで自論を展開する準備ができたので、本題に入ろう;大袈裟太郎氏が2017年11月9日に逮捕されていたことをようやく知ったのであるが、石原岳氏のツイート[1], [2]は、彼が矢部宏治氏と須田慎太郎氏を案内したところに大袈裟氏を引き合わせようとしたその日に、逮捕が行われたと明らかにしている。このタイミングは、石原氏の指摘するとおり、ある意味伝説となってしまうであろう。『産経ニュース』によれば、その罪状は、威力業務妨害罪および窃盗罪[3]である。威力業務妨害は当然であろうし、窃盗も構成要件を満たしてはいるが、何とも「転び公防」風の屁理屈である。大袈裟氏自身は、現行犯逮捕を免れようとしたようではあるが、その様子は、どちらかと言えば、彼自身の怯えが表れたというよりも、展開の唐突さに驚いたからではないかと見える。機動隊員が十分に配備された場所で、彼(ら)の所有物を占有したと言えるのか?という疑問も湧く。

『産経ニュース』の記事の後半部分[4]では、地元住民として、依田啓示氏のコメントが引用されるが、暴力を避けるという点から見て、依田氏は、地元住民として挙げるには不適当である。依田氏は、ツイッター上でも、強い調子で大袈裟氏に非難を加える[5]。他方、同じ『産経ニュース』によって、依田氏は、2016年9月17日に起こした傷害事件によって、今年7月31日付で沖縄地検に起訴されたことが報道されている[6]。ただし、この記事において、『産経ニュース』は、依田氏を「依田代表」と呼称しており、その理由を逮捕や拘置がなかったことに求めている。『産経ニュース』は、このような事例に該当する事件について、「被告」の呼び名を当人に冠していないのかと気になる。

依田氏の起訴された事件については、依田氏[7]と被害者[8]との主張に大きな差がある。しかし、依田氏が被害者の携帯電話を投げ捨てた点については、書類送検という結果となっている。また、被害者が携帯電話を道路外に投げ捨てられたことを指摘している。これらの両点をふまえれば、視聴者は、相当の有形力を依田氏が行使したものと考えることになろう。つまりは、被害者の言い分を全面的に受け入れることができるように思われる。なお、被害者のインタビュー[8]は、『Osprey Fuan Club うようよ対策課』の記事[9]を端緒として知った。

市民の「検問」活動は、依田氏による傷害事件の契機となったが、この活動を山城博治氏が主導し、殴られた被害者が当日初めて参加したことは、一抹の謀略の臭いを感じさせる。一般の国民が検問を張ることは、少なくとも道路交通法違反になることである。山城博治氏が体を張るタイプの歴戦の活動家であることは、広く知られている。他面、「両建て戦術」は、陰謀論に深く親しむ人ならば、良く知る方法論であるが、山城氏のことを表面的にしか知らない人の過半数は、この戦術を知らないのではなかろうか。一人の暗殺者が双方の陣営に銃撃を加えることによって、大流血の事態が起きるという話は、本ブログでも示したことがある(例:2016年9月1日)。依田氏の事件の結果は、比較的穏当ではあるが、真に平和を願う人ならば、両建てが企図されていたという可能性を検討しなければならない。依田氏よりもカッとしやすい人物が停止させられようとして、人身事故となる危険も、ゼロではなかったろう。起訴事実の段階ではあるが、依田氏自身にも、車を停止させるのではなく、アクセルを踏む危険な心が内包されていなかったとは、依田氏以外の誰が信じ切れようか。

山城氏の検問活動は、米軍基地の負担集中という既成事実を踏まえたとしても、マスコミなら山城氏自身と対極に配置するであろう人々の心情と通底するものがあり、この点、批判する側も肯定する側も、立ち止まって考える必要がある。というのも、山城氏のこの活動自体、自主防犯パトロールに従事する人々の心性と相似したものを認めることができるためである。しかし、それだけでなく、山城氏は、自主防犯パトロールに比べ、他者に対して、身体を賭けることを過剰に強いてはいまいか。高齢者ほど、交通戦争と呼ばれた時期を通じて、「車は凶器になり得る」という事実を知っているはずではないのか。ボランティア保険は加入できないであろうが、防犯を目的とするNPOのふりをするというブラックユーモアは、山城氏からは出てこないのではなかろうか。(この指摘は、このような両建てを本件に見込む私自身にも該当するが、)他人を故意に傷つけたり、(犯罪者として)陥れようとする人物たちを、人は信用するものであろうか。ただでさえ、人は、容易に間違えるし、失敗する。人身交通事故がなかったというのが不思議な程である。この点、依田氏の起訴事実がたとえ間違いないとしても、情状酌量の余地があると言えないであろうか。

この相似形を考慮した場合、警察は、大袈裟氏を抵抗のアイコンへと仕立て上げることのないよう、より過激な闘争への途を選び取らせることのないよう、全力を尽くさなければならない。それが、大袈裟氏の逮捕を実行した人物らのマッチポンプのケツを拭く上での、警察の責任である。その処方箋として、私が考えられるものは、題名に示したとおりのものしかない。「保守」は、丸山眞男氏を本富士署で失ったと言えるが、丸山氏は、その文章に(改めて)接すれば、両建て構造に気付いていた節が認められる※1。われわれは、トランプ氏のアジア歴訪を経て、われわれ自身のために、ますます、狡猾でなくてはならない時期を迎えつつある。


※1 ただし、その気付きが正式なトレーニングによるものか、独学によるものか、(こう表現すると不遜ではあるが、)一種の野性の思考に留まるのかは、私には、まったく分からない。なお、東京女子大学に寄贈された丸山氏の資料群の中には、シュペングラーの名が、全集の一部として見られる程度である。国際政経学会筋は認められないし、ゾンバルトもない。全くないというのは、却って、生前に処分されたという場合も考えられなくもない。が、その経緯を詳しく調べもしていない。


[1] (石原岳、2017年11月9日23:55)

[2] (石原岳、2017年11月9日23:56)

[3] 辺野古で逮捕された「大袈裟太郎」容疑者 基地容認派も知る“有名人”だった(1/2ページ) - 産経ニュース
(高木桂一、2017年11月10日14:38)
http://www.sankei.com/affairs/news/171110/afr1711100055-n1.html

[4] 辺野古で逮捕された「大袈裟太郎」容疑者 基地容認派も知る“有名人”だった(2/2ページ) - 産経ニュース
(高木桂一、2017年11月10日14:38)
http://www.sankei.com/affairs/news/171110/afr1711100055-n2.html

しかし法を逸脱して傍若無人に振る舞う左翼・反基地活動家にあって、わけても「大袈裟太郎」容疑者の評判は基地容認派の間で散々だった。

〔...略...〕

〔...略...〕

「相手が無抵抗だと罵声を吐いて挑発し揚げ足をとり、いざ検挙となると急に縮み上がって主張を引っ込める小心者。こんな輩が社会を荒らしている」

同容疑者の行状をよく知る農場経営の依田啓示さん(44)=東村=は自身のフェイスブックにこう投稿した。

[5] (依田啓示、2017年11月10日07:24)

[5] 那覇地検が依田啓示代表を傷害罪で起訴 基地移設反対派の男女を殴り、けがさせた罪状で 依田氏「とことん闘います」(1/2ページ) - 産経ニュース
(WEB編集チーム、2017年8月6日12:00)
http://www.sankei.com/premium/news/170806/prm1708060028-n1.html

〔...略...〕傷害の罪で沖縄県東村平良、カナンファームの依田啓示代表(43)を在宅起訴した。起訴は7月31日付。

〔...略...〕

依田代表は起訴事実を否定している。傷害容疑とともに送致されていた器物損壊容疑は起訴猶予、窃盗容疑は嫌疑不十分で不起訴。

[6] 那覇地検が依田啓示代表を傷害罪で起訴 基地移設反対派の男女を殴り、けがさせた罪状で 依田氏「とことん闘います」(2/2ページ) - 産経ニュース
(WEB編集チーム、2017年8月6日12:00)
http://www.sankei.com/premium/news/170806/prm1708060028-n2.html

依田代表は被告だが、那覇地検の処分は在宅起訴で、逮捕や拘置をされていないため、他の例にならって、肩書き呼称とした。

[7] 20170321 NO HATE TV第12回「ニュース女子検証第5弾 沖縄裏取り旅行その2〜基地反対運動現場のナマの声」 - YouTube
(のりこえねっとTube、2017年3月21日)
https://www.youtube.com/watch?v=ANHXem6hpx0

[8] 正す会第1回定例会 衝撃的事実発覚!依田啓示さんが起訴される!?東京記者会見報告 - YouTube
(我那覇真子、2017年03月20日)
https://www.youtube.com/watch?v=k9Vwz-nqo0s&t=44m17s

[9] デマと嘘の流れる地から、また依田氏のトンデモなウソップ ① 依田氏の高江暴力事件 - Osprey Fuan Club うようよ対策課
(truthaboutokinawa、2017年3月26日)
http://uyouyomuseum.hatenadiary.jp/entry/2017/03/26/093137

2017年11月9日木曜日

外国の国家元首でわが国の公賓は、入出国審査が必要ないとされているようであるが

矢部宏治氏は、トランプ大統領の訪日の足取りを示した上で、

実は彼は入国などしていない
と述べてしまっている[1]。矢部氏の表現は、間違いなく、誤りであろうと考えることができる。現に、トランプ氏は、迎賓館の地上(何階か)には降り立っている[2]。即物的(=物理的)な意味で、トランプ氏が「入国」したことは、間違いなかろう。もっとも、迎賓館が日本国領土でないというオチがあったとすれば、それは私の手抜かりということになる。しかしながら、川越市のゴルフ場にもトランプ大統領が立ち寄った[3]ことが社会的に認知されているところ、このゴルフ場を訪れるにあたり、日本人にパスポート所持が必要となるという話は、聞いたことがない※1

矢部氏の主張の焦点は、いわゆる横田空域にあるものと理解できるが、入国に係る主張が誤りであることには変わりがない。矢部氏の焦点は、入国の事実そのものにはなかろう。しかし、この点を批判する上で、扇情的な表現を取る必要もないし、ましてや、事実関係に誤りがあるのはいただけない。矢部氏が指摘したのは、万が一であるが、「入国審査」であるのかも知れないが、これも、私が多少調べた限りでは、否定されるであろう。

ただし、日本語のGoogle様は、「入国」なる概念を理解するための情報源を直接・分かりやすく提示してくれていないので、私の解釈自体、誤りである可能性を排除できていない。国家元首が出入国審査の対象外となる旨は、ウィキペディアさんに書かれてはいる[4]が、その根拠は、納得できる程度には明示されていない。出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号)の名が記されているので、同法を参照してみる[5]と、同法第6条第3項辺りに根拠があるのであろうという位にしか見当が付かない。要は、「外国人」は「上陸の許可等」の対象となるのであるが、トランプ大統領の入国はその例外に当たる。トランプ大統領一行の訪日について、具体的な手続が政府において進められたであろうことは、間違いなかろう。外務省に問い合わせれば、たちどころに明らかになろう(が、これが私のブログ執筆上のルールから外れることであることは、本ブログ中において、指摘してきたとおりである)。

誤解に立脚した批判が有効性を持たないことは、当然の事実である。「入国などしていない」というフック的表現は、不要であるばかりか、ネトウヨの格好の標的となるであろう。矢部氏の扇情的な記述は、格好の槍玉として機能するのである。これだから陰謀論者は、といわんばかりの反撃の光景が、十分に予想できる(。しかしまた、本稿も、入国について、矢部氏よりは丁寧に調査したつもりであるが、その虞を拭えたものではない)。

ところで、トランプ氏ならびにその周辺は、今回の移動経路を計画的な意図に基づきアレンジしたものと見ることもできるが、そこには、暗殺の危険、米国の存在の誇示という、二点の理由を認めることができる。第一点目であるが、日本の高級官僚たちに連なる人脈に、超法規的措置を目論む人物らがいても、おかしくない。モリ・カケ疑惑がその証拠である。これらの疑惑の対象となっている認可の過程そのものは、一言で表現すれば、脱法的であるし、忖度した者は、官僚としてアウトとなる行為に手を染めてはいる。しかし同時に、このスキャンダルが公知のものとなった過程が超法規的な側面を有することも、また事実と考えられる。今回の訪日におけるトランプ氏の言動とは裏腹となるが、トランプ大統領を廃することができた方が、むしろ、戦争屋には復権の目がある。彼ら戦争屋には、それなりに熟達した暗殺者を雇用する程度の余裕が残されているであろうが、他方で、自衛隊と在日米軍との連携が機能している限り、空路で移動する大統領に危害を加えようという試みは、十分に無効化されていたであろう。横田基地でのトランプ氏の演説は、自衛隊と在日米軍の連携と献身に対する賞賛に、多くの時間が割かれている。2017年11月現在、対外的に見れば、北朝鮮情勢が緊迫しているという体が装われているが、実のところ、トランプ氏の真の敵は、自国・同盟国の内にいるものと考えることができよう。第二点目は、わが国が米国の実質的な施政下にあるという矢部氏の主張する「事実」が、主流マスコミによって十分に報道されていないという事実によって、肯定されることになる。第二点目の指摘は、拗れた見方である※2が、矢部氏も指摘する事実に対して、私も同意しているという点に、注意が必要である。田中宇氏が常々指摘するとおり、トランプ氏が隠れ多極主義であると措定すれば、トランプ氏のパフォーマンスは、矢部氏のような(安易な批判を提起する「左翼」の)批判者を通じて、日本国民に事実を提示する役割を果たしているものと考えることもできるのである。この点(に限り、検討すれば)、矢部氏の批判は、当人の内心にかかわらず、外形的には愛国的なものとして機能している。繰り返しになるが、トランプ氏は、内心、日本国民に横田空域に係る状況を理解して欲しいとも考えているのではないか。

矢部氏の論考は、いつもの調子ではあるが、二律相反する条件を調停しながら政治が進められているという事実の一面だけを切り捨てて、分かりやすさを優先するものである。矢部氏に捨象された機微(、前述した二点の理由の双方とも正しいと認められること)は、庶民には理解されないことであるのかも知れないが、少なくとも、安全保障に係る「門前の小僧」である私でさえも、気が付くことのできる(中山康雄氏の言うところの)社会的な、両義的な事実である。もっと言えば、矢部氏の論考は、二枚舌の一方を暴露するものではあるが、「二枚舌なるものの内実が、相補的に二枚舌になり得る場合がある」という事実を理解した上で、意図的に提起されているものではないように読める。それゆえに、国際秘密力集団のアジェンダを乗りこなすという方法論は、矢部氏の論考からは、出てこなくなりがちなのである。われわれが将来を知りたいと思う場合、この観点に基づいて、各国のリーダー的存在の言動を、マスコミのフィルターを解除しながら、見極めていく必要がある。しかし、いかんせん、ヒュミントを放棄した上に怠惰な私のことであるから、真実の所在は、知りようがないものである。なお、「鴻鵠の志」と言い換えてみると、本段落の主張は、分かりやすくなるかも知れない。


補論:トランプ氏の発言のうち、やはり、北朝鮮拉致問題の解決に着目すべきである

「両建て構造」は、「正」と「反」の間を往還するだけでは、超克できない。戦争屋の用意する「合」を受け入れれば、戦争屋の望む結末が訪れる。「合」は、われわれが用意するほかないが、途中までは、われわれも「敵」の流れに棹さすことができる。横田空域の存在は、おそらく、トランプ政権の用意した「合」のオードブルに過ぎない。次段で、必要十分な材料を元に、トランプ大統領訪日によって蒔かれた「大どんでん返し」のタネ、つまりメインディッシュに相当する言明を指摘して、大幅にまくりながらも、本稿を締めてしまおう。

