注意
本稿は、犯罪学の見地からコンピュータゲームについて若干のメモを記すものであるが、「ゲームにおける18禁ネタの扱われ方」を取扱うものであるから、念のため、注意されたい。必要な限りにおいて細かい説明を加えるが、本稿の論旨に必要な限りにおいてである。Bloggerでの規約違反にはかからない内容とは考えられる。でなければ、たとえば、男女が一晩をともに過ごすシーンや、殺人事件を含む映画や書籍に言及するブログは、すべて、規約違反となってしまう。
本題
「コンピュータゲーム内においてプレイヤーが実行可能な犯罪」について、私は、三点の疑問を放置したままにいる。第一は、なぜ、R18指定(わが国ではCERO-Z)となるゲームにおいて、プレイヤーに許されている凶悪犯罪の種類から、端からエッチなことが分かっているゲームを除けば、強制性交等罪(本稿では、3ヶ月経過しても、『e-Gov法令検索』で条文を参照できる状態ではないので、強姦と表記しておく)が除外されているのか、というものである。第二に、なぜ、ゲーム内の窃盗は、殺人や強盗よりも多大なリソースを必要とするようになっているのか、というものである。第三は、これらのゲームにおける悪の種類は、果たして、現実社会へのフィードバックを真剣に考察した上で、許容・除外されているのであろうか、というものである。学術研究者としては生ける屍である私には、これらの疑問を効率的に解くだけのリソースが存在しないので、もしかしたら解答が与えられているかも知れないことまでを知らずに、とりあえず、これらの疑問を並べてみた次第である。
まず最初に、コンピュータゲームというグローバルな競争が実現している産業において、洋の東西を問わず、許される「悪」のジャンルが棲み分けられていることに、注意を払うべきである。前述の疑問のうち、最初の二点は、この一般化された状態から生じた具体的な疑問ということになる。エッチなゲーム(ブヒゲーなどとも形容され、英語ではHentaiと表現されることまである)には、すべての凶悪犯罪を実行できうるものが含まれるが、この一方で、暴力を前面に押し出すコンシューマゲームでは、わが国の凶悪犯にいう殺人・強盗・放火が可能であっても、強姦が可能となっていない場合が基本路線である。エッチなゲームの業界と、そうでないゲームの業界は、奇妙なほどにコードが並行的に推移しているのである。
コンシューマゲームである『Witcher』シリーズは、おおむね健全な性交渉のシーンを含むが、性犯罪以外の犯罪を描写するシーンを大量に含むRPG(ロール・プレイング・ゲーム)である。このシリーズの主人公は、ゲラルド・オブ・リヴィアという「Witcher(魔法を使う剣士で、超自然的な怪物を狩るハンター)」であり、生物学的には、元・男性と見做せよう(。ここら辺は、ゲームのネタバレになるので、ぼやかしておきたい)。彼は、基本的に紳士キャラという設定ではあるが、プレイヤーの選択次第で、プレイボーイにも一途なキャラにもなれる。『Witcher』シリーズで主人公が口説ける相手は、基本的には、魔女という設定であり、無理矢理になどと考えることが難しいほど、強力な魔術を操る存在である。これらの複合的な理由によって、このシリーズにおいては、両者の合意から「大人の時間」が始まる。社会的通念に照らして、『Witcher』シリーズにおける性交渉のシーンは、何ら問題のない内容であると判定できる。
ところが、『Witcher』シリーズの「売り」のもう一つは、ド派手で残虐な殺陣回りである。ゲラルドが斬り殺す相手は、獣や超自然的存在だけではなく、当然、盗賊・海賊や悪徳役人・背徳の騎士といった、多彩で大量の人間どもが含まれる。その残酷さと多彩さは、ひと頃の東映の時代劇映画を、いとも簡単に凌駕するものである。たとえば、斬首で決着を付けるシーンは、複数が用意されている。なお、「フィニッシュ技」の多彩さと言えば、対戦・協力ゲーム版の『13日の金曜日』も想起される。これらは、いずれも、止めを刺すシーンを堪能するという目的を、セールスポイントとしているものと解される。
コンシューマゲームにおける性犯罪に対する忌避と過剰なまでの暴力は、一体なぜ、どのように、並存する状態に至ったのであろうか。私は、このアンバランスさを、むしろ不健全の現れと見てしまう。この状態そのものは、とんと理解できないものであるが、それでも、この原因については、二つの仮説を思いつくことはできる。一つの仮説は、性犯罪が表現上の取引材料とされたというものである。もう一つは、戦争経済に円滑に協力可能な子どもたちを育成するためというものである。
この状態が実現する上では、真の意味での消費者、つまり、ゲーマー自身の視点に立脚した上での検討・理解・提言が、相対的に欠如してきたことは、間違いなかろう(。決して、全く存在しなかったとは、主張してはいない)。実際、「誰得?」と思われる事例として、『Left 4 Dead』のパッケージの修正(指の欠損を訂正)や、『Fallout 3』における特定シナリオの欠如を挙げることができよう。これらは、誰が問題視する種類の話題なの?という話である。とりわけ、前者については、大いに疑問が残る。ゾンビゲームは、ゾンビ(=病人)の頭を吹っ飛ばすのが目的なのに?という具合である。なお、2016年現在でも、同シリーズは、日本国内ではまったり系協力プレイが可能な良作であった(。最近は、さすがに自重しているので、いかなる状況にあるのかは、分かりかねる)。つまり、このような些末な修正が公的に強いられたにもかかわらず、ゲームコミュニティは、比較的健全な状態を長らく維持してきたのである。本来、声の大きな者に左右されることなく、ゲームコミュニティの状況を見極めた上で、健全な業界を形成するという指向性が追求されて然るべきであろう。
女性の権利向上に係る国際的活動は、彼(女)ら自身にとっては大事な活動と認識されているのかもしれないが、表現規制という面に対しては、外部者・運動者(advocates)としての押しつけの感を拭えない。国際的な権利向上活動は、コンピュータゲーム(、ならびに、その源流としてのテーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)については、「家父長」主義・権威主義的なカルト宗教による圧力という側面を払拭できないように、私には思われて仕方がないのである。ゾーニングを自主的に遵守させるという方法は、この方面に対しては、さほど機能していない。分野は異なるが、『週刊少年ジャンプ』連載の『ゆらぎ荘の幽奈さん』(ミウラタダヒロ氏)に対する直近の「不買運動」めいた反発は、端的な事例として挙げることができよう。
実際、声の大きな団体・人物の圧力にかかわらず、コンシューマゲームにおける性犯罪と暴力犯罪とのアンバランスな現状は、各種のユーザの側からの「MOD」(修正プログラム・コンテンツ)が流通する状態を通じて、性犯罪に対する興味を満たすように、解消されている。有名どころ(で私がすぐに思い出せる種類のもの)では、上掲『Fallout』シリーズや、同一企業からリリースされている『The Elder Scrolls』シリーズ(のうち、オフライン版)に係る「ヌード化MOD」が有名である。文字通り「身ぐるみ」剥いだときに、CGモデルを裸にするだけのものから、それ以上を可能とするものもある(が、詳しい紹介には立ち入らない)。これらのコンテンツの制作者が、ゲームの開発・供給組織と、どのような関係を有しているのかは、注意深い検討を受ける必要もあろう(が、それにも立ち入らない)。
#ここまでの指摘によって、本稿で扱った話題についても、一部の特定団体によって、不健全さが立ち現れたことは、それなりに示唆できたように思うので、本稿はこれでおしまい。
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