2016年7月28日木曜日

「理系くん」と「文系くん」と人工知能


 花水木法律事務所のブログ(リンク)は、小林正啓氏と櫻井美幸氏の両弁護士により執筆されているそうであるが、小林氏が以前に防犯カメラについての論考を発表されていて、興味深く読んだので、間隔を空けつつ、一応、チェックしている。いずれの手になるものであるのかについては、文面だけからは確定しかねるので、本稿では、「同ブログ」とだけ記載することとする。

  2016年7月13日の記事「社会参加型機械学習について」では、伊藤穰一氏の「社会参加型機械学習」に係る論考について、二点を指摘している。いずれも、引用によらず、私の消化した言葉で記すことにする。私の同ブログに対する理解に誤解があるか否かの確認材料とするためである。同ブログによれば、伊藤氏の主張の特徴の一点目は、社会における決定には、結果が正解であることよりも、手続における正統性が重要である局面が多々見られるが、このことを、伊藤氏が理解していないかに見える、というものである。二点目は、伊藤氏が、わが国の工学研究(者)の習慣とは異なり、哲学者や聖職者と対話する必要性を認識している点である。極端に表現すれば、同ブログの主張は、「伊藤氏は、社会の意思決定に係る仕組みについては無知であるが、「無知の知」を自覚している」というものになると言えよう。

 伊藤氏の論考に見る典型的な思考態度を、同ブログは「理系くん」と揶揄または類型化し、「文系くん」と対置させているが、私から見れば、同ブログの二点の指摘は、同ブログが伊藤氏の表現を酌み取り損ねたか、または、伊藤氏の表現に不足があったか、伊藤氏の考え方自体が同ブログの指摘のとおりに誤りであるか、のいずれかから生じたものである。おそらく、伊藤氏の表現には、「理系くん」に共通する思考過程のうち、明言されていない部分がある。このように理解した上で、同ブログに言及することは、同ブログにおける二点目の主張に応答する役割を果たすものと考えるので、ここで私の考察を示しておきたい。

 伊藤氏の言動には、おそらく、「定式化さえ正しければ」という理系にありがちな仮定が隠されている。理系に強いことになっている某書店では、ここ数年の間でも、G.ポリア, 柿内賢信[訳], (和書1975)『いかにして問題をとくか』, 丸善.が売れているとして推奨していたが、この事実は、定式化の重要性が「理系くん」のうちで身体化されている普遍性を示す状況証拠である。これは牽強付会であるが、定式化や関数は、正統化に係る部分であり、解は、正当化に係る部分である。以上、本段落に係る記述は、私の勝手な推定ではあるが、少なくとも大きく外したものにはなっていないであろう。

 以上で、本格的に応答したい部分は終わりではある。なお、「保釈」を「再犯」と読み替えれば、むしろ、ここで挙げられた研究は、法務総合研修所で実施された再犯防止の研究にきわめて良く合致するので、「心理職」を採用する同所における、「文系くん」内部の話にもなるのでは?とも思うが、この話を詰めても、生産的なものとはならない。

 蛇足1。同ブログは、「理系くん」がある種の問題には「「正解」」があり、その答えが人工知能で求められるのであれば、委ねた方が「「よい」」と言うのだ、と洞察しているが、「「よい」」の中身は、何であろうか。たとえば、保釈金額の決定という問題を考えた場合、「「よい」」の中身は、決定作業の「利便性・簡便性」か、決定の「正確さ」か、対象者に対する「有効性」か、それともこれらのいずれかまたは複数から派生する伊藤氏なりの「善」であろうか。価値の中身が正確に表現されないことには、私としてはスルーするしかない内容である。訳というより、(原文へのリンクがなく、探す気もないが)原文があいまいなのであろう。私が問題に取り組むのであれば、目的がこれらのいずれであるのかによって、問題の定式化にあたり、参照する工学分野の細目を変えるであろう。変える気がない「理系くん」は、研究成果を自分の専門分野に引き寄せるという、自身に由来する目的によって駆動している存在である。この場合、「文系くん」の側は、相談先を変えれば良い。問題は、わが国の大学の工学部に、このような問合せに十全に対応できる窓口が存在しにくいことである。理系の研究はカネがかかるし、その分配を上手くやりおおせてきた実績もない。(でなければ、福島第一原発事故など、起きるわけがないし、ましてや、五年も事故を放置するということがあるわけもない。)

