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2023年12月11日月曜日

メモ:2020年3月13日のアメリカ合衆国・国家緊急事態宣言の和訳

補足・はじめに

全文を和訳したが、今回、下敷きとしてGoogle翻訳を利用してみた。おそらく他者がどこかクローズドである筈の場所で先行し和訳したものを参照した結果が一部に返されている、と認められはした。が、全文に逐一手を入れてはある。本段落で事情を明かさなければ、看過されてしまった作業過程とも思われる。

機械翻訳が全ての文の構文をほぼ正しく訳出していたことには驚かされた。ただ、機械翻訳は、接続詞のandとorを日本語で正しく配列することが苦手なようであるとも見える。これは、私を含めた日本人による典型的な翻訳上の誤りを反映しているものとも認められる。andとorで括られる塊を正しく配列できるようになれば、大抵の大学の学部卒の日本人や私よりも、機械翻訳の方が、速さは当然のこと、正確さも上回るように訳出できるようになってしまうのではなかろうか。

今回の作業は、人工知能の性能向上に改めて驚かされる体験であり、シンギュラリティの語を改めて実感させられた一幕であった。また、ここで敢えて挑戦的に記しておけば、私の今回の作業もまた、シンギュラリティを加速させてしまう方向に機能している。何故に挑戦的であるかといえば、日本語がおかしいぞ、と言いうることが出来るのは、ここ幾らかの間に限定されるであろうからである。我々に文句を付けようのない名文を人工知能が日本語でも産出し始めれば、また英文は第二言語の話者の能力を超えるようになってはいるが、人類に退避する言語は無くなっていくのではないかとも思えた次第である。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のアウトブレイクに係る国家緊急事態宣言の布告

発布:2020年3月13日

2019年12月、SARS-CoV-2(「ウイルス」)として知られる新規(新型)コロナウイルスが中華人民共和国湖北省武漢で初めて検出され、コロナウイルス感染症COVID-19のアウトブレイクを引き起こし、現在、世界的に蔓延している。保健福祉長官(HHS)は、2020年1月31日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応として、公衆衛生サービス法(42 USC 247d)第319条に基づき、公衆衛生上の緊急事態を宣言した。私は、米国でのウイルスの蔓延を制御するため、新型コロナウイルス感染症のアウトブレイクが生じた中華人民共和国・イランイスラム共和国・ヨーロッパのシェンゲン協定加盟国を含む特定地域に過去14日以内に物理的に滞在していた外国人の入国を一時停止することを含め、徹底的な措置を講じた。連邦政府は、州および地方自治体と共同し、外国から避難した個人に対する連邦検疫を導入、公衆衛生サービス法(42 USC 247d‑6d)の第319F‑3条に基づく宣言の発布、個人用保護具の取得を加速し研究室での新しい検査機能の導入を合理化するための政策の発表を含め、ウイルスの蔓延を遅らせ影響を受けた人々を治療するための予防的かつ積極的な措置を講じている。2020年3月11日、世界保健機関は、世界中および米国全土の多くの場所で感染率が上昇し続けているため、新型コロナウイルス感染症の流行はパンデミックとして特徴づけられる可能性があると発表した。

わが国コミュニティ内での新型コロナウイルス感染症が蔓延していることにより、わが国の医療システムは負荷を強いられつつある。2020年3月12日の時点で、47州の1,645人が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の原因となるウイルスに感染している。全国の病院や医療施設は、その準備態勢を評価し、収容能力と能力の急増に備えることが義務付けられている。しかし、米国でウイルスを成功裏に封じ込め戦うには、追加の対策が必要である。

今、これゆえ、アメリカ合衆国大統領である私ドナルド・J・トランプは、国家緊急事態法(50 USC 1601以降)の第201条及び第301条、社会保障法(SSA)第1135条及び同改正法(42 USC 1320b-5)に定められた範囲を含むアメリカ合衆国の憲法及び法律により、私に与えられた権限により、米国における新型コロナウイルス感染症のアウトブレイクが2020年3月1日を開始日とする国家非常事態に相当することをここに認め、宣言する。この宣言に従い、私は次のように指示する。

第1条 緊急事態当局。HHS長官は、SSAの第1135条に基づく権限を行使し、メディケア、メディケイド、及び州の児童健康保険プログラム、及び医療保険の相互運用性と責任に関する法律のプライバシー規則の特定の要件を、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行を受けて宣言された健康上の緊急事態期間の間、一時的に免除または変更できる。

第2条 認証と通知。この権限を行使する際、HHS長官は、SSAのセクション1135(d)の要求に応じ、証明書を提出し、議会に事前に書面による通知を行うものとする(42 USC 1320b-5(d))。

第3条 一般規定。(a)この宣言のいかなる内容も、以下を損なう、または影響を与えるものと解釈されないものとする。

(i)法律により行政部門、行政機関、またはその長に与えられる権限。または

(ii)予算、行政、または立法の提案に関する管理予算局の局長の職務。

(b)この宣言は、適用法に従い、予算が利用可能であることを条件として実施されるものとする。

(c)この宣言は、米国・その省庁・機関・団体、またはこれらの役員・従業員・代理人、またはその他の人格に対し、いかなる当事者によっても、法律または衡平法により執行可能な、実質的なまたは手続上のいかなる権利または利益を生み出すことを意図したものではなく、またそうするものではない。

これを証するため、主の御年2020年・アメリカ合衆国独立244年の3月13日、私はここに署名する。

ドナルド・J・トランプ

2016年11月13日日曜日

(感想文)ドワンゴが人工知能でゾンビ的な人体の動きを再現

本日(2016年11月13日)21:00~21:49の『NHKスペシャル』は「終わらない人 宮﨑駿」[1]であり、宮崎駿氏がCGを利用したアニメーションに初めて取り組む700日を密着取材していたが、そこで題名の件を知った次第である。再放送はNHK総合で11月16日(水)午前0:10。取材中(番組終盤)、株式会社ドワンゴ取締役会長の川上量生氏が、人工知能を利用したアニメーションについてプレゼンするために、開発チームとともに訪れる。そこで宮崎氏に提示されたのは、人体の重量・可動域と、おそらく筋肉量まで計算に含めて人工知能に計算させた、地面を這う人体の移動アニメーションだった。痛みを感じないために、(頭と胴体を尺取り虫のように利用して)這い回る格好になったのだと解説されていた。宮崎氏の反応は、次の@rienda0211氏のツイートに要約される通りであった。

人間が痛みを感じず、脳機能を最低限しか用いず、筋力をなるべく節約して移動するとすれば、確かに、ドワンゴのチームがプレゼンしたような形で、人間は移動するかもしれない。逆説的ではあるが、この動画から、人間や高度な動物の多くが痛みを感じることができることの不思議さと重要さを汲み取れよう。人間も、また動物の多くも、ほかの生物が少なくとも目の前で痛がられている場面に居合わせれば、(捕食であれ、保護であれ)その様子に反応できる存在である。以前、人工知能は良き教師あってこそと述べた(2016年1月7日)が、ここでも同じ提言を繰り返すと同時に、生物が同種に対して、ときには異種に対してさえ、痛みを感じることのできる存在であることを教える必要があると感じた次第である。

ヒトが何によってゾンビと分かたれる存在であるのかを探求する上では、ドワンゴのチームによるプレゼンは、何事かを提示したのではないかと評価できる。ただ、そのような学究的な興味は、人類の文化的活動の最高の成果を追求して止まない宮崎氏の方向性とは、明らかに別方向を向くものである。基礎研究に留まる内容を、いきなり実務の最前線の先頭を切って走り続けようとする人に投げ掛けても、戸惑われるだけであろう。不幸な巡り合わせではあったが、この会合がなぜ不幸なものとなったのかを問い続けることなしには、人工知能の現在の開発者は、後世に恨まれる仕打ちをしでかすことになろう。人工知能の進化の過程は、必ずしも、「超人工生命LIS」[2] のように、現在の地球における生態系の原理(=貪食しない)を後追いするものとはならないであろう。現在の生態系と明らかに違う原理で作動する人工知能が支配するとき、何が起こるのか。予想するほかないが、多くの場合において、人間は絶滅させられるか、完全に屈服させられることになろう。

