2017年10月23日22時45分頃、『ウォーキング・デッド シーズン8』第1回のCM枠において、『FOX BREAK』と題する3分ほどの番組が放送され、「9月(22日か?)、帝国ホテルにおいて、日本のIR施設の制度設計について、セミナーが実施された」とのPRがなされていた。元観光庁長官・日本通運常務執行役員の井手憲文氏、日本MGMリゾーツ代表執行役員兼CEOのエド・バワーズ(Ed Bowers)氏、ギャラクシー・エンターテイメント・グループ日本代表の伊佐幸夫氏、の三名がコメントしていた。井手氏は、国土交通省海自局長から観光庁長官に抜擢されたという経歴の国土交通官僚OBでもあるが、2017年9月22日付の「日本のIRの制度設計について」というA4ペーパーを提示、セミナーの講師を務めたようである。バワーズ氏は、IR施設の導入が日本の観光産業を一体的に向上させるという旨をコメントしていた。伊佐氏のコメントは、(おそらく、マカオやシンガポールを念頭に置いているが、中国式のテイストとは異なる)日本ならではのIR施設を整備するという旨のものであった。
番組中のイメージ映像は、MGM RESORTS INTERNATIONALと銀娛GEG(銀河娛樂集團、GALAXY ENTERTAINMENT GROUP)の二社が提供していた※1が、そこに示された日本のイメージは、われわれ一般の日本人から見れば、日本らしくないものであった。とりわけ、MGMのクリップは、アメリカナイズされたジャポニズムという趣である。しかし同時に、その映像は、日本ならではのIR施設が成立する余地を暗に示唆しているかのようでもある。一般には、アメリカにおける正統派の日本趣味は、岡倉天心(岡倉覚三)氏の業績に良くも悪くも影響されていると言われている。IR施設における日本趣味に、この種の経路依存性が存在していても、何ら不思議ではない。日本人の自己イメージを日本国内のIR施設において実現・提供すれば、その「おもてなし」は、他国のIR施設とも十分に競争できる独自の内容になろう。
『キル・ビル Vol.1』では、ユマ・サーマン氏の演じる「花嫁(The Bride)」が、ルーシー・リュー氏の演じる「オーレン・イシイ」の一味と、お台場にある?『青葉屋』という料亭?で大立ち回りを演じるが、このような日本風の料理屋で色々楽しみたいという欲求は、「和式」IR施設でこそ、叶えられる可能性があろうというものである。もっとも、伝統的スタイルを今あるリソースによって忠実に再現するためには、「博徒を先祖として、その「遺伝子」を適正に継承する組の全員を、足を洗わせた上で、組に丸ごとシノギを認可する」くらいの度量が、日本人に共有される必要があろう。大きく構えた表現を取ると、ある種の賭博を非犯罪化すると同時に、犯罪組織をも「包摂」するという方針である。ただ、こうなると、組織犯罪関連法との関係や、現実の利益をいかに分配するのかだけでなく、麻雀やゴルフはどうなるとか、ややこしい話が方々に波及しそうである。「暴力団を非犯罪化するなどとは、とんだ世迷い言を」と捉える向きもあるかも知れないが、「餅は餅屋」とも言うし、「非犯罪化」は、「規制撤廃」の一類型である。事実と可能性とをタブーなく指摘しておくことは、現実への影響が生起し得る社会科学を研究する者にとって、「李下に冠を正さず」の実践ともなる。
本ブログの読者にはクドいと思われるであろうが、(IR施設の全体ではなく、)カジノに係る最大の焦点は、カジノというビジネスが、一晩で勝てる金額の上限を定めないことにある。このマネロンに対する脆弱性が、世界の(列強)国から見て、安全保障上、許容されないと判断された場合、わが国の刑事司法の脆弱性を突く形で、批判が広がることになろう。この脆弱性を克服するためには、専門家の種別を限定せずに、論理的な内容であれば、厳しい内容を含む提言・批判を聞き入れた上で、検討を加え、必要な情報を適切に開示できる体制を整える必要がある。つまりは、公論を経る必要がある。
しかしながら、カジノそのものの仕組みと法制度については、このまま行けば、まず間違いなく、事業者主導で内密に決着が付けられるであろう。それが、ここ数年、わが国が開発独裁国家として歩んできた道程であり、今後も続く道である。この路線の継続は、2017年10月22日の第48回衆議院選挙によって、消極的にであれ、国民の承認を得たことになってしまっている。日本語マスコミが23日以後、さかんに「投票したい候補者が他にいなかったから、自公候補に投票した」という「町の声」を紹介しているのは、「承認を得た」との自民党・公明党関係者の解釈を無効化しようとする試みであるが、選挙という活動の結果を軽視しているのは、日本語マスコミの方である。IR特区についても、先の選挙がお墨付きを与えたということになっているからこそ、23日に『FOX BREAK』が放送されたのである。