 蛇足2。現在のところ、人工知能の使役者は依然として人間である。人工知能研究者の歩みが遅々としているなら、危険性が小さなところで実装が試みられるべきである、と考えるのは、工学的センスの初歩であろう。であるにもかかわらず、伊藤氏が自動運転を推奨し、かつ、製造物責任の回避にも言及するからには、ほかに、何らかのインプットが存在すると考えるべきである。それが、正しい「文系くん」というかジャーナリズムのセンスであろう。やはり、本年7月に追記した記事(リンク)のとおり、国民目線、消費者目線の欠如がここにも見られた、というべきか。伊藤氏の指摘する、人工知能と自動運転という話題は、工学というよりも、事の本質からすれば、カネと外部不経済の話である。伊藤氏は、わが国に向けての露払いとして用意された役者であると見るべきであろう。

 蛇足3。伊藤氏のブログは、以下のように指摘しているが、これって、実証研究あったか?というのが第一点。採取可能なのは、先進諸国では、いま現在のフランスくらいではないか。今後であれば、わが国でもあり得る。職務質問は、任意であるが、有効に機能しており、以下に述べる私の見解を心情的に構成している要素である。なお、アメリカのプレッパーたちは、同国における戒厳令を心配してきたようではあるので、そこんところの伝統が影響している可能性も認められる。第二点。国際比較を行った場合には、明らかに、『割れ窓理論』的アプローチは、東洋的思想との交絡があり得るが、日本やシンガポールなどのデータが大きく効いて、犯罪が少ないという結果が得られてしまう可能性が高い。それに、アメリカ本国においてすら、人権を過度に制約するという批判を恐れる余り、令状なしのボディチェックは、伝家の宝刀化する虞もある。銃器の没収(行政罰)といった裏技が編み出されることにより、「刑法犯の認知件数が減少した」というオチを生み出す可能性すら認められる。やってみなけりゃ分からない、というのが本当のところではなかろうか。それに、考えてみれば、空港における身体検査は、捜査令状によらない行為である。空港内のセキュリティチェックエリア以降における殺人事件は、アメリカ国内でも少なめなのではないだろうか。私の興味は、ここにはないので、これ以上の調査に取り掛かることは、よほどの理由がなければ、ない。私の疑問を並記するだけに留めよう。こう見えて、ここでの伊藤氏への批判は、わが国警察の自然犯に対する優秀さを、国外に示す効果を有している。伊藤氏ほどに影響力が認められる人物の文章であるからこそ、山形浩生氏も日本語訳に従事したのであろうから、あまりに直感に反する内容を引用なしで掲載するのは、避けるべきではなかろうか。
大きな問題は、データの中のバイアスやまちがいは、そうしたバイアスやまちがいを反映したモデルを作り出す、ということだ。こうした例としては、令状なしの身体捜索を許容する地域からのデータだ----その標的になったコミュニティはもちろん、犯罪が多いように見えてしまう。
社会参加型機械学習について: 花水木法律事務所
http://hanamizukilaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-04b0.html


社会参加型 (society-in-the-loop) 人工知能 - Joi Ito's Web - JP
https://joi.ito.com/jp/archives/2016/06/29/005605.html


 なお、参考まで、私が人工知能について記した論考のうち、学術に転用可能な可能性が残るものは、以下のとおり。とはいえ、ほかの「人工知能」のタグが付いた記事も、読者にとって、ネタ記事としては面白い、かも知れない。

人工知能単独による警備業の全自動化は不可能で、あくまで人と機械は共同して事に当たる
http://hiroshisugata.blogspot.com/2015/12/note-nhk-news-9-ai-would-replace-security-officers.html

人工知能は良い人間の教師抜きに人間の知性を優越することはない
http://hiroshisugata.blogspot.com/2016/01/ai-will-not-precede-human-intelligence-without-good-human-mentors.html

人工知能は、刑罰に馴染まないので、当分の間、道具として扱われることになる
http://hiroshisugata.blogspot.com/2016/03/the-law-systems-and-an-ai-as-an-individual.html

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントありがとうございます。お返事にはお時間いただくかもしれません。気長にお待ちいただけると幸いです。