今回のトランプ氏の訪日における最大の見所は、北朝鮮に対して拉致問題を解決することが交渉への糸口となるとトランプ氏が示唆したことにある※3。というのも、飯山一郎氏が強く主張してきた「横田めぐみ氏が金正恩氏の母親である」「倭国は中国北東部・北朝鮮に存在した」という二点の(少数)説が両方とも事実であるとすれば、「北朝鮮における伝統的支配の円環が、日本の国体と分かちがたく結合された」という事実は、ほぼ40年前の拉致事件によって準備されたものとなるが、否応なしに、日本国民全体の変心を強いることになるからである。落合莞爾氏は、『ワンワールドと明治日本』など、近年の複数の著書において、南朝系・母系皇統の存在を肯定していたように記憶しているが(ユルユルな表現は、大逆的であるが、ご勘弁願いたい)、飯山氏の指摘は、落合氏の見立てによっても補強される。飯山氏の安倍総理に対する見解の「転回」も、政治権力の側からのアプローチの形跡が濃厚に認められるものであるが、ここでの議論の文脈に整合的である(。ただし、『トカナ』に最近よく寄稿している「元公安」は、この点、興味深い非整合性を発揮している)。何より、万世一系を維持する上で、男子に限定されるべしという主張は、母系皇統の隠された存在によって、よりよく説明できる(。落合氏の指摘によって初めて、男系男子限定とする主張の根拠を、私は勝手に得心できた次第である。確かに、母系皇統がすでに存在するとなれば、この皇統が男系男子へと適応する必要までが生じる※4)。以上(の本段落の情報)に係るマスコミの恣意性は、横田空域に係る指摘の欠如を超える衝撃を以て、日本国民に対して印象付けられることになるのではあるまいか。われわれ日本国民は、「これで北朝鮮と戦争する必然性がなくなった、戦国時代の政略結婚のようなものだ」として、当人の意思とは関わりなく、安堵を覚える可能性もあるが、この情報は、諸刃の剣である。横田氏がすでに亡くなっているという話は、事実であるならば、戦争屋によって悪用される材料であり続けるためである。

戦争が極東でも起こされなくなるのではという希望を持ちながらも、われわれは、マスコミがおかしいことを言い出さないように、その動向を監視する必要がある。たとえば、伊藤詩織氏の自身のレイプ被害の公表と、この事件に対する検察審査会の判定に係るマスコミ報道は、性犯罪者がとことん卑劣であるという印象を一層高めることに成功している。この準強姦事件については、報道された証拠による限りでは、山口敬之氏の確実な逮捕が必要なことは間違いないものと思われるが、しかし同時に、マスコミによる無用な・過剰な印象操作に対しても、警戒が払われるべきである。伊藤氏が自身の被害に対する正義を求めることは正当と言えるが、しかし同時に、伊藤氏が起訴便宜主義の廃止までを訴えることとの間には、一線が引かれるべきである。(この点、伊藤氏の主張の重点は、物事の道理と逆転しているかに見えるものであり、同時に、マスコミ報道は、伊藤氏の主張を正しく伝えているとも言えるのであるが、)伊藤氏の被害に係るマスコミ報道全般のごちゃ混ぜぶりを踏まえれば、本稿補論に示した北朝鮮による拉致事件の将来における展開を、マスコミが「性暴力の究極の一形態である、女性が望まぬ婚姻であるとして報道するという策略を取ることは、十分に懸念される。韓国による元従軍慰安婦とトランプ氏との対面に対する、日本語マスコミの二極化された報道姿勢は、この懸念を助長するものである。


※1 一般社団法人 霞ヶ関カンツリー倶楽部(埼玉県川越市大字笠幡3398番地)であるが、私自身が、このゴルフ場を単独で物理的に訪問した場合、入口において、単に退去するよう求められるであろうが、入国審査を求められることはないであろう。仮に、「入国審査を求められることがありますか?」と聞いたとすれば、マジでヤバイ人が来たと疑われかねないであろうが、少なくとも、矢部氏の主張を示した上で、質問をぶつけてみた場合、聞き方次第でもあろうが、丁重に「そんなことはありませんよ」と回答をいただけることであろう。それに、同クラブのウェブサイトの「ゲストの皆様へ」と題されたページを参照すると、日本国民の皆様にはパスポートが必要ですという指示は、どこにも見当たらない[6]

※2 これと同様に、米国が兵器を売り付け、日本が買うことになるという旨の、トランプ氏の言動上のパフォーマンスは、大々的に宣伝されたが、この売買に対する批判は、具体的な利益に即して提起される必要がある。自主独立派からすれば、買いたい装備・買いたくない装備があろうし、売り手となるトランプ政権の側でも、売り付けるための兵器の種類を選択可能である。唐突なようであるが、米国に拠点を有する小型衛星ベンチャーの製品をゴリ押しするのも、戦争屋の利益を無効化する上では、ひとつの方法論である。今回のトランプ氏の訪日において、具体的な名称が挙げられた兵器の一つに、F35がある。F35の複数の生産企業は、戦争屋であると非難しうる個人に利益を供与する仕組みを、(少なくとも一時期にわたり)維持してきた。このために、F35の売買が戦争屋を潤すとする指摘は、外れてはいない。他方で、F35が異常動作をした挙げ句に日中戦争を惹起するということは、ミサイル防衛網が異常動作して日中戦争を惹起するよりも、考えにくいことではある。それに、F35の購入自体は、日本版次期主力戦闘機を巡る日米軋轢以後の、既定路線の延長にある。現場のパイロットたちが心から信頼できる装備が配備されることは、何より重要である。しかし、少なくとも平時においては、パートナー国家において、F35は、米国内と同等に安定動作するであろう。ここに示した機微は、私の専門でないゆえに、詳しく追究することは不可能ではある。しかし、何が売買され、誰を具体的にどの程度儲けさせてきたのか、特定の兵器が暴走して、予期せぬ戦争を惹起しないか、といった点が考慮されるべきであることは、指摘できよう。米国による兵器の供給は、時折、核廃絶における「東側の核」を認容しながらも非難されることがあるが、この姿勢こそは、拒否されるべきであろう。現実は、いかに戦争を避けながら、軍需産業を軟着陸させるのかに焦点が存在しており、各国の主要プレイヤーたちは、この課題に重点的に取り組んでいるものと認められるのである。

※3 各紙の出典を確認して引用する作業が面倒であるので、それらを整理して示すことはしないが、この点に係る各社の報道姿勢は、本段落に示した事項に係る各社の論調と合わせて、各社の命運を分ける要素となっている。綸言汗のごとし。

※4 このとき、田中聡氏が言及する「メガ陰謀論」なる概念の怪しさと一面性は、田中氏の主張が「陰謀論」の一部を肯定するようでいて、核心的な利益に懸かる「陰謀論」を限定化した上で、それらを貶めるという効果を発揮している。『陰謀論の正体!』において、本件に関連する著者として、鹿島昇氏と鬼塚英昭氏に代表される言説のみを田中氏が指摘することは、陰謀論を一面的なノワール小説の世界と田中氏が観ていることを、図らずも暴露している。以上の整合性に基づけば、本件についても、ここでの私の意見に対置される種類の発言を田中氏が公衆に提示しているのであろう、と予想することもできよう。なお、この予想は、キング・コヘイン・ヴァーバ書の主張を、意図(的に悪用)したものである。


[1] トランプ来日の足取りから見えた「とても残念な2つのこと」(矢部 宏治) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)
(矢部宏治、2017年11月9日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53435

[2] 平成29年11月6日 日米首脳会談等 | 平成29年 | 総理の一日 | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ
(2017年11月6日)
http://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/201711/06usa.html

[3] トランプ大統領と安倍首相 ゴルフで首脳外交 | NHKニュース
(記名なし、2017年11月5日18時51分)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171105/k10011211191000.html

アジア歴訪の最初の訪問国、日本を訪れているアメリカのトランプ大統領は、大統領専用のヘリコプター、通称「マリーン・ワン」で正午すぎ、埼玉県川越市のゴルフ場「霞ヶ関カンツリー倶楽部」に到着しました。

[4] 出入国管理 - Wikipedia
(2017年11月9日確認)
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%87%BA%E5%85%A5%E5%9B%BD%E7%AE%A1%E7%90%86&oldid=65937788

[5] e-Gov法令検索
(出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号、最終更新:平成28年11月28日公布(平成28年法律第88号)改正))
http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/viewContents?lawId=326CO0000000319_20171101

[6] ご利用案内 | 霞ヶ関カンツリー倶楽部
(2017年11月9日確認)
https://www.kasumigasekicc.or.jp/information/01.html




2017年11月10日訂正

元の文意を明確化するように、一部を訂正・追記した。




2019年09月13日追記

色々確認もせず恥を重ねる危険を冒すことにするが、文中の問合せ先は、外交そのものを担当する外務省ではなく、出入国管理を所管する法務省であるべきであろう。伊藤詩織氏の『Black Box』に対する北口雅章氏の批判[7]によって、気付いた次第である。が、情報公開制度も国会図書館も官公庁への電話も利用せずに結論付けるのも何なので、本文の記述自体は、私の中で確定するまで変更しないことにする。

[7] 伊藤詩織著 「Black Box」 が「妄想」である理由 | 弁護士ブログ | 名古屋で医療過誤のご相談は 北口雅章法律事務所
(2018年10月01日)
https://www.kitaguchilaw.jp/blog/?p=3913

2017年10月28日土曜日

「決められない」という「知恵」は、意思と信頼の産物である

健全な陰謀論者であれば、尖閣諸島における2010年以来の日中関係の軋轢は、石原慎太郎氏と前原誠司氏による、旧・ジャパン・ハンドラーズ仕込みのコラボレーションから生じたことをご存じであろうが、これらの稚拙なナショナリズムの発露は、かえって、現在の日中関係の礎を築いた田中角栄氏と周恩来氏の双方、加えて、当時の日中外交関係者(で両者の合意をお膳立てした人物たち)の優秀さを引き立たせるものである。まず最初に、尖閣問題を棚上げにするという方向性は、低レベルな知能からは、決して生まれなかったであろう。関係者の誰かが、当時に至るまでの経緯を十分に理解して、入念に将来を設計することは、必要条件である。次いで、双方のトップのそれぞれに、将来への善き意思がなければ、交渉が成立しない。加えて、日中双方に、(少なくとも、この交渉については、)相手に対する強固な信頼が必要となる。私という個人にとって、10回以上は輪廻転生しなければ到達できなさそうな種類の条件の厳しさである。

このような偉業を到底望み得ないであろう私が、今頃(2017年10月28日)になって、尖閣諸島棚上げ論を賞賛する理由は、現状への屁理屈の根拠としたいからである;つまり、安倍晋三氏率いる自公政権は、今回も勝ち過ぎたために、高度な駆け引きを演じる余地を失ったのである。彼らは、今回も「大勝利」したが、今回も「決められる」ことが継続する政治は、相当に高度な知性によって、細心の注意を以て運営されなければ、日本国民の99%にとっての大敗北という結果へと直結する。衆院三分の二を大きく超える改憲議員数は、色々な動きを「棚上げ」できなくする勢いをも意味するのである。

国際関係を見れば、米中露の三か国は、普通選挙の有無に関係なく、いずれも対外的には知性ある帝国主義者として行動しており、わが国は、その政争の具でしかない。自公政権に関わりの深い誰かさんの大好きな『三国志』の世界の、一脇役に過ぎないのである。対外関係を考慮した場合、日本が「決められない」政治によって右往左往しているように見える方が、下手を打った挙げ句、三か国のいずれかまたは複数による武力行使(、または武力による威嚇)を経験せずに済む。停滞するという選択肢を理由抜きに取ることができないことは、わが国が繊細な政策の舵取りを必要とすることを思えば、意思決定上の制約条件となる。

かつての「護憲」・「安全保障法制」を良しとする自民党の「ハト派」には、このような地球規模の『三国志』を生き抜く上で、十分な狡猾さと、懐の広さがあった。戦後から80年代前半までに至るわが国の経済成長の歩みは、彼らがタカ派とともに共存していたという事実に負うところが大きい。一帯一路は、中国経済の新たなフロンティアであるが、この構想は、「日本列島改造計画」のユーラシア版である。トランプ政権も、軍人の膨大な食い扶持を内政から捻り出すため、新たなニューディール政策として、この前例を参照しているものと認められる。JICAの開発途上国における支援の中でも、ゼネコンの寄与は目に見えるものであるだけに、大きなものがあるが、彼ら土木関係者は、「日本列島改造計画」を通じて、日本国内を練習台として、実力を涵養できたのである。「熊しか通らない」高速道路は、わが国では利用されなかったとしても、やがては、より極寒の地における舗装技術に活用されることになる(と期待しよう。それは、「三か国」の一角に食い込む材料にもなる)。

「ハト派」の知恵は、刑事司法機関が法の下の平等を歪曲したために、継承されなくなった。ハト派がバランサーとなってわが国の政治を誘導してきたことは、矢部宏治氏が選挙前に指摘した[1]通りである。彼らに「ダーティ」な印象を付与して壊滅させることに成功した主力は、旧ジャパン・ハンドラーズのイヌである東京地検特捜部であった。ただし、この特定部署の経験者だけが悪人という訳ではない。この部署の存在がテコ(=悪しき前例)となって、刑事司法機関全体が平等な法の適用を怠り、場合によっては、ハンドラーズのイヌとなって、政治家の品行を探り、それをハンドラーズに売ってきたことが、問題の根幹にある。逮捕されるべき犯罪者たちが放置され、報道に圧力が掛けられるという現状は、平成11年以後の数年間に比べて、わが国の警察行政が大幅に後退したことを示す大々的な証拠となってしまっている※1

このような中、今回の(第48回衆議院)選挙において、若狭勝氏が政治生活を引退するに至った[2]理由は、興味深く検討される必要があるが、直感的には、安倍晋三氏ら自民党の「民族独立派」と刑事司法機関が、ネオコンと暗闘を繰り広げた結果ではあろうと思われる。若狭氏落選の事実は、必ずしも、国際秘密力集団の両建てが思うように進むわけではないという状況証拠ではあろう。「民族独立派」からすれば、若狭氏は、「対米従属派」の番頭であり、裏切者の身内という訳である。ただ、自公大勝という事実は、「決められる政治」がネトウヨや創価学会や警察や自衛隊からの突上げに応じて暴走できるようになった状態をも意味する。新・日中戦争という誰も望まない結末へと進みやすくなると言う点で、自公大勝は、「リベラルと自公との痛み分け」という結果よりも、一段、望ましさが落ちるものである。

脱線するが、本稿において、今回の選挙戦の明暗を分けたと考えられる要素のうち、私が重視するものは、安倍晋三氏が公明党にも猶予を与えずに解散を強行したという本澤二郎氏の指摘[3]である。本澤氏の推認は、「元自民党本部職員」の話だけを元にするものであるが、首肯できるものである。この指摘を下敷きに、色々な現象を見ていくと、どれも説明が通るのではという見通しが得られる。その一例が、若狭氏の引退という訳である。


ところで、わが国には「ハト派」をテコとした「決められない政治」の成功体験があるが、現政権の「盟友集団」である武官組織は、この成功体験の恩恵を受けたという意識が希薄なこともあり、この「決められない政治」の成否を分ける知恵を、組織として体得していない。「決められない政治」には、リベラルと保守の双方が知性と信頼を以て行動することが必要となる。言い換えると、一つの国家の内部において、異なる組織を超えるところに、また、敵方となる組織に、ゴールを共有できる同志がいるということが必要条件となる。その同志と活動を棲み分けることが、パートナーシップというものである。『週刊少年ジャンプ』のキャッチフレーズである「友情、努力、勝利」の「友情」は、ライバル関係について発揮されるとき、「パートナーシップ」と読替え可能な表現となろう。吉田茂氏による防衛大学校の卒業式の訓示とされる(自衛隊が日陰者である時の方が、国民は幸せであるという旨の)発言[4]は、発言の場の正確性がいかなるものであれ、内容自体が真実を衝いている。しかし同時に、「日陰者」の状態から脱却しようとする心性は、誰にとっても、自然なものであろう。二律相反する心性は、何も手当がなければ、いわば、祟り神の状態となる。「祟り神」の兆候は、湾岸戦争当時、日本国民がバブルに踊る中、現れたものと推定される(が、これは、仮説である)。本来、国民は、これらの「守り手」の成員に対して、彼らが感謝されていることを実感できるように、敬意を示し続けるべきであった。とりわけ、「左派」であり、内ゲバを行う極左と自分たちとが違うと考える人物らは、安保反対運動という実績ゆえに、この「祟り神」を「鎮める」ための「祈り」を積極的に行うべきであった(が、お互い、敵視し合っていたために、このような感謝を示すことができないのは、当然とも言えよう)。他方、経済状況の変遷のために、現業公務員の金銭的待遇は、一流無国籍大企業の正社員とでも比較しなければ、現在では、相当に好条件である(。かつては、十分な保障がなかったことも事実である)。しかしながら、現在、これらの組織が国民に提供するパフォーマンスの低さは、社会(の穏当さ)がなければ、到底、現在の厚遇に相応しくないものである。わが国が開発独裁国家であり、健全な批判をも許さないように振舞うことは、武官官僚たちの失敗を端的に示す証拠である。先進諸国の理念を体現できていればこそ、武官は、先進国に相応しい処遇を要求できる。現状は、国民と実力組織の双方が、お互いへの感謝を忘れたものであると指摘することができる。しかし、武官組織の側から見れば、成功体験に与らなかったという錯誤が継続しており、その勘違いが、彼らの考える「ファシズム」へと、彼らを導く原動力となっているのであろう。ただ、「ファシズムの成否は、反対派をどれだけ(切り崩すのではなく)取り込めるのかによる」という点に思いが至らないところは、何とも皮肉である。反対派を切り崩すことは、ファシズムの必要条件であっても、十分条件にならない。良くも悪くも、わが国は、国内政治については、「すべてが金目」の無党派層が最大勢力なのである。

