2016年1月16日土曜日

分かりやすい嘘(と陰謀論)

陰謀論業界では、「分かりやすい嘘」が全面的に主張されることがある。太陽系が変な形をしているとか、爬虫人類が世界を支配しているとか、である。後者は、テレビドラマ『V』を彷彿とさせる。中坊のころには、恐ろしいドラマだと思っていたけど、今になって思えば、あの頃は色々と知らなかったものである。爬虫人は、デイヴィッド・アイク氏(David Icke, 1952-)により「陰謀論」界隈で有名になったとされるものの、その源流は、『英雄コナン・シリーズ』(早川書房)の作者であるロバート・E・ハワード氏の『影の王国』(『ウィアードテールズ 第2巻』所収)や『V』にこそ、求めることができると言えよう。あまり、陰謀論者のうち有名人にのみ拘泥して「分かりやすい嘘」を論うことは、以下の理由によって、学術的には避けられるべきであろう。

私は、「陰謀論」という語をラベリングの一種であると理解すべきであると考えている。そこで、陰謀論を、以後、括弧抜きで表現し、「マスメディアが流通させている見方とは異なる見方に基づいて、取捨選択された情報の集合または組合せである」、と定義しよう。この定義は、広範な言説を対象に取りうるという短所を有するが、大本営発表こそが正しい情報であるとの圧力が高まっている現今、同時代的な有用性を持つものになると自負している。

分かりやすい嘘は、陰謀論を真面目に論じている人たちにとっては、いくつかの意味を持つ。インターネットが開放される以前、陰謀論を二次情報として発信してきた者たちは、基本、ジャーナリズムや(新興)宗教を生計の手段としている者であったと考えて良い。過去も現在も、陰謀論を取扱うジャーナリストは、情報源を秘匿しなければならない状況に何度も直面したであろうし、直面するであろう。宗教者であれば、信者による秘密の告白を守ることが教義に対する信頼に直結することも多いであろう。ジャーナリストは、報道が仕事である以上、情報源を秘匿して情報を公開することが習慣となっている。この職業上の原則には、疑問の余地がないであろう。他方、宗教者が信者から寄せられた秘密をあえて暴露する理由は、いくつか考えられるが、最もあり得る場合は、信者が匿名を希望しており、かつ、信者が宗教者にその公開を望んでいる場合であろう。宗教上の重要な考え方から公開に踏み切るという場合もあるであろう。このとき、情報源である信者の身元が暴露されかねない場合には、何らかの方法を探らねばならない。世界的な規模の宗教であれば、情報源の秘匿は、比較的容易であろう。いずれにしても、これらの職業人にとって、情報源の重要な秘密を守ることは、何よりも重要な職業倫理の一つである。

突飛な「嘘」を取り混ぜて陰謀論を報じる職業人たちに対して、なぜ一次情報を有する情報源が情報を寄せるのだろうかと考え出すと、物事の核心にさらに一歩近づくことができるであろう。その理由を、情報源=話者が自分の話をこれらの職業人に対して伝達するに足ることであると信じているから、と措定しても、さほど間違いはないであろう。話者本人から見ても話の中身がぶっ飛んでいても、あるいは、その話を口外することが身の危険を招くとしても、伝える意義があるからこそ、その話は伝えられるのである。もちろん、精神上の疾患を抱えた人物が、他人にとっては荒唐無稽な話に対して固執するという事態もあり得よう。しかし、そのようなケースがたとえ存在し、むしろ過半の事例であるとしても、ここでの主題は、ある程度の合理性を備えた個人に着目したものであるから、そのようなケースは捨象しても良いであろう。それに、このような人物「だけで」陰謀論者が占められているという主張は、私が証明すべきことではなく、反論したい者が裏付けるべきものである。私の主張は、ゴミばかりと思える、陰謀論とされる情報の中にも、明哲な論理と十分に信憑性のある証拠に裏打ちされた主張も含まれる、というものである。

