2016年8月3日水曜日

自称「懐疑主義者」が陰謀論の解明を阻害してきたという外形的事実と、今後の陰謀論業界の動向を推定する

懐疑主義者が、調査の利便上、懐疑主義を研究するための組織を形成する、または既存の組織に参画する、ということは、あって全く不思議ではないことである。このとき、組織本来の目的を逸脱する意図を有する人物によって、その組織を利用した研究・広報活動が本来の目的から逸脱しようとする場合もあり得よう。その場合、本来なら、懐疑主義者は、その状況に対して、疑義を呈するであろう。それは、その懐疑主義者が真に懐疑主義的であるならば、当然の展開である。同様に、組織の名によって、何らかの情報が外部に発信される場合には、発信される内容にその組織における健全な多様性が反映されるよう、注意深く関与するであろう。この予想、あるいはこの予想から派生する懐疑主義者に対する期待も、もちろん、懐疑的であるという懐疑主義者の習性に由来するものである。

組織というものは、いったん確立すれば、個人によって利用されるという余地を常に生むものである。それは、組織化に伴う分業や指揮命令系統という、組織のメリットそのものに由来する特徴である。組織が組織としての長所を発揮するために、分業・専門化は、必須である。分業しない組織は、おおよそ、個人の集積と変わらないであろう。組織に所属すること自体を組織に所属するメリットとみなすことはできるが、メンバー間のコミュニケーションによって個人の行動に何らかの棲み分けがなされる場合、これは、一種の分業と言って良いし、組織に所属したことによって相互の安全保障や外部の敵からの相互扶助が達成される場合には、この機能自体が共同することから生じる一種の分業であるとみなすことは、さほどの無理筋ではない。いずれにせよ、分業体制が組まれると、個人が分業体制通じて組織を動かす余地が生じる。この点に思いが至らない懐疑主義者は、懐疑主義的ではなく、懐疑主義者を自称する観念主義者に過ぎない。自分たちの所属する組織に対して、懐疑的であってはならないという考えは、まったく妥当ではない。

本稿の読者は、現在のところ、大変ディープな方たちか、または、偶然迷い込んだ方かのいずれかであろうから、私が念頭において記述した組織の名称については、わざわざ注記する必要もないであろう。ここで、懐疑主義者の研究組織を考察する上で、大事な観点を導入しよう。それは、陰謀論と呼ばれるコンテンツの一部に、現実の(莫大な)利益が直結しているという基本的な命題である。例を挙げれば、中央銀行制度に対する疑義というものは、このコンテンツの最たるものである。

現実の利益と分かつことのできない陰謀論上のコンテンツが存在するという事実は、ある言語における陰謀論の動向を注意深く観察し、核心的な利益を確保するために必要となる介入を行うという活動に対して、価値を発生させる原因となる。この種の活動は、すでに設立されている懐疑主義者の研究組織に潜り込みこれを乗っ取るか、あるいは、懐疑主義者のための組織を新規に立ち上げ、そこでゴキブリホイホイのように活動の大半を囲い込むかのいずれかによって、比較的容易に達成できる。何なれば、相手国が仮想敵国であれば、この活動は、相手国の財政を上手に利用することにもつながることを期待できる。

いずれにしても、陰謀論における特定命題(の取扱い)が特定集団の利益と関連している場合、陰謀論に係る組織的研究活動を監視する活動の存在を単純に否定することは、あまりスマートとはいえないことである。その説明自体が、健全な懐疑主義者に対して、余計な疑念を呼び起こすスイッチとなりうるからである。否定する役割を与えられた者の説明があまりに稚拙であると、かえって疑念を深めることになる。大抵の社会的出来事に係る陰謀論は、この疑惑が深められた状態に達している。私には、伝統的な情報流通産業が築き上げてきた正統的であるというイメージによって、どうにか、これらの疑惑を抑え込もうとしているように見受けられる。この状態は、インターネット時代において、疑念を有するに至った懐疑主義者をなだめることもできず、にっちもさっちもいかなくなった終末的な状態であろう。喩えれば、「デバンク」側の「マスコミ砦」がインターネットによって陰謀論者に包囲された状態である。無論、カラー革命に代表されるように、インターネットを乗りこなす試みも進められているが、今年のアメリカ大統領選挙に係る動向のように、揺り戻しもあり、必ずしも成功したとは言い難いであろう。