加計学園疑惑には、「武官組織の高級官僚が文科省の縄張りである大学への天下りを企図し、大学という植民地への足掛かりを得て、「予備役」を増やそうとしている」という伏線があるが、この伏線自体、彼ら「青年将校」らを忘恩の徒であると批判できる材料である。評価というものは、本来、「テロ対策・犯罪対策においては、一方的なラベリングが忌避されるべき」というリベラルの主張と同様、受動的なものである。「自分たちは良くやっている」と、警察や自衛隊がお手盛りで評価すること自体が、彼ら自身の評判を醜いものへと変えてしまいかねないことである。評価という作業は、「相手」を必要とする相互作用なのである。

これと同様の原因から、現政権の「盟友集団」である警察と自衛隊は、習性上、組織の外部にスパイを養成することはできても、友人や、対等の立場で取引できる相手を作ることができない。これらの実力組織において、建前では、上の命令は絶対である。また、極限状態において、職務上接する相手は、味方と敵の二種類しかいない(。ここに民間人が巻き込まれると、悲劇が生まれることになる。占領という行為は、常に悲劇と憎悪を発生させるリスクを伴う)。この組織上の基本的機能が、何にでも序列や順位を付け、敵味方を峻別するという無意識的な習慣へと敷衍されている。「クリーンなタカ」の代表である中曽根康弘氏の下で、後藤田正晴氏が辣腕を振るったことは、象徴的なエピソードの一つである。中曽根内閣の一員としての後藤田氏の業績は、佐々淳行氏による警察官僚から見たときの好評価を鵜呑みにするのではなく、別の観点からも、評価にかけられる必要がある。危機に備えることは、本来、平時を維持することにも寄与するはずの行為であるが、その備え方が拙ければ、自ら危機を招来することにもなりかねない余計事ともなる。

わが国のファシズムは、「同化圧力」よりも「異分子排除」に力点が置かれており、成員の内心に対して、総力を結集できない方向に作用する。いじめられたくないからいじめる側に回るという成員の内心は、消極的な理由に基づくものである。丸山眞男氏は、わが国のファシズムを自己暗示的なものとして理解しているから、この小心者の心性は、近代から現代に至る日本人について、通時的なものと解釈することができよう。ただ、この心性自体、卑小なものであることは間違いなく、このスネ夫的心性こそ、多くの日本人が避けるべき悪(=利己性)である。

小沢一郎氏に対する攻撃は、「異分子排除」の実例でありながらも、わが国において例外的にパートナーシップが発揮された事例として、特筆すべきものである。小沢氏への人格攻撃もまた、東京地検特捜部という実力組織を中心に機能した。小沢氏に対する人物破壊工作は、特定の個人をいじめ抜く、つまり、排除するという目的を通じて、組織を超えて、官僚や報道人の連帯意識が機能したという点で、特殊である。この一連の動きは、わが国の実力組織がパートナーシップを体得できないことを端的に示している。意見を掬う(人を救う)ことを目的としてこそ、連帯が生じるべきであるのに、排除する場面においてのみ、権力を裁量的に行使できる組織が仲間意識を発揮できるという状態は、日本人の悪弊の中でも、最も醜いものであろう。小池百合子氏の「希望の党」が惨敗に終わったことは、国際情勢を考慮すれば、言祝ぐべき事実ではあるが、しかしながら、これもまた、日本人が仲間外れを行う場合にのみ結束するという特徴を明らかにする事例である。

逆に考えれば、指揮命令系統を前提とする組織に備わる階層性に十分注意して、各人を対等と見る「法の下の平等」の原則を貫徹すれば、ここに批判される実力組織らの成員は、今後の難局を乗り切ることができるやも知れない。その具体的な現れは、たとえば、言論については、検閲を実施したり、実力行使をほのめかして沈黙を強いるのではなく、単に無視するに留めるというものとなる。これは、最低限の嗜みというものである。もちろん、批判に耳を傾け、謙虚に受け止めるという姿勢は、それがたとえ形だけに終わるとしても、品格を保つ(ように見せかける)上で必要な、一段上の所作である。こうしてみれば、現今の実力組織が主導する情報環境下における言論操作は、あからさまな暴力よりはマシに見えると考える者もいるかもしれないが、精神性において、後進国である。

わが国の伝統的価値観に即せば、また、効果性・効率性という観点からも、権力を持つ側には、品格までが求められる。品格は、言論の正しさや行動の美しさによって担保される。前稿(2017年10月26日)にも挙げた書籍であるが、山本豊津氏の『アートは資本主義の行方を予言する』[5]は、美が武力によらずに人々を心服させることを指摘している〔pp.42-49〕。これと同じく※2、『花戦さ』は、私は(今夏の)映画しか観ていないのであるが、美と武との緊張関係を余すところなく表現しているように思う。また、『Civilization V』という文明同士が覇を競うコンピュータゲームにおいても、文化的勝利が楽であることは、拙稿(2017年4月22日)に述べた通りである。他方、ナチス・ドイツによる1936年のベルリン・オリンピックは、美や畏怖感を利用(悪用)した事例として、突出している。映像を見るだけでは想像しにくいことであるが、同大会において、ビッグネスというスケール感が利用されたことに対しては、注意が払われるべきである。北朝鮮などにおけるマス・ゲームは、この効果の正統な後継者である。パリ占領軍がココ・シャネル氏を取り立てるなどして(、そして、その贔屓を受け入れなければ、当然、シャネルというブランドは、今の形ではあり得なかったであろうが)、パリ市民の文化を曲がりなりにも尊重したことを思えば、自公政権は、美の力で競争相手を心服させるという方法が下手であるし、秋葉原駅前程度で街頭演説を終わらせており、十分なスケール感によって威容を誇ろうともしない。この点において、彼らは、「ナチスに学ぶ」と言いながら、余力を残している。つまり、自公政権は、実力を悪しき方面にも伸ばす余地がまだまだあるという点で、リベラルの側には、従来以上の狡猾さが必要とされているのである。


※1 当時、批判的な声を上げた犯罪学者たちの、現時点の批判の声は、驚くばかりに小さなものである。いずれの被害も、正当な刑事司法手続の対象となるべき事件であるが、当時よりは今現在の方が、学者が沈黙を保つことにより生じる政治的な悪影響は、大きなものがある。

ところで、今回の選挙戦の前には、男女関係を暴いてダーティなイメージを与える戦術こそ、現在の政体の側によって、政敵に対して利用されたが、この一方で、疑獄や犯罪と呼べる種類の事実を挙げて中傷するという戦術は、ハンドラーズの側によってのみ、政体に対して利用されている。この圧倒的な「悪さ」の差が、政体の側でネタ不足であっただけなのか、それとも、政体の側が最低限の矜恃を保ったためであるのかは、断定しかねる部分が残る。しかし、公知の行いを素直に敷衍して解釈すれば、前者が真実に近いものとなろう。これこそが、普段の行いにおいて、政権の側にこそ、「横綱相撲」が必要な理由である。

なお、この暴露合戦こそは、既報(2017年9月30日)において、謎めいた表現になってしまったが、私が「どっちもどっち」と呼んだ対象である。なお、大事なのは、今回の場合においても、選挙の候補者本人がこの種の暗闘を直接了承しているかと問われれば、そうではない場合もあり得るということである。何なれば、選挙陣営に関与できない国家公務員や地方公務員が暴露合戦に従事しているという可能性は、相当に高そうである。そして、それらの作戦は、別稿(2017年6月10日)で指摘したとおり、従事する人物らの中では、国益に資するものとして正当化されているはずである。

※2 山本氏の著書は、2011年の鬼塚忠氏の原作に言及していないようであるので、偶然、同じテーマを扱ったものと思われる。


[1] 誰が首相になっても、総選挙後に必ず起こる「2つの重大な出来事」(矢部 宏治) | 現代ビジネス | 講談社(2/5)
(矢部宏治、2017年10月8日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53127?page=2

けれども、そうした米軍支配の構造のなかで、反対勢力を非民主主義的な手段で壊滅させるのは、これ以上ないほど愚かな行為である。なぜなら日本の戦後政治には、ながらく、
① 自民党・右派          (安保賛成・改憲)
② 自民党・リベラル派(保守本流) (安保賛成・護憲)
③ 社会党他の革新政党       (安保反対・護憲)
という3つのグループが、それぞれ約3分の1ずつの議席をもつという構造のなかで、①と②が安保体制を維持しながらも、あまりにひどい要求に対しては、②と③があうんの呼吸で連携して、それを拒否するという政治的な知恵が存在したからである。

けれどもいま、この②と③の勢力の多くが、一度民主党(民進党)に集められたのち、野田・前原の2度の自爆選挙によって壊滅しようとしている。その結果、訪れるのは、「朝鮮戦争レジーム」の最終形態である「100パーセントの軍事従属体制」に他ならない。

[2] 若狭勝氏、衆院選の落選で政界引退へ「年齢もある」 (希望の党)
(別宮潤一、朝日新聞デジタル、2017年10月26日21時27分)
http://www.huffingtonpost.jp/2017/10/26/wakasa_a_23257683/

[3] 「ジャーナリスト同盟」通信:勝者前原・敗者山口<本澤二郎の「日本の風景」(2776) - livedoor Blog(ブログ)
(本澤二郎、2017年10月26日)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52190355.html

今回の敗者は、公明党創価学会である。自民党を勝たせた原動力は、各選挙区に散らばる創価学会の固い自民支持票だった。これに異論をさしはさむ余地はない。

〔...略...〕

元自民党本部職員は「公明党は神奈川の小選挙区でも落選している。これは急な解散で、住民表の移動が間に合わなかったためだ」と決めつけている。昔よく聞いた話である。

このことは、今回の違憲解散が、友党に対しても秘密裏に強行したものであることを証明している。

[4] 「自衛隊が冷遇されている時の方が国民にとっては幸せだ」という趣旨の吉田茂の名言は、何時どのような場所... | レファレンス協同データベース
(2014年4月25日)
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000152686

[5] 山本豊津, (2015.10). 『アートは資本主義の行方を予言する 画商が語る戦後七〇年の美術潮流』(PHP新書 1009), 東京: PHP研究所.
http://id.ndl.go.jp/bib/026719224


#なお、新聞記事の引用が偏り気味であるのは、『読売新聞』と『産経新聞』が大半の記事を数週間も残さないからである。両紙の作法は、新聞社としての要件を満たさない。両紙が引用されないのは、仕方がないことである。私とて、読者の利便を図りたいし、リンク切れを起こしてSEO上のペナルティを受けたくないのである。両紙は、この点だけでも、フェイク・ニュース未満である。

#また、今回の記事によって、ようやく、第48回衆院選に係る私の理解を共有するための大枠を提供できたように思う。考えるべきは、公明党と自民党主流派の関係、不正選挙の手段を有する主体、戦争屋と手を切ることができている組織、二度の台風における「民族派(に連なるトランプ政権ならびに米軍)」対「戦争屋」の確執、といったところがある。自公は、三種類に区分すると分かりやすいし、時期外れの二つの台風がおかしな進路を取ったのは、二つの力が影響したから、と考えるのが妥当であろう。一回目は、民族派によるものであるのに対し、二回目は、戦争屋によるものであり、これが民族派により妨害された、というものが、価値観をできるだけ当事者のものに近付けたときに得られる結論である。二回目については、低気圧となる状態を南方で続け過ぎたということも考えられなくもない。




2017年10月28日21時・11月1日訂正

本文で曖昧な箇所を訂正し、若干の記述を追加した。

2017年10月26日木曜日

『FOX BREAK』に見る「和式」IR施設への期待感

2017年10月23日22時45分頃、『ウォーキング・デッド シーズン8』第1回のCM枠において、『FOX BREAK』と題する3分ほどの番組が放送され、「9月(22日か?)、帝国ホテルにおいて、日本のIR施設の制度設計について、セミナーが実施された」とのPRがなされていた。元観光庁長官・日本通運常務執行役員の井手憲文氏、日本MGMリゾーツ代表執行役員兼CEOのエド・バワーズ(Ed Bowers)氏、ギャラクシー・エンターテイメント・グループ日本代表の伊佐幸夫氏、の三名がコメントしていた。井手氏は、国土交通省海自局長から観光庁長官に抜擢されたという経歴の国土交通官僚OBでもあるが、2017年9月22日付の「日本のIRの制度設計について」というA4ペーパーを提示、セミナーの講師を務めたようである。バワーズ氏は、IR施設の導入が日本の観光産業を一体的に向上させるという旨をコメントしていた。伊佐氏のコメントは、(おそらく、マカオやシンガポールを念頭に置いているが、中国式のテイストとは異なる)日本ならではのIR施設を整備するという旨のものであった。

番組中のイメージ映像は、MGM RESORTS INTERNATIONALと銀GEG(銀河娛樂集團、GALAXY ENTERTAINMENT GROUP)の二社が提供していた※1が、そこに示された日本のイメージは、われわれ一般の日本人から見れば、日本らしくないものであった。とりわけ、MGMのクリップは、アメリカナイズされたジャポニズムという趣である。しかし同時に、その映像は、日本ならではのIR施設が成立する余地を暗に示唆しているかのようでもある。一般には、アメリカにおける正統派の日本趣味は、岡倉天心(岡倉覚三)氏の業績に良くも悪くも影響されていると言われている。IR施設における日本趣味に、この種の経路依存性が存在していても、何ら不思議ではない。日本人の自己イメージを日本国内のIR施設において実現・提供すれば、その「おもてなし」は、他国のIR施設とも十分に競争できる独自の内容になろう。

『キル・ビル Vol.1』では、ユマ・サーマン氏の演じる「花嫁(The Bride)」が、ルーシー・リュー氏の演じる「オーレン・イシイ」の一味と、お台場にある?『青葉屋』という料亭?で大立ち回りを演じるが、このような日本風の料理屋で色々楽しみたいという欲求は、「和式」IR施設でこそ、叶えられる可能性があろうというものである。もっとも、伝統的スタイル今あるリソースによって忠実に再現するためには、「博徒を先祖として、その「遺伝子」を適正に継承する組の全員を、足を洗わせた上で、組に丸ごとシノギを認可する」くらいの度量が、日本人に共有される必要があろう。大きく構えた表現を取ると、ある種の賭博を非犯罪化すると同時に、犯罪組織をも「包摂」するという方針である。ただ、こうなると、組織犯罪関連法との関係や、現実の利益をいかに分配するのかだけでなく、麻雀やゴルフはどうなるとか、ややこしい話が方々に波及しそうである。「暴力団を非犯罪化するなどとは、とんだ世迷い言を」と捉える向きもあるかも知れないが、「餅は餅屋」とも言うし、「非犯罪化」は、「規制撤廃」の一類型である。事実と可能性とをタブーなく指摘しておくことは、現実への影響が生起し得る社会科学を研究する者にとって、「李下に冠を正さず」の実践ともなる。


