2017年9月3日日曜日

オカルトにはオカルトの効用があるが、悪用されがちであるし、オカルトへの批判も、同様の危険を有する

以前に述べた(2016年1月16日)が、「分かりやすい嘘」が社会に向けて発信されることには、それなりの効用がある。爬虫人類や地底人や未来人や宇宙人や吸血鬼やその他の超自然的存在といった、他者にとっては虚構と見なせるような「存在」からの「預言」という形で、あるいは未来に対する「予言」という形で、現実に係る真実を述べることは、責任の所在を曖昧なものとして、通常人ならば発言に社会的責任を問われることを題材としながら、自分自身が真実と思うところを述べることを可能とする、という効果を有するのである。なお、先の記事では「未来人」への言及が欠落していたが、われわれ現代人からすれば、「未来人」も、当然、同様の仮構的存在である。

#私は、ナントカ人や超能力やオカルトを肯定する人物の見方と同様の結論を採ることが多いにもかかわらず、これらの超自然的な存在に対して、否定的である。ただし、この点自体を明らかにしておかなくては、私自身が陰謀論を取扱う者のルールから外れることになろうから、ここでも言明しておくが、私は、神という超越的存在を信じていない訳ではない。しかし同時に、「陰謀論者」に時折見られるように、私は、超越的存在やオカルト的な存在・能力をダシにして、自身の主張の正しさを補強したことはない。本ブログを通読すれば、その反例が見つからないという形で、この主張は疎明できるはずである。もっとも、一部の文章においては、私の個人的な体験(見聞きしたこと、一次情報)を、再現不可能な形で利用してはいるため、見る人から見れば、同じ種類の証拠を利用していると反論を受けるやも知れない。ただ、これを敷衍し過ぎると、われわれが社会を客観的に分析することは、到底、不可能ということになる。

人々の中には、爬虫人類や地底人や未来人や宇宙人や吸血鬼など、にわかに信じがたい種類の仮構的存在に託して、何らかの真実を発信しようとする者も含まれる。現実に、これらの表現者のどれほどが「嘘」に対して自覚的であるかは、分からない。ネット上に流通するオカルトの言説を定量化して、現実に信じているか否かを分別する作業などというのも、労多くして益少なしであろう。研究費を投じてこの種の調査を行う研究者たちがいる(いた)とすれば、確信を以て、先にやるべきことがあると指摘し批判することができる。その理由は、以下のようなものである。

仮構的(と一般人に思える)存在を語る」人々の中には、聞き手からすれば、「分かりやすい嘘」を利用して虚構に真実を託していると認められる場合も含まれるが、わが国で商業的に「デバンク(オカルトの「嘘」を暴くの意)」に従事する者たちは、この構図に触れないために、社会にとって、むしろ有害な存在となり得る。「デバンク」行為を自称する人物たちのいくらかは、この方法論に通じており、この「分かりやすい嘘に託された真実」が流布しないように監視するという役割を与えられていると推察できる。この種の「真実」のうち、最も監視されているものの一つは、9.11が自作自演(inside job)である、という疑惑である。それにもかかわらず、彼ら「科学主義者」たちは、現時点においても、「分かりやすい嘘」に隠された効用までを明らかにしようとはしない。なぜなら、現在の「トランプ時代=ポスト・トゥルース時代」において、「虚構に託して真実を語る」ことは、必要性自体が低下しているため、語り手側にとっての効用が総合的に低下しているものの、他方で、「虚構を信じるバカな人々」という種類のレッテル貼りは、今なお有効に機能するためである。私から見れば、前年と今年の『トンデモ○○』の栄冠は、大マスコミに与えられて然るべきである。しかし、「トンデモ」をウォッチするという活動を商業的に実施している人物たちが大マスコミを批判する程度は、「トンデモ」に分類される人物たちの著作への批判に比べれば、まったくもって僅少である。この差は、マスコミと彼らが共依存的関係にあり、これら双方の主体が「トンデモ」とされる人々と同程度に、現実をできるだけ偏りなく理解する上での敵であることを示す。

別の言葉で表現すると、わが国の「デバンク」筋は、大マスコミの誤り・フェイクメディアの誤り・陰謀論者の誤り・御用学者の誤りに接して、これらを等しく批判しないのである。しかも、その結果が総じて横並びになるというところは、いかにもつまらない「理性」の発揮のされ方というべきである。9.11の動機にブッシュ家の多額のカネが絡んでいることは、周知の事実というべきである。このとき、商業出版上で活動する「デバンク」筋による、9.11の真相追究者に対する批判を、等しくカネに転んだために生じたものと見ることは、何ら不整合なものではないのである。

「仮構的存在に託して物を語る」人々の中でも、「超越的存在」に依りながら何かを伝えようとする人々には、度外れた利他性が求められる。「怪談」の類いを含め、「虚構の存在」をあたかも存在するかのように語る人々は、それだけで、虚偽を人々に広めていることにもなる。この種の発言は、発言者がフィクションであるという事実を内心に知りながら、「嘘を吐いている」という悪を超えるだけの公益性があると発言者が信じるがゆえに、「言論の自由」の一環として、世間に許容されている。このように解釈しても良いであろう。たとえば、「口寄せ」が許されるのは、「口寄せ」される個人と親しい関係にある個人がイタコ役に依頼し、社会に対して閉じた形で(、擬似的な親密圏において、)実施されるからである。この点、某新興宗教の教祖のスタイルが社会的に許容されるか否かは、その言説に大きく依存することになる。「虚構の存在からのメッセージ」の受け手となる人々の圧倒的大多数は、超越的存在を己の利益のみを目的として利用してはいないし、他人の言動に対しても、超越的存在が利他的であるというルールを適用するものである。(少なくとも、日本語環境における「神様」のデフォルトのイメージは、一般的に、利他的であるものと考えて良かろう。念のため、ここでは、「荒ぶる神」とか「祟り神」とかの存在にまで話を広げる必要性もない。)

