「エクストリーム自殺」における「遺書」の信憑性は、生前の意向に左右される
殺すぞと脅されながら書かれた文章に、果たして真意が込められているかどうか。甚だ難しい問題である。エクストリーム自殺した人物の懐に「自殺するのはやむを得ない」と書かれた遺書があったとしても、読者は、その「遺書」を信用するであろうか。その文書の「作成者」に直接問いかけることは、もはや適わないのである(。蛇足であるが、死者から応答の不在というテーマは、自殺そのものについての研究にも付随することは、2015年10月28日の拙稿で指摘した)。
わが国では、政治家なり有名人が疑問を感じさせるような形で「自殺」して、自殺として片付けられてしまうことは、結構な割合で存在する。「自殺」した政治家に殺される可能性が少しでも認められるにもかかわらず、自殺と断定してしまうことは、真の犯人に対して、刑事司法機関が敗北を最初から認めたようなものである。そうでなければ、完全な現場保全の後、世界の環境が変化した直後、その仇を速やかに討てるように、怠りなく準備を進めておくべきであろう。そのような話は、2017年9月現在、世人には、全く分かるように聞こえてきてはいないのであるが。
「自殺」における「遺書」の信憑性は、死者の普段の言動のブレ・揺れが少なければ、著しく高まるか低められるかの両極端な方向性を取る。平素から自殺念慮を強く訴える人々を、周りの人々は、放置してはいけない。本当に自殺してしまうからである。逆に、そのような素振りを見せない人が実は悩んでいたというケースは、良く言われることがあるが、偽情報だと思った方が良い(。「自殺の前に、本人からの訴えがない」というのは、自殺にまつわる誤解の一つである)。「自殺」者が「実は悩んでいた」という言明が周囲からなされるとき、何らかの不都合な真実が潜んでいるものと考えた方が、色々と据わりが良い。
わが国では、殺人事件に対する捜査のハードルが相対的に高い。ほかの事件に比べて、極端に多くの人的リソースを用いる。捜査が失敗したときの責任問題など、組織上の影響も大きい。犯人が見つからないという結果に対して、国民の側が極端に不安に駆られるという構造も認められる。これらの事情は、犯人を発見できる見込みが立たないエクストリーム自殺について、警察が捜査に踏み切れない障害となる。マスメディアの視聴者も、「へぇ~自殺だって」と大本営発表を鵜呑みにするのではなく、「また殺人か?何やってんだ警察は?」と思うべきである。警察も、このようなプレッシャーが厳然として存在してこそ、犯人を発見できる見込みの薄い捜査にも取り組めるようになる。社会防衛主義がファシズムに対抗するような活動を作り出しうることも、論理的には認められるのである。また、「陰謀論」を信じる庶民の心性は、健全に発揮されれば、政治犯罪に対して、謂われのない自殺を予防するという信じられないような効能を発揮しうるのである。
最終的に死のリスクを覚悟すべき人たちが突然「自殺」したとき、その死によって「利益を得る」者がいる場合、この「自殺」が殺人であったという可能性は、当然高まることになる。この「利益を得る者」が普段から死(に直結する物質で、犯行がバレにくいもの)を扱う者である場合、なおさら、自殺ではなく、殺人が疑われるべきである。人は習慣の生物でもあり、大抵の物事には慣れるようにできている。「エクストリーム自殺」がドアノブにタオルを掛けての首吊りというパターンは、このような手口に習熟した殺人集団が跋扈してきたことを窺わせる証拠である。米国において、この種の首吊りが非常に少ないことは、銃社会であることの長短が表れていると解釈もできる。足の付かない銃で殺すのが楽であるという事情もあれば、首吊りに見せかけて殺そうとする前に、警戒しているターゲットから反撃を受ける可能性も高いという訳である。
政党政治が機能してこそ「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もありや」も成立する