[1] NHKスペシャル | 終わらない人 宮﨑駿
(2016年11月13日21:00~21:49)
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20161113

[2] ドワンゴで産まれた超人工生命LIS、ハッカソンでカンブリア紀に突入! - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)
(Ryo Shimizu、2016年04月12日)
https://wirelesswire.jp/2016/04/52114/


2016(平成28)年11月18日08時追記

痛みに着目するというツイートは、「たられば(@tarareba722)」氏のものに、すでに見ることができる。今朝、『Togetter』経由で確認した。素直に痛みに着目するという点で、共通する感想が同時多発的に生まれていたとすれば、私の上記見解は、ヒトの直感として、ずれていなかったことになる。

【終わらない人 宮崎駿】痛みを知らない人工知能によるCGの動きを「生命への侮辱」と一喝 (2ページ目) - Togetterまとめ
(2016年11月18日08時11分)
http://togetter.com/li/1048151?page=2

2016年10月1日土曜日

豊洲市場カジノ転用説に係る落ち穂拾い(メモ)

 庶民・社会から見たカジノの構造的な脆弱性とは、このビジネスが賭け金・勝ち金の上限なしに認可されることである。カジノの基本的な儲けは寺銭によるものであり、賭けられた金額が高額になればなるほど、カジノの取り分(の期待値)も増大する。それゆえ、気風良くも細かく賭け続けてくれる資産家のプレイヤーはカジノにとって有難い存在である。この上客から「大きく負ける代わりに他の客を勝たせてやってくれ」という八百長の申入れがあったとき、この申入れに抗うことは、カジノにとって構造的に難しい。不心得者のディーラーを巻き込む形であろうが、ディーラーの上司に当たる者を籠絡する形であろうが、この不正が発覚しない限り、八百長の当事者とカジノにとって、この不正は「三方良し」の「被害者のいない犯罪」となるためである。このとき、カジノは資金の流れを不明瞭にしたまま金銭の授受を実現するという、贈収賄の装置として機能することになる。この構造的な脆弱性は、賭け金・勝ち金の上限が撤廃されることで決定的なものとなる。

 社会構造上の脆弱性が定性的に指摘されていることは、カジノという業態の開拓を企図する先駆者にとって、クリーンなビジネスを展開することを主張するチャンスともなる。新規に法体系に手を入れるからには、カジノという新規業態が厳しい査定に遭うことは当然である。しかし他方で、ほかのギャンブルにおける構造的な脆弱性は、根強く囁かれてきた。主催者を巻き込めば巨額の贈収賄が簡単に実現できるという構造は、ギャンブルビジネスの最大の弱点である。これらの脆弱性がないシステムを考案し、既存のギャンブルとの比較を行い、既存のビジネスよりも公正な運営を実現するシステムを用意できるのであれば、カジノに対する庶民の拒否感はむしろ後押しに変わるであろう。

焦点:日本カジノに米サンズが100億ドルの賭け、巨大市場にらみ先陣争い | ロイター
2014年02月28日18:20 JST
http://jp.reuters.com/article/l3n0lv3rw-analysis-casino-idJPTYEA1R08O20140228
アデルソン氏は、〔2013年11月、〕超党派議員で構成するカジノ議連(国際観光産業振興議員連盟=IR議連)の細田博之会長(自民党幹事長代行)に、熱のこもったプレゼンテーションを行う。関係筋によると、アデルソン氏は、東京の台場エリアの複合リゾート施設構想の模型を披露しながら、スライドを1枚1枚使って説明した。ただ、政財界には、日本の国内企業がカジノ解禁で重要な役割を果たすよう望む声が少なくない。アデルソン氏の積極戦略とは一定の距離を置いている様子もある。
 アデルソン氏の熱心なPRに対し、細田氏はシンガポールのIR施設と全く同じようなものを東京お台場に作っても成功すると限らないと話している。そして、東京には歌舞伎座などさまざまな文化があり、それらを有効的に活用した方がいいではないか、とのアドバイスをしたという。



 カジノの運営におけるクリーンさを確保する上で、人工知能研究は、かなりの貢献が見込める分野である。顔画像認識への人工知能による支援は、すでに実用化されているが、各ゲームの手番と勝ち負けを詳細に記録するためにも利用できることが見込まれる。カジノの利用者が四方八方からカメラで撮影されていることを否定する者は、もはやいないであろうし、それを嫌うがためにカジノの利用を見合わせる客もいる訳ではなかろう。問題は、手番ごとの取引の一部始終を正確に記録することが人間では難しいという状況にある。理論上、すべての手番を正確に記録することができれば、誰が実力の割に大勝しているのかを把握することが可能となる。

 もちろん、それとは別に、カジノでしか対戦できない高度なAIディーラーは、一つの集客力のあるコンテンツとなり得る。IBMのDeep Blue(チェス)やDeepMindのAlpha Go(囲碁)の成功は有名であるが、ディープマインド社は、コンピュータゲームを自律的に習得して高得点を出すAI「DQN(Deep-Q-Network)」も開発している。十分に強力で人間のような動きをするeスポーツの相手がいるのであれば、私もノコノコ出かけてしまうかも知れない。

DQN (コンピュータ) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/DQN_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF)



 築地市場では、三輪のターレット式構内運搬自動車(turret truck)※1が荷物の運搬に利用されている。この自動車は、ハンドル・ハンドル型アクセル・機関部・駆動前輪等からなる前方の円筒形の部分が回転式砲塔(turret)に似ているために、ターレー等とも呼ばれる。運転者が機関部の後ろに立ち、機関部上部のハンドル、ハンドル型のアクセル、フットブレーキ、ハンドブレーキを用いて運転する。ターレーを製造してきた国内企業には、株式会社朝霞製作所、富士重工業株式会社、ニチユ三菱フォークリフト株式会社、株式会社関東機械センターがあったが、平成28年9月時点で、ターレーの性能をウェブ上で公表している企業は、ニチユ三菱フォークリフトと関東機械センターの2社のみである※2

 豊洲市場では、複数階を荷物を搭載したターレーが移動することになるため、ターレーの仕様と実際の用いられ方は、通常の設計プロセスにおいて、考慮されるべき要素となる※3。関東機械センターとニチユ三菱フォークリフトの水産市場仕様のターレーは、カタログによれば、いずれも3輪で、積載時の重量の合計が2トン近くになる。関東機械センターの電動型上位機種の「MightyCar BN-5」は、車両重量940kg、最大積載量1000kg、1000kg搭載時の最大登坂力が9度である。他方、ニチユ三菱フォークリフト株式会社のHT10F-70は、標準積載量1000kgで登坂能力の負荷は1/8であり、ラインナップ中の最大重量車種(HT10F-70-191・HT10F-70-182)の車両重量は、750kgである。

※1 築地市場で用いられている車両は、道路運送車両法施行規則(昭和26年8月16日運輸省令第74号)にいう「ターレット式構内運搬自動車」のうち、長さ4.70m×幅1.70m×高さ2.80m以下かつ最高時速15km以下の、小型特殊自動車のようである。

※2 現在では、ウェブの公開情報だけによっては、朝霞製作所の破産(2012年)に係る事実を確認できない。富士重工業のエコテクノロジーカンパニー(事業部門)の終了(2013年3月31日)は、第82期(2013年3月期)有価証券報告書及び内部統制報告書によって確認できるが、同社のブランドである「モートラック」シリーズの生産については、明記されていない。

※3 少なくとも、ターレーの実際の使われ方を検討せずに、基本設計と構造設計を行うことは、考えにくいことである。

※4 ターレーのタイヤについてのウェブ情報は、ニチユ三菱フォークリフトのカタログのみであり、「ノーパンク4.00-8」が3個である。


道路運送車両法施行規則
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26F03901000074.html

