2015年11月24日火曜日

著作権法の引用に係る硬直的解釈は、知識社会における「共有地の悲劇」を招く

#毎日、学術的な方法に基づき、正確かつ新規性のある内容を作成し、投稿しようとすることは、私にはとても無理なことである。学術的な方法を心がけると、難度が格段に上がる。今までの不勉強が、最も根の深い問題であり、基礎的な先行文献を収集して読み込むことに、多くの時間を取られている。また、過去、ブログに移行する前に作成してきたテキストファイルやデジタルノートなど、デジタル化した作業メモを成果に直結できていないことは、我ながら、もったいないことであるように思う。しかしながら、私を取り巻く外部環境に問題が全くないわけではない。本記事は、その外部環境を話題に取り上げる。

SNS中心のウェブ上で流通する(論文以外の)日本語情報の多くは、学識経験者の発信したものでも、含まれる情報密度が低めであるが、その背景は、三点の理由が考えられる。第一は、著作権法における引用の問題がある。第二に、現今の日本語ウェブ環境では、正確性よりも先取性を過度に重視する傾向、あるいは「言った者勝ち」の風潮がある。第三に、学術的な文章の読み書きの作法が日本語話者に浸透していないという現実がある。第二と第三の観点は、知識社会における「情報爆発」を舞台とした「共有地の悲劇」であり、相互に関連している。このほか、ウェブ上の書き手と出版業界における書き手は、両立していない場合が多いこと、また、ウェブ上で有名になり出版社からお呼びのかかるようになった論者の世代交代が「マタイ効果」によって進まなくなっていることなど、わが国の情報産業における固有の課題も挙げることができようが、これらの課題については、別稿で考察することとしたい。

第一点目の理由は、わが国の著作権法であるが、この法律は、硬直的に運用されると、ウェブ社会においては、学術的な文章作成過程とまことに相性の悪い存在となりうる。一つ一つの資料についてブログ記事を作成したとすれば、その主従関係において、ブログ主の主張が従たる関係にあるとみなされる虞を否定できないためである※1。自分の言葉で引用部分をパラフレーズしたとしても、文献についてのメモを掲載することは、著作権法違反の非親告罪化と、主従を総合的に判定するという従来からの引用に対する解釈との組合せをふまえれば、相当に危険な行為と化す。言うまでもなく、著作権法違反の非親告罪化は、ACTAひいてはTPPを見据えたものである。このような危険を承知しているかは不明だが、学術的な内容を含む匿名ブログには、自身の意見や情報が明らかに従たる関係にある記事をアップする形式が無視できない程度に多く見られる。

第二点目の理由は、正確性よりも先取性を重視しすぎであるという風潮であるが、この風潮は、文章の質を高めるための推敲作業を省略する誘因となりうる。査読制度は、先取性を優先する著者の焦りに対して、一定程度の質の文章を保持するための制度でもある。学術関係者は、査読を受けるならば、新規性が高いとみなされる部分の情報密度を一定以上に維持し、読者を新規性の高い情報へと誘導するように文章を整理するはずである。しかし、このような推敲作業は、現在のSNS+Googleという、拙速が限りなく尊ばれる環境下では、後手を踏む工程となるだけに終わる可能性が高い。

通信理論において、導入部分においては、「0を1と間違える」ことと「1を0と間違える」ことは、必ずしも異なる種類の誤りであるとはみなされないように思われる※Aが、実社会においては、これらの二種類の誤りは、まったく異なる結果を意味する。真犯人に無罪判決を下すことと冤罪を着せることは、異なる結果を異なる二人に及ぼす。わが国の法制度は、この二つの誤りのうち、冤罪を避けるように制度を整えてきた。ところが、犯人を捕まえるための警備システムは、あまりに誤報が多いと困りものではあるが、しかしそれでも、侵入者を見逃すことをより大きな問題だと見なす。テストの採点に不備があり不合格となった学生には、救済措置が与えられるのが常であるが、だからと言って、採点基準が改められたことにより、ギリギリ合格であった学生が不合格に落とされることは、まずないと言って良い。統計学は、数学を基礎におきつつ社会現象を対象とする学問体系であるが、主要なツールである(ネイマン=ピアソン流の統計学的)検定は、「見逃し」と「早とちり」とを区別して扱い、基本的に「早とちり」してしまう失敗(第I種の過誤)を一定に保とうとする。

