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2017年10月26日木曜日

『FOX BREAK』に見る「和式」IR施設への期待感

2017年10月23日22時45分頃、『ウォーキング・デッド シーズン8』第1回のCM枠において、『FOX BREAK』と題する3分ほどの番組が放送され、「9月(22日か?)、帝国ホテルにおいて、日本のIR施設の制度設計について、セミナーが実施された」とのPRがなされていた。元観光庁長官・日本通運常務執行役員の井手憲文氏、日本MGMリゾーツ代表執行役員兼CEOのエド・バワーズ(Ed Bowers)氏、ギャラクシー・エンターテイメント・グループ日本代表の伊佐幸夫氏、の三名がコメントしていた。井手氏は、国土交通省海自局長から観光庁長官に抜擢されたという経歴の国土交通官僚OBでもあるが、2017年9月22日付の「日本のIRの制度設計について」というA4ペーパーを提示、セミナーの講師を務めたようである。バワーズ氏は、IR施設の導入が日本の観光産業を一体的に向上させるという旨をコメントしていた。伊佐氏のコメントは、(おそらく、マカオやシンガポールを念頭に置いているが、中国式のテイストとは異なる)日本ならではのIR施設を整備するという旨のものであった。

番組中のイメージ映像は、MGM RESORTS INTERNATIONALと銀娛GEG(銀河娛樂集團、GALAXY ENTERTAINMENT GROUP)の二社が提供していた※1が、そこに示された日本のイメージは、われわれ一般の日本人から見れば、日本らしくないものであった。とりわけ、MGMのクリップは、アメリカナイズされたジャポニズムという趣である。しかし同時に、その映像は、日本ならではのIR施設が成立する余地を暗に示唆しているかのようでもある。一般には、アメリカにおける正統派の日本趣味は、岡倉天心(岡倉覚三)氏の業績に良くも悪くも影響されていると言われている。IR施設における日本趣味に、この種の経路依存性が存在していても、何ら不思議ではない。日本人の自己イメージを日本国内のIR施設において実現・提供すれば、その「おもてなし」は、他国のIR施設とも十分に競争できる独自の内容になろう。

『キル・ビル Vol.1』では、ユマ・サーマン氏の演じる「花嫁(The Bride)」が、ルーシー・リュー氏の演じる「オーレン・イシイ」の一味と、お台場にある?『青葉屋』という料亭?で大立ち回りを演じるが、このような日本風の料理屋で色々楽しみたいという欲求は、「和式」IR施設でこそ、叶えられる可能性があろうというものである。もっとも、伝統的スタイルを今あるリソースによって忠実に再現するためには、「博徒を先祖として、その「遺伝子」を適正に継承する組の全員を、足を洗わせた上で、組に丸ごとシノギを認可する」くらいの度量が、日本人に共有される必要があろう。大きく構えた表現を取ると、ある種の賭博を非犯罪化すると同時に、犯罪組織をも「包摂」するという方針である。ただ、こうなると、組織犯罪関連法との関係や、現実の利益をいかに分配するのかだけでなく、麻雀やゴルフはどうなるとか、ややこしい話が方々に波及しそうである。「暴力団を非犯罪化するなどとは、とんだ世迷い言を」と捉える向きもあるかも知れないが、「餅は餅屋」とも言うし、「非犯罪化」は、「規制撤廃」の一類型である。事実と可能性とをタブーなく指摘しておくことは、現実への影響が生起し得る社会科学を研究する者にとって、「李下に冠を正さず」の実践ともなる。


本ブログの読者にはクドいと思われるであろうが、(IR施設の全体ではなく、)カジノに係る最大の焦点は、カジノというビジネスが、一晩で勝てる金額の上限を定めないことにある。このマネロンに対する脆弱性が、世界の(列強)国から見て、安全保障上、許容されないと判断された場合、わが国の刑事司法の脆弱性を突く形で、批判が広がることになろう。この脆弱性を克服するためには、専門家の種別を限定せずに、論理的な内容であれば、厳しい内容を含む提言・批判を聞き入れた上で、検討を加え、必要な情報を適切に開示できる体制を整える必要がある。つまりは、公論を経る必要がある。

しかしながら、カジノそのものの仕組みと法制度については、このまま行けば、まず間違いなく、事業者主導で内密に決着が付けられるであろう。それが、ここ数年、わが国が開発独裁国家として歩んできた道程であり、今後も続く道である。この路線の継続は、2017年10月22日の第48回衆議院選挙によって、消極的にであれ、国民の承認を得たことになってしまっている。日本語マスコミが23日以後、さかんに「投票したい候補者が他にいなかったから、自公候補に投票した」という「町の声」を紹介しているのは、「承認を得た」との自民党・公明党関係者の解釈を無効化しようとする試みであるが、選挙という活動の結果を軽視しているのは、日本語マスコミの方である。IR特区についても、先の選挙がお墨付きを与えたということになっているからこそ、23日に『FOX BREAK』が放送されたのである。

念のために申し添えておくが、私は、高額賞金を可能とするギャンブル全般に対して、マネロン上の脆弱性を有するとの疑いを抱いている。IR施設のカジノ機能だけが、殊更に、批判の対象として取り上げられるべきではない。ただ、この脆弱性に対する考察は、昨秋以来、なかなか進んでいない。『日本プロファイル研究所』のウェブサイト上の記事の数々は、後追いし切れていないものの、(灰色から黒色の系統の)ジャーナリスティックな批判を、特定のギャンブルに係る信じるに足るだけの「状況証拠」とともに示すものである。なお、パチンコからの収益が北朝鮮に送金されているとする従来型の批判は、パチンコというギャンブルの仕組みそのものに脆弱性が内包されている、という指摘ではない。この問題は、「神は細部に宿る」話の典型であり、本来、利益相反関係なく、国民益を考慮できる複数の専門家が存立しながら議論すべき問題である。