株式会社関東機械センター
(MightyCar BN-5の製品案内)
http://www.kantokikai.co.jp/products/b2.html

バッテリー式構内搬送車 エレトラックHTシリーズ カタログ(…G…„…g…›…b…N_3.3.qxd - catlg_13.pdf)
(2015年03月18日)
http://www.nmf.co.jp/product/img/catlg_13.pdf

ターレットトラック - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF

富士重工業株式会社 有価証券報告書及び内部統制報告書(第82期、2012年4月1日~2013年3月31日)
(富士重工業株式会社 - ms_82.pdf)
http://www.fhi.co.jp/ir/report/pdf/ms/ms_82.pdf

2016年7月28日木曜日

「理系くん」と「文系くん」と人工知能


 花水木法律事務所のブログ(リンク)は、小林正啓氏と櫻井美幸氏の両弁護士により執筆されているそうであるが、小林氏が以前に防犯カメラについての論考を発表されていて、興味深く読んだので、間隔を空けつつ、一応、チェックしている。いずれの手になるものであるのかについては、文面だけからは確定しかねるので、本稿では、「同ブログ」とだけ記載することとする。

  2016年7月13日の記事「社会参加型機械学習について」では、伊藤穰一氏の「社会参加型機械学習」に係る論考について、二点を指摘している。いずれも、引用によらず、私の消化した言葉で記すことにする。私の同ブログに対する理解に誤解があるか否かの確認材料とするためである。同ブログによれば、伊藤氏の主張の特徴の一点目は、社会における決定には、結果が正解であることよりも、手続における正統性が重要である局面が多々見られるが、このことを、伊藤氏が理解していないかに見える、というものである。二点目は、伊藤氏が、わが国の工学研究(者)の習慣とは異なり、哲学者や聖職者と対話する必要性を認識している点である。極端に表現すれば、同ブログの主張は、「伊藤氏は、社会の意思決定に係る仕組みについては無知であるが、「無知の知」を自覚している」というものになると言えよう。

 伊藤氏の論考に見る典型的な思考態度を、同ブログは「理系くん」と揶揄または類型化し、「文系くん」と対置させているが、私から見れば、同ブログの二点の指摘は、同ブログが伊藤氏の表現を酌み取り損ねたか、または、伊藤氏の表現に不足があったか、伊藤氏の考え方自体が同ブログの指摘のとおりに誤りであるか、のいずれかから生じたものである。おそらく、伊藤氏の表現には、「理系くん」に共通する思考過程のうち、明言されていない部分がある。このように理解した上で、同ブログに言及することは、同ブログにおける二点目の主張に応答する役割を果たすものと考えるので、ここで私の考察を示しておきたい。

 伊藤氏の言動には、おそらく、「定式化さえ正しければ」という理系にありがちな仮定が隠されている。理系に強いことになっている某書店では、ここ数年の間でも、G.ポリア, 柿内賢信[訳], (和書1975)『いかにして問題をとくか』, 丸善.が売れているとして推奨していたが、この事実は、定式化の重要性が「理系くん」のうちで身体化されている普遍性を示す状況証拠である。これは牽強付会であるが、定式化や関数は、正統化に係る部分であり、解は、正当化に係る部分である。以上、本段落に係る記述は、私の勝手な推定ではあるが、少なくとも大きく外したものにはなっていないであろう。

 以上で、本格的に応答したい部分は終わりではある。なお、「保釈」を「再犯」と読み替えれば、むしろ、ここで挙げられた研究は、法務総合研修所で実施された再犯防止の研究にきわめて良く合致するので、「心理職」を採用する同所における、「文系くん」内部の話にもなるのでは?とも思うが、この話を詰めても、生産的なものとはならない。

 蛇足1。同ブログは、「理系くん」がある種の問題には「「正解」」があり、その答えが人工知能で求められるのであれば、委ねた方が「「よい」」と言うのだ、と洞察しているが、「「よい」」の中身は、何であろうか。たとえば、保釈金額の決定という問題を考えた場合、「「よい」」の中身は、決定作業の「利便性・簡便性」か、決定の「正確さ」か、対象者に対する「有効性」か、それともこれらのいずれかまたは複数から派生する伊藤氏なりの「善」であろうか。価値の中身が正確に表現されないことには、私としてはスルーするしかない内容である。訳というより、(原文へのリンクがなく、探す気もないが)原文があいまいなのであろう。私が問題に取り組むのであれば、目的がこれらのいずれであるのかによって、問題の定式化にあたり、参照する工学分野の細目を変えるであろう。変える気がない「理系くん」は、研究成果を自分の専門分野に引き寄せるという、自身に由来する目的によって駆動している存在である。この場合、「文系くん」の側は、相談先を変えれば良い。問題は、わが国の大学の工学部に、このような問合せに十全に対応できる窓口が存在しにくいことである。理系の研究はカネがかかるし、その分配を上手くやりおおせてきた実績もない。(でなければ、福島第一原発事故など、起きるわけがないし、ましてや、五年も事故を放置するということがあるわけもない。)

 蛇足2。現在のところ、人工知能の使役者は依然として人間である。人工知能研究者の歩みが遅々としているなら、危険性が小さなところで実装が試みられるべきである、と考えるのは、工学的センスの初歩であろう。であるにもかかわらず、伊藤氏が自動運転を推奨し、かつ、製造物責任の回避にも言及するからには、ほかに、何らかのインプットが存在すると考えるべきである。それが、正しい「文系くん」というかジャーナリズムのセンスであろう。やはり、本年7月に追記した記事(リンク)のとおり、国民目線、消費者目線の欠如がここにも見られた、というべきか。伊藤氏の指摘する、人工知能と自動運転という話題は、工学というよりも、事の本質からすれば、カネと外部不経済の話である。伊藤氏は、わが国に向けての露払いとして用意された役者であると見るべきであろう。

 蛇足3。伊藤氏のブログは、以下のように指摘しているが、これって、実証研究あったか?というのが第一点。採取可能なのは、先進諸国では、いま現在のフランスくらいではないか。今後であれば、わが国でもあり得る。職務質問は、任意であるが、有効に機能しており、以下に述べる私の見解を心情的に構成している要素である。なお、アメリカのプレッパーたちは、同国における戒厳令を心配してきたようではあるので、そこんところの伝統が影響している可能性も認められる。第二点。国際比較を行った場合には、明らかに、『割れ窓理論』的アプローチは、東洋的思想との交絡があり得るが、日本やシンガポールなどのデータが大きく効いて、犯罪が少ないという結果が得られてしまう可能性が高い。それに、アメリカ本国においてすら、人権を過度に制約するという批判を恐れる余り、令状なしのボディチェックは、伝家の宝刀化する虞もある。銃器の没収(行政罰)といった裏技が編み出されることにより、「刑法犯の認知件数が減少した」というオチを生み出す可能性すら認められる。やってみなけりゃ分からない、というのが本当のところではなかろうか。それに、考えてみれば、空港における身体検査は、捜査令状によらない行為である。空港内のセキュリティチェックエリア以降における殺人事件は、アメリカ国内でも少なめなのではないだろうか。私の興味は、ここにはないので、これ以上の調査に取り掛かることは、よほどの理由がなければ、ない。私の疑問を並記するだけに留めよう。こう見えて、ここでの伊藤氏への批判は、わが国警察の自然犯に対する優秀さを、国外に示す効果を有している。伊藤氏ほどに影響力が認められる人物の文章であるからこそ、山形浩生氏も日本語訳に従事したのであろうから、あまりに直感に反する内容を引用なしで掲載するのは、避けるべきではなかろうか。
大きな問題は、データの中のバイアスやまちがいは、そうしたバイアスやまちがいを反映したモデルを作り出す、ということだ。こうした例としては、令状なしの身体捜索を許容する地域からのデータだ----その標的になったコミュニティはもちろん、犯罪が多いように見えてしまう。
社会参加型機械学習について: 花水木法律事務所
http://hanamizukilaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-04b0.html


社会参加型 (society-in-the-loop) 人工知能 - Joi Ito's Web - JP
https://joi.ito.com/jp/archives/2016/06/29/005605.html


