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2017年10月12日木曜日

(メモ)コンピュータゲーム内における凶悪犯罪の規制は不可解なまでにバランスを欠く

注意

本稿は、犯罪学の見地からコンピュータゲームについて若干のメモを記すものであるが、「ゲームにおける18禁ネタの扱われ方」を取扱うものであるから、念のため、注意されたい。必要な限りにおいて細かい説明を加えるが、本稿の論旨に必要な限りにおいてである。Bloggerでの規約違反にはかからない内容とは考えられる。でなければ、たとえば、男女が一晩をともに過ごすシーンや、殺人事件を含む映画や書籍に言及するブログは、すべて、規約違反となってしまう。


本題

「コンピュータゲーム内においてプレイヤーが実行可能な犯罪」について、私は、三点の疑問を放置したままにいる。第一は、なぜ、R18指定(わが国ではCERO-Z)となるゲームにおいて、プレイヤーに許されている凶悪犯罪の種類から、端からエッチなことが分かっているゲームを除けば、強制性交等罪(本稿では、3ヶ月経過しても、『e-Gov法令検索』で条文を参照できる状態ではないので、強姦と表記しておく)が除外されているのか、というものである。第二に、なぜ、ゲーム内の窃盗は、殺人や強盗よりも多大なリソースを必要とするようになっているのか、というものである。第三は、これらのゲームにおける悪の種類は、果たして、現実社会へのフィードバックを真剣に考察した上で、許容・除外されているのであろうか、というものである。学術研究者としては生ける屍である私には、これらの疑問を効率的に解くだけのリソースが存在しないので、もしかしたら解答が与えられているかも知れないことまでを知らずに、とりあえず、これらの疑問を並べてみた次第である。

まず最初に、コンピュータゲームというグローバルな競争が実現している産業において、洋の東西を問わず、許される「悪」のジャンルが棲み分けられていることに、注意を払うべきである。前述の疑問のうち、最初の二点は、この一般化された状態から生じた具体的な疑問ということになる。エッチなゲーム(ブヒゲーなどとも形容され、英語ではHentaiと表現されることまである)には、すべての凶悪犯罪を実行できうるものが含まれるが、この一方で、暴力を前面に押し出すコンシューマゲームでは、わが国の凶悪犯にいう殺人・強盗・放火が可能であっても、強姦が可能となっていない場合が基本路線である。エッチなゲームの業界と、そうでないゲームの業界は、奇妙なほどにコードが並行的に推移しているのである。

コンシューマゲームである『Witcher』シリーズは、おおむね健全な性交渉のシーンを含むが、性犯罪以外の犯罪を描写するシーンを大量に含むRPG(ロール・プレイング・ゲーム)である。このシリーズの主人公は、ゲラルド・オブ・リヴィアという「Witcher(魔法を使う剣士で、超自然的な怪物を狩るハンター)」であり、生物学的には、元・男性と見做せよう(。ここら辺は、ゲームのネタバレになるので、ぼやかしておきたい)。彼は、基本的に紳士キャラという設定ではあるが、プレイヤーの選択次第で、プレイボーイにも一途なキャラにもなれる。『Witcher』シリーズで主人公が口説ける相手は、基本的には、魔女という設定であり、無理矢理になどと考えることが難しいほど、強力な魔術を操る存在である。これらの複合的な理由によって、このシリーズにおいては、両者の合意から「大人の時間」が始まる。社会的通念に照らして、『Witcher』シリーズにおける性交渉のシーンは、何ら問題のない内容であると判定できる。

ところが、『Witcher』シリーズの「売り」のもう一つは、ド派手で残虐な殺陣回りである。ゲラルドが斬り殺す相手は、獣や超自然的存在だけではなく、当然、盗賊・海賊や悪徳役人・背徳の騎士といった、多彩で大量の人間どもが含まれる。その残酷さと多彩さは、ひと頃の東映の時代劇映画を、いとも簡単に凌駕するものである。たとえば、斬首で決着を付けるシーンは、複数が用意されている。なお、「フィニッシュ技」の多彩さと言えば、対戦・協力ゲーム版の『13日の金曜日』も想起される。これらは、いずれも、止めを刺すシーンを堪能するという目的を、セールスポイントとしているものと解される。