近年のウェブ環境下の日本語言説は、短文や動画像中心のSNS情報が大量に流れゆくという特徴のために、(多義的な意味での)間違いを含むとしても、他人の興味を引く情報を速報することが優先される。この風潮が昂じて、ここ数年、アルバイト店員がいたずらをSNSにアップするという流行に至ったと理解することもできる。東欧諸国では、高所での曲芸(パルクール※2)がその代替物として流行しており、深刻な社会問題になった。有名な事例では、官邸ドローン事件も、JR東日本連続放火事件(2017年4月17日;今となってはこの呼称に誤りがあるとも言えるが、このままとしておく。)も、古くは秋葉原無差別殺傷事件もそうであるが、大きな事件後、容疑者のアップしたコンテンツに対するアクセスは、飛躍的に増加する。神戸連続児童殺傷事件の犯人の元少年がウェブサイトを開設したことも、この流れで見ることができる。村上直之, (2011). 『近代ジャーナリズムの誕生』[改訂版], 現代人文社.か、澤康臣,(2010). 『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』, 文藝春秋.がジャーナリズムも同様の側面を有することを指摘していたような覚えがある。私の記憶がこの点で正しいかどうかはともかく、これらの書籍は、それぞれ、犯罪予防研究者なら一読に値する。

いたずらや犯罪などの事実が炎上して本人の責任に見合う以上の(社会的)制裁が加えられがちである一方で、専門家として社会に認知されている学識経験者の言説が、明白に間違っていようとも、実際的な制裁に帰結しにくい※3という事実は、注目されて良い。学識経験者のコミュニティの成員が外部からの真正性に対する指摘・批判を無視し、コミュニティがその状態を黙認するようであれば、その状態は、専門外における比較的些細な話題に係るものであろうと、自らの存立基盤を蚕食しかねない。なぜなら、学識経験者に期待されている役割は、専門分野について是々非々で物事の真偽を検証することであり、間違いを訂正しないという態度は、この役割期待とは相容れないものだからである。

情報密度が低い理由の第三点目は、学術的な文章の読み書きの作法が日本語話者に浸透していないという現実に求められる。この現実は、中等教育にパラグラフリーディング(ライティング)の課程を導入すれば解消される問題である。問題は、洗練された教育を受けられなかった(あるいは、私のようにその機会を無駄にした)成人が多数存在してしまっていることである。飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子, (2015). 『「30万人都市」が日本を救う! 中国版「ブラックマンデー」と日本経済』, 藤原書店.は、ロスジェネが未熟練労働者の状態に置かれており、今後技能を向上させる見込みもないと断じているが、専門的な文章執筆および読解能力については、そのとおりであろう※4。パラグラフリーディング(ライティング)の未学習世代が大多数を占める環境下では、大多数の話者は、効率的に情報を摂取も提供もできないので、他言語のコミュニティの成員に比べ、思索を深める上で不利な立場に追いやられることになる。反対に、ある研究分野における文章がすべてパラグラフリーディングできるものとなっていれば、研究コミュニティ全体の効率は、そうでない分野に比べて高くなる。パラグラフリーディングできた(良い)書籍で直近のものは、清水克行, (2015). 『耳鼻削ぎの日本史』, 洋泉社.である。歴史研究は、(私にとっては、)随分と日進月歩の感がある。

本ブログの多くの記事は、パラグラフライティングを心がけており、段落の最初の文章さえ読めば、論理が追えるように作成されているはずである。

正確性よりも迅速性が優先されるあまり大量の文章が算出され、文章が構造化されていないために大量の文章の正確性を判定しにくいという状況の下では、専門家として周囲に認められるための条件は、いきおい、肩書きがあること、質は問わないので実績があること、というものになる。また、個々の文章に対する是非が問われない環境では、ある論者についての評判は、現状のものから変化しにくくなる。わが国では、論者の当初の評判は、議論の正しさよりも、しばしば肩書きや資格を元に形成される。物事の真偽を判定する上で、ほかに手がかりを持ちにくい状況では、このことは、やむを得ないことであろう。しかし、何より困ることは、わが国では肩書きと議論の正しさが本来あるべき関連を有さないことである。たとえば、教授職を勤める人物が平気で嘘を吐き、その嘘を訂正しないということは、社会の正常な機能からすると、考えにくいことである。しかし、わが国では、よほど道を外れた発言でなければ、公職を追われることはないし、正職員であれば、その発言が犯罪として扱われない限り、本職を追われることは無い。このため、わが国では、肩書きを得た正職員こそ、クビにおびえる非正規職員に比べて、やりたい放題となることが否めないのである。このような硬直的状態は、論者の肩書きをきっかけとする「マタイ効果」の亜型であるとみなすこともできる。