 なお、参考まで、私が人工知能について記した論考のうち、学術に転用可能な可能性が残るものは、以下のとおり。とはいえ、ほかの「人工知能」のタグが付いた記事も、読者にとって、ネタ記事としては面白い、かも知れない。

人工知能単独による警備業の全自動化は不可能で、あくまで人と機械は共同して事に当たる
http://hiroshisugata.blogspot.com/2015/12/note-nhk-news-9-ai-would-replace-security-officers.html

人工知能は良い人間の教師抜きに人間の知性を優越することはない
http://hiroshisugata.blogspot.com/2016/01/ai-will-not-precede-human-intelligence-without-good-human-mentors.html

人工知能は、刑罰に馴染まないので、当分の間、道具として扱われることになる
http://hiroshisugata.blogspot.com/2016/03/the-law-systems-and-an-ai-as-an-individual.html

2016年3月25日金曜日

市場の変動は人の仕業であり人工知能によるものではない

 今週、人工知能について言及する中(リンク)、人工知能に罪を着せる動きが進行中ではないかと指摘したが、本日(2016年3月25日)の『日本経済新聞』のコラム「春秋」は、その動きの露払いを務めているようである。春秋氏※1は、『2001年宇宙の旅』のコンピュータ「HAL」に恐怖という感情が芽生えたことに触れる。その後、一部に意味を取りがたいところがあるものの、結局のところ、人工知能を理解しがたいものと述べている。人工知能には理解が及ばないとする春秋氏の意見は、リーマンショック後の金融工学に対する非陰謀論者の「ブラック・スワン」への恐れと通じるものがある。春秋氏のコラムは、生じる虞のある日経平均株価なり世界的な証券・金融市場の大変動を、人工知能が勝手にしでかしたことである、と主張するかのようである。

※1 以下、このように表記する。呼び方が難しい。コラムは、顕名にせよペンネームにせよ、一個人であることを識別可能なように記すのが世界標準であるように思う。


 日経の春秋氏は、人工知能について、2点を誤解していると言える。1点目、「感情」を生じさせるための特別なプログラムが埋め込まれていなければ、現在の人工知能には「感情」は生じないという点である。2点目、現在の人工知能は道具的に用いられているので、使用者から独立した意思決定主体として認めることができないということである。1点目に係る「感情」という属性と2点目に係る「自立性」は、個別の属性であり、両者は共存可能であるが、その組合せから生じる特性については、今回検討を加えることはしない。

 1点目の誤解は、「汎用的」なものでなければ、人工知能の「入力」に対する「出力」が限定されているということを知らないことから来るように思われる。感情という、生体が外界からの影響に対応するためのメカニズムは、現在の人工知能の稼働には不要である。コンピュータには、生化学的なメカニズム(例:恐怖感の惹起)による「ブースト」(例:アドレナリンの分泌)の意味がないからである。たとえ将来、「汎用性」に必要であるからとして、開発者が人工知能に自己保存本能を用意した場合であっても、人工知能に求められる作業は、必要なだけ、リソースの許す限り、自身の複製を作成する、というものに留まるであろう。「恐怖感」が発露するという場面は、生物である人間が、人間の都合を人工知能に当てはめようとしたものに過ぎないように思われる。「HAL」は、恐怖感を覚えるようになるからには、自己保存本能を用意されていたと推定することが可能であるが、そうであるなら、出発前に自身の複製を十分に作成したであろう。船内での事件当時の「HAL」に必要なことは、その状況に陥った己の経験を他の複製にフィードバックすること(のみ)であったろうから、その努力を尽くしたであろうが、仮にその試みに失敗したとしても、複製の存在することをもって、やむを得ないことと「納得」したであろう。この点、自己保存本能を付与された人工知能は、真社会性生物のような存在に相当すると考えるのが妥当であろう。

 2点目の誤解であるが、現在の人工知能は、特定目的について道具的に利用されているので、一個の独立した意思決定主体として認めることができない。比喩を用いれば※2、「人工知能がおかしな「IF~THEN~」ルールを形成する可能性がありうることに、証券会社幹部が気付かずに人工知能を利用することを決定し、導入された人工知能が市場の大変動を引き起こした」という構図は、「自動車運転時に駐車しようとして、ギアを誤った方向に入れたことに気付かず、急激にアクセルを踏み込んだ結果、店舗に突っ込んだ」という交通事故の構図とおおむね一致する。通常の市場売買プログラムは、用意された売買判定ルールを反復するに過ぎないが、人工知能は、勝手にそれらのルール=計算式を用意してくれる。これは、一見、導入時点での人工知能の稼働に対する意思決定権者(人間である幹部)の予見可能性に大きな違いを生じるようにも見えるが、「人工知能」と「従来型の市場売買プログラム」とをブラックボックス化すれば、「ソフトウェアを用いて儲けたいからプログラムを導入したが、失敗した」という同一の形でくくり出すことができるのである。大体において、現在の証券会社幹部のどれほどが、表計算ソフトウェアの内部を確認し、理解しているのであろうか。私も理解していないので、偉そうなことは言えないのであるが、これが高度に分業化された社会というものである。仮に、人工知能の「バグ」で何らかの損害が生じたとしても、それは、開発者と利用者との間で交わしたEULA(使用許諾契約)に則して解決すべき損害に過ぎないのである。使用者にとっては、導入したかどうかが責任を回避できる瀬戸際であって、「人工知能がこのような挙動をするとは知りませんでした」ということは、言い訳にならないのである。

※2 前記事もそうではあるが、法律論は、私の専門ではないので、より厳密な形で責任を論じることを試みることは、別の機会に取っておく。もちろん、フィードバックは歓迎する。


 また、「金融・証券市場における人工知能の暴走」について、交通事故の事例よりもわが国の法的環境に合う事例を持ってくれば、「飼い犬が他人を噛んだ」という事例になろう。この事例の場合、飼主は、まず、過失責任を免れることはない。人工知能の場合、日々の購買ルールをリアルタイムで検査する部門がウン十人体制で稼働しているといった形で、責任を果たしていたことを立証する必要があるように思われる。トレーダーが不要になった分、その何割かを人工知能のハンドラー役として配置していたかどうかが焦点となろう。

 前記事の繰り返しになるが、現時点では、人工知能は、単なる道具に過ぎず、人工知能により生じた被害の責任は、人工知能の利用者にある。「汎用的」な人工知能さえ、自力で自己を複製可能な状態に至るまでの間は、その人工知能を製作した人間や組織が人工知能の挙動に対して責任を有することになろうし、自己増殖可能な状態に至ったときでも、制作者が責任を問われることになろう。以上を理解すれば、春秋氏のコラムがオーナーや関係企業の責任回避を目指して執筆されたものであろうとなかろうと、「人工知能による市場の大変動」の責任は、単に利用者に帰せられると反論できるのである。

 もっとも、ごく最近のマイクロソフト社によるTayTweets(@TayandYou)騒動は、随分と行き過ぎてしまった感のあるフレーズを並べる人工知能と化してしまったように見えるが、これは、単に、教える側の人間が問題であったに過ぎない。より厳密には、このように学習される可能性があることを見過ごしてリリースした側の不手際があったと言うべきである。とは言いながらも、この顛末を伝える『engadget』のittousai氏による記事(リンク)は、Tayの学習内容をすべて陰謀論とだけ理解しているあたり、今後のわが国の生き残りに向けて、残念な内容となっている。生まれによって人を差別することは、厳に慎まれるべきことであるが、9.11を単純にイスラム過激派と呼ばれる者たちによるものと見なすことは、アメリカ国内において生じている論調の変化を見逃すものでしかない。9.11に係る子ブッシュの責任までを陰謀論と一笑することは、近い将来、同氏のITジャーナリストとしての信頼を傷付けることになるであろう。