コンシューマゲームにおける性犯罪に対する忌避と過剰なまでの暴力は、一体なぜ、どのように、並存する状態に至ったのであろうか。私は、このアンバランスさを、むしろ不健全の現れと見てしまう。この状態そのものは、とんと理解できないものであるが、それでも、この原因については、二つの仮説を思いつくことはできる。一つの仮説は、性犯罪が表現上の取引材料とされたというものである。もう一つは、戦争経済に円滑に協力可能な子どもたちを育成するためというものである。

この状態が実現する上では、真の意味での消費者、つまり、ゲーマー自身の視点に立脚した上での検討・理解・提言が、相対的に欠如してきたことは、間違いなかろう(。決して、全く存在しなかったとは、主張してはいない)。実際、「誰得?」と思われる事例として、『Left 4 Dead』のパッケージの修正(指の欠損を訂正)や、『Fallout 3』における特定シナリオの欠如を挙げることができよう。これらは、誰が問題視する種類の話題なの?という話である。とりわけ、前者については、大いに疑問が残る。ゾンビゲームは、ゾンビ(=病人)の頭を吹っ飛ばすのが目的なのに?という具合である。なお、2016年現在でも、同シリーズは、日本国内ではまったり系協力プレイが可能な良作であった(。最近は、さすがに自重しているので、いかなる状況にあるのかは、分かりかねる)。つまり、このような些末な修正が公的に強いられたにもかかわらず、ゲームコミュニティは、比較的健全な状態を長らく維持してきたのである。本来、声の大きな者に左右されることなく、ゲームコミュニティの状況を見極めた上で、健全な業界を形成するという指向性が追求されて然るべきであろう。

女性の権利向上に係る国際的活動は、彼(女)ら自身にとっては大事な活動と認識されているのかもしれないが、表現規制という面に対しては、外部者・運動者(advocates)としての押しつけの感を拭えない。国際的な権利向上活動は、コンピュータゲーム(、ならびに、その源流としてのテーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)については、「家父長」主義・権威主義的なカルト宗教による圧力という側面を払拭できないように、私には思われて仕方がないのである。ゾーニングを自主的に遵守させるという方法は、この方面に対しては、さほど機能していない。分野は異なるが、『週刊少年ジャンプ』連載の『ゆらぎ荘の幽奈さん』(ミウラタダヒロ氏)に対する直近の「不買運動」めいた反発は、端的な事例として挙げることができよう。

実際、声の大きな団体・人物の圧力にかかわらず、コンシューマゲームにおける性犯罪と暴力犯罪とのアンバランスな現状は、各種のユーザの側からの「MOD」(修正プログラム・コンテンツ)が流通する状態を通じて、性犯罪に対する興味を満たすように、解消されている。有名どころ(で私がすぐに思い出せる種類のもの)では、上掲『Fallout』シリーズや、同一企業からリリースされている『The Elder Scrolls』シリーズ(のうち、オフライン版)に係る「ヌード化MOD」が有名である。文字通り「身ぐるみ」剥いだときに、CGモデルを裸にするだけのものから、それ以上を可能とするものもある(が、詳しい紹介には立ち入らない)。これらのコンテンツの制作者が、ゲームの開発・供給組織と、どのような関係を有しているのかは、注意深い検討を受ける必要もあろう(が、それにも立ち入らない)。

#ここまでの指摘によって、本稿で扱った話題についても、一部の特定団体によって、不健全さが立ち現れたことは、それなりに示唆できたように思うので、本稿はこれでおしまい。