しかし同時に、賭博というビジネスそのものを問うこととは別に、観光業全体に占めるIR施設の位置付けを構想し、他の観光コンテンツとの連携に伴う、隠れた課題を扱う※2ことは、国民益を増大させるという目的に適うことである。つまり、IR施設を単独で論じるのではなく、わが国の観光のあり方を俯瞰して、将来戦略の中にIR施設を位置付けることが可能か否かを論じることは、永田町や霞ヶ関に限定されない場において、必要とされることである。この点、バワーズ氏の先述のコメントもまた、否応なしに、国民の目にさらされ(た形式を取)る必要がある。この「意見周知」という機能こそは、『FOX BREAK』が放送された意義であると推認できる。

ただし、このような構想を語るにしても、井手氏の在籍する日本通運は、国際的な流通業における主要なステークホルダーであり、旅客業が潤うことから利益を得られるために、井手氏は、本来、業界人枠に含めるべき人選ではある。業界人が国益に立って発言することは可能であるし、その姿勢を堅持することは、公を語る上での必要条件であるが、非・利害関係者の積極的な承認を得なければ、業界人の側から、論議を尽くしたと一方的に主張することはできない。わが国では、業界丸抱えでない、ユーザ・消費者の利益を代表する公益団体を設立・維持する(ために、カネは出すが、口は出さないという姿勢を堅持する)という活動は、全体として見れば、CSRの一分野として定着しないまま、ここまで来てしまった。わが国における人工芝運動は、原発ムラの実例に見るように、拙劣な程度に留まり続けてきた。なお、ここで、わが国独自の人工芝運動とは、原発ムラの実例を除けば、仮構的な存在に過ぎない。実在する市民運動については、(刑事司法関係者の側から見れば、)党派色が拭えないとはいえ、リソースが制限されている中で、理想的と考えられるであろう結果との乖離はともかく、制限されたなりの社会的機能を果たしてきたように思う。


IR施設そのものを離れれば、わが国の観光上の問題は、わが国の(公共)空間体験が観光客にとって美的に満足できるものであるか否かという点に集約される。カジノの太客となるような、アートを解するハイソな観光客が満足できるだけの空間体験を、現在のわが国で実現するためには、私有地内に囲い込むという方策しか残されていない。都市部では、借景という概念は、言うまでもなく破綻している。京都の惨状を目の当たりにした上で、不動産価格と建設価格を考慮すれば、わが国の都市景観が何ともし難い状態に陥ったことは、誰の目にも明らかである。僅かに、足立美術館ほどに、ド田舎にあり、かつ、周辺ともウィン・ウィンの関係を構築しているトップランナー的な観光資源だけが、この概念を維持している。借景とは言えないようには思うが、MOA美術館も同様に、立地を生かしていたような覚えがある(。上に挙げた例は、私が直接体験したものに限定している)。ともあれ、借景までを考慮した場合、わが国では、バーデン・バーデンやバーデン・バイ・ウィーンのような、山間部のリゾート地が有利ではあろう。ただ、山間部の温泉地は、どこも露天風呂を用意する際に苦心しているようである。これらの現状を踏まえれば、わが国において、上流階級の太客をもてなすための条件を整える上で、土地利用の現況は、根本的な障害となっている。

お台場という都市空間を、浅田次郎氏の『カッシーノ!』[1]に紹介されるヨーロッパの諸都市と比べると、その残念さ加減が明らかとなる。(厳密には、お台場を通りはしないが、)東京モノレールや、(お台場を周遊する)ゆりかもめからの風景は、都内の沿線風景としては、比較的楽しめる。しかし、都市空間体験の全体は、カジノを抱えるヨーロッパ諸国における空間体験に比較して、数段落ちるであろう。あらゆる都市は、人類の営為の集積であるが、ラスベガスは、その中でも、環境を大規模に改変して建設された「人工都市」である。お台場も、何もないところから作り出されているが、ラスベガスと比べると、「夢の島」とは呼べない程に、都市空間としてスカスカである。表現は悪いが、お台場には、都市の魅力を作り出すという努力が不足している。専門的な表現になるが、わが国で、スーパーブロック(長大な街区)の非人間性を体験したければ、お台場を徒歩で一周すれば良い。たとえ、青島幸男氏が都市博を中止しなかったとしても、空疎さを埋め切れなかったであろうところが、わが国の「都市計画」の所掌する分野の(、ただし「都市計画」と称される専門分野に限定されるべきではない、)構造的な課題を示している。IR施設の候補地とされている横浜市や大阪市の沿岸部の方が、観光資源としては、多少マシである。横浜や大阪の方が、夜景を楽しめる余地がある。横浜の夜景については、説明が不要であろう。大阪については、現今の「工場萌え」を考慮すれば、関空からのリムジンバスルートは、他国のIR施設に比較しても、工業立国であるわが国らしい、楽しめる風景を提供できるものと思われる。お台場は、首都高湾岸線を自走した経験がなく、記憶に乏しいので断言しかねるが、少なくとも、大量輸送が可能な公共交通機関については、風景の醜さを一考する余地があるとは言えよう。首都高を二階建てのオープンバスで走行するというツアーは、例外的であるが、インフラ維持という観点から、50年後も同様の体験を安全に実施できるかと問われれば、甚だ怪しいものがある。50年後の将来、同一ルートのツアーは、別の意味でスリルのあるものとなろう。レンタカーへの自動運転機能・運転補助機能の実装は、外国からの観光客のモビリティを大幅に向上させるであろうが、普及までにもう5年は必要であろうし、何より、わが国の都市空間は、景色の良さを楽しませるだけのコンテンツに不足している。