念のために申し添えておくが、私は、高額賞金を可能とするギャンブル全般に対して、マネロン上の脆弱性を有するとの疑いを抱いている。IR施設のカジノ機能だけが、殊更に、批判の対象として取り上げられるべきではない。ただ、この脆弱性に対する考察は、昨秋以来、なかなか進んでいない。『日本プロファイル研究所』のウェブサイト上の記事の数々は、後追いし切れていないものの、(灰色から黒色の系統の)ジャーナリスティックな批判を、特定のギャンブルに係る信じるに足るだけの「状況証拠」とともに示すものである。なお、パチンコからの収益が北朝鮮に送金されているとする従来型の批判は、パチンコというギャンブルの仕組みそのものに脆弱性が内包されている、という指摘ではない。この問題は、「神は細部に宿る」話の典型であり、本来、利益相反関係なく、国民益を考慮できる複数の専門家が存立しながら議論すべき問題である。
しかし同時に、賭博というビジネスそのものを問うこととは別に、観光業全体に占めるIR施設の位置付けを構想し、他の観光コンテンツとの連携に伴う、隠れた課題を扱う※2ことは、国民益を増大させるという目的に適うことである。つまり、IR施設を単独で論じるのではなく、わが国の観光のあり方を俯瞰して、将来戦略の中にIR施設を位置付けることが可能か否かを論じることは、永田町や霞ヶ関に限定されない場において、必要とされることである。この点、バワーズ氏の先述のコメントもまた、否応なしに、国民の目にさらされ(た形式を取)る必要がある。この「意見周知」という機能こそは、『FOX BREAK』が放送された意義であると推認できる。
ただし、このような構想を語るにしても、井手氏の在籍する日本通運は、国際的な流通業における主要なステークホルダーであり、旅客業が潤うことから利益を得られるために、井手氏は、本来、業界人枠に含めるべき人選ではある。業界人が国益に立って発言することは可能であるし、その姿勢を堅持することは、公を語る上での必要条件であるが、非・利害関係者の積極的な承認を得なければ、業界人の側から、論議を尽くしたと一方的に主張することはできない。わが国では、業界丸抱えでない、ユーザ・消費者の利益を代表する公益団体を設立・維持する(ために、カネは出すが、口は出さないという姿勢を堅持する)という活動は、全体として見れば、CSRの一分野として定着しないまま、ここまで来てしまった。わが国における人工芝運動は、原発ムラの実例に見るように、拙劣な程度に留まり続けてきた。なお、ここで、わが国独自の人工芝運動とは、原発ムラの実例を除けば、仮構的な存在に過ぎない。実在する市民運動については、(刑事司法関係者の側から見れば、)党派色が拭えないとはいえ、リソースが制限されている中で、理想的と考えられるであろう結果との乖離はともかく、制限されたなりの社会的機能を果たしてきたように思う。
IR施設そのものを離れれば、わが国の観光上の問題は、わが国の(公共)空間体験が観光客にとって美的に満足できるものであるか否かという点に集約される。カジノの太客となるような、アートを解するハイソな観光客が満足できるだけの空間体験を、現在のわが国で実現するためには、私有地内に囲い込むという方策しか残されていない。都市部では、借景という概念は、言うまでもなく破綻している。京都の惨状を目の当たりにした上で、不動産価格と建設価格を考慮すれば、わが国の都市景観が何ともし難い状態に陥ったことは、誰の目にも明らかである。僅かに、足立美術館ほどに、ド田舎にあり、かつ、周辺ともウィン・ウィンの関係を構築しているトップランナー的な観光資源だけが、この概念を維持している。借景とは言えないようには思うが、MOA美術館も同様に、立地を生かしていたような覚えがある(。上に挙げた例は、私が直接体験したものに限定している)。ともあれ、借景までを考慮した場合、わが国では、バーデン・バーデンやバーデン・バイ・ウィーンのような、山間部のリゾート地が有利ではあろう。ただ、山間部の温泉地は、どこも露天風呂を用意する際に苦心しているようである。これらの現状を踏まえれば、わが国において、上流階級の太客をもてなすための条件を整える上で、土地利用の現況は、根本的な障害となっている。