2017年7月11日火曜日

(メモ)浜井浩一氏の談話について

本日(2017年7月11日)の『朝日新聞』朝刊12版15面(オピニオン)「耕論/実は監視されたい?/相互不信 見張って安心感」は、龍谷大学教授の浜井浩一氏がインタビューを受けており、防犯カメラを批判している。その一部を、次に引用する。

〔...略...〕日本人には、監視されたい、監視したい、という気持ちがある〔...略...〕。

監視カメラの防犯効果について、国際的にデータを集めた研究では、駐車場での車上狙いなどはある程度減るが、それ以外の場所での窃盗や暴力犯罪には効果が認められていません。

この談話は、明らかに、本日施行のテロ等準備罪(共謀罪)への反対を表明した特集の一環である。

しかし、浜井氏の発言の元となった横断的レビュー『キャンベル共同計画刑事司法部会』の報告は、2008年版が出されており[1]、その論旨における強調点は、浜井氏の解釈とは異なる。日本語でも、静岡県立大学の津富宏氏が運営する翻訳サイトにおいて、北陸学院大学の竹中祐二氏が訳した報告書を読むことができる。なお、本家サイトでは、外国語訳を統合して掲載する動きになっているようであることを申し添えておく。

浜井氏は、この種の報告(系統的レビューに基づくメタ分析)が、常に更新される性格を有することを端から知らないか、忘れているか、無視しているかのいずれかである。2003年版の内容で確認が止まっているのであれば、朝日新聞に見るような発言になる。以前の浜井氏の発言も、同様に推移しているし、日弁連の報告書でも同様の誤りが2008年12月以降に再生産されているので、この種の怠惰は、彼のデフォルトとみることもできよう。付言しておけば、この誤りは、良心的(に情報を更新する努力を怠らないよう)な研究者には生じていない(し、さらに付言しておけば、この文は、もちろん、私自身のことを指しているものではない)。

話は、変わるようで変わらないのであるが、犯罪学を真面目に探究すると、私のような怪物(的な論調に身を委ねる言論者)が生じてしまうのが、日本国および日本語という環境※1の不都合な点である。福島第一原発事故を誠実に探究する日本語話者は、日本における不正選挙と核開発、両方の可能性を指摘する言説を認知しているはずである。気が付かなかったという釈明は、研究者としてはあり得ないレベルの軽率さである。これらの命題を是として受け入れれば、テロ等準備罪が創設された理由を含め、様々な出来事に係る因果関係の説明は、簡明なものへと変わり、テロ等準備罪の是非については、通り一遍の表現から論調が変わることになる。不正選挙と核開発という二大「陰謀論」は、大洗町における原子力機構のプルトニウム容器の破裂事故さえも説明しうる(が、依然として、このような杜撰な取扱が故意になされ、報道の契機が生まれたのか、あるいは、漫然と業務がなされた結果、思わぬ形で兵器級以上の純度のPu-239であることまでがバレたのかは、公開情報では、私には推量することができない)。日本における不正選挙と核開発、これらの命題の是非を意識せずに、テロ等準備罪を否定する犯罪学の研究者は、己の生業を深く考察したことがなかったのであろう。研究者という職業において、無知は罪である。


※1 英語話者であっても、同様の問題を抱えてしまうことになるが、日本においては、国体と特殊な自己検閲環境のために、検討には、もう一段の工夫が必要となる。しかしながら、EU諸国の一部に比べれば、検討は容易であろう。


[1] Effects of closed circuit television surveillance on crime - The Campbell Collaboration
(2017年07月11日閲覧)
https://www.campbellcollaboration.org/library/effects-of-closed-circuit-television-surveillance-on-crime.html

本レビューの結果は、CCTVが控えめながらも〔統計学的検定上〕有意な望ましい効果を犯罪に対して有することを示唆するものであり、駐車場において最も有効であり、(主として成功した駐車場での〔設置〕計画の機能によるが、)車両犯罪を対象とするとき最も有効であり、ほかの国よりも英連邦王国においてより効果的である。〔訳は筆者〕