本ブログの読者にはクドいと思われるであろうが、(IR施設の全体ではなく、)カジノに係る最大の焦点は、カジノというビジネスが、一晩で勝てる金額の上限を定めないことにある。このマネロンに対する脆弱性が、世界の(列強)国から見て、安全保障上、許容されないと判断された場合、わが国の刑事司法の脆弱性を突く形で、批判が広がることになろう。この脆弱性を克服するためには、専門家の種別を限定せずに、論理的な内容であれば、厳しい内容を含む提言・批判を聞き入れた上で、検討を加え、必要な情報を適切に開示できる体制を整える必要がある。つまりは、公論を経る必要がある。

しかしながら、カジノそのものの仕組みと法制度については、このまま行けば、まず間違いなく、事業者主導で内密に決着が付けられるであろう。それが、ここ数年、わが国が開発独裁国家として歩んできた道程であり、今後も続く道である。この路線の継続は、2017年10月22日の第48回衆議院選挙によって、消極的にであれ、国民の承認を得たことになってしまっている。日本語マスコミが23日以後、さかんに「投票したい候補者が他にいなかったから、自公候補に投票した」という「町の声」を紹介しているのは、「承認を得た」との自民党・公明党関係者の解釈を無効化しようとする試みであるが、選挙という活動の結果を軽視しているのは、日本語マスコミの方である。IR特区についても、先の選挙がお墨付きを与えたということになっているからこそ、23日に『FOX BREAK』が放送されたのである。

念のために申し添えておくが、私は、高額賞金を可能とするギャンブル全般に対して、マネロン上の脆弱性を有するとの疑いを抱いている。IR施設のカジノ機能だけが、殊更に、批判の対象として取り上げられるべきではない。ただ、この脆弱性に対する考察は、昨秋以来、なかなか進んでいない。『日本プロファイル研究所』のウェブサイト上の記事の数々は、後追いし切れていないものの、(灰色から黒色の系統の)ジャーナリスティックな批判を、特定のギャンブルに係る信じるに足るだけの「状況証拠」とともに示すものである。なお、パチンコからの収益が北朝鮮に送金されているとする従来型の批判は、パチンコというギャンブルの仕組みそのものに脆弱性が内包されている、という指摘ではない。この問題は、「神は細部に宿る」話の典型であり、本来、利益相反関係なく、国民益を考慮できる複数の専門家が存立しながら議論すべき問題である。


しかし同時に、賭博というビジネスそのものを問うこととは別に、観光業全体に占めるIR施設の位置付けを構想し、他の観光コンテンツとの連携に伴う、隠れた課題を扱う※2ことは、国民益を増大させるという目的に適うことである。つまり、IR施設を単独で論じるのではなく、わが国の観光のあり方を俯瞰して、将来戦略の中にIR施設を位置付けることが可能か否かを論じることは、永田町や霞ヶ関に限定されない場において、必要とされることである。この点、バワーズ氏の先述のコメントもまた、否応なしに、国民の目にさらされ(た形式を取)る必要がある。この「意見周知」という機能こそは、『FOX BREAK』が放送された意義であると推認できる。

ただし、このような構想を語るにしても、井手氏の在籍する日本通運は、国際的な流通業における主要なステークホルダーであり、旅客業が潤うことから利益を得られるために、井手氏は、本来、業界人枠に含めるべき人選ではある。業界人が国益に立って発言することは可能であるし、その姿勢を堅持することは、公を語る上での必要条件であるが、非・利害関係者の積極的な承認を得なければ、業界人の側から、論議を尽くしたと一方的に主張することはできない。わが国では、業界丸抱えでない、ユーザ・消費者の利益を代表する公益団体を設立・維持する(ために、カネは出すが、口は出さないという姿勢を堅持する)という活動は、全体として見れば、CSRの一分野として定着しないまま、ここまで来てしまった。わが国における人工芝運動は、原発ムラの実例に見るように、拙劣な程度に留まり続けてきた。なお、ここで、わが国独自の人工芝運動とは、原発ムラの実例を除けば、仮構的な存在に過ぎない。実在する市民運動については、(刑事司法関係者の側から見れば、)党派色が拭えないとはいえ、リソースが制限されている中で、理想的と考えられるであろう結果との乖離はともかく、制限されたなりの社会的機能を果たしてきたように思う。


IR施設そのものを離れれば、わが国の観光上の問題は、わが国の(公共)空間体験が観光客にとって美的に満足できるものであるか否かという点に集約される。カジノの太客となるような、アートを解するハイソな観光客が満足できるだけの空間体験を、現在のわが国で実現するためには、私有地内に囲い込むという方策しか残されていない。都市部では、借景という概念は、言うまでもなく破綻している。京都の惨状を目の当たりにした上で、不動産価格と建設価格を考慮すれば、わが国の都市景観がともし難い状態に陥ったことは、誰の目にも明らかである。僅かに、足立美術館ほどに、ド田舎にあり、かつ、周辺ともウィン・ウィンの関係を構築しているトップランナー的な観光資源だけが、この概念を維持している。借景とは言えないようには思うが、MOA美術館も同様に、立地を生かしていたような覚えがある(。上に挙げた例は、私が直接体験したものに限定している)。ともあれ、借景までを考慮した場合、わが国では、バーデン・バーデンやバーデン・バイ・ウィーンのような、山間部のリゾート地が有利ではあろう。ただ、山間部の温泉地は、どこも露天風呂を用意する際に苦心しているようである。これらの現状を踏まえれば、わが国において、上流階級の太客をもてなすための条件を整える上で、土地利用の現況は、根本的な障害となっている。

お台場という都市空間を、浅田次郎氏の『カッシーノ!』[1]に紹介されるヨーロッパの諸都市と比べると、その残念さ加減が明らかとなる。(厳密には、お台場を通りはしないが、)東京モノレールや、(お台場を周遊する)ゆりかもめからの風景は、都内の沿線風景としては、比較的楽しめる。しかし、都市空間体験の全体は、カジノを抱えるヨーロッパ諸国における空間体験に比較して、数段落ちるであろう。あらゆる都市は、人類の営為の集積であるが、ラスベガスは、その中でも、環境を大規模に改変して建設された「人工都市」である。お台場も、何もないところから作り出されているが、ラスベガスと比べると、「夢の島」とは呼べない程に、都市空間としてスカスカである。表現は悪いが、お台場には、都市の魅力を作り出すという努力が不足している。専門的な表現になるが、わが国で、スーパーブロック(長大な街区)の非人間性を体験したければ、お台場を徒歩で一周すれば良い。たとえ、青島幸男氏が都市博を中止しなかったとしても、空疎さを埋め切れなかったであろうところが、わが国の「都市計画」の所掌する分野の(、ただし「都市計画」と称される専門分野に限定されるべきではない、)構造的な課題を示している。IR施設の候補地とされている横浜市や大阪市の沿岸部の方が、観光資源としては、多少マシである。横浜や大阪の方が、夜景を楽しめる余地がある。横浜の夜景については、説明が不要であろう。大阪については、現今の「工場萌え」を考慮すれば、関空からのリムジンバスルートは、他国のIR施設に比較しても、工業立国であるわが国らしい、楽しめる風景を提供できるものと思われる。お台場は、首都高湾岸線を自走した経験がなく、記憶に乏しいので断言しかねるが、少なくとも、大量輸送が可能な公共交通機関については、風景の醜さを一考する余地があるとは言えよう。首都高を二階建てのオープンバスで走行するというツアーは、例外的であるが、インフラ維持という観点から、50年後も同様の体験を安全に実施できるかと問われれば、甚だ怪しいものがある。50年後の将来、同一ルートのツアーは、別の意味でスリルのあるものとなろう。レンタカーへの自動運転機能・運転補助機能の実装は、外国からの観光客のモビリティを大幅に向上させるであろうが、普及までにもう5年は必要であろうし、何より、わが国の都市空間は、景色の良さを楽しませるだけのコンテンツに不足している。

浅田氏は、

唯一ヨーロッパの鉄道がJRよりすぐれている点は、車窓の風景である。〔p.254〕
[1]と述べているが、わが国では、都市空間がスプロール(無秩序に延伸)しているために、交通体験としての鉄道路線沿線部の風景は、延々と醜悪な光景が続くだけである。新幹線の路線の大部分も、新幹線自体が騒音によって邪魔者扱いされている(NIMBY; Not In My BackYard)ために、その潜在力を発揮し切れていないと断定できよう※3。この結果は、JRが国営企業であったという経歴と、その時期に構想された新幹線計画なるものをふまえれば、当然のものかも知れない。ただ、沿線一体型の開発がなされてきたことを考慮すれば、わが国の私鉄沿線の風景も、心象風景としてはともかく、具体的な見た目については、お世辞にも心地よいものとまでは言えない※4。別方面のオチとして、ひと頃、二反長音蔵氏の尽力の甲斐あって、大阪北摂地方の鉄道沿線には、一面のケシ畑が広がっていた...という感じの記述が、倉橋正直氏の『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』[2]辺りに含まれていたのではないかとも思うが、記憶違いの可能性が高いので、出典はいずれ確認するとしても、鉄道路線の風景に対して、わが国が色々な観点から無頓着であるのは、伝統芸である。

鉄道写真家の中井精也氏は、NHKの番組などで様々な鉄道路線を紹介しており、そこで紹介される写真は、流石、プロの技と思わされることしきりではある。しかし、ここでの問題は、「玄人はだしである鉄ちゃんたちが、プロの技に習い、上手な写真を撮ることができる環境であるか否か」ではない。「シロウトである外国人観光客が乗るだけで楽しめて、しかも、また来たいと思える鉄道路線であるか」である。これらは、似たような話題を扱ってはいても、ターゲット層も、カネの回り方も、異なる話である。


もっとも、既存の観光資源に対して、都市改造のような、大掛かりで巨額の経費を必要とする改善が必要という訳ではない。たとえば、アレックス・カー(Alex Kerr)氏の『ニッポン景観論』[3]は、アルファベットしか読めない観光客にとって、火気厳禁の看板が誤解を招くものであることを指摘している。この分野に興味のある人物であれば、同書は必読書である。ともあれ、小さな気遣いと改善を、相当程度・多くの事象について進める必要があるのが、わが国の都市空間の現状である。小さな改善と、大きな構想との両方が、必要とされている。


利己主義に起因する猥雑さこそが、現代日本の都市空間を規定しているという指摘は、多数の論者によってなされているが、真理の一面を衝いてはいる。1%だけが好き放題しているだけではなく、99%も、それぞれの器の大きさに応じて好き放題した結果、混沌とした都市空間が生じている。とは言っても、大規模建築物において利己主義が貫徹されていることの方が、風景としての大都市を毀損する上で、寄与が大きいことも確かである。わが国の密集市街地の大半は、リオ・デ・ジャネイロのファベーラ(いわばスラム地区)のように、パルクール※5やマウンテンバイクに適した傾斜地ではないから、観光資源としてゴミゴミした眺望を売りにする上では、東京スカイツリー・六本木ヒルズ・あべのハルカスのような、過剰な高さが利用されることになる※6。また、これらの高さという資源は、ニューヨークなどと同様、徹底して民営化されつつある。この傾向は、通天閣・東京タワーの時代から変化せず、京都タワーが物議を醸し、京都駅が止めを刺した。これらの事件に比較して、いち庶民の建築物は、思想上、ほとんど影響しなかったと考えて良いから、やはり、大規模建築物がわが国の建築の風潮を決定したと考えて良かろう。なお、時機を見て、どこかで、アイン・ランドや天守閣の話を確認した後に、追記する予定である。本段落のここからの記述は、仮説である:天守閣は、天空に神のいないわが国において、櫓・権力の二つの機能を兼務するものに過ぎないが、高層ビルが、ゴシック建築に代表される天空=神の座所への反逆であった点については、『反・東京オリンピック宣言』において、説明されていたか否か、疑わしい。必ず、建築(評論)家の誰かが、真理としての神への反逆に対しては、言及しているはずであるが、アイン・ランドの著書がこの点において反抗的=悪魔的であるという点については、言及が抜けている可能性が認められる。

他方、巨大建造物によるスカイラインは、マンハッタン島を想起すれば直ちに了解されることであるが、本来ならば、観光資源となり得る。しかし、一時期までの丸の内や銀座、横浜のベイエリアや新宿副都心の一部を除けば、このことは、さほど考慮されていないし、丸の内や銀座については、秩序が破壊される傾向にある。銀座の歌舞伎座が高層化されたという経緯は、ほかの事業者とは異なり、文化事業に携わる者の根幹を問うものであったという点で、一層、興味深いことである。ともかく、わが国では、スカイラインが都市全体でいかなるものに見えるのかが自発的に考慮され、秩序が自生的に形成されるような機能が、社会にも制度にも埋め込まれていないし、増床に伴う賃料の増加という「目に見える金目」の前には、将来価値を生むかも知れないという、美的感覚に基づく期待感など、まったく顧慮されないのである。山本豊津氏が現代美術について指摘する「価格=交換価値」と「(使用)価値」との違い[4]は、風景という対象についても、適用可能な概念であると思われる。この点は、ニューヨーク市のスカイラインを想起すれば、納得できよう。日米両国は、同じゾーニング制を都市計画の基本とする(運用実態は大きく異なるが)とはいえ、マンハッタン島という土地条件に強く規定されている分、ビッグ・アップルの方が、風景の印象を強めることに成功しているのである(。この指摘も、対岸となる地区、ニューポートやブルックリンの再開発が進めば、成立しなくなりそうではあるが、ブルックリンの再開発は、人種問題もあろうから、なかなか制限もしにくいであろう)。

東京スカイツリーの巨大さは、東京の建築物の中でも群を抜いており、異様と呼べるほどである。羽田空港から離陸する旅客機の窓から覗くと、スカイツリーは、大手町・丸の内・有楽町周辺や、新宿副都心といった既存の中心市街地と比べても、ひときわ大きなものである。そのスケール感は、ほかの建築物から遊離した巨大さで、見る者を圧迫する。一個の人間が認識できる範囲を巨大な事物が超越する状態は、ビッグネス(bigness)と呼ばれているが、スカイツリーのビッグネスは、ほかの大規模建築物と比べても、際立つものがある。

スカイツリーの高さそのものは、テレビ塔として関東平野一円を望むという点で、建設事業者にとって、改変できない所与の要件であった。しかし、これだけ通信手段が多様化した現在、テレビ番組を放送する上で、地上波にこだわる必然性はないはずである。テレビ事業者としては、ワンセグも含め、緊急時の速報性にこだわったために、地上波が温存されたと言われるが、速報性が必要な事象に対しては、ラジオで十分ということはなかったのか。音声だけ、別帯域で放送する仕組みはあり得なかったのか。ともあれ、地上波が必要という揺るぎなき前提が立てられ、その上で、スカイツリーの建設地が選定された。さいたま副都心はおざなりにされたが、同地にタワーが建設されたとして、人が今ほど集まったかどうかは、保証の限りではない。ともかく、スカイツリーは、押上・業平橋駅周辺の防災拠点として、また、東京都の新たな観光拠点として機能しているが、風景の中では、墨田河畔のウンコモニュメント(、制作者本人が同意したという都市伝説を聞いたことがあるので、こう明記しても構わないであろう)と同様、突出した違和感を与えうる存在である。良くも悪くも、放送事業者の地上波のゴリ押しによって生まれた鬼子が、スカイツリーという訳である。

東京スカイツリーの巨大さが観光資源としての東京の風景を毀損している可能性を指摘し、また、600mを超える高さの必然性が放送事業者の都合によることを指摘できたので、ようやく、本稿のオチに入ることができる。ひょっとすると、ケーブルテレビ(だけ)でIR施設が推進される裏には、「IR施設は、わが国に上客を呼び込むための観光資源の一つとして機能しますよ」と呼びかけると同時に、「ケーブルテレビは、都市景観にも優しく、外国人観光客にも多様な番組を提供することができるという点で、地上波よりも優れていますよ」とも囁きかけるという目的が潜められているのではなかろうか。ケーブルテレビ愛好者こそは、多様性を享受せんとする存在であるがゆえに、地上波という暴力的専制に対抗する存在となり得る。スカイツリーという「一つの(電波)塔」に使嗾される「地上波ゾンビ」に対するは、「ネットワーク」を愛するプレッパーたちである(が、その中には、『ウォーキング・デッド』シリーズに登場する『救世主』たちのような、ナチスを彷彿とさせるような、全体主義的な連中も含まれよう)。もっとも、本件は、『指輪物語』に倣い、「オークどもに対峙する「旅の仲間」ということになるやも知れない。読者には、これらの比喩が唐突すぎて、到底、この構図を受け入れてはもらえないかもしれないが、筆者としては、オチが付いたつもりになったので、これでおしまい。