浅田氏は、

唯一ヨーロッパの鉄道がJRよりすぐれている点は、車窓の風景である。〔p.254〕
[1]と述べているが、わが国では、都市空間がスプロール(無秩序に延伸)しているために、交通体験としての鉄道路線沿線部の風景は、延々と醜悪な光景が続くだけである。新幹線の路線の大部分も、新幹線自体が騒音によって邪魔者扱いされている(NIMBY; Not In My BackYard)ために、その潜在力を発揮し切れていないと断定できよう※3。この結果は、JRが国営企業であったという経歴と、その時期に構想された新幹線計画なるものをふまえれば、当然のものかも知れない。ただ、沿線一体型の開発がなされてきたことを考慮すれば、わが国の私鉄沿線の風景も、心象風景としてはともかく、具体的な見た目については、お世辞にも心地よいものとまでは言えない※4。別方面のオチとして、ひと頃、二反長音蔵氏の尽力の甲斐あって、大阪北摂地方の鉄道沿線には、一面のケシ畑が広がっていた...という感じの記述が、倉橋正直氏の『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』[2]辺りに含まれていたのではないかとも思うが、記憶違いの可能性が高いので、出典はいずれ確認するとしても、鉄道路線の風景に対して、わが国が色々な観点から無頓着であるのは、伝統芸である。

鉄道写真家の中井精也氏は、NHKの番組などで様々な鉄道路線を紹介しており、そこで紹介される写真は、流石、プロの技と思わされることしきりではある。しかし、ここでの問題は、「玄人はだしである鉄ちゃんたちが、プロの技に習い、上手な写真を撮ることができる環境であるか否か」ではない。「シロウトである外国人観光客が乗るだけで楽しめて、しかも、また来たいと思える鉄道路線であるか」である。これらは、似たような話題を扱ってはいても、ターゲット層も、カネの回り方も、異なる話である。


もっとも、既存の観光資源に対して、都市改造のような、大掛かりで巨額の経費を必要とする改善が必要という訳ではない。たとえば、アレックス・カー(Alex Kerr)氏の『ニッポン景観論』[3]は、アルファベットしか読めない観光客にとって、火気厳禁の看板が誤解を招くものであることを指摘している。この分野に興味のある人物であれば、同書は必読書である。ともあれ、小さな気遣いと改善を、相当程度・多くの事象について進める必要があるのが、わが国の都市空間の現状である。小さな改善と、大きな構想との両方が、必要とされている。


利己主義に起因する猥雑さこそが、現代日本の都市空間を規定しているという指摘は、多数の論者によってなされているが、真理の一面を衝いてはいる。1%だけが好き放題しているだけではなく、99%も、それぞれの器の大きさに応じて好き放題した結果、混沌とした都市空間が生じている。とは言っても、大規模建築物において利己主義が貫徹されていることの方が、風景としての大都市を毀損する上で、寄与が大きいことも確かである。わが国の密集市街地の大半は、リオ・デ・ジャネイロのファベーラ(いわばスラム地区)のように、パルクール※5やマウンテンバイクに適した傾斜地ではないから、観光資源としてゴミゴミした眺望を売りにする上では、東京スカイツリー・六本木ヒルズ・あべのハルカスのような、過剰な高さが利用されることになる※6。また、これらの高さという資源は、ニューヨークなどと同様、徹底して民営化されつつある。この傾向は、通天閣・東京タワーの時代から変化せず、京都タワーが物議を醸し、京都駅が止めを刺した。これらの事件に比較して、いち庶民の建築物は、思想上、ほとんど影響しなかったと考えて良いから、やはり、大規模建築物がわが国の建築の風潮を決定したと考えて良かろう。なお、時機を見て、どこかで、アイン・ランドや天守閣の話を確認した後に、追記する予定である。本段落のここからの記述は、仮説である:天守閣は、天空に神のいないわが国において、櫓・権力の二つの機能を兼務するものに過ぎないが、高層ビルが、ゴシック建築に代表される天空=神の座所への反逆であった点については、『反・東京オリンピック宣言』において、説明されていたか否か、疑わしい。必ず、建築(評論)家の誰かが、真理としての神への反逆に対しては、言及しているはずであるが、アイン・ランドの著書がこの点において反抗的=悪魔的であるという点については、言及が抜けている可能性が認められる。

