2016年10月20日木曜日

専門家による人格攻撃:「分かりやすい嘘」の応用法

#本稿は、豊洲市場に係る別記事(リンク)を別の言葉で言い換えたものである。あまりにもったいないので、記事数を増やすというやくたいもない目的のために、再利用することとした。URLの英文と和文タイトルは一致しないが、それぞれの言語環境の文脈に照らして使い分けることとした。

 陰謀論を報じるジャーナリズム等における「分かりやすい嘘」の効用には、真実と抱合せで「セット販売」することにより、権力者にとっての「都合の悪い真実」を公知のものとするというものがある。この方法は、諜報の世界の(表向きの)ルールである「言いたくないことは言わなくとも良いが、わざと誤りを述べてはいけない」という原則に逆らうものであるが、諜報の世界に属すると見ることのできるメディアにおいても、この規準(=プリンシプル)に反する事例を見出すことがある。他方で、このセット販売は、学問のルールには明確に抵触するものであるから、できる限り避けなければならない。これらの概念は、以前、2点の記事にまとめている(リンク1, リンク2)。

 専門分野について、分かりやすい嘘であっても意図的に嘘を吐いてはならない、また、相手を誤解させないように話すべきである、という「誠実性」は、専門家に求められる資質の一部である。わが国では、専門家の誠実性は、その道で地道に研鑽を積めば、自然と肌身感覚として養われるものと考えられていよう。専門の研修課程によって「型」の定着を促進することも可能であろうが、メンター(精神的な指導者)の存在に触れることが重要であるという理解は、近年、とみに有力である。

 ほかに、専門家としてのプリンシプルの一つには、批判を行う場合には、個人の人格攻撃を避けるというものも挙げられる。私は、大半の日本人の常識的感覚からすれば、明らかに「貧乏農場」組である。それでもなお、学者として尊敬に値する人物の作法に、相手の人格を貶める発言をしないというものが含まれること位は忘れていない。この言明を「嘘吐きのクレタ人」によるものと考えると、話がややこしくなるので、とりあえず、本記事のここまでの議論は、いったん信用してみて欲しい。ただ、専門分野に係る話題を取扱うときに、のっぴきならないほどの悪意に直面した場合、これに対していかに批判を返すのかは、時代と場所を超えた、人類普遍のテーマであろうと考えられる。この種のルール破りへの対応方法が難しいことは、ソクラテスの毒杯の故事に端的に表現されているように思う。

 専門家の社会的発言には、利益相反関係を有さないという規準もある。ただし、専門家が自身の家庭を維持できる程度に適正な労働の対価を受領することは、後世の検証材料として衆目に晒されることを前提に、許容されるべきことである。この基準を許容しないと、わが国では、ほとんどすべての社会活動に関与する専門家が欠格となる。大半の人物は、マスコミに無償で出演することも見合わせることになる。一見、気兼ねなく発言できるのは、年金暮らしの高齢者ばかりということになるが、これら高齢者もまた、世代という共通の利害から逃れることができず、元の職場等における人間関係等から生ずる利益相反関係から完全に自由ではない。(元の)職場において形成された友人関係・人間関係は、他者がある専門家の言動を批評する際、扱いに困る材料となろう。極端に言えば、人間は、生きたままでは、利益相反関係から自由になれる訳がないと見ることも可能である。

 とは言っても、直感を許すならば、「分かりやすい嘘を吐く」「相手を煙に巻く」「個人の人格を貶める」「論拠ではなく悪意を先行させる」ことが、いずれも専門家らしからぬ態度であることは、受け入れ易いことであろう。ここに示す規準のそれぞれは、いざ論証しようと思うと、なかなか難しいことであり、ギリシア古典哲学以来の哲学の課題であり続けてきたように思う。本稿で扱いきれる話題ではないから、私の理解は、別途、ゆるゆる積み上げてみることにしたい。最初の二つの命題は、それなりに表現が異なるものの、安富歩氏の『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』, (2012年1月, 東京:明石書店、NDL-OPAC)で説明されていたはずである。

