2017年9月30日土曜日

今回の総選挙の争点は、核武装を認めるか否か、原発を認めるか否かの二軸で分類できる(1)

要旨

本稿の意図は、おおかた題名で尽くされている。その論拠は、「原発の維持は核兵器の維持に必要である」という従来から見られる正当な(、しかし「陰謀論」と中傷されがちな)指摘に求められる。題名のとおりの分類方法によって、現時点で離合集散する政界人の立ち位置を3種に区別できる。すなわち、原発賛成・核武装賛成の自民党、原発反対・核武装賛成の希望の党、原発反対・核武装反対の左翼である。希望の党は、フレッシュな若手だけで構成されているというイメージを与えようとしているが、その実、米国に拠点を置いていた旧・戦争屋勢力を復権させるため、核兵器を国際的な核兵器ネットワークから調達して配備するという方針を潜ませている。ゆえに同党の「脱原発」には、十分な警戒が必要である。他方で、現在の自民党執行部が志向する核武装のスタイルは、戦前を彷彿とさせるような超国家主義的なものでありながらも、アナルコ・キャピタリズムを信奉する戦争屋の差配に基づき、核兵器の完成品を米国から輸入・配備するという可能性を排除できない。とはいえ、現今の日米関係は、自民党が、米国の産業界の言い値で米国の核兵器を配備するという形ではなく、自主核武装を志向しているという理解と整合的に推移している。従来、わが国は、原発賛成・核武装反対という「核の平和的利用」を建前としてきたが、この象限の意見は、3.11と北朝鮮の「核ミサイル実験」を経て、ほとんど成立の余地を失っており、留まることができないものと化している。


#昨日までの間に、相当数の人々によって指摘され、今回の選挙戦の構図が「どっちもどっち」として固まりつつあるようであるから、本稿は、要旨だけでも、とりあえず公開して「波に乗る」こととしたい。私個人は、民進党のように「希望の党」へと「アウフヘーベン」することだけはあり得ない、と考えている。


はじめに(本ブログを通覧していない人向け)

本ブログでは、数々の怪しげな公開情報を取扱うが、その主な理由は、「福島第一原発事故という巨大組織犯罪を生じさせた諸要因を鑑みれば、わが国の数々の組織が集合体として原子力を扱うのは無理である」という結論を導出するために、論拠を構築するためである。この点、本ブログの趣旨は、緩い様でいて、私の中では一貫している。ただ、私のそれぞれの主張は、全体を捉えれば、「陰謀論者」と呼ばれる人々にとっても支離滅裂なものであろう。しかし、その「矛盾」は、迷路の中に放たれたモルモットのごとき日本語情報環境と、それぞれの「分かれ道」におけるその都度の判断から生じた結論が、通常人の判断と異なることから生じたものである。複数の事象に対する見解の組合せがテンプレ的なものに陥るという結果は、「陰謀論者」と呼ばれる人々の思考過程にも良く見られるものであり、そのステレオタイプを、私自身は「セット思考」と呼び(2016年7月26日)、警戒している。

「陰謀論者」と中傷される者の多くは、不正選挙、人工地震、福島第一原発事故による健康被害、わが国政府の隠された核開発、のそれぞれを肯定するであろう。これらの個別の話題を肯定するにせよ、否定するにせよ、それぞれの議題が存在すること自体を知る機会が必要であるが、この点は、本稿では問わないでおこう。全体としての賛否の組合せは、2の4乗=16通りがあり得る。「陰謀論者」の多くがこれら話題の全てを肯定する一方で、圧倒的大多数の日本国民は、これらの話題の全てを否定するであろう。16通りの可能な見解があっても、人々のほとんどは、自らの判断に基づき、すべてを否定する見方に留まる。陰謀論に親しむ人であれば、すべてを肯定する見方を採用して、そこから出ようとはしない。この結果には、同じ物の見方をする人が存在しているという、(情報の受け手である)個人の認識が作用している※1

私は、いずれの実在をも認めるが、後者三点については、その実在を確認できる手段に乏しいとも考える。不正選挙は、一般人の感覚で見れば、公開情報だけでもネタが割れた状態にある(が、研究として実証するには、なかなか難しい題材である。2016年9月7日拙稿)。不正選挙に係る具体的な告発やリークは、その仕組みの全体を解明するための有力な手がかりとなっている。人工地震は、欺瞞的な日本語マスコミさえも、北朝鮮の核実験がこれに伴い生じた地震波を検出することにより確認されるという技術的な事実を前提にしているのであるから、理論的には当然存在すると考えるべきである。この一方で、自然地震と人工地震との判別は、可能な場合もあるが、一般人では行いにくいものであるとも考える※2。福島第一原発事故による健康被害は、通常のユーザの権限を超えて、SNS上のアカウント同士・リアル社会との紐付け作業を実行可能な人物には把握できているものと考える。ただし、そのためには、相当多額の研究資金か、何らかの便宜が必要になる※3。わが国政府の核開発は、噂としては確定的な感があるが、実際の調査は、日本人にはほとんど無理であろう。被爆国であるわが国が非公然と核開発に邁進しているという話を具体的(ジャーナリスティック)に追求することは、日本人調査者に対して、生命・財産上の具体的な危険をもたらすであろうから、私だけでは扱いきることのできない話でもある。