陰謀論者とされた話者の主張は、異なる命題がある組合せとして提供される形式を取るものとして見ることができる。たとえば、「人類は月に到達したが、それは月の裏側に住む宇宙生物の助けを借りたためである。」とか、「人類は月に到達していないが、それは人類に紛れて住む爬虫人類による工作のためである。」といった具合である。(これらは、仮想的な例示である。)この組合せに注目すると、論者ごとに面白い差異、真逆の見方が生じていることに気付くこともある。なぜ陰謀論がこのようなセットメニューで伝えられるのだろうか、と考え始めると、陰謀論者と呼ばれる人たちの一部の論理性が、主張の外見が示すほどには壊れきったものでない可能性が存在することが分かる。陰謀論者の一部による議論は、一般人が一足飛びに「だってキ○ガイだから」という結論に至るほどには、破綻したものではないのである。

陰謀論者は、他人に伝えるべき内容があると信じるからこそ、その主張を発信する。より正確には、異なる他者からみれば、陰謀論者は、頭がおかしいと見えるかどうかはともかくとして、何かを他者に伝えたいからこそ、その話をしているのだと推定することができる。陰謀論を伝達しようとする目的は、話者の背景により異なるであろう。話者がまったくの個人である場合には、その目的は、大抵、その個人に深い関連を有している(とその個人には自覚されている)であろう。何らかの組織が組織的活動の下に同一の内容を流布しようとしている場合には、大抵、その主張を広めることがその組織の目的に役立つからであろう。例外として、9.11の真相を求める遺族のように、個人に根差した単一の目的が組織を立ち上げるという動きに結実することもあり得る。ただ、いずれの場合であっても、全くの狂信的な人物でなければ、他人から拒絶されるリスクを踏まえてまでも、何らかの陰謀論と見なされる主張を広めるからには、何らかの確固とした理由を内心に有していると考えるべきであろう。

いったん何事かを人々に伝えるべきと決心した者が危険を考慮するとき、分かりやすい嘘が採用されることがある。宗教者が神秘的存在に託して突拍子もないことを語ることがあるのは、情報提供者である信者の安全を確保しつつ、伝えるべき真実を人々に対して伝達するためであろう。陰謀論を取扱うジャーナリストは、陰謀論者とのレッテルを逆手に取り、権力にとって都合の悪い真実を伝達することができるようになる。トンデモとのレッテルは、いわば、その代償であるととらえることもできる。

ジャーナリストや宗教家に冠せられる陰謀論者=トンデモというレッテルは、真実を知っていると考える情報源がその一次情報を流通させたいと考えるとき、情報提供先としてそれらのジャーナリストや宗教家を優先的に選択する、という結果をも派生させるであろう。人は、あまりにも分かりやすい嘘に対して、典型的な反応を示す。全人格に対する評価を低下させるか、または、個別の命題のみに対しては「嘘吐いてるのか、騙されているんだな~」と思うのか、という二項的な反応である。あまりにも嘘だけで構成された言説を世に問う人物に対しては、人は警戒するであろうが、いったん信用できるとみなされた人物や組織は、一定以上の正しさを維持し続けている限りは、それなりに信用され続けるのである(。このことは、社会心理学や数理社会学の教科書レベルの話である)。こうしたとき、「分かりやすい嘘」を除き、特定分野について全ての内容が正しい言説を提示している「陰謀論者」を、他人はどのように解釈するであろうか。ある情報源にとって、彼または彼女が安全に情報を取り扱うことのできる「ルールを知る」人物に映る可能性は、十分に存在するのである。