個々の言説の是非が十分に検討されないままに大量の文章が産出される学術コミュニティは、何が正しいことなのかやがて分からなくなり、存在意義を失うことになる。この状態は、正しい知識に価値を置く「知識社会」における「知識体系」を劣化させるという点で、一種の「共有地の悲劇」であると見なすことができる。人間の文章読解速度には限界がある。そのため、ルールに準拠しない文章は、読者側の時間という有限の資源を奪い、批評を甘くすることにつながりかねないのである。

※1 一度、この危険性を検証すべく、木走正水氏が村上春樹氏に辛辣な批評を加えているブログ記事(リンク)について、著作権法上の問題がないかどうか、文字数をカウントしてみたことがある。その結果、木走氏は、2分の1を超えないように他者の記事を引用していることが分かった。ただし、その記事における解決方法は、スマートとはいえないものであるようだ。木走氏は、著作権法における引用に係る解釈にこだわるあまり、引用する必然性のない自身の記事を多量に引用し、文字数を増やしたことが認められるのである。別記事で紹介することにしよう。法律が誰にも平等に適用されるものであるから、木走氏の措置は分からなくもないが、このように著作権法上の規定が硬直的に解釈される状態は、学問の発展にとっても、ウェブ資源の利用法からみても、もったいないことである。

※2 どこかで学識経験者とみなされる人物が「ゲームなんかしてないでリアルで楽しめ」なんて言っていたような記憶があるが、リアルで『Dying Light』のようなことができる(リンク)のは、ほんの一握りの人たちだけだろう。実在のパルクール集団『YAMAKASI』による『MAXX!!! 鳥人死闘篇』(2004, 2作目)のようなアクションは、誰もに可能な動きではない。

※3 社会的制裁が学識経験者に加えられようとした事例として、光市の母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求事件(リンク)を挙げることができる。本件懲戒請求が殊更に注目された理由は、殺害事件における弁護に大衆の感情を逆撫でするような内容が含まれたこと、弁護士が地方テレビ局の番組でこの方法に言及したこと、弁護士会という専門的職業における自治に直結したこと、被害者遺族が来るべき裁判員制度の創設と実施に大きな影響を与えたこと、が挙げられよう。

※4 なお、同書は、パラグラフリーディングできない書籍であることを申し添えておく。ともあれ、少なくとも一昔前の、中学・高校教育課程の国語(現代文)の授業は、一文一文を逐次的に読み進めなければ文意を追えない文章を許容するものである。そのような教授法は、間違いとは言えないが、今時の情報爆発に十分に対応したものではない。しかし、このような教育環境の下でも、2ちゃんねるの「今北三行(今来た、三行で説明をお願い、の意)」や、これに起源を持つLivedoorニュースの「三行まとめ」が生まれている。これらは、きわめて優れた大衆文化だと思う。時間を節約するという同じ理由から、行政分野では、いわゆる「一枚物」が流行している。この動き自体は否定されるものではないが、アクセス性という点では、機可読性を高める措置が望まれる。(日本語フォントを用いたPDFでは、余分な改行記号が含まれ得る。)




2016年10月20日追記・訂正

情報を追記し、文意を変えない訂正を行った。淡赤色で示した。




2017年05月29日追記・訂正

本文中の誤記を訂正し、レイアウトのタグをpタグへと変更した。淡橙色で示した。

※A 伊藤隆〔編〕(1956=2012).『情報の哲学 ロシア哲学者の情報論』(東洋書店)所収、イリヤ・ベンチオノビッチ・ノビクの「サイバネティクスの哲学的・社会学的諸問題」は、シャノンの『通信の数学的理論』に対して、次のように述べている。

現在の情報理論では、通信容量はそれを占有する記号の量(ビット数)だけで扱われており、(単位)情報はどれも同一の価値しか持っていない。したがって、これにたいしては質的な面から情報を考察するような、情報の内容に冠する理論敵研究がどうしても必要である。(pp.26-27)
ここでの私のこじつけは、素朴なものではあるが、情報理論の創生期においては、さほど外れたものではないであろう。ここからの発展状況については、十分に追えていない。

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