2017年9月10日日曜日

現代の帝国主義は走狗を育むために貧困と差別を用意する

要約

先進諸国において、貧富の差が二極化し、差別が奨励されつつあるのは、権力の走狗を恒常的に育成し、飼い慣らした状況を維持する上で、二極化した環境が適しているからでもある。「支配する側」に信用や高潔さが求められる社会であれば、社会の二極化は、走狗を「貧乏農場」へと逆戻りさせるぞと「躾ける」上で、都合が良い。「臑の傷」を持つ走狗は、いざとなれば「使い捨て」できる。走狗の「使い捨て」という「リサイクル」行為は、他の走狗に対して一罰百戒を意識させるためにも喧伝される。

#例によって、要約と本文の対応状態が甘々であり、しかも、十分な下調べがないのは、ご容赦いただきたい。また、本稿は、「従来の記事作成で得た知識を踏まえた上で、できるだけ独力で新規性の高そうな内容を考案してみよう」という実験的な方法により、作成している。このため、先人が発明したはずの「国際秘密力集団のアジェンダを乗りこなす」ための「車輪を重ねて発明」した形になっている(はずである)。私が自身に課したテストの答案のようなものであるので、答えが先人の考察に見られるからと言うだけで、パクリと短絡することは避けられたい。


社会上昇を志すサイコパスは、走狗の候補となり得る

他者に冷淡で、目的を達成するために手段を問わない人物は、どの社会階層にも誕生するものであろう。残念ながら、私の不勉強もあり、社会階層の移動者に含まれるサイコパスの割合を定量化した最新の研究(の有無)の紹介はできかねるが、現代のような社会のあり方では、サイコパスが社会上昇を果たした層に含まれていても、全く不思議ではない(。むしろ多いとする研究があることは承知しているが、一般化の方法に問題があるような記憶があるので、いずれ、再度確認してみたい)。サイコパスであるがゆえに階層を下降することも当然あるが、含意に乏しい話題であるし、本稿の興味からは、微妙に外れることである。

社会上昇を果たした層の中にサイコパスが含まれるという言明は、サイコパスでなければ社会上昇を果たせないという言明と全く別物である。前者の言明が実現する確率は、ほぼ1であると見なせるが、後者の言明が実現する確率は、ほぼゼロである。社会上昇の意味が私の思うところと一致する読者は、私の個人的な体験からも、前者の確率をゼロ、後者の確率をゼロであると考えても良かろう。後者の確率は、社会上昇した人が多数に上ることを思えば、論理的にもほぼゼロである。以上によって、ここまで(の本文部分)における主張は、論理的にも倫理的にも、全く問題ないであろう。

一般的に、貧困層の環境は厳しく、謂われのない差別は被差別者の心をも荒ませる。その苦境を脱するために何でもする人物は、走狗の候補者として目を付けられる機会も多くなろうし、自ら望んで違法(すれすれの)領域の活動に身を投じることもあろう。目上の知己に悪しきロールモデルがあれば、それを真似る機会も多くなろう。各国において、組織犯罪集団に特定地域の出身者が多いと指摘されがちであることは、コネクションというものの重要性を鑑みれば、理由のないことではない。しかしながら、特定コミュニティ出身の個人が暴力に手を染めるものであるとか、特定コミュニティに「犯罪性向がある」といった主張は、原因と結果を(意図的にか)混同している。この種の「犯罪傾向が集団に現れる」とする議論は、20世紀初頭に流行した素朴な種類のものである。ある個人が(構造的)暴力に訴える属性を有しており、かつ、身の周りの重要な先達に(構造的)暴力を振るう前例がいると、その個人は、そうでない環境に置かれた個人よりも(構造的)暴力に訴える機会に巻き込まれがちである、という定性的な関係があるだけである。この定性的な因果関係を、特定民族・特定人種の全体に敷衍することは、過度の一般化というものである。


安定的な組織社会は、個人の制裁に対する予測を可視化し、部下の弱味を悪用し易くする

人は、一旦得た(他人も欲しがる)ものを失いたくないものであり、組織内の関係においても、その心性は維持される。人間の執着心は、哺乳類の多くに見られる本能に根差すものであるから、人間社会にとっての前提条件である。となると、ポイントは、組織において、不正の予防がいかに研究・実行されるかということになろう。上下関係のある組織において、下位の人物は、本人に咎められる理由がなくとも、上位の人物の失敗や犯罪を引き受けるという理不尽を通じて、上位の人物の寵愛を受けるという役回りを得ることもあろう。上司の失態を上手に尻拭いした部下が出世するのは、暴力団においても同様であるし、歴史上、茶坊主や宦官の成功例には、この主張を裏付ける事例が良く見られる。制裁を受ける謂われのない「カタにはめられた」個人も、この応用例である。(良い意味で)古典とも呼べようが、『新宿鮫』シリーズの「鮫島警部」は、この応用例の中でも、傑出した創作物の先例である。