お台場という都市空間を、浅田次郎氏の『カッシーノ!』[1]に紹介されるヨーロッパの諸都市と比べると、その残念さ加減が明らかとなる。(厳密には、お台場を通りはしないが、)東京モノレールや、(お台場を周遊する)ゆりかもめからの風景は、都内の沿線風景としては、比較的楽しめる。しかし、都市空間体験の全体は、カジノを抱えるヨーロッパ諸国における空間体験に比較して、数段落ちるであろう。あらゆる都市は、人類の営為の集積であるが、ラスベガスは、その中でも、環境を大規模に改変して建設された「人工都市」である。お台場も、何もないところから作り出されているが、ラスベガスと比べると、「夢の島」とは呼べない程に、都市空間としてスカスカである。表現は悪いが、お台場には、都市の魅力を作り出すという努力が不足している。専門的な表現になるが、わが国で、スーパーブロック(長大な街区)の非人間性を体験したければ、お台場を徒歩で一周すれば良い。たとえ、青島幸男氏が都市博を中止しなかったとしても、空疎さを埋め切れなかったであろうところが、わが国の「都市計画」の所掌する分野の(、ただし「都市計画」と称される専門分野に限定されるべきではない、)構造的な課題を示している。IR施設の候補地とされている横浜市や大阪市の沿岸部の方が、観光資源としては、多少マシである。横浜や大阪の方が、夜景を楽しめる余地がある。横浜の夜景については、説明が不要であろう。大阪については、現今の「工場萌え」を考慮すれば、関空からのリムジンバスルートは、他国のIR施設に比較しても、工業立国であるわが国らしい、楽しめる風景を提供できるものと思われる。お台場は、首都高湾岸線を自走した経験がなく、記憶に乏しいので断言しかねるが、少なくとも、大量輸送が可能な公共交通機関については、風景の醜さを一考する余地があるとは言えよう。首都高を二階建てのオープンバスで走行するというツアーは、例外的であるが、インフラ維持という観点から、50年後も同様の体験を安全に実施できるかと問われれば、甚だ怪しいものがある。50年後の将来、同一ルートのツアーは、別の意味でスリルのあるものとなろう。レンタカーへの自動運転機能・運転補助機能の実装は、外国からの観光客のモビリティを大幅に向上させるであろうが、普及までにもう5年は必要であろうし、何より、わが国の都市空間は、景色の良さを楽しませるだけのコンテンツに不足している。
浅田氏は、
唯一ヨーロッパの鉄道がJRよりすぐれている点は、車窓の風景である。〔p.254〕[1]と述べているが、わが国では、都市空間がスプロール(無秩序に延伸)しているために、交通体験としての鉄道路線沿線部の風景は、延々と醜悪な光景が続くだけである。新幹線の路線の大部分も、新幹線自体が騒音によって邪魔者扱いされている(NIMBY; Not In My BackYard)ために、その潜在力を発揮し切れていないと断定できよう※3。この結果は、JRが国営企業であったという経歴と、その時期に構想された新幹線計画なるものをふまえれば、当然のものかも知れない。ただ、沿線一体型の開発がなされてきたことを考慮すれば、わが国の私鉄沿線の風景も、心象風景としてはともかく、具体的な見た目については、お世辞にも心地よいものとまでは言えない※4。別方面のオチとして、ひと頃、二反長音蔵氏の尽力の甲斐あって、大阪北摂地方の鉄道沿線には、一面のケシ畑が広がっていた...という感じの記述が、倉橋正直氏の『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』[2]辺りに含まれていたのではないかとも思うが、記憶違いの可能性が高いので、出典はいずれ確認するとしても、鉄道路線の風景に対して、わが国が色々な観点から無頓着であるのは、伝統芸である。
鉄道写真家の中井精也氏は、NHKの番組などで様々な鉄道路線を紹介しており、そこで紹介される写真は、流石、プロの技と思わされることしきりではある。しかし、ここでの問題は、「玄人はだしである鉄ちゃんたちが、プロの技に習い、上手な写真を撮ることができる環境であるか否か」ではない。「シロウトである外国人観光客が乗るだけで楽しめて、しかも、また来たいと思える鉄道路線であるか」である。これらは、似たような話題を扱ってはいても、ターゲット層も、カネの回り方も、異なる話である。
もっとも、既存の観光資源に対して、都市改造のような、大掛かりで巨額の経費を必要とする改善が必要という訳ではない。たとえば、アレックス・カー(Alex Kerr)氏の『ニッポン景観論』[3]は、アルファベットしか読めない観光客にとって、火気厳禁の看板が誤解を招くものであることを指摘している。この分野に興味のある人物であれば、同書は必読書である。ともあれ、小さな気遣いと改善を、相当程度・多くの事象について進める必要があるのが、わが国の都市空間の現状である。小さな改善と、大きな構想との両方が、必要とされている。
