2015年5月31日日曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その3)

前回の続きです。本稿がヴェーバーの劣化コピーであることは、読者諸賢には明白だと思います。本稿は、「わが国の国家官僚は、戦後の安定期に独自の見識を深めるに至ったが、犯罪学における定量的手法に係る司法官僚の見識は、体系化された学識ではなく経験知の範疇に留まる。」という主張の最初の三分の一程度の部分になります。後段は、専門性が高く美味しい部分なので、ずるいのですが、別稿に取っておきます。

政治家のプリンシプルは、結果責任を負うことを承知で理想を示すことであり、政策分野の専門家には、この点をふまえた行動が必要とされる

社会学の泰斗であるマックス・ヴェーバーは、政治家が結果責任を引き受ける存在であると指摘しているが、この指摘が正しいならば、言論の正しさを追求すべきであるという専門家の倫理は、政治家の言論に対しては適用されない。民主主義における政治家は、現状に対する理解と理想を示し、その実現のために付託された権力を行使する存在である。その理解や予測の正否は、専門家の言論とは異なり、正しさそのものによってではなく、選挙民によって判定されるものである。それゆえ、政治家の言論も、前回に言及した掛谷氏らの提唱する評価方法の対象とするには当たらないであろう。

基本的には、実務家に対する政治家の権力が徹底した制度を有する国家では、政権交代に伴い、政策分野の学識経験者も助言者の地位を論敵と交換することになる。特に、経済学を基礎に据える分野では、おおむね健全に学派間で議論が交わされていることもあり、この交代は自然なものと受け止められているように見える。政権交代に伴い理論が実施される機会に恵まれるという前提が見込めるのであれば、政策科学を研究する研究者にとって、その機会は、自らの信ずるところに従い、自身の主張を高める誘因となるであろう。ただ、民主主義における政治家は、理想を維持するとしても、その実現のために採用する理論を交換することを躊躇するべきではないし、実際のところ特定の理論に執着することはしないだろうが、政治家と同様の気軽さで、専門家が政治に重用されようとするあまりに自身の主張を曲げるようになると、事態はややこしくなる。

どの職業にも期待されるべき役割があるが、専門家に期待される役割は、前回記事で強調したように、最良の知識に基づいたときに得られる視座から、正しいと認められる意見を述べることである。専門家のよって立つところ、すなわちプリンシプルとは、まずは、真実に基づくことであり、最良の知性にも分かりかねることについて述べなければならないときには、最善の努力に基づいて当座の結論を述べることである。他方、政治家の曲げてはならないところ、すなわちプリンシプルとは、一国なり一地域なりについての理想である。権力がなければ理想は達成できないが、権力の維持のために理想を曲げることは、選挙民の期待や支持を裏切ることになる。

政治家の理想を分かりやすく解説することはともかく、政治家の理想の当否を判定することは、学者・専門家の業務ではない。専門知を有する専門家が顕名で、ある政治家の理想を擁護したり批判するようなことがあるとすれば、その振る舞いは、すでに十分に政治的である。政治的に振る舞う専門家は、その身分を保障されている場合、選挙民による制裁を恐れることなく好き放題に振る舞えるため、ときに専門家に求められるプリンシプル、つまり真実に対して誠実であることからも逸脱することがある。ある専門家が都合良く筆を曲げたという事実が見逃され続けると、物事の真贋を見極めるのに要する労力は、相当程度まで増大してしまい、社会に混乱が生じる。

この点、政策に直結する実学を研究する者には、相当に洗練された態度が求められる。犯罪予防研究という分野は、政策上の目的を達成するための実学であり、私の専門でもあり、また私の態度が十分に洗練されたものではないことを示す好例となりうるので、説明を加えることにする。前々回で触れたマルクス主義を継承した批判のひとつ(Garland et al., 2000)には、「社会の構造的不正義に目を向けず、その構造から派生した結果に過ぎない自然犯を予防するだけでは、構造的不正義の温存に貢献するだけである」というものがある。この指摘は、犯罪の予防という目的を相対化してとらえる必要性を指摘するものであるが、自然犯が地域の荒廃を生じさせ構造的不正義の温床となり得ることまでは見通していない指摘でもある。しかし同時に、この構造的不正義となるような荒廃した地域がわが国に存在するのかという問いは、把握することが相当に困難な状態にある。直感的には「荒れた地域」は存在するが、その荒れ具合を定量的に把握するだけの道具立ては、わが国の実務家には用意されているものの、これが研究者には公開されないという問題がある。専門知に忠実な態度で、この課題に言及しようとするならば、まず、この道具立てを入手して、的確に「荒れた地域」を抽出するという作業を行う必要が生じるのである。専門家には、ここで必要な道具立てをオープンなものにするという責務が課せられる。でなければ、定量的手法に必要とされる反証可能性を確保することができない。そこまで用意することなしに、上記の批判を一蹴することは、知的に誠実であるとは言いがたいことになる。しかし実際には、わが国の犯罪予防研究は、戦前より、このような反証可能性を十分に確保することが困難な状態であり続けたままである。