他方、巨大建造物によるスカイラインは、マンハッタン島を想起すれば直ちに了解されることであるが、本来ならば、観光資源となり得る。しかし、一時期までの丸の内や銀座、横浜のベイエリアや新宿副都心の一部を除けば、このことは、さほど考慮されていないし、丸の内や銀座については、秩序が破壊される傾向にある。銀座の歌舞伎座が高層化されたという経緯は、ほかの事業者とは異なり、文化事業に携わる者の根幹を問うものであったという点で、一層、興味深いことである。ともかく、わが国では、スカイラインが都市全体でいかなるものに見えるのかが自発的に考慮され、秩序が自生的に形成されるような機能が、社会にも制度にも埋め込まれていないし、増床に伴う賃料の増加という「目に見える金目」の前には、将来価値を生むかも知れないという、美的感覚に基づく期待感など、まったく顧慮されないのである。山本豊津氏が現代美術について指摘する「価格=交換価値」と「(使用)価値」との違い[4]は、風景という対象についても、適用可能な概念であると思われる。この点は、ニューヨーク市のスカイラインを想起すれば、納得できよう。日米両国は、同じゾーニング制を都市計画の基本とする(運用実態は大きく異なるが)とはいえ、マンハッタン島という土地条件に強く規定されている分、ビッグ・アップルの方が、風景の印象を強めることに成功しているのである(。この指摘も、対岸となる地区、ニューポートやブルックリンの再開発が進めば、成立しなくなりそうではあるが、ブルックリンの再開発は、人種問題もあろうから、なかなか制限もしにくいであろう)。

東京スカイツリーの巨大さは、東京の建築物の中でも群を抜いており、異様と呼べるほどである。羽田空港から離陸する旅客機の窓から覗くと、スカイツリーは、大手町・丸の内・有楽町周辺や、新宿副都心といった既存の中心市街地と比べても、ひときわ大きなものである。そのスケール感は、ほかの建築物から遊離した巨大さで、見る者を圧迫する。一個の人間が認識できる範囲を巨大な事物が超越する状態は、ビッグネス(bigness)と呼ばれているが、スカイツリーのビッグネスは、ほかの大規模建築物と比べても、際立つものがある。

スカイツリーの高さそのものは、テレビ塔として関東平野一円を望むという点で、建設事業者にとって、改変できない所与の要件であった。しかし、これだけ通信手段が多様化した現在、テレビ番組を放送する上で、地上波にこだわる必然性はないはずである。テレビ事業者としては、ワンセグも含め、緊急時の速報性にこだわったために、地上波が温存されたと言われるが、速報性が必要な事象に対しては、ラジオで十分ということはなかったのか。音声だけ、別帯域で放送する仕組みはあり得なかったのか。ともあれ、地上波が必要という揺るぎなき前提が立てられ、その上で、スカイツリーの建設地が選定された。さいたま副都心はおざなりにされたが、同地にタワーが建設されたとして、人が今ほど集まったかどうかは、保証の限りではない。ともかく、スカイツリーは、押上・業平橋駅周辺の防災拠点として、また、東京都の新たな観光拠点として機能しているが、風景の中では、墨田河畔のウンコモニュメント(、制作者本人が同意したという都市伝説を聞いたことがあるので、こう明記しても構わないであろう)と同様、突出した違和感を与えうる存在である。良くも悪くも、放送事業者の地上波のゴリ押しによって生まれた鬼子が、スカイツリーという訳である。

東京スカイツリーの巨大さが観光資源としての東京の風景を毀損している可能性を指摘し、また、600mを超える高さの必然性が放送事業者の都合によることを指摘できたので、ようやく、本稿のオチに入ることができる。ひょっとすると、ケーブルテレビ(だけ)でIR施設が推進される裏には、「IR施設は、わが国に上客を呼び込むための観光資源の一つとして機能しますよ」と呼びかけると同時に、「ケーブルテレビは、都市景観にも優しく、外国人観光客にも多様な番組を提供することができるという点で、地上波よりも優れていますよ」とも囁きかけるという目的が潜められているのではなかろうか。ケーブルテレビ愛好者こそは、多様性を享受せんとする存在であるがゆえに、地上波という暴力的専制に対抗する存在となり得る。スカイツリーという「一つの(電波)塔」に使嗾される「地上波ゾンビ」に対するは、「ネットワーク」を愛する「プレッパー」たちである(が、その中には、『ウォーキング・デッド』シリーズに登場する『救世主』たちのような、ナチスを彷彿とさせるような、全体主義的な連中も含まれよう)。もっとも、本件は、『指輪物語』に倣い、「オーク」どもに対峙する「旅の仲間」ということになるやも知れない。読者には、これらの比喩が唐突すぎて、到底、この構図を受け入れてはもらえないかもしれないが、筆者としては、オチが付いたつもりになったので、これでおしまい。


※1 「協力 JTRA」とあったが、これは、おそらく、特定非営利活動法人 ツーリズム研究機構[5]であろう。ただし、直接確認することは、本ブログの広告活動になりかねない(し、あるいは、右翼の街宣活動と同種の効果を持つ活動と誤解されかねない)から、行わない。

※2 他の論点として、巷の話題に上がりにくい例として、犯罪に関わる分野として、性風俗営業の一形態としての同伴営業を挙げることができる。同伴ビジネスというものは、大々的にお目こぼしはされているが、性規律に厳格な立場からすれば、むしろ、積極的に問題視しても良い種類の営業形態である。しかも、観光に付随する話となれば、通訳業や介護業との兼合いはどうするのかとか、色々と攻め所を考えつくことは、可能である。