絶対的かつ超越的な存在は、通常、絶対的な真・善・美として聞き手に受容されるから、仮構的存在として超越的存在を登場させる個人は、間違いなく、「嘘を吐いた」という結果に陥ることとなる。超越的存在は、間違っていてはならないが、人間は、ほとんど常に間違える存在である。自らの言説の正しさを補強・維持するために、超越的存在を騙る人物は、嘘を積み重ねなければならないが、やがては、それらの嘘が相互に矛盾するようになる。結局、この種の人物は、自らの言説を破綻させることになる。この点、超越的存在の名を利用しようとする人物は、詐欺師としては、一流ではない。

ただ、既存の大宗教は、社会内の組織として扱うべきであり、既存の大宗教の教義は、ここでの検討対象に含まれない。既存の宗教組織は、超越的存在としてではなく、社会内存在として確固たる地位を築いている。その組織が超越的存在を信奉しており、その教義が神によるものであるとしても、既存の教義に見られなかったようなオカルト的言説は、組織内の相互作用を経て、主要な成員に認定されなければ、「神の言葉」として信者に受け入れられないのである。

このように対比すると、個人が「神の言葉」として何かを語るためには、「語り手の意図が利他的なものと聞き手に受け止められる」という条件を含め、相当のハードルが社会に存在していることが分かる(が、私には、十分に整理できていない)。語り手の意図が利他的なものであるという条件は、絶対的なものではないが、言説の利己性は、隠されていたとしても、(本稿に見る「デバンク」筋の利己性のように、)いずれは、バレることになろう。利他性は、受容する側によって判断される性質であるが、その要件は、なかなか厳しいものである。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という警句も、間主観性・相互性を示すという意味では、同種である。受け手となる人々が、他人の善行や、偉業を成し遂げた人物のメッセージに対して、神の意思が表れているものと後付けで解釈することは、ありがちではある。聞き手の側には、「聞く耳」がなければならない。内容を理解できるだけの教養・教育が聞き手に備わっていることも必要であろうし、そのような聞き手が十分に耳を傾けるだけの余裕や環境もなければならない。(#本段落は、新約聖書の影響を多分に受けている内容である。)

この点、たとえば、「神様が、2011年3月11日の東日本大震災を私(だけ)に警告していた」などとする一部の「予言」に対して、人は、疑わしい印象を抱くものである。特に、その「予言」が後出しとなる場合には、なおさらである。聞き手は、この「予言」を信用した場合、その信用が彼(女)のみを利することになるという結果を、直感的に予想するものである。この微妙であるけれども決定的な「予感」は、(単なる仮構的存在に託す形ではなく、)「超越的存在に託して真実を語る」という行動には、利他性が求められるという黄金則を示すものである。この利他性は、庶民が占い師を頼ることが一般的に許容されながらも、政治家らの権力者たちがこの方法論に依存することに批判が寄せられることを踏まえれば、一層明らかになる。

占いという行為も、その一連の動作に表れるとされる法則を、仮構的存在として利用している点で、オカルトと共通する要素を有している。ただし、占いの方が、オカルトよりも現実に対する影響力を発揮している点において、一層の注意が必要である。占いは、古代よりそうであったように、支配の道具でもある。占いは、探偵業務やカウンセリングと相補的な行為であり、ときには、洗脳に利用される手法も援用される。占いは、『国際秘密力研究』の菊池氏がいうところの「憑依系」の方法に分類されよう。マスメディア、特にテレビ局がいくら叩かれようとも、占いコーナーを設け続けるのには、占いという社会工学的な方法を、社会に認知・定着させ続けるという使命を帯びているからでもあると考えることができる。

政治家が占いに依存することは、古代においては常態であったようであるが、民主主義の現代においては、もはや許されることではない。民衆が占いを合理的な行為とは見なくなっているためである。「支配する側の論理」「詐欺師の気持ち」に立てば、古代の天文学は、「予言」を簡単に達成するための「支配の道具」であったと考えるのが自然な結論である。自然法則を探究する自然科学であっても、オカルトの悪用と変わるところのない結果=不当な支配を生み出すことに貢献しうることは、古代エジプト・バビロニア辺りに源流があるとされる国際秘密力集団の歴史からも、示唆されることである。

われわれ現代人は、現代科学と現代思想の枠内に留まる思想的道具と、現実に存在する技術を利用して、現実の個別の課題に対処するほかない。しかしなお、これらのツールのそれぞれは、相当に発達しており、四半世紀程度の学習に個人が資源を投資しても追いつかないほどである。このとき、「支配の科学・技術」が故意に秘匿され、国際秘密力集団の走狗によってのみ利用されているとすれば、その結果は、人類全体の発展にとって、きわめて歪な結果をもたらすことになる。オカルトと占いと科学は、いずれもが、支配に奉仕する奴隷となり得る。現代では、これらの利用方法は、定型化され、実践されているものと認められる。商業出版における「トンデモ」批判の不自然さこそが、その証明となっているのである。とすれば、商業出版上で「トンデモ」を糾弾する人物たちは、この道具性までを見越して批判の筆を進めなければ、「トンデモ本」の作者たちと同様、批判者自体が商業的に活動しているがゆえに、「地獄への道」を舗装しているものと読者に解釈されることになるのである。




2017年9月4日修正

本文の意図が正しく伝わるように、文言を修正した。(当初の意図は、変えていないつもりである。)




2017年9月5日修正

4日と同じ意図の下に、文言を修正した。




2018年7月16日修正

本文の意図を変えないように文言を修正した。

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