[2] CCTV
(2017年07月11日閲覧)
http://ir.u-shizuoka-ken.ac.jp/campbell/docj/RIPE/cover/cj/CCTV.html




2017年7月11日22時追記・訂正

本文を部分的に訂正した(が、本旨には影響していないはずである)。

大洗町の原子力機構の事故にわざわざ言及したのは、(防犯あるいは監視)カメラが価値中立的に使用可能な技術であることを示唆するためである。本日の読売新聞朝刊に、この事故の続報が掲載されていたこともある[3]が、この事故については、事件の全容解明のために監視カメラが適正に利用されていないのではという疑義がすでに呈されている。事故後、茨城県による立入禁止区域の検査は、監視カメラを用いて実施されている[4]。手続上、法学にいうインカメラ審理(専門家のみが映像等を含めた事実を閉鎖的な環境で検証し、結論のみが公開で利用される)を採用するにせよ、「権力の不正を監視する」ためにもカメラが利用可能であることは、市民が広く認識すべき事実である。朝日新聞がカットしたのかも知れないが、専門家の談話とは、この事実も併せて伝達すべきものである。仮に、浜井氏が原子力機構の事故と核兵器の独自開発疑惑との関連に留意できていたならば、ここでの監視カメラ批判は、権力ばかりを利する道具と堕しているとして、より強い調子で示されていたであろう。原子力業界におけるカメラ利用は、比較的、長い歴史を有する。

原子力機構内のカメラ映像が国際的な原子力専門家の十分な検証に供されておらず、また、何を収めた容器がなぜ破裂するに至ったのかが関心ある者に理解できる形で説明されていないことは、カメラの適正利用という課題を研究する者にとって、健全な疑義を抱くに十分な材料である。このご時世、研究者は、正しい理解を聞き手に与えようとするのであれば、権力による(一部)市民の監視の実在を批判するだけでは十分でない。わが国の原子力産業を国際社会が適性に監督しようとするにあたり、監視カメラが適正に使用されていないこと、つまり、権力の恣意性に対してこそ、犯罪学者は、注意を向けさせるべきであった。「行使可能な実力に係る非対称性(を覆そうとする動きがある)」という考え方は、昨今の核武装に係る国家間関係に対しても、適用可能である。この国家間関係の下に、防犯カメラの適正利用(に係る非対称性・恣意性)という課題は、入れ子状に存在している。犯罪学(における監視という話題)にとって、わが国の核開発疑惑は、もはや、無視できない外部要件と化しているのである。

テロ等準備罪施行のため、本記事は、慎重に記述しなければならないが、それでも、監視という話題を取り扱うからには、日本国政府の核兵器開発疑惑がすでに指摘されていることを明示しておくことは、必要な作業であった。民主主義国家における理想は、構成員である国民が適切な情報の下に能動的かつ意識的に決定する、というものである。仮に、わが国が核兵器の開発・製造を秘密裏に実施・継続してきたことが事実であるとすれば、その話は、圧倒的大多数の国民にとっては初耳であろう。また、その話を初めて聞いた国民の多くにとって、日本国政府の核武装の意図は、許容されない欺瞞として受け止められたであろう。

何かと伝達されにくい状況に置かれながらも、本ブログで私の理解したところを日本語で示しておくのは、「知らなかった」という国民の言い分を可能にするような、程度の低い研究者の言説をあらかじめ否定しておくためでもある。私の言説は、本件の朝日新聞の記事に対しては、市民や学者による権力への適切な監視こそが不足していることを指摘する一つの材料として機能するものであり、現今の社会科学系の研究者の「業績」に対するハードルを上げる役割を果たすものである。ただ、わが国の核武装疑惑は、3.11以後、多くの論者が指摘するところであるから、私が本点を指摘しようがしまいが、わが国の言論を誠実に網羅しようとしている者ならば、知らないはずがない。