加えて、多くの組織が安定的に維持されている社会において、人は、「通常のコースから外れたときに失うもの」を可視化し易い。従来の日本式株式会社のような横並び的な環境においては、追放処分や降格処分(後者は、一般的ではないが)は、周囲の人物によって、失われたものをかなり細かく査定できよう。将来が予測し易いためである。わが国においては、減点主義によって一人の官僚の出世が閉ざされたとき、彼(女)の全生涯における機会損失費用は、数%内の誤差で計算することも可能であろう。このような可視性は、失敗におけるリスクを(失敗の確率か、ハザードの大きさか、具体的なパラメータについては分かりかねるが、)多めに見積もる要素として機能する上、失敗したときには、保身へと人を駆り立てる原動力となる。

組織内における権力関係に、擬似的な家族関係・友人関係・同胞意識が加われば、個人が不正に手を染める余地は、フラットな社会関係よりも増加するものであろう。組織における指揮・命令関係は、その存在自体が、部下の意思決定に対して、不正を行う方向へと影響を与える。拒否しようと思うとき、部下は、クビになることを思う必要がある。同意するとき、上司の命令は、不正に対する部下の合理化を促進する。上司にとって、部下に命令するという行為は、自分自身で不正を働くことに比べ、ハードルを低くするという機制を有する。

弱味を抱えながらも(、あるいは、「汚れた」身となったとしても)、社会的身分の上昇・維持を志す人物は、上位の人物からみれば、利用しやすいものである。「箪笥の中の骸骨(skeleton in the closet)」は、公衆に提示すると脅すことでこそ、役立つものである。履歴書の「賞罰」欄は、法律により規定されている職種であれば、必要ではあろうが、悪用されないとも限らない。それに何より、「前科者」が余分に苦労する話は、枚挙に暇がない。加害者が被害者に対して(、あるいは、その代わりに社会に対して、)償うことは必要である。しかし、たとえば、オーバーステイの外国人を搾取する雇用主は、不法滞在という犯罪を現に犯している外国人よりも、弱味に付け込み、同国人からの制裁を逃れ易いという点で、一段と犯罪的である。「飴と鞭」は、普遍的な使役の方法ではあるが、使い方によっては、大変に卑劣なものとなるのである。


わが国の企業社会文化の変容は、個人を企業犯罪に荷担させんとする圧力を高めている

そもそも、わが国の企業風土ならびに社会生活は、明治期以降、財閥化・大企業化が進んだ後、健全な状態であり続けてきた訳ではない。企業間・国際競争の激し過ぎる現代において、生き残りのためには、企業風土そのものが、健全とは程遠い状態とならざるを得ないのかも知れない。上場企業であっても、その来歴がグレーなものや、その経営者に良くない風聞がまとわりつくものは、それなりの数に上る(。上場市場に対する国際秘密力集団の関与を思えば、ゆえなきことでもない)。汚された企業イメージは、容易に払拭できないために、(優秀ではなかったり、箍の外れた)特殊な人材をますます引き寄せることになる。そうなると、士気の低い成員の忠誠を無理矢理にでも維持するために、マッチョなノリが要求されたり、擬似的な家族関係が強調される。部下に言うことを聞かせるために、パワハラが横行することにもなる。このような組織内部における関係性は、広く国民一般に理解が共有されているために、(別の企業の従業員として、同様の圧力下にある、オフタイム中の)顧客の横柄な態度を増長させる。

この点、わが国の会社主義は、とりわけ、バブル崩壊後、リストラによって社員の終身雇用制という「底」が取り払われたために、リストラの利益を上回る形で、成員が構造的不正に荷担する素地を多く作り出したと言えよう。ブラック企業においては、バレなければ何でもあり・何ならバレても政治力や実力行使でねじ伏せる・そのために従業員を使い捨てることを厭わない、という風潮が決定的となって久しい(。このような体質は、相当の昔から変化していないが、マスコミが取り上げないだけである)。加えて、高度技能を要求する一部の業界を除けば、終身雇用制の下で就業状態(キャリア)を継続させてきた人物に比べて、一定年齢以降の再就職がきわめて不利なものとなるという状態は、相変わらず継続している(。たとえば、女性の出産後の就業条件を想起すれば、戦後を通じてこの指摘が該当することは、大体において正しかろう)。これらの条件の組合せは、個人差こそあれ、確実に、個人が企業活動における組織的不正に荷担せざるを得ない環境を強化している。