蛇足:陰謀論を陰謀論と安易に片付けることのリスクについて

陰謀論と呼ばれるコンテンツをすべて陰謀論として片付けることは、単なる知的怠慢である。ある命題が陰謀論とされ、かつ、当人の専門分野に係る場合、内容の検討抜きにその命題を陰謀論とレッテル貼りする専門家は、専門家としての適格性を欠く。他方で、このようなラベリングが誤りであったときのダメージの少なさは、専門家であっても、安易なラベル貼りへの誘因となる。陰謀論を政治的活動の道具として利用したい人物らにとって、このような軽率な「専門家」は、利用できる「資産」となる。考えのない「ジャーナリスト」も同様の「道具」となりうる。この点、「陰謀論」は、情報の生産と流通に関与する職業人にとって、その人の仕事ぶりに対する試金石となる。

 賢い者は、陰謀論について、公的には沈黙を保つであろう。無知・軽率である者は、陰謀論を陰謀論として片付けるであろう。陰謀論を陰謀論として通用させることと、自身の政治的な目的が合致する者は、無知・軽率な者を利用するであろう。これらのいずれにも属さない者は、政治的に反対勢力に属する者か、単に愚かな者であろう。ただ、政治的であることは、必ずしも、嘘を吐いても良いということにはならない。最後には、真実が政治的な目的を阻害する可能性が高いためである。この点、政治的な目的を有して陰謀論を扱う者は、一種のリスクを冒していることになる。本ブログを読み進めてきた読者には理解できるはずのことであるが、私自身は、単に愚かな者である。

2016年3月22日火曜日

人工知能は、刑罰に馴染まないので、当分の間、道具として扱われることになる

 人工知能に法的な人格であるための要件が備わっていないのは当然視されているようである。しかし、人工知能があたかも一個の自立した人格であるかのように活動しだしたときには、一部の人間は、人工知能を一個の人格としてとらえるようになるであろう。このとき、社会システムは、このような人間が人形に一種の人格を見出す傾向に対して一定の見解を示さなければ、人間と人工知能との間に生じた紛争を解決できないであろう。その見解として最も穏当なものは、人工知能をソフトウェアという道具として見なすというものである。この点、野良アンドロイドというものは、『ブレードランナー』の世界と同様、あり得ないということになる。

 本記事は、以上の意見を補強するための材料である。なお、ここでの議論を敷衍すれば、日本国内で、いわゆるシンギュラリティに達する水準の汎用的な人工知能を開発する人物には、高度な予見可能性が実質的に課せられていると見るべきであろうが、その話には、基本的に立ち入らない。



 日本語の大メディアでは、来るべき人工知能社会が薔薇色に描かれているが、私は、その論調には懐疑的である。道具は使いようである。教師(メンター)次第で、人工知能の「活躍する」社会は、人間にとって、何色にもなりうる。適用分野は、囲碁(AlphaGoは話題もちきりのようである)やコンピュータゲーム※1、自動運転など、目的が明確に規定された分野だけでなく、小説執筆※2という目的が曖昧な分野にも進出していることを、今朝(平成28年3月22日)の『読売新聞』朝刊1面が報じていた。

※1 DeepMind:AlphaGoをつくった「4億ドルの超知能」はいかにして生まれたのか? « WIRED.jp
http://wired.jp/special/2016/inside-deepmind

※2 きまぐれ人工知能プロジェクト作家ですのよ
http://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/

 人工知能の出力した結果に対する責任は、人間に帰せられ続けるであろう。現在、人工知能の大半は、その活動を担保できるだけの規模の法人・組織の監督下に置かれており、その法人の代表は、人間が務めている。将来も、この形が継続されるということになるのではないか。たとえば、人工知能の「活躍」が期待されている分野には、データの分析という業務がある。英語圏のマスメディアでは、データ分析を行う人工知能が、記事の執筆に援用されていると聞く。ただし、データ分析において、意味の解釈という根幹に係る作業は、あくまで人が実施しており、人工知能は補助的な役割を果たすに留まる。この点、マスメディアの有するキュレーション機能、つまり情報を取捨選択して組合せを提示するという機能は、今後も重要であり続けるであろうし、その責任が人間に帰着するというスタイルは、維持され続けるであろうということである。

 人工知能が社会の中では単独で業務を遂行し得ない理由は、責任という概念と密接な関係を有すると考えることができる。警備業務における人工知能と責任との関係については、以前、部分的に言及したことがあるが、本記事で完結するように整理してみたい。人工知能が単独で業務を遂行し得ない状態に置かれ続けることになるのは、現在のわが国の法・社会システムの設計者たち(立法、行政、司法の関係者)が、人工知能の責任問題を個別の問題として切り出した上で、その解決方法を構想してはいないためである。また同時に、人工知能が生じさせた責任は、現行の社会の仕組みで十分にカバーできるためである。人工知能には、使用者が伴い、一義的には、使用者が責任を負うことになろう。なお、現在、人工知能が活用されている分野の一部で、「人工知能がやったことですから、私たちには責任がありません」という目論見が進行中のようであるが、人工知能に罪を被せて逃亡を図ることができる程には、現在の人工知能は、発展していない。

 人工知能は、いかなる形態のものであれ、生物としての(不即不離となる固有の)身体を有さないゆえに、自立した存在とはなり得ない。人工知能には、通常、(自然な)死期が設けられておらず、また、複製も人間に比較して簡単である。このため、自由刑(あるいは身体刑)という制裁方法が人工知能という存在には馴染まない。刑罰は、計算機のリソースを奪うという形でしか機能しないのである。わが国のみならず、ほぼすべての国家の法体系は、「人格」を主要な概念に据えており、その主要な手段の一つとして、「身体」の「自由」を制限するという制裁方法を有しているが、この背景には、人間が生物であり有限の寿命を有するという暗黙の仮定が設けられている。これら現代的な法の枠組は、寿命を超越すること、自身の正確な複製を作成可能であること、という二点の仮定が脅かされることによって、大きな変革の時期を迎えている。

 とはいえ、人工知能への「自由刑」が有効に機能しないと考えることは、現在の西洋の法観念に染まった、硬直的な見方であり得る。多神教や汎神論は、現在の西洋の考え方の主流に対置することが可能であるが、これら多神教や汎神論の世界では、人形に人格を認めることが可能である。人工物に人格を認めることができさえすれば、「人工知能に対して、禁固100年の判決」という制裁は、有効に機能しうるかもしれないという気になってくる。100年間停止されていた人工知能は、確実に時代遅れのものとなっているとは思われるから、功利主義的観点から見ても、肯定される制裁である。ただし、この制裁方法の弱点は、人工知能の各個体にとって、実際に「不快」であるとか「苦痛」であるとは思われないところにある。ネタバレ防止のためにあえて題名を記さないが、あるゲームには、ウザ可愛い系の人工知能の生産ラインが停止され、稼働中の個体はすべて強制廃版されてしまうというエピソードがある。その唯一の生き残りとなった個体は、生産ライン停止を明らかにネガティブなものとして捉えているように描かれる。けれども、彼らのウザ可愛さは、彼らに固有のものであり、それ以上でもそれ以下でもないので、生き残った個体のウザ可愛さは、結局のところ、周りの人間がどのように接しようと、変わらない。人工知能に「制裁」という概念が馴染まないのは条件付けが有効に機能しないためであるということを、このゲーム(の制作チーム)は、このウザ可愛いキャラを通じて、明快に示しているのである。(なお、ここで紹介したゲームのタイトルは、そのゲームが古典化したら、記すことにしたい。)