 三番目に挙げた「個人への人格攻撃」は、ケネディ大統領暗殺事件に関連して作成され、後に公開されたCIAの文書によって、政府の工作活動の一環として行われうることが公知のものとなっている(リンク1)。政治的事件に係る真実を(学術的に)追究する個人に対しても人格攻撃が行われるという危険は、福島第一原発事故後のわが国においては常態であるが、歴史上も認められることである。白井聡氏の表現を借りれば、今日の日本社会が「本音モード」(『永続敗戦論』, 2013年3月, 太田書店, p.25)に入ってきたことの表れであるとも言える。なお、白井氏の論説については、稿を改めて検討したいが、後段で少しだけ批判することになる。

 ここまでに示した命題が正しければ、専門家による理由を伴わない人格攻撃は工作活動の一種である、という「定理」が導かれる。専門家とて一個の人格であるから、他人に対する好悪の情は当然に存在する、と仮定することに何の問題もない。しかし他方で、専門家が自身の分野を説明する際には、論理を先行させなければ好悪の情の理由を説明することすら適わない、という論理は、専門家の認知機能に深く刻み込まれているであろう。この論理が適用されていないかに見える専門家の言動は、真に専門家ではない人物によるものか、専門家による言動ではあるが別の理由に駆動されているか、のいずれかに該当しよう。専門家である・ないの区別と、何らかの特別な理由がある・ないの区別からなる4通りの組合せのうち、3通りによるという訳である。

 多数の専門家が論理を尽くして議論するためには、論敵に対する一定の節度が必要である。論者がどこまで腸を煮えくり返らせていてもである。自然犯という、被害(者)が基本的に存在する主題を取り扱う犯罪学においては、間違いなく、この自制は被害の当事者には困難な障害となる。この点、心の安定のために邪悪を避けるという選択肢が法学や犯罪学に端から存在しないことは、明白である。認知科学にも存在しないであろう。ある犯罪とラベルを貼られた行為に邪悪さがあるか否かは、考察者の言葉として外部に表出されるか否かは別として、常に検討される手続であろう。およそ、例外(状態)なる概念を考察する学問分野は、邪悪という例外を避けることは避けられないように思う。他者により犯罪被害を受けた当事者がこの節度を維持しながら論理を構築することには、心の強さが必要である。心の強さとは何かという考察には、あと30年くらいは必要そうなので、考察を省略し、とりあえず「心が強い」と表現するとして、心の強い当事者による告発は、他者の心を打つ可能性が高くなるものである。しかし、この命題を受け入れようとすると、このような論理の構築を心の弱い者が行うことは不可能であるのか、あるいは、このような不幸を経なければ同種の論理を構築することが妨げられるのか、という二種類の厄介な「言論者の資格」に係る疑問が生じることになる。

 少々脱線すると、被害者だけが当事者足り得るという極論の怪しさは、「司法実務に従事した人物だけがそれらの業務を評価できる」という条件の緩め方では明らかにはならないが、「大罪を犯した者だけが人生の悲惨を述べることができる」という方向に少しだけ条件を緩めた途端、露わなものとなる。これに対して、「犯罪学者は、(犯罪者の行動について理解する必要はあるが、)犯罪者となる必要はない」という命題は、今のところ、それほど明解な考察を経ることなく、妥当なものとして受け入れられている。ただ、この対偶となる「犯罪者は、犯罪を説明できる」という命題に接すると、これを否定する学識経験者の差別性が明らかになるのは興味深いところである。先の「嘘吐きのクレタ人」の比喩が表れるのである。「犯罪学者が自殺を論じるのに、自殺を企図する必要はない」という命題も、疑問なく許容されている。「失業と犯罪との関係を論じるのに、失業する必要はない」についても、名のある学者の多くが言及しないままに失業を論じているし、「平均的日本人」のうち(#私は、統計と構築主義については多少物を知っているつもりである)、考えてみたことのある者の割合も少ないであろう。他方、「企業労働者と犯罪との関係を論じるのに、企業の就業経験は必要ない」という命題は、多くの日本人には、耳に逆らう高慢さに受け取れられるであろう。「教師には社会経験がない」という表現は、この種の反発を端的に示すものである。以上の脱線部分に係る議論は、私の中では、想像力こそ基本という、独善的なものに置き換えられている。ただし、ここで言論に携わる者の要件の免罪符として、想像力を導入したり、(犠牲となった)仲間(対する贖罪)意識といったものを導入したりすると、臆病者が「戦後」に発言することを認めることにもなる。ハンナ・アレントの考察は、ここでの考察に役に立ちそうな気がするが、だからと言って、これを全面的に認めると、これまた勝者総取りのルールとなる。私には、タイムリミットが来るまでに、答えが出そうにはなさそうである。