マスコミに名の売れた「学者」の全員が、「陰謀論」とされる話題の内容を知らないわけではない。読者に許容されるか否かは別として、「陰謀論」の内容に気が付いている学者は、その内容を注意深く避けるか、あるいはそれらの「陰謀論」と並存可能なように持論を展開している。しかし、このような腹芸は、私の文章能力では、とても無理なものである。仮に、読者が本記事の本文部分だけを読み、本追記部分で補足した内容までを了解できていたとするならば、それは、読者の情報処理能力が高いだけであろう。私がここで本点を明記しておくのは、「陰謀論」の指摘に気付いている状態とはいかなるものであるのかをパラフレーズして示すためでもあるが、それよりも、私の文章作成能力が低いためであると考えておいた方が無難であろう。


[3] 読売新聞2017年7月11日朝刊36面14版(社会)「大洗事故/被曝量200~100ミリ・シーベルト/高線量の作業員/大幅に下方修正」

[4] 原子力機構 大洗研究開発センターの燃料研究棟における作業員の身体汚染に係る立入調査結果について
(茨城県生活環境部防災・危機管理局原子力安全対策課、2017年06月08日)
http://www.pref.ibaraki.jp/seikatsukankyo/gentai/documents/170607kikouooarai_tachiiri.pdf

2017年4月1日土曜日

寺銭の割合が小さいギャンブルが万人にとって良いギャンブルという訳ではない

本稿では、「寺銭」を「ギャンブル運営者の徴収する手数料(金額そのもの)、単位は貨幣単位(円やドルなど)」と定義して記述する。「寺銭」の語は、「賭金中に占める手数料の割合、単位は無次元(パーセント等)」として使用されることもあるが、本稿では、これを「寺銭の割合」と表現する。私の定義した用法は、通常の用法と異なることになるが、社会防衛的見地からギャンブル運営を検討する場合、両者を区別することは、きわめて重要である。このため、通常の語感と異なるものになるとはいえ、冒頭の定義に拠って本稿を検証されるよう、お願いしたい。あと、本稿が取り扱う話題がパラメータ依存であるにもかかわらず、まったく定式化していないのは、例によって、手抜きである。(ただ、本稿の指摘は、文章だけでも成立しているとは思う。)




金融取引市場は、マネロン装置として見た場合の有用性、社会防衛的見地からすれば脆弱性が、極めて大きなままに稼働する社会的装置であり、その性能は、FX市場の実現に見られるように、現在まで、ますます加速する方向にある。とはいえ、市場が所在する各国において、金融取引を監視する公的な組織が稼働しているから、建前上、露骨な不公正取引は発覚し処罰されるものと期待されている。怪しげな取引を連絡・密告する制度も存在はする。犯罪組織に加盟する人物を排除する法律も、あるにはある。ただ、どのような制度を整えたとしても、参加者の情報格差をゼロにすることは不可能であるし、その情報格差をテコにしたインサイダー等の不公正取引の危険性を、全人類が公平と思えるまでに低減することは不可能である。現実に、9.11前のユナイテッド航空株の大量の売り注文など、明らかに不審な証券取引についての真相追及がなされていなかったり、タイのバーツ危機のような国家を脅かすほどの危険な取引が仕掛けた側にとって大成功したという実績がある以上、各種の公正さを担保する制度は、巨悪に対して、機能不全であり続けてきた。(田中角栄氏は、巨悪と呼ぶには、善玉過ぎる存在である。)証券市場や銀行や通貨発行の仕組みが現行の不具合を放置されつつも稼働し続けてしまっているのは、これらの仕組みが現に稼働中であり、その状態から全人類が足抜けすることが適わないからであると考えることができる。が、金融取引の構造上の問題は、今回のギャンブルにまつわる話の前振りであって、本稿では、これ以上取扱うことはしない。