トンデモとのラベリングを逆用するという知恵に示されるように、一般に人が考えるほど、陰謀論を取り扱う者たちの全員が正統的な議論のルールに通暁していないわけではない。この事実は、ケネディ大統領の暗殺についてのウォーレン委員会報告書を信用していない人たちに対抗すべく作成されたCIAメモ1035-960(リンク)によって、逆説的に明らかになる。同メモは、陰謀論者に対するレッテル貼りの嚆矢とみなされてきた(が、現在では、この語によるラベリングの実例が1870年の医学誌にも見られることを、Robert Blaskiewicz氏が報告している。リンクいる。同メモは、同報告書に疑義を呈する著書等に対しては、適用可能であるならば、政治的な意図を有していたり利益関係を有していたりすることを、書評等によって摘示せよと指示している(1b(ii), (iii))。同メモが、事実関係や論理上の不備等を指摘するのみならず、明確に議論のルールを逸脱することをも容認していることは、目的達成のためには正当な批評をも抑圧するという組織的な意思を表出したものと解釈しても良いであろう。論理と正当な調査によって批判が生じる余地がウォーレン報告書に存在することを、この報告書への批判を組織的に封じ込めるという目的を有する組織が認めているのである。

以上のように、宇宙人といった「分かりやすい嘘」に対する陰謀論者の態度を理解すると、陰謀論の読者には、個別の命題の是非を判断できるだけの学識が求められることが理解できる。もとより、諜報の世界では、基本的には真実を述べ、語りたくないことは語らなくとも良いが、偽情報を流布することは忌避されており、偽情報にはそれだけのリスクが伴うと解釈されているようである。実際のところ、アメリカ国内において、ケネディ大統領暗殺事件に対する疑問が今も呈され続けるのは、ウォーレン委員会報告書が嘘だとすれば、アメリカ国民の共有するはずの理念(、たとえば、正義が執行されなければならない、など)に明白に反することであるからであろう。ここで見たように、民間人の「分かりやすい嘘」でさえ、一般人が思うよりも複雑な機能を有している。政府トップの吐き続ける数々の嘘は、どのようなバタフライ・エフェクトを生じるのであろうか。

近年の日本のように、今後の社会の見通しが不透明さを増す一方である国においては、なおのこと、一見正当に見える大本営発表の嘘を見抜くだけではなく、陰謀論として括られた言説の中に正当な議論が紛れていることを理解する必要がある。なお、大本営発表とは、陰謀論者にとっても、国益を考える者にとっても、核心的な考えである。そこでの基本的な考え方は、マスメディアの金主が誰であるか、を考えることから始まる。

陰謀論と呼ばれる種類の言説の中には、穿った見方をすれば、組織的な目的の下に流布されているもの、より保守的な見方をすれば、特定の組織の目的の妨げとならないか、その目的を結果的に補助することになるもの、も多く含まれる。それゆえ、読者である私たちには、正確な知識を会得するために、十分な注意を払いつつ、話者の主張を命題ごとに吟味することが求められる。従来に見られる陰謀論(とされる主張)の多くは、旧連合国のうちの西側諸国に対して政治的な利益を毀損する内容を含むものであり、それゆえ、一部に指摘されるように、それ以外の国の政治的利益を反映しているとみなしても良い部分がある。他方、先のCIAメモ1035-960に当たれば分かるように、そのような言説(に対抗する言説)は、それらの国の専売特許というわけではなく、通常の国家であれば、一定の目的のために任務として遂行しているものでもある、と考えるべきである。

#文章のこなれていない感じがぬぐえないが、手習いでもあるので、公開してしまうことにした。




平成28(2016)年1月17日追記

『国際秘密力研究』というブログの主人の「菊池」氏は、日本における権力構造の維持に荷担する言論者たちを、思想体系およびその体系を代表する組織名から、左翼(親共産主義)、大本教(反米ワンワールド)、統一協会(親米ワンワールド)の三系統に分け、それらの集団がウロボロスの輪の如きに三すくみとなる言論の輪を作り上げているという構図を提示している。

