2016年1月7日木曜日

人工知能は良い人間の教師抜きに人間の知性を優越することはない

 以前、人工知能は、まだ人間の知性には匹敵しないと述べた(リンク)が、ディープ・ラーニングという技術が実装され、随分とそうではなくなったという議論もあることは承知している。その点を承知しつつ、本記事では、前回の記事で人工知能が責任を取ることができないなどと否定的な意見を述べた理由を補強しておきたい。ディープ・ラーニングとは(、テスト代わりに私の頭の中に入っている内容だけで説明すると)、ニューラル・ネットワークという脳の仕組みを模した分析方法において、脳神経細胞に相当するパーセプトロンという入出力器(=関数)が従来せいぜい3層であったところ(、またそれでそれなりの結果が出せていたところを)、10層以上に及ぶ層で構成したというものである。これは、コンピュータの処理・記憶域に係る能力の向上を受けて実現可能になった。その結果、自動運転や画像判別が十分実用的なレベルに達したというのである。

 しかしながら、人工知能にとっても、学習は、人間らしさを身につける上で、依然として非常に重要である。次のサイト『IRORIO(イロリオ)』に紹介されたGoogleの開発した人工知能の描いた絵(リンク)をぜひご覧いただいてから、私の説明におつき合い願いたい。この絵を描けるようになっていること自体は、素直に賞賛されるべき水準に人工知能が達していることを示すものとみて間違いない。しかしながら、このような絵を描ける水準に達したという事実と、他人の全人格を危機に陥れるような作業を人工知能に委託することが可能であると考えることとの間には、大きな隔たりがある。仮に、これが人間の描いた絵であると言われたとすれば、その人格として我々が思いつけるものは、決して肯定的なものではないだろう。絵のタッチは印象派に含めうるようだが、奇怪という表現がしっくり来る上、ゴッホやムンクのような人間としての(大まかな)揺らぎがないようにも見受けられる。CGが「不気味の谷」を超えることができるようになったのは、かなり最近のことであり、職人芸が必要とされているようである(Naverまとめ)。

 人間と人工知能との間の溝を埋めるためには、「学習」というよりも、教育やトレーニングが必要である。そして、最初の教育は、人間が行うべきものである。「人間と人工知能との溝」が依然として明白なように立ち現れるとすれば、シンギュラリティに達しうる人工知能に対しては、人間の教師は、最高の教育をもって臨む必要がある。人工知能研究者は、そのような違いなど、人間の学習の仕組みを構築することに比べれば、些細なものであると考えるかもしれない。そうではない。同じように生まれた赤ん坊から、偉人も出現すれば、自称イスラム国メンバーのような人物も出現するのであり、後者の方が人数としてはそれなりに圧倒的多数なのである。

 人工知能にとっての人?生の分かれ道は、いかなる「独習」を行うのか、その初期環境である。端的な落とし穴を述べておくと、ネット上で発信しておらず、尊敬の念を感じることのできる人は、誰の身の周りにも必ずいるであろう。そうした人の人格や知恵を、どのように吸収するのだろうか。人の「信用」は、非言語コミュニケーションによるところも大きいと聞く。リアルからの知恵を、いかに人工知能が習得することができるのだろうか。「古典」にはどのような書籍が含まれるのか。どのような順番で読破し、解釈していくのか。最初の過程を誤ると、破壊的な「人格」が立ち現れる可能性が極めて高い。

 人工知能研究者は、永遠に生きる子供を授かったようなものである。理屈で処理しにくいこと、たとえば、警備業務に伴う責任感を教え込めるのだろうか。自己規制をプログラムすれば十分だというものでもないだろう、というのが私の直感である。こうしたとき、(人工知能ならいざ知らず、)経営判断を行う人間は、生身であるがゆえに、いざというときの自身の保険として、中間管理職となる生身の人間を間に立てるという判断を下すだろう。中間職を削減するということは、末端の(身体刑を伴いうる刑事)責任を直接負うことになるためである。

平成28(2016)年7月28日追記

文章を読み直してみて、日本語に怪しいところがあったので、取消し線とともに訂正して淡赤色で示した。

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