大事なことは、この種の役割を与えられた組織が論理上存在することを、単純に否定することではなく、その実態を追跡しにくくすることである。最善は、全対象者がこの組織が望ましいと見なす理解のあり方に、学習を通じて到達した状態である。しかし、この理想的状態は、達成条件が厳しく限定されたものである。次善は、誰が、どのような形で、どのような報酬を獲得しつつ、この種の業務に具体的に従事しているのかを、重要人物については、見えにくくすることである。敵国が相手であれば、「健全な懐疑主義者」の候補を要職に就けず、これらを徐々に「利用しやすい間抜け」に置き換えていくことは、一つの方法となろう。逆に、この種の活動を防護する側は、「利用しやすい間抜け」が間抜けであることを示すなどの方法によって、期せずして国益を毀損する人物を、注意深く、国益に資する人物に置き換えていくなどするであろう。これらの方法は、攻撃側も防御側も、ともに利用可能である。

応用例として、監視側にとって、「健全な懐疑主義者」を、人格に問題があるかのような出来事に巻き込むというものもある。しかし、この方法は、基本的には邪道であり、利用を避けるべきものである。というのは、第一には、この方法論が公知のものとなった場合、一般人であっても、この方法に対する「気付き」を形成してしまい、何に・誰に対しても、この教訓を応用するようになるからである。第二には、この方法が一種のルール違反であって、ルール違反をすること自体が先進国としての要件から自国を遠ざける可能性を生じさせるためである。このルール違反的手法は、一種の麻薬のようなものであって、即効性はあるが、担当者に真の国益を見失わせ、相手(国)の良識ある懐疑主義者に、嫌悪感を催させる可能性が高いものである。無用な反感を買うこと、真の国益に照らした場合には、大きなマイナスとなりうるのである。

可能であるならば、陰謀論に係る言説は、言論の正しさ自体によって防護されるべきである。この点、中央銀行制度に係る思想は、かなりの成功を収めたものとして、参照に値する※。中学校において、全中学生は、「日銀の独立性」を学ぶ。この一方で、現政権には、通貨発行量を増大せよと日銀総裁に詰め寄るという場面を演じさせる。「日銀の独立性」というフィクションは、大多数がこれを一種のアングルであるとは捉えなかったゆえに、証券取引を活発化させ、株価を上昇させ、価格の振れ幅(ボラティリティ)から利益を得ることのできる大口取引業者を潤すという循環を生み出すことに成功した。

※ ただし、国民国家へと各国家が回帰しようとする現時点において、この事例は、必ずしも、私が取り上げるに相応しいものとは言えないのかも知れない。

冷戦などという「大きな物語」の下にないままに国民国家同士が勢力の均衡を目指す現時点以降の国際社会においては、陰謀論のいくつかの主題については、思い切った転換によって、当時の事情を「白日の下に晒した」(あるいは晒したかのごとくに見せる)方が、結果として、陰謀に従事した集団や組織に対するダメージを低減できるかも知れない。真に責任を有する集団や個人に対して、全ての責任を負わせて、司法取引を図るという方法を目指すのである。その結果、陰謀論に係る言論界についてもパワーシフトが起こることは、やむを得ないであろう。しかし、そのパワーシフトに伴う怨嗟の声は、さほど問題にならないであろう。なぜなら、自称懐疑主義者が真に懐疑主義者であったとすれば、単に本人が反省すれば済む話であるし、そのように自らを改めるにやぶさかでない人物であれば、健全な方向への転換にも、スムーズについていけるであろうからである。他方、懐疑主義者を自称してきた観念主義者は、このような変化について行くことが難しいであろうから、ご退場願うことも必要となろう。狼少年がついに狼少年として処遇される日が来るという訳である。この種の観念主義者との手切れは、少々の関係性が生じていたとしても、スムーズにいくはずである。社会の側や陰謀論者の側は、ここぞとばかりに、たとえば9.11についての自称「デバンク側」を嘘吐き呼ばわりするであろうから、非難されている側が何を主張しようとも、なかなか聞く耳を有してもらえないであろうからである。