※1 「協力 JTRA」とあったが、これは、おそらく、特定非営利活動法人 ツーリズム研究機構[5]であろう。ただし、直接確認することは、本ブログの広告活動になりかねない(し、あるいは、右翼の街宣活動と同種の効果を持つ活動と誤解されかねない)から、行わない。

※2 他の論点として、巷の話題に上がりにくい例として、犯罪に関わる分野として、性風俗営業の一形態としての同伴営業を挙げることができる。同伴ビジネスというものは、大々的にお目こぼしはされているが、性規律に厳格な立場からすれば、むしろ、積極的に問題視しても良い種類の営業形態である。しかも、観光に付随する話となれば、通訳業や介護業との兼合いはどうするのかとか、色々と攻め所を考えつくことは、可能である。

※3 北海道新幹線と、九州新幹線の一部を除けば、全路線を乗車した経験に基づき、指摘しておく。「見るべきポイントをあらかじめ知った上でなければ楽しめない景色」というものは、旅行客にとって、ハードルが高すぎる。『インスタグラム』などを通じて、例えば、高尾山の猿などのように、海外からの観光客を呼び込む資源は、次第に知られつつあるようではある。しかし、これらの「発見された観光資源」は、どちらかと言えば、自然発生的な個人の活動に起因するものであって、キュレーション活動が意図的かつ組織的に展開された結果ではない。正確に言えば、文化に携わる人々に社会がカネを投じた結果ではない。その結果、観光資源は点在するに過ぎず、自然と生じるはずの複合的な観光体験というものは、個別の観光事業者のキュレーション抜きに、存在し得ていないのである。(「何をせずとも、ゆっくり観光するだけで何かしらの発見があり、旅行者を満足させることができる」という状態が、理想的であろう。)

先進諸国は、自国の観光資源を「面」となるように、文化的な制度を展開するという市民的な運動を、半世紀以上も先行して実施している。日本国民のあらゆる層に対して、このような大局的な観光戦略に(意図せずに)寄与するような意識は、意図的に養成されてはいない。逆に、「何でも金目」というメッセージは、あらゆる場面において、語りかけられている。たとえば、「クール・ジャパン」の現場を支える人々の収入は、まったくクールではないが、これを天下り先と定めたお役人だけが私腹を肥やしている。多くの外国人観光客に対して、わが国が「一度来れば十分」という観光資源しか用意できていないとすれば、それは、ここに示した理由が主原因である。この根の深い原因を改善しないことには、放送事業だけでなく、観光事業についても、わが国は、結果として見れば、焼き畑農業的にしか将来を構想できていないことになる。

※4 小林一三氏が編み出し、阪急に適用した私鉄の開発方式、つまり、都心と終点の双方に集客施設を用意するという方式は、それ自体、偉大ではあった。しかしながら、わが国の都市・建築規制に係る野放図さは、芦屋などの一部住宅街を除けば、人間の生活行動が観光資源となるという状態を生成・維持することに失敗したと断定できよう。

※5 都市内をアクロバティックに駆け抜けるスポーツ。このスポーツを疑似体験可能な『Dying Light』には何度か触れた(日)。

※6 東急東横線は、代官山駅より横浜手前までの区間で、北(西)側(渋谷方面行きの場合、進行方向に向かって左手)を向いていれば、昭和前期までに海岸段丘に形成された高級住宅地をいくつか望むことができるが、マンションに隠されがちであるし、経緯を知っていなければ、面白く見ることすら難しい種類の景色ではある。


[1] 浅田次郎〔著〕・久保吉輝〔写真〕,(2003.6).『カッシーノ!』, 東京: ダイヤモンド社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000004170745
#同書の目次は次のとおりである。

訪問地章題ページ
  プロローグ
1
Monaco1モナコの伯爵夫人
7
Monaco2ギャンブラーの聖地19
Monaco3誇り高きクルーピエ31
Monaco4偉大なる小国家43
Nice5リヴィエラの女王55
Nice6花火とトップレス67
Cannes7アンティーブの古城にて77
Cannes8カンヌのナポレオン89
San Remo9サンレモの夜は更けて101
Baden Bei Wien10バーデンよいとこ113
Baden Bei Wien11ユーロ万歳!125
Baden Bei Wien12カジノは国家なり135
Seefeld13登山電車に揺られて147
Seefeld14タイム・イズ・ライフ157
Seefeld15アルプスのサムライ169
London16伝統と格式の鉄火場181
London17終身名誉会員193
London181億円しばりの密室205
Normandie19ノルマンディの妖精217
Normandie20博奕なるものあらずや229
Normandie21消費は美徳。倹約は罪。241
Wiesbaden22皇帝のシュピール・バンク253
Wiesbaden23ゲルマンの叡智265
Wiesbaden24名作『賭博者』の背景277
Baden-Baden25考えるドイツ人289
Baden-Baden26アメリカン・スタイルの正体301
Baden-Baden27遊べよ、日本人!313

[2] 倉橋正直, (2002.8). 『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』, 東京: 共栄書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/000003670348

[3] アレックス・カー, (2014.9). 『ニッポン景観論』(集英社新書 036V), 東京: 集英社.
http://id.ndl.go.jp/bib/025738252

[4] 山本豊津, (2015.10). 『アートは資本主義の行方を予言する 画商が語る戦後七〇年の美術潮流』(PHP新書 1009), 東京: PHP研究所.
http://id.ndl.go.jp/bib/026719224

[5] NPO法人ツーリズム研究機構(JTRA)
(2017年10月25日確認)
http://jtra.saloon.jp/




2017年10月27日19時35分、10月30日20時05分、追記・訂正

文意の通らない箇所を訂正し、若干の記述を加えた。

2017年10月24日火曜日

国際秘密力集団の「三つ巴」は二種の両建てにより構成される(3)

本稿は、前稿の続きである。


「ダブルバインド」に係る落ち穂拾い

「両建て」のように聞こえる言明は、日本の政界・日本語の論壇においても、結構な頻度で見かけられる。これらの言明が「野生の思考」であるのか、意識的な訓練や馴致の結果であるのかは、話者と発話の組合せ次第であるとしか言いようがないように見える。話者が高度な欺罔の才能を有していれば、「両建て思考」を時と場合に応じて使い分けているという可能性は、十分にあるものと考えて良い。「両建て」を知れば、「破・両建て」も可能となる。私にとっては、知識も技術の一種であり、使い方次第である。ようやく知った遊びにハマった子供と変わるところがないが、私が手当たり次第に事例を挙げているのは、そういう理由によるところが大きい。

2017年10月23日未明(、つまり、衆院選の大勢が決した夜の24時とか25時台に)、テレビ朝日系『選挙ステーション2017 2部』において、田原総一朗氏が「○○なの、○○なの、どっちなの?」と吠えていた[1]のは、ダブルバインドの一つである。福山哲郎氏に対する質問は、確実にこの形式を取っていたと指摘することができるが、具体的な内容がうろ覚えであるし、それにそもそも、田原氏の質問の中身自体は、どうでも良いことである。というのも、田原氏は、「止揚」となるような回答を期待して、相手にジレンマを生じさせる二者択一式の質問を投げ掛けるという方法を常用するからである。この問いに対して、「どちらでもありません」と答えるのは、面白さを追求するテレビの流儀にも反し、視聴者自身もそのような答えを求めてもいないであろう(と制作者サイドが考えていよう)から、回答者としては避けるべき選択肢であるが、嘘を述べたことにはならない。学者が「どちらでもない」と答えることは、逃げの一手ではあるが、「正しい知識を産出・伝達する」という学問のプリンシプル(原則・本義)に即せば、許される態度である。とはいえ、田原氏の期待を大きく外す「面白い」回答を用意してみせるのが、回答者の能力の見せ所である。田原氏の弁舌は、一般的には、巧みであると思われているのかも知れないが、「破・両建て」の追究者から見れば、国際秘密力集団の方法の劣化コピーである、と見えてしまいかねないものである。

高坂哲郎氏は、政府の安全保障政策に対して従順であるか否か、安全保障政策に対して積極的であるか否かの二軸を設定し、自らを、政府の安保政策によらずに積極的な安保政策を追求する「第四の立場」であるとする[2]。第四の立場を設定可能であるとする高坂氏の主張は、国際秘密力集団の「二軸の両建て・平面配置」によって、四種の立ち位置を設定可能であるという構造を明らかにしてしまっている。以前の拙稿でヒントを述べたつもり(2017年9月30日の「はじめに」)であるが、両建てとなる対立関係を$n$種類用意することにより、$2^n$通りの、見解の異なる組合せとなる立場を用意できる。この点を踏まえれば、「三つ巴」を「二軸の両建て」であると見る方が、高坂氏の事例までを一般化でき、覚えておくべき知識を節約できる。

武貞秀士氏は、1997年の北朝鮮に対する、日米中韓露の論者らの見解を二次元配置にまとめている[3]。『1997年の北朝鮮の座標軸』と題した図は、北朝鮮について、[開放政策に転じた](上)と[閉鎖政策をとっている](下)、[崩壊しつつある](左)と[崩壊の兆候はない](右)という二軸を配置する。この図そのものに示された見解※1は、一介の日本人読者としての私には、受け入れられるものである。また、武貞氏がこの説明方法をランド研究所訪問時に思いついたと記している〔p.54〕点は、偶然の一致であろうが、国際秘密力集団の方法論の実例を示したものとも見えてしまう。

陰謀が陰謀として機能するための条件は、「ネタを割ってみると、シンプルである」というものが予想される。そうでないと、容易に同士討ちが起こりかねないことになる。このため、わが国の組織・権力構造について、カレル・ヴァン=ウォルフレン氏が指摘したような「暗黙の共謀関係」を成立させるためには、せいぜいが二軸の両建て、四通りまでの立ち位置程度しか、用意すべきではないのであろう。また、安富歩氏の「東大話法」の中に、「論点をずらす」というパターンが含められた背景には、二軸の対立軸という方法論が利用された事例が含まれているのではないか、とも考えることができる。


やや脱線するが、昨日(23日)日本で放送が開始されたが、『ウォーキング・デッド シーズン8』の話の展開が、現実社会の推移を見据えて「両賭け」できるように構成されていることも、公然の秘密というヤツであろう。以下、ややネタバレになるが、ほとんどがシーズン7までの話であるし、公式サイト[4]程度のネタバレであるから、構わないであろう。主人公サイドは、多様な人種・性別・年齢・背景からなる人々の連合体である。これに対して、強大な全体主義的独裁グループ『救世主(Savior)』は、マッチョな男性たちが頭目「ニーガン(Negan)」一人の強力なリーダーシップの下に統率されている。今シーズン冒頭、対立を解消するために主人公たちが狙うのは、ニーガンただ一人と宣言される。この展開は、昨年のアメリカ大統領選挙の時期と同時並行的にシーズン7が放送されていたことを踏まえれば、「両賭」であると、視聴者の多くに理解されることであろう。ジェフリー・ディーン・モーガン(Jeffrey Dean Morgan)氏の演じるニーガンは、屈強で狡猾な中年の白人男性であり、絵柄としては、ドナルド・トランプ氏の率いる現政権を想起させるように見えながら、その実、クリントン夫妻を使嗾する国際秘密力集団の表徴であると読み替えることもできる存在である。


以上の事例を並べてみれば、シンプルな考察を順序よく積み重ねる形で思索を進める人たちの思考や、現実の政治から影響を免れ得ない創作物が、時に、「二軸の両建て」のような形で、国際秘密力集団の方法論とダブる方法を採ること自体は、致し方ないことであろう。


「二軸の両建てに基づくマッピング」は普遍的な方法である

そもそも、情報系の分野を多少なりとも学習した者にとって、二軸の「両建て」を平面配置するという方法は、随分と馴染み深いものである。柳井晴夫・岩坪秀一の両氏による『複雑さに挑む科学:多変量解析入門』[5]は、林知己夫氏により体系化された数量化理論を説明する書籍として、色々な意味でコンパクトな古典である。同書では、「人間は、直接、4次元を認知できないので、情報を3次元以下に落として(=縮約して)配置してやる必要がある」旨が挿絵とともに述べられている。大抵の物事は、単に二極対立させ(、一次元上に配置す)るだけでは、豊富な含みが随分と失われることになるが、二軸では、かなりの面白い動態を示すことができるようにもなる。紙・コンピュータ画面が二次元である、という媒体の特性も挙げられる。これらの要因が相俟って、二次元上にマッピングするという方法は、学術上の基本的な表現手段となっているのである。

なお、小池百合子氏の「三都物語」に対する批判(2017年10月11日)の中で、AHPについて触れたが、AHPそのもの自体は完結した方法であることを明記し忘れていた。漏れなくダブりなく価値観(たとえば、旅行において重視する価値観として、食事・宿泊・安全・言語・交通など)を一揃い挙げ、それらの価値観を一対比較した上で、選択肢(東京・札幌・北京・ニューヨーク・ロンドン・モスクワ...)に係る価値観を算定するのであれば、ジャンケンのような循環的な関係が価値観の組に含まれていても、意思決定に役立つ解を得ることができる。


取捨選択された情報の取合せこそが分析を左右する

統計的手法は、用意したデータそのものの取合せや、分析条件を変更することによって、結果を恣意的に変更できる。察しの良い読者は、私がAHPについて言及した際、「比較すべき価値観、たとえば、物価をわざと抜いたとき、AHPの結果はどうなるのか」などと、心の中でツッコまれたであろうが、そのツッコミは、正当である。一揃いの候補者について、一揃いの価値観(と候補者ごとに価値観に伴う評価)が付けられて初めて、AHPの評価は、正当なものになる。回帰分析であろうが、SEMであろうが、利用されるデータセットこそが重要という指摘は、往々にして忘れられがちである。この指摘に係る責任は、統計的手法のユーザに第一義的に帰せられるが、副次的には、結果を査定する読者にも求められている。

不完全な情報に基づき下された判断は、別の情報が加わったとき、容易に別の結論へと変わるものであるが、それは、最近の政治談義についても、変わるところがない。最善と思われたであろう選択肢をわざと提示しない、という意地悪を想定してみれば良い。池上彰氏がホストを務めた22日の『TXN衆院選SP 池上彰の総選挙ライブ』[6]では、一般人1000人の期待する総理大臣に、小沢一郎氏が22票で9位にランクインしていたが、他方、政治記者100人の回答に基づく上位10名に、小沢氏は含まれていなかった。含まれていないことを示すために、下表を挙げた。政治記者の所有する情報の中には、小沢氏に係る「アンタッチャブル」な情報が政治記者の間でのみ共有されているということかも知れないし、これから述べる見解の方が、私にとっては真実に近いと認められるが、市井の集合知の方が、政治記者ムラの常識よりも上等という結果が表れているだけなのかも知れない。松田賢弥氏という小沢氏向けのディス要員を抱え、寿司友が幅を利かせていると認められる政治記者ムラの方が、世間よりもよほど偏見に満ちているという結論は、まず間違いなく当たっているように思えるのである。


表:「政治記者100人アンケート:次に総理になって欲しい人」
出典:テレビ東京系『TXN衆院選SP 池上彰の総選挙ライブ』[6]
(2017年10月22日放送23時18分頃)

順位氏名票数
1岸田文雄33
2石破茂18
3河野太郎13
4枝野幸男6
4誰もいない6
6野田聖子5
7菅義偉4
7小泉進次郎4
9谷垣禎一3
9野田佳彦3

#以上、手当たり次第に事例を並べてみたのは、そちらの方が一般向けには賛同を得られそうであるためである。条件付き確率で話を進め、現実は、三つ巴じゃねえんだよ、とブイブイ言わせるよりは、よほど間口が広いかもと考えたのは確かではあるが、手抜きしたのも事実ではある。


※1 詳しくは、同書に当たられたいが、興味深いところをとりあえず述べておくと、『月刊正論』『月刊諸君』『産経新聞』『月刊文藝春秋』『現代コリア』が第III象限の極端な部分に位置付けられていたことである。なお、武貞氏の表現では、「南西ブロック」である※2。武貞氏自身の見解は、第IV象限(南東ブロック)であり、韓国国防部などと同一である。金正日氏自身の見解は、第I象限(北東)に位置付けられている。