しかし同時に、「菊池」氏は、次のように記している。

どのような人物の言説評価も部分部分で評価すべきであって、一つの優れた言説を主張したからと言って、他の主張まで妥当だとは限らない

大本教と戦前右翼勢力の関係から見るNWO勢力の両建構造 : 国際秘密力研究
http://kokuhiken.exblog.jp/25029599/

私には、上掲の構図そのものについて言及するだけの十分な蓄積がないがゆえに、この結論に至ることに対して同意できない(=私には、事の真偽を正しく判断できるだけの蓄積がない。また、上記の三すくみのような構図が存在すること自体に対しては賛同できるものの、現在でも上掲のラベリングが正しいか否かについては、慎重な判断を必要とするのではないかと考える。)ものの、上掲の引用部分については、陰謀論における多くの言説のとらえ方として、正しいことであると同意できる。それぞれの組織にはそれぞれの目的があり、個別の問題(イシュー)については、それぞれの目的に沿う結論を採用しているとまでは、想像できることである。なお、念のため申し添えておくと、私は、上掲の三種の組織のいずれにも属す者ではない。

なお、「菊池」氏の記述は、長いものであり、その論理に破綻を見出すことはできないものの、段落読みできない構造であるために、今回指摘した記述の存在することに気付くまでに時間を有してしまった。この見逃し自体は、私のケアレスミスではある。ただ、どの学問分野においても、記述の形式という形式上の問題は、学問上の成熟度を表す指標でもある。この点を謙虚にふまえると、(日本の)陰謀論研究は、日本国という社会集団のサバイバルのためにも、学問上の裏付けをまだまだ必要としていたが、その前に破綻に直面するに至ったというところなのであろう。

段落読みできないという点では、篠田雄次郎氏の『テンプル騎士団』(1976=2014, 講談社)も同様である。ただし、同書は、著者の経歴を割り引く必要は認められるものの、現今の陰謀論が対象とする内容を研究者が真面目に取り扱った研究書であり、篠田氏の見た「物語」を理解する上では大変に面白い書籍である。特に、西洋社会における企業という組織及び活動の原型をテンプル騎士団に見出すところは、慧眼だと思う。ただし、参考文献名は巻末に示してあるものの、引用や注はすべて割愛してあるため、参考文献などから篠田氏の(おそらく真実を衝いた)見方に至るまでの再現性の確保という点では、難が残ることも確かである。

#私は、文系の研究であろうとも、おおむね同一の参考文献を用いた場合、著者のオリジナリティに係る部分はともかく、そうでない部分については、かなり安定した読みの結果を得られるものと考える。いわゆるBLものを題材に考えてみるのが分かりやすい。A×BとB×Aは、そのような題材を好みとする読者にとって、大いに異なる結果を表す。A×BとB×Aの違いは、著者のオリジナリティに起因するところが大であろう。しかし他方で、多くのA×Bの作品同士を比較すると、それが異なる作者によるものであっても、何らかの共通性やこの結論に至る共通の構造が強く認められるということになるであろう、と考えるのである。同じような材料を同じように扱えば、かなり同じような結果を得る、と考えているのである。このことは、陰謀論にも該当するものと考えているのである。




平成28(2016)年8月3日追記・訂正

本文中における、陰謀論という語の用法の嚆矢と見なされる事例についての情報を更新した。

この種の分野を科学的に扱おうとする場合において、重要であることは、情報が後段になってアップデートされるか否か、どの部分がどのようにアップデートされたのかが分かることである。人間の営みには、ミスが伴いがちであるから、アップデートすべき状態となった原因も、できれば後追いする者が把握できた方が良い。単なる正誤表ではなく、コンテンツのアップデートも必要である。

今回のアップデートは、ゆるゆると進めている、陰謀論と呼ばれる分野に係る学術的な知識の集積を図る作業の一環に伴い、実施されたものである。今後もゆるゆると進める予定である。なお、この作業は、私としては、わざと避けていたことを明言しておく。その理由については、今後、多少の順序を立てつつ、説明することとしたい。




平成29(2017)年5月29日追記・訂正

レイアウトの修正とともに、一部の情報を追記した。本ブログを通して読まれる奇特な方であれば、本稿における主要な批判は、『と学会』のような表層的な理解に向けられていることを了解できることであろう。また、カルト宗教がこの種の異端思想を悪用することが事実であるとはいえ、読者は、この異端思想の正否を括弧に入れてカルト宗教を批判することが必要であることをも了解できよう。

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