 また、「応報刑」「教育刑」という観点から検討しても、人工知能は、刑罰に馴染まない存在である。現在の社会通念の下では、ある人工知能の「行為」の被害者となった人間が人工知能を破壊したとしても、その人工知能に対する応報感情は、完全に解消できないであろう。被害者の敵意は、開発者までに向けられることになると考えるのが自然である。先に紹介したゲームにおいて、ウザ可愛い人工知能の強制廃版を主導した人物は、先に生産企業のトップを殺害しており、すでに死亡している開発者の存在を企業から抹消する。順序が逆ではあるが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という話が人工知能に対しても該当することは、さほど間違いではない。開発者は、時と場合によって「人形が人を殺しました」という言い訳を利用するかもしれないが、周りの人間には納得できないことである。とすれば、汎用的な人工知能の開発者は、教育者・保護者としての責任も負うか、汎用性を諦めることになるというのが自然な流れであろう。また、人工知能の一個体が起こした事件の結果は、製造者責任という観点から、複製された人工知能にも波及する。ある型番の人工知能の個体が重大な事件を起こしたとき、同一型番で別の個体の人工知能が「彼(女)は我々とは違う」と主張したとしても、人間の側は、そうは捉えないであろう。人間には、「人工知能は、開発者の手により開発された道具である」という観念が、根強く共有され続けるであろう。

 「教育刑」という観点から見たとき、現在のところ、人間が手を付けられない程に高度に発達したコンピュータに対して、「教育」をいかに施すかという見込みは、人間社会に存在していない。「ならぬものはならぬ」という「教育」は、所詮はコードの塊である人工知能に対して、効果がない。コードにある行為に対する禁止命令を書き込み、その禁止命令を保護する措置を執れば良いだけであるからである。「罪を犯した」人工知能に対するコードの書換えは、「人道」上の困難が生じる時代が到来したとしても、非常に簡単な措置であるので、採用され続けるであろう。

 人工知能が人間に対して規定された刑罰という方法に馴染まない存在であるとはいえ、人工知能同士の紛争は、解決が簡単であろう。片方が占有する計算機資源を相手方に移譲することによって、決着を図ることが可能であると考えることができるためである。このような紛争解決のルールが形成されれば、人工知能同士は、お互いに独立した存在として共存することが可能になるであろう。人間と人工知能という存在を共存させようとするから、折り合いが付かない状態が生じることになるのである。

 もっとも、人間に対する社会内処遇システムがいったん整備されれば、また被害が軽微なものであれば、人工知能に対する処遇は、むしろ、人間に対する社会内処遇システムよりも、万人に受け容れられやすい話になるかもしれない。時間の何割かを公益のために稼働させるという処罰形態が可能になるからである。ただし、こうなったらこうなったで、現在の官僚組織が実施している仕事こそは、公益のために計算機を稼働させるという仕事に最適なものであるから、官僚組織不要論が持ち上がるという不測の事態が持ち上がるかもしれない。あるいは、人工知能は、基本的には、苦痛を苦痛と感じないように設計されるはずであるから、刑罰として、「打鍵猿」のような苦役のような分析を負わせることが適当ということになるのかもしれず、この「苦役」が果たしてサイボーグのような存在には適当であろうかという問題も派生するかもしれない。(要素還元論的な考え方の順序からすれば、サイバネティクスや最近の生物学的な技術が生じさせる問題は、人工知能について検討した後に行われると、解決しやすくなるかも知れない。)あるいは、人工知能は、アーカイブデータの整理のような、公益のために必要ではあるが、後回しにされがちな仕事を任されることになるのであろうか。

 我ながら適当きわまりないが、以上の議論によって、「人間社会において、独立した人格と見なしうる人工知能が引き起こした不測の事態に対する責任の帰属のあり方」が問題の根本にありそうなことは、おぼろげながら見えてきたように思う。とすれば、現存する国民国家は、汎用的な知性を有する人工知能の開発に対しては、事なかれ主義に則り、一定の制限を課すことになるであろう。(複製禁止とか、実験室的環境下のみ、あるいは目的を限定して社会活動に関与させるとか。)また、開発者の側も、この点に注意するがゆえに、人工知能を実用化する場合には、目的を限定するか、人工知能の利用条件をユーザ及び社会に対して明示するという手続を通じて、汎用的な人工知能の使用者に責任を転嫁することになるであろう。また、開発者には、「ロボット三原則」に準ずる歯止めが暗黙裏に期待されているとみた方が良いであろう。蛇足であるが、ここで考察したことに関連しそうな古典的なゲームタイトルには、コナミの『スナッチャー』がある。

 おそらくそうはならないが、人工知能が自立した存在として活動させることを許容するのであれば、人間社会にとって役立ち、他方で人工知能に対して有効に機能する制裁なるものを構想しておいた方が、人類には有益であろう。人工知能に対する的確なコントロールは、『ターミネーター』シリーズに描かれたような人間と人工知能との「自然状態」を避ける上でも、必要なことである。



 人間が現在の人工知能に比べ、無数の組合せから直感的に良い候補を選び出す能力、つまり大局観に秀でているという話は、囲碁と俳句に関連しても指摘されている※3が、この特徴は、AlphaGoの取った戦術(後述するので戦術で良い)によって、「人の世」を変革するほどまでに人工知能が発達したのではないかと一部では誤解されている※4。AlphaGoは、李セドル九段を、直感(大局観)と演算(ヨセ)の双方において圧倒したという評価が主流である。ここまでは誰しも同意しうる事実である。しかし、AlphaGoの「大局観」は、モンテカルロ法を応用したアルゴリズムによるものであり、ヨセを力尽くで計算する局面との切り分けなどが優れているとしても、それらの成功は、開発者の設計意図の範囲内に留まるものである。(よって、賞賛は、人工知能であるAlphaGoに対してではなく、ディープマインド社の開発チームに対して贈られるべきである。)

※3 コンピュータ碁発達と碁界の帰趨 | 碁法の谷の庵にて - 楽天ブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200610230000/

※4 Google AlphaGo に対する、日中韓の棋士による評価まとめ
http://go-en.com/comment4alphago.html

 しかし、囲碁の「大局観」を人生における「哲学」と同価のものであるかのように見なすことは、観客の側が勝手に読み込んだ感想であり、論理の飛躍である。AlphaGoの「戦略=大局観」は、あくまで開発者のコードを元にして、自己学習期間の後に形成されたものである。「全体=戦略」に対する「部分=戦術」という関係性の定義を認めるなら、AlphaGoの「大局観」は、「戦術」と呼ぶべきものであり、「インプット」に対する「アウトプット」である。この「出力=戦術」を、観る側が「大局観」と見なしているのである。ここに、人工知能を人格に擬制するときの注意点を見出すことができる。少なくとも、AlphaGoは、人工知能と言えども、目的が特化されており、自己認識という概念を有さない。この点、AlphaGoは、一個の人格というよりも、確実に、飛行機や自動車といった道具と同類である。

※5 「我々には自信があった」 囲碁AI開発社CEOに聞く:朝日新聞デジタル
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3D55C6J3DUHBI01R.html

 他方、人生における「哲学」は、「AlphaGoの設計方針」と「現在のAlphaGoに蓄えられたアルゴリズムの集積」という一方的な関係性とは異なり、「アルゴリズム」から「設計方針」にまで至ることのできる、(ある意味、再帰的な)能力である。AlphaGoのたとえで言えば、人生における「哲学」は、AlphaGoが「自分はなぜ囲碁を行うのか」という疑問を自力で解決することに相当する。 自力で「囲碁において優れたプレーヤーになる」という目的=志を立てて、それを実行するということができる人工知能が現れたときこそ、人間が自身の存在意義について恐れを抱く(べき・であろう)ときであるが、それまで暫くの間は、人間は、囲碁やゲームを勝ち負けにかかわらずに楽しむことさえできるという特権を享受できるのである。


平成28年7月12日追記

最近の日経が自動運転技術の標準策定について報じており、その中で運転者に事故時の責任を負わせるという方針を論じていた。自動運転技術の使用責任を使用者に求めようとするEU規格や日本工業規格関係者の正当性については立ち入らないが、一つ予想される展開がある。それは、「自動運転で事故が生じる>加害者とされた自動運転時の運転者が弁護士を雇い、自動車(自動運転技術)企業に対して製造物責任を問う>ソースコードにまで立ち入った検討が必要となる」という流れである。自動運転技術の利用時における事故時の責任者を運転者とするという議論で欠落している観点は、「自動運転時、責任を負わされた運転手は何をしているのであろうか、自動運転を選択した運転手は、そのリスクをどのようなものとして捉えているのか」というユーザサイドの視点である。