※3 北海道新幹線と、九州新幹線の一部を除けば、全路線を乗車した経験に基づき、指摘しておく。「見るべきポイントをあらかじめ知った上でなければ楽しめない景色」というものは、旅行客にとって、ハードルが高すぎる。『インスタグラム』などを通じて、例えば、高尾山の猿などのように、海外からの観光客を呼び込む資源は、次第に知られつつあるようではある。しかし、これらの「発見された観光資源」は、どちらかと言えば、自然発生的な個人の活動に起因するものであって、キュレーション活動が意図的かつ組織的に展開された結果ではない。正確に言えば、文化に携わる人々に社会がカネを投じた結果ではない。その結果、観光資源は点在するに過ぎず、自然と生じるはずの複合的な観光体験というものは、個別の観光事業者のキュレーション抜きに、存在し得ていないのである。(「何をせずとも、ゆっくり観光するだけで何かしらの発見があり、旅行者を満足させることができる」という状態が、理想的であろう。)

先進諸国は、自国の観光資源を「面」となるように、文化的な制度を展開するという市民的な運動を、半世紀以上も先行して実施している。日本国民のあらゆる層に対して、このような大局的な観光戦略に(意図せずに)寄与するような意識は、意図的に養成されてはいない。逆に、「何でも金目」というメッセージは、あらゆる場面において、語りかけられている。たとえば、「クール・ジャパン」の現場を支える人々の収入は、まったくクールではないが、これを天下り先と定めたお役人だけが私腹を肥やしている。多くの外国人観光客に対して、わが国が「一度来れば十分」という観光資源しか用意できていないとすれば、それは、ここに示した理由が主原因である。この根の深い原因を改善しないことには、放送事業だけでなく、観光事業についても、わが国は、結果として見れば、焼き畑農業的にしか将来を構想できていないことになる。

※4 小林一三氏が編み出し、阪急に適用した私鉄の開発方式、つまり、都心と終点の双方に集客施設を用意するという方式は、それ自体、偉大ではあった。しかしながら、わが国の都市・建築規制に係る野放図さは、芦屋などの一部住宅街を除けば、人間の生活行動が観光資源となるという状態を生成・維持することに失敗したと断定できよう。

※5 都市内をアクロバティックに駆け抜けるスポーツ。このスポーツを疑似体験可能な『Dying Light』には何度か触れた(日)。

※6 東急東横線は、代官山駅より横浜手前までの区間で、北(西)側(渋谷方面行きの場合、進行方向に向かって左手)を向いていれば、昭和前期までに海岸段丘に形成された高級住宅地をいくつか望むことができるが、マンションに隠されがちであるし、経緯を知っていなければ、面白く見ることすら難しい種類の景色ではある。


[1] 浅田次郎〔著〕・久保吉輝〔写真〕,(2003.6).『カッシーノ!』, 東京: ダイヤモンド社.
http://id.ndl.go.jp/bib/000004170745
#同書の目次は次のとおりである。

訪問地章章題ページ
  プロローグ
1
Monaco1モナコの伯爵夫人
7
Monaco2ギャンブラーの聖地19
Monaco3誇り高きクルーピエ31
Monaco4偉大なる小国家43
Nice5リヴィエラの女王55
Nice6花火とトップレス67
Cannes7アンティーブの古城にて77
Cannes8カンヌのナポレオン89
San Remo9サンレモの夜は更けて101
Baden Bei Wien10バーデンよいとこ113
Baden Bei Wien11ユーロ万歳!125
Baden Bei Wien12カジノは国家なり135
Seefeld13登山電車に揺られて147
Seefeld14タイム・イズ・ライフ157
Seefeld15アルプスのサムライ169
London16伝統と格式の鉄火場181
London17終身名誉会員193
London181億円しばりの密室205
Normandie19ノルマンディの妖精217
Normandie20博奕なるものあらずや229
Normandie21消費は美徳。倹約は罪。241
Wiesbaden22皇帝のシュピール・バンク253
Wiesbaden23ゲルマンの叡智265
Wiesbaden24名作『賭博者』の背景277
Baden-Baden25考えるドイツ人289
Baden-Baden26アメリカン・スタイルの正体301
Baden-Baden27遊べよ、日本人!313

[2] 倉橋正直, (2002.8). 『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』, 東京: 共栄書房.
http://id.ndl.go.jp/bib/000003670348

[3] アレックス・カー, (2014.9). 『ニッポン景観論』(集英社新書 036V), 東京: 集英社.
http://id.ndl.go.jp/bib/025738252

[4] 山本豊津, (2015.10). 『アートは資本主義の行方を予言する 画商が語る戦後七〇年の美術潮流』(PHP新書 1009), 東京: PHP研究所.
http://id.ndl.go.jp/bib/026719224

[5] NPO法人ツーリズム研究機構(JTRA)
(2017年10月25日確認)
http://jtra.saloon.jp/




2017年10月27日19時35分、10月30日20時05分、追記・訂正

文意の通らない箇所を訂正し、若干の記述を加えた。

2017年4月1日土曜日

寺銭の割合が小さいギャンブルが万人にとって良いギャンブルという訳ではない

本稿では、「寺銭」を「ギャンブル運営者の徴収する手数料(金額そのもの)、単位は貨幣単位(円やドルなど)」と定義して記述する。「寺銭」の語は、「賭金中に占める手数料の割合、単位は無次元(パーセント等)」として使用されることもあるが、本稿では、これを「寺銭の割合」と表現する。私の定義した用法は、通常の用法と異なることになるが、社会防衛的見地からギャンブル運営を検討する場合、両者を区別することは、きわめて重要である。このため、通常の語感と異なるものになるとはいえ、冒頭の定義に拠って本稿を検証されるよう、お願いしたい。あと、本稿が取り扱う話題がパラメータ依存であるにもかかわらず、まったく定式化していないのは、例によって、手抜きである。(ただ、本稿の指摘は、文章だけでも成立しているとは思う。)