ギャンブル運営をマネロン装置として見た場合、その優秀さは、一回の賭けを通じて特定の参加者に支払可能な金額の大きさ(あるいは徴収可能な金額の大きさ)と、どれだけ多数の賭金のやり取りが短時間のうちに行われるか、の二点の要素に規定される。この主張は、マネロン装置としての証券市場の優秀さを参照すれば、ごく自然に導かれるものである。一回の勝金の大きさは、一回ごとにロンダリングされるカネの出口側の大きさに等しい。また、多数の取引がバラバラのタイミングで実行されることは、ロンダリングに係る取引を発覚しにくくするという効果を生じさせる。(証券取引は、売り注文・買い注文がバラバラに出され、成立するタイミングが注文のタイミングと異なりうるという点においても、ゲームより遙かに後追いしにくい性質を有している。)犯罪の実行者にとっては、多少実入りが減ったとしても、後追いできないことが大事なのである。後者が重要であること、つまり、勝金の大きさより発覚のしにくさが重要であることは、犯罪企図者の合理性から説明可能である。犯罪であっても、まっとうなビジネスと同様、長期にわたり堅実に営めることが、実行者にとっては大事なのである。経済学をベースとする犯罪学では、強盗犯も、窃盗犯も、長期的には割に合わないという試算を得てきた。皮肉なことであるが、今までの(戦争屋に代表されるような)ホワイトカラー犯罪は、その教訓を内面化して繁栄してきたかのようである。

ギャンブル運営は、ゲームという閉じた行為によって公正さが定められるため、金融取引よりも公正となる条件を整備しやすい。どの公営ギャンブルについても、また、カジノにおいてどのゲームが採用されるにしても、この条件の良さは、金融取引市場よりも優れたものである。ゲームのルールは、金融市場に比べて、はるかに明確で閉じたものである。また、カジノで行われるルーレット・ポーカー・ブラックジャック等であろうと、あるいは丁半であろうと、またはeスポーツであろうと、参加者の期待値を計算することは、金融取引市場よりも、はるかに容易である。というより、社会への影響まで考慮した場合には、つまり、市場外部における参加者の社会生活まで加味した場合には、(そして、金融取引市場が外部経済に与えてきた影響の大きさを鑑みれば、金融取引市場への参入により見込まれる期待値を推定する上では、そのように計算すべきであるが、)金融取引市場における特定個人の収益の期待値を確定することは、実際のところ不可能である。むろん、ディーラーや壺振りの技芸は、各ゲームにおいて、プレイヤーの期待を裏切るだけの威力を発揮するであろうが、現行の金融取引における情報格差の不公正さに比較すれば、まったく公平と呼べる範囲のものである。カジノのエンターテインメントにマジックが多く見られることは、偶然ではなかろう。カジノの顧客は、見事な技に幻惑されるという体験を求めて、カジノを訪れているのかも知れないのである。何にせよ、ギャンブラーは、金融取引市場に比べて、予見可能性が高い市場へと参加していることになる。

他方で、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、不公正であるとの批判に晒されてきた。谷岡一郎氏は、「ギャンブルに詳しい」学識経験者とされるが、その意見は、主流であるかのように見做されてきた。「名乗りは姐さん、中身はオッサン」の『きっこのブログ』(2016年12月3日)[1]は、ウェブ上で寺銭について見かける意見の典型例である。「きっこ」氏は、「宝くじから競馬まで」の公営ギャンブルの寺銭の割合が高いと指摘した上で、既得権益者である公営ギャンブル関係者が寺銭の割合の低いカジノに反対しているのではないか、と批判する。プレイヤーにとって、寺銭の割合が高いことは、自身の期待値が下がることに直結する。また、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、公知の事実である。プレイヤーが公営ギャンブルの寺銭の割合の高さを不愉快に思うのは、当然であろう。