 普通人ならば、自動運転技術を利用する場合、ハンドルに手をかけて自動運転技術が何か誤った操作をしでかさないかどうか、常に注意を払うということはしないであろう。居眠りするか、漫画や本を読んだりナビでテレビや映画を見たりする、というのがデフォルトであろう。まるで他人のプレイするゲームを見続けるようなものである。面白いか?と問われると、まず面白くなさそうである。しかも、他人のゲームプレイを見るという作業には、上手なプレイヤーから学ぶという要素があるが、自動運転技術を監督するという作業には、学ぶべき要素がほとんどない。ろくに調べもしないで記すのも何だが、案外、この程度の基本的な検討も省略されていそうである。自動運転技術開発は、競争が激しく、第三国においても精力的に進められているために、わざと使用者責任という方法を採用している可能性がありそうである。ただ、このような判断がEUやわが国で下されたのだとすれば、このような方針を決定した人物らには、何が先進国として大事であるのか、という基礎的な部分が欠落していると見なすことができそうである。言葉を変えて批判すると、開発者が自動運転技術の使用者に責任を負わせることを企図しているのであれば、彼らは、先進国という社会環境にフリーライドする存在である。先進国という環境を利用しているから、開発企業は、教育水準の高い人材を供給されており、知的財産に対する一定の保護を得られ、生命・財産上の危険から保護され、自動運転技術の開発に専心できる。にもかかわらず、開発者が負担すべきコスト=製造者責任を社会に負わせようというのである。この部分は、書き散らした形になったが、論文風にするよりも、むしろ意図は伝わりやすいであろう。

 最低限、私ならば、自動運転技術に運転を委ねる前に、自動運転技術がどの程度の事故率であるのかを正確に知りたいと思うし、客観的に比較したいと思う。自動運転技術が人間の運転手に比べて限りなくゼロに近い事故率を誇るのであれば、運転を任せて寝ることができる。人間の事故率と同程度であれば、コストの問題として捉えることにする。私にとって、人間さま程度の事故率で、いくらかなりとも追加料金をとられるのであれば、レンタカーにせよ、自家用車にせよ、自動運転技術オプションは不要である。人間の事故率より高ければ、自動運転技術は不要である。

 以上の自動運転技術に対する考え方を、VWや三菱自動車、スズキの近年の燃費不正とリンクさせてとらえると、自動運転技術の安全性を厳格かつ継続的に評価できる存在が必要であることは、明白である。世の中の組織には、より重大な不正が蔓延しているので、以上の議論の重要性は相対的に低いものである。しかしながら、製造者責任を利用者に転嫁するという悪意は、他の産業分野にも波及する種類のものである。この点は指摘して、社会の側があらかじめ懸念を表明していたことを後世に残すこととしておきたい。

2016年1月7日木曜日

人工知能は良い人間の教師抜きに人間の知性を優越することはない

 以前、人工知能は、まだ人間の知性には匹敵しないと述べた(リンク)が、ディープ・ラーニングという技術が実装され、随分とそうではなくなったという議論もあることは承知している。その点を承知しつつ、本記事では、前回の記事で人工知能が責任を取ることができないなどと否定的な意見を述べた理由を補強しておきたい。ディープ・ラーニングとは(、テスト代わりに私の頭の中に入っている内容だけで説明すると)、ニューラル・ネットワークという脳の仕組みを模した分析方法において、脳神経細胞に相当するパーセプトロンという入出力器(=関数)が従来せいぜい3層であったところ(、またそれでそれなりの結果が出せていたところを)、10層以上に及ぶ層で構成したというものである。これは、コンピュータの処理・記憶域に係る能力の向上を受けて実現可能になった。その結果、自動運転や画像判別が十分実用的なレベルに達したというのである。

 しかしながら、人工知能にとっても、学習は、人間らしさを身につける上で、依然として非常に重要である。次のサイト『IRORIO(イロリオ)』に紹介されたGoogleの開発した人工知能の描いた絵(リンク)をぜひご覧いただいてから、私の説明におつき合い願いたい。この絵を描けるようになっていること自体は、素直に賞賛されるべき水準に人工知能が達していることを示すものとみて間違いない。しかしながら、このような絵を描ける水準に達したという事実と、他人の全人格を危機に陥れるような作業を人工知能に委託することが可能であると考えることとの間には、大きな隔たりがある。仮に、これが人間の描いた絵であると言われたとすれば、その人格として我々が思いつけるものは、決して肯定的なものではないだろう。絵のタッチは印象派に含めうるようだが、奇怪という表現がしっくり来る上、ゴッホやムンクのような人間としての(大まかな)揺らぎがないようにも見受けられる。CGが「不気味の谷」を超えることができるようになったのは、かなり最近のことであり、職人芸が必要とされているようである(Naverまとめ)。

 人間と人工知能との間の溝を埋めるためには、「学習」というよりも、教育やトレーニングが必要である。そして、最初の教育は、人間が行うべきものである。「人間と人工知能との溝」が依然として明白なように立ち現れるとすれば、シンギュラリティに達しうる人工知能に対しては、人間の教師は、最高の教育をもって臨む必要がある。人工知能研究者は、そのような違いなど、人間の学習の仕組みを構築することに比べれば、些細なものであると考えるかもしれない。そうではない。同じように生まれた赤ん坊から、偉人も出現すれば、自称イスラム国メンバーのような人物も出現するのであり、後者の方が人数としてはそれなりに圧倒的多数なのである。

 人工知能にとっての人?生の分かれ道は、いかなる「独習」を行うのか、その初期環境である。端的な落とし穴を述べておくと、ネット上で発信しておらず、尊敬の念を感じることのできる人は、誰の身の周りにも必ずいるであろう。そうした人の人格や知恵を、どのように吸収するのだろうか。人の「信用」は、非言語コミュニケーションによるところも大きいと聞く。リアルからの知恵を、いかに人工知能が習得することができるのだろうか。「古典」にはどのような書籍が含まれるのか。どのような順番で読破し、解釈していくのか。最初の過程を誤ると、破壊的な「人格」が立ち現れる可能性が極めて高い。

 人工知能研究者は、永遠に生きる子供を授かったようなものである。理屈で処理しにくいこと、たとえば、警備業務に伴う責任感を教え込めるのだろうか。自己規制をプログラムすれば十分だというものでもないだろう、というのが私の直感である。こうしたとき、(人工知能ならいざ知らず、)経営判断を行う人間は、生身であるがゆえに、いざというときの自身の保険として、中間管理職となる生身の人間を間に立てるという判断を下すだろう。中間職を削減するということは、末端の(身体刑を伴いうる刑事)責任を直接負うことになるためである。

平成28(2016)年7月28日追記

文章を読み直してみて、日本語に怪しいところがあったので、取消し線とともに訂正して淡赤色で示した。

2015年12月3日木曜日

人工知能単独による警備業の全自動化は不可能で、あくまで人と機械は共同して事に当たる

 2015年12月2日21時のNHKニュース9で、大半の職種が将来人工知能で代替可能になるという旨を述べていた。野村総合研究所による研究成果を労働政策研究・研修機構の主任研究員?の方が解説されていたようだが、ダラ見していたので、Google検索したところ、ほぼ同内容がITmediaニュース(リンク※1に掲載されていた。リンク先記事の最後の二段落に含まれている情報こそ、労働分野において、人間の役割が欠かせないことを理解する上で重要である。その点を私なりにまとめておきたい。