「政治家なり有名人なりが、自分の信念なり仕事なりを後続に託すことが期待できているとき、未練を持たずに身を捨てる」という行為は、わが国においては、比較的良く見られるものである。ここでの最大の要因は、武士道と家制度の組合せであると言えよう。このようなことを記しながら、私が己を犠牲にできるかと問われると、様々な理由から甚だ怪しいが(、それに、本ブログでは、己を犠牲にするような方法論をまったく採用していないが)、それは置いておこう。とにかく、出処進退に対する相場観は、勝俣恒久氏などの原発ムラに係る現在進行形の事例を除けば、わが国では、統一されているものと思われる。それにしても、インラック氏とタクシン氏の兄妹と言い、ドバイは、国外逃亡者に優しい都市である。バビロン?ねえバビロンなの?とか思ってしまうのである。
わが国には沢山のタブーがあるから、政治家は、結構な割合で、身の危険に晒されていよう。このとき、大抵の政党政治家は、自らが身を退きながら、その危険を訴えるということがない。この理由は、与野党の別、政党の警察との距離、脅す者、の三種の組合せによる場合分けを行えば、まあまあ論理的に説明できる。ただ、本稿で興味があるのは、国際秘密力集団による政治上の脅迫のみであるから、それ以外は省略しよう。
わが国の与党政治家に対する国際秘密力集団の脅迫は、従来であれば、アメリカ合衆国に権力の源泉を有していた旧・ジャパン・ハンドラーズによるものが典型的であった。というより、基本的には、わが国の政治家全般に対する脅迫において、旧・ハンドラーズが関与しなかったものは、なかったものと考えて良い。この事実を踏まえれば、皮肉とも言えようが、旧・ハンドラーズによる一連の攻撃を除けば、公安事件について、わが国の警察が優秀であり続けてきたという実績を認めることができよう。1960年10月12日の日本社会党委員長の浅沼稲次郎氏の刺殺事件も、国際秘密力集団の指示に基づき、各種右翼団体に資金提供がなされた結果、生じたものと解釈できる。実に、活動的なアホほど、カネで釣られるものである。わが国の職業右翼の大多数は、カネを基本原理として動き、言論には言論で対抗するなどの基本的な社会のルールを知らない。
わが国の政治家にとって、旧・ハンドラーズによる自身への脅迫は、結局、しぶしぶ受け入れるか、文字通り「身命を賭す」事態に至るまで撥ね除けるかしか、対処の方法がなかった。というのも、旧・ハンドラーズの飼主が強欲であるがゆえに、交渉(ディール)・妥協の余地は、大抵存在しなかったからである。与党政治家(ほとんど自民党)の場合には、自分が身を退いても、派閥の力関係のために、席を他派閥に譲らなければならなかったであろうから、派閥内からの突き上げを食らうことにもなる。警察もいざというときには動けない(ように、治外法権が使われたと指摘されている。「横田からアラスカ行、パンツ一丁」というやつである)。野党政治家の場合には、端から警察を当てにできないし、警察を頼ったこと自体、公安警察に対して弱味を見せたことになる(と解釈されていよう)。何より、大抵の政治家は、わが国の法律に抵触せずには生きていけないから、いずれは、東京地検特捜部が待ち受けている。公職選挙に係る連座制は、政治家本人への危険を著しく高めてもいる。裁判の公正さに期待しても、裁判官の中にも出世などに目が眩む人物が必ずいようから、彼ら「イヌ」が使われて、ベルトコンベアで一丁上がりである。命令を受け入れることができない(勇敢な)政治家たちは、疑獄で失脚するか、突然死するか、エクストリーム自殺するか、あからさまな場合には暗殺されるという結果となっているのである。もっとも、国際秘密力集団の本拠である米国においても、政府紙幣の発行を企画した大統領は、実現の前に暗殺されている。事情は、どの国でも同様であるのかも知れない。
「陰謀論」を信じない民主主義体制において、大抵の政治家は、「背負うもの」が大きく、かつ、選挙民の「身命を賭した」忠誠を当てにできないために、国際秘密力集団の「命令」を聞かざるを得ない。政治は、家族総掛かりの商売であり、世襲の商売でもあるから、ハンドラーズの要求を断るには、家族(の最年少者まで)が(いずれは)経緯を了承でき(るものと見込め)なければならないであろう。要求を撥ねつければ、一家は、揃って路頭に迷うことになりかねない。選挙民の一部は、事情を知れば、国際秘密力集団の要求を拒否した政治家に投票し続けるであろうが、四六時中、彼らがボランティアで護衛するという訳にはいかないであろう。それに、「活動的な」連中にこそ、二心持つ者が混じりがちであるのは、職業右翼の大多数によって、良く証明されていることである。
