SNS上のコミュニケーションで炎上しがち(で記録されがち)な事例には、政治的な主題も多く含まれる。わが国には、政治は誰もが語って良いものであり、しかも、民主主義社会であるから、平等な意見として尊重されるべきであるという了解が広く一般に見出せる。私は、政治的主題は誰もが語って良いものの、その意見には優劣が存在し、専門家には、優劣の決定に至る経緯が明らかになっているものの区別が付けられるであろう、と考える。近時の専門的主題に係るコミュニケーションの不幸は、専門家がその職務倫理に照らして一般人を明らかに欺き続けている事例が相当数存在し続けているために、専門家に対する一般人の信頼が存在せず、どの専門家にとっても自明な意見の優劣までもが、一般人にとって信じがたいものとして映るという状況を解消できない点にある。
こうした昨今、社会政策を専門とする学者の政治的中立性は、どうすれば確保できるのか。以下は、直感により、その条件を提示したものである。これらの確からしさは、当然、仮説以下のものであり、検討されねばならない。もっとも、これらは、生活安全条例制定をめぐる反対意見や、防犯分野に新規参入した研究者の活動がなぜ政治的であったのか、という検討を通じて得た結論なので、私の中では、容易に覆りそうにない内容ではある。
- 選挙で当選している政治家以外の者に対しては、その者が(学者の邪魔をするためではなく)勉強したいために指導を求める限りは、学生として対応する。
- 選挙で当選している政治家や実務家が意見招請した場合には、分け隔てなく受諾する。その際、少なくとも面談時間分だけはその者のために知恵を絞る。
- それ以外のときには、特定政党の立場によらず、受益者を可能な限り広い範囲に取り、思索を進める。少なくとも、受益者を「日本国民」「市区町村在住者」などと明確に想定する。
2015年9月16日:赤字部分修正
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