利己主義に起因する猥雑さこそが、現代日本の都市空間を規定しているという指摘は、多数の論者によってなされているが、真理の一面を衝いてはいる。1%だけが好き放題しているだけではなく、99%も、それぞれの器の大きさに応じて好き放題した結果、混沌とした都市空間が生じている。とは言っても、大規模建築物において利己主義が貫徹されていることの方が、風景としての大都市を毀損する上で、寄与が大きいことも確かである。わが国の密集市街地の大半は、リオ・デ・ジャネイロのファベーラ(いわばスラム地区)のように、パルクール※5やマウンテンバイクに適した傾斜地ではないから、観光資源としてゴミゴミした眺望を売りにする上では、東京スカイツリー・六本木ヒルズ・あべのハルカスのような、過剰な高さが利用されることになる※6。また、これらの高さという資源は、ニューヨークなどと同様、徹底して民営化されつつある。この傾向は、通天閣・東京タワーの時代から変化せず、京都タワーが物議を醸し、京都駅が止めを刺した。これらの事件に比較して、いち庶民の建築物は、思想上、ほとんど影響しなかったと考えて良いから、やはり、大規模建築物がわが国の建築の風潮を決定したと考えて良かろう。なお、時機を見て、どこかで、アイン・ランドや天守閣の話を確認した後に、追記する予定である。本段落のここからの記述は、仮説である:天守閣は、天空に神のいないわが国において、櫓・権力の二つの機能を兼務するものに過ぎないが、高層ビルが、ゴシック建築に代表される天空=神の座所への反逆であった点については、『反・東京オリンピック宣言』において、説明されていたか否か、疑わしい。必ず、建築(評論)家の誰かが、真理としての神への反逆に対しては、言及しているはずであるが、アイン・ランドの著書がこの点において反抗的=悪魔的であるという点については、言及が抜けている可能性が認められる。
他方、巨大建造物によるスカイラインは、マンハッタン島を想起すれば直ちに了解されることであるが、本来ならば、観光資源となり得る。しかし、一時期までの丸の内や銀座、横浜のベイエリアや新宿副都心の一部を除けば、このことは、さほど考慮されていないし、丸の内や銀座については、秩序が破壊される傾向にある。銀座の歌舞伎座が高層化されたという経緯は、ほかの事業者とは異なり、文化事業に携わる者の根幹を問うものであったという点で、一層、興味深いことである。ともかく、わが国では、スカイラインが都市全体でいかなるものに見えるのかが自発的に考慮され、秩序が自生的に形成されるような機能が、社会にも制度にも埋め込まれていないし、増床に伴う賃料の増加という「目に見える金目」の前には、将来価値を生むかも知れないという、美的感覚に基づく期待感など、まったく顧慮されないのである。山本豊津氏が現代美術について指摘する「価格=交換価値」と「(使用)価値」との違い[4]は、風景という対象についても、適用可能な概念であると思われる。この点は、ニューヨーク市のスカイラインを想起すれば、納得できよう。日米両国は、同じゾーニング制を都市計画の基本とする(運用実態は大きく異なるが)とはいえ、マンハッタン島という土地条件に強く規定されている分、ビッグ・アップルの方が、風景の印象を強めることに成功しているのである(。この指摘も、対岸となる地区、ニューポートやブルックリンの再開発が進めば、成立しなくなりそうではあるが、ブルックリンの再開発は、人種問題もあろうから、なかなか制限もしにくいであろう)。
東京スカイツリーの巨大さは、東京の建築物の中でも群を抜いており、異様と呼べるほどである。羽田空港から離陸する旅客機の窓から覗くと、スカイツリーは、大手町・丸の内・有楽町周辺や、新宿副都心といった既存の中心市街地と比べても、ひときわ大きなものである。そのスケール感は、ほかの建築物から遊離した巨大さで、見る者を圧迫する。一個の人間が認識できる範囲を巨大な事物が超越する状態は、ビッグネス(bigness)と呼ばれているが、スカイツリーのビッグネスは、ほかの大規模建築物と比べても、際立つものがある。