 ただ、このような多様な背景と個性を持つ論者からなる多人数の集団から有益な議論が引き出されるためには、一定の秩序が必要となる。その秩序は、匿名・顕名の入り乱れる中の刹那的な応酬から立ち現れるものと、顕名で長期的に議論を行う中で築き上げられるものとでは、内容が異なるものになるであろう。本記事で私が念頭に置く議論とは、後者、つまり、専門家が公益を議論する場合である。自分の食い扶持だけが賭けられた場合と、一国の興廃が懸かる場合とを比較すると、本来、これらのモードには、異なる議論の雰囲気があって然るべきである。発した言葉が影響する範囲の広さが異なるのである。

 現今の日本社会のポピュリズムが悪いとすれば、それは(特に社会的に身分のある)個人が言行に責任を取らないからであり、輿論の取扱いを通じて私益を図る者が多数であるためである。この論点は、真の意味でのエリート主義、ノブレス・オブリージュにつながるので、現行スタイルのポピュリズムが蔓延した社会において、「右」と呼ばれる者に避けられがちである。他方で、この論点は、「勇ましいことを言う者から戦争に行け」「安全だという者から率先して食え」という意見に代表されるように、「左」とされる者からはしばしば提示される議論である。私は、戦争と福島第一原発事故についての上掲の意見に賛成するが、それは、わが国の1%が99%を犠牲にして、戦争と福島第一原発事故の双方ともから利益を得ている現状を前提にするからである。わが国の1%の全員が我が身を擲って、99%に降りかかる個人別のリスクの分量を遙かに超える個人のリスクの分量を引き受け、戦争の予防と福島第一原発事故の収束に協力を呼びかけるのであれば、私はその呼びかけに賛成する。なお、1%は既得権益層であるが、従来の既得権益層と呼ばれる99%の中には、たとえば、農林漁業者が含まれる。連合は99%のふりをしているが、ここ20年の労使交渉が先進諸国との給与所得水準に実質的に倍程度の差を与えるものとなった事実を踏まえると、1%に含まれる。この違いは、区別する必要がある。民主党時代まで遡る必要があるが、円高の時期に海外を旅行した者であれば、一回の食事代に日本における同ランクの食事の倍程度の金額を要したことに気が付いているはずである。家賃については、一見評価が難しいように見えるが、わが国に広く見られるスプロールと通勤時の混雑という外部不経済を加味すれば、やはり割高である。

 「差異ある共通の責任」を国内環境にも導入し、1%の引き受けるべき責任が追及されていない事実を前にすると、専門家が嘘を吐いてまで「お上」の政策に批判的な庶民を人格攻撃する理由は、言論のプラットフォームを破壊するという悪意によるものと看破することができる。現今の福島第一原発事故に係る御用学者の発言は、(満州事変に始まる)アジア・太平洋戦争の敗戦直近における、証拠隠滅作業の一環に対比できる行為であり、故意によるものである。彼ら1%の行動は、白井氏の言う「否認の構造」には、決して当たらない。福島第一原発事故に対し責任を有するという自覚があるからこそ、後世において自国民から断罪される虞のないように、各種の言論工作に奔走するのである。東大話法は、話者の私益を追求し、庶民の1%への非難を煙に巻くためのツールである。確かに、大江健三郎氏が発言した内容を白井氏が引用するように、99%は侮辱の中に生きているであろう。しかし他方で、わが国の1%の大半は、自らの生存という大目的、そのための利益を確保するという中目的に基づき、もっぱら当座を凌ぐという小目的の達成のために、人格攻撃すら厭わなくなっているのである。


0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントありがとうございます。お返事にはお時間いただくかもしれません。気長にお待ちいただけると幸いです。