官僚のプリンシプルは政治家の指示を効率よく実現することである

ところで、現在の民主主義国家における官僚は、本来ならば、政治家の提唱した政策を実現するための実務を効率よく実施する組織人であることが期待される存在である。言い換えると、官僚のプリンシプルとは、政治家に指示された政策をスマートに実施することである。われわれ日本人が官僚を実務家と呼ぶ場合、この呼び方には、固定化された業務を確実に遂行するという機能を期待する含みがあり、政策を企画立案するという、I種公務員に期待される役割の一部は、この呼び方の期待する内容に含まないように思う。警察組織における実務には、犯罪者を確実に検挙して十分な量刑を課せるだけの証拠を検事に届けること、110番通報に確実かつ迅速な対応を行うこと、迷子から親の氏名や連絡先をうまく聞き出し落ち着かせること、等々の業務を実行するという含みがある。しかし、昨今の凶悪事件の原因を分析し、白書で解説を加えたり、ある行為が賭博罪にあたるかどうかの判断基準を決定したり、法案をその骨格から作成したり、といった政策立案に直結する行為、あるいは政策立案行為そのものを、官僚の実務と呼ぶことには違和感が残るのである。

今まで実務家という表現を用いてきたが、その理由は、ヴェーバーの指摘した官僚制の弊害を描出するために、官僚という用語を残しておきたかったためである。ヴェーバーは、官僚制が権力の円滑な行使を目的として組織されるものの、組織後には、その維持を自己目的化する傾向があることを指摘した。官僚は、もっぱら自己保存のために、ときに政治家の理想に追従し、ときに政治家の理想追求を陰に陽に妨害するのである。また同時に、官僚は、自己の権益の維持・拡張のために専門家や学説を使い分けることもする。

わが国の官僚制は、大戦後、業務の大部分において有効に機能してきた。特に、計画経済の運営と行政指導により、横並びの繁栄を達成するという、ある種の成功モデルを確立した。カレル・ヴァン=ウォルフレン氏は、この種類の成功が、社会の木鐸であるべき報道機関までもが政・官・財の円滑な活動を支援するという相互依存的なシステムによると観察し、これを鉄の四角形と呼んだ。鉄の四角形は、わが国ないしNIES諸国の成功が計画経済と父権主義という西洋と異なる価値基準を有するシステムによることを説明する方法として、多数の論者に受容されるものとなっている。この派生形の一例として、第五の主要なプレイヤーに「学」を挙げる植草一秀氏の説を挙げることができたりもするが、植草氏のモデルは、ウォルフレン氏の説明を複雑にする割には、現状をうまく説明できないように思う。この点は後に述べよう。

わが国の官僚制の成功の主要な背景要因として、朝鮮戦争以後の冷戦という、比較的安定し、かつ、構図が明解なものに見える物語が存在し続けたことを挙げることができる。核戦争の脅威は常に指摘され続けてきたが、相互確証破壊という理論が提示され、指導者層に共有された結果、奇妙なまでの調和状態が生じることとなった。また、東西の二大陣営の下に各陣営が二分されるという理解は、少なくとも先進諸国の一般庶民層に定着した。この一見分かりやすい構図は、弁証法の図式における「合」が、悲観的な想定のものとしては最終戦争しかあり得ず、また楽観的な想定のものは世界政府しかあり得ないという共通認識を流布させることとなった。「合」となる状態の想定が極端なものであり、また、悲観的な道筋のみが分かりやすく生じやすそうだと認められる状態が継続したことは、一部にオカルトや超自然信仰に走る者たちまでを生み出す素地となった。この点については、別稿で考察したい。

(次回に続く)

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