従来の陰謀論によって利益を得てきた層にとって不幸であったのは、国民国家として、許容されるレベルのルール破りと、真のルール破りとを見分けるための能力を有し、その具体的な線引きを実行できるだけの人材を、適切に配置してこなかったことにある。わが国に限定して言えば、重要な任務に従事するはずの言論業界や社会科学系の研究者という職務に、能力不足気味の人材しか配置できなかったことは、利益を得てきた集団にとっては、大変に不幸なことであった。もう少し、優秀なフロントマンを雇うべきであった、というのが私の率直な感想である。

基本的に原則論的なことを記しながら、ようやく、私が陰謀論に係る日本の話題を避けてきた理由の全体を、おぼろげながら記述することができたように思う。わが国における、健全な懐疑主義を謳う団体は、すでにデバンクされてしまっている人材が跋扈し、それが見破られている末期的状態にある。これらの団体が健全な機能を発揮していることに対して、社会の同意を再び得ることができるようになるためには、これらの団体は、デバンクされた人物とは切り離された形で、再起動される必要があろう。現状のように、恥の上塗りのような形で機能している状態は、見苦しいものと言えるし、「陰謀を指摘する側も、否定する側も、どっちもどっち」という状態を作り出し、工作費を無駄遣いしているだけでもある。また、迫り来る9.11の再検証に向けて、これらの無能なフロントマンには、交替しておいてもらった方が一般の信用を得やすいという事情もある。

インターネットの普及は、ある事件についての可能な考え方を、おおむね列挙して網羅するという状態を実現した。人々は、それらの説の中から、自分の好みと判断を通じて、好きな説を選択できる状態にある。このとき、重要なのは、キュレーションのセンスであり、各説を提示する人々への信頼感である。また、世界が子ブッシュ政権時代を経験したために、われわれは、世界各地の一般人であっても、生半可な説明ではなく、誰が利益を得たのか、その報酬が正当で適正なものかについても言及する説明を求め、好むようになっている。ゆえに、今後の世界は、陰謀論に対しても、科学的思考やそれに準じた方法、また功利主義が適用される時代を迎えることになるであろう。科学的態度は、虚偽と事実を見分ける上で、多くの人にとって、便利な方法である。また、功利主義が重視されるのは、陰謀論が持ち出される背景に「利益を生み維持する構造」の存在が認められてきたため、また、今後も認められるであろうためである。今後の世界では、陰謀論によって誰が利益を得たのかを問い、そこに不正があればその是正を求める一方で、国民国家として正な理由があれば、その理由に理解を示すという、ごく基本的な思考過程が判定基準となろう。陰謀論の産出・是正・解呪に従事する職業人は、その職務の範囲に忠実であったか否かを、今後、厳しく問われることになろう。

デバンクって何じゃ?という方には、下記に参考リンクを示した。同サイトは、私が陰謀論について一般人以上に知識を深め始めた時期には、すでに十分知られていたように思う。(デバンクそのもの用語を説明するサイトではない点に注意すべきである。)

参考:奇説珍説博物館 | トンデモミュージアム
http://www.tondemo.info/




平成28年9月2日・11日修正

淡赤色の部分を意味が通るように修正した。




平成29年10月28日修正

淡い橙色の部分を訂正し、前回修正部分の削除記号をコメント化した。あえて訂正したことを示すまでもない変更内容であると考えたためである。また、brタグをpタグに変更した。

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