金融取引市場は、マネロン装置として見た場合の有用性、社会防衛的見地からすれば脆弱性が、極めて大きなままに稼働する社会的装置であり、その性能は、FX市場の実現に見られるように、現在まで、ますます加速する方向にある。とはいえ、市場が所在する各国において、金融取引を監視する公的な組織が稼働しているから、建前上、露骨な不公正取引は発覚し処罰されるものと期待されている。怪しげな取引を連絡・密告する制度も存在はする。犯罪組織に加盟する人物を排除する法律も、あるにはある。ただ、どのような制度を整えたとしても、参加者の情報格差をゼロにすることは不可能であるし、その情報格差をテコにしたインサイダー等の不公正取引の危険性を、全人類が公平と思えるまでに低減することは不可能である。現実に、9.11前のユナイテッド航空株の大量の売り注文など、明らかに不審な証券取引についての真相追及がなされていなかったり、タイのバーツ危機のような国家を脅かすほどの危険な取引が仕掛けた側にとって大成功したという実績がある以上、各種の公正さを担保する制度は、巨悪に対して、機能不全であり続けてきた。(田中角栄氏は、巨悪と呼ぶには、善玉過ぎる存在である。)証券市場や銀行や通貨発行の仕組みが現行の不具合を放置されつつも稼働し続けてしまっているのは、これらの仕組みが現に稼働中であり、その状態から全人類が足抜けすることが適わないからであると考えることができる。が、金融取引の構造上の問題は、今回のギャンブルにまつわる話の前振りであって、本稿では、これ以上取扱うことはしない。

ギャンブル運営をマネロン装置として見た場合、その優秀さは、一回の賭けを通じて特定の参加者に支払可能な金額の大きさ(あるいは徴収可能な金額の大きさ)と、どれだけ多数の賭金のやり取りが短時間のうちに行われるか、の二点の要素に規定される。この主張は、マネロン装置としての証券市場の優秀さを参照すれば、ごく自然に導かれるものである。一回の勝金の大きさは、一回ごとにロンダリングされるカネの出口側の大きさに等しい。また、多数の取引がバラバラのタイミングで実行されることは、ロンダリングに係る取引を発覚しにくくするという効果を生じさせる。(証券取引は、売り注文・買い注文がバラバラに出され、成立するタイミングが注文のタイミングと異なりうるという点においても、ゲームより遙かに後追いしにくい性質を有している。)犯罪の実行者にとっては、多少実入りが減ったとしても、後追いできないことが大事なのである。後者が重要であること、つまり、勝金の大きさより発覚のしにくさが重要であることは、犯罪企図者の合理性から説明可能である。犯罪であっても、まっとうなビジネスと同様、長期にわたり堅実に営めることが、実行者にとっては大事なのである。経済学をベースとする犯罪学では、強盗犯も、窃盗犯も、長期的には割に合わないという試算を得てきた。皮肉なことであるが、今までの(戦争屋に代表されるような)ホワイトカラー犯罪は、その教訓を内面化して繁栄してきたかのようである。

ギャンブル運営は、ゲームという閉じた行為によって公正さが定められるため、金融取引よりも公正となる条件を整備しやすい。どの公営ギャンブルについても、また、カジノにおいてどのゲームが採用されるにしても、この条件の良さは、金融取引市場よりも優れたものである。ゲームのルールは、金融市場に比べて、はるかに明確で閉じたものである。また、カジノで行われるルーレット・ポーカー・ブラックジャック等であろうと、あるいは丁半であろうと、またはeスポーツであろうと、参加者の期待値を計算することは、金融取引市場よりも、はるかに容易である。というより、社会への影響まで考慮した場合には、つまり、市場外部における参加者の社会生活まで加味した場合には、(そして、金融取引市場が外部経済に与えてきた影響の大きさを鑑みれば、金融取引市場への参入により見込まれる期待値を推定する上では、そのように計算すべきであるが、)金融取引市場における特定個人の収益の期待値を確定することは、実際のところ不可能である。むろん、ディーラーや壺振りの技芸は、各ゲームにおいて、プレイヤーの期待を裏切るだけの威力を発揮するであろうが、現行の金融取引における情報格差の不公正さに比較すれば、まったく公平と呼べる範囲のものである。カジノのエンターテインメントにマジックが多く見られることは、偶然ではなかろう。カジノの顧客は、見事な技に幻惑されるという体験を求めて、カジノを訪れているのかも知れないのである。何にせよ、ギャンブラーは、金融取引市場に比べて、予見可能性が高い市場へと参加していることになる。

他方で、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、不公正であるとの批判に晒されてきた。谷岡一郎氏は、「ギャンブルに詳しい」学識経験者とされるが、その意見は、主流であるかのように見做されてきた。「名乗りは姐さん、中身はオッサン」の『きっこのブログ』(2016年12月3日)[1]は、ウェブ上で寺銭について見かける意見の典型例である。「きっこ」氏は、「宝くじから競馬まで」の公営ギャンブルの寺銭の割合が高いと指摘した上で、既得権益者である公営ギャンブル関係者が寺銭の割合の低いカジノに反対しているのではないか、と批判する。プレイヤーにとって、寺銭の割合が高いことは、自身の期待値が下がることに直結する。また、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、公知の事実である。プレイヤーが公営ギャンブルの寺銭の割合の高さを不愉快に思うのは、当然であろう。