企業犯罪というとき、個人による職務・職階を悪用した犯罪と、組織犯罪との二種に大別できようが、後者こそ、コンプライアンスの対象とする上で、公の工夫が求められる分野である。個人の企業内犯罪は、従来のコンプライアンス体制によって効率的に予防され得る。しかし、現今の「何でもあり」の「自由」主義国家においては、一旦覇権を制した企業のコントロールを、いかんともし難くなっている。TPP11が宣言されていることは、その証左である。「国際的」企業に対するトランプ政権の「飴と鞭」は、評者によって評価が二分されるであろうが、少なくとも、アメリカ国民の利益を増進させるという建前については、間違ってはいない。

なお、コンプライアンスの度合いを定量的に論じる場合、福島第一原発事故を鑑みれば、わが国の企業犯罪は、警察の認知活動はともかく、3.11によって、決定的に顕在化・増加し、放置されていると結論付けられる。京円という単位の損害など、通貨発行権でも有している存在でなければ、生み出せる種類の不正ではないし、度重なる違法行為が黙認されているからである。何度でも繰り返すが、福島第一原発事故は、東京電力だけを見ても、世界史上、最大規模の企業犯罪であり、権力犯罪である。

福島第一原発事故の放置状態は、わが国社会のモラルハザードを確実に悪化させている。ただし、個人が企業犯罪に荷担せざるを得ない圧力は、脱原発に係る社会活動のテンプレ的な失敗からも生じている。三宅洋平氏周辺に対する角本ゆり氏の告発(2017年9月9日記事参照)は、その典型例である。人工芝運動は、至るところに存在し得る。われわれは、個人として、何事につけても判断を下す必要がある。この点は、伊丹万作氏の『戦争責任者の問題』にも、善き前例を見出すことができる[1]


[1] 伊丹万作 戦争責任者の問題
(青空文庫所収、2017年9月10日確認)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。


竹中平蔵氏は、わが国における国際秘密力集団の「走狗」としてのロールモデルである(が...)

竹中平蔵氏は、現在の「従業員使い捨て社会」を用意した人物であり、「貧乏になる自由がある」との旨を語ったことが広く批判されているが、彼の言葉には、彼を駆動させる原動力が端的に示されている。つまり、貧乏こそが竹中氏の恐れる「自由の双貌」の「片面」である。竹中氏は、今の生活の維持・向上のためには、努力を惜しまないであろう。この点、竹中氏と暴力団構成員の動機付けと行動原理は、彼(ら)の財産を維持・増加させるという目的に対して、同一のものと見なせよう。より正確に表現すれば、竹中氏の今までの言動と実績は、今後、彼が不法な行動に手を染めないという確信を一般の大衆に与えるものではない。竹中氏の行動原理が暴力団のものと同一であると気が付けば、素行の悪い弁護士や銀行員を暴力団が「カタにはめて」利用することがあるのと同様、竹中氏や彼を使嗾する存在が「臑に傷持つ」者たちを利用しており、竹中氏自身も「臑の傷」を放置されている可能性を認めることもできよう。

竹中氏自身の「臑の傷」が放置されている状態は、彼を凋落への不安に基づき駆動させるために必要な措置ではあるが、一般的には、「何でもあり」というメッセージを世間に与え、さらなるモラルハザードを誘発する。竹中氏については、相当に信憑性のある(現在では)職務違反行為(となる過去の行為)や利益相反行為が指摘されているが、これらの指摘は、竹中氏の「アキレスの踵」となっている。(常温核融合や宇宙エレベータやSTAP細胞に係る)学術的な醜聞が処罰される一方で、単なる剽窃が学術コミュニティの成員に放置されていることは、一般に対して、「竹中氏が本業に対して重大な背信をしでかしながら、大きな顔をしていられるのであるから、国際秘密力集団に対しても何をしても良い」という思想を正当化する危険性がある。この点、誰の目にもあからさまに悪人に見える走狗を国際秘密力集団が飼い続けることは、国際秘密力集団にとっても、そのつながりがバレることを思えば、弊害が大きいはずである。ただ、この種の社会的な懸念は、現時点のわが国では、ごくごく一部の差別主義的な言辞を弄する若~中年世代の「極右」や「極左」にしか表れていないようである(。それに、『国際秘密力研究』の菊池氏の考察のとおり、あるいは、「ᴹ 」氏(@q_MW_p、文字コード変換の問題から、正確な表記ではないかも知れない)の写真付きツイートに示されるとおり、彼ら「極右」や「極左」が両建て戦術の一翼でない保証は、どこにもない)。