(次稿(2017年9月30日)へ続く)


※1 話し手の肩書きは、聞き手にとって、話者の見解の正しさを検証する作業を省略するという効果がある。言論で商売をしている人であれば、自らの立ち位置を変えることは、固定客を逃すことにつながる。小林よのり氏のように、変化を売りにする例外を除けば(2017年4月20日)、商業的な話者にとって、見解を変えるという作業は、なかなか思い切れるものではない。この点は、最近、ポール・クレイグ・ロバーツ氏も批判していたことである[1]。これに類似した理由となるが、博覧強記をセールスポイントにする人もまた、言論商売においては、カネを取ったという疚しさも手伝い、訂正に踏み切ることができなくなるということもあろう。出版社を始めとして、仕事先の複数の人々に迷惑が掛かるというのは、誤りを迂闊に訂正できない理由のうち、最大のものであろう。

※2 ただ、自然(が引き起こした)地震と人工地震との分別は、理論的には、なかなか難しい作業である。自然地震の数が限定されており、しかも、周期的に生じると考えられている地震であっても、前回の波形との比較は、困難なためである(。せいぜい、数回分しか比較対象が存在しない)。井口和基氏は、周波数で簡便に分別できることを指摘しており、これも首肯できる[2]。ただし、この方法は、核爆弾を使用した場合のように、威力の極めて大きな一回性の爆発を前提としている。この点、悪事を企む相手の油断や手抜きを必要としており、いわゆる偽陰性(false negative)を見逃す危険性を有する。ただ、前掲の記事の末尾において、井口氏も、地震波が複数の(核)爆発の重ね合わせによって再現できるか否かを検討すべきであると指摘している(。この点は、2016年9月10日の拙稿でも言及したことではあるが、井口氏の言としても紹介したように読めないので、ここで改めて明記しておく。ただ、井口氏は核爆発のみを地震の原因としているようで、この点は別記事[3]からも推定可能であるが、注水(蓋をしながら掘削した穴に海水を流し込む)や、二酸化炭素の地中封入による地震も考慮すべきである、と付け加えておく。これらの手法まで考慮しないと、地震波を再現可能か否かという逆問題を解くことができないのではないか、というのが拙稿における文章の隠された意図であった)。

※3 孫崎享氏がヒラリー・クリントン氏の言を引いて「置かれた場所で花を咲かせよ」[4], [5]というとき、孫崎氏は、「日本においていわゆる宮仕えをする者で、かつ、良心的に行動しようとする者」に適用可能な見解を述べている。ただし、孫崎氏は、知に対する再現可能性(あるいは複製可能性)と、ハンナ・アレント氏が指摘したような、組織に所属することに必然的に付随する責任について、深い洞察には及んでいない。これら両点の組合せは、少なくとも、わが国の学術環境については、「官僚の役に立つ限りにおいて、学者を利用し、御用学者がその統制に服する」という悪しき形で発露しており、一部の学識経験者には批判されているところである。わが国では、官僚が後から当事者としての経験を生かして学問に天下りすることが通例となりつつあるが、彼らの多くは、相当に不勉強である上、情報公開を十分な形で実施してこなかったのであるから、自らの(実務者としての)公務員としての経験を私消している上に、学術上の肩書きを悪用して、自説を補強したり、自らの失敗を糊塗しようとしているものとも批判できる。俗な言葉で揶揄すれば、まるで自家発電である。ただし、孫崎氏がヒラリー・クリントン氏の言を引用すること自体は、孫崎氏のクリントン氏に対する評価を必ずしも意味しない。『小説 外務省』には、「中国系から一時間約七五〇〇万円もらっていて、日本の方を支持するだろうか。クリントン夫妻の親中、反日は有名である。〔p.74〕」という記述も見られるが、この記述もまた、客観的な評価に留まるものと判定できる。


[1] 歴史とジャーナリズムの武器化: マスコミに載らない海外記事
(Paul Craig Roberts、2017年8月28日=30日)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9493.html

[2] ついに「311が核爆弾の人工地震であった証拠」が見つかった!?:高周波と音波の存在! : Kazumoto Iguchi's blog
(井口和基、2012年02月07日20:06)
http://quasimoto.exblog.jp/17336865/

[3] ザ・「人工地震」:その特徴と我々西日本の将来とは?オーマイガー! : Kazumoto Iguchi's blog
(井口和基、2014年03月05日11:00)
http://quasimoto.exblog.jp/21751556/

[4] 『小説 外務省:尖閣問題の正体』(孫崎享, 2014年4月, 現代書館), p.53.
http://id.ndl.go.jp/bib/025361076
#リンクはNDL-OPAC。

[5] 『小説 外務省II:陰謀渦巻く中東』(孫崎享, 2016年3月, 現代書館), p.268.
http://id.ndl.go.jp/bib/027135230
#リンクはNDL-OPAC。