しかしながら、ここで、公営ギャンブルの寺銭の割合の高さに対して参加者が感じる不満は、参加者の知識が向上したゆえに生じたものではないか、という疑問も湧く。知られていないことが批判の対象にならないのは、当然である。ある公営ギャンブルに対しては、勝ったとされるプレイヤーが実在しない、という批判が実在する。これが本当なら、胴元は丸儲けである。胴元とサクラが組んで、残りのプレイヤーをカモにしていたらどうか。この批判も、ある公営ギャンブルについて、実在するものである。ここに示した二つの批判は、裏が取れているものとまでは判断できないが、疑惑を指摘する声が実在することをふまえ、再構成したものである。いずれも、本当であるならば、参加者にとっては、到底許せないチートと映る行為である。こうしてみると、プレイヤーの不公平感は、不正に対する知識がないために、現状の程度に留められているとも言えよう。逆に、運営者にとって、広く知られていない不正の方法は、さらなる儲けの機会でもある。なお、発覚した事例をふまえれば、本段落における指摘は、公営ギャンブルよりも、株式証券市場の現実に対して、より良く当てはまるものである。勝者がいない=企業オーナーによる見せ玉、とか、かなりの用語の読替えが必要になるが、発覚した実例の数だけを挙げれば、株式証券市場における不正は、公営ギャンブルにおける不正よりもはるかに多い。

公営ギャンブルの寺銭の割合の高さは、ほかの情報とともに提供されることにより、不公平感が軽減される材料にもなり得る。宝くじが良い例である。その収益が慈善事業に役立てられているとの主張と、実際に「宝くじ号」の車両等を多く見かけるという状態は、そのバランスが取れている限り、「慈善事業にも役立っているから」という形で、購入を正当化する理由にもなり得る。また、谷岡氏のように裕福な一族の出であると体感しにくい事情であるかもしれないが、日々の生活から3000円なら捻出できるが、1億円を貯蓄することはできないと諦めている貧乏人からすれば、宝くじの購入は、その期待値が半額以下になると分かっていても、生活を一発逆転させる上での合理的な行動となる。現実の生活者にとっては、手持ちのリソースと、そのリソースによって達成される見込みとが重要なのである。実際のところ、宝くじ購入者の大多数は、せいぜいが10万円程度を当てた経験を有する程度であろう。すると、宝くじの設計者としては、購入者の身の回りで、その程度の当選金を得たという話を聞ける程度に当選確率を設定することが、体験的な情報だけによって宝くじの販売高を最大化する際の要点ということになる。最高賞金に比べてきわめて少額であっても、満足できそうな金額を当てたという人物に接することが、参加への意欲を喚起する可能性が認められるのである。なお、きわめて多額の宝くじを購入する人物は、きわめて少数であろうし、そういった人物のネットワークには偏りがあろうから、通常人が実際に最高賞金を獲得した人物を目の当たりにすることは、ほとんどないものと推測される。つまり、実社会のネットワークを前提とすると、最高賞金当選者は、なかなか人には知られないことになるから、大衆の購入意欲を喚起する役には立たないことになる。こうしてみると、伝聞情報が欠落しがちであるという現状は、当選金の設計において、どうせ知られないなら、最高賞金当選者を出さなくとも良いのでは?という、不正への誘惑としても働きうる。(あれ?)

ともかく、ギャンブルの設計者は、寺銭の割合だけではなく、参加者の知識や社会の状態をも合わせて利用することにより、ギャンブルへの参加を誘導し、ファンを定着させ、あるいは不公平感を軽減することができる。寺銭の割合は、部外者の批判を浴びる要因ではあるが、ギャンブル運営が商売である以上、胴元は、寺銭を取らずにギャンブルを運営するわけにもいかない。ここに、ちょっとしたジレンマが生まれることになる。寺銭の割合がゼロでは商売が立ちゆかないが、さりとて、高過ぎると客が付かないのである。

ところで、寺銭の割合が小さいことは、社会防衛的な見地からすれば、良いとばかり言えることではない。売上高が大きなギャンブルは、寺銭の割合を相対的に小さなものとできる。そのギャンブルが「薄く広く」集客するタイプのものであるならば、寺銭の割合が小さなために、売上高をさらに拡大できる余地がある、ということにもなる。結局、ギャンブル依存症患者をさらに多く発生させうるという点で、寺銭の割合が小さなギャンブルは、社会に対してより有害なものであるということにもなりかねない。カジノ(IR)の収益性は、海外からの太客によって成立するものと言われている。カジノの寺銭の割合が小さなものとなるのは、太客のおかげである。経営努力のおかげであることも確かではあろうが、太客との共依存的な関係にあるといえる。このとき、太客が外国の独裁者で、国民から搾り取った血税をカジノにつぎ込んでいたとすればどうか。そのカジノから派生的な利益を得ているわれわれ庶民は、その外国の庶民に恨まれても仕方ないであろう。寺銭の割合が小さいからと言って喜べるのは、単に、批評者が一人のギャンブル愛好者であるがゆえのことに過ぎない可能性は、常に残るのである。日頃からマルクス主義系の言が多い「きっこ」氏のセンスは、団塊の世代らしく、そのお題目はファッションにしか過ぎないようで、自分目線でしか、物事を考えられないようである。