国際秘密力集団にとって、アメリカ合衆国は、世界各国における走狗の候補を見繕うのに適した国である。移民社会であり、金融、先端的産業、学術研究の中心地でもある。かろうじてアメリカンドリームという経済的成功も夢見ることもできる。このため、各国の優秀で野心的な若者が、自ら挑戦の機会を求めてやって来る。ただ、競争が激しいために、何でもする人間は、何でもすることを余儀なくされることもあろう。同国のホワイトカラー社会は、マウンティング社会でもある。一般に、アメリカは、失敗を恐れずチャレンジする心性を賞賛すると指摘されているが、社会保障の底が抜けていることも事実であるから、元の貧困に逆戻りすることを恐れる心性の持主ならば、なおのこと、不正への誘惑に抗し難くもなろう。その環境は、東洋的伝統に譬えるならば、蠱毒を育成する過程のようなものである。(貴志祐介氏の『悪の教典』は、悪人たちのマウンティング社会=蠱毒を描くことが目的であるようにも思われる。)

私が密かに驚嘆しているのは、わが国において、竹中氏を筆頭とするような洋行帰りの(国際的な)戦争屋の手下たちが、悪しきロールモデルとして、長らくのさばってきているにもかかわらず、この前例に積極的に倣おうという若年層が、竹中氏の横溢振りに比べれば、IT業界を舞台にしたマッチポンプを除けば、増加し続けるようには見受けられないことである。それとも、彼(ら)のような、日本人らしからぬ印象を与える悪人に、日本語話者の人々が感化されるのには、もう少し、特殊な条件があるのであろうか。ロスジェネは、竹中氏の思想によって割を食うことになった世代であるが、この世代は、社会人となった時期に、竹中氏の台頭とやりたい放題を目の当たりにすることとなった。会社内においては、当時の中高年世代がリストラに遭ったために、先輩に鍛えられる中で人の良さに触れる機会も、相対的に少なかったと言えよう。堀江貴文氏に代表されるように、ロスジェネが、世の中、やったもん勝ちの風潮に染まるのも仕方がないことである。他方、赤木智彦氏の最近までの思想の変遷は、竹中流の「構造改革」のしわ寄せを蒙った「負け組」から脱しようと苦闘する人物の視点を反映したものであった。堀江氏と(デビュー当時の)赤木氏の両者の「身分」に対比されるような(私も含めた)中年世代の階層意識は、「勝ち」と「負け」を峻別し、一部の「勝ち組」に加われなければ生きる意味がないと短絡するような、救われないものである。しかし一方で、中年世代の階層意識は、競争に対しては、「同じアホなら踊らにゃ損々」といわんばかりに統一されたものでもある。しかし、現在の20代・30代(の高学歴者たち)は、(若年世代を悪く言うつもりは全くないが、)もう少し、ナチュラルに保守的であり、内発的であり、周囲の環境に(何なれば、過剰)適応しているように思われる。橋下徹氏がワシントンDCで開陳するも(詳しい解説は、2017年6月10日記事)、橋下氏の言う「第三世代」は、微妙な年代差によって、相当に異なる様相を見せているように思われるのである。


「ミーイズムの極致」を「消極的なファシズム」として認めれば、現今のファシズムは完成済みである

わが国では、福島第一原発事故という「破局」を迎えても、社会運動が機能しなかったほどであるが、これは、ファシズム化の現れと言うよりも、ミーイズム(利己主義)が極致にあったからと言うべきである。若者が粛々と個人の生活に勤しみ、福島第一原発事故を我が事として引き受けないのは、「生活ファシズム」と呼べる現象かも知れない。もっとも、同事故を当事者として引き受けた人々の多くは、当事者としての活動に留まる傾向が認められよう。この状態は、「それはそれで」問題のある状態である。いとも簡単に、己の経験のみにとらわれ、自ら分断統治状態を引き起こしうるからである。

大多数の人々が反原発運動を継続しきれなかったという実態は、「安全厨」に代表される層への同化圧力というよりも、単に、関心を持続させる姿勢が欠如してきたからである、と考えた方が良い。(マザー・テレサの言う「愛情の反対は無関心」に似ている。)ファシズムは、同化への圧力を指すが、その「同化」の内実は、「タブーのリストに載せられたことをしない限りは放置される」という、消極的な形式を取る。現時点のわが国における生活者が関心を向けることのできる対象は、彼らの人生の持ち時間に対して、はるかに多い。それに、大多数の人々が従来通りに生活していかなければ、3.11の影響に対する「軟着陸」もあり得ない。「軟着陸」などとフェビアン主義者(を自覚すれども相互承認されていない私)が主張するとき、すでに、彼らは、「両建て」の陥穽に落ちているのかも知れない。