※2 ただし、この二軸により生成された象限を、北東・南東・北西・南西と表現すると、わが国における地図表現を前提としていることになる。確かに、「地図に向かい合ったとき、上が北」と設定すれば、問題なく成立する。しかしながら、本稿を精読されている諸賢であれば、この設定に反する話が地政学的な観点から見られることを、すでに述べたことを記憶されているかも知れない。参考まで、平凡社地図出版の記事[7]も引用しておく。なお、元々、地図の向きが人々に固定観念を与えるという点を私が理解したのは、網野善彦氏の著作のいずれかを通じてであり、90年代の話になる。武貞氏が「万能人」であれば、別の表現を利用した可能性があったのでは、などと期待してしまうのである。もちろん、ここでの私の指摘は、組織人に必要な教養の幅広さと深さを効率良く備えていくことの難しさを指摘するとともに、わが国の政府(より有り体には、官僚組織)が組織人に必要とされる基本的な知識を涵養するための条件を自ら食い潰してきたことを暗に批判するために、明示されるものである。


[1] 選挙ステーション2017│テレビ朝日~選挙が分かりやすくなる動画を続々配信中!
(2017年10月24日リンク確認)
http://www.tv-asahi.co.jp/senkyo/

[2] 高坂哲郎, (2015.10). 『世界の軍事情勢と日本の危機』(日経プレミアシリーズ 291), 東京: 日本経済新聞出版社.
http://id.ndl.go.jp/bib/026763020

[3] 武貞秀士, (1998.4). 『防衛庁教官の北朝鮮深層分析』, 東京: KKベストセラーズ.
http://id.ndl.go.jp/bib/000002737313

[4] ウォーキング・デッド シーズン8|FOX|FOX ネットワークス
(2017年10月24日リンク確認)
http://tv.foxjapan.com/fox/program/index/prgm_id/21056

[5] 柳井晴夫・岩坪秀一, (1976). 『複雑さに挑む科学:多変量解析入門』, 東京: 講談社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000001129316

[6] TXN衆院選SP 池上彰の総選挙ライブ:テレビ東京
(2017年10月24日リンク確認)
http://www.tv-tokyo.co.jp/ikegamisenkyo/

[7] 平凡社地図出版-地図雑学,Q&A その2
(まえ、2011年7月12日)
http://www.hcpc.co.jp/faq/faq002.html

日本と大陸の関係を示す地図であれば、中国を下に、日本を上にすると分かりやすくなります。

2017年10月19日木曜日

(メモ)9.11に係るWTC7の崩落について

NIST(アメリカ国立標準技術研究所)の2008年11月報告書は、火災により引き起こされた損傷が床の局所的な不具合を引き起こし、この不具合が9階に渡る重量を支持していた79番の柱を(、5.5インチ以上の変位により)座屈させるという連鎖を生じさせ、この座屈によりWTC7全棟が崩壊した[1]と述べている。なお、同報告書については、軸受の幅が12インチであったことを受けて、2009年1月には、6.25インチ以上の変形があったと訂正されている[2]。これに対して、2017年9月、アラスカ・フェアバンクス大学のリロイ・ハルゼイ氏らは、構造計算の結果、79番の柱の変位は2インチ未満であり、火災による79番の柱の座屈は生じなかったことを報告している[3]。プレゼン書類は、PDF形式で、同大学のサイトで公開されている[4]。本件は、ポール・クレイグ・ロバーツ氏のブログ記事[5]の和訳サイトの記事[6]を端緒に知ったことである(。念のため、本稿の執筆にあたり、両者ともに確認している)。


[1] Structural Fire Response and Probable Collapse Sequence of World Trade Center Building 7, Federal Building and Fire Safety Investigation of the World Trade Center Disaster (NIST NCSTAR 1-9) VOLUMES 1 and 2
(Therese P. McAllister、2008年11月20日)
https://www.nist.gov/publications/structural-fire-response-and-probable-collapse-sequence-world-trade-center-building-7?pub_id=861611
#直リンクは、http://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=861611

〔p.617, 14.2. Summary〕The probable collapse sequence that caused the global collapse of WTC 7 was initiated by the buckling of Column 79, which was unsupported over nine stories, after local fire-induced damage led to a cascade of floor failures.

[2] Errata for NIST NCSTAR 1A, NIST NCSTAR 1-9, and NIST NCSTAR 1-9A, Federal Building and Fire Safety Investigation of the World Trade Center Disaster: Structural Fire Response and Probable Collapse Sequence of World Trade Center Building 7 | NIST
(Therese P. McAllister、2009年1月30日)
https://www.nist.gov/publications/errata-nist-ncstar-1a-nist-ncstar-1-9-and-nist-ncstar-1-9a-federal-building-and-fire?pub_id=901225

[3] Collapse of World Trade Center Building 7 1
(Dr. J. Leroy Hulsey)
http://www.kaltura.com/index.php/extwidget/preview/partner_id/1909371/uiconf_id/36832722/entry_id/0_rxmrybkv

[4] A Structural Reevaluation of the Collapse of World Trade Center 7
(Dr. J. Leroy Hulsey, Dr. Feng Xiao, and Zhili Quan. 2017年9月)
ine.uaf.edu/media/92216/wtc7-structural-reevaluation_progress-report_2017-9-7.pdf

[5] 16th Anniversary of 9/11 Brings New Development - PaulCraigRoberts.org
(Paul Craig Roberts、2017年9月11日)
https://www.paulcraigroberts.org/2017/09/11/16th-anniversary-911-brings-new-development/

[6] 9/11・16周年で新たな進展: マスコミに載らない海外記事
(2017年9月13日)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/91116-b568.html




この一方で、矢田部俊介氏の以下のツイート[7]は、「「911において陰謀が行われた」とする言説の中に、かなり多岐に渡る内容が含まれる」という事実を捨象して、吉田夏彦氏の品位が低下するであろうと論じる点で、随分と入り組んだものである。先述したNIST報告に対しては、前掲した最新の疑問点以外にも、数々の疑問が寄せられており、中には、合理的と認められるものも存在する。矢田部氏は、それらの疑問の逐一を確認し、すべてを陰謀論であると判断した上で、ツイートを発出したのであろうか。矢田部氏は、「お互いに」という表現を用いて、自身の品位よりも吉田氏の品位の方が相対的に貶められるであろうという見込みを示している(と解釈できる)ものの、実際のところ、この賭は、矢田部氏にとって不利なものである(。念のため、私自身も、同様の賭に参加している)。私のような気楽な身分から見れば、学識経験者の「品位」の「総計」を低下させないという目的に照らせば、公的な身分のある矢田部氏は、本件について沈黙を保つことが最善手であったように思われる。わが国において「陰謀論」を語る上で、身分に伴う社会関係という障害を乗り越える必要があるという点は、不正選挙に係る拙稿(2016年9月7日)に示した通りである。矢田部氏は、学識経験者に対する社会の信頼というリソースを総体的に浪費した存在として(、少なくとも、本ブログが維持される限りは)、記録されることになろう。


[7] (矢田部俊介、2017年10月2日)




9.11に係る「陰謀論」の多様性については、木村愛二氏が紹介[8]するニック・リーヴァイス(Nick Levis)氏の『あなたの「HOP」レベルはどれくらい?』[9]が参考になろう。合理的な疑いまでを「陰謀論」として片付けてしまう人には、気が付かないのであろうが、「陰謀論」の程度は、木村氏の整理に基づくと、以下のように四段階に分類できる。原文では、第三者の関与の可能性についても列挙されているが、これらが省略されることについては、まあ、分かりやすさという点からすれば、許容されることであろう。

  1. 公式見解:Ari Fleischer氏の主張通り、「警告はまったくなかった」とする説。
  2. 無能説(imcompetence):Reno Wall氏のような説。ホワイトハウスやFBIやCIAやNSAなどは、警告を注意深く検討しなかった。
  3. LIHOP:計画に気付いていて抑止しなかった。「Letting It Happen On Purpose」の略。木村氏の説明によれば、「やらせ説」。
  4. MIHOP:「確信的犯行説」。「Making It Happen On Purpose」の略。諜報関係者と軍の「超政府的な同盟」。

9.11に係る陰謀説を整理する考察として、ほかには、『OilEmpire.Us』が挙げられる[10]。この考察は、リーヴァイス氏の議論を参照し、LIHOPとMIHOPの混合により、9.11が最も良く説明できるとしている。ただ、2017年現在の私から見れば、「imcompetence」の下部にある「9/11 is the excuse ...」、つまり、『華氏911』の世界観は、依然として有効であるように見える。この世界観は、ブッシュ一族が彼らに近しい利益サークルに対して利益を供与することを目的として、LIHOPかMIHOPかが企図された、というものである。「ショック・ドクトリン」というナオミ・クライン氏の造語は、この構図を経済的観点から説明する概念である。

吉田氏のどの発言について矢田部氏が「陰謀論」と評したのかは、出典がツイートラインに示されないので、調査手段がパンピーレベルで、広報手段を自粛している私には、格段の努力を払うか、矢田部氏に問合せしなければ※1、確認のしようがない。『NDL-OPAC』の記事検索で、吉田氏が著者の記事のうち、2001年以降に、9.11に言及していそうなものが見当たらないので、『CiNii』でも引っかからないであろうと予想して、一般人としての努力義務は果たしたと記しておくことにしよう。論理学を京都大学で講義しているという矢田部氏の「一刀両断」な姿勢に比べれば、本稿で紹介した「陰謀説」を否定しない見解の方が、よほど論理的に思えてしまうから、これで、十分にフェアだと思うことにしよう。こう結論付けたのは、私の思考の箍が、どこか、決定的に外れてしまっているからであろう。「理系」の人物だけ[11]に「教養」が備わっていない訳ではないという状態は、わが国における京都大学という組織の地位まで考慮すれば、日本国民全体にとって、救いのない話である。


※1 問合せ(しながら、同時に、私の側から媒体を超えて広告活動に従事)するという行為は、最近の私事に照らせば、ルール破りが仕掛けられたものと判定できるために、私の中では、選択肢の一つとして可能なものとなってはいる。


[8] 木村愛二, (2006.12). 『9・11/イラク戦争コード:アメリカ政府の情報操作と謀略を解読する』, 東京: 社会評論社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000008396023

[9] WHAT IS YOUR HOP LEVEL? Ten 9/11 Paradigms
(Nicholas Levis、2004年4月1日、改訂2006年5月)
https://web.archive.org/web/20110112030040/http://summeroftruth.org/lihopmihopnohop.html
#2017年10月18日時点でリンク切れのために、『Internet Archive Wayback Machine』によった。

[10] LIHOP, MIHOP and Hijacking the Hijackers
(2017年7月26日)
http://www.oilempire.us/lihop-mihop.html




2017年11月3日訂正

誤記を訂正した(。余分な文字を削除した)。

2017年10月12日木曜日

(メモ)コンピュータゲーム内における凶悪犯罪の規制は不可解なまでにバランスを欠く

注意

本稿は、犯罪学の見地からコンピュータゲームについて若干のメモを記すものであるが、「ゲームにおける18禁ネタの扱われ方」を取扱うものであるから、念のため、注意されたい。必要な限りにおいて細かい説明を加えるが、本稿の論旨に必要な限りにおいてである。Bloggerでの規約違反にはかからない内容とは考えられる。でなければ、たとえば、男女が一晩をともに過ごすシーンや、殺人事件を含む映画や書籍に言及するブログは、すべて、規約違反となってしまう。


本題

「コンピュータゲーム内においてプレイヤーが実行可能な犯罪」について、私は、三点の疑問を放置したままにいる。第一は、なぜ、R18指定(わが国ではCERO-Z)となるゲームにおいて、プレイヤーに許されている凶悪犯罪の種類から、端からエッチなことが分かっているゲームを除けば、強制性交等罪(本稿では、3ヶ月経過しても、『e-Gov法令検索』で条文を参照できる状態ではないので、強姦と表記しておく)が除外されているのか、というものである。第二に、なぜ、ゲーム内の窃盗は、殺人や強盗よりも多大なリソースを必要とするようになっているのか、というものである。第三は、これらのゲームにおける悪の種類は、果たして、現実社会へのフィードバックを真剣に考察した上で、許容・除外されているのであろうか、というものである。学術研究者としては生ける屍である私には、これらの疑問を効率的に解くだけのリソースが存在しないので、もしかしたら解答が与えられているかも知れないことまでを知らずに、とりあえず、これらの疑問を並べてみた次第である。

まず最初に、コンピュータゲームというグローバルな競争が実現している産業において、洋の東西を問わず、許される「悪」のジャンルが棲み分けられていることに、注意を払うべきである。前述の疑問のうち、最初の二点は、この一般化された状態から生じた具体的な疑問ということになる。エッチなゲーム(ブヒゲーなどとも形容され、英語ではHentaiと表現されることまである)には、すべての凶悪犯罪を実行できうるものが含まれるが、この一方で、暴力を前面に押し出すコンシューマゲームでは、わが国の凶悪犯にいう殺人・強盗・放火が可能であっても、強姦が可能となっていない場合が基本路線である。エッチなゲームの業界と、そうでないゲームの業界は、奇妙なほどにコードが並行的に推移しているのである。

コンシューマゲームである『Witcher』シリーズは、おおむね健全な性交渉のシーンを含むが、性犯罪以外の犯罪を描写するシーンを大量に含むRPG(ロール・プレイング・ゲーム)である。このシリーズの主人公は、ゲラルド・オブ・リヴィアという「Witcher(魔法を使う剣士で、超自然的な怪物を狩るハンター)」であり、生物学的には、元・男性と見做せよう(。ここら辺は、ゲームのネタバレになるので、ぼやかしておきたい)。彼は、基本的に紳士キャラという設定ではあるが、プレイヤーの選択次第で、プレイボーイにも一途なキャラにもなれる。『Witcher』シリーズで主人公が口説ける相手は、基本的には、魔女という設定であり、無理矢理になどと考えることが難しいほど、強力な魔術を操る存在である。これらの複合的な理由によって、このシリーズにおいては、両者の合意から「大人の時間」が始まる。社会的通念に照らして、『Witcher』シリーズにおける性交渉のシーンは、何ら問題のない内容であると判定できる。

ところが、『Witcher』シリーズの「売り」のもう一つは、ド派手で残虐な殺陣回りである。ゲラルドが斬り殺す相手は、獣や超自然的存在だけではなく、当然、盗賊・海賊や悪徳役人・背徳の騎士といった、多彩で大量の人間どもが含まれる。その残酷さと多彩さは、ひと頃の東映の時代劇映画を、いとも簡単に凌駕するものである。たとえば、斬首で決着を付けるシーンは、複数が用意されている。なお、「フィニッシュ技」の多彩さと言えば、対戦・協力ゲーム版の『13日の金曜日』も想起される。これらは、いずれも、止めを刺すシーンを堪能するという目的を、セールスポイントとしているものと解される。

コンシューマゲームにおける性犯罪に対する忌避と過剰なまでの暴力は、一体なぜ、どのように、並存する状態に至ったのであろうか。私は、このアンバランスさを、むしろ不健全の現れと見てしまう。この状態そのものは、とんと理解できないものであるが、それでも、この原因については、二つの仮説を思いつくことはできる。一つの仮説は、性犯罪が表現上の取引材料とされたというものである。もう一つは、戦争経済に円滑に協力可能な子どもたちを育成するためというものである。

この状態が実現する上では、真の意味での消費者、つまり、ゲーマー自身の視点に立脚した上での検討・理解・提言が、相対的に欠如してきたことは、間違いなかろう(。決して、全く存在しなかったとは、主張してはいない)。実際、「誰得?」と思われる事例として、『Left 4 Dead』のパッケージの修正(指の欠損を訂正)や、『Fallout 3』における特定シナリオの欠如を挙げることができよう。これらは、誰が問題視する種類の話題なの?という話である。とりわけ、前者については、大いに疑問が残る。ゾンビゲームは、ゾンビ(=病人)の頭を吹っ飛ばすのが目的なのに?という具合である。なお、2016年現在でも、同シリーズは、日本国内ではまったり系協力プレイが可能な良作であった(。最近は、さすがに自重しているので、いかなる状況にあるのかは、分かりかねる)。つまり、このような些末な修正が公的に強いられたにもかかわらず、ゲームコミュニティは、比較的健全な状態を長らく維持してきたのである。本来、声の大きな者に左右されることなく、ゲームコミュニティの状況を見極めた上で、健全な業界を形成するという指向性が追求されて然るべきであろう。