しかしながら、ここで、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さに対して参加者が感じる不満は、参加者の知識が向上したゆえに生じたものではないか、という疑問も湧く。知られていないことが批判の対象にならないのは、当然である。ある公営ギャンブルに対しては、勝ったとされるプレイヤーが実在しない、という批判が実在する。これが本当なら、胴元は丸儲けである。胴元とサクラが組んで、残りのプレイヤーをカモにしていたらどうか。この批判も、ある公営ギャンブルについて、実在するものである。ここに示した二つの批判は、裏が取れているものとまでは判断できないが、疑惑を指摘する声が実在することをふまえ、再構成したものである。いずれも、本当であるならば、参加者にとっては、到底許せないチートと映る行為である。こうしてみると、プレイヤーの不公平感は、不正に対する知識がないために、現状の程度に留められているとも言えよう。逆に、運営者にとって、広く知られていない不正の方法は、さらなる儲けの機会でもある。なお、発覚した事例をふまえれば、本段落における指摘は、公営ギャンブルよりも、株式証券市場の現実に対して、より良く当てはまるものである。勝者がいない=企業オーナーによる見せ玉、とか、かなりの用語の読替えが必要になるが、発覚した実例の数だけを挙げれば、株式証券市場における不正は、公営ギャンブルにおける不正よりもはるかに多い。

公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、ほかの情報とともに提供されることにより、不公平感が軽減される材料にもなり得る。宝くじが良い例である。その収益が慈善事業に役立てられているとの主張と、実際に「宝くじ号」の車両等を多く見かけるという状態は、そのバランスが取れている限り、「慈善事業にも役立っているから」という形で、購入を正当化する理由にもなり得る。また、谷岡氏のように裕福な一族の出であると体感しにくい事情であるかもしれないが、日々の生活から3000円なら捻出できるが、1億円を貯蓄することはできないと諦めている貧乏人からすれば、宝くじの購入は、その期待値が半額以下になると分かっていても、生活を一発逆転させる上での合理的な行動となる。現実の生活者にとっては、手持ちのリソースと、そのリソースによって達成される見込みとが重要なのである。実際のところ、宝くじ購入者の大多数は、せいぜいが10万円程度を当てた経験を有する程度であろう。すると、宝くじの設計者としては、購入者の身の回りで、その程度の当選金を得たという話を聞ける程度に当選確率を設定することが、体験的な情報だけによって宝くじの販売高を最大化する際の要点ということになる。最高賞金に比べてきわめて少額であっても、満足できそうな金額を当てたという人物に接することが、参加への意欲を喚起する可能性が認められるのである。なお、きわめて多額の宝くじを購入する人物は、きわめて少数であろうし、そういった人物のネットワークには偏りがあろうから、通常人が実際に最高賞金を獲得した人物を目の当たりにすることは、ほとんどないものと推測される。つまり、実社会のネットワークを前提とすると、最高賞金当選者は、なかなか人には知られないことになるから、大衆の購入意欲を喚起する役には立たないことになる。こうしてみると、伝聞情報が欠落しがちであるという現状は、当選金の設計において、どうせ知られないなら、最高賞金当選者を出さなくとも良いのでは?という、不正への誘惑としても働きうる。(あれ?)

ともかく、ギャンブルの設計者は、寺銭の割合だけではなく、参加者の知識や社会の状態をも合わせて利用することにより、ギャンブルへの参加を誘導し、ファンを定着させ、あるいは不公平感を軽減することができる。寺銭の割合は、部外者の批判を浴びる要因ではあるが、ギャンブル運営が商売である以上、胴元は、寺銭を取らずにギャンブルを運営するわけにもいかない。ここに、ちょっとしたジレンマが生まれることになる。寺銭の割合がゼロでは商売が立ちゆかないが、さりとて、高過ぎると客が付かないのである。