ともかく、現時点において、わが国のファシズムは、従来の一般的なイメージにあるような同一性を強要していないという点では、究極的段階には到達していない。現今のファシズムは、「庶民は、勤労し、庶民らしい生活に集中せよ」という一つの命令を等しく国民に強要する点では、紛れもなくファシズムである。しかし、「権力の米櫃に手を突っ込まない」限りは「権力が牙を剥かない」という点で、消極的な段階に留まるのである。「ブラック企業で景気良く働いてもらって株価を上げてもらって皆ハッピー」という点では、また、「貧乏になり野垂れ死ぬという自由」を選択肢として提示する点では、つまり、「奴隷か死か」という選択肢を与えているだけ、単に「お国のために死ね」というよりもマシである、と強弁しうるのである。

逆に考えれば、現在のわが国は、すでに「消極的なファシズム」の完成形を楽しんでいることになる。どういうことか。重複を多く含むことになるが、項を変えて、いくつかの事例を考えよう。


「消極的なファシズム」=「フィール・グッド政策」=「マトリックス」が完成した形跡は、方々に認められる

一部の研究者が大規模災害・事件の後に一時だけ関心を示すのは、それが彼らの研究費を増加させる機会であるためであり、研究生活を生き残る上で、有用そうに見えるからである。しかし、わが国の社会にとっては大変に不幸なことに、福島第一原発事故は、総じて、「その影響がない」というアジェンダに基づく研究者のみに対して、研究費の割当を増加させた。福島第一原発事故の探究に係る「タブーのリスト」は重層的である。特に、「核開発」と「北朝鮮」との掛け合いは、最も底に沈められた種類のタブーである。これらを取扱わんとする誠実な研究者は、キャリア形成に勤しみ、テニュア(在職権)を獲得するなどして、安定的な地位を占めなければならない。この道程を思えば、ノーム・チョムスキー氏のような存在は、「超人」とも形容すべき成功例である。

「経済活動」を個人に応じて盛り上げているという条件を満たす限りは文句を言われないという点で、わが国の二度に渡るファシズム経験は、「多様性と自由」を許容する。現在のファシズムは、経済的苦境に発した(とされる)第二次世界大戦前のファシズムと、同形の道程にある。当時の経済においても、裸一貫からスタートした個人には、「真の経済活動の自由」とは、「野垂れ死ぬか搾取されるかの自由」の別名に他ならなかった。また、通貨発行権の統合過程は、「国際秘密力集団」との確執抜きに語ることはできない。つまり、経済活動の自由とは、現実に保障された存在ではなかった。当時のアントレプレナーから見れば、まず最初に、「中央銀行制度ありき」であった。その下に、圧倒的な経済的格差が存在した。金融工学技術の発展は著しいが、「「信用」供与の方法」と(手持ちの)資本の非対称性、という金融の基本的な仕組みは、むしろ強化されている。当時も今も、経済学の発展とは関係ないかのように、政商が幅を利かせ、常人では望み得ない安定さで、庶民と数桁は異なる利益を上げているのである。

経済活動の外面的な「自由」に比較して、不倫・LGBTに係る性向・煙草(や大麻)等の嗜好品・肥満は、厳しい制裁を受ける傾向にあるが、その理由は、これらの生活習慣がいずれもファシズムの「母体」となる「純血の人口集団」を縮小しうるためである。この傾向は、ミシェル・フーコーの指摘した「生=権力」の表出であり、ナチス・ドイツにおいて実行されたことは、周知の事実である。これらマイノリティの志向は、現代の日本においても、一種の贅沢品と見做されている。その好ましさに対する判断は置くとして、不倫に対する非難(2017年9月7日)は、思考を省略しがちな「マジョリティ」の相互承認の度合いを高めるという副作用も生起させる。現実には、マジョリティが幻想に過ぎなかったり、切り分け方によって容易に他者の判定が変わる危険性が認められる可能性があるにもかかわらず、である。「セット思考(2016年7月26日2017年6月4日記事の注も参照)」の恐ろしさは、本ブログの方々の記事で指摘したところである。単なる2×2の4通りの区分方法によっても、大衆という存在は、二段階の二者択一を強いられることにより、容易に一つの結論へと扇動される危険性を有しているのである。