女性の権利向上に係る国際的活動は、彼(女)ら自身にとっては大事な活動と認識されているのかもしれないが、表現規制という面に対しては、外部者・運動者(advocates)としての押しつけの感を拭えない。国際的な権利向上活動は、コンピュータゲーム(、ならびに、その源流としてのテーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)については、「家父長」主義・権威主義的なカルト宗教による圧力という側面を払拭できないように、私には思われて仕方がないのである。ゾーニングを自主的に遵守させるという方法は、この方面に対しては、さほど機能していない。分野は異なるが、『週刊少年ジャンプ』連載の『ゆらぎ荘の幽奈さん』(ミウラタダヒロ氏)に対する直近の「不買運動」めいた反発は、端的な事例として挙げることができよう。

実際、声の大きな団体・人物の圧力にかかわらず、コンシューマゲームにおける性犯罪と暴力犯罪とのアンバランスな現状は、各種のユーザの側からの「MOD」(修正プログラム・コンテンツ)が流通する状態を通じて、性犯罪に対する興味を満たすように、解消されている。有名どころ(で私がすぐに思い出せる種類のもの)では、上掲『Fallout』シリーズや、同一企業からリリースされている『The Elder Scrolls』シリーズ(のうち、オフライン版)に係る「ヌード化MOD」が有名である。文字通り「身ぐるみ」剥いだときに、CGモデルを裸にするだけのものから、それ以上を可能とするものもある(が、詳しい紹介には立ち入らない)。これらのコンテンツの制作者が、ゲームの開発・供給組織と、どのような関係を有しているのかは、注意深い検討を受ける必要もあろう(が、それにも立ち入らない)。

#ここまでの指摘によって、本稿で扱った話題についても、一部の特定団体によって、不健全さが立ち現れたことは、それなりに示唆できたように思うので、本稿はこれでおしまい。

2017年10月11日水曜日

(メモ)内山節氏の『苺とチョコレート』評は『フアン・オブ・ザ・デッド』にも適用可能である

ゾンビ映画において、やはり地域性は人間の側に現れる

内山節氏は、『苺とチョコレート』というキューバ映画について、

社会主義的なシステムにも、その地域の歴史や風土が反映する。だから、『苺とチョコレート』にかぎらず、多くのキューバ映画がみせているものは、明るいカリブ海のざしと、ラテン的陽気さに包まれながら展開するキューバ的社会主義の様子である。官僚組織による芸術への統制と人間の自由という深刻なテーマを描いたこの映画のなかでも、登場するハバナの人々は、日々の暮らしを楽しみながらこの芸術家とともにある町を大事にしていた。〔p.204〕

と述べる[1]が、この内山氏の評価は、『フアン・オブ・ザ・デッド(Juan of the Dead, 2011)』[2]にも、おおむね適用可能である。「芸術家」を「ゾンビ」に変えるだけで、それなりのフィット感があるのではないか。2013年9月24日付のオフライン用のメモがあったので、内山氏の観察を補強するため、本稿に即して一部を修正しながら掲載する(。削除した部分は、コメント化してある)。

キューバ発ゾンビ映画のJuan of the Deadは、この点(、生活の質なる概念を考察するに当たり)、とても示唆的である。キューバ特有の「何とかなるわな」精神で、ゾンビ病の流行さえも「安らかにあなたの最愛の人を逝かせます」という商売にしてしまう。つまり、ある人間にとって、災害は、単に災害であるのみならず、福音にすらなりうるのである。もちろん、そこには、終末論者のような積極的に危害を歓迎する考え方から、この映画の主人公たちのようにチャンスを生かすという考え方まで含まれる。〔...略...〕

この私のメモは、以前の論考(2017年7月26日)では活用されていないが、その理由の第一は、私のズボラさ(と迂闊さ)によるものである。このキューバを舞台とした作品は、あまりにもキューバ感満載である。そのてんこ盛り感は、パラオを始めとする南太平洋の島々を想起させる『Dead Island』シリーズと比較しても、過剰という印象を与える(。コンピュータゲームのプレイ時間は、映画に比べて、数十倍のオーダーになる。このため、評論に際しては、ゲームが多くのイメージをプレイヤーに与えることが可能である点に注意を払う必要がある。また、蛇足となるが、ゲームを誠実に評論するには、1つのタイトル当たりで言えば、映画よりも多くの時間を必要とするようにも思う)。『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ(Wyrmwood: Road of the Dead)』[3]は、ギミックが多いためか、オーストラリアを感じさせる力は、どちらかといえば、そこはかとないレベルであった。このため、考察の際には、すっかり抜けていたのである。「漏れなく重複なく(MECE)」は、私の中では徹底されているとは言い難い。


#内山氏の生活感から来る哲学は、プレッパーめいたものを感じさせる。というのは、オチのつもりである。


[1] 内山節,(2015.8).『戦争という仕事』(内山節著作集14), 東京: 農山漁村文化協会.
http://id.ndl.go.jp/bib/026616280

[2] Juan of the Dead (2011) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt1838571/

[3] Wyrmwood: Road of the Dead (2014) - IMDb
http://www.imdb.com/title/tt2535470/

国際秘密力集団の「三つ巴」は二種の両建てにより構成される(2)

本稿は、前稿の続きである。


「三極化」と「二軸の両建て」は異なるメカニズムを有する

別稿(2017年9月30日)の追記(2017年10月2日訂正)において、「三極化」と「二軸の両建て」とは異なることを主張したが、この主張には、一応、根拠らしきものがある。これは、アンケート調査で「3つの選択肢から1つを選ぶ」という方法と、「それぞれ2つの選択肢を持つ設問を、2つ回答する」という方法の違いに当たる。後者については、設問の順番を入れ替えると分析結果が変わり得る(response order effect)ことが指摘されている。もっとも、この効果が確認できないとする研究も見られるようではある。ただ、政治の世界では、「朝三暮四」という故事成語が普通に用いられているし、この効果が実際に影響しているとの研究が実在する以上、これを信じた人物が政治に参画するという事態は、あるものと考えても構わないであろう。

「三極化ではなく、二次元配置」という手管が分析上厄介なものとなり得ることは、今年のノーベル経済学賞の受賞者がリチャード・セイラー氏であることにも現れている。設問の順序が効く可能性があるだけでなく、オプトイン(加入に意思の明示が必要となる制度)・オプトアウト(脱退に意思の明示が必要となる制度)の違いは、政策上、効果を有する(と選考委員会が認定したから、受賞が実現している)。投票者に対して「一番目(二番目)に重視する政策は何ですか」という質問の仕方は、現に世論調査に認められる。この考え方を進めると、AHP(Analytic Hierarchy Process、階層分析法)という方法になる。AHPは、複数の価値(安全保障、社会保障、経済、教育...)を提示して、それらを二種類ずつ、どちらがどれくらい望ましいのか比較した(一対比較という)上で、それぞれの価値について、政党や候補者を採点すれば、望ましい候補者の解が得られるという方法論である。「上位2位分の重視する価値」を尋ねることは、実のところ、さほど有用な方法ではない。ほかの価値を実現する上で有力そうな候補が脱落することになりかねないからである。それに、回答者ごとのデータを扱うことができなければ、外部者が後から分析する上で(二次分析)も問題が残る(。集計問題が生じる。それにAHPにも転用可能ではない)。

以上の考え方を一歩進めて、「取上げ方に、順位・順番あるところ、恣意性あり」と考えても、極論という訳ではない。恣意性が極力排除されているか否かは、別の話である。これは、仮想反実的な思考を重ねれば、私の言わんとするところが良く理解できるようになろう。読売新聞の与党党首インタビューは、10月5日から開始されたが、自民党、希望の党、公明党の順番であった。企画時期が立憲民主党の設立以後か否かは、微妙なところであるが、改選前議席の順番から言うと、一面、妥当であるとは主張できよう。しかしながら、これを逆順でも構わないのではと考える私は、果たして、捻くれすぎなのであろうか。希望の党も、立憲民主党も、前回の選挙において、政党としては国民から負託を受けた訳ではない。この点を考慮すれば、前回の衆議院選挙に参画した政党で、所属議員が落選した政党は、順序からすれば、先に取り上げられるべきではないか、と考えることも可能である。われわれの思考の枠組みは、ここに挙げた順番に対する検討を読売新聞社が公的には省略していることからも認められるように、案外、ユルユルなものである。結局、順番を問題とする場合、各自(ここでは、読売新聞社)が妥当と考えられる順番を明示的に言語化した上で、その是非を問うていくほかない。調べもしないままに疑問を書き連ねておくが、公職選挙法は、この辺の事情をより突っ込んで考慮したことがあるのであろうか。政見放送については、事前の抽選によるという点、間違いなくこの点を考慮しており、公正であると評価できるが、あらゆる報道が恣意性から逃れることができないという点については、考えが甘いように思われてしまうのである。


「三極化」は、経済的・個人的自由への態度によっても「二次元配置」できる

ところで、今回の選挙(2017年10月10日告示・22日執行、衆議院)の「三極化」は、ノーラン・チャート上にも配置可能である。自民党は、近年に限定すれば、個人的自由を制限するが、経済的自由を尊重するという位置付けにある。立憲・共産・社民は、個人的自由を尊重するが、明らかに経済的自由を制限する方向にある。希望は、個人的自由と経済的自由を尊重するかに見える。公明は、動機が特殊であると考えられるので、ここでは論じない。ほかの政党や無所属の立候補者については、ここまでのヒントに基づけば、相応の区分に位置付けることが容易であろうから、省略する。もっとも、希望の党の公約の曖昧さは、個人的自由に対する同党の見解について、十分な手がかりを選挙民に与えないものである。


#とりあえず、尻切れトンボの感で一杯だが、本記事は、シリーズとしては、これでおしまいであるので、次回の記事を執筆した(2017年10月24日追記)。選挙後、(遅すぎることになるとは思われるが、)書き残した点を再度追究する

2017年10月10日火曜日

(メモ)樽本英樹氏の放射性物質への恐がりぶりは異常である

『現代人の国際社会学・入門――トランスナショナリズムという視点』(2016年5月, 有斐閣)「第一章 国際社会学とは何か」において、樽本英樹氏は、下記のように記す。

〔p.3〕私たちはグローバル化の真っただ中で生きている。〔…略…〕

お金も国境を越える。〔…略…〕

文化や情報も国境を越える。〔…略…〕

他にも意外なものが国境を越えてくる。〔デング熱やエボラ出血熱は、〕病気も国境を越えることを物語っている。PM2.5など環境汚染も国境を越える。温暖化防止条約などの国際条約を結ぶ必要があるのは、〔p.4〕各国で排出されたフロンなど温室効果ガスが、全地球に容易に広がってしまうからである。

以上、「1 グローバル化の日常」という節の中の「身近に迫るグローバル化」という項を引用した。引用から直ちに了解できることであるが、記述は、段落読みできる。この点については、評価できる。

最低限の体裁は整えられているものの、樽本氏の記述は、2016年5月という時点を考慮すれば、二点について、欺罔とも呼べる内容である。一点目、タックスヘイブンや地下経済への言及はどうした。同書は、オムニバス形式であるが、違法な物品・サービスの国際的な流通に対して、ほとんど言及しない。たとえば、戦国期日本における硝石と奴隷との交易を念頭に置けば、グローバル化の歴史における暗黒面に係る記述を欠落させることは、国際化という現象への理解を大きく誤る原因となる。少なくとも、本点については、(この方面に明るい著者がいないので、割愛したなどの)断り書きくらいは必要である。二点目、放射性物質はどうした。この点は、悪意と呼べるレベルに達する記述の欠落である。なぜ、このように私が批判するのかと言えば、単に、汚染(予期せぬ物質等の移動)を列挙すれば、放射性物質に係る批判を免れたであろうからである。先進諸国から輸出される廃棄物(PCBがとりわけ問題視されたことがある)、海流に乗るプラスチックごみ、外来生物にも言及すれば良かったのである。外来生物については、最近ではヒアリの事例が大きく報道されたが、ブラックバスが適当であろう。放射性物質についても、大気核実験・地上核実験・海洋核実験や、チェルノブイリ事故についても言及すれば、フクイチだけを殊更に取り上げたようには見えなかったはずである。感染症についても、アメリカ大陸における天然痘、ヨーロッパにおけるペスト、全世界におけるスペイン風邪といった歴史的事例は、国際化に伴う強烈な影響を読者に印象付けることができる。なぜ、これらの予期せぬ事例が多数挙げられるところで、PM2.5だけが取り上げられるのか。樽本氏の見識の狭さや偏見を、強く印象付けられる記述である。

ここでの指摘により、十分に根拠を提示できたように自負するが、横断的研究分野に係る記述は、工夫次第で、著者の見識の深浅をいかようにでも示すことができるのである。


[1] 西原和久・樽本英樹〔編〕, (2016.5).『現代人の国際社会学・入門――トランスナショナリズムという視点』(有斐閣コンパクト), 東京: 有斐閣.
(英: Introduction to Global Sociology for Contemporaries)
http://id.ndl.go.jp/bib/027260881

2017年10月5日木曜日

国際秘密力集団の「三つ巴」は二種の両建てにより構成される(1)

本稿は、「今回の総選挙の争点は、核武装を認めるか否か、原発を認めるか否かの二軸で分類できる」(パート1, パート2, パート3)の続きに当たる。時間短縮を図る読者は、段落の頭の文だけを読むよう、お願いしたい。


ダブルバインドは国際秘密力集団の得意技である

国際秘密力集団による「両建て構造」の最大の妙味は、「人生には、一つしか選び取ることができないものがある」というダブルバインドを相手に強いる点にある。ダブルバインドとは、広く知られた言葉であるが、二種類の両立しない物事の中から、相手に一つの選択肢を強要するという、心理学上・営業上のテクニックである。二つのダブルバインドの例を挙げるが、それは、ここに挙げる娯楽の両方に親しむ人が少ないものと見込まれるからである。村上春樹氏の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年4月)[1]には、ダブルバインドの事例〔pp.206-207〕が見られる。『Wolfenstein: The New Order』(2014年、CERO-Z指定、つまり成人向け)という、古典的な一人称視点シューティングゲームのアレンジ版にも、この主題が仕込まれている。卑近な事例となるが、私が「ない訳ではない」という、二重否定となるフレーズを多用する理由は、この種の論理構成を有する現象を取り扱っていることに意識的なためである。

何かを選び取らなければ、どういう結末を迎えることになるのか?という疑問に対して、このようなジレンマを仕掛けてくる側の回答は、大変にサディスティックなものである。前掲のゲーム内のエピソードも、村上氏の『色彩を...』の事例も、十分に加虐的である。加えて、文藝春秋社が戦争屋の道具であるという私の見解(2017年9月7日)から見れば、同書が同社から出版されたという事実には理由がない訳ではなかろう(。これは、穿ち過ぎであろうか)。いずれにしても、われわれは、「世の中には、虐待的な二律相反の選択を他者に強いる人々がいる」との疑いを持ち続けるべきである。また、共通理解であるとは思うが、様々な媒体で描かれる「悪魔との取引」は、ほとんど常に、「手持ちの大事なもの」と「欲しいもの(金銭・成功・異性など)」とを引換えにするという形で持ちかけられる。それに、「欲しいもの」は、解釈をできるだけ歪曲された形でしか、提供されないものである。

とはいえ、人々の興味が多様化した現代において、マスコミが多大な労力を投入している話題を除けば、「アレかコレか」という二項対立を強制できるほどに事態を制御下に置けるということは、そうそうない。ほとんど全ての話題について、「第三の道」を考えることができるほど、人類の歴史的・政治的経験に係るアイデアの「引出し」は、増大している。たとえば、「アレもコレも」というキャッチコピーは、マーケティング分野で開発され定着したテクニックであるが、これ自体が、論点ずらしの一手法である。また、この手妻は、成功するか否かはさておき、誰にでも応用可能である。「原発も核兵器もゴメンだ」や「世の中には敵・味方の区別があるけれど、誰しも生きる権利がある」などは、その一例である。