ところで、寺銭の割合が小さいことは、社会防衛的な見地からすれば、良いとばかり言えることではない。売上高が大きなギャンブルは、寺銭の割合を相対的に小さなものとできる。そのギャンブルが「薄く広く」集客するタイプのものであるならば、寺銭の割合が小さなために、売上高をさらに拡大できる余地がある、ということにもなる。結局、ギャンブル依存症患者をさらに多く発生させうるという点で、寺銭の割合が小さなギャンブルは、社会に対してより有害なものであるということにもなりかねない。カジノ(IR)の収益性は、海外からの太客によって成立するものと言われている。カジノの寺銭の割合が小さなものとなるのは、太客のおかげである。経営努力のおかげであることも確かではあろうが、太客との共依存的な関係にあるといえる。このとき、太客が外国の独裁者で、国民から搾り取った血税をカジノにつぎ込んでいたとすればどうか。そのカジノから派生的な利益を得ているわれわれ庶民は、その外国の庶民に恨まれても仕方ないであろう。寺銭の割合が小さいからと言って喜べるのは、単に、批評者が一人のギャンブル愛好者であるがゆえのことに過ぎない可能性は、常に残るのである。日頃からマルクス主義系の言が多い「きっこ」氏のセンスは、団塊の世代らしく、そのお題目はファッションにしか過ぎないようで、自分目線でしか、物事を考えられないようである。

ゲームとしての楽しさ云々はさておき、極端なことを考えると、賭け麻雀における雀荘は、きわめて高い割合の寺銭を取ることにもなりかねない。雀荘の席代がいくらであっても、勝負の結果が拮抗して誰もが損得なしという結果を得たとすると、寺銭の割合は、100%ということになる。このとき、プレイヤーは不満なのであろうか。むしろ、良い勝負ができたし、負けもしなかった、ということで満足度が高いであろう。話の種にもなりそうである。このように極端な場合を考えずとも、なぜ、人間は賭けずともゲームをするのか、ということを考えれば、人類は、ギャンブルの「悪さ」について、また、寺銭の位置付けについて、一段上の理解へと到達できそうなものである。

蛇足であるが、ゲーム依存症がギャンブル依存症と同様の症状を示すのは、有限の人生の(、大抵、若い時期の)有益な時間帯という資源をゲームに投入してしまっており、引くに引けないという状態を経験しているからでもある。この点に理解が至れば、ギャンブルとゲームとを同時に考慮の対象としながら、それぞれの依存症の弊害を整理できるようになる。高額なギャンブルが「悪い」のは、ギャンブルにかける時間だけでなく、大半の人物にとっては、労働した対価をも(、つまり有限の時間をも)ギャンブルに消費してしまうからである。ギャンブル依存症は、手持ちの生活資源という観点からみれば、(ソシャゲやグローバルな競争を強いるものを除いた)ゲーム依存症に比べ、生活が立ちゆかなくなる状態に進展する時期が早いのである。なお、生活資源=健康時間という点から世界をとらえる功利主義的姿勢は、『マインクラフト』ならびにその類似ゲームのように、手持ちのリソースがプレイ時間におおむね比例し、また、ゲーム内における様々な生産行為を自動化可能であるというゲームの設計思想を承継した、新たな時代のプロシューマー主義であると言うことも可能であろう。(実際のところ、プレイヤーは、どこまで行っても時間の消費者であって、労働者の地位に留まると見ることも可能であるから、マルクス主義であると理解する意見も成立しよう。)

公営ギャンブル関連財団に多くの天下りがいるという事実は、それら公営ギャンブルの寺銭の割合が高いために批判される材料になってはいる。しかし、その状態は、もしかすると、若い世代にとって、程良い具合に、ギャンブルへの参入障壁となっているかも知れない。本当のところは、深掘りしてみないと分からないが、寺銭の割合が高いからこそ、公営ギャンブルの依存症患者の割合が低く抑えられているという理解は、論理的には成立する。それどころか、マネロンスキームの成立を企む黒幕が、札束でビンタして「きっこ」氏に提灯持ちの記事を書かせたのかも知れない、などと考えることも可能である。こうなると、真のワルは誰だ、という程度の低い競争になってくるので、本稿はこれでおしまいにしよう。


#本稿では、現代の公営ギャンブルが(元々の知己ではない)プレイヤー同士の情報交換を遮断してきたことと、その弊害を考察できていない。これは、次回以降の宿題である。


[1] 公営ギャンブル VS カジノ法案: きっこのブログ
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2016/12/vs-cce1.html