また、家族意識により、きわめて強く結ばれた支持母体がなければ、政治家は、国際秘密力集団からの脅迫を、何とかやり過ごすのが安牌ということになる。国際秘密力集団から脅迫を受けるとき、政治家は、彼らが暴力を必要に応じて段階的に振るうことを知ることになる。ターゲットとなった政治家は、いずれは家族も被害を受けるのでは、と心配せずにはいられないであろう。家族を手にかけると脅すことは、将来において、お互い様となるがゆえに、わが国の戦国時代においてさえも、最後の手段であった。社会の「記憶」と「手」が長ければ、国際秘密力集団は、脅迫相手の子孫を手にかける前に、犯人たちの子孫に対する追及を正当化することになるものと覚悟しなければならない。ただ、これには、例外がない訳ではない。太平洋を横断したチャールズ・リンドバーグの息子の誘拐殺人事件は、彼に対する脅迫の一環であったと一部に指摘されてはいる(が、私には、十分に肯定するだけの材料がない)。わが国における類似の話は、田中角栄氏と眞紀子氏の親子関係に見出すことができる。田中角栄氏は、娘の田中眞紀子氏にまで至るほどの地元の熱烈な支持を得ていたが、国際秘密力集団に対抗した結果、立花隆氏からの「筆誅」を始めとする、手厳しい制裁を受けることになった。また、田中眞紀子氏への小泉純一郎氏のアプローチと裏切りを見れば、国際秘密力集団の振付方法は、少なくとも、当人が政治家として活動する場合には、子孫の代までも「祟る」ように作られるものである。
本来ならば、政党とは、志を同じくする人々が結成する組織である。一人が倒れても、仲間に意志を継いでもらえるという期待があってこそ、政党は、十分に機能し、内部の結束は高まるものである。ただし、現代社会は十分複雑であるから、大義を一つとしていても、個々の議題に対して複数の方略を採りうることがある。このとき、「セット思考」(2016年7月26日)の弊害に陥ることを避けるため、政党内部では、個々の議題について意思統一を図るための擦合せ作業が行われるべきであり、明確な党議拘束がなくとも、決められたことには党員が従うことは、当然でもある。わが国では、個々の議題について意思統一を図るための擦合せ作業は、野党や小政党でしか機能していない。政党政治の本来の機能は、公明党を除けば、わが国では、与党サイドにおいては、全く混沌の内にある。与党の成員は、権力の維持を目的とするために、元々、変節しやすい性質を有する。それに加えて、国際秘密力集団の関与があるために、公約違反や造反が度々生じるのである。
昨秋までのドナルド・J・トランプ氏の選挙戦は、結束の固いファミリー意識を有する有権者層と、「陰謀論」とのレッテルに対する健全な懐疑精神という、二つの要件を満たすものでもあった。この双方の条件が揃って初めて、国際秘密力集団(=1%)に対する異議申立てが可能となったのである。もっとも、陰謀論そのものを信じる心性は、健全な民主主義には不要である。必要なのは、国民の健全な懐疑心であり、候補者・政治家周辺の強力な警護体制である。これらの条件は、犯罪組織の付け入る隙を与えないという形で、民主主義が健全に機能する上で、必須の(、ただし消極的な)条件である。
次回予定(#本ブログの例に漏れず、予定は未定)
「分かりやすい嘘」については、本ブログで何度か述べてきたが、「死の危険」まで取り上げることにより、ようやく、わが国特有の「左側」からの「皇室批判」という「陰謀論」の存在に対して、批判する準備ができたように思う。その事例として、鬼塚英昭氏が挙げられる(拙稿2015年10月25日、2016年10月31日)。この「皇室批判」を論駁するためには、ここまでに見たように、政治家を例に取り、「役職に代わりがいること」の価値を述べた上で、次いで、「生き残るために必要なこと」を考察するという段取りが必要であった。この段取りは、「エア御用」的でもあるが、この種の「忖度」が「国体の守り方」のデフォルト状態であるのは、戦前の天皇機関説と天皇主権説を巡る議論や、現今の皇室制度に対する議論の外形を思えば、同形であるから、何ら恥に思うこともなかろう。
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