元民進党議員にとって、立憲民主党と希望の党は、実質的なダブルバインドとなる

2017年10月2日17時、枝野幸男氏が立憲民主党を設立すると記者発表した後、『朝日新聞』と『毎日新聞』は、ようやく「三極化」を報じるようになった。『毎日新聞』[2]は、政策研究大学院大学教授の竹中治堅氏の言葉を借りて、民主党の分裂によって三つ巴が生じたと述べている。この理解は、「政権交代可能な」などといった限定化が抜けている。この点で、毎日新聞のインタビュアーまたは竹中氏は、能力不足か悪意を抱いていることになる。『朝日新聞』の記事[3]も、立憲民主党の設立を見出しに明記しており、同様の理解であると整理できる。また、この三極化に先駆けて、『朝日新聞』が枝野氏に近い参議院議員の言を借りて、野党共倒れの危険を指摘した[4]ことに対しては、大いに疑問がある。というのも、すでに、第三極となるリベラルな小政党は、当初から存在していたからである。この点を汲んで報じていたのは、『東京新聞』[5]だけである。『読売新聞』は、1日までの枝野氏の動きを受けて、2日朝刊で「3極対決」を謳う[6]ほか、「リベラル」という言葉を解説する記事[7]の中で、この語を適用可能な政党名から、社民・共産・自由の三党を除外している。この『読売新聞』の記述は、悪意にしても、度外れたものがあり、フェイクニュースと呼ぶに相応しい。事実関係を説明するところで、意図的な誤読を招き寄せる必要はない。

民進党に所属してきた議員にとって、立憲民主党は、希望の党とのダブルバインドとして機能する。合流に意外性があればあるほど、テレビで大々的に報道してもらえるチャンスがあろうから、古株ではなく、埋没してしまうレベルの実績と印象しか選挙民に与えていない民進党議員こそ、しっかり宣言した上で、立憲民主党に合流する価値があろう。もっとも、小池百合子氏に拒否されるような理念の持主でなければ、希望の党から出た方が、マスコミへの継続的な露出が期待できる(。マスコミの飼主が、小池氏の金主でもあるからである)。旧来の民進党議員が、希望・立憲以外の政党から出馬するというケースは、本来、「情報としての価値が高いことがニュースになる」という原則※1からすれば、マスコミが取り上げるべき話題である。旧・民主党は、政権与党の座にあった2012年7月、総理大臣の野田佳彦氏が主導した(消費税増税を含む)税・社会保障一体改革を巡り、党を割るほどの分裂を経験しているように、相当に、理念の異なる議員を含む政党であった。民進党も、安全保障のあり方を始めとして、理念の幅の広さを残してきた。このため、民進党に所属してきた議員であっても、自民党を含め、移転先が多様化して良いはずである※2

議員生活の継続を望む民進党議員は、少しでも当選する可能性の高い政党から出馬しようと試みるであろうから、彼らは、まず間違いなく、第一希望を希望の党としながら、受け入れられなければ立憲民主党、という選択肢を辿るであろう。前原誠司氏のようなサンカク※3議員と小池氏から三行半を突き付けられた民進党議員は、本来、その事実を誇りにしても良いくらいである。しかし、政策そのものや実績で議員を選択する有権者は、比較的少数であろう。このため、民進党議員にとって、希望の党を蹴って、マスコミに露出できる機会が減ることになるのは、二律相反するものと受け取られよう。自身と家族と秘書たちの生活が懸かっていれば、悠長にはしていられないであろう。とにかく、原則としては、民進党の議員は、そうした方が一時的にはニュースになるものの、無所属となりつつも他政党から推薦を取り付けたり、あるいは、希望・立憲以外の別政党に帰属するという方法を取りにくい環境下にある。

後知恵であるが、山尾志桜里氏が不倫疑惑で自ら離党するに至った時期は、本人にとっても、民進党の衆議院議員にとっても、随分と都合の良いタイミングであった。民進党の解党に伴い、無所属となった元・民進党の立候補者は、山尾氏の離党のタイミングが先行したために、同じ不倫枠に入れられずに済んでいる。細野豪志氏と山本モナ氏との不倫は、今なお広く記憶されている。しかし、細野氏は、先行して民進党を離党して希望の党の結党に携わり、希望の党の主要メンバーに上手に納まった。彼を積極的に嫌う有権者でもなければ、不倫という過去を問題視するだけの禊は済んだと考えられている節も見受けられる※4。普通に考えれば、『週刊文春』が売上だけを目的としているのであれば、民進党の議員たちに、とりわけ、細野氏に、ここまで遠慮する必要があるとは思えない。『週刊文春』は、前原誠司氏や野田佳彦氏の無所属という身分に影響を与えることなく、細野氏にも不倫というイメージを極力与えることなく、山尾氏を離党に追い込んだと評せよう。当の山尾氏自身、離党のタイミングが良かったと述べている程である[8]


「リベラルの退潮」は、今回の解散総選挙の結果を見なければ、確定できる現象ではない

今回の解散総選挙の流れにおいて語られる「リベラルの退潮」は、マスコミのフレーミング※5に過ぎない。まず間違いなく、わが国では、確固たるリベラルは少数派であろうが、しかし、その人数は大きく変化していないであろう。「退潮」は、無党派層の離反を意味するだけであろう。共産党の得票数の増加は、民主党政権時代において、鳩山由紀夫氏の退陣と菅直人氏・野田佳彦氏の失政を通じて、これらの勢力を見放した有権者層が、リベラル的な政策を揺るがせていない共産党を高く評価した結果であるとも考えることができる。この状態は、穏健な「保守系リベラル」層の受け皿がないだけという事情を示す可能性が高い。

外形的にとらえると、穏健なリベラル層の受け皿を破壊し尽くした責任は、わが国については、東京地検特捜部※6とマスコミの戦後の一連の活動に求めることができ、小沢一郎氏への攻撃は、その最新事例である。よほど疑い深い有権者でなければ、小沢氏への東京地検特捜部の執拗な捜査と、大々的な報道を「疑惑があるから捜査しており、報道している」と理解したであろう。現に、小沢氏の師匠や先輩筋や秘書は、有罪となったではないか、といった具合である。『国民の生活が第一』と名付けられた政党は、そのネーミングと小沢氏への捜査の記憶が矛盾したために、有権者には、受け入れられにくいものと化した。脱原発活動は、断定的に戯画化すれば、東京地検特捜部と、これを使嗾する権力ネットワークにより、止めを刺されたものと言えよう。小沢氏自身の無罪や、秘書たちの判決に対する無理矢理さに係る報道は、報じられた疑惑の量に比べて、圧倒的に少量であり、彼らの名誉回復は、彼らへの攻撃に比較すれば、ゼロに等しい分量である。この非対称性は、間違いなく、『国民の生活が第一』に対する忌避感に影響している。

小沢一郎氏に対するマスコミの一連の人物破壊工作は、2017年10月現在、嘉田由紀子氏の処遇を巡り、希望の党の「原発ゼロ」が嘘臭いことを示す状況証拠として、迂遠な形で機能している。嘉田氏は、希望の党に対して入党を申入れたが、『日本未来の党』の代表を務めたことを理由に、断られたとされる[9]。『国民の生活が第一』は、『日本未来の党』の母体ともなった。以上の経緯は、希望の党が『日本未来の党』の脱原発という党是を拒否したというちぐはぐな印象を、事情を知る有権者に与えるものである。嘉田氏の滋賀県知事時代の脱原発に係る政策は、原発のない都道府県の知事として、かなりのガチものであった。この実績を合わせ見れば、嘉田氏は、希望の党の「原発ゼロ」が本物であるか否かを、自らの入党希望を以て、有権者に示したものと考えることもできる。

ただ、希望の党は、小沢氏や嘉田氏と連携する含みを残してはいる。希望の党の一次公認リスト[10]は、嘉田氏の出馬する滋賀一区と、小沢氏の出馬する岩手三区[11]について、空欄となっている。この事実や、小沢氏が前原氏や希望の党と協議していたという話は、小沢氏に対する過剰な警戒と相俟って、あらぬ噂を呼んでいる。しかしながら、希望の党が「刺客」候補を公認していないという事実は、希望の党に「勝てない戦はしない」という方針があるものと考えれば、単なる妥協の産物であると考えることもできる。票読みについては、各陣営とも、十分に合理的に行動していると考えて良い。

小沢氏や嘉田氏に、希望の党が「刺客」候補を送り込んでいないという事実は、リベラルが退潮していない逆説的な証拠として機能する。小沢氏の手法は、小沢王国とも揶揄され、田中角栄氏譲りの、公共事業を中心とした利益誘導型政治であるとされる。ただ、地元への利益誘導型政治※7は、地方を食べさせてゆき、安全な食品を自国で供給するというシステムになくてはならないものである。お互いの立場を尊重するという定義からすれば、利益誘導型政治は、リベラルとも呼ぶことができる。この捻った見方を考慮すれば、リベラルは、退潮などしていないのである。

加えて、昨年以来、多くの選挙は、安倍晋三氏率いる自民党に対して、逆風となりつつある。私自身は、その原因の一つとして、不正選挙のツールが非自民党系の政治家に連なる社会集団に握られてきた、という予測を立ててはいる。ただ同時に、安倍氏の流儀に基づく安保法制が戦争に直結するのでは、というリベラルの懸念も影響していると考えて良かろう。月次の内閣支持率は、それほど信用に値しないし、数%程度は系統誤差を含むものと考えられるが、それでも、安保法制の準備に係る国会運営の無茶振りと、モリ・カケ「疑惑」を経た2017年10月現在、ひと頃の高さはない。

結局、「リベラルの退潮」は、今回の選挙の結果を見てみなければ、確定できないというべきである。そもそも、「退潮」という語を今になって持ち出すのは、5年ほど、タイミングがずれている。リベラルが退潮したとすれば、民主党政権の時期においてであり、その後、長らく低迷したというべきであろう。とりわけ、菅政権におけるTPP加盟交渉の宣言や、野田政権における多くの政策転換が、リベラル層の決定的な離反を産んだと言えよう。2017年10月現在、ようやく、希望の党に民進党の「右派(私に言わせれば売国派)」が合流し、類似したスタンスの勢力が互いに協調できる素地が整ったのである。


次回に続く)


※1 「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだら...」というヤツである。

※2 野田佳彦氏は、1992(平成4)年の日本新党の結党への参加を通じて政治生活を開始し、非・自民政党で一貫してキャリアを積んではいるが、その政策理念は、ほとんど自民党議員のものと言っても差し支えない。

※3 佐藤優氏の広めた官僚用語で「人情を欠き、義理を欠き、恥をかく」人物を指す。今回の民進党の「解党」の経緯は、所属していた議員の当落の決定打とはならないが、定性的には、マイナス要因として機能するものと考えて良いであろう。前原氏の決断は、不作為という形に近いものであるが、不義理・不人情の現れとして受け止める有権者(民進党支持者であったか否かを問わない)がいても、まったくおかしくないものである。

※4 本点は、客観的に見解を述べているだけであることに注意されたい。ここでは、私自身の好悪を語ることはせず、他者の細野氏に対する好悪を評価しているだけである。もちろん、『週刊文春』のやり口は、汚いものであると思う。でなければ、ここまで記事を書き進めることはしない。ゴミはゴミ箱に入れておくことが望ましいが、それが無理であっても、ラベルを貼ることだけは果たしておかなくてはなるまい

※5 議題に枠をはめて、枠から外れるものを見せないようにする効果。フレーム効果。

※6 検事出身であるが出世する前に議員へと転身した山尾志桜里氏の現在の位置と、東京地検特捜部・副部長という経歴を持つ若狭勝氏との対比は、この司法組織の政治的中立性を疑わせるのに十分な連関となっている。『週刊文春』が若狭氏のスキャンダルを今後1ヶ月の間に取り上げることがあれば、その中立性は維持されているものと見て良いであろう。

※7 なお、東京地検特捜部が小沢氏を挙げようとした事件に、西松建設事件が挙げられるが、この事件に係る報道(、正確には、扇動工作)も、また、利益誘導型政治を小沢氏に印象付けるという効果を果たしている。この点についても、東京地検特捜部と一部マスコミがリベラル退潮の犯人であるという私の指摘は、何ら間違ってはいない。


[1] 村上春樹, (2013.4). 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』, 東京:文藝春秋.
http://id.ndl.go.jp/bib/024358341

[2] 視座・衆院選2017:/1 野党と首相、問う機会 政策研究大学院大学教授・竹中治堅氏 - 毎日新聞
(2017年10月4日 東京朝刊)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/ddm/001/010/181000c

今回の衆院選は野党第1党が突然分裂し、自民・公明、希望、立憲民主・共産の三つどもえの戦いとなる。民進党は中道右派・リベラル路線の間で揺れ続けてきた。希望の党に多くの保守系民進議員が合流し、希望が保守、立憲民主がリベラルと構図がはっきりし、有権者の判断が容易になった。

[3] 自公×希望維新×立憲民主共産社民 衆院選3極争う構図:朝日新聞デジタル
(2017年10月3日21時49分、4日東京朝刊14版1面「希望、1次公認192人/立憲民主党設立/3極構図固まる」(記名なし))
http://www.asahi.com/articles/ASKB35KNZKB3UTFK00F.html

[4] 「枝野が立て」激励受け新党結党 野党系共倒れの恐れも:朝日新聞デジタル
(2017年10月2日21時27分)
http://www.asahi.com/articles/ASKB24STYKB2UTFK00G.html

〔...略...〕野党候補が乱立すれば、共倒れの可能性が高まる。枝野氏と近い民進の参院議員は言う。「ここで失敗すれば、リベラル勢力が壊滅してしまうかも知れない」

[5] 東京新聞:衆院選 三極化 自・公 vs 希望・維新 vs 共・社・無所属:政治(TOKYO Web)
(篠ケ瀬祐司、2017年10月1日07時06分)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017100190070649.html

[6] 『読売新聞』2017年10月2日朝刊14版1面「枝野氏ら 新党へ調整/リベラル系/衆院選 3極対決に」(記名なし)

〔...略...〕衆院選は、「自民・公明」「希望・日本維新の会」「民進リベラル系・共産・社民」の3極で争われる方向となった。

[7] 『読売新聞』2017年10月5日朝刊14版2面総合「ニュースQ+/リベラルとは何?/日本では革新・左派と同義語」(記名なし)

Q 民進党以外のリベラル勢力は。

A 自民党の派閥「宏池会」(現・岸田派)は、リベラルを自認している。宏池会は自由主義や社会の多様性の重視などを掲げ、憲法改正には党内では比較的慎重な立場だ。ただ、岸田派幹部は「民進党のリベラルとは考え方が違う」と述べ、明確に一線を画している。〔記事終わり〕

[8] 『朝日新聞』2017年10月5日朝刊14版4面総合4「山尾氏「無所属でよかった」」(黄澈)

〔...略...〕愛知7区から無所属で立候補予定〔...略...〕

〔...略...〕

「いま、無所属で本当によかった。リベラルの価値を葛藤なしに語れることが幸せだ」

〔...略...〕自身は不幸中の幸いで、「踏み絵」を踏まずに済んだ面がある。

〔...略...〕

〔...略...〕自民前職鈴木淳司氏(59)が立候補を予定し、希望も擁立を検討している。わずかの差であっても選挙区で落選すれば、比例復活はない。

[9] 嘉田前滋賀知事、希望に公認断られる 無所属出馬へ:朝日新聞デジタル
(記名なし、2017年10月2日12時09分)
http://www.asahi.com/articles/ASKB200YWKB1PTIL011.html

[10] 衆院選:希望の党 第1次公認名簿 - 毎日新聞
(2017年10月4日01時22分、最終更新10月4日07時39分)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/k00/00m/010/174000c

[11] 衆院選:小沢氏、無所属出馬へ 共産擁立見送り 岩手3区 - 毎日新聞
(小鍜冶孝志・佐藤慶、2017年10月4日09時27分、最終更新10月4日09時36分)
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171004/k00/00e/010/195000c




2017年10月6日・7日修正

文意の通らない点を修正し、淡赤色で示した。




2017年10月23日リンク追加

次回へのリンクを追加した。