2017年9月30日14時15分追記

「次稿」へのリンクを同稿の公開後に追加した。




2017年10月2日06時25分訂正・追記

文中の誤記を訂正した。

冷泉彰彦氏が9月28日付の『ニューズウィーク日本版』のコラム[1]において、25日の小池百合子氏の原発ゼロ政策[2]に対して、核武装とは相容れないことを指摘していたことを、今朝方知ったので、付け加えておく。冷泉氏の業績を的確に把握しないままに、このような感想を抱くことは危険ではあるが、類似の見方をする言論人がいたことから、私は、自分の解釈に対して自信を増したつもりでいる。もちろん、小池氏の政策の非整合性に対する指摘については、私には、先取権がないことになる。

ただし、冷泉氏は、小池氏の政策が相互に矛盾することだけを指摘している。冷泉氏のコラムは、意地悪に表現すれば、25日の小池氏の記者会見のみを参照して、エネルギー政策に係る概況を示し、そこに矛盾があると指摘するに留まるものである。誰もが知るような商業的な媒体に寄稿できるだけの名声を獲得して(おり、その名声に伴う正確性に係る責任を有して)いる書き手が、まさか、自力で調査を完結させ、校閲作業を完了しているとも思えないが、仮にそうであるならば、2000文字超の冷泉氏のコラムは、時差とワークフローを考慮すれば、実質、26日中に完成されていたと目される。冷泉氏の表現に見られるように、サラリとした感触の違和感を表明するだけであれば、編集作業も円滑であろう。同時に、『ニューズウィーク』誌にとって、小池氏の「アウフヘーベン」なんて話は、タイムスケジュール上も、取扱うだけの余裕があるとは言えないのであろうが、編集方針上も、解説する余地など、生じるものではないのであろう。

冷泉氏の鮮やかな体躱しに対して、本ブログは、国際秘密力集団の手口を理解するという目標を掲げているから、小池氏の方針について、考察を進めよう;小池氏の政策の相互矛盾は、選挙期間を通じて混乱を生むが、これらの公約を押し通す;その混乱は、選挙後、「原発ゼロか、核武装の放棄か、どちらかを選べ」というダブルバインドを強制する;この混乱を通じて、小池氏が満足できるだけの当選者数を確保した場合、まず間違いなく、放棄される政策は、原発ゼロとなろう。当選者数が十分ではなかった場合であっても、原発ゼロは、投棄されるであろう。

このダイナミクスは、上掲に掲げた「3グループの中から、1グループだけを選ぶ」という実際の選挙の仕組みとは異なり、投票者の中では、二段階のダブルバインドを経て実現される運びとなる。卑近なイメージとしては、徒競走ではなく、1対1の準決勝から始まるトーナメント戦を思い描けば良い。原発ゼロを是とする人は、核武装という小池氏の持論を知らなければ、あるいは核武装(核の傘)を容認すれば、小池氏に到達する。原発を容認する人は、安倍晋三氏に到達する(。ほかの受け皿がないからである)。核武装を容認するか否かから、判定作業を出発させる人々は、リベラルに到達しやすくなる。この仕組みを知る人が「今回の選挙は、安保法制に対する是非である」と主張する場合、彼らは、リベラルへの誘導を図っていることになる(。このようなアジェンダ設定を行う匿名者は、おそらく、プロ筋であろう)。もちろん、私は、今回については、選挙民をリベラルへと誘導す(るよう努力す)べきであると考えるし、仮に、安保法制の完成を重視するにしても、小池氏の二枚舌を許容すべきでないと考える。

本追記は、「破・両建て」を企図する上で、現実に駆使されている方法を暴露したものと自負している。何にでも「両建て」を見出してしまうことは、国際秘密力集団という敵を過大視し過ぎている上、ダイナミクスを飼い慣らすという目的意識を有してもいない。それどころか、恐怖により、人々を萎縮させる目的を有しているとも認められなくもない。知ること自体は、間違いなく重要である。言論者には、両建てというトリックを伝えることが何よりも求められよう。ただ、両建てという構図は、出発点に過ぎない。これに加えて、最近のトレンドは、「両建てという文法を知り、密かに体制内において裏切りを企図する者が、両建て構造における当初の予定調和(=止揚)を脱線させる」というものである。私には、この点を的確に宣伝し、その達成を支援する必要があるように思われるのである。


[1] 小池都知事の「希望の党」、原発ゼロ政策への疑問 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
(冷泉彰彦、2017年09月28日13時40分)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2017/09/post-943_2.php

もう1つは、同時に小池氏は「ゼロ・エミッション(排出ガスゼロ)」への工程も示すとしている点です。表面的には「反原発」と「ゼロ・エミッション」は同じような環境保護政策として、耳に心地よく響くかもしれません。ですが、この2つを両立させるのは難しいのです。矛盾する政策と言っても過言ではありません。

[2] 東京新聞:小池氏 原発ゼロ表明は初 希望の党代表 過去には断言せず:政治(TOKYO Web)
(木谷孝洋、2017年9月27日 朝刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201709/CK2017092702000125.html




2017年10月04日訂正

10月2日追記分を訂正し、淡橙色で示した。

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