スカイツリーの高さそのものは、テレビ塔として関東平野一円を望むという点で、建設事業者にとって、改変できない所与の要件であった。しかし、これだけ通信手段が多様化した現在、テレビ番組を放送する上で、地上波にこだわる必然性はないはずである。テレビ事業者としては、ワンセグも含め、緊急時の速報性にこだわったために、地上波が温存されたと言われるが、速報性が必要な事象に対しては、ラジオで十分ということはなかったのか。音声だけ、別帯域で放送する仕組みはあり得なかったのか。ともあれ、地上波が必要という揺るぎなき前提が立てられ、その上で、スカイツリーの建設地が選定された。さいたま副都心はおざなりにされたが、同地にタワーが建設されたとして、人が今ほど集まったかどうかは、保証の限りではない。ともかく、スカイツリーは、押上・業平橋駅周辺の防災拠点として、また、東京都の新たな観光拠点として機能しているが、風景の中では、墨田河畔のウンコモニュメント(、制作者本人が同意したという都市伝説を聞いたことがあるので、こう明記しても構わないであろう)と同様、突出した違和感を与えうる存在である。良くも悪くも、放送事業者の地上波のゴリ押しによって生まれた鬼子が、スカイツリーという訳である。
東京スカイツリーの巨大さが観光資源としての東京の風景を毀損している可能性を指摘し、また、600mを超える高さの必然性が放送事業者の都合によることを指摘できたので、ようやく、本稿のオチに入ることができる。ひょっとすると、ケーブルテレビ(だけ)でIR施設が推進される裏には、「IR施設は、わが国に上客を呼び込むための観光資源の一つとして機能しますよ」と呼びかけると同時に、「ケーブルテレビは、都市景観にも優しく、外国人観光客にも多様な番組を提供することができるという点で、地上波よりも優れていますよ」とも囁きかけるという目的が潜められているのではなかろうか。ケーブルテレビ愛好者こそは、多様性を享受せんとする存在であるがゆえに、地上波という暴力的専制に対抗する存在となり得る。スカイツリーという「一つの(電波)塔」に使嗾される「地上波ゾンビ」に対するは、「ネットワーク」を愛する「プレッパー」たちである(が、その中には、『ウォーキング・デッド』シリーズに登場する『救世主』たちのような、ナチスを彷彿とさせるような、全体主義的な連中も含まれよう)。もっとも、本件は、『指輪物語』に倣い、「オーク」どもに対峙する「旅の仲間」ということになるやも知れない。読者には、これらの比喩が唐突すぎて、到底、この構図を受け入れてはもらえないかもしれないが、筆者としては、オチが付いたつもりになったので、これでおしまい。
※1 「協力 JTRA」とあったが、これは、おそらく、特定非営利活動法人 ツーリズム研究機構[5]であろう。ただし、直接確認することは、本ブログの広告活動になりかねない(し、あるいは、右翼の街宣活動と同種の効果を持つ活動と誤解されかねない)から、行わない。
※2 他の論点として、巷の話題に上がりにくい例として、犯罪に関わる分野として、性風俗営業の一形態としての同伴営業を挙げることができる。同伴ビジネスというものは、大々的にお目こぼしはされているが、性規律に厳格な立場からすれば、むしろ、積極的に問題視しても良い種類の営業形態である。しかも、観光に付随する話となれば、通訳業や介護業との兼合いはどうするのかとか、色々と攻め所を考えつくことは、可能である。
※3 北海道新幹線と、九州新幹線の一部を除けば、全路線を乗車した経験に基づき、指摘しておく。「見るべきポイントをあらかじめ知った上でなければ楽しめない景色」というものは、旅行客にとって、ハードルが高すぎる。『インスタグラム』などを通じて、例えば、高尾山の猿などのように、海外からの観光客を呼び込む資源は、次第に知られつつあるようではある。しかし、これらの「発見された観光資源」は、どちらかと言えば、自然発生的な個人の活動に起因するものであって、キュレーション活動が意図的かつ組織的に展開された結果ではない。正確に言えば、文化に携わる人々に社会がカネを投じた結果ではない。その結果、観光資源は点在するに過ぎず、自然と生じるはずの複合的な観光体験というものは、個別の観光事業者のキュレーション抜きに、存在し得ていないのである。(「何をせずとも、ゆっくり観光するだけで何かしらの発見があり、旅行者を満足させることができる」という状態が、理想的であろう。)
先進諸国は、自国の観光資源を「面」となるように、文化的な制度を展開するという市民的な運動を、半世紀以上も先行して実施している。日本国民のあらゆる層に対して、このような大局的な観光戦略に(意図せずに)寄与するような意識は、意図的に養成されてはいない。逆に、「何でも金目」というメッセージは、あらゆる場面において、語りかけられている。たとえば、「クール・ジャパン」の現場を支える人々の収入は、まったくクールではないが、これを天下り先と定めたお役人だけが私腹を肥やしている。多くの外国人観光客に対して、わが国が「一度来れば十分」という観光資源しか用意できていないとすれば、それは、ここに示した理由が主原因である。この根の深い原因を改善しないことには、放送事業だけでなく、観光事業についても、わが国は、結果として見れば、焼き畑農業的にしか将来を構想できていないことになる。