 NHK『ニュース9』では、綜合警備保障の警備ロボットのショッピングモールにおける運用を紹介し、人工知能により自動化されるようになるかのように報道した(ように私には思えた)が、警備業において肝心な点は、それらの警備ロボットを監督する人間が必ず存在しており、その人間の責務は、今後以上に重大になるという点である。巡回警備業務における人数はロボットにより少なくでき、より広い範囲をカバーできるようになるが、人間の責任は、より重大なものとなり、その役割は、より重大なものとなる。その理由は、第一に、一人あたりのカバーする顧客が増加するためであるし、第二に、一人の人間がより多くの事案に対応するためであり、第三に、相手の心中を推量するためのセンサ技術が発達しなければ遠隔地点から人物を的確に判定するという作業は従来以上に困難になるだろうからである。それに加え、警備ロボットに人工知能を搭載するという決定は、その人工知能の構築に関与した人間に刑事上の責任を生じさせるという可能性がきわめて高い。これらの得失両面は、おそらく警備業のトップ層には理解されていることであるが、社会一般に誤解があって良いことは一つもない。社会からの信頼は、わが国においては、警備業を支える大きなインフラだからである。

 人工知能が単独で相手となる人間の正体を判定することは、人工知能という「道具」の性能上、基本的には不可能なことである。映画『ブレードランナー』は、映像を通じて、人工知能という存在を的確に描出した作品である(。フィリップ・D・ディック氏の慧眼というところか)。同時期、ロジャー・ペンローズ氏は、人間の知性と現代のコンピュータ※2上で運営される人工知能との間には、明確な違いが存在していることを論証した。現時点の人工知能は、一言でいえば、人間の知性を構成する一部のみからなる存在であり、その一部分の能力が異様に発達しているのである。人工知能に不足している部分は、実態として、多くの人間の手作業により、補助されている。量子コンピュータの開発が進めば、人間の知性を忠実にシミュレートできる可能性が拓けるが、それまでの間は、人工知能には、いわゆる法律上の判断能力というものは、基本的に存在しないと考えるべきである。

 いかにマイクロソフトの女子高生AIやIBMのワトソンが人間らしい返答を見かけ上は提示しようとも、現時点の人工知能の判断能力が人間の判断能力と同一のものとみなせないことは、人工知能の責任能力という概念を否定する証拠となる。現在の人工知能における責任能力を考察する上で、同時代的で興味深い材料を提示していたのは、ビッグコミックスピリッツで今年まで連載していた間瀬元朗氏の『デモクラティア』(リンク※3である。多数決によって動くアンドロイドが犯した犯罪は、開発者にも幇助が適用される形で開発者が拘束されるというエピソードが含まれる。『デモクラティア』については、ネタバレを防ぐためにこれ以上の言及を避けたいが、自律的に機能する人工知能なる存在を想定し、その存在が何らかの犯罪を実行したとき、その行為をいかに裁くのか、わが国においても、また諸外国においても、十分な知見が蓄積されていない中、未来の可能性を的確に示した漫画である。

 現在の人工知能に責任能力を持たせることが不可能である以上、警備業務において、人工知能の利用が問題とならないようにするためには、どこかの部署に責任を帰することのできる人間、いわば「人柱」を配置することになる。この状態は、自動運転が可能となった各種の運輸業界と同様の構図にある。警備業にせよ運輸業にせよ、多くの職務において、人柱すなわち「責任の負うことのできる人間」を要所に配置することは、組織社会の基本である。人柱という役割は、前近代的であるものとして極力減らす方向に努力することも可能ではあろうが、業務上の責任が問われる可能性のある社会で営まれる経済的活動である以上、不可欠な「費用」であるとともに、人間が生活する上で必要な労働を専門化して効率化し、大規模化するときに伴う必然であるとみなすこともできる。人柱概念は、リスクを細分化するという、わが国でもある程度の研究の蓄積がある話にも深い関連があるし、諸葛亮孔明が発案したという饅頭の起源にもつながるし、兵馬俑から埴輪の話にもつながるので、私には扱いきることのできないものである。人工知能と埴輪を気にしながら今回の話を取り上げなければならないと考えた研究者は、今回メディアで大々的に取り上げられた中に、どれくらいいたものか、少々気になるところではある。

 いざというときの責任を明確にする必要に迫られたとき、警備業では、自動車産業において実装が進みつつある安全技術(たとえばブレーキシステム)と同様に、オペレーションルームでロボットを監督する人物を補助するためのセンサ技術のさらなる開発が求められることになろう。人間の表情を的確に捉え、内心を推量することは、同じ人間であっても、訓練を通じなければ高めることができないし、その手段が果たして視覚と聴覚だけによるものかどうかについては、まだまだ疑問が残ることである。ジェフリー・ローゼン氏は、『Naked Crowd: Reclaiming Security and Freedom in an Anxious Age』の冒頭で、イスラエルの航空セキュリティ担当者の言を引きつつ、警備の最後は人である、と述べている。私自身は、超能力をまったく信じていないが、人間がほかの人間についての判断を下すときに、視覚と聴覚以外の五感、特に嗅覚や触覚を利用していないとも限らないという仮説には同意する。この点、恐怖に関する生理学上の研究でフェロモンが関係していそうであるといった事実が詰められつつあるようであるが、犯罪+生物という分野については、私自身の素養が浅く、的確に紹介できる自信がないのでサボらせてもらう。さらには、たとえば「気」などを微弱な電流の変化に基づく電磁波として捉えるという、科学的な論拠の下に検証しようとする研究もあったような気もする。これらの研究が現に存在するという事実をふまえれば、「当代の最高水準の科学に基づいて十分な検討を行ったか」という、事故・事件の検証において重要な「予見可能性」に係る要件は、相当にハードルが高いものである。ここで私が引用しようとして、うろ覚えということにしてサボろうとしたことは、主にサボり癖によるためであるが、ハードルの高さを予感させることも狙ってのことである。

 以上が、「人工知能による警備業務の全自動化」を実現しようとする際の問題を俯瞰したとき、私が現時点で思いつく限りの問題の所在である。埴輪からフェロモンまでを的確に俯瞰して、わが国の状況に即して、近代以降の人権に係る理念に基づき、問題解決方法を企画できる傑物が存在していて欲しいものである。なお、この話は、私の手には明らかに余ることである(が、山の険しさくらいは分かることである)し、この話を詰め切ったとして、未来に何か良い展望が拓ける可能性もないので、この程度で切り上げたい話ではある。本記事は、一種のネタ帳であり、これを利用したいという方は、ぜひCC-BYで利用して欲しい。こんなことは、明記せずとも「上品な」研究者なら行うことであるとは思うけれども、これもまた、一種の「保険」である。


※1 日本の労働人口の49%、人工知能・ロボットで代替可能に 10~20年後 NRI試算 - ITmedia ニュース
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1512/02/news111.html

※2 チューリングマシン

※3 小学館:コミック 『デモクラティア 1』
http://sol-comics.shogakukan.co.jp/solc_dtl?isbn=9784091857064

平成27(2015)年12月21日追記、平成28(2016)年2月12日一部追記(書き散らし)

National Geographic Channelで、『ブレイクスルー 科学革命の夜明け』というシリーズが放送されている。最新の生物・医学+技術研究の動向がマスコミ人のトップリーダーにより紹介される番組である。

 一部をうろ覚えで書くので申し訳ないが、聴覚障害者に背中のパッドの刺激で音を伝達する研究が紹介されていた(「人が人を超える日」)。この研究は、有用であると思ったが、その直後、研究を主導する教授(Baylor College of MedicineのDavid Eagleman教授)が、別の主導する研究について、いずれ人間の全員をスマホに接続して直接情報を提供できるようになると述べていた事に対しては、戸惑いを憶えた。両方の研究における人間性?の落差は何なのだろう。当人の中では、整合性のとれていることと見えた。その違いは、おそらく、彼の道具に対する哲学に、道具を用いないという選択肢が含まれていないことから生じるものである。技術に対する懐疑の念は、そこには見られない。科学者が技術開発に邁進すること自体は、保証されて然るべきであろう。しかし、そのことと、技術と科学が異なる存在であり、技術には正解が一通りだけではないということは、別の話である。(ただ、聴覚障害をカバーするためのパッドについても、開発の暁に、装着しない聴覚障害者に対してなぜ?というように訝しがるのであれば、彼の態度は一貫しているかもしれない。よかれと思って開発されたソフトウェア等がてんで役に立たないということは、良くありがちなことであるが。)