第二次世界大戦前のわが国においても、現在の格差社会においても、個人が経済的に成功する上での「覇道」は、政商となるか、投機で一山当てるというものである。両者の方法は、同一人物の内部で結合すれば、より効率的に利益を生むものとなる。インサイダー情報が利用できるからである。さすがに現時点では、このような稚拙な方法が用いられないと思いきや、特区制度に係る各種の醜聞は、竹中氏を筆頭とする「学識経験者」が利益相反を承知で特定企業に有利な決定を下すという形で進められていることを明らかにした。特区制度は、見方を変えれば、企業にとっての租界」である。この方面に係る悪事の手口は、自然犯や庶民一人一人を相手とする詐欺とは異なり、100年経過しても、さほど進化することがないようではある。犯罪者同士の競争や、刑事司法機関との知恵比べが存在せず、後世への継承が限定されているためであろう。

金融取引市場という「鉄火場」の周辺で、若くて野心的な人物が「経済的成功を収めた人物」の役割を演じるフロント要員として、国際秘密力集団にリクルートされることは、暴走族が暴力団員の供給源であることと、まあまあ相似する。ただ、国際秘密力集団の権力の源泉は、多岐に渡る権力を利用した二項対立構造にある。このため、彼らは、たとえば、政・官・財・軍・学、各界の出世街道においても、彼らの役に立つ「犬」を見つけなければならない。国際秘密力集団という権力ネットワークが存在すると仮定すれば(、そう考えて良いだけの材料もあるが)、このような徴募ルートも存在すると考えること自体、特に不自然なものではない。われわれは、社会に組織があることや、それらの組織に固有の目的があることを疑問に思わない(ように教育されている)し、「高度に発達した組織」を「専門家が運営・自治」するというスタイルにも、疑問を抱かない。ポイントは、リクルートされた「フロント要員」の才能次第で、「支配」が「善き人間牧場」にもなり得れば、「地獄」にもなり得るという点である。

国際秘密力集団の主要ツールの一つは、通貨発行権と、この権利の「(国家権力からの)独立性」である。2017年9月8日朝刊の『日本経済新聞』「デジタル通貨 中銀に待望論/英中など構想 日本も研究/金融政策 効力堅持へ」(1面14版)で、仮想通貨に中央銀行が取り組もうとしていることが1面で報じられたが、その記述は、欺瞞に満ちている。一時期、ビットコインは、Torを利用したアングラ仮想市場である『Silk Road』を通じて、薬物や武器等の違法な取引にも使用されていた。この仮想通貨に「信用」を与えたのは、地下経済とそのネットワークでもある。これに中央銀行が新規に介入することは、中央銀行が違法取引に対しても積極的に信用を供与したということになる。犯罪者たちが不換紙幣を使用するのは、一国の社会に承認された道具を利用している(ただ乗りしている)だけであり、これは、やむを得ない種類の脆弱性である。他方、犯罪者たちが形成した信用供与のネットワークに中央銀行や主要都市銀行が介入しようとすることは、順序が逆となるのである。それとも、両者は、同一種類の道徳的主体であるのであろうか(棒)。


明らかに、ウォシャウスキーきょうだい(平仮名なのは故意)の『マトリックス』は、違和感に発する「ファシズム」をモチーフに作り込まれている。なお、『アノニマス』を産んだ『V・フォー・ヴァンデッタ』へと続く流れは、明らかに、一つの啓蒙的集団を意図している。なお、『マトリックス』第3作の機械を『未来少年コナン』だと思った観客は、きっと中年世代に違いない。というので、「緩い絆」からの連想オチになるが、宮崎駿氏の人となりを知らなかった(2016年11月13日)川上量生氏が「人工知能をして回帰分析を語らしめることが面白い」という旨[2]を、組合せ爆発の恐ろしさを知らずに宣い(2015年5月14日記事も参照)、挙げ句に、(両建ての古典でもある)グノーシス主義に由来する、「仮像された(=換骨奪胎された)」種類のシンギュラリティ仮説[3]を無邪気に肯定することは、これまた『マトリックス』ばりに入り組んだ「誤解の迷宮」というべきであろう。耳学問であるにしても、川上氏の理解は、どうにも、「知恵のある側近」から得られたものではないという印象を受けるものである。地位と知恵とが連動していないのは、「わが国」のITビジネスが「他国」のものに太刀打ちできない理由であるように思われる。藤井太洋氏の『ビッグデータ・コネクト』(2015年4月, 文春文庫)のディテールは、完全に「中の人」のそれであって、CCCの図書館業務を彷彿とさせるような、同時代的な危険性を、文字コードというネタまで織り込んで、的確に提示したものであるが、藤井氏の著作に見られるような知恵が、一体どうして、トップに到達しないのであろうか。そう言えば、川上氏が宮崎氏から叱責を買ったのも、ゾンビのような動きの人工知能をプレゼンした場であった。人工知能というバズワードは、図らずも、当人の器量を明らかにしてしまうようである。