※4 小林一三氏が編み出し、阪急に適用した私鉄の開発方式、つまり、都心と終点の双方に集客施設を用意するという方式は、それ自体、偉大ではあった。しかしながら、わが国の都市・建築規制に係る野放図さは、芦屋などの一部住宅街を除けば、人間の生活行動が観光資源となるという状態を生成・維持することに失敗したと断定できよう。
※5 都市内をアクロバティックに駆け抜けるスポーツ。このスポーツを疑似体験可能な『Dying Light』には何度か触れた(日)。
※6 東急東横線は、代官山駅より横浜手前までの区間で、北(西)側(渋谷方面行きの場合、進行方向に向かって左手)を向いていれば、昭和前期までに海岸段丘に形成された高級住宅地をいくつか望むことができるが、マンションに隠されがちであるし、経緯を知っていなければ、面白く見ることすら難しい種類の景色ではある。
[1] 浅田次郎〔著〕・久保吉輝〔写真〕,(2003.6).『カッシーノ!』, 東京: ダイヤモンド社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000004170745
#同書の目次は次のとおりである。
訪問地 | 章 | 章題 | ページ |
プロローグ | 1 | ||
Monaco | 1 | モナコの伯爵夫人 | 7 |
Monaco | 2 | ギャンブラーの聖地 | 19 |
Monaco | 3 | 誇り高きクルーピエ | 31 |
Monaco | 4 | 偉大なる小国家 | 43 |
Nice | 5 | リヴィエラの女王 | 55 |
Nice | 6 | 花火とトップレス | 67 |
Cannes | 7 | アンティーブの古城にて | 77 |
Cannes | 8 | カンヌのナポレオン | 89 |
San Remo | 9 | サンレモの夜は更けて | 101 |
Baden Bei Wien | 10 | バーデンよいとこ | 113 |
Baden Bei Wien | 11 | ユーロ万歳! | 125 |
Baden Bei Wien | 12 | カジノは国家なり | 135 |
Seefeld | 13 | 登山電車に揺られて | 147 |
Seefeld | 14 | タイム・イズ・ライフ | 157 |
Seefeld | 15 | アルプスのサムライ | 169 |
London | 16 | 伝統と格式の鉄火場 | 181 |
London | 17 | 終身名誉会員 | 193 |
London | 18 | 1億円しばりの密室 | 205 |
Normandie | 19 | ノルマンディの妖精 | 217 |
Normandie | 20 | 博奕なるものあらずや | 229 |
Normandie | 21 | 消費は美徳。倹約は罪。 | 241 |
Wiesbaden | 22 | 皇帝のシュピール・バンク | 253 |
Wiesbaden | 23 | ゲルマンの叡智 | 265 |
Wiesbaden | 24 | 名作『賭博者』の背景 | 277 |
Baden-Baden | 25 | 考えるドイツ人 | 289 |
Baden-Baden | 26 | アメリカン・スタイルの正体 | 301 |
Baden-Baden | 27 | 遊べよ、日本人! | 313 |
[2] 倉橋正直, (2002.8). 『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』, 東京: 共栄書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/000003670348
[3] アレックス・カー, (2014.9). 『ニッポン景観論』(集英社新書 036V), 東京: 集英社.
http://id.ndl.go.jp/bib/025738252
[4] 山本豊津, (2015.10). 『アートは資本主義の行方を予言する 画商が語る戦後七〇年の美術潮流』(PHP新書 1009), 東京: PHP研究所.
http://id.ndl.go.jp/bib/026719224
[5] NPO法人ツーリズム研究機構(JTRA)
(2017年10月25日確認)
http://jtra.saloon.jp/
2017年10月27日19時35分、10月30日20時05分、追記・訂正
文意の通らない箇所を訂正し、若干の記述を加えた。
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