ゲームとしての楽しさ云々はさておき、極端なことを考えると、賭け麻雀における雀荘は、きわめて高い割合の寺銭を取ることにもなりかねない。雀荘の席代がいくらであっても、勝負の結果が拮抗して誰もが損得なしという結果を得たとすると、寺銭の割合は、100%ということになる。このとき、プレイヤーは不満なのであろうか。むしろ、良い勝負ができたし、負けもしなかった、ということで満足度が高いであろう。話の種にもなりそうである。このように極端な場合を考えずとも、なぜ、人間は賭けずともゲームをするのか、ということを考えれば、人類は、ギャンブルの「悪さ」について、また、寺銭の位置付けについて、一段上の理解へと到達できそうなものである。

蛇足であるが、ゲーム依存症がギャンブル依存症と同様の症状を示すのは、有限の人生の(、大抵、若い時期の)有益な時間帯という資源をゲームに投入してしまっており、引くに引けないという状態を経験しているからでもある。この点に理解が至れば、ギャンブルとゲームとを同時に考慮の対象としながら、それぞれの依存症の弊害を整理できるようになる。高額なギャンブルが「悪い」のは、ギャンブルにかける時間だけでなく、大半の人物にとっては、労働した対価をも(、つまり有限の時間をも)ギャンブルに消費してしまうからである。ギャンブル依存症は、手持ちの生活資源という観点からみれば、(ソシャゲやグローバルな競争を強いるものを除いた)ゲーム依存症に比べ、生活が立ちゆかなくなる状態に進展する時期が早いのである。なお、生活資源=健康時間という点から世界をとらえる功利主義的姿勢は、『マインクラフト』ならびにその類似ゲームのように、手持ちのリソースがプレイ時間におおむね比例し、また、ゲーム内における様々な生産行為を自動化可能であるというゲームの設計思想を承継した、新たな時代のプロシューマー主義であると言うことも可能であろう。(実際のところ、プレイヤーは、どこまで行っても時間の消費者であって、労働者の地位に留まると見ることも可能であるから、マルクス主義であると理解する意見も成立しよう。)

公営ギャンブル関連財団に多くの天下りがいるという事実は、それら公営ギャンブルの寺銭の割合が高いために批判される材料になってはいる。しかし、その状態は、もしかすると、若い世代にとって、程良い具合に、ギャンブルへの参入障壁となっているかも知れない。本当のところは、深掘りしてみないと分からないが、寺銭の割合が高いからこそ、公営ギャンブルの依存症患者の割合が低く抑えられているという理解は、論理的には成立する。それどころか、マネロンスキームの成立を企む黒幕が、札束でビンタして「きっこ」氏に提灯持ちの記事を書かせたのかも知れない、などと考えることも可能である。こうなると、真のワルは誰だ、という程度の低い競争になってくるので、本稿はこれでおしまいにしよう。


#本稿では、現代の公営ギャンブルが(元々の知己ではない)プレイヤー同士の情報交換を遮断してきたことと、その弊害を考察できていない。これは、次回以降の宿題である。


[1] 公営ギャンブル VS カジノ法案: きっこのブログ
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2016/12/vs-cce1.html

森友学園の完成済み?の校舎は今後どうなるのであろうか

以下は、単なる疑問と当てずっぽうの予想を示したものである。

森友学園疑惑に対する世間の反発は大きく、おそらく、開校を断念せざるを得ないであろうが、そうなると、完成済みのハコモノは、どのように扱われることになるのであろうか。当該物件は、伊丹空港からも近く、高速道路の直近でもある。つまり、交通の便に優れる。学校は、飲食店を他の飲食店に改修するように、「居抜き物件」という形で活用する訳には、なかなかいかない。森友学園の校舎を活用するとなれば、転用が検討されることになろう。校舎として利用する限りは、耐震性も高い良質の建築物であるということにもなろうが、企業がオフィスとして利用するには、水回りや電源回りや防犯設備(扉・壁・窓)を改修する必要がある上、用途によっては、補強まで必要となるであろう。それに、遮音性についての近年の校舎のトレンドは、廊下との一体性を感じられる教室というものである。このため、小オフィスとして、異なる事業者に小区画を提供するためには、遮音性能の優れた壁を入れる必要が生じるため、思ったよりカネがかかるかも知れない。この点を考えると、譲渡されるとすれば、一つの団体・企業体に対して一括する、という形式が適していることになるのであろう。

陰謀論者にありがちな誤りは、何でも関連付けてしまうというものである。とはいえ、一国ひいては世界に大きな影響を与えるような事件は、相互に無関係ではないと理解した方が、よほど理解しやすい構図を得られる。この仮説は、一回限りの近・現代史においては、もはや法則と呼んでも良いほどである。このため、森友学園の校舎の転用先についても、他の重大事件との絡みがあるものとして検討する作業は、何らかの知見をもたらす可能性がある。

他の事件との絡みを考慮した上であっても、学校法人に対して譲渡するという方法が、校舎を最も有効かつ安価に活用する方法であろう。次点は、高齢者介護施設あたりか。病院に転用するためには、より大規模な改修が必要となるであろう。大穴は、ギャンブル依存症患者の自立施設とか、IR施設すなわちカジノそのものとか。本稿が最後の候補を記しておきたいがために用意されたものであるということは、公然の秘密である。大穴と本命の関係も、大阪という土地においては、別に遠いものではない。