#本稿は、尻切れトンボであるが、ここまで。まだ手を付ける余裕がないが、藤井氏の話を取り上げたので、ここに開陳しておくが、ペンネームそのものの効用や、小説の形を取り現実の危険を指摘するという方法も、「分かりやすい嘘」の一つであることは間違いない。若杉冽氏の紡ぐ物語も、ここでの指摘に含まれる好例である。山本七平=イザヤ・ベンダサン氏の問題点は、読者の誤解をペンネームによって誘ったことであり、対照的に、(意向を尊重して名寄せしないが)賀茂川耕助氏のブログは、このペンネームに派生する原則に忠実であるがゆえに、傾聴されるべきである。


[2] 川上量生「中国のネット管理政策は正しい」 | 最新の週刊東洋経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
(長瀧菜摘、2017年08月22日)
http://toyokeizai.net/articles/-/185263

僕は手法として面白いと思った。ただ、あれはAIではなく普通の統計技術を使っているだけで、番組制作者が言いたいことをAIが言った体にして、「AIがそう言っているんだから、しょうがないじゃん」みたいな話にしていて、それが斬新ではある。

たぶん、機械に主導権を奪われる未来は来る。〔後略〕

[3]ジャン=ガブリエル・ガナシア, 伊藤直子監訳, (2017=2017)『そろそろ、人工知能の真実を話そう』, 早川書房.の第5章ならびに第8章は、川上氏への反論ならびに批判として、時宜に適った好著である。ガナシア氏の筆致からは、「国際秘密力集団を誠実に語る上でのルールを知る」学識経験者として、貴重であるという印象を受ける。




2017年9月10日13時15分追記

本文中の日本経済新聞の記事名を出典として明示した。

また、道化や漫才師が笑い(冗談)を通じて真実を伝えることも、「嘘に託して真実を語る」種類の事例として挙げることができよう。ウーマン村本氏がネット右翼に「おもろない」と評されることは、笑いの品質だけが貶められることであって、ウーマン村本氏の批判そのものが無効化される訳ではない。とにかく、フィクションに真実を織り交ぜるという方法論は、自己言及のパラドクスの応用例であり、真実を伝えようとするときの人類の知恵である。最初からこれらの意義を否定しきることは、色々と理解を貧しくする。しかし、この方法は、多用し過ぎると、真実と虚偽の弁別ができなくなるという点で、まことに厄介ではある。




2017年9月11日00時40分修正・追記

修正箇所を、淡赤色で示した。「ᴹ 」氏(@q_MW_p)の写真付きツイートの所在を確認、追記した。

『国際秘密力研究』の「菊池」氏が、「臑の傷」について、先行研究に忠実にツイートしているが、菊池氏の表現は、山尾志桜里氏まで権力の走狗であったように受け取れる程、「傾向」という表現によって一般化されたものとなっている。しかし、実際に山尾氏がそうであったかを判定することは、もう少し時間を置く必要があると考える。というのも、原発ムラとの確執を含め、山尾氏による結構な種類の発言が、国際秘密力集団の推進する政策に逆行するものとなってきたからである。山尾氏による原発ムラやTPP等への批判は、国際秘密力集団に許された範囲内なのかも知れないが、山尾氏の政治家としての実績を評価するには、物事の順序というものを考慮しなければならない。山尾氏が国際秘密力集団と何ら関わりのない善玉としてデビューし、頭角を現した後に、初めて国際秘密力集団からの接触があり、その要求をはねた後に、スケコマシのお相手が一種の「刺客」として送られてきたという場合も、論理的には成立し得る。もっとも、山尾氏が前原誠司氏を支持してきたことは、私の見立てに逆行する一つの材料ではある。ただ、国際秘密力集団とその権力の源泉という「おとぎ話」は、知る機会がなければ、一生知ることのない高学歴者もいるものと思われる(。この高学歴者の無知に係る主張は、体験的な印象から発するものであるから、一般化を必要とする)。

他者を国際秘密力集団の走狗と言挙げする例として、メイコウ氏の『イルミナティ』の巻末にある太田龍氏の「監訳者解説」による、五名の作家・ジャーナリストに対する言明〔p.443〕を挙げることができるが、このような言明は、複数の現象に対してある個人が国際秘密力集団を利する動きをしていなければ、避けられるべきことである。私から見れば、太田氏こそが前科者(テロ犯)であり、積極的な理由なく、名前の表記を変更するような、最大の走狗である。名前を変えるには、合理的印象を与える各種の方法がある。走狗であると判断できる行動の一種類に、通常人が変えない場合に、名前や読みの表記を変更するというものを挙げることができる。また、太田氏は、走狗の割合を過大推計しており、数量的感覚に欠けるようにも思われる。太田氏の「余計な一言」があるゆえに、『イルミナティ』という良著は、わが国では、かなり複雑な立ち位置を占めるに至った。太田氏の批判は、一種の自己言及のパラドックスである。成甲書房は、太田氏の「裏切り」によって、まんまと「米櫃に砂を撒かれた」のではないか。何より、名指しされた古歩道ベンジャミン氏が「世の中には、複数の秘密結社が存在しており、協力・敵対関係を変化させている」旨を指摘しているところである。以上が、太田氏の『イルミナティ』監訳業務に係る、現時点の私の見立てである。この見立てを変えるには、相当程度に衝撃的な内容の、確定的な情報が必要となる。(太田氏の実績に言及する前に、もう少し、余裕を見ておきたかったが、仕方ない。いずれは、言及せねばならなかったことでもある。)

つまり、世の中は、国際秘密力集団の走狗で満ちている訳ではなく、突出した事例が幅を利かせているに過ぎないのではないか。これが、私の見立てである。友軍誤射は避けるべきことであるというのが、私のポリシーの一つでもある。自然と記述が保守的になるのは、ご容赦いただきたい。





2017年9月12日訂正・追記

11日追記分を訂正・追記した。




2017年9月23日追記

22日、東京大学の古沢明教授と武田俊太郎助教による、汎用の量子コンピュータの基本原理を示した論文が、Physical Review Letters電子版に掲載された。私がこの話を最初に知ったのは、時事通信の記事[1]であるが、残念ながら、この記事は、何が大発明であるのか、読者に的確に情報提供するものではない。代わりに、メディアであれば『EE Times Japan』の記事[2]を、あるいは、直接、東大と科学技術振興機構(JST)の共同発表ページ[3]を参照すべきであろう。後者は、堅めの文章であるが、必要十分にどのようなブレイクスルーが生じるのかを理解させてくれる文章であり、サイエンス・コミュニケーションの好例であると評価できよう。

量子コンピュータには、いくつかの計算スタイルがあるが、その中で、量子アニーリングという手法は、組合せ最適化の計算を高速に行えるという特徴を有しており、実用化が進められている[4]。汎用量子コンピュータであれば、もちろん、組合せ最適化の計算にも高速に対応できる。この計算こそが、本文中で言及した「人工知能による回帰分析」にも活用できるということになる(。使用場面は、データのスクレイピングならびにクレンジング、各データのモデルへの投入・除外ならびに当てはまりの良さの計算、の二段階に分類できようが、いずれにも応用可能なものと考えることができる。後者については、確実であるが、前者については、不勉強のために、断言はできかねる)。

量子コンピュータもここ数年のバズワードであるのだから、川上量生氏の口からこの語が語られていた場合、東洋経済の記者は記事に組み込んでいたであろう。逆に、このような連関は、川上氏の中では生じていなかったということになる。拙稿では、微妙な表現であるが、人工知能の自律性を否定する論考において、量子コンピュータに触れてはいる(2015年12月3日)。なお、この記事では明記していなかったが、茂木健一郎氏が「アハ体験」に量子効果が関係している可能性を指摘したのは、ロジャー・ペンローズ氏の量子脳(仮説)を受けてのことである[5]。川上氏は、人間の脳と人工知能研究と量子コンピュータとの関係性を解説してくれる側近に恵まれなかったということである。なお、忘れない内に一言だけ触れておくが、苫米地英人氏は、いずれかのYouTube動画で、専門でもある人工知能の話を、ざっくりかつ的確に解説していたはずである。


[1] 大規模計算、効率良く=新方式の光量子コンピューター―東大 (時事通信) - Yahoo!ニュース
(2017年9月22日22:23)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170922-00000068-jij-sctch

[2] 究極の大規模汎用量子コンピュータ実現法を発明 (1/2) - EE Times Japan
(竹本達哉、2017年09月22日13時01分)
http://eetimes.jp/ee/articles/1709/22/news018.html

[3] 共同発表:究極の大規模光量子コンピュータ実現法を発明~1つの量子テレポーテーション回路を繰り返し利用~
(2017年9月22日)
http://www.jst.go.jp/pr/announce/20170922/index.html

[4] 量子コンピュータ開発が加速、用途は人工知能:日経ビジネスオンライン
(中田敦、2015年12月18日)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/061700004/121600061/?P=1

[5] 『ペンローズの量子脳理論:21世紀を動かす心とコンピュータのサイエンス』
(ロジャー・ペンローズ〔著〕、竹内薫・茂木健一郎〔訳・解説〕、徳間書店、1997年)
http://id.ndl.go.jp/bib/000002595